文化祭の朝は、いつもより教室の空気が薄かった。緊張が酸素を少し奪うのだ、と三浦が言った。冗談めかして、でもあながち冗談ではなく。
黒板アートの夜は、前日よりもさらに深く、教壇の上のランタンで粉の星がやわらかく彫り出されていた。俺の指の腹には、まだ粉の感触が残っている。水で落ちるはずのものが、皮膚の奥に一時的な居候をしているみたいに。
ステージ袖で台本を握った。紙は昨日よりも軽く、手汗を吸ってからやっと落ち着く。司会は二人。高城と俺だ。
「緊張すんなよ」と高城が言い、「緊張する役は俺が引き受ける」と付け足した。
「そんな役、配役表にあったか?」
「今日から増設。非常勤」
「給料は?」
「拍手で支給」
「デフレかよ」
自分でも驚くくらい、声は普通に出た。会話の中で、喉が勝手に準備運動をしていたのかもしれない。
幕が上がる前、客席を見渡す余裕はなかった。光の向こうは暗く、暗さは観客を一つの黒い湖にまとめる。湖面に向かって、俺は最初の言葉を落とした。
「本日はようこそ」
音がひと呼吸遅れて、波紋のように広がる。その少し遅い感じが、かえって安心させた。高城が軽妙に続ける。
「盛大に、でも規定時間内に、盛り上がっていきましょう」
笑いが起こり、俺は台本の『間』印を眼の端で確認する。昨日、匿名くんが「客席から君の『間』を守る」と書いた一行を思い出した。守られている気がしたからか、言葉と沈黙のつなぎ目が、今日はほころばない。
クラス企画の紹介、合唱部のステージ、漫才の二人は台詞を飛ばして客席を巻き込み、理科部は「シュワシュワ噴水」を成功させて白い歓声を上げた。
高城は、間違えた出順を自分の冗談でまるごと抱きとめる。「予定調和より美味しい事故もあります」と言って、客席を笑わせ、次の演者を滑らかに立たせる。あの人は、場の骨をさがすのが上手い。
俺は、言葉を数える。数えながら、数えたことを忘れる。忘れているふりをして、次の言葉を置く。置いた言葉の下に、黒い湖が支えに来る音がする。拍手は、波だ。起き、寄せ、引いていく。引いたあとに残る砂紋みたいな静けさに、胸がすっとする。
最後の「ご来場ありがとうございました」を置いた瞬間、膝の裏の力がほどけた。袖に戻ると、三浦が待っていて、俺の肩を二度叩く。
「お前、声、思ったより通るな」
「ほっとけ」
「褒めてんだよ。……“思ったより”は余計か」
「余計だ」
笑い合っていると、背後から「ナイス司会」と高城の声。いつもの軽さに、すこしだけ汗の塩味が混じっていた。
「お疲れ」と言われて、俺は二拍遅れて「ありがとう」を出した。高城は小さく頷いて、ペットボトルのスポーツドリンクを一本投げてくる。肩甲骨の下で一瞬息が止まり、それから受け取る。紙コップで飲む水より、ペットボトルの首の冷たさのほうが、現実に戻る力が強い。
問題は、その夜だった。
ステージを無事終えた安堵は、夕方まで続いた。撤収を手伝い、黒板アートの前で記念写真を何枚か撮られ、笑い、笑い疲れてから帰宅した。洗面所で指から粉を落とし、机に向かった。
日直日誌を開く。
ページは、白かった。
白い、という事実に、匂いがついた。紙の匂いではない。冷たい空気の匂い。何も書かれていないことが、こんなにも濃いと知ったのは初めてだ。
いつもの一言が、どこにも落ちていない。
余白が、余白のまま、こちらを見ている。
胸の奥に、焦りがゆっくりと立ち上がる。早く走る焦りではない。濡れた木の上に苔が広がるみたいな、静かで、しかし確かに広がる焦りだ。
鉛筆を持つ。何かを書いてしまえば、この白さは「返事待ち」の白に変わる気がした。だが、今日は書かなかった。白を白のまま置くことを、俺は初めて選んだ。何も書けなかった、と言い換えてもいい。
日曜は、文化祭二日目。俺は司会台本のフォローに回って高城の手の足りないところを埋め、三浦は足りない笑いを補った。
午後、隣のクラスでちょっとした騒ぎがあった。女子のひとりが、高城に告白したという。廊下を歩いていたら、向こうからその噂が風に乗ってやってきた。俺は噂に正面衝突しないように、廊下の端を歩いた。
階段の踊り場の手前で、あの声が聞こえた。
「ごめん、誰か好きな奴いるから」
声量は控えめで、言い方はやさしく、言葉は簡単で、でもはっきりしていた。
胸が勝手に騒いだ。胸という器官は、よく躾けないとすぐ騒ぐ。躾ける方法は知らない。
振り返らなかった。振り返って確かめるのは、今日の俺の仕事ではない。仕事はもう終わっているはずなのに、俺は勝手に自分に任務を課した。任務の名前は「見ない」。見ない練習は、呼吸のかたちを守る。
それでも、夜になると、胸の騒音は弱まらなかった。
日曜の夜、日直日誌をもう一度開く。
白い。
白いことに慣れるには、二晩では足りない。
紙の白は、黙っている。黙っている相手の顔は見えない。見えない顔に勝手な表情を足してしまうのは、卑怯だ。
俺はページを閉じて、明日の朝に持ち越した。
月曜。
ホームルームが終わると、俺はいつもより早く教卓に立つ。黒板の粉は、週末の湿り気を忘れかけている。
日直日誌を開き、鉛筆を持つ。指の熱が芯に移る。
――今日、いなかった?
書いてすぐ、胸の奥がひとつ沈んだ。落とした石の重みで、湖面はやや静かになった。
席に戻るとすぐ、教卓に誰かが寄った気配がした。目を上げない。
休み時間の終わり、ページを見ると、一行だけ、インクが落ちていた。
――まだ、いる。
たった四文字で、呼吸が戻る。戻るが、落ち着かない。息はときどき、まだ段差に躓いた。
それっきり、二日間、ページは白い沈黙を続けた。
二日間という単位は、短い。だが、沈黙の二日は、普段の五日に匹敵する。時間の単位は、内容で重くなる。
一日目の昼、三浦が俺の机に片足をぶつけてから、わざとらしく謝った。
「おっと失礼。机くん、ごめんなさい」
「机に謝るな」
「机は謝られたい」
「どういう理論だ」
彼は机に話しかけるふりをしてから、俺に視線を戻す。
「なあ、○○」
「ん」
「お前、最近、“日直のノート”のとこだけ速度違うぞ」
「違わない」
「違う。言葉が一瞬、そこで躓く。……何かあったら言えよ」
声の色に、冗談が少なかった。俺は、冗談で返すのをやめた。
「ありがとな」
二拍遅れで言う。三浦は「おそ」と笑って、牛乳の口を拭いた。
「遅い“ありがとう”は、今日も効く」
二日目、教室では、別のざわめきがまだ続いていた。高城の噂は燃料が多く、ちょっとやそっとでは鎮火しない。「誰だろうね、好きな奴」「知ってた気がする」「嘘、あの人に?」みたいな声が、廊下の空気の温度を上げている。
高城本人は、いつもどおり振る舞っていた。いつもどおりの軽さの中に、いつもどおりの丁寧さが見えた。軽さは、丁寧さに守られると人を傷つけない。
昼休み、高城は俺の机の角を指で軽く叩いた。
「昨日、お疲れ。……例の話、聞いたか?」
「ちょっとだけ」
「誰か好きな奴いるから、って言った」
「うん」
「その“誰か”が、どっかの廊下で勝手に膝、笑ってないといいけどな」
彼は冗談めかして言い、すぐに話題を変えた。「文化祭打ち上げ、アイスな。俺、バニラ」「俺は?」
「ココア味があれば」
「アイスにココア味ってあったか?」
「作らせる」
強引な冗談に救われて、俺は笑い、笑いながら、自分の胸の騒音の音量を少し下げた。
放課後。
黒板の前で、篠原がイレイサーを静かに動かしていた。左手の甲に、白い粉がうっすらと付いている。その粉を彼は落とさない。落とさないで、線をもう一度撫でる。粉は“残す”という決断で、質感を変える。
俺が教卓の側で日直日誌を開いたとき、篠原はこっちを見た。見た、と断言するのはずるい。目が一瞬動いた、とだけ言うのが正確だ。その一瞬に、迷う指先の気配があった。彼はノートを手に持ち、ほんの一歩、こちらへ寄りかけて、やめた。
やめるのも、寄るのも、どちらも誠実だ。どちらを選んでも誰かが傷つく状況があるなら、選ばずにいる勇気というものが必要になる。俺は、その勇気の形をまだ知らない。
夜になって、ページの端に薄い跡が浮かんだ。インクが紙の繊維をほんの少し濡らしただけの、かろうじて読める濃度で。
――ごめん。君に、向き合いたくなったから、言葉が追いつかない。
文の途中の息の切れ方が、書いた指の温度を連れてくる。向き合う。向き合う相手に、言葉が追いつかない。
たぶん今日、彼は言葉の重さを、実際の重りみたいに持ってしまったのだろう。持ち上げようとして、しばらく手の中で転がし、落とすのが 怖くなった。
不器用さは、俺を落ち着かせた。不安は具体の形を持つと、少しずつ小さくなる。
俺は、初めて先回りで書いた。
――急がない。ここにいる。ずっと。
「ずっと」という副詞は、紙の上だと嘘っぽくなりやすい。だから、俺は小さく書いた。小さく、しかし筆圧はいつもよりほんの気持ち強く。紙の下にいる誰かの肩に、そっと手を置くイメージで。
火曜の朝。
沈黙の気圧は下がっていた。白はまだ白だが、白の中に微かな線の予兆がある。紙の繊維が、それ自体、細い文字列なのだと気づく。言葉がなくても、紙には目盛りがある。目盛りは、読むことをやめたときに見える。
授業の合間、三浦がふいに歌った。「しーずかなこはんのもりのかげからー」。
「うるさい」
「静けさの定義を提出しろ」
「沈黙と静寂の違いは?」
「沈黙は“我慢してる口”。静寂は“許された耳”」
「お前の辞書は詩人寄りがすぎる」
「雨の日は詩で、晴れの日は辞書。今日は曇り。ハイブリッド」
笑いながら、俺は机の上で鉛筆をくるりと回した。芯の黒が、爪の側面をほんの少し汚す。汚れは簡単に落ちる。落ちないのは、焦りだ。焦りは、指の内側に巣を作る。
昼過ぎ、高城が廊下ですれ違いざま、俺の肩に軽く拳を乗せた。「大丈夫か?」
「何が?」
「顔色。……ま、いっか。大丈夫じゃなくても、だいたい大丈夫になる」
「無責任に聞こえるけど、慰めになるのがずるい」
「ずるいの、許可」
「許可制やめろ」
会話の最後、俺は笑っていた。笑う前に一秒の間を置き、その一秒に今日の沈黙の重さをすこしだけ沈めた。
放課後、窓の外の雲がほどけ、夕方の光が教室の床の線をなぞった。
日直日誌を開く。
白。
白の上に、小さい音の粒みたいな点が、一つだけ置かれていた。
点は、たぶん言いかけの屑だ。言いかけたを残す、勇気。
俺は点の横に、「……聞いてる」と書いた。
そしてページを閉じる。閉じた厚みの向こうで、インクが遅れて紙に染む。
夜。
机の上に肘を置き、暗くした部屋で、黒板アートの写真を見返した。夜の絵の前に立つクラスメイトの顔は、ライトの都合で半分影になっている。影になっている顔のほうが、なぜか楽しそうに見える瞬間がある。光を受け取っていないほうが、自由な顔があるのだと思う。
匿名の君は、いまどの辺にいるのか。紙の裏側か、窓の反射の向こうか、校舎裏の細い通路か。場所が確定しないほうが、気持ちは楽だ。確定した途端、期待は計測可能になる。数えられる期待は、増減で騒ぎがちだ。
目を閉じる。耳の奥で、拍手の波の残響が遠く鳴る。
拍手は終わったのに、まだ、いる。
あの一行の力は、予想よりも長く効いた。
――まだ、いる。
短い文は未来の約束にならない。けれど、今の居場所の告白にはなる。
今に居てくれることは、未来の小さな骨になる。骨は、折れないように育つ。
水曜。
沈黙三日目。
黒板の粉は乾ききって、布を滑らせるだけで簡単に落ちた。晴れの日の粉は、機嫌がいい。
午前の授業と授業の間に、高城が掲示板の前で「司会組お疲れシール」を剥がしていた。手首の動きが鷹みたいに速い。「鷹」と思った一秒の後に、「高城」という名前の中の「高」の字に鳥の姿がちらっと見えて、少し笑った。
彼は俺の笑いの端を拾って、眉を上げる。「何」
「いや」
「いや、ってやつが一番気になるけど、追わない。……追わない勇気、今日マスターした」
「どこで講座受けたの」
「廊下の風が先生」
軽さの奥の丁寧さ。たぶん彼は、噂の中心で、追われたり追ったりしない姿勢を、今日、一段覚えたのだ。
放課後、篠原がノートを手に持ったまま、教卓の横で立ち止まっていた。
迷う指先。
迷う指先は、言葉の手前にある。
俺は口を開きかけ、閉じた。見ない練習の延長で、言わない練習も身につき始めている。
その晩、ページの端に、薄い跡がもう一つ増えた。
――(言葉を探している)
括弧で囲まれた、文字にならない文字。
俺は、その横に、
――(待ってる)
と返した。
木曜の朝、教卓に立ったとき、窓の反射で、俺と誰かの影が少し重なった。重なってから、自然に離れる。離れるとき、痛みはなかった。痛みがないことに罪悪感を覚えるのは、こういうときだ。痛みのない離脱を許せば、鈍くなる気がする。だが、鈍さは、時にやさしさの別名だ。
「○○、黒板の角、直しといた」と篠原。
「え?」
「昨日ささくれてたところ。紙やすり、借りた」
「ありがとう」
二拍遅れる「ありがとう」を言い切る前に、彼は「どういたしまして」をほんの少しだけ早めのテンポで重ねた。テンポのずれが、二人の間の気圧を整える。
日直日誌を開くと、白の真ん中に、やっと線が一本走っていた。
――君の字の「よ」の尾、昨日よりも長い。遠くまで届く準備だ。
それだけ。
でも十分だった。
紙に落ちた短い行は、沈黙の蓋を少しだけずらす。蓋と器の間に隙間ができて、湯気が一筋、抜ける。
俺は返した。
――準備、してる。
――急がない。
――ここにいる。
――ずっと。
「ずっと」を、もう一度書く。昨日よりも、さらに小さく。小さい字は、長持ちする。
金曜。
沈黙の週は終わりに近づく。終わり方は人が決められない。終わりは、たいてい向こうから来る。向こうから来た終わりに、正しい椅子を用意しておくのが、こちらの礼儀だ。
昼休み、三浦が「打ち上げ、アイス集合」と手を振る。「バニラ?」
「俺はソーダフロート」
「浮かれすぎ」
「浮かぶものは浮かべ。沈むものは沈め。バランス」
俺たちは購買の脇のベンチで、アイスを齧った。棒の裏面に『当たり』の文字が出て、周囲が小さく拍手した。拍手は波だ。小さい波は、平日の午後に似合う。
高城が遠くからこちらを見て、指を一本立てて「おかわり」のジェスチャーをする。俺は首を横に振った。今日の甘さは一つでいい。
夕方、教室に戻ると、日直日誌のページは開かれていて、端がわずかに持ち上がっていた。
最後のコマのチャイムが鳴り終わる頃、インクの線がすべり込む。
――待たせた。
――まだ、いる。
――ここにいる。
行が三つ。
俺は、鉛筆の先で紙の繊維を二度撫で、「おかえり」と書きかけてやめた。
「ただいま」を言われていない。「おかえり」は、言ってはいけない気がした。
代わりに、
――一緒にいる。
と書いた。
「一緒」は、なぜか今日だけ、紙の上で綺麗に立った。
ページを閉じる。閉じる音が、長く尾を引いた。
その夜、窓の外では、風が旗を鳴らした。旗の音は、黒板の粉がランタンで照らされたときのかすかなざわめきに似ている。
眠る前、俺は自分の胸骨の裏の鐘を、そっと指でなぞった。鐘は鳴らない。鳴らないことが安心になる夜もある。
「まだ、いる」
この一行が、今週の白いページの真ん中で、しずかに光っていた。光は強くない。強い光は疲れる。
弱い光は、長く続く。
長く続く光のほうを、俺は好む。
好むと言えるようになったのは、たぶん、粉の季節のおかげだ。
粉は残る。
残るものは、次の線の道案内になる。
明日、またノートを開く。
開く前に、黒板を撫でる。
撫でる前に、息を一拍止める。
止めた息を、紙の上に渡す。
渡したあとで、呼吸を取り戻す。
呼吸の音に、「まだ、いる」が重なる。
沈黙のページは、沈黙のままではなくなった。
言葉の前の無言が、今日から少しだけ、やさしくなった。
やさしい無言は、待てる。
待てることは、強さの名前だ。
俺は、その強さを、粉でうっすら白くなる指で、ひとつだけ掴んだ気がした。
掴んだものの名前は、まだ書かない。
書かないことにも、今日は意味がある。
そして、眠りの前に、日直日誌の端に指を置いて、目を閉じた。
――急がない。ここにいる。ずっと。
言葉は、既にある。
あとは、置く場所を間違えないこと。
それだけを胸に、灯りを落とした。
黒板アートの夜は、前日よりもさらに深く、教壇の上のランタンで粉の星がやわらかく彫り出されていた。俺の指の腹には、まだ粉の感触が残っている。水で落ちるはずのものが、皮膚の奥に一時的な居候をしているみたいに。
ステージ袖で台本を握った。紙は昨日よりも軽く、手汗を吸ってからやっと落ち着く。司会は二人。高城と俺だ。
「緊張すんなよ」と高城が言い、「緊張する役は俺が引き受ける」と付け足した。
「そんな役、配役表にあったか?」
「今日から増設。非常勤」
「給料は?」
「拍手で支給」
「デフレかよ」
自分でも驚くくらい、声は普通に出た。会話の中で、喉が勝手に準備運動をしていたのかもしれない。
幕が上がる前、客席を見渡す余裕はなかった。光の向こうは暗く、暗さは観客を一つの黒い湖にまとめる。湖面に向かって、俺は最初の言葉を落とした。
「本日はようこそ」
音がひと呼吸遅れて、波紋のように広がる。その少し遅い感じが、かえって安心させた。高城が軽妙に続ける。
「盛大に、でも規定時間内に、盛り上がっていきましょう」
笑いが起こり、俺は台本の『間』印を眼の端で確認する。昨日、匿名くんが「客席から君の『間』を守る」と書いた一行を思い出した。守られている気がしたからか、言葉と沈黙のつなぎ目が、今日はほころばない。
クラス企画の紹介、合唱部のステージ、漫才の二人は台詞を飛ばして客席を巻き込み、理科部は「シュワシュワ噴水」を成功させて白い歓声を上げた。
高城は、間違えた出順を自分の冗談でまるごと抱きとめる。「予定調和より美味しい事故もあります」と言って、客席を笑わせ、次の演者を滑らかに立たせる。あの人は、場の骨をさがすのが上手い。
俺は、言葉を数える。数えながら、数えたことを忘れる。忘れているふりをして、次の言葉を置く。置いた言葉の下に、黒い湖が支えに来る音がする。拍手は、波だ。起き、寄せ、引いていく。引いたあとに残る砂紋みたいな静けさに、胸がすっとする。
最後の「ご来場ありがとうございました」を置いた瞬間、膝の裏の力がほどけた。袖に戻ると、三浦が待っていて、俺の肩を二度叩く。
「お前、声、思ったより通るな」
「ほっとけ」
「褒めてんだよ。……“思ったより”は余計か」
「余計だ」
笑い合っていると、背後から「ナイス司会」と高城の声。いつもの軽さに、すこしだけ汗の塩味が混じっていた。
「お疲れ」と言われて、俺は二拍遅れて「ありがとう」を出した。高城は小さく頷いて、ペットボトルのスポーツドリンクを一本投げてくる。肩甲骨の下で一瞬息が止まり、それから受け取る。紙コップで飲む水より、ペットボトルの首の冷たさのほうが、現実に戻る力が強い。
問題は、その夜だった。
ステージを無事終えた安堵は、夕方まで続いた。撤収を手伝い、黒板アートの前で記念写真を何枚か撮られ、笑い、笑い疲れてから帰宅した。洗面所で指から粉を落とし、机に向かった。
日直日誌を開く。
ページは、白かった。
白い、という事実に、匂いがついた。紙の匂いではない。冷たい空気の匂い。何も書かれていないことが、こんなにも濃いと知ったのは初めてだ。
いつもの一言が、どこにも落ちていない。
余白が、余白のまま、こちらを見ている。
胸の奥に、焦りがゆっくりと立ち上がる。早く走る焦りではない。濡れた木の上に苔が広がるみたいな、静かで、しかし確かに広がる焦りだ。
鉛筆を持つ。何かを書いてしまえば、この白さは「返事待ち」の白に変わる気がした。だが、今日は書かなかった。白を白のまま置くことを、俺は初めて選んだ。何も書けなかった、と言い換えてもいい。
日曜は、文化祭二日目。俺は司会台本のフォローに回って高城の手の足りないところを埋め、三浦は足りない笑いを補った。
午後、隣のクラスでちょっとした騒ぎがあった。女子のひとりが、高城に告白したという。廊下を歩いていたら、向こうからその噂が風に乗ってやってきた。俺は噂に正面衝突しないように、廊下の端を歩いた。
階段の踊り場の手前で、あの声が聞こえた。
「ごめん、誰か好きな奴いるから」
声量は控えめで、言い方はやさしく、言葉は簡単で、でもはっきりしていた。
胸が勝手に騒いだ。胸という器官は、よく躾けないとすぐ騒ぐ。躾ける方法は知らない。
振り返らなかった。振り返って確かめるのは、今日の俺の仕事ではない。仕事はもう終わっているはずなのに、俺は勝手に自分に任務を課した。任務の名前は「見ない」。見ない練習は、呼吸のかたちを守る。
それでも、夜になると、胸の騒音は弱まらなかった。
日曜の夜、日直日誌をもう一度開く。
白い。
白いことに慣れるには、二晩では足りない。
紙の白は、黙っている。黙っている相手の顔は見えない。見えない顔に勝手な表情を足してしまうのは、卑怯だ。
俺はページを閉じて、明日の朝に持ち越した。
月曜。
ホームルームが終わると、俺はいつもより早く教卓に立つ。黒板の粉は、週末の湿り気を忘れかけている。
日直日誌を開き、鉛筆を持つ。指の熱が芯に移る。
――今日、いなかった?
書いてすぐ、胸の奥がひとつ沈んだ。落とした石の重みで、湖面はやや静かになった。
席に戻るとすぐ、教卓に誰かが寄った気配がした。目を上げない。
休み時間の終わり、ページを見ると、一行だけ、インクが落ちていた。
――まだ、いる。
たった四文字で、呼吸が戻る。戻るが、落ち着かない。息はときどき、まだ段差に躓いた。
それっきり、二日間、ページは白い沈黙を続けた。
二日間という単位は、短い。だが、沈黙の二日は、普段の五日に匹敵する。時間の単位は、内容で重くなる。
一日目の昼、三浦が俺の机に片足をぶつけてから、わざとらしく謝った。
「おっと失礼。机くん、ごめんなさい」
「机に謝るな」
「机は謝られたい」
「どういう理論だ」
彼は机に話しかけるふりをしてから、俺に視線を戻す。
「なあ、○○」
「ん」
「お前、最近、“日直のノート”のとこだけ速度違うぞ」
「違わない」
「違う。言葉が一瞬、そこで躓く。……何かあったら言えよ」
声の色に、冗談が少なかった。俺は、冗談で返すのをやめた。
「ありがとな」
二拍遅れで言う。三浦は「おそ」と笑って、牛乳の口を拭いた。
「遅い“ありがとう”は、今日も効く」
二日目、教室では、別のざわめきがまだ続いていた。高城の噂は燃料が多く、ちょっとやそっとでは鎮火しない。「誰だろうね、好きな奴」「知ってた気がする」「嘘、あの人に?」みたいな声が、廊下の空気の温度を上げている。
高城本人は、いつもどおり振る舞っていた。いつもどおりの軽さの中に、いつもどおりの丁寧さが見えた。軽さは、丁寧さに守られると人を傷つけない。
昼休み、高城は俺の机の角を指で軽く叩いた。
「昨日、お疲れ。……例の話、聞いたか?」
「ちょっとだけ」
「誰か好きな奴いるから、って言った」
「うん」
「その“誰か”が、どっかの廊下で勝手に膝、笑ってないといいけどな」
彼は冗談めかして言い、すぐに話題を変えた。「文化祭打ち上げ、アイスな。俺、バニラ」「俺は?」
「ココア味があれば」
「アイスにココア味ってあったか?」
「作らせる」
強引な冗談に救われて、俺は笑い、笑いながら、自分の胸の騒音の音量を少し下げた。
放課後。
黒板の前で、篠原がイレイサーを静かに動かしていた。左手の甲に、白い粉がうっすらと付いている。その粉を彼は落とさない。落とさないで、線をもう一度撫でる。粉は“残す”という決断で、質感を変える。
俺が教卓の側で日直日誌を開いたとき、篠原はこっちを見た。見た、と断言するのはずるい。目が一瞬動いた、とだけ言うのが正確だ。その一瞬に、迷う指先の気配があった。彼はノートを手に持ち、ほんの一歩、こちらへ寄りかけて、やめた。
やめるのも、寄るのも、どちらも誠実だ。どちらを選んでも誰かが傷つく状況があるなら、選ばずにいる勇気というものが必要になる。俺は、その勇気の形をまだ知らない。
夜になって、ページの端に薄い跡が浮かんだ。インクが紙の繊維をほんの少し濡らしただけの、かろうじて読める濃度で。
――ごめん。君に、向き合いたくなったから、言葉が追いつかない。
文の途中の息の切れ方が、書いた指の温度を連れてくる。向き合う。向き合う相手に、言葉が追いつかない。
たぶん今日、彼は言葉の重さを、実際の重りみたいに持ってしまったのだろう。持ち上げようとして、しばらく手の中で転がし、落とすのが 怖くなった。
不器用さは、俺を落ち着かせた。不安は具体の形を持つと、少しずつ小さくなる。
俺は、初めて先回りで書いた。
――急がない。ここにいる。ずっと。
「ずっと」という副詞は、紙の上だと嘘っぽくなりやすい。だから、俺は小さく書いた。小さく、しかし筆圧はいつもよりほんの気持ち強く。紙の下にいる誰かの肩に、そっと手を置くイメージで。
火曜の朝。
沈黙の気圧は下がっていた。白はまだ白だが、白の中に微かな線の予兆がある。紙の繊維が、それ自体、細い文字列なのだと気づく。言葉がなくても、紙には目盛りがある。目盛りは、読むことをやめたときに見える。
授業の合間、三浦がふいに歌った。「しーずかなこはんのもりのかげからー」。
「うるさい」
「静けさの定義を提出しろ」
「沈黙と静寂の違いは?」
「沈黙は“我慢してる口”。静寂は“許された耳”」
「お前の辞書は詩人寄りがすぎる」
「雨の日は詩で、晴れの日は辞書。今日は曇り。ハイブリッド」
笑いながら、俺は机の上で鉛筆をくるりと回した。芯の黒が、爪の側面をほんの少し汚す。汚れは簡単に落ちる。落ちないのは、焦りだ。焦りは、指の内側に巣を作る。
昼過ぎ、高城が廊下ですれ違いざま、俺の肩に軽く拳を乗せた。「大丈夫か?」
「何が?」
「顔色。……ま、いっか。大丈夫じゃなくても、だいたい大丈夫になる」
「無責任に聞こえるけど、慰めになるのがずるい」
「ずるいの、許可」
「許可制やめろ」
会話の最後、俺は笑っていた。笑う前に一秒の間を置き、その一秒に今日の沈黙の重さをすこしだけ沈めた。
放課後、窓の外の雲がほどけ、夕方の光が教室の床の線をなぞった。
日直日誌を開く。
白。
白の上に、小さい音の粒みたいな点が、一つだけ置かれていた。
点は、たぶん言いかけの屑だ。言いかけたを残す、勇気。
俺は点の横に、「……聞いてる」と書いた。
そしてページを閉じる。閉じた厚みの向こうで、インクが遅れて紙に染む。
夜。
机の上に肘を置き、暗くした部屋で、黒板アートの写真を見返した。夜の絵の前に立つクラスメイトの顔は、ライトの都合で半分影になっている。影になっている顔のほうが、なぜか楽しそうに見える瞬間がある。光を受け取っていないほうが、自由な顔があるのだと思う。
匿名の君は、いまどの辺にいるのか。紙の裏側か、窓の反射の向こうか、校舎裏の細い通路か。場所が確定しないほうが、気持ちは楽だ。確定した途端、期待は計測可能になる。数えられる期待は、増減で騒ぎがちだ。
目を閉じる。耳の奥で、拍手の波の残響が遠く鳴る。
拍手は終わったのに、まだ、いる。
あの一行の力は、予想よりも長く効いた。
――まだ、いる。
短い文は未来の約束にならない。けれど、今の居場所の告白にはなる。
今に居てくれることは、未来の小さな骨になる。骨は、折れないように育つ。
水曜。
沈黙三日目。
黒板の粉は乾ききって、布を滑らせるだけで簡単に落ちた。晴れの日の粉は、機嫌がいい。
午前の授業と授業の間に、高城が掲示板の前で「司会組お疲れシール」を剥がしていた。手首の動きが鷹みたいに速い。「鷹」と思った一秒の後に、「高城」という名前の中の「高」の字に鳥の姿がちらっと見えて、少し笑った。
彼は俺の笑いの端を拾って、眉を上げる。「何」
「いや」
「いや、ってやつが一番気になるけど、追わない。……追わない勇気、今日マスターした」
「どこで講座受けたの」
「廊下の風が先生」
軽さの奥の丁寧さ。たぶん彼は、噂の中心で、追われたり追ったりしない姿勢を、今日、一段覚えたのだ。
放課後、篠原がノートを手に持ったまま、教卓の横で立ち止まっていた。
迷う指先。
迷う指先は、言葉の手前にある。
俺は口を開きかけ、閉じた。見ない練習の延長で、言わない練習も身につき始めている。
その晩、ページの端に、薄い跡がもう一つ増えた。
――(言葉を探している)
括弧で囲まれた、文字にならない文字。
俺は、その横に、
――(待ってる)
と返した。
木曜の朝、教卓に立ったとき、窓の反射で、俺と誰かの影が少し重なった。重なってから、自然に離れる。離れるとき、痛みはなかった。痛みがないことに罪悪感を覚えるのは、こういうときだ。痛みのない離脱を許せば、鈍くなる気がする。だが、鈍さは、時にやさしさの別名だ。
「○○、黒板の角、直しといた」と篠原。
「え?」
「昨日ささくれてたところ。紙やすり、借りた」
「ありがとう」
二拍遅れる「ありがとう」を言い切る前に、彼は「どういたしまして」をほんの少しだけ早めのテンポで重ねた。テンポのずれが、二人の間の気圧を整える。
日直日誌を開くと、白の真ん中に、やっと線が一本走っていた。
――君の字の「よ」の尾、昨日よりも長い。遠くまで届く準備だ。
それだけ。
でも十分だった。
紙に落ちた短い行は、沈黙の蓋を少しだけずらす。蓋と器の間に隙間ができて、湯気が一筋、抜ける。
俺は返した。
――準備、してる。
――急がない。
――ここにいる。
――ずっと。
「ずっと」を、もう一度書く。昨日よりも、さらに小さく。小さい字は、長持ちする。
金曜。
沈黙の週は終わりに近づく。終わり方は人が決められない。終わりは、たいてい向こうから来る。向こうから来た終わりに、正しい椅子を用意しておくのが、こちらの礼儀だ。
昼休み、三浦が「打ち上げ、アイス集合」と手を振る。「バニラ?」
「俺はソーダフロート」
「浮かれすぎ」
「浮かぶものは浮かべ。沈むものは沈め。バランス」
俺たちは購買の脇のベンチで、アイスを齧った。棒の裏面に『当たり』の文字が出て、周囲が小さく拍手した。拍手は波だ。小さい波は、平日の午後に似合う。
高城が遠くからこちらを見て、指を一本立てて「おかわり」のジェスチャーをする。俺は首を横に振った。今日の甘さは一つでいい。
夕方、教室に戻ると、日直日誌のページは開かれていて、端がわずかに持ち上がっていた。
最後のコマのチャイムが鳴り終わる頃、インクの線がすべり込む。
――待たせた。
――まだ、いる。
――ここにいる。
行が三つ。
俺は、鉛筆の先で紙の繊維を二度撫で、「おかえり」と書きかけてやめた。
「ただいま」を言われていない。「おかえり」は、言ってはいけない気がした。
代わりに、
――一緒にいる。
と書いた。
「一緒」は、なぜか今日だけ、紙の上で綺麗に立った。
ページを閉じる。閉じる音が、長く尾を引いた。
その夜、窓の外では、風が旗を鳴らした。旗の音は、黒板の粉がランタンで照らされたときのかすかなざわめきに似ている。
眠る前、俺は自分の胸骨の裏の鐘を、そっと指でなぞった。鐘は鳴らない。鳴らないことが安心になる夜もある。
「まだ、いる」
この一行が、今週の白いページの真ん中で、しずかに光っていた。光は強くない。強い光は疲れる。
弱い光は、長く続く。
長く続く光のほうを、俺は好む。
好むと言えるようになったのは、たぶん、粉の季節のおかげだ。
粉は残る。
残るものは、次の線の道案内になる。
明日、またノートを開く。
開く前に、黒板を撫でる。
撫でる前に、息を一拍止める。
止めた息を、紙の上に渡す。
渡したあとで、呼吸を取り戻す。
呼吸の音に、「まだ、いる」が重なる。
沈黙のページは、沈黙のままではなくなった。
言葉の前の無言が、今日から少しだけ、やさしくなった。
やさしい無言は、待てる。
待てることは、強さの名前だ。
俺は、その強さを、粉でうっすら白くなる指で、ひとつだけ掴んだ気がした。
掴んだものの名前は、まだ書かない。
書かないことにも、今日は意味がある。
そして、眠りの前に、日直日誌の端に指を置いて、目を閉じた。
――急がない。ここにいる。ずっと。
言葉は、既にある。
あとは、置く場所を間違えないこと。
それだけを胸に、灯りを落とした。



