放課後の図書室は、まるで誰かが世界の音量をゼロにしたように静まり返っていた。
窓際の長机には、西日が細い帯のように伸びていて、紙の上を金色に照らしている。
本棚の間を流れる空気はひんやりして、遠くでページをめくる音が、ゆっくりとした波のように耳に届く。

悠は、その静けさに包まれながら、ペンを握ったまま机に突っ伏しそうになっていた。

(……やばい。寝るつもりはないのに)

英語のプリントは綺麗に広がったまま、手はまだかろうじて半分は持ち上がっているが……。

(これ……寝ちゃう……)

そう思った瞬間、視界がふっと暗くなった。

……意識が、真っ黒に溶けていく。

「……一ノ瀬?」

どこか遠いはずの声が、耳の奥に直接触れるように響いた。

低くて、綺麗に澄んだ声。

その名前を呼ばれた瞬間、悠のまぶたが、ぱちりと開いた。

「……え?」

思考より先に、息が止まった。

近い。
いや、近いどころじゃない。

目が合った瞬間、神谷遼の顔が――
ほんの数センチの距離にあった。

長い睫毛。光を受けた髪。
真剣に見つめる瞳。

手を伸ばせば触れられる位置にあって、脳が処理を放棄した。

(ちょ……え……ちょっと待って……近い……!近い近い近い!!)

反射的にのけぞろうとしたが、椅子の背もたれが物理的に反抗してきて、動けなかった。

「起きた?」

遼は、柔らかく笑った。

その笑顔は、いつものクールな雰囲気とは違い、どこか頬がゆるむような、穏やかな表情だった。

「か、神谷……?え、なんで……こんな近くに……?」

遼は、わざとらしいほどゆっくりと首を傾ける。

「ん?ああ、ごめん。寝顔、見てた」

その瞬間――

どくん。

心臓が、耳の奥まで響くほど跳ねあがった。

「――っ、は!?ね、寝顔!?見てた!?」

「うん」

「なんで……!?俺、変な顔してた!?」

「変じゃない。……むしろ、キスしたくなるくらい、無防備」

「…………は?」

聞き間違えかと思った。
でも遼は、変な冗談を言うタイプじゃない。

むしろ、告白の時の返答しかり、ストレートに言いすぎるタイプだ。

(俺の……寝顔が……?え、無理……恥ずか死ぬ……)

図書室の静けさの中で、遼の低い声がやけに響く。
距離も、言い方も、視線も、全部が反則級で、悠は思わず涙目になる。

「ち、ちか……っ……近すぎる……」

その訴えに、遼はようやく数センチだけ距離を取った。

しかし。

(近い……まだ近い……!いやでもさっきよりはマシ……いやでもやっぱ無理……!)

全然心臓の暴走は止まらない。

遼は自然な手つきで、悠の肩についた紙くずを指先でつまんで取った。

「どれくらい寝てたと思う?」

「……五分?いや、もっと?」

「二十分」

「っ……二十……!?」

「ずっと見てた」

「見てたんだ!?え、ずっと!?どうして!?」

「ん……別に。見てたかったから」

遼は目を伏せて、小さく笑った。
頬がほんの少し赤い。

「……こういうこと、言わない方がよかった?」

「こ、困る……!その……困るに決まってるだろ……!」

「そっか」

あっさりと答えながらも、遼の顔はどこか満足げだった。

(なに……この人……なんでこんな優しい顔するの……?)

悠は視線を逃がすように英語プリントを持ち上げたが、ページの文字が視界の端で溶けていく。

(この距離、心臓に悪すぎるって……ほんとに……)

そんな悠の動揺なんて全部見透かしているように、遼がすっと近づく気配がした。

「一ノ瀬」

「……な、なに」

「無理しなくていいよ。眠いなら、また少し寝ててもいい」

その声音が優しすぎて、逆に困る。

「よ、よくない……!課題、終わってないし!寝ない!もう起きた!」

「そっか……。残念」

遼がふっと笑う。その表情があまりにも柔らかくて、悠は胸を押さえたくなる。

(意味わかんない)

(よりによって神谷遼だよ……?)

(頭良くて運動できて、無駄に顔まで良くて、クールで、みんなの憧れみたいな存在が……)

(俺の寝顔なんか見て、なにが楽しいの……?)

その疑問は、まだ霞がかかったまま。
けれど一つ、確実にわかったことがある。

今日の放課後の図書室は、いつもより――いや、人生で一番、心臓がうるさかった。