昼休みのざわめきは、ふたりのあいだだけ妙に遠かった。
まるで教室の喧騒が、彼らの席を避けて流れていくみたいに。

悠は箸を持ったまま、ほとんど手をつけられずに弁当を見つめていた。
ふわりと立ちのぼる甘い香り。
目の前には、丁寧に折りたたまれた卵焼きが整列していて、いつもより少し焼き色が濃い。

(……これも、遼が作ったんだよな)

胸の奥がじわりと熱を帯びる。
喉が苦しくて、息をひとつ吸うのさえ気をつかわなきゃいけない感じだ。

(なんで……こんな、気まずいんだよ……)

遼は斜め後ろの席で教科書を閉じ、腕を組んだまま悠の様子を静かに伺っていた。
いつもなら無表情に近いはずの瞳が、今日はかすかに揺れている。

「……どうした。食わないのか?」

落ち着いた、低い声。
けれど、そこには確かに不安が混ざっていた。

悠はびくっと肩を震わせ、慌てて笑った。

「い、いや、食べるよ。……うまいし」

「ならいいけど」

遼はそれ以上追及しない。

でも、本当は言いたかった。

弁当のこと、もう知ってるって。
朝、机にそっと忍ばせてた姿を目撃したって。
あのとき……ほんとは嬉しくて仕方なかったって。
こんなに近くで、自分のこと考えてくれてたんだって。

でも。

(言ったら……距離、戻っちゃうかもしれない)

あの穏やかで優しい日々が、綺麗に割れて、取り返しのつかない形になるような気がして。
怖くて、言葉が喉につっかえたまま出てこない。

気づけば、箸の先から卵焼きがぽとりと落ちた。

「あ……」

「……悠?」

遼の声色が、いつもよりわずかに柔らかい。
それだけで、胸に刺さっていた棘が揺れた。

「最近、お前……元気ない」

「えっ……そんなことないよ。ほんとに」

「嘘つくの下手だろ、お前」

その一言は、優しくも鋭い。
遼はふっと目を伏せた。
怒るでもなく、詰めるでもなく、ただ寄り添うような感じで。

(言われなくても、全部……気づいてるのかな……弁当の送り主のこと、俺はもう知っているって……)

悠の胸が大きく揺れる。
だが、それでも喉は固まったままだ。

言いたいのに。言えない。

遼はしばらく黙り込んでいたが、やがて息をひとつ吐く。

「……無理に話さなくていい。話したくなったらでいいから」

「遼……」

「ただ、ちゃんと食え。昼食べないと、俺――」

言いかけた言葉が急に止まった。
遼は唇をきゅっと結んで視線をそらす。

その仕草が妙に不器用で、妙に優しくて。
悠の喉がきゅっと鳴る。

(言いたい。言いたいよ)

(知ってるよ、ありがとうって)

(毎日嬉しいよって)

(遼が俺にしてくれた全部……ちゃんと、大切に思ってるって)

でも怖い。

どう言えばいいのか、どこから言えばいいのか。
もし遼が「やりすぎだった」と後悔したら。
それを知った自分に距離を置こうとしたら。

(これが壊れるの、ほんとに……怖い……)

どうしてこんなに、遼のことで苦しくなるんだろう。
どうしてこんなに、遼の表情ひとつで揺れてしまうんだろう。

悠が目を伏せると、遼は何か言いたげに口を開きかけ――また閉じた。

「……食えよ。冷める」

「……うん」

そのやりとりがあまりにささやかで、かえって胸に刺さる。

ふたりの沈黙だけが、机の上にゆっくり積もっていく。

しかしその沈黙は、離れようとしての沈黙ではない。
近づきすぎたふたりが、踏み込めずに震えている――そんな温度の沈黙だった。

遼の指先が、ほんの少しだけ悠の弁当箱の縁に触れる。
何かを確かめるように。
でも、決して押しつけようとはしない。

悠もまた気づいている。
遼が気づいていることを、気づいている。

互いに言葉にできず、でも確かに気持ちだけは交差していた。

重なりそうで、触れられないまま。

昼休みのざわめきは、やっぱりふたりの席だけを避けて流れていた。