放課後の廊下は、夕陽がガラス窓に反射して、淡いオレンジ色に染まっていた。
影が長く伸びて、まだどこか名残惜しそうに揺れている。
ざわざわと下校する生徒たちの声は階段の向こうへ遠ざかり、
校内にはふっと力を抜いたような“静けさの余韻”が漂っていた。

悠はプリントの束を抱え、肩を落として小さく息を吐く。

(よりによって、放課後のこの静けさの中で……)

神谷遼が自然すぎる足取りで悠の横に並んで歩いている。

「一ノ瀬、どうしたの?」

その一言が、妙に耳に残った。

「……何でもない。手伝ってくれてありがとう」

二人の靴音がひとつのリズムになっている。
廊下を歩く音がやけに大きく感じるのは、空気が静かすぎるせいか、それとも――隣にいる相手のせいなのか。

(ていうか……なんで歩幅合わせてくるの。意識してないフリしてるけど、絶対わざとだよな?)

(いや、そんなわけ……いや、でも、あの弁当の主の神谷だし……いやしかし……!)

横顔が、近い。
意識すると余計に近い。

スタイルのいい背の高さ、自然に揺れる制服の裾。
中庭から吹き込む風が彼の前髪をふわりと持ち上げて、輪郭が夕陽色に縁取られる。

(……かっこよすぎだろ、普通に。目のやり場困るんだけど)

そんな悠の混乱を知ってか知らずか、遼は急に口を開いた。

「なあ、一ノ瀬」

「ん?」

その声が低くて、くすぐられるように胸が震える。

「最近ちゃんと食ってる?」

「……へ?」

本気で意味がわからなかった。

「いや、なんか……昼にさ。お前、食べるの遅い日あるだろ。それに、朝食べてないって言ってた日もあったし」

(……っ、なんで俺の食生活、そんな細かく把握してんの!?いやいやいや、俺の母親よりも見てんじゃないか!?)

「え、あー……うん。まあ、ちゃんと……食べてるよ」

「ほんとか?」

ぐい、と横目で覗かれる。
至近距離だ。
目が合いそうで、合うのが怖くて、けど逃げられなくて――

悠の喉がひゅっと鳴った。

(ちょ、近い……。ほんとになんでこんなに俺のこと気にしてるの……?)

(お前は成績優秀でスポーツ万能で女子人気もあって……俺なんか見てどうするの……)

「……ほら、一ノ瀬ってさ。細いし、すぐ倒れそうだし」

「倒れないってば」

「いや、倒れそう」

「倒れない!」

ふたりの声が廊下に反響して、思わず悠は耳まで熱くなる。

そんな悠を見て、遼はくすっと笑った。

「……なに笑ってんの」

「別に」

その「別に」が、また異常に柔らかい。
いつものクールな遼じゃなくて、どこかあたたかい、素の遼みたいな顔。

(……ずるいって、そういう顔。こっちは弁当の送り主がお前だって知って、余裕ないんだぞ)

職員室前に着き、遼がノックしてプリントを渡す。
先生は「ありがとなー、気をつけて帰れよ」とだけ言い、すぐまた書類の山に戻っていった。

廊下へ出ると、夕焼けはさらに濃さを増し、橙色がほとんど赤に近い色へ変わっていた。

「一ノ瀬」

「ん?」

「……あのさ」

遼が急に立ち止まる。
悠は勢いで遼の背中にぶつかりそうになり、慌てて距離を取る。

「な、なに……?」

遼は少し俯いたまま、指先で制服の端をつまむ。
そして、意を決したように顔を上げた。

「一ノ瀬って、佐伯と仲良しだよね。今も佐伯のカーディガン着てるし、香水もかけてもらってたし……」

「え、晃のこと?」

(ん?なんで急に晃の話?)

「まあ……幼馴染だし。家も隣だし……てか、このカーディガンと香水は無理やり……」

「悠って呼ばれてるよね」

「へ?あ、まあ……」

「俺は呼んじゃダメ?」

「んっ!?」

思考が真っ白になった。

(まさか……嫉妬とか?いやいや、そんなこと……)

やたら距離が近くて、遼は少しだけ目を伏せてから、まっすぐに悠を見た。

「悠って」

名前を呼ぶ声が、やけに慎重で、やけに優しくて。
胸の奥を指で撫でられたみたいにざわつく。

(いやいやいやいや……待って!?)

(なんでそんな、恋人に呼ぶみたいなトーンなの!?)

(やめて……心臓壊れる……!)

「……え、まあ、別に……」

言うと、遼はぱっと顔を綻ばせる。

「ほんと?」

その笑顔が、もう、言葉にならないほど嬉しそうで。

日常の中に突然差し込んだ特別みたいな表情で。

(……え、笑顔がまぶしい!なんなんだよ、この人……)

(いつも完璧で冷静で、クールなのに……)

遼は一歩近づき、今度は少し照れたように肩をすくめながら言う。

「じゃあさ。俺のこと、遼って呼んで」

「っ……え、あ、その……」

(ちょ、待って、本格的に距離感どうなってんの!?)

(お前、誰にでもこんななん?いや絶対違うだろ!!)

「……わ、わかった。……遼」

かすれ気味の声で呼んだ瞬間。

遼の顔が、夕陽に照らされてふっとやわらかく光った。

驚くほど綺麗で、なんていうか……本気で嬉しそうで。

(心臓……落ち着け、落ち着け、落ち着け……!)

(なんで遼はこんな簡単に距離詰めてくんだよ……)

(名前呼びって、友達なら普通……?)

(いや……今の完全に特別な感じだったよな……?)

頭の中が沸騰して湯気出そうな感覚に襲われていたその時。

「あれー?悠ー!」

振り返ると後ろで、カバンを片手に持ち、ひらひらと手を振る影が見えた。
明るい声が弾んで、近づいてくる。
バタバタと軽快な足取りで走ってきたのは、幼馴染の佐伯晃だ。

(……最悪のタイミングだ……!!)

(いや、別に晃が悪いわけじゃないけどさ……!)

(今は……今はほんとに、妙に勘がいいやつだけは勘弁してくれ……っ)

晃はふたりの距離を見た瞬間、びたっと足を止め、眉をぴくっと上げた。

「おお?お前ら、そんなに仲良かったっけ?」

第一声からこれである。

「え、いや、その……」

悠は完全に言葉を失う。
さっきまでの名前呼びの余韻がまだ耳に残っているのに、そこへ晃の爆弾発言。
心臓が持つはずがない。

対して遼は、悠とは逆に――静かすぎるほど静かに、さらっと言った。

「別に」

声にまったく揺れがない。

(いやいやいや、別にじゃないから!!)

(どう考えても「別に」じゃない距離だったじゃん!!)

晃はその「別に」を聞いた瞬間、にやぁっと口角を上げた。
その顔はもう、完全に面白がるモード全開だ。

「へぇ〜……ふーん?あれぇ〜……なんか雰囲気違わね?」

「違わない」

遼が秒で否定する。
その声は低く、短く、そして苛立ちを隠していない。

微妙に刺々しい。

(うわ……遼、晃に態度キツくね!?)

(あれ……前からこんな露骨に冷たい感じの奴だったっけ?)

晃はさらに近づいてきて、悠と遼を交互に覗き込むようにしながら、にやにやが止まらない。

「にしてもさ〜……遼って呼んでって聞こえたけど?お前ら、いつの間に名前呼びするほど仲良しになったん?」

「っっ!!!?」

悠は本気でその場から逃げ出したくなった。

(聞こえてたの!?どこから!?なんで!?)

(というか、なんでそういう時だけ聴覚強化されてんの晃!?)

(頼む、その能力をもっと別のところで発揮してくれ!!)

晃はわざとらしく指を立て、思いっきり煽るように笑った。

「あ、もしかして俺も遼って呼んでいい?」

その瞬間。

廊下の空気が一度、静止したように感じた。

「……は?」

遼の目が細くなる。
ほんの一瞬、温度が下がった気がした。

遼は眉ひとつ動かさず晃を見て――

次の瞬間、

「無理」

吐き捨てるように言った。
迷いも逡巡も一切なかった。

「……え」

「悠限定だから」

――はっきり。
――即答。
――完全に拒絶。

(えっ……今……なんて言った……?)

(悠限定……?俺限定って……?)

(いやいやいやいや……ちょっと待って、脳がついていかない……心臓もついていかない……!!)

晃は目を丸くし、一歩、二歩と後ずさった。

「は……え?お前……こっわ……」

遼はふっと視線を逸らし、短く言う。

「別に」

(いやいやいやいや、またそれ!?別にじゃないから!!)

(何が別になんだよ、ほんとに!!)

(こっちは混乱と動揺で今にも倒れそうなんだけど!?)

晃は呆れたように肩をすくめ、カバンを持ち直しながらぼやいた。

「……まあいいや。なんか……お前ら、勝手にやってくれ。俺、関わると死にそうだわ」

「死なないだろ」

「いや、精神的に死ぬ」

晃はぶつぶつ言いながら、大げさに距離を取って立ち去っていった。

足音は速い。
もう関わりたくない感が背中から滲み出ている。

悠はその後ろ姿を見送りながら、ただただ混乱していた。

(……遼って、ほんとに晃に容赦なかったな)

(ていうか、悠限定って言ったよな……あれ……気のせいじゃないよな……)

(なんでそんな強気に言えるの?)

(というか……なんでそんな……俺……?)

そんな悠の混乱をよそに、遼は横を向いたまま、ぽつりと呟いた。

「……あいつには絶対に呼ばれたくない」

「え?なんで?」

「なんとなく」

なんとなく――。
その言葉の裏には、絶対になんとなくじゃない理由がある気がする。

でも遼はそれ以上言わない。
悠もそれ以上聞けない。

沈黙が降りる。

数秒のあと、遼はふっとこちらを見て、さっきよりも柔らかい声で言った。

「悠にだけ呼んでほしいから」

胸の中心を掴まれたような衝撃だった。

「っ……!!?」

どう反応すればいいのかもわからない。
どういう意図なのかも。
でも、遼の声はやけに真剣で、その瞳はまっすぐで――

(だめだ……これ以上は……心臓がもたない……)

夕陽に染まる廊下。
静かな光の下で、遼の横顔だけが鮮明すぎて眩しい。

「……今の、もう一回言って。遼って……」

「言わない!!」

「ケチ」

「ケチって言われても!」

押し問答をしても、遼の頬がほんのり赤いことに、悠は気づいてしまう。

(……やっぱりおかしい。絶対友達の距離じゃない)

(でも……弁当のことも言えない)

(遼が作ってるって知ってるのに、知らないふりしてて……)

(こんなの、どうしたらいいかわかんないよ)

胸の奥で、秘密がじくじくと熱を持つ。

――言えない。
誰にも言えない。

うれしいのに、怖い。
近づいてるのに、触れられない。

――秘密がひとつ増えた。
――気持ちがひとつ、近づいた。

そんな矛盾を抱えたまま、悠は遼の背中を追いかけた。

(……どうすればいいんだろ)

夕陽はすっかり赤くなり、校舎に伸びたふたりの影は、寄り添うように重なっていた。