余白が、急に意味を持ち始めたのは、席替えから一週間が過ぎた頃だった。ページの白は、もともと“書かないための場所”だ。けれど、彼とやり取りを続けるうちに、そこは“まだ言わないための場所”になり、さらに“言うためにここまで削った場所”に変わっていった。白は黙っているのに、白ほど雄弁な領域はない、と最近の俺は思う。

 その日の一時間目は英語。新しい席の角度にも体が馴染んできて、黒板が少し遠いことにも、縦棒が少し伸びることにも、俺の呼吸はもう驚かない。窓の向こうを風が横切り、光の帯が机の木目を移動する。チョークの粉は乾いていて、布で撫でるだけで、白がすっと空気に解ける。

 休み時間、日直日誌を開くと、最初の一行がいつもより短かった。

 ――縦読み、やってみない?

 俺は一拍おいて、紙面全体を見渡した。今日の彼は、珍しく長い段落を作り、行頭をそろえている。ページ左端の列が、いつもより整っていた。整えた意図に気づくまで、三秒。気づいてから、一秒。指先で端を押さえ、上から下へ、頭文字だけを静かに拾っていく。

 し
 の
 は
 ら

 息が、胸骨の裏で裏返った。裏返って、落ち着くまでに、余計な一拍が入る。席替え以降、俺の縦棒は伸びたが、心拍の縦棒は、いまさらに伸びた。
 篠原。
 やっぱり。
 “やっぱり”という言葉が、救いにも落とし穴にもなることは知っている。救われるのは、直感の孤独がようやく終わるから。落ちるのは、これまで誰の名前にも固定せずに済んでいた時間が、急に重力を持つから。

 俺は、鉛筆の先で、紙の角をひとつ撫でた。撫でてから、答えは書かないで閉じた。次の授業の間じゅう、耳の奥で彼の“しのはら”が、点字みたいに触覚を帯びて並ぶ。見るのではなく、読むのでもなく、触る名前。文字が“誰か”に変わる瞬間は、いつ経験しても、少しだけ怖い。

 昼。三浦はいつもどおり、余計なことを言う天才だった。

「プリント配って、○○」
「部長か俺は」
「字がきれいな人は紙が似合う」
「理屈」
「理屈じゃない。紙が○○と歩きたがってる」
「紙に意思を持たせるな」
「紙は言葉の骨だぞ。ウォーキングしたい日もある」
「じゃ、リード持て」
「持った」

 高城がそこへ「よし、散歩だ」と混ざってきて、プリントの束を犬に見立て、廊下へ逃走しかける。「返せ」俺が笑って奪い返す間、胸の奥ではさっきの縦読みの四文字が、静かに滲んでいた。滲みは不快じゃない。反対だ。滲むことで、輪郭がやさしくなる瞬間もある。

 午後。現代文の教科書の余白に、俺は小さく点を置いた。紙の上で点の練習をすると、呼吸の位置が整う。二分の朝練で覚えたやり方。見ないふりで支える練習。黒板に何もない場所が持つ皺の読み方。すべては、“名前になる前の形”を受け止めるための筋トレだ。

 放課後、俺は日直の時間を、わざと長引かせた。雑巾をもう一度絞り、上から下、左から右、最後に上段中央を撫でる。撫でる音が、いつもより柔らかい。ペースは、君のに合わせる――そう書いてくれた日の彼を、ふと、背中の奥で思う。
 教室に人がいなくなるのを待つのは、今日に限って、苦ではなかった。むしろ、誰もいないという条件が揃うのを、体のどこかが欲していた。
 教卓の前に立ち、日直日誌を真ん中に開いて置く。紙の白は、昼より少し冷たい。冷たさは、緊張を“整頓”に変える力がある。
 窓の反射に、空と教室が重なっている。反射の奥は、水の底に似ている。そこへ向けて、俺は声を落とした。

「……いる?」

 足音。
 反射の奥から、足音が近づき、ドアの金具が静かに鳴る。
「いる」
 声は、紙の上の彼の温度と同じだった。低く、でも硬くない。
 篠原が現れて、少し笑う。笑い方は、左利きの人が右手でチョークを持って練習した翌日の、それに似ていた。ぎこちなさと丁寧さの中間。

「匿名ルール、破る?」
「うん。破りたい」

 “破りたい”の言い方が、妙にきれいで、胸の裏側で鐘がひとつ鳴った。破る、という語は、傷を想像させやすい。けれど、彼のそれは違った。封を切る、に近い。封を切る前に、指の腹で角を確かめるような慎重さ。俺は頷くかわりに、日直日誌の端を指で押さえた。

「さっきの、見た?」
「見た」
「……縦読み」
「ひどいよな、こういうやり方」
「ひどくない。助かった」
「助かった?」
「直に言われたら、今日の俺は、言葉が足りなくなる」
「足りないの、好き」
「なにそれ」
「余白ができるから」
 彼は、左手で自分の胸を押さえた。その手の形は、黒板を撫でるときの形に少し似ていた。右手でノートを開きながら、彼は言った。

「本当は、ページじゃなくて、本体に書きたい。……君に」
「やめろ」
「ごめん」
「やめないで」
 自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。驚きは、思っていたより、軽かった。軽いのに、深く沈む。そういう種類の驚きが、この世にはある。

 距離が、一歩ずつ、縮まる。
 チョーク一本ぶんの細さが、体の中で新しい基準を作る。黒板の前で二分間、何も書かない練習をしてきたのは、たぶんこのためだった。何も書かない時間が、言葉に触れるための足場になる。
 彼の顔が、すぐそこにある。名前の最初の一音が、喉の奥で形を持ち始める。けれど、俺はまだ、呼ばない。呼ぶ前に、言わなきゃいけないことがある。

「お前の字、好き。ずっと」
 俺の声は、紙の上と違って、余白を持たない。だから、言い切ったあとに、余白を作る。黙る。黙っている間に、呼吸がひとつ深くなる。
 篠原は、目を少し伏せ、頬の粉を親指で払った。払っても、すぐまた星がつく。粉は祝福と同義だ。

「……俺は、お前の間が、好き」
「間?」
「笑う前に考える一秒。返事の前に息を吸う音。ノートを閉じるときに、指で最後の一文を撫でる癖」
 彼は顔を逸らした。「見すぎ」
「おあいこ」

 黒板の粉が、ふたりの靴先で淡く光る。窓の外の薄い夕方が、教室の空気を少し軽くする。軽くなった空気は、重い言葉を支える。
 俺は、自分の“二拍遅れのありがとう”のことを思い出した。今なら、二拍じゃなくても出せる。そう思って、口を開く。

「……ありがとう」
 一拍半で言えた。篠原の目の温度が、少しだけ変わった。紙の上で読むときと同じ、変わり方だ。
「どういたしまして」
 彼は、半テンポ早く重ねる。そのテンポ差が、昔から好きだ。
 沈黙が、いい方に働く夜がある。今日が、そうだ。

「朝の二分、明日もやる?」
「やる」
「じゃ、明日、名前で呼ぶ」
 心臓が跳ねすぎて、俺は返事を文字に逃した。日直日誌の下辺、粉の影がまだ残っているところに、鉛筆で小さく、書く。

 ――待ってる。

 篠原は、それを見て、息をひとつ、丁寧に飲み込んだ。飲み込む音が、近い。近さは、怖くない。怖いのは、近さに気づいたのに、気づかないふりをし続けることだ。

 *

 帰り道、アスファルトの色はまだ濡れていないのに、靴底に水の記憶が残っている気がした。粉の季節をくぐると、世界が一度、白の層を持つ。白の層は、音を少しだけ柔らかくする。角のある音から、角がとれていく。

 家に着いて、机に向かう。日直日誌を開く。紙は、さっきより少し暖かい。俺の体温が移ったのか、夕方の空気が移ったのか。縦読みの行列に、俺は指を滑らせ、もう一度、“しのはら”の四文字を触る。触ると、今度は言葉が“誰か”に戻る。行き来は自由だ。自由でいてほしい。

 ノートの余白が、告白のための仕掛けになっていく。文字そのものではなく、文字の周囲の呼吸で告白するやり方。匿名くん――いや、篠原は、最初からそれをしていたのだと、ようやく気づく。
 “君の『、』の丸が好き”と言った日も、彼は丸という“字形”を褒めることで、実は丸を生み出している“君の間”を指していた。見ているのは線だけじゃない。線の前の前。余白の厚み。ためらいの音。
 俺は返すように、余白の左端に小さく点を置き、その点から右へ、細い線を一センチだけ伸ばした。線になる手前の、呼吸の練習。自分の“見方”も、誰かの“見方”の前に置けるように。

 スマホが震えて、高城から「オフ会どこで」のメッセージ。「購買脇のベンチ」と返すと、「了解、バニラ」「ソーダにしろ」「ソーダはすぐ飽きる」「お前が飽きっぽいだけだろ」「俺は飽きっぽくて一途」と意味のわからない名言を投げつけられた。三浦からは「今日のお前の“ありがとう”一拍半」と診断報告。「明日は?」と返すと、「明日は名前の分、半拍増量」と、妙に正確な予言が来た。

 *

 翌朝。五分早く学校に着く。教室の鍵はすでに開いていて、朝の湿度は低い。粉は乾いている。乾いた粉は、空に音を立てずに舞う。
 黒板の前に立ち、二分を浮かせる準備をする。日直日誌は、教卓の右に置いてある。ページは、昨日の「待ってる」をそのまま抱いている。
 扉の金具が小さく音を立て、篠原が入ってくる。左手に、今日は何も持っていない。握っていたはずの緊張を、たぶん扉の外に置いてきたのだろう。
「おはよ」
「……おはよ」
 ふたりで、黒板の“何もないところ”に目を置く。置いたまま、呼吸を合わせる。二分の中に、一秒が百回くらい現れては、消える。
 篠原が、最初に口を開いた。
「――○○」
 名前の最初の一音は、思ったより高く、思ったより遠くへ飛んだ。飛んで、戻ってくる。戻ってくる位置が、俺の胸の少し下。そこに置かれた音は、紙の上のインクよりも、濃い。
「……はい」
 答えは、最短で、最小で、でも足りた。
「呼んでいい?」
「許可」
 許可という合言葉が、朝の光に溶ける。
「○○」
 今度の名前は、最初よりも低く、最初よりも近かった。言い切ったあと、空気に小さな“尾”が残る。黒板の「よ」の尾みたいな細い余韻。俺は、その尾の上に立った。

 日直日誌の前に移動し、ページを開く。篠原が隣に来て、右手でチョークの箱を整え、左手で自分の制服の胸ポケットを押さえる。押さえる癖は、照れの代わりだ。
「俺からも、言わせて」
「うん」
「……しのはら」
 名前を呼ぶだけで、ページに新しい余白が生まれる。余白は、呼ばれた名前の内側にできる。“俺”の中に“君”用の部屋ができるように、“君”の中に“俺”の椅子ができる。その椅子に座る作法を、今から覚える。
「はい」
 彼が椅子を指で軽く叩いた音が、聴こえた気がした。

 「匿名ルール、破ったな」
「一行くらい、破っていいだろ」
「君はよく、ちょうどを見つける」
「ちょうどでいよう。破るのは、封だけでいい」
 封が切れた紙は、はじめて呼吸する。紙が呼吸する音は、たぶん人の呼吸と同じ速度だ。
 その朝は、二分を三分に延長しても、誰にも叱られなかった。黒板は黙って、粉はやわらかく舞い、教室の空気は、誰かが名前を呼び合うのを、ただ許してくれた。

 *

 その日一日、世界は少しだけ滑らかだった。授業の合間に高城が「名前、呼んでたな」とささやき、「よく気づくな」と返すと、「俺は場の骨を見る係」と胸を張った。「給料は拍手」「デフレ」「でも満たされるだろ」「……まあ」。
 三浦は、「今日のお前の“ありがとう”、一拍ジャストだった」と言った。「最短じゃん」「短い“ありがとう”は、足場が固い。長い“ありがとう”は、遠くまで届く。どっちも正義」。その辞書、欲しい、と内心で思う。

 放課後、改めて日直日誌のページを開く。今日のページは、白が広い。広い白の左端に、篠原の行が置かれていた。

 ――君に“しのはら”って呼ばれた音が、まだ胸にいる。
 ――匿名は、守るためのルールだった。
 ――守ったうえで、破るのが、今日の正解だと思う。
 ――破る、許可を。

 “許可”を、紙の上でまた受け取る。ボールペンの黒が、今日の光で少し青く見える。
 俺は返す。

 ――許可。
 ――君の“間”を、これからも、見たい。
 ――名前になったあとも、その前の前を、忘れない。

 ページを閉じようとしてやめた。閉じないで、教卓に開いたまま置く。いつもなら、すぐ閉じる。けれど今日は、開いたままにして帰るのが、正しい気がした。“ここにいる”の合図として。

 やわらかい夕方が、窓の外を滑る。靴音が廊下を流れ、遠くで誰かがボールを蹴る音がして、薄く笑い声が重なる。黒板の角は、昨日よりさらに滑らかだ。誰かがまた、紙やすりを当てたのだろう。
 俺は最後に黒板を軽く撫で、粉の白を掌で受け取った。掌の白は、すぐには落ちない。落とさずに、少しだけ持って帰る。粉の白は、名残と同義。
 昇降口で、篠原が待っていた。光の中で、彼の左手が、胸の上に置かれる。右手には、ノート。
「本体に、書いていい?」
「いま?」
「いま」
「……どこに」
「ここ」
 彼は、俺の左手の甲の白い粉の上に、指先で小さく点を置いた。点はすぐ消えた。消えたけれど、触覚が残った。
「縦読みじゃなくて、横書きで、真っ直ぐに」
 彼は、照れて笑って、言葉を続けた。
「君が好きだ。
 ――名前の前の君も、名前になった君も。
 全部の合計で」

 合計。
 俺の胸の中の鐘は、ゆっくり鳴った。鳴ってから、静かになった。静けさは、やさしさの別名だ。
 俺は、二拍遅れも一拍半もなしで、返した。

「俺も」

 短くて、足りる言葉。
 足りないところは、これから毎日、余白で埋める。
 日直の時間に、二分の練習で。黒板の粉の祝福の下で。
 距離は、チョーク一本ぶん。
 けれど、名前は、もう届いている。

 夜、机に向かい、あのページを思い出して、最後の一行をそっと書いた。

 ――明日も、ページ、開けとく。
 君の名前の呼吸が、そこにまだ、いるように。

 書き終えて、軽く指で撫でる。
 撫で残った黒が、星のように、浮いた。
 粉の季節は続く。
 それでいい。
 粉が舞っている間は、線が生まれ続ける。
 生まれる線の前で、俺たちは、また二分、待とう。
 待ちながら、呼ぼう。
 行間で告白し続けるために。
 名前を、何度でも。
 やさしく。
 少しだけ、切なく。