朝の校舎は、まるで巨大な水槽の底に沈んでいるようだった。
空気は澄んでおり、光が差し込むたび、廊下の埃が金色の粒となって漂っている。

悠は、自分でも笑えるほど慎重に二階へ上がった。
息を殺し、角からそっと教室側を覗き込む。

(……いままで、なんで気づかなかったんだ)

(朝早く来て見張るって、めちゃくちゃシンプルじゃん!)

(朝弱いからって、こんな大事なこと見逃してたなんて……)

(俺、もしかして朝弱すぎて脳みそ寝てた?)

(よし……今日こそ。今日こそ絶対に暴いてやる……!)

(待ってろよ、お弁当の送り主!逃がす気はないからな……!)

心臓がコン、と喉元にせり上がる。
昨日、晃に言われた言葉が耳の奥から離れない。

『これ渡すって……相当お前のこと好きじゃないと無理だろ』

いや、ない。そんなの、ありえない。
でも、――もし、もしも。

(……落ち着けって。期待すんな俺)

(俺の胃袋をど真ん中ストライクしてくる罪深い犯人よ……)

(覚悟しろよ……!)

期待なんてしてない。……してないはずなのに、指先は熱く、胸の奥はざわつきっぱなしだ。

悠はそっと教室へ入り、自分の席の前でしゃがんだ。
机の中は空っぽ。今日はまだ入っていない。

(いつもは登校したらもう入ってる……。ってことは、まだこの時間には登校してきていないんだ!)

知らなければただの不思議で済むのに、知ろうとしてしまったら最後、戻れない。

窓の外を風が通り、カーテンがふわりと揺れた。
悠はカバンを抱え込み、教卓の中で隠れるようにしゃがんだ。

(来るかな……来なかったら、それはそれでショックなんだけど)

自嘲気味に笑いながらも、視線はずっと廊下の方へ向いている。

そんな時だった。

――カツ、カツ、カツ。

階段を上る、一定で静かな足音。
騒がしさのないリズムに、悠の背筋がビクリと跳ねる。

(誰!?こんな時間に……!)

反射的に息をひそめ、存在を消そうと体を縮こませる。

足音は迷うことなく近づき――

ガラッ。

教室の扉が開いた。

「……」

そっと教卓から顔を出す。
その瞬間、悠の呼吸が止まった。

視界の隙間に、毎日のように見ている横顔が映る。
整ったシルエット。
朝日を受けて輝く背中。

――神谷遼。

「…………」

声にならない声が喉から漏れる。

(神谷、朝早っ!)

(って……よく考えたら、前に告白されてた時も朝早かったな……)

(もしかして……こいつ、毎日この時間に来てる?なんで?)

そう思っていると、遼は迷うことなく、悠の席へまっすぐ向かった。
その動作の自然さは、まるで毎日のルーティンのようにすら見えた。

(まさか……?)

遼は悠の席の前で、静かにしゃがんだ。
そして、カバンから何かを取り出し、悠の机の中へ手を伸ばす。

「……よし」

そのひと言が、やけに大きく響き、慌てて教卓の中に顔をひっこめた。

悠の胸は一瞬で熱に焼かれたように鼓動を速めた。

(…………今までのお弁当……全部、神谷が……?)

(嘘だろ?)

(いや、でも………)

頭が真っ白になっていく。
胸の奥に溜まっていた謎が、現実になって、その現実が想像よりずっと優しくて、苦しくて、あったかくて。

(なんで……なんで神谷が……?)

理由を考えようとするほど、胸の痛みはひどくなる。

教卓の下の隙間から遼の様子を見ようとした瞬間、彼の動きが止まった。
彼は顔をゆっくり上げ――
教卓の方へ、まっすぐ視線を向けた。

――ドクンッ。

心臓が跳ねたというより、落ちた。

(え……!?ま、まずい……完全にこっち見てるじゃん……!!)

遼の眉が少しだけ寄る。
端正な顔がわずかに緊張の影を帯びる。

まるで、誰かの気配を感じているように。

(嘘、見えてる?気づいた?バレた?俺……見てたって……!?)

全身から血の気が引く。

けれど――
遼はそのまま、何も言わずに立ち上がった。

教室をぐるりと見回す。
最後にもう一度、悠の席を見てから――

何事もなかったように、扉から出て行った。

カチャン、と静かな音が響く。
その瞬間、悠はへなへなと教卓から這い出た。

「…………っ、は」

ようやく息が漏れる。

(……見た。俺、見ちゃった。神谷が……俺のために……弁当を……)

現実味がないのに、胸だけが焼けるように熱い。
遼の指の動き、表情、声——その全てが鮮明だった。

(あんなの……反則だろ…………)

胸がズキズキする。

嬉しいのか、怖いのか、恥ずかしいのか。
全部が混ざってしまって、答えが出ない。

(このまま普通に教室にいたら……絶対顔に出る。ムリムリムリ)

悠は勢いよく立ち上がり、教室を抜け出した。

階段を駆け下り、昇降口から外へ出る。
校門の前でやっと深呼吸できた。

「……お、落ち着け……落ち着け、俺……!」

頬が熱い。
触ると、火傷みたいに熱くてびっくりする。

シャツの襟をつまんで風を入れ、必死で平静を装う。

(よし……一回外出て……今来ましたって顔で戻ろ……)

そう考えれば考えるほど、変に冷静になってしまう。

(こんなところで冷静になるなよ……俺のバカ……!)

胸の奥のざわつきだけは消えないまま――
もう一度校門をくぐった。

今度はいつも通りの速度で歩く。
靴箱で靴を履き替え、伸びをして、軽く欠伸まで演出してから教室へ。

扉を開ける。

「おはよー……」

何人かが「おはよ」と返してきた。
いつもの風景。
いつも通り。

だけど、自分の机の中には、
――さっき神谷が丁寧に置いていた弁当がある。

(……うわ、これ……どういう顔して食べればいいんだよ)

膝の上で拳を握る。手が震える。

そこへ――
教室に元気よく現れる影。

「おっす悠ー!また来てんじゃん、謎弁当!」

晃だ。

「……う、うん。まあね」

できるだけ平常心で答えたつもりだったが、声がほんの少し裏返った。

晃がニヤニヤしながら机を覗き込み、

「お前さぁ……ほんと愛されてるね~」

「ば……やめろって……!」

(今そのワードは刺さるからやめろマジで!!)

晃はクスクス笑いながら席に座った。

悠は、自分の机にそっと目を落とす。

丁寧に置かれた包み。
触れたらあの温度が伝わってきそうな気がする。
胸がきゅっと締まる。

(神谷が……これを……。俺、これからどうすればいいんだ……)

知らないふりなんて、できるだろうか。

胸をしめつける熱は、まだ全く冷める気配がなかった。