朝の空気は、昨日より少しだけぬるかった。
頬に触れる風がさらりとしていて、季節が移り変わりつつあるのを静かに知らせてくる。
悠は、珍しく早起きできた勢いのまま、ベッドを蹴るように出て、そのまま鞄を掴んで家を出た。
まだ登校する生徒の少ない時間。
校門の前の道は、人の気配が薄く、どこか静謐だ。
「……あれ?」
校門に近づいたとき、ふと視界の端に見知った背中が映った。
(神谷……遼?)
校門の影。
その向こうに、クラスメイトの神谷遼が立っていた。
そして、彼の正面には見知らぬ女子生徒。
どう見ても告白シーンだ。
悠は瞬間、身体が勝手に動くのを感じた。
(あ、やば……晃のせいで条件反射になってる……!)
隣に住む幼馴染の晃は、毎年2、3回は家の前で告白されている。
その現場を何度も強制見学させられてきたせいで――
告白らしき場面を見ると、気配を消す癖がついてしまったのだ。
(自分の家に入ろうとしたら、知らない女子が晃に告白してるんだもん!)
悲しいような、便利なような、複雑なスキルである。
(とりあえず隠れとこ……巻き込まれたくないし……)
悠は校門脇の植え込みへ、そっと滑り込むように身を隠した。
葉の間からこっそり覗く。
女子の声が震えていた。
「神谷くん……!前から、ずっと……その、好きで……!」
遼は、ほんの一秒も迷わず言った。
「ごめん。そういうつもりはない」
一切の逡巡がない。
声は感情の起伏がまるでなく、ただの事実を述べるように淡々としている。
落とす影も、一切ない。
女子は目を潤ませ、顔を伏せて唇を噛み、それから突然ふっと駆けだしていった。
(うわ……逃げるの早っ……!秒速で振られた……)
ここまで潔いのも珍しい。
遼は、とくに追いかけるでもなく、ため息ひとつつかず、ただ校内に向かって歩き出した。
表情は、告白前と寸分変わらない。
まるで、今の出来事がなかったかのように――無風のまま。
(……やっぱイケメンは大変だなぁ)
晃も相当モテる。
だが遼は、真逆のタイプで同じレベルの人気だ。
晃の明るさとカリスマ性とは違い、遼は静かでミステリアス。
その冷静さと完璧な外見、運動と成績の両方の優秀さで、届かない人としての魅力がある。
(にしても……なんで朝こんなに早くいるんだろ、神谷って。毎朝なのかな?)
ぼそっと疑問が浮かぶ。
もしかして、朝練?
いや、彼はどの部活にも入っていない。
もしかして、女子を避けるため?
いや、それは……いや、あるかも……?
(いやいや、考えすぎ……)
悠は自分に突っ込みながら、校舎へ足を向けた。
遼から少し遅れて教室に入った瞬間――
悠の動きが止まった。
「……っ、また、ある……」
自分の席。
机の中。
包み布に包まれた弁当箱。
そして今日も、かわいい付箋が貼られている。
『今日もがんばれ』
(……いや、これ……さすがに毎日は、怖いって……)
でも、手は自然と弁当を抱き上げてしまっていた。
包み布の質感も、食べる前からわかる丁寧に詰められてる雰囲気も、すっかり自分の生活の一部になっている。
最近の一番の楽しみ。
そう思ってしまう自分に、じわっと苦笑が浮かんだ。
(……誰なんだろ……ほんとに)
そこへ――。
「おっはよーー悠!」
背中をぽんっと叩かれた。
振り向くと、幼馴染の晃がいつもの調子でニヤニヤしていた。
「で?今日も入ってたわけね?」
「まぁ……うん」
曖昧に笑う悠。
だが晃の眼光は、弁当にロックオンされたまま離れない。
「にしてもさ。よく誰が作ったかわからん弁当を毎日食べ続けられるよな?普通、怖くね?」
「え、うん……まぁ。おいしいし……」
「いやいやいや。お前、何の躊躇もなく食ってんのが逆に怖ぇよ。てかさ……いよいよストーカーじゃね?これ」
「そんなわけ……ないと思う、たぶん……」
「ほら見ろよ、そのたぶんがもうすでに怪しいんだって。俺だったら一回も口つけねぇぞこんなん」
「でも……なんか、あったかいし……優しい味だし……」
「ほら出た!一番危ないやつ!!優しさに弱いタイプは真っ先に狙われんだぞ?」
「や、やめてよ……怖くなるから……」
晃は机を軽く指で叩きながら、顔をぐいっと近づけてくる。
「なぁ?本当に心当たりないの?ほんっとうに?一ミリも?」
「し、深呼吸して晃……」
「逃げるな。俺、幼馴染だぞ?嘘ついても、悠の顔色見りゃ全部わかるんだからな?」
幼馴染マウントである。
悠は目を泳がせながら、ただただ薄く笑うしかなかった。
晃は腕を組み、
「てかさ、料理できるやつだよな、これ。彩りとか、詰め方とか完璧すぎるし。これ作ってるやつ、絶対お前のこと好きだろ」
「す、好きって……そんな、わかんないよ」
「わかる。俺にはわかる。幼馴染だからな」
(やっぱ幼馴染って厄介……!)
逃げ場がない。
悠は机の隅に弁当をそっと置きながら、心臓のドキドキを誤魔化そうとした。
そのとき――。
「……おい、佐伯」
背後から、低く静かな声が落ちた。
二人が振り向くと、教室の入り口に神谷遼が立っていた。
制服の襟を指で整えながら、無表情のままこちらを見ている。
その存在感だけで空気が変わる。
「朝からうるさい。一ノ瀬が困ってる。」
「あ?困ってねぇし。な、悠?」
「え、えっ……あ、まぁ……」
遼の視線が、悠へすぅっと移る。
黒目がちの瞳が少し細められ――ほんのかすかな柔らかさが宿った。
「……大丈夫か?」
その瞬間。
胸が、びくっと跳ねた。
(え……今の……優しい……)
いつも冷静な神谷遼の優しさは、滅多に目にできるものじゃない。
だからこそ、その小さな表情の変化が胸を突く。
「だ……大丈夫……ありがとう」
ようやく言葉にすると、遼は軽くうなずく。
それだけで、周囲の空気が落ち着くから不思議だ。
晃がぽりぽりと頭を掻いた。
「……悪かったよ。心配してるだけなんだって」
「心配なら、声のボリュームくらい調整しろ」
「うっせ……朝から正論ぶっ刺すなよ……」
悠は二人を見比べながら、そっと息をついた。
(……神谷って、意外といいやつだな……)
胸の中で静かにつぶやいた。
その感情は、温度を持ったまま、ゆっくりと悠の中に沈んでいった。
頬に触れる風がさらりとしていて、季節が移り変わりつつあるのを静かに知らせてくる。
悠は、珍しく早起きできた勢いのまま、ベッドを蹴るように出て、そのまま鞄を掴んで家を出た。
まだ登校する生徒の少ない時間。
校門の前の道は、人の気配が薄く、どこか静謐だ。
「……あれ?」
校門に近づいたとき、ふと視界の端に見知った背中が映った。
(神谷……遼?)
校門の影。
その向こうに、クラスメイトの神谷遼が立っていた。
そして、彼の正面には見知らぬ女子生徒。
どう見ても告白シーンだ。
悠は瞬間、身体が勝手に動くのを感じた。
(あ、やば……晃のせいで条件反射になってる……!)
隣に住む幼馴染の晃は、毎年2、3回は家の前で告白されている。
その現場を何度も強制見学させられてきたせいで――
告白らしき場面を見ると、気配を消す癖がついてしまったのだ。
(自分の家に入ろうとしたら、知らない女子が晃に告白してるんだもん!)
悲しいような、便利なような、複雑なスキルである。
(とりあえず隠れとこ……巻き込まれたくないし……)
悠は校門脇の植え込みへ、そっと滑り込むように身を隠した。
葉の間からこっそり覗く。
女子の声が震えていた。
「神谷くん……!前から、ずっと……その、好きで……!」
遼は、ほんの一秒も迷わず言った。
「ごめん。そういうつもりはない」
一切の逡巡がない。
声は感情の起伏がまるでなく、ただの事実を述べるように淡々としている。
落とす影も、一切ない。
女子は目を潤ませ、顔を伏せて唇を噛み、それから突然ふっと駆けだしていった。
(うわ……逃げるの早っ……!秒速で振られた……)
ここまで潔いのも珍しい。
遼は、とくに追いかけるでもなく、ため息ひとつつかず、ただ校内に向かって歩き出した。
表情は、告白前と寸分変わらない。
まるで、今の出来事がなかったかのように――無風のまま。
(……やっぱイケメンは大変だなぁ)
晃も相当モテる。
だが遼は、真逆のタイプで同じレベルの人気だ。
晃の明るさとカリスマ性とは違い、遼は静かでミステリアス。
その冷静さと完璧な外見、運動と成績の両方の優秀さで、届かない人としての魅力がある。
(にしても……なんで朝こんなに早くいるんだろ、神谷って。毎朝なのかな?)
ぼそっと疑問が浮かぶ。
もしかして、朝練?
いや、彼はどの部活にも入っていない。
もしかして、女子を避けるため?
いや、それは……いや、あるかも……?
(いやいや、考えすぎ……)
悠は自分に突っ込みながら、校舎へ足を向けた。
遼から少し遅れて教室に入った瞬間――
悠の動きが止まった。
「……っ、また、ある……」
自分の席。
机の中。
包み布に包まれた弁当箱。
そして今日も、かわいい付箋が貼られている。
『今日もがんばれ』
(……いや、これ……さすがに毎日は、怖いって……)
でも、手は自然と弁当を抱き上げてしまっていた。
包み布の質感も、食べる前からわかる丁寧に詰められてる雰囲気も、すっかり自分の生活の一部になっている。
最近の一番の楽しみ。
そう思ってしまう自分に、じわっと苦笑が浮かんだ。
(……誰なんだろ……ほんとに)
そこへ――。
「おっはよーー悠!」
背中をぽんっと叩かれた。
振り向くと、幼馴染の晃がいつもの調子でニヤニヤしていた。
「で?今日も入ってたわけね?」
「まぁ……うん」
曖昧に笑う悠。
だが晃の眼光は、弁当にロックオンされたまま離れない。
「にしてもさ。よく誰が作ったかわからん弁当を毎日食べ続けられるよな?普通、怖くね?」
「え、うん……まぁ。おいしいし……」
「いやいやいや。お前、何の躊躇もなく食ってんのが逆に怖ぇよ。てかさ……いよいよストーカーじゃね?これ」
「そんなわけ……ないと思う、たぶん……」
「ほら見ろよ、そのたぶんがもうすでに怪しいんだって。俺だったら一回も口つけねぇぞこんなん」
「でも……なんか、あったかいし……優しい味だし……」
「ほら出た!一番危ないやつ!!優しさに弱いタイプは真っ先に狙われんだぞ?」
「や、やめてよ……怖くなるから……」
晃は机を軽く指で叩きながら、顔をぐいっと近づけてくる。
「なぁ?本当に心当たりないの?ほんっとうに?一ミリも?」
「し、深呼吸して晃……」
「逃げるな。俺、幼馴染だぞ?嘘ついても、悠の顔色見りゃ全部わかるんだからな?」
幼馴染マウントである。
悠は目を泳がせながら、ただただ薄く笑うしかなかった。
晃は腕を組み、
「てかさ、料理できるやつだよな、これ。彩りとか、詰め方とか完璧すぎるし。これ作ってるやつ、絶対お前のこと好きだろ」
「す、好きって……そんな、わかんないよ」
「わかる。俺にはわかる。幼馴染だからな」
(やっぱ幼馴染って厄介……!)
逃げ場がない。
悠は机の隅に弁当をそっと置きながら、心臓のドキドキを誤魔化そうとした。
そのとき――。
「……おい、佐伯」
背後から、低く静かな声が落ちた。
二人が振り向くと、教室の入り口に神谷遼が立っていた。
制服の襟を指で整えながら、無表情のままこちらを見ている。
その存在感だけで空気が変わる。
「朝からうるさい。一ノ瀬が困ってる。」
「あ?困ってねぇし。な、悠?」
「え、えっ……あ、まぁ……」
遼の視線が、悠へすぅっと移る。
黒目がちの瞳が少し細められ――ほんのかすかな柔らかさが宿った。
「……大丈夫か?」
その瞬間。
胸が、びくっと跳ねた。
(え……今の……優しい……)
いつも冷静な神谷遼の優しさは、滅多に目にできるものじゃない。
だからこそ、その小さな表情の変化が胸を突く。
「だ……大丈夫……ありがとう」
ようやく言葉にすると、遼は軽くうなずく。
それだけで、周囲の空気が落ち着くから不思議だ。
晃がぽりぽりと頭を掻いた。
「……悪かったよ。心配してるだけなんだって」
「心配なら、声のボリュームくらい調整しろ」
「うっせ……朝から正論ぶっ刺すなよ……」
悠は二人を見比べながら、そっと息をついた。
(……神谷って、意外といいやつだな……)
胸の中で静かにつぶやいた。
その感情は、温度を持ったまま、ゆっくりと悠の中に沈んでいった。



