ある日、俺の机に知らない弁当が入っていた

放課後の廊下は、ゆっくりと沈む夕陽の色に染まり、窓ガラスが淡くきらめいていた。
校舎の中は、部活へ向かう生徒の足音がときどき通り過ぎるだけで、ほとんど静寂に包まれている。

そんな静けさの中で、悠は教室の後ろの窓際の席に身を預け、机に突っ伏しそうなほど深くうつむいていた。

(……神谷が。俺のお弁当、神谷が……?)

(いやいや、ないだろ……いやでも朝、見たし……見ちゃったし……)

(あれ全部、神谷が用意してくれてたとか……どういう……どういう意味なんだよ……)

頭がぐるぐると混線を起こして、夕陽が二重どころか三重にも見える。

「落ち着け俺……いや落ち着けるかよ……」

額を押さえていると、いきなり影が降ってきた。

バサッ。

「お前、寒そうだな。優しい俺がこのカーディガンを貸してあげましょう」

妙に芝居がかった声。
聞き慣れすぎて嫌でもわかる。

「……晃、お前かよ……」

幼馴染の佐伯晃が、どこからともなく現れて、ふわっと自分のカーディガンを悠にかけてくる。
その仕草があまりに自然で、拒否する隙すらなかった。

「ちょ、ちょっと、暑い、暑いって!今は暑いからいらない!」

「朝は寒かったろ?ほら、はい着る」

「いやいやいやいや、聞け!俺の話を聞け!!」

聞かず。
晃はまったく聞かず。
強制的に袖を通す、という強硬手段に出た。

「お前!朝は寒かったけど今は暑くなってきていらないから、俺に押し付けてきただろ!!」

声が裏返るほど必死に抗議する悠。

「そんなことないよ?」

爽やか満点の笑顔。
あまりにも爽やかすぎて殴りたい気分にさえなる。

(絶対あるよ……絶対押し付けたよ……てかマジ暑い……!)

晃はそんな悠の苦悩を気にするわけもなく、顔をじーっと観察し始めた。

「うーん……この髪形を……」

「やめろ!その美容師スイッチ入りましたみたいな目!」

しかし晃の手は止まらない。
ポケットからワックスを取り出すと、勝手に手のひらに広げて――。

「ほいっと。ここをちょっと上げて……前髪は、こう軽く流して……」

「うわあああ!!触んな!俺の髪触んなって!!」

「大人しくしろ、すぐ終わるから。ほら――完成」

晃が手を離すと、悠の髪は校内のどこに出しても恥ずかしくないほど絶妙に整っていた。
セットし慣れてる人間の手だ。それはもう明らか。

「さらに……」

と晃が取り出したのは、小瓶の香水。

「待て待て待て、その流れは絶対ヤバいだろ!それ晃がいつも付けてるやつだよな!?やめろって!」

シュッ。

「うわっ……香水……ゴホッ、ゴホゴホ!!」

「完成!後ろ姿だけは完全に俺!」

「悪かったな!!背格好はそっくりだけど、前から見たら地味な平凡顔で悪かったな!!」

悠が全力で自虐すると、晃はちょっとだけ眉を下げ、ふにっと柔らかい笑顔を見せた。

普段のチャラさとは違う、子どものころから変わらない、あの素で優しい笑み。

「そんなことないって。お前は良い奴だよ。幼稚園のころから知ってる」

「…………っ」

(くそ……くそ……!)

(この笑顔のせいで、どれだけ俺の片想いの女子が晃に流れたと思ってんだ……!)

(お前の罪は重いぞ佐伯晃……!!)

胸の中で全力の悪態をついていると――。

「一ノ瀬、今日、日直だったよな。課題のプリント集めて職員室に頼む」

教室入口で担任が腕を組んでいた。

「あっ、はい!」

悠は反射的に返事をする。

――そこで、稲妻のようにひとつの考えが脳を走った。

(……そうだ!!)

(神谷のプリントの字!)

(あの弁当についてた付箋の字と同じかどうか見れば……!)

(ワンチャン、いや本当にワンチャン、字が違う可能性……あるかもしれない……)

(弁当の主=神谷じゃない説が出る!!)

最後の希望を握りしめて、悠は神谷の席へ向かった。

神谷遼はちょうど教科書を閉じ、視線を上げたところだった。

「一ノ瀬。プリント、これ」

差し出される紙。
その瞬間。

悠の膝が、音も立てず崩れ落ちた。

(……う、そ……)

(嘘だろ……)

(なんで……なんで女子より綺麗な字なんだよ……)

(筆跡、完全一致じゃねぇか……)

(なんだよこれ……もう逃げ場ないじゃん……)

(見た目完璧、運動神経バケモノで字まで綺麗って……)

(どこに欠点落としてきたんだよ。神谷遼……)

神谷の字は、まるで細いペンで丁寧に写経したような品の良さ。
付箋に添えられていた「今日もがんばれ」――その字と同じ柔らかい角度。

崩れ落ちる悠に、神谷は目を丸くした。

「……え、大丈夫?」

(大丈夫じゃない!!!)

(終わった……確定した……)

(弁当の主、神谷遼……確定しました……!)

(わあああああああああ!!!)

心の中で絶叫が響き渡る。

そんな悠の混乱など知らない神谷は、すっと立ち上がった。

「あ、俺も集めるの手伝うよ。どうせ今ヒマだし、一緒に行こう」

「えっ……」

(無理……精神的に今、神谷の隣とか無理……)

(でも断ったら絶対不自然……!)

(なんで?とか聞かれたら余計無理……!)

悠は顔面の筋肉限界まで引っぱって作り出した引きつりきった笑顔で、

「お、おお願いします……」

と言った。

神谷はほっとしたように微笑んだ。

「じゃ、行こっか」

その横顔がやけに優しくて、夕陽に照らされて綺麗で――
悠の胸のざわめきは、もう誤魔化しようがなくなるのだった。