文化祭の準備は、いつだって教室の時間を別の季節に変える。時間割のコマはそのままなのに、放課後が伸び、チャイムが遠くなる。机を後ろに寄せ、養生テープで床の線を決め、段ボールの山が廊下に積み上がる。匂いは、糊と紙と段ボールと汗。そこに、俺の担当だけは、もうひとつ――チョークの粉の甘い匂いが混ざる。
「文字の装飾は○○に任せよう」と先生が軽く言ったとき、クラスの何人かが「やった」「安心」と口にした。たぶん、俺の字の背筋が、写真の下で姿勢を良くすると、誰かがどこかで言ったからだ。任されるのは嫌いじゃない。責任がある仕事は、手の温度で答えが出る。上から下、左から右。線の端を撫でて、粉を落とす。俺の答えは、たいてい、粉の上に降りる。
前日の帰りの会議で、黒板アートのテーマは「夜」に決まっていた。昼の教室に夜を呼ぶ。黒板は夜を得意とする。黒に白を置くのは、空を相手に星を書くのに似ている。俺はチョークの箱を開け、白、薄い青、さらに薄い青、銀に近い灰を選ぶ。彩度の勝ちすぎは夜を壊す。粉のさざなみだけで、夜はできる。
篠原が真横に立って、定規で最初の骨格を引く。長い水平線が、黒板の真ん中を一本通る。「ここが地平線」という声は要らない。線がそれを言っている。線の前で、言葉はひとつ後列に下がるべきだと、彼の腕が教える。
高城は人を集める係だ。「おーい、星描けるやつ」「いや、俺、三角なら得意」「星は三角の集まりだろ」「理屈が飛躍してる」と笑い声を撒きながら、使える手を黒板の前に持ってくる。賑やかさの手綱を締める役を、彼は知っている。弛めるときと締めるときの力の配分が上手い。
三浦は音楽をかける。スマホから落ちるビートは、黒板の縁でわずかに跳ね、粉の中に埋まる。「雰囲気作り」「場の湿度を一定に保つのが俺の仕事」と彼は真顔で言い、笑ってすぐ照れを中和する。
放課後が夜の入口に変わる境目で、俺は日直日誌のページを一度開いた。紙は乾いていて、昼より軽くなっている。余白が、夜を迎える準備みたいに呼吸を深くする。そこに、匿名くんの文字が、音もなく現れていた。
――君の字で、俺の名前を呼んでほしい。いつか。
見なかったふりをするには、白が強すぎた。黒板の黒より、紙の白が先に目に刺さる。指先がすこし汗ばむ。俺は鉛筆を持ったが、すぐには置かない。言葉を出す前に、胸の裏で一度、鐘を鳴らす。鐘の余韻の長さが、返事の長さだ。
――呼ぶ前に、聞きたい。君は俺の何が好き?
返事は、思っているより早く落ちた。インクの線が、粉の粒子みたいに細かく震える。
――「好き」の前にある無言。黒板を消して振り返るまでの1秒。ノートをめくる親指の乾き。「、」の丸。授業中に机の下で指を組む癖。――それらの合計。
合計、という言い方に、俺は逃げ場を失った。個別の部品なら冗談にする余地がある。合計と呼ばれた途端、目をそらす場所が消える。粉は一粒なら指で弾けるが、星座に組まれると、空が要る。俺の胸の奥で、急に空の広さが必要になった。
深呼吸をひとつ。黒板の空に白を置く。最初の星は、点でいい。点の周りに、粉が雪のように落ちる。
男子の軽口が救命具になる。「○○、字の見本うますぎ、フォントかよ」「有料にしとく」「請求書まわして」「いや、先に見積書」「固いな」「でも文化祭って請求書と見積書の連弾でできてるからな」「詩人ぶるな」。笑いが粉を軽くする。粉は笑いで舞う。舞う粉のなかで、俺は文字の装飾をひとつずつ置く。曲線の始点に小さな星を、終点に息の音を。
「ここ、星、足していい?」と、篠原が尋ねる。許可を求める声の高さは低い。低い声は、粉をかき乱さない。「頼む」と俺は頷き、彼の白い線が俺の曲線と一瞬だけ交差するのを、横目で見た。交差点に、音が生まれる。
「○○、これ、どう? 『夜』の『よ』の尾、もう少しだけ長いほうが余韻あるかも」と高城。「余韻?」と聞き返すと、「ステージ用語だ。俺は司会やるから言葉に余韻がほしくてな。お前の字にも欲張りたい」と笑う。「ステージの司会、一緒にどう?」と距離を詰める彼に、俺は曖昧に笑う。曖昧は嘘じゃない。嘘の前に置く薄い布だ。「ステージ、緊張する」とノートに書いたら、匿名くんの返事はこうだった。
――じゃ、僕は客席から君の「間」を守る。
守る、という動詞が、紙の上の余白をゆっくり厚くした。間は守るものか。いや、守られるとやっと間になるのか。考えながら、俺は「夜」の「よ」の尾をほんの少しだけ長くし、尾の先に粉の星をひとつ、そっと貼りつける。
準備は続く。チョークの粉が夜空みたいに舞い、音楽はビートを落として、会話は散漫に増えたり減ったりした。星を描く手は不揃いで、上手い星も不器用な星も、黒板の上で同じ光を持つ。上手さが均されるのが夜の特権だ。
休憩の合図で、紙コップの水が配られた。粉を飲むように水を飲む。喉をすべる水の温度が、今日の進み具合を教える。水がうまい日は、手が正直に動いている。
「○○」と、低い声がする。気づくと、篠原が俺の前髪の先を摘んで、指先で軽く弾いた。粉が小さく散る。「星、ついてる」「……やめろ」「似合う」と彼はいつもの短い笑いで落とす。粉は笑いに弱い。また舞う。
「おい、撮るぞ」と高城が言い、スマホを横にした。「進捗写真。明日ポスターに入れる」「やめろ、俺が写る」「主役だろ」「主役は夜」。「名言」と三浦が合いの手。「名言税かけていい?」と高城。「高いぞ、うちの税率」と俺。笑いの層が黒板の前に重なる。それでも、手は止まらない。止めないで笑うのが、集団のときの正しい体の使い方だと、俺の背中が覚え始めた。
夜の入口がさらに深くなる頃、他クラスの先生が見回りに来て、九時までには完全撤収、と伝える。時間はあるようでない。俺は最後の大きい見出しに取りかかり、筆圧を少しだけ上げる。粉が濃く落ち、黒の肌に白い川が走る。
「肩、貸す」と篠原が小声で言い、俺が背伸びをした瞬間に黒板の上部を支える椅子を足で押さえ、揺れを止めた。「……ありがとう」「どういたしまして」。二拍遅れの礼が、粉の間に吸い込まれていく。
中断と続行を何度も繰り返した末、黒板アートは、予定の八割を越えた。明日、星の密度を増して、タイトルの影に薄い青を一層だけ足せば、夜は完成する。
片づけがはじまり、チョークの残骸を拾い、消しを軽く叩いて粉を空に返す。俺は日直日誌のページをもう一度開いた。今日、紙はいつもより白い。軽い。粉の夜を描いたあとの白は、空腹だ。そこにインクが落ちる。
――君の字で、俺の名前を呼んでほしい。いつか、じゃなく、近いうちに。
言い直された「いつか」が、「近いうちに」という具体を得て、胸の内側の定規に新しい目盛りを刻む。俺は鉛筆を回し、一度、膝の上に置く。「呼ぶ」は怖い。呼んだ先に実体が現れる。呼ばない間は、呼吸の形だけを確かめていればよかった。「呼ぶ」のは、音の責任を引き受けることだ。
でも、逃げてばかりでも、粉は湿る。湿りすぎは、線の行き先を曇らせる。俺は自分に向け、軽く頷いた。
――名前を呼ぶ準備として、もう少しだけ、君の好きの中身を教えて。全部は無理でも、今日の分だけ。
――今日の分。
――粉に触る前に、君は手を一度払う。自分の手を清めるためじゃなく、粉に失礼がないように。
――椅子に立つとき、片足だけ軽く払ってから乗る。板に傷をつけないように。
――「夜」の「よ」の尾を長くするとき、君は一秒長く息を止める。止めて、尾に呼吸を渡す。
――そして、俺を見るときは、見ない練習から入る。見ようとしないで、見えるところまでしか見ない。そのやり方が、好き。
紙が、俺の体温と同じになっていた。手のひらに薄い汗。鉛筆の芯が少し柔らかくなる。逃げ場はない。だから、逃げない。
――明日、星の密度を増やす。終わったら、呼んでみる。ここで。
――ただし、距離は、チョーク一本ぶん。
返事は、間を置いて落ちる。落ちる音がした気がする。
――了解。距離、守る。呼ばれる準備、する。
準備。準備、という言葉は救いだ。「まだ」の中に「もうすぐ」を含んでいる。まだともうすぐの間にいる時間が、呼吸を整える。
片づけの最後、黒板の下を掃き、粉をちりとりに集める。集めた粉は驚くほど軽く、驚くほど重い。白い粉で黒の夜を書き、黒の夜で白い粉を生かす。相反するものを両方抱えるのは、たぶん恋の筋肉に似ている。筋肉は、伸ばすときと縮めるときの両方で熱を持つ。
教室の灯りが落ちる直前、篠原がふっと俺の視界に入ってきた。彼は黒板の隅に残っていた小さな星を指でなぞり、その粉を親指と人差し指でつまんだ。
「明日、ここ、もう一層、薄い青、足そう」「うん」「尾の影、半分だけ……」と彼が言いかけて、視線が俺の額に止まった。「まだ、星」「さっき取った」「またついた」「呪いか」と俺。「祝福」「……やめろ」「似合う」と、今日二度目の同じ会話。反復は、演習の別名だ。演習は、心の筋肉のためにある。
高城は扉のところで手を振り、「明日、司会台本、仮で合わせようぜ」と言い、「お前、声、ちゃんと出るから大丈夫だ」と背中に置く。背中に置く言葉は、前から受ける言葉と違う。背中の言葉は、身体に直接位置情報を刻む。俺の姿勢が、少しだけ伸びる。
家に帰り、シャワーの湯で粉を落とす。手の谷間から粉が流れ、水の底で星雲みたいな模様を作る。落とすたび、惜しい気持ちが少しだけ胸に刺さる。粉を落としながら、粉に触れた時間を思い出すのは、何かの練習に似ている。
机に向かい、明日の指示書を走り書きし、筆圧の強すぎたところに丸を付ける。ペンのキャップを閉じる直前、ページの端に小さく書いた。
――明日、呼ぶ。小さく。はっきりと。
夜が深まると、家の壁も黒板のような平面になる。壁に向かって、名前の最初の一音を口の中で転がしてみる。五十音をくぐらせ、喉の形がいちばん自然に鳴る音を探す。これは占いではない。観察だ。俺の観察は、いつも自分の側からしか始められない。
目を閉じる。粉の匂い。粉に触る前に手を払う癖。片足で乗る椅子。黒板の上の「よ」の尾。尾の先の星。客席から守られる「間」。
――君の字で、俺の名前を呼んでほしい。
紙の上で、その一文がゆっくり呼吸する。呼吸に合わせて、胸の鐘を軽く叩く。音は遠くへ行く。遠くへ行って、戻ってくる。戻る場所は、もう決まっている。
眠りの手前で、俺は自分にだけ聞こえる声で、誰でもない音節をひとつだけ呼んだ。名前ではない。名前に変わる前の、形。
粉の夜が、まぶたの裏でゆっくり回る。星の密度は、眠りの深さに比例する。深い眠りほど、星は近くなる。近い星を見ていると、名前は自然と喉の形をととのえる。
明日。明日は星の密度を増やす。言葉の尾に、息を一秒余計に渡す。客席に守ってもらう間を、胸の奥にもう一段、深く作る。
そして、距離はチョーク一本ぶん。
その一本ぶんの細さに、すべての厚みを載せて。
呼ぶ。
小さく、はっきりと。
*
翌日。午前の光は薄く、黒板の黒に負けない。俺たちは昨日の続きを再生する。粉を指で押し、星の核を増やし、薄い青を影に一層だけ足す。影は欲張ると濁る。半歩手前でやめるのが礼儀だ。
昼過ぎ、黒板アートは予定通り完成した。夜は昼の教室に居着き、教壇の上に置いたランタンが粉を柔らかく照らす。
人の流れが一段落した時間、教室の温度が少しだけ下がる。音楽が止み、外の風の音がよく聞こえる。俺は日直日誌のページを開き、昨日の約束の行に指を置いた。
――ここで。
声に出してはいないけれど、紙が頷いた気がした。俺は教卓の前に立つ。黒板の夜が背中にある。粉がまだ細かく浮遊している。
足音が後ろから近づく。高城の軽い靴音ではない。三浦の少し大げさな歩幅でもない。音の立て方が、余白に似ている。篠原だと俺の耳は先に言い、目はまだ確認を拒む。
距離は、チョーク一本ぶん。
俺は喉の奥で、名前の最初の音節をほどく。ほどいて、空気に渡す。小さく、はっきりと。
黒板の夜が、背中でそっと鳴る。粉が揺れ、星がひとつだけ、位置をわずかに変えたような気がした。
返ってきたのは、紙の上で何度も読んだ温度の声だった。
「――はい」
それだけ。
それだけで、黒板アートの曲線に宿した言葉が、いっせいに静かにうなずいた気がした。
俺は日直日誌に、今日の最後の一行を書く。
――呼んだ。君の名前になる前の、君の形で。
そして、その下に、もう一行。
――ここから、名前にする。君の字で。
粉は今日も手の谷間に白く残る。水で落とせば消えるのに、指先の感触は残る。残る感触が、明日の線の行き先を少し明るくする。
「君の字で俺の名前を呼んで」。その願いは、詩でも比喩でもなかった。練習の終わりにある、本番だった。
本番は、音の責任を引き受ける。責任は怖い。でも、怖さの形を知ってから引き受けた責任は、思っていたよりあたたかい。
夜の絵の前で、俺たちは、距離の定規を一本、増やした。
――呼吸のための余白。
その目盛りの上に、名前を置く練習を、これからも続ける。
粉は、まだ舞っている。
舞っている間は、きっと大丈夫だ。
星は、線と線のあいだでしか光らないのだから。
「文字の装飾は○○に任せよう」と先生が軽く言ったとき、クラスの何人かが「やった」「安心」と口にした。たぶん、俺の字の背筋が、写真の下で姿勢を良くすると、誰かがどこかで言ったからだ。任されるのは嫌いじゃない。責任がある仕事は、手の温度で答えが出る。上から下、左から右。線の端を撫でて、粉を落とす。俺の答えは、たいてい、粉の上に降りる。
前日の帰りの会議で、黒板アートのテーマは「夜」に決まっていた。昼の教室に夜を呼ぶ。黒板は夜を得意とする。黒に白を置くのは、空を相手に星を書くのに似ている。俺はチョークの箱を開け、白、薄い青、さらに薄い青、銀に近い灰を選ぶ。彩度の勝ちすぎは夜を壊す。粉のさざなみだけで、夜はできる。
篠原が真横に立って、定規で最初の骨格を引く。長い水平線が、黒板の真ん中を一本通る。「ここが地平線」という声は要らない。線がそれを言っている。線の前で、言葉はひとつ後列に下がるべきだと、彼の腕が教える。
高城は人を集める係だ。「おーい、星描けるやつ」「いや、俺、三角なら得意」「星は三角の集まりだろ」「理屈が飛躍してる」と笑い声を撒きながら、使える手を黒板の前に持ってくる。賑やかさの手綱を締める役を、彼は知っている。弛めるときと締めるときの力の配分が上手い。
三浦は音楽をかける。スマホから落ちるビートは、黒板の縁でわずかに跳ね、粉の中に埋まる。「雰囲気作り」「場の湿度を一定に保つのが俺の仕事」と彼は真顔で言い、笑ってすぐ照れを中和する。
放課後が夜の入口に変わる境目で、俺は日直日誌のページを一度開いた。紙は乾いていて、昼より軽くなっている。余白が、夜を迎える準備みたいに呼吸を深くする。そこに、匿名くんの文字が、音もなく現れていた。
――君の字で、俺の名前を呼んでほしい。いつか。
見なかったふりをするには、白が強すぎた。黒板の黒より、紙の白が先に目に刺さる。指先がすこし汗ばむ。俺は鉛筆を持ったが、すぐには置かない。言葉を出す前に、胸の裏で一度、鐘を鳴らす。鐘の余韻の長さが、返事の長さだ。
――呼ぶ前に、聞きたい。君は俺の何が好き?
返事は、思っているより早く落ちた。インクの線が、粉の粒子みたいに細かく震える。
――「好き」の前にある無言。黒板を消して振り返るまでの1秒。ノートをめくる親指の乾き。「、」の丸。授業中に机の下で指を組む癖。――それらの合計。
合計、という言い方に、俺は逃げ場を失った。個別の部品なら冗談にする余地がある。合計と呼ばれた途端、目をそらす場所が消える。粉は一粒なら指で弾けるが、星座に組まれると、空が要る。俺の胸の奥で、急に空の広さが必要になった。
深呼吸をひとつ。黒板の空に白を置く。最初の星は、点でいい。点の周りに、粉が雪のように落ちる。
男子の軽口が救命具になる。「○○、字の見本うますぎ、フォントかよ」「有料にしとく」「請求書まわして」「いや、先に見積書」「固いな」「でも文化祭って請求書と見積書の連弾でできてるからな」「詩人ぶるな」。笑いが粉を軽くする。粉は笑いで舞う。舞う粉のなかで、俺は文字の装飾をひとつずつ置く。曲線の始点に小さな星を、終点に息の音を。
「ここ、星、足していい?」と、篠原が尋ねる。許可を求める声の高さは低い。低い声は、粉をかき乱さない。「頼む」と俺は頷き、彼の白い線が俺の曲線と一瞬だけ交差するのを、横目で見た。交差点に、音が生まれる。
「○○、これ、どう? 『夜』の『よ』の尾、もう少しだけ長いほうが余韻あるかも」と高城。「余韻?」と聞き返すと、「ステージ用語だ。俺は司会やるから言葉に余韻がほしくてな。お前の字にも欲張りたい」と笑う。「ステージの司会、一緒にどう?」と距離を詰める彼に、俺は曖昧に笑う。曖昧は嘘じゃない。嘘の前に置く薄い布だ。「ステージ、緊張する」とノートに書いたら、匿名くんの返事はこうだった。
――じゃ、僕は客席から君の「間」を守る。
守る、という動詞が、紙の上の余白をゆっくり厚くした。間は守るものか。いや、守られるとやっと間になるのか。考えながら、俺は「夜」の「よ」の尾をほんの少しだけ長くし、尾の先に粉の星をひとつ、そっと貼りつける。
準備は続く。チョークの粉が夜空みたいに舞い、音楽はビートを落として、会話は散漫に増えたり減ったりした。星を描く手は不揃いで、上手い星も不器用な星も、黒板の上で同じ光を持つ。上手さが均されるのが夜の特権だ。
休憩の合図で、紙コップの水が配られた。粉を飲むように水を飲む。喉をすべる水の温度が、今日の進み具合を教える。水がうまい日は、手が正直に動いている。
「○○」と、低い声がする。気づくと、篠原が俺の前髪の先を摘んで、指先で軽く弾いた。粉が小さく散る。「星、ついてる」「……やめろ」「似合う」と彼はいつもの短い笑いで落とす。粉は笑いに弱い。また舞う。
「おい、撮るぞ」と高城が言い、スマホを横にした。「進捗写真。明日ポスターに入れる」「やめろ、俺が写る」「主役だろ」「主役は夜」。「名言」と三浦が合いの手。「名言税かけていい?」と高城。「高いぞ、うちの税率」と俺。笑いの層が黒板の前に重なる。それでも、手は止まらない。止めないで笑うのが、集団のときの正しい体の使い方だと、俺の背中が覚え始めた。
夜の入口がさらに深くなる頃、他クラスの先生が見回りに来て、九時までには完全撤収、と伝える。時間はあるようでない。俺は最後の大きい見出しに取りかかり、筆圧を少しだけ上げる。粉が濃く落ち、黒の肌に白い川が走る。
「肩、貸す」と篠原が小声で言い、俺が背伸びをした瞬間に黒板の上部を支える椅子を足で押さえ、揺れを止めた。「……ありがとう」「どういたしまして」。二拍遅れの礼が、粉の間に吸い込まれていく。
中断と続行を何度も繰り返した末、黒板アートは、予定の八割を越えた。明日、星の密度を増して、タイトルの影に薄い青を一層だけ足せば、夜は完成する。
片づけがはじまり、チョークの残骸を拾い、消しを軽く叩いて粉を空に返す。俺は日直日誌のページをもう一度開いた。今日、紙はいつもより白い。軽い。粉の夜を描いたあとの白は、空腹だ。そこにインクが落ちる。
――君の字で、俺の名前を呼んでほしい。いつか、じゃなく、近いうちに。
言い直された「いつか」が、「近いうちに」という具体を得て、胸の内側の定規に新しい目盛りを刻む。俺は鉛筆を回し、一度、膝の上に置く。「呼ぶ」は怖い。呼んだ先に実体が現れる。呼ばない間は、呼吸の形だけを確かめていればよかった。「呼ぶ」のは、音の責任を引き受けることだ。
でも、逃げてばかりでも、粉は湿る。湿りすぎは、線の行き先を曇らせる。俺は自分に向け、軽く頷いた。
――名前を呼ぶ準備として、もう少しだけ、君の好きの中身を教えて。全部は無理でも、今日の分だけ。
――今日の分。
――粉に触る前に、君は手を一度払う。自分の手を清めるためじゃなく、粉に失礼がないように。
――椅子に立つとき、片足だけ軽く払ってから乗る。板に傷をつけないように。
――「夜」の「よ」の尾を長くするとき、君は一秒長く息を止める。止めて、尾に呼吸を渡す。
――そして、俺を見るときは、見ない練習から入る。見ようとしないで、見えるところまでしか見ない。そのやり方が、好き。
紙が、俺の体温と同じになっていた。手のひらに薄い汗。鉛筆の芯が少し柔らかくなる。逃げ場はない。だから、逃げない。
――明日、星の密度を増やす。終わったら、呼んでみる。ここで。
――ただし、距離は、チョーク一本ぶん。
返事は、間を置いて落ちる。落ちる音がした気がする。
――了解。距離、守る。呼ばれる準備、する。
準備。準備、という言葉は救いだ。「まだ」の中に「もうすぐ」を含んでいる。まだともうすぐの間にいる時間が、呼吸を整える。
片づけの最後、黒板の下を掃き、粉をちりとりに集める。集めた粉は驚くほど軽く、驚くほど重い。白い粉で黒の夜を書き、黒の夜で白い粉を生かす。相反するものを両方抱えるのは、たぶん恋の筋肉に似ている。筋肉は、伸ばすときと縮めるときの両方で熱を持つ。
教室の灯りが落ちる直前、篠原がふっと俺の視界に入ってきた。彼は黒板の隅に残っていた小さな星を指でなぞり、その粉を親指と人差し指でつまんだ。
「明日、ここ、もう一層、薄い青、足そう」「うん」「尾の影、半分だけ……」と彼が言いかけて、視線が俺の額に止まった。「まだ、星」「さっき取った」「またついた」「呪いか」と俺。「祝福」「……やめろ」「似合う」と、今日二度目の同じ会話。反復は、演習の別名だ。演習は、心の筋肉のためにある。
高城は扉のところで手を振り、「明日、司会台本、仮で合わせようぜ」と言い、「お前、声、ちゃんと出るから大丈夫だ」と背中に置く。背中に置く言葉は、前から受ける言葉と違う。背中の言葉は、身体に直接位置情報を刻む。俺の姿勢が、少しだけ伸びる。
家に帰り、シャワーの湯で粉を落とす。手の谷間から粉が流れ、水の底で星雲みたいな模様を作る。落とすたび、惜しい気持ちが少しだけ胸に刺さる。粉を落としながら、粉に触れた時間を思い出すのは、何かの練習に似ている。
机に向かい、明日の指示書を走り書きし、筆圧の強すぎたところに丸を付ける。ペンのキャップを閉じる直前、ページの端に小さく書いた。
――明日、呼ぶ。小さく。はっきりと。
夜が深まると、家の壁も黒板のような平面になる。壁に向かって、名前の最初の一音を口の中で転がしてみる。五十音をくぐらせ、喉の形がいちばん自然に鳴る音を探す。これは占いではない。観察だ。俺の観察は、いつも自分の側からしか始められない。
目を閉じる。粉の匂い。粉に触る前に手を払う癖。片足で乗る椅子。黒板の上の「よ」の尾。尾の先の星。客席から守られる「間」。
――君の字で、俺の名前を呼んでほしい。
紙の上で、その一文がゆっくり呼吸する。呼吸に合わせて、胸の鐘を軽く叩く。音は遠くへ行く。遠くへ行って、戻ってくる。戻る場所は、もう決まっている。
眠りの手前で、俺は自分にだけ聞こえる声で、誰でもない音節をひとつだけ呼んだ。名前ではない。名前に変わる前の、形。
粉の夜が、まぶたの裏でゆっくり回る。星の密度は、眠りの深さに比例する。深い眠りほど、星は近くなる。近い星を見ていると、名前は自然と喉の形をととのえる。
明日。明日は星の密度を増やす。言葉の尾に、息を一秒余計に渡す。客席に守ってもらう間を、胸の奥にもう一段、深く作る。
そして、距離はチョーク一本ぶん。
その一本ぶんの細さに、すべての厚みを載せて。
呼ぶ。
小さく、はっきりと。
*
翌日。午前の光は薄く、黒板の黒に負けない。俺たちは昨日の続きを再生する。粉を指で押し、星の核を増やし、薄い青を影に一層だけ足す。影は欲張ると濁る。半歩手前でやめるのが礼儀だ。
昼過ぎ、黒板アートは予定通り完成した。夜は昼の教室に居着き、教壇の上に置いたランタンが粉を柔らかく照らす。
人の流れが一段落した時間、教室の温度が少しだけ下がる。音楽が止み、外の風の音がよく聞こえる。俺は日直日誌のページを開き、昨日の約束の行に指を置いた。
――ここで。
声に出してはいないけれど、紙が頷いた気がした。俺は教卓の前に立つ。黒板の夜が背中にある。粉がまだ細かく浮遊している。
足音が後ろから近づく。高城の軽い靴音ではない。三浦の少し大げさな歩幅でもない。音の立て方が、余白に似ている。篠原だと俺の耳は先に言い、目はまだ確認を拒む。
距離は、チョーク一本ぶん。
俺は喉の奥で、名前の最初の音節をほどく。ほどいて、空気に渡す。小さく、はっきりと。
黒板の夜が、背中でそっと鳴る。粉が揺れ、星がひとつだけ、位置をわずかに変えたような気がした。
返ってきたのは、紙の上で何度も読んだ温度の声だった。
「――はい」
それだけ。
それだけで、黒板アートの曲線に宿した言葉が、いっせいに静かにうなずいた気がした。
俺は日直日誌に、今日の最後の一行を書く。
――呼んだ。君の名前になる前の、君の形で。
そして、その下に、もう一行。
――ここから、名前にする。君の字で。
粉は今日も手の谷間に白く残る。水で落とせば消えるのに、指先の感触は残る。残る感触が、明日の線の行き先を少し明るくする。
「君の字で俺の名前を呼んで」。その願いは、詩でも比喩でもなかった。練習の終わりにある、本番だった。
本番は、音の責任を引き受ける。責任は怖い。でも、怖さの形を知ってから引き受けた責任は、思っていたよりあたたかい。
夜の絵の前で、俺たちは、距離の定規を一本、増やした。
――呼吸のための余白。
その目盛りの上に、名前を置く練習を、これからも続ける。
粉は、まだ舞っている。
舞っている間は、きっと大丈夫だ。
星は、線と線のあいだでしか光らないのだから。



