夕方の帰りのバスは、放課後の熱気を飲み込んだみたいに、ほわりと暖かかった。
座席の布地には一日中座った人たちのぬくもりが染みつき、窓の外はゆっくりと沈むオレンジに染まっている。
学生たちの話し声が遠ざかった後の車内は、どこか独特の静けさがあった。

そんな中でも――隣に座る神谷遼の存在だけは、どうしたって目立っていた。

いや、目立つというか……

(意識するなって言われても無理だろ……こんな……!)

悠は、そっと視線を横に滑らせる。

遼は腕を組んだまま、いつものクールな顔で眠っていた。
眉は少し寄っていて、でも口元は無防備で、普段の完璧なイメージとは少し違う。

(……寝てる、よな?)

恐る恐る覗き込む。
呼吸はゆっくりで、胸が規則正しく上下している。

(いや、絶対寝てるわ……寝顔までイケメンなの、惚れるだろ……)

そんな悠の心臓がわちゃわちゃ暴れているのを一切知らず、バスがぐっと横に揺れた。

次の瞬間。

――ぽす。

「っ……!!?」

遼の頭が、悠の肩に完全に倒れ込んだ。

(し、し、し……!!しぬ……!!!)

肩にのしかかる熱。
髪がかすかに頬へ触れる。
遼の呼吸が、ほのかに首筋へ当たる。

(なんでそんな自然に……!?なんで俺の肩なんだよ……!)

心拍数は急上昇。
体温は異常値。
肩に触れている遼の頭が、今は地球より重く感じる。

「……ん」

小さな寝息。
その単音が、胸の奥まで真っ赤に染めてくる。

(反則……反則……!こんなん、耐えられるやついるかよ……)

逃げたくても、動けない。
むしろ――動いたら起きてしまうから、それが怖い。

「……あ、あの……遼……?」

声をかけてみようとして、喉が詰まった。

(だめ、無理。起こせるわけない……!)

ほんのわずかに揺れた車体に合わせて、遼の体重がまた悠へ寄りかかる。

(うそ……もっと近づくの……?)

じわじわと、肩にかかる重みが増える。

――そして次の揺れ。

つるん。

遼のポケットから、スマホが滑り落ちた。

「あっ、落ち……!」

反射神経だけで手を伸ばして掴む。
その勢いのまま画面がライトアップされ、フォルダ一覧が表示された。

悠は思わず固まる。

「……え……?」

画面中央に並ぶサムネイル。
見覚えがありすぎる、彩りのいい写真。

フォルダ名は――

《ゆーの弁当》

(ゆ、ゆーって……俺の……?名前の悠の……?)

震える指先で、つい一枚のサムネイルをタップしてしまう。

昨日の卵焼き。
一昨日の唐揚げ。
その前の日の鮭の塩焼き。

全部、悠が机で食べたあの弁当。

(……全部……撮ってる……)

嘘だろ、という言葉が喉で空回りした。

ただ作っただけじゃなくて。
置くだけじゃなくて。

ちゃんと記録していた。
毎回、毎日、欠かさずに。

(なんで……なんでそこまで……俺のこと……)

胸をぎゅっと掴まれたように痛い。
だけど、痛いのに、どうしようもなく温かい。

遼の寝顔を覗く。
この距離で見たことなんて、今までなかった。

長い睫毛。
すこし汗ばむこめかみ。
微かに下がった眉。
柔らかく触れそうな唇。

(……こんな顔して、こんなフォルダ作って……俺の弁当、全部……?)

どういう気持ちで撮っていたのか。
どういう思いで名前を付けたのか。

知りたくて、知りたくなくて。

(ずるいよ……こんなの……)

悠はそっとスクリーンを押さえ、画面を暗くした。
ばれないように、静かに、元のポケットに戻す。

その瞬間、遼の頭がさらに沈む。

「……っ……近……っ」

ぬくもりが増えるたびに、心臓が抗議する。

(知らなきゃよかった……なんて絶対言えない……)

むしろ。

(こんなの……好きになるに……決まってるだろ……)

車内アナウンスが淡々と次の停留所を告げる。
人の乗り降りの気配があるのに、悠の世界は肩の上の遼だけで満たされていた。

降車ボタンの音が遠くで鳴る。

(……俺、どうすればいいんだよ……)

小さく吐き出した声は、誰にも届かなかった。

悠の肩に寄りかかる遼は、穏やかな寝息をひとつ落とし――
まるで離れる気なんてないと言うように、そっと頬を寄せた。

悠は息を止めた。

(……やっぱり俺……どうにかなっちゃう……)

夕暮れのバスは、二人をそっと揺らしながら進んでいった。