梅雨入りの知らせは、テレビの向こうより先に黒板に届く。粉は湿りを含むと、拭っても拭っても、薄い影のように残った。影は、記憶に似ている。消そうとするほど濃くなるところが。

 放課後の教室は、雨粒の打つ音と、窓枠のきしむ音で、いつもより低い音程に沈んでいた。雑巾を絞ると、掌の線に冷たい水が入り込み、骨の外殻で止まる。力を込めれば込めるほど、水は指の腹をすべって落ち、黒板の縁にまで小さな川を作った。
 上から下、左から右。影を薄くするつもりの腕は、やがて痺れて“自分のもの”という感覚から遠のいていく。指先の感覚が引いて、肘に熱が集まる。もうやめよう、と思った瞬間だった。

「手、貸して」

 背後の低い声と同時に、ふっとイレイサーが軽くなる。俺の手から、道具だけが抜き取られて、そのまま滑らかに黒板の上を走った。
 左手だった。指の押し当て方が、右とは違う。黒板の粒子を“押して”から“撫でる”。骨の向きと、掌の肉の厚みと、黒板との距離感で、線の呼吸が変わる。

「うわっ」

 反射で声が漏れて、振り返る。けれど、そこにはもう誰もいなかった。イレイサーだけが、俺の手の届く位置に戻っている。
 篠原――かもしれない。けれど、決めてしまうには、材料が足りない。匿名のままの親切ほど、人の定規を狂わせるものはない。

 ページを開く。湿った紙は、昼よりも重い匂いを持っている。インクの跡は少し滲み、線の端に小さな羽根が生えたみたいだ。そこに、走り書きがある。

 ――君の腕、無理しない。

 続けて、もう一行。

 ――今日は、君のペースに合わせたい。

 ペース。昨日、俺が覚え直したばかりの単語だ。自分の呼吸の幅を、他人に明け渡さない練習。
 雨脚が強くなり、蛍光灯が一瞬ふっと消えた。停電。教室は暗闇というより、灰色の膜で包まれた。膜の内側で、自分の吐く息だけがはっきり見えるような気がした。
 窓に近づくと、ガラスに俺の顔が淡く重なる。向こう側の空の色に引っ張られて、輪郭が滲む。その隣に、もうひとつ、背の高い影がかすかに重なった気がして、心臓が、胸骨の裏で小さく裏返った。反射のせいだ、と自分に言う。けれど「反射のせい」は、よくできた言い訳であると同時に、たいして効かない鎮痛剤でもある。

「傘、相合い傘する?」

 背後の男子の声に、振り返る。三浦だ。雨の日の三浦は、普段より少しだけテンションが高い。世界が単調になりやすい日に、わざと坂道を作って滑らせてくれるみたいに。

「誰と」
「黒板と」
「意味わかんない」
「つやつやになるぞ。君の“は”の払い、濡れると短くなるからな」
「観察が雑」
「雑でも当たってることがあるのが観察の怖さ」
「怖がらせるな」

 そこへ、高城が紙パックのココアを二本、握って現れた。掌の熱が伝わっているのか、パックはぬくい。

「飲む?」
「……Bだ」
「は?」
「内緒」
「なんだそれ。暗号?」
「近い。勝手に当てるゲーム中」
「なんだか知らんが、とっとけ。俺はサイダー」
「雨の日にサイダー?」
「泡が見える日は、雨の粒もよく見える。相性いいだろ」
「理屈が飛躍してる」
「詩のほうが近いときもある」

 詩、という単語に、紙の向こうの匿名がふっと近くなる。高城の軽さは、時々、紙の文体と同じ角度を持つ。同じ角度に見えるだけかもしれないのに、俺の眼はそこに意味を描き足してしまう。
 ココアのパックを受け取ると、肩甲骨の下で息が一度止まった。見られている癖が、体の内側からも“本当のこと”になっていく。飲む前に、ストローのビニールを指で裂く音だけで、ああ今日は甘い音だ、とわかる。

 停電はすぐに復旧し、蛍光灯の白が戻る。白は雨の青をきれいに洗ってしまう。きれいすぎる光の下では、人の表情はわずかに薄く見える。薄い顔で、俺たちはそれぞれの下校準備を始めた。
 傘立ての前で、三浦がふいに言う。

「なあ、○○。お前の“ありがとう”、二拍遅れだよな」
「は?」
「言う前に、いったん胸のどっかに置く。それから声帯に持ってきて出す。だから、聞いてる方は嬉しい」
「なんで」
「遅い“ありがとう”は、相手の方に残る時間が長い」
「適当な理屈」
「俺の詩。雨の日は詩でしゃべるって決めたから」
「勝手に決めるな」

 笑って返しながら、俺は自分の「ありがとう」の重さを指で量ってみる。たしかに、すぐ出すと嘘になる日がある。胸骨の裏で一度だけ鳴って、それから口に出す。二拍のあいだに、言葉の温度が上がる。
 昇降口を出ると、外の雨はさらに強くなっていた。アスファルトに跳ね返る音が、靴底で細かく震える。通学路は傘の花畑みたいに色が重なり、風が吹くたび、花がみんな同じ方向になびく。方向の合う瞬間だけ、通行人は一つの合唱団だ。

 信号をふたつ渡った先の角を曲がってから、俺は足を止めた。校舎裏に回り込む細い通路――運動部がショートカットに使う、うす暗い道だ。雨の日は水の匂いが濃く、土の色が深い。そこで傘をたたむ。
 布を振って水を落としていると、反対側から同じように傘をたたむ気配が近づいた。音が重なる。布の厚みの違いが、音の高低に出る。相手の傘は、俺のより薄い。軽い音。風に揺らされやすい布の音。

 手が触れた。
 ほんの一瞬。柄の金具の近くで、指の背がかすめる。インクの匂いがした。ペンのキャップを外したばかりの匂い。
 俺は、声より先に、喉の奥の空気が「ありがとう」と形になるのを感じた。けれど、言葉になる二拍のあいだに、彼――たぶん彼――は、先に小さく言った。

「どういたしまして」

 その声は、紙の上で丸くなった「、」の間を泳ぎ、黒板の粉をかすかに連れていた。
 顔は見ない。見ない練習のほうが、今日は大事だ。距離の定規は、壊れかけのままが美しいときがある。
 傘をたたみ終えると、気配は風と一緒に校舎の角へ消えた。残ったのは、傘の先から一滴、道に落ちる音と、指に微かに移ったインクの匂いだけ。

 家に戻ると、制服の袖口に黒い点がついていた。指で擦ると、薄く伸びる。紙に残るインクの羽根に似ている。
 机に向かい、日直日誌を開く。紙は雨で波打って、ページの右端がふわりと浮いている。浮いた端をそっと押さえながら、鉛筆で今日の締めを探る。先に、匿名くんの筆跡が、湿りの上に座っていた。

 ――停電の一瞬、君の顔が窓で二重になった。どちらも本物で、どちらもきれいだった。

 ――言いすぎ

 ――言うよ。言わないと薄くなるから

 薄くなる、という言い方に、今日はすこし救われる。雨の日は、いろんなものが厚くなりすぎる。音も、匂いも、手触りも。だから、言葉は薄くして、余白を残すほうがいい。
 鉛筆の尻で軽く紙を叩き、返した。

 ――今日の君は、左だった?

 少し間を置いて、インクが降る。

 ――どっちだと思う?

 ――ずるい

 ――ずるい、許可

 思わず笑ってしまい、消しゴムで笑い皺みたいに薄く擦ってから、もう一度書く。

 ――左手で、右の角を撫でた線

 ――観察、合格

 ――試験だったのか

 ――きょうは、君のペースに合わせたいって言っただろ

 ――合わせてもらった

 ――合わせてくれて、ありがとう

 そこで、俺は一度、鉛筆を置いた。胸の裏で、小さく二拍。息を吸って、吐く。指をノートの端に持っていき、紙の角の毛羽立ちを親指で平らにする。
 そして、書いた。

 ――(二拍遅れの)ありがとう

 返ってきた行は、少しだけ笑っていた。

 ――君の「ありがとう」は二拍遅れ。そこが好き

 ページの上で、雨の跡がうっすら光る。窓の外、雨脚はまだ強い。だけど、音の重さはもう怖くない。重さの形を知り、指をかけると、降り続く音に足場ができる。
 机の脇で、傘が乾いていく。布から雨の匂いが薄れて、代わりにインクの匂いが静かに残る。
 目を閉じると、校舎裏の薄い通路が浮かぶ。傘をたたむ音が重なった瞬間と、指先が触れた温度。あの一瞬を思い出すたびに、胸の裏の鐘はかすかに鳴る。鳴るたび、言葉になる前の「ありがとう」が、喉の奥にひそむ。
 言葉は遅れていい。遅れて届く言葉のほうが、長く残る。
 雨に濡れた紙は、端から波打つ。波打つ紙の上で、今日の行は、小舟みたいにゆっくり揺れた。俺の心拍も、同じ速度で揺れている。
 明日は晴れるかもしれない。けれど、粉は湿りの日を覚えている。黒板も、紙も、俺も。
 覚えていることは、罪じゃない。
 それを“共犯”と呼べるなら、なおのこと。

 灯りを落とす前に、ページの端に小さく、点を置いた。
 音符にも、句点にもならない、ただの点。
 その上に、静かな余白がふくらむ。
 ふくらむ余白を見届けてから、俺はノートを閉じた。