席替えは、授業の合間に季節を動かす行事だ。教室の空気の向きが変わる。風の通り道が一本、別の壁に移る。俺の名前が、出席番号の順に一度ばらけて、再び別の配列で落ち着く。それだけのことなのに、人と物の距離は数センチ単位で組み替えられて、そのわずかが、日々の呼吸の圧を変える。

 今回の席替えで、俺は黒板から少し遠ざかった。前から三列目、窓側の後方。左肩で光を受け、背中で教室のざわめき全体を抱える位置。教壇は斜め右前方。日直の動線は、遠回りになる。黒板に向かうには、机の列を二本分、縫うように歩かなければならない。足音を小さくするために、踵の力をほんの少しだけ抜くことを覚えた。

 最初のホームルーム、先生が席表を配り、ざわついていた空気がいったん凪いだ瞬間、俺の前の机の木目に光が一筋走った。木の年輪のゆがみは、見慣れない。見慣れていないものを見るとき、人は少し丁寧になる。丁寧になると、呼吸の速度が変わる。呼吸の速度が変わると、句読点の丸も、変わる。

 午前の授業が一本終わるたびに、俺は自分のノートの「、」と「。」の丸の具合を確かめた。座席の距離は、文字の縦横比に反映される。前にいたときより、横線が少しだけ長い。斜めの払いが、気持ち伸びる。遠くから黒板の枠を見ているせいで、境界線の見え方が緩むのだろう。境界が緩むと、内側の余白が広がる。余白が広がると、言葉は遅れて着地する。

 ――日直日誌を開く。ページの上に、もうインクの線が落ちていた。

 ――今日の「い」の縦棒、遠くなって、伸びた。

 読んだ瞬間、胸のどこかにさざ波が立った。ああ、やっぱり、と、俺は目の奥で頷く。席替えという表向きの変化は、匿名くんにとって、観察の角度の再調整に過ぎない。遠くなって、伸びた。言い方がうつくしい。遠くなることを、劣化や損失の比喩にしない。遠さを、そのまま縦の伸びに置き換える。距離の再発明。俺は鉛筆を持ち、返した。

 ――気のせい。

 インクが、すぐに上から重なった。

 ――気のせい、じゃない。座る位置で、字の足音は変わる。

 足音、という語に、微笑みがこぼれそうになるのを押しとどめた。足音のする文字。たしかに、ノートの上を走る「い」の縦棒が、紙の地面に触れている音を、今日は聞いた気がした。

 昼。男子の会話は、くだらないのに、血圧を上げすぎない薬みたいに効く。

「プリント配って、○○」
「部長か俺は」
「字がきれいな人は、紙が似合う」
「理屈」
「理屈じゃない。紙がうれしそうにしてる」
「紙の気持ち担当、三浦」
「はい、紙代表です。プリント配布は式典なので、所作をお願いします」
「じゃあ、まずは国歌を」
「それは別の式典」

 笑いながら、俺はプリントの束を両手で受け取った。紙の端を揃える感覚が、手に戻る。新しい席から列を渡ると、視界の高さがちょっと違う。前はもっと黒板寄りの空気を吸っていた。今は教室全体の混合気を吸う。人の匂い、弁当の匂い、埃と炭酸の匂いが、等分に混ざっている。紙は、それぞれの匂いを少しずつ吸い、軽くなったり、重くなったりする。

 背後から、別の声。

「○○、新しい席、どう?」
 高城が椅子の背にもたれ、片手でペットボトルのキャップを回しながら聞いた。
「どっちでも」
「“どっちでも”って言えるの、強いな。俺、窓側だとちょっと弱る」
「光が敵?」
「敵というか、情報量が多い。外、いつもなんか起きてるじゃん」
「わかる」
「でも、お前は外見てる顔も、中見てる顔も、だいたい同じだな」
「褒めてないだろ」
「褒めてる」
 彼は、飲み口に触れた水滴を親指で拭い、そこに付いた水を自分のジーンズの膝でさっとふいた。何気ない動作なのに、目が引っかかる。引っかかって、すぐ離す。高城は、引っかけて、離す、達人だ。

 午後の現代文で「間」の話が出た。舞台脚本の抜粋、登場人物AとBの間に「(間)」と書かれた指示が何度も挟まっている。先生が問う。「この“間”は、どのくらいがいいと思う?」。教室の時間が短く伸びた。答えのない問いに、答えを探す顔たち。俺は黒板の「(間)」を見ながら、匿名くんの昨日の言葉を思い出していた。客席から君の「間」を守る。その約束は、紙の上でだけでなく、ステージの上でも、今日のノートでも、守られている気がする。

 放課後。雑巾を絞り、上から下、左から右。遠くなった黒板は、前より少しだけ、よそよそしく見える。でも、いったん手を置けば、黒板はまた黒板になる。距離は、触れ方で補える。板の表面の、細かな傷が指に伝わる。粉は指紋に沿って、細い道を描く。

「席、前の方がよかった?」
 ふいに、左から声。見ると篠原が、俺の机の角に指を置いていた。机の角は、今日初めて触られたかのように、少しだけ光る。
「どっちでも」
「……そっか」
 彼の視線は、俺の顔より、俺のノートの上を見ていた。紙の白、線の濃さ、余白の触りごこち。左手でシャーペンを転がし、右手はポケットのあたりで、何かを数えるみたいに軽く開いたり閉じたりする。
「黒板、遠いと、横線伸びるな」
「ばれてる」
「ばれる」
 それだけ言って、篠原はイレイサーに持ち替え、黒板の右下の角を軽く撫でた。撫でられた角は、今日の湿気を一つ吐き出したように、わずかに明るくなる。

 廊下では三浦が、購買の残品チェックをしている。「余りパン情報は世界を救う」と言いながら、パンの袋を揺らす。「○○、あんドーナツ、いく?」「いかない」「今日のあんは、唐突にうまい」「唐突ってなに」「唐突なうまさは、心をほどく」「売り文句にしては雑だな」「雑で売れるときもある」――そんな他愛ない応酬を、教室の引き戸の枠が静かに受け止めている。

 夜。家に戻ると、制服の袖に白い粉が線を引いていた。洗面所で指先を濡らし、丁寧に撫で落とす。粉は落ちるが、触覚は残る。机に向かい、日直日誌を開いた。紙は、昼より軽い。薄い呼吸を繰り返す白の真ん中に、インクの黒が、いつもより大きめの字で置かれていた。

 ――君を見て書きたい。

 正面からの文だった。比喩も、飾りも、順接の語尾もつけないで、いきなり主語と述語を並べる。潔さは、紙の白をまっすぐ割る。背筋が伸びた。意識しないで伸びる背筋は、最上の敬礼だ。俺は鉛筆を持ちながら、しばらく息を止めた。止めた息の重さを、ページの上に静かに置く。鉛筆の芯が、紙の毛羽立ちの谷間を探す。

 ――じゃあ、見る練習から。明日の朝、黒板の前に二分。

 書いてから、消しゴムで「二分」の「二」を指で撫でる。三に増やすか、一に減らすか、一瞬迷って、そのままにした。二分。短いけれど、長い。長いけれど、短い。呼吸の数で言えば、四呼吸から六呼吸分くらい。黒板の前に、それだけの時間を浮かせる。

 ページを閉じ、ベッドに倒れこみ、天井を見上げる。天井は、夜になると黒板みたいに平らになる。文字の練習をする代わりに、呼吸の練習をする。吸う。止める。吐く。止める。間の挟み方を変えるたび、胸骨の裏の鐘が微かに揺れる。目を閉じると、粉の季節の残り香が、まぶたの裏で星のように舞った。

 翌朝。目覚ましの鳴る五分前に目が覚めた。空は、水色の下に乳白色が混じっている。曇りと晴れの境目が、窓の向こうで薄く揺れている。制服に腕を通し、鞄を肩にかけ、玄関の鍵をかける前に、靴紐を結び直した。結び目は家の外に持ち出さない。いつものルールを、今日も守る。

 教室には、誰もいない時間に入った。黒板の前、チョークの箱はまだしっかり閉じられている。空気は、昨日より乾いている。粉がよく浮く日だ。教壇に鞄を置き、日直日誌をそっと開く。ページは、昨夜の行を柔らかく抱きしめたまま、静かに白を保っている。約束の二分までに、まだ少しある。黒板の右下の角に目をやると、紙やすりの跡が滑らかに光った。篠原が整えた角だ。

 足音。ドアの金具が小さく鳴る音がして、ひとり入ってきた。篠原だった。左手にチョーク。右手で扉をそっと閉め、黒板に向かう。俺に気づいて、ほんの一瞬、目を上げる。目は上がるが、視線は落ちない。落ちないで、そのまま黒板へ戻る。

「おはよ」
 声を出すと、教室が少し明るくなった気がした。粉の粒が音に反応して、わずかに密度を変える。
「……おはよ」
 篠原の声は、昨日の紙の温度と同じだった。彼は左手を背中に隠すみたいにして、少し照れながら、黒板に向かう。右手でチョークを受け取り、左手は背中。いつもの逆。左手の癖を隠すと、人の体は微妙に姿勢を変える。骨盤の位置が、半歩右へ寄る。寄り方が、潔い。

 黒板には、もう、俺の名前の最初の一文字だけが、薄く書かれていた。粉の軌跡は、ためらいを残している。はっきり書いて、はっきり消した、痕跡。ヒント。見せるための、匿名。

 篠原は、その一文字の上に、余白を置くみたいに、チョークの先を静かに止めた。二分。時間の密度が上がる。彼は字を練習する姿勢のまま、小さく息を吸い、吐いた。吐くとき、肩甲骨の下がわずかに動いた。俺はひと呼吸遅れて、それを真似た。

「秘密練習か? かわいいことするな」
 背後から高城の声。彼は扉にもたれ、片手をポケットに入れ、片眉を上げて笑っていた。朝の光で、髪にチョークの粉が一本、細く残っているのが見える。いつ、どこで付いたのか、たぶん本人は気づいていない。気づいていない粉は、祝福みたいで、見ているだけで少し安心する。
「かわいいって言うな」と俺は反射で返し、すぐに肩の力が抜けた。匿名くんに向かって直接、届く声量で言う。「今日も、ページ、開けとく」
 篠原は小さく頷いた。頷いてから、黒板の一文字を、手のひらでそっと消した。粉が手相に沿って白く積もる。そのまま左手の甲で額を掻く仕草をし、彼は自分で「粉、ついた」と笑った。

 二分が終わり、教室の時間はいつもの速度に戻る。ざわめきが入り、椅子が引かれ、鞄が机に落ちる。廊下から、靴音が合唱のように流れ込む。俺はチョークの箱を開け、白を一本だけ抜いた。白は、新しいと、音が高い。黒板の右上隅に、小さな点を置き、すぐ消す。痕跡の練習。痕跡は、言葉より長持ちすることがある。

 ホームルーム。先生が配布物の確認をしている間、三浦が前の席から振り返った。「なあ、○○。朝、なんか、呼吸の筋肉ついた?」と、わけのわからない質問をする。
「どこにそんな筋肉がある」
「胸の、鐘の近く」
「やめろ、そういう表現は全部俺のものみたいに聞こえる」
「お前のものだろ」
「いや、皆のものだ」
「共有財産になってるの、さすがだな」
 彼は笑いながらも、目の奥で、俺の顔色を測っている。測る仕草はさりげなくて、測られていると気づかない人も多いだろう。俺は、気づいていると気づかせない練習を、ここ数週間でしてきた。

 一限目が始まる前、日直日誌を黒板の下に出す。ページは空白。余白が朝の光をよく吸う。余白の中に、今朝の粉の舞いが、まだうっすら漂っている気がする。俺は、鉛筆の先を紙の端に軽く当てた。音は出ない。音のない音が、紙の裏でゆっくり響く。

 ――

 席替え二日目の昼、俺は自分の新しい動線に少し慣れた。列と列の間を、「すみません」と頼ることなくすり抜ける角度を、体が覚える。覚えたての角度は、最初の数回だけ、やけに美しい。美しい間に、誰にも見られたくなかった。見られると、その美しさが定義されてしまうから。定義される前のやわらかさが、俺は好きだ。

 「今日の『い』、さらに伸びたな」
 匿名くんがページに書いたのは、午後の始まりだった。
 ――窓の光が強い日、縦棒は太る。遠さは太さに変換される。
 ――君の変換は、見ていて気持ちがいい。
 「変換」という語に、俺は少し照れた。照れを隠すのに使えるのは、紙の吸い込みだ。紙は、照れの温度をゆっくり吸い、薄く伸ばして、いつの間にか別の言葉に変えてくれる。
 ――君の観察は、救いに似てる。
 ――救い?
 ――“遠くなった”を、“伸びた”って言い換えてくれるから。

 返事は、すぐではなかった。三十分後、授業の隙間に落ちていた。
 ――君の言い換えも、救いだよ。
 ――“失敗した”を、“二拍遅れで届いた”にしてくれるから。
 紙を閉じて、俺は少し笑った。笑ってから、目を閉じた。閉じて、ゆっくり開いた。二拍で、笑いは届く。笑いは、液体だ。濃度は薄くていい。薄いほど、広がる。

 放課後。日直の作業をひととおり終えると、篠原が黒板の右下に、薄い水平線を一本、引いた。引いて、すぐ消す。消す前の線は、ためらいの短剣みたいに見えて、消した後は、痕跡の羽根みたいに見えた。
「席、慣れた?」
「半分」
「半分なら、もう半分は、すぐ」
「適当な励まし」
「適当の中に、当たりが混じる」
 彼は言いながら、イレイサーの面の四隅を指で整え、角を少し丸くした。丸い角は、削りに強い。落とすときの音も、柔らかい。

 帰り際、高城が扉のところで待っていた。「打ち合わせ。ステージの録音、先生がデータ欲しいって」
「司会の録音?」
「うん。お前の声、ちゃんと届いてた証拠」
「恥ずかしい」
「恥ずかしいの、若さの証明」
「年寄りみたいなこと言うな」
「俺は老成した若者」
「面倒くさい属性」
 笑いながら、ふたりで階段を降りる。一段飛ばしを一回だけして、すぐ普通に戻す。飛ばすと息が乱れる。乱れを隠すために、次の一段をゆっくり踏む。隣で高城が「息、整えるの上手い」と言った。「観察するな」と返すと、「観察は息の位置を直すためのもの」と、もっともらしく続けた。

 その夜。机の上に薄い音の雨。窓の外は降っていないのに、音は降ることがある。インクのキャップを閉める音、消しゴムの紙箱の角を撫でる音、ページをめくる音。それらの合奏。俺は日直日誌を開いた。白の真ん中に、昨夜よりもさらに大きめの文字が、真っ直ぐに置かれていた。

 ――君を見て書きたい。

 同じ一行。重ね書きではない。今日の字の圧と迷いのなさが、昨日より少しだけ増している。見る、と書く、の距離を、紙の上で縮めたい意志が、濃くなっている。俺は、芯を少し尖らせた。

 ――見る練習、続けよう。明日の朝も、二分。

 ――了解。練習メニュー、君が決めて。

 ――じゃ、今日の復習。黒板の前、チョーク一本ぶんの距離。左手は背中じゃなくて、机にそっと置く。目は俺に向けないで、黒板の“何もないところ”に向ける。何もないところで、名前の最初の一文字が呼吸するのを、待つ。

 ――難しい。けど、やる。

 ――難しい、許可。

 鉛筆の先で「許可」の丸を少し大きくした。許す、という行為は、いつも丸い。角に宿らない。角に宿るのは、注意と、頑固と、恐れ。丸に宿るのは、続けることの決心。

 同じ夜、ノートの端に小さく、インクが跳ねていた。
 ――(君の新しい席、好き)
 括弧内の告白は、紙の裏に沈む。沈んで、裏打ちになる。裏打ちのある紙は、強い。

 翌朝。教室に入る時間を、昨日よりさらに五分早める。二分の前後に、薄い余白を挟むためだ。余白は練習の助走になる。誰もいない教室で、黒板に向かう。粉は昨日より乾いている。乾いた粉は、軽く弾む。俺はチョークを一本取り、黒板の上に小さな点を置き、すぐ消した。痕跡の練習は、今日も必要だ。

 扉が静かに開き、篠原が入ってきた。今日は左手にチョークはない。右手に筆箱。左手は空で、指先がわずかに冷たそうに見える。彼は筆箱を教卓に置き、中から定規を出し、黒板に沿えて、線を引く準備をする。引かない。準備だけ。準備のための手の形が、いちばんきれいだと、俺は知っている。

「おはよ」
「……おはよ」
 彼は黒板のすこし上を見た。何も書かれていないところ。何もない場所には、空気の皺がある。皺を読む目つきに、俺は呼吸を合わせる。ふたりで、何もないところに、名前の最初の一文字の影を置く。置いて、見ない。見ないで、待つ。待つ二分。

 「朝から、熱心だな」
 背後の扉のところで、高城が欠伸混じりに言った。彼はパンの袋を片手にぶら下げ、もう片手でペットボトルを肩に載せている。肩の上のボトルが、すべって落ちないように、彼は首をほんの少し右に傾ける。傾け方が、毎回同じ角度だと気づく人は少ない。「秘密練習か? かわいいことするな」
「かわいいって言うな」
「言う。かわいいのは正義」
「語彙が小学生」
「小学生に失礼」
 彼は笑って、俺と篠原の間を邪魔しない距離を保ち、その距離からだけ見える黒板の角を一目で直した。「ここ、粉が立ってる」と言い、イレイサーで一撫でする。粉の立ち方まで見えるやつは、案外少ない。

 二分の終わり、篠原は黒板のほぼ中央に、ほんの小さな点を置いた。点は、名前の最初の一文字の、もっと前の、息の粒。俺はその点を見て、見えないふりをした。見えないふりの上に、本当の見えなさが落ちてくる瞬間を、待った。

 ホームルームが始まる。先生の声が、遠くから近くへ移動する。俺は席に座り、視界の高さを新しいまま受け入れる。黒板の文字がいつもより小さく見える日、俺のノートの文字は、ほんの少しだけ大きくなる。遠さは、大小に変換される。匿名くんの言葉どおりだ。

 ――

 昼休み、三浦が弁当の蓋を開けながら言う。「今日の○○、“距離の定規”、目盛り増えた?」
「どういう質問だ」
「だって、顔が“待てる顔”になってる」
「待てる顔?」
「うん。『今じゃなくていい』が、ちゃんと顔に出るやつ」
「それ、いいやつ?」
「いいやつ。周りの時間が安心する」
「詩的だな」
「晴れの日は辞書、曇りはハイブリッドって前に言ったろ。今日は晴れてるけど、お前が曇りだから、ハイブリッド」
「俺が曇り?」
「いい曇り。光、散らしてるから」
 彼は冗談めかして言いながら、俺の紙パックのストローの先を指で弾いた。弾かれたストローが小さく揺れ、戻る。戻る速度を見て、「今日の粘度はやや高め」と、勝手に評価をつける。

 窓の外では、運動部がグラウンドに集合している。白線が新しく引き直され、土の色が濃い。走る集団の手の振りが、列ごとにそろっていたり、ばらけていたりする。そのばらけを眺めていると、俺の内側のばらけが、少し整う。整いすぎないところで、止める。止めるのは、勇気がいる。進むより、止まるほうが、体力を使う。

 放課後、日直のペースで黒板を拭いていると、篠原が「消し、貸して」と言い、左手で受け取って、静かに水平線を引いた。線は、朝よりも少しだけ低い位置にある。低い位置の水平線は、安心させる。地平は近くにあるほうが、呼吸が整う。
「今日、君の『い』、縦棒、朝より細い」
「遠さに慣れた」
「慣れるの速い」
「救命胴衣、常備してるから」
「誰の」
「三浦」
「わかる」
 短い会話。短いのに、十分だった。長くすると壊れるものがある。短いから保てるやわらかさが、確かにある。

 帰り支度の途中で、高城が「録音のデータ、送った」とLINEを見せてくる。俺の声は確かに入っていた。思ったより低く、思ったより遠くまで届いている。届いていく途中で、ところどころ空気の密度が変わるのも分かる。密度の違う空気の中を通る声は、少し色が変わる。色の変化が嫌いじゃない自分に気づき、少し驚く。

 夜。机に向かい、日直日誌を開く。昨日と同じ位置に、一行が置かれているかと思いきや、今日はページの真ん中より、少し下に寄っていた。位置が変わると、意味もわずかに変わる。真ん中は宣言の場所。下は、祈りの場所。

 ――君を見て書きたい。

 同じ文なのに、今日のそれは、昨日より柔らかい。柔らかさは、力を抜いたのではなく、力の入れどころを覚えた柔らかさだ。俺は、短く息を吸い、吐いた。

 ――今日も二分、ありがとう。君の点、見えないふりをするのが、思ったより難しかった。

 ――見えないふり、うまかった。俺も、見ないふり、うまくなりたい。

 ――見ないふりは、やさしさの一種。でも、使いすぎると、卑怯になる。だから練習は、二分だけ。

 ――了解。二分、許可。

 ページの下辺に、俺はもうひとつ書き足した。

 ――明日の朝、もう一段。点じゃなくて、線の前の“呼吸”を置こう。線が生まれる前の、空気の皺。

 ――やってみる。

 点の前、線の前。名前の前。呼吸の前。前の前に目を凝らす練習は、書くことの正体に近づく練習だ。書くことは、結局のところ、見えないものを見えないまま受け入れて、線に変えること。匿名くんが「君を見て書きたい」と言ったとき、その見たいの対象は、きっと俺の輪郭だけではない。俺の前の前で、まだ言葉になっていない呼吸を、見ようとしている。その欲望は、怖い。でも、怖さの形を知っている怖さは、手に取れる。

 灯りを落とし、横になる。天井の平面を黒板に見立て、目を閉じる。今日、黒板の真ん中に置かれた小さな点と、朝消された一文字の痕跡と、篠原の左手の形、高城の肩の上のボトル、三浦のハイブリッド辞書――それらを、点として並べる。点は、自然につながる。線になった瞬間、呼吸が深くなる。深くなった呼吸に、眠りが乗る。眠りは、粉の粒を落ち着かせる。

 ――

 朝。三日目の二分。教室に先に入り、黒板の角を軽く撫でる。粉が少しだけ指に付く。指の白を、ズボンの脇でそっと落とす。音は出ない。出ない音が、今日の調子を教える。良い。

 扉が開き、篠原。今日は、左手にチョーク。右手は空。彼は黒板に向かい、何もない場所に、目を置いた。置いたまま二秒。二秒が、十秒に伸びる。時間は、見ているものの深さで伸びる。俺は、見ないふりを決めた目で、何もないところの皺を見た。皺の奥で、線がまだ生まれていない音がした。

「おはよ」
「……おはよ」
「今日も、ページ、開けとく」
 俺は、昨日より少しだけ大きな声で言った。教卓と黒板の間が、俺の声で満たされる。満たされて、すぐ空になる。空に戻る速度が、ちょうどいい。

 高城が扉のところで腕を伸ばした。「おはよう体操、一、二」と、勝手に始める。誰も続かないのに、彼は続ける。続けることそのものが、空気の使い方を教える。「なあ、○○」「ん?」「今日、放課後、司会の“オフ会”やるか」「オフ会って何する」「反省会と称して、アイス」「お前はいつもアイス」「アイスは人を平等にする」「なら、一本だけ」
 彼は「一本」という量の響きに満足したらしく、「了解」とだけ言って、廊下に消えた。

 日中、授業は淡々と進む。席が変わっても、公式は変わらない。変わらない公式を、違う席で学ぶ。それだけで、分数の線の太さが少し変わる。歴史の年号の桁の並びの見え方が、少し違う。違いは、学びの喜びの一部になる。

 昼、三浦がまた妙なことを言う。「今日のお前の『ありがとう』、一拍半だった」
「一拍半?」
「昨日が二拍。今日は短い。多分、朝の練習のせい」
「練習は、礼のテンポに影響する?」
「影響する。礼のテンポは、心拍のテンポ。心拍は呼吸で変わる」
「お前、医者か詩人かどっちかにしろ」
「ハイブリッド」
 俺は笑い、パンの袋を開ける。唐突にうまい、という三浦の言葉を思い出し、唐突にうまさが来るのを待った。来た。唐突なうまさは、たしかに心をほどく。うまさにほどかれているとき、人は過去形にならない。現在形の中に浮かぶ。

 放課後、日直日誌のページを開くと、今日の匿名くんは、長めの行を置いていた。

 ――君の新しい席だと、君の「、」の丸が、少し遅れて落ちる。落ちてから、余白がふくらむ。その余白が、俺の居場所になる。
 ――君を見て書きたい、と言ったのは、君の文字の形だけじゃない。君の余白を書きたい。
 ――余白は、君が君であることの、いちばん静かな証拠だと思うから。

 俺は読み終えて、しばらくページに手のひらを置いた。紙は、体温に追いつく。追いついたとき、紙は言葉の重さを引き受ける準備ができる。俺は、鉛筆で返した。

 ――じゃあ、俺は君の“ためらい”を書きたい。
 ――君が線を引く前に、指先で角を撫でる癖。
 ――言い切る前に、呼吸を一拍だけ飲み込む癖。
――“どういたしまして”を、半テンポ前に重ねる癖。
 ――それらの合計。

 合計、という語は、俺たちにとって、もう告白の同義語だ。合計は、救いでもある。個別の欠片は言い訳になるが、合計は言い訳を無効化する。

 ページを閉じる前、行の下にもう一つ、そっと線を引いた。長さはチョーク一本ぶん。距離の練習の印。線はすぐに消さなかった。消さないで、眺めた。眺められている線は、少し照れる。照れた線は、やさしくなる。

 ――

 席替えの週が終わる頃、教室の風の通り道は完全に更新されていた。廊下から入ってきた風は、俺の斜め後ろを通り、窓の隙間から外に戻る。その流れの途中に、俺のノートがあり、日直日誌があり、黒板がある。風は紙に触れ、紙は風の温度を記録する。温度は、文字の気圧に微細な変化を与える。

 「○○、次の係決めの集会、行く?」
 高城が訊く。「行く」「いい班、引き当てろ」「任せる」「俺は何もしない」「知ってる」
 彼は笑い、肩の上のボトルをまた載せ直した。載せる角度は、やはりいつもと同じだった。

「○○」
 次は篠原。教卓の脇で、イレイサーを持った左手を軽く上げる仕草。
「今朝の“呼吸”、よかった」
「ありがとう」
 俺の「ありがとう」は、一拍半。三浦の診断でいえば、今日のベストテンポだ。篠原は、無言でイレイサーの角を俺に見せた。角は丸い。丸い角は、使われた歴史を持つ。その歴史が、これからの線の行き先を少しやさしくする。

 家に帰る。靴紐を解き、結び直し、扉の鍵をかける。机に向かい、ページを開く。白は、今日も落ち着いている。匿名くんの行は、今日もまっすぐだ。

 ――君を見て書きたい。
 ――明日の朝も、二分。

 俺は、返す。

 ――開けとく。
 ――今日も、明日も。
 ――ここにいる。

 書いてから、二拍遅れて、心の中でもう一度言う。ここにいる。ずっと。
 ずっと、を、声にしない。しないで、紙に託す。紙は、託された「ずっと」を、耳に優しい速度で熟成させる。熟成した「ずっと」は、明日の呼吸の前に、ふわりと香る。香りがあると、線は迷わない。

 明日の二分に向けて、目を閉じる。粉の夜は、もう黒板から落ちきっているのに、指の腹ではまだ、星みたいに光る。光は弱い。弱い光は、長い。長い光の下で、俺は静かに、名前の最初の一文字の前の前を、呼んだ。

 ――ページは、開いている。
 匿名の君へ。
 今日も、ページ、開けとく。
 君を見て、書きたいと君が言うなら。
 俺は君を、見ないふりで支える。
 見ないふりで守った二分の余白の中に、
 君の線が生まれるのを、待っている。
 その線に、やがて俺の声が触れるまで。
 距離は、チョーク一本ぶん。
 でも、その一本の上に、
 俺たちは、今日も、ちゃんと乗っている。
 落ちずに。
 ぶれずに。
 静かに。
 やさしく。
 そして、少しだけ、切なく。
 名前になる前の、形のまま。