夕暮れの住宅街は、ゆるい光のグラデーションに包まれ、部活帰りの生徒たちの声が遠くでほどけていた。
風は昼間より少し冷たくて、街灯がつく前の時間特有の静けさがある。

悠は、いつものように遼と並んで帰っていた――といっても、正確には並んでいない。

遼は半歩後ろ。
でも、歩幅は完璧に悠に合わせてくる。
まるで見えない糸で繋がれているかのように、悠が止まれば同じように止まり、歩き出せば同じテンポで隣へ戻ってくる。

(……これ、守られてるっていうより……完全に見張られてるに近くない?)

(いや、違う。うん。たぶん……見守られてる……ってやつか?)

(って、何だその違い。俺、何意識してんだよ……)

ひとりで頭の中がぐちゃぐちゃしてくる。
すると、そんな悠の混乱を見透かしたように、遼がぽつりと口を開いた。

「……悠」

「ん?」

呼ばれるたび、ちょっとくすぐったい気持ちになるのは秘密だ。

「今日も……家まで送ってく」

「う、うん……ありがとう。いや、でも……」

悠は困ったように笑って、前を向いたまま言葉を続けた。

「なぁ、遼。事件からもう結構経つだろ?いつまでこうしてくれるつもりなんだよ」

からかうでもなく、軽く言ったつもりだった。

しかし、返ってきた声は冗談の余地がなかった。

「ずっと」

「……は?」

夕暮れの空気ごと心臓が止まった気がした。

遼は足を止め、悠のほうへ向き直っていた。
その瞳は、いつものクールさよりもずっと真剣で――どこか必死だった。

「……ずっと送ってく。お前のこと、もう……放っておけないから」

(……な、なにそれ……重すぎるだろ……!)

(こんな夕暮れの一本道で、そんな顔して言うなって……ホラーだ!!)

耳の先が一瞬で熱を持つ。

悠は遼と目を合わせていられず、慌てて前を向き直った。

その横で、遼の静かな呼吸がすぐ近くにある。
意識してしまうたび、胸の鼓動が余計に早くなる。

沈黙が落ちかけた、その瞬間。

遼が、どこか覚悟を決めたように息を吸い込んだ。

「……あのさ、悠」

「ん?」

嫌な予感じゃない。
むしろ――心臓が先に走り出すような予感だった。

「今度の休日……霧ヶ丘展望台行かない?」

「え?」

「二人で」

「……っ!」

瞬間、胸が跳ね上がった。
跳ねたというか、もう爆発した。

(いやいやいや、二人で!?)

(展望台って……カップルとか、そういうやつらが行くとこだろ!?)

(お前、あの冷静クールキャラどこいった!!)

断る選択肢は、悠の中から綺麗に消えていた。
こんなふうに誘われて、「無理」なんて……言えるはずがない。

何より――胸の奥が、期待してしまっていた。

悠は小さくうつむきながら、ぎこちない声で答えた。

「……べ、別に。いいけど」

遼は一瞬驚いたように目を瞬かせ、そのあとほんの少し緩んだ微笑を浮かべた。

「……そっか。じゃあ、行こう」

その顔が、息が止まるくらい優しくて。

(……ずるい。ずるすぎる)



──そして、休日。

バスに揺られて30分。
ふたりで降り立った霧ヶ丘は、名前のとおり、一面が薄い白に煙っていた。

山頂までの遊歩道は静かで、少し冷たい空気が心地いい。
木の葉が揺れる音だけが風の中に溶けていた。

こつ、こつ、と木道の上で二人の足音だけが規則正しく響く。

「霧、多いな……」

悠がぽつりと言うと、遼は横顔のまま小さく笑った。

「うん。でもこれも、悪くないだろ」

「……そ、そう?」

「お前となら、別に」

「っ!」

(さらっと言うなよ……!!)

(なんなんだよ今日は……仕掛けてきてんのか……?)

そう思っていると、遼がまた無意識に距離を詰めてくる。

肩と肩の間は、指三本分くらい。
風が吹けば、確実に触れる。

(近っ……!やば……これ……近いって……!)

案の定、ふわりと風が流れ、遼の袖が悠の手に触れた。

「……っ!」

びくっと肩を震わせる悠を、遼は横目でちらりと見てくる。
その視線は、いつもの無表情よりもどこか含みがあった。

「……そんなに反応する?」

「だ、だって今……触れたから……!」

「触れただけだろ」

「だけって……!びっくりするだろ、普通……!」

遼はほんの一瞬だけ目を細める。
それは笑っているようでもあり、呆れているようでもあり――でもどこか優しい。

「……驚きすぎ」

「う、うるさい……!」

遼は手すりに軽く肘をつき、霧の向こうを見ながらぼそりと落とす。

「……そういうとこ、勘違いすんだろ」

「え?」

悠の頭が真っ白になった。
遼は視線を向けず、ただ淡々と続ける。

「気づいてないんだろ、無自覚すぎるんだよ、悠は」

「な、何が……?」

「そういう素直な反応。……隙だらけ」

「す、隙って……俺、そんな……!」

遼はそこでようやく悠のほうを向く。
目が合った瞬間、悠の喉がきゅっと詰まった。

「……否定するなら、もっと落ち着いて言えよ」

「~~~っ!!無理に決まってんだろ……!」

遼は小さく息を漏らす。
それはため息なのに、妙に機嫌がよさそうだった。

「……ほんと、面白い」

「面白いって言うな!」

「褒めてんだけど?」

「っ……!」

その一言で、悠の心臓はまた跳ねた。
遼は気づいているのかいないのか――淡々とした顔のまま続ける。

「……他のやつに見せんなよ。特に佐伯。俺以外に気づかれたら困る」

「は!?ちょ……っ……なんで急にそんなこと言うんだよ!」

「別に。ただ思っただけ」

(ただで言う内容じゃないだろ……!)

遼の指先が、また風に揺れて悠の手に触れる。
今度は――悠は跳ねなかった。

遼はそれを見て、ほんの少しだけ、目尻を緩めた。

「……慣れた?」

「し、知らねぇよ……!」

「そっか。……まあ、いいけど」

妙に柔らかい声に、胃のあたりまで熱が落ちてくる。

展望台に着くと、ふたりは自然と並んで手すりに寄りかかった。
前方には霧の中にぼんやり浮かぶ街の輪郭。

「すげ……霧の中に街が浮いてるみたいだな」

「だろ。俺、ここ好きなんだ」

「へぇ……」

遼の声はいつもより少しだけ穏やかで、どこか嬉しそうだった。

悠は半ばふざけて言った。

「なんか……こうしてるとさ、変な噂になりそうだな」

遼は驚いたように目を見開き、数秒だけ固まった。

そして――視線を外し、耳まで赤くして言う。

「……いいじゃん、別に」

「え?」

「噂なんて。どうでも」

その声が、やけに真っすぐで。

悠のほうが慌てた。

(……ちょ、こんなの……意識するなってほうが無理だろ……)

気づけば肩が触れていた。
今度はどちらも離れない。

霧がふわりと流れ、静かな空間にふたりだけの息遣いが溶け込む。
遼の横顔がこんなに近いのは、たぶん――初めてだ。

甘い時間が、霧の中で静かに溶けていった。