昼休みのチャイムが鳴るよりずっと前から、悠の胸は落ち着かなかった。
黒板の文字、先生の声、隣の席の気配――どれも薄い膜越しに聞こえるような感覚で、集中できていない。

(なんでこんなに、気になるんだよ……。弁当に)

いや、弁当だけではないことを、自分でもうすうす理解していた。
机の中に今日の分が入っているのを、朝のうちに確認するまでのあの心臓の跳ね方。
紐の色、包みの柄、置かれた角度……
全部、自分のために誰かが触れた痕跡。

それを思うだけで、指先が熱を持つ。

「……今日も、あるんだよな」

小さく呟くその声が、自分でも妙に甘いと感じてしまう。

蓋を開ける前から、胸がきゅっと掴まれるような――
期待と不安を混ぜた、息の仕方が分からなくなるような感覚。

(誰が作ってるんだろ……。どうして俺に……?)

考えれば考えるほど霧は濃くなり、その霧の奥に誰かの姿を探してしまう。
けれど、まだ名前は浮かばない。

そんな悠の机の前に、いつものように晃が椅子をくるりと回して腰を掛けた。

「でーた、謎弁当。お前さ、ほんと肝据わってるよな」

「……もう、馴れてきた」

「正体不明の弁当を毎日完食する男って、普通に考えたらホラーだからね?学校の七不思議より怖いわ」

「か、勘弁して……。ホラーって言うな」

悠は小さく笑い返したが、心の奥でざわつく何かは消えていなかった。
弁当の紐に手をかけたまま、ほんの少しだけ呼吸を整える。

(よし……)

お弁当の蓋を開ける。
その瞬間、悠の手がぴたりと止まった。

「あれ……?」

晃が眉を上げる。

「ん?どうした?変なもんでも入ってた?」

「いや……そういうんじゃなくて……」

悠は喉奥が少し乾いた。
視界に広がるのは、綺麗に整えられた彩り豊かな弁当。

ハンバーグ。
だし巻き。
ポテサラ。
きんぴら。

ひとつひとつが丁寧に、まるで悠の喜ぶ顔を想像しながら詰められたかのようで――
それが逆に、胸をざわつかせた。

「……昨日さ、話したよね。俺の好きなもの」

晃は「おーおー、話した話した」と軽く笑って頷く。

「ハンバーグと、だし巻きと、ポテサラと……なんだっけ?あと一個」

「きんぴら。おばあちゃんがよく作ってくれたって言ったやつ」

「そう、それ」

悠は、視線を弁当から離せなかった。

(いやいやいや……こんな偶然、ある?)

綺麗に焼き目がついたハンバーグ。
卵の層がふわりと重なるだし巻き。
胡麻の香りがほのかに立ちのぼるきんぴら。
ほぐれるように柔らかいポテトサラダ。

どれも昨日話した、悠が好きなおかずたち。

悠はごくりと息を飲んだ。

(偶然……じゃ、ないよな……?)

晃がのぞき込み、目を丸くする。

「あれ、昨日話してたやつ、全部入ってんじゃん。ちょっと……これ引くレベルで怖くない?監視?盗聴?」

「ちょ、やめて……!」

悠の声は裏返った。
晃は面白がるようにニヤつきながら寿司のようにハンバーグを持ち上げる。

「しかもさ、これ……作り慣れてる人の味だぞ?味バランスも火加減も完璧。プロかよってレベル」

「そ、そうなの……?って勝手に食べるなよ!楽しみにしてたのに!!」

「これ渡すって……相当お前のこと好きじゃないと無理だろ」

「なっ……!」

悠の頬は一気に熱を帯び、耳まで真っ赤になる。

(誰が……?昨日の会話、聞いてた?そんな偶然……いや、でも……)

昨日、晃と話したのは放課後の渡り廊下。
人は少なかったけれど、全くの無人というわけでもなかった。

(まさか……誰かが後ろにいた……?)

胸がざわざわと波立つ。
けれど、それだけじゃない。怖さとは別の感情が、じんわりと内側に広がる。

期待。
くすぐったさ。
誰かに大切にされている感覚。

全部が混ざって、悠の中をかき乱していく。

「……聞かれてた?」

思わず漏れた呟きは、想像以上に弱々しい声だった。
晃は首をかしげる。

「まあ、この学校の生徒なら、聞こうと思えば誰でも聞けたとは思うけど。でもさ、わざわざ翌日に全部入れてくるって……愛情表現がストレートすぎるだろ」

「……そうだね……」

悠は弁当をじっと見つめたまま、まぶたを少し伏せた。

おいしそうなのに、ひどく落ち着かない。
誰かの視線の温度だけが、じんわり残っている。

(俺……見られてた?いや、そんな……でも……)

背筋を冷たいものが撫でた。
同時に、胸の奥がじんわり熱くなる。

怖さと、くすぐったさと、期待。
その全部を抱えたまま、悠は小さく息を吐いた。

(こんなの……どうしたらいいんだよ)

教室のざわめきの中、悠が感じていたのは、誰かが自分をちゃんと見ているという圧倒的な事実だった。