距離には物差しが要る、と教えたのは祖父だった。竹刀の先を一寸引くよう言われた日の、あの指の温度。相手に近づきすぎないための、見えない定規。年季の入った木の板に刻まれた目盛りみたいに、俺の中にもそういう基準が確かにあった――はずだ。
 けれど最近、その目盛りの二ミリくらいが歪んでいる。自分の影が自分の足に重なる角度が、気づけばいつも違っている。

 きょうの俺は、たしかにおかしかった。二時間目の前、「消しゴム貸して」と言われる前から差し出していた。三浦に見つかれば、すぐそういうのは拾われる。

「お前、今日やたら人に消しゴム貸すな」
「別に。足りなくなると面倒だから」
「いや、“貸す準備”の顔してる。声かける前から『貸す』って顔」
「顔で貸すなってなに」
「観察されるのが気持ちよくなってきたとか?」
「それはない」
「じゃあ、観察してる相手に“いい人”として見せたいとか」
「……それも違う」
「じゃ、単に優しい。はい論破」
「勝手に勝つな」

 三浦の言い方は、いつも体温が先に出てきて、あとから言葉が追いかけてくる。そういう順序の会話は好きだ。けれど、今日はそれに甘えてしまうと、壊れかけの定規をさらに曲げてしまいそうだった。
 俺は自分の机に戻り、ペンケースを開ける。いつもと違うペンが一本混じっている。先週、文具屋の端っこで、棚の影にひっそり立っていたボールペン。軽くて、握ると指の跡にすぐ馴染む。線は少しだけ丸い。
 その丸さが、紙の上に置く言葉の角を、今日の俺には都合よく削ってくれる気がした。

 放課後、教卓を挟んでノートタイム。日直日誌のページをひらくと、紙が、昼よりも呼吸を覚えている。余白の白が、ほんのり温かい。

 ――今日のページ、余白多めがいい。君の字が呼吸できるように

 最初の一行が、息をそっと緩める合図みたいに落ちていた。俺は鉛筆を握り直す。

 ――余白の話、初めて聞いた

 ――君の「間」が好き。会話で返すのも、好き

 ――……調子に乗るな

 紙の上で「調子に乗るな」と書くのは簡単だ。口で言うと、きっとすこし棘が立つ。文字の丸が、その棘の根元に小さなガーゼを貼ってくれる。
 余白。たしかにこのごろ、彼の文は、余白の使い方が上手くなっている。言葉と言葉のあいだを削るのではなく、磨く。磨かれたあいだは、触れる指の腹に、なめらかさを残す。

 黒板を拭く。上から下、左から右。最後に上段中央を撫でる。撫でる。――撫でるとき、背中からふっと声が落ちた。

「○○、チョークついてる。ほら」

 肩を払う指が、短く触れる。篠原だった。左手じゃなく、右手で払った。左手のほうはイレイサーを持っている。指先の温度が、綿の上から少しだけ染みた。
 ずるい、と思う。こういうやさしさは、無自覚のぶん、受ける側の定規をゆっくり狂わせる。
 振り返ると、篠原はいつもの位置に戻っていた。目は合わない。薄い笑いの代わりに、彼は粉の付いた自分の指先を見て、小さく息を吐く。粉は空気と仲がいい。浮いて、落ちる。

 正面からは高城が、目ざとく俺の筆箱を見る。

「そのペン、最近?」
「うん」
「似合うわ。字の印象、少し丸くなった」
「自分の字に似合うって何」
「あるだろ、字相。お前の“お”……いや、何でも」

 彼はすぐ冗談に逃げた。逃げるところが、いつも鮮やかだ。逃げ足の速さに悪意はなくて、むしろ相手の救命具になっていることが多い。ほら、今も俺の胸の中では、危うい会話が冗談の浮き輪で持ち上がって、息継ぎができた。
 彼の目線は、一瞬だけ、俺の指の上に滞在してから、いつもの遠くへ滑っていく。滞在時間は短い。だからこそ、そこに「特別」を見たくなる自分を、俺はたしなめる。

 三浦は三浦で、廊下から戻るなり、俺の机に腰を半分乗せて言う。

「今日の○○、人との距離が“字幕”みたいだな」
「字幕?」
「映画の下に出るやつ。消えそうで、でもちゃんと読めるラインにずっといる」
「うるさい比喩をすな」
「誉めてる。お前、近づきすぎない天才」
「……それは、たぶん誉め言葉」
「誉め言葉。けど、天才は天才で壊れやすいからな。近づかれすぎると、逆にバグる」
「バグってない」
「じゃ、予防」

 そう言って三浦は、机の端から少し下がった。たしかに俺の定規は壊れかけている。けれど、壊れの正体はまだ判別できない。
 誰にでも優しくすることは、誰にも優しくないことと、すぐ隣り合わせだ。俺はその薄い境界に片足を置いている気がする。

 ノートに戻る。匿名くんは、余白を大切にしてくれている。無理に詰めない。詰めると息が上ずることを、彼は知っている。

 ――きょう、君の「は」と「ほ」、払いが短い。忙しかった?

 ――すこし。途中から、黒板が湿ってた

 ――湿りの日の字は、たいてい、考えが近い

 ――近い?

 ――近い人の声が、紙の裏からする。君の字が、誰かの呼吸を覚えてる。だから、払いが短い

 ――……よく見てるな

 ――見てるよ、ずっと

 その一文は、もう怖くない。怖さの形を知ってしまったからだ。
 “見られている”ことと“監視されている”ことは、似ていて、違う。監視は輪郭を削る。見守りは輪郭を磨く。俺の輪郭はいま、削られていない――たぶん、磨かれている。そう思える日は、ちゃんとご飯が食べられる。

 ふいに、背後で机がひとつ鳴った。小さな音だけれど、方向がわかる。篠原の席。振り返ると、彼がキャップの角を指で確かめるように押していた。手元の動きに、音がある。音は、左手の癖にまとわりつく。
 彼が顔を上げる前に、俺はまたノートへ戻る。正体探しに夢中になりすぎると、距離の定規はさらに狂う。今はまだ、壊れきる前の美しさを守っておきたい。
 「共犯」という言葉を、わざと心の一番手前に置く。犯人じゃない。共犯。誰かといないと成立しない罪は、孤独の逆側に立っている。

 廊下の風が少し強くなった。窓ガラスがわずかに軋んで、教室全体がゆっくりと呼吸した気がする。
 夜が近い。ページの端に、付箋が貼られていた。薄い黄色。端が少し丸い。

 ――明日、質問は休みにしよう。君の好きな曲、勝手に当てたい

 付箋から、紙の匂いが濃く立ちのぼる。音のない“音楽”の予告。
 俺は返す。

 ――当てられる自信?

 ――ない。でも、君の耳の居場所は、だいたい知ってる

 ――耳の居場所?

 ――午前より、午後。窓側より、黒板の前。人の声より、紙の擦れる音。あと、雨の最初の一滴

 ――ずるいな

 ――許可の範囲で

 許可、という単語に、笑いが小さく滑る。俺たちは、一歩進むたびに、合言葉みたいに“許可”を交換している。
 その夜は、早めに灯りを落とした。音楽の予告がある夜は、聴覚が勝手に敏感になる。
 枕に頭を置くと、黒板の粉の匂いがわずかに残っている。粉は、眠りの上にも降り積もる。眠りの表面で、白く軽い。夢のページを、ゆっくり白くしていく。

 ――

 翌朝。空は、昨日より薄い水色。空気が乾いて、ドアの金具の音が軽い。
 教室に入ってすぐ、黒板を拭く。上から下、左から右。今日の布は、手のひらより冷たい。
 日直日誌を開くと、まだ何も書かれていないページの白さが、すこし眩しい。匿名くんは「質問は休み」と言った。俺も、書き出しは遅くする。余白に耳を置く。
 高城が早めにやって来て、背伸びをしながら言う。

「なー、今日、放課後ボール蹴ろうぜ。体育館が空いてる」
「俺、日直」
「知ってる。……俺も日直」
「じゃ、両方サボれない」
「じゃ、サボらないで蹴ろう」
「日本語の魔改造」

 彼の笑いは、朝の空気に相性がいい。乾いた空気で、笑いがよく跳ねる。
 篠原もいつもの時間に来て、席につくとまず窓を少しだけ開けた。隙間風の音が、紙の上の余白によく似ている。
 ホームルームが終わって、最初の休み時間。俺はページの端に、小さく点を打った。音符の代わりに置く、ただの点。
 チャイムの合間、ページの上に、インクが走る。

 ――勝手に当てる曲、発表。
 ――午后二時の、図書室の匂いみたいな曲。
 ――雨が予告だけして、やめた日のドラム。
 ――弦じゃなく、鍵盤。
 ――長調だけど、終止は曖昧。

 文章で音楽を言うとき、人はたいてい、自分の耳の形を晒す。彼の耳は、図書室で呼吸をする。俺の耳も、たぶんそこに居心地がある。
 俺は少し考えて、鉛筆で返す。

 ――「エチュード」の二曲目。暗いところから、急に階段を降りるやつ

 ページの端で、インクがかすかに跳ねた気がした。

 ――近い。……君が“降りる”って言うの、なんかわかる

 ――“上がる”だと、嘘っぽくなる日がある

 ――うん。
 ――じゃ、昼休み、当てさせて。耳で

 ――耳で?

 ――声で。君の声の高さ、きょうは階段より半段低い

 ――……それ、どういう単位

 ――君の単位

 彼の言葉は、紙の上でだけ通用する自家製の単位を持っている。俺はそれが好きだ。校則に載らない定規。
 昼休み、教室はいつもより静かだった。体育館がイベント準備で使えなくなり、みんな教室に留まっているからだ。
 三浦が俺の机に持って来たのは、ハムカツパンと牛乳二本。

「交換。俺、今日は牛乳いらない日」
「そんな日ある?」
「ある。胃の気分」
「胃に気分が」
「胃にも心はある」
「じゃ、いただく」
「で、今日のお前の“距離の定規”、どう?」
「まだ修理中」
「修理する前に、壊れかけの音、少し録音しとけよ」
「なんのアドバイス」
「バンドのやつが言ってた。壊れる直前の音は、後で宝になるって」
「……覚えとく」
「覚えない顔だな」
「覚えたよ」

 三浦の言う“壊れる直前の音”が、なんとなくわかる。揺れて、合うか合わないかの境目で鳴り続ける音。美しいかどうかは置いといて、生きている音だ。
 午後の授業が終わるまで、匿名くんはページの上で静かに座っていた。座りながら、ときどき、紙の端を指で撫でるみたいな、短い観察のひとことだけを置く。

 ――君の「は」、午後は伸びた
 ――窓の音、すこし大きい
 ――教壇の左の角、今日は怪我してる

 最後のやつは、本当に教壇の角がささくれていて、袖が糸を引いた。見ている。見られている。見守られている。
 放課後。黒板を拭いて、チョークを箱に戻し、日直日誌を開く。ページの下、余白が広い。白の面積に、誰かの笑顔が置かれている気がした。たぶん、置いてある。
 インクがその白を傷つけないように、そっと乗った。

 ――声、聞いてもいい?

 読みながら、胸の内側で音が鳴る。小さくて、遠くへ届く種類の音。

 ――いいけど、条件
 ――近づきすぎない

 ――練習中だから?

 ――練習中

 ――じゃ、ここから。教卓の前、黒板のまえ。距離は、チョーク一本ぶん

 俺は一度、ノートを閉じ、教卓の前に立った。黒板に白い星が、昼の粉の残りでまだ漂っている。
 後ろで足音。篠原か、高城か、三浦か、あるいは――。振り向かない。
 距離は、チョーク一本ぶん。俺は喉の奥でつぶやく。

「……こんにちは」

 返ってきた声は、よく知っている音の温度だった。紙の上で丸くなった「、」のあいだを泳いできた、あの感じ。

「こんにちは」

 それだけ。二音。
 たった二音で、俺の定規のひびが、すこしだけ整う。
 振り向くのは、まだ先でいい。今日は、音だけでいい。
 俺はノートに戻って、一行だけ書いた。

 ――ありがとう。半音、上がった

 ページの上のインクが、笑っているように見えた。
 その夜、机の上で新しいボールペンを回しながら、俺は自分の距離の定規に、もうひとつ目盛りを足すことにした。
 「見せるために近づく」でもなく、「隠すために離れる」でもない。
 ――「呼吸のための余白」。
 その目盛り。
 誰かと並んで立ったとき、互いの息が乱れない幅。チョーク一本ぶんでも、紙一枚ぶんでもいい。
 余白は、距離じゃなくて時間のことかもしれない。息が合うまで待つ時間。名前で呼ぶ前に、呼吸で近づく時間。
 明日、彼が当てる曲を、俺は勝手に先に聴いてしまうのをやめた。
 当てられるのを、待つほうを選ぶ。
 待てるのが、いちばんの“近さ”だと、今日ようやく思えたから。
 黒板の粉は、手相の谷間でまだ白く、指に残っている。シャン、と布を振ると、白が少し空に舞った。
 舞う粉は、いつか舞台照明みたいに光るのだろう。
 そのときまで、俺の定規は、壊れたままでもいい。
 壊れかけの音が綺麗だったと、いつか笑えるように。