今週に入ってから、紙の上の“観察”は、濃度を増した。インクの線が細くなるときと太くなるときの差が、温度計みたいに目に見える。

 ――今日の「り」の尻尾、雨みたい。

 最初にその一行を見たのは、朝の国語の前だった。黒板の左下に薄く残った昨日の粉が、湿った空気をよく吸う。雑巾を絞ると、掌の皮膚の線に冷たさが速く入ってきて、骨の表面で鈍く止まった。俺は、ページの余白を指先で撫でる。それから、鉛筆で返す。

 ――雨、降りそうだね。

 書いた瞬間、教室の奥でだれかの椅子が小さく鳴った。その音が合図だったみたいに、外の雲の色を意識しはじめる。窓のガラスはまだ明るい。薄い膜が張って、色を曖昧にする。

 授業が始まると、先生の板書のテンポがいつもより速かった。たぶん空模様のせいだ。人は天気に気圧される。俺はチョークの粉の匂いを胸の奥に沈めるみたいに吸い込み、句読点の丸を一個ずつ着地させた。「、」の丸は意識すればするほど、意識の重さで丸くなる。匿名くんはそこを逃さない。

 ――君の「、」は、曇りの日、少しだけ大きい。そこが好き。

 好き、という語は、紙の上だと驚くほど軽く置かれる。声にしたらきっと重くなる。重さの違いを、俺はこの頃ようやく使い分けられるようになってきた。

 休み時間、俺は今日の二択を準備する。さりげなく、相手の輪郭を掬い上げる質問を。紙だけが知っている一問一答は、正体に近づくためのゲームで、でも正体を暴くためだけのゲームではない。

 ――体育、好き? A:好き B:苦手

 返事はすぐだった。

 ――A。

 決め手にはならない。高城は言うまでもなく運動神経がいい。球技でも陸上でも、力の配分の仕方を体が覚えていて、無駄がない。篠原は帰宅部だが、球技だけやたらと上手い。ボールの落ちる位置を先に知っているみたいに動く。三浦は、走るのは苦手だが応援の声量が競技になるなら断トツで一位を取る。応援で人の背中を押すときの手の開き方が綺麗だ。三人とも「A」でもおかしくない。

 そのあと、ページの端に、匿名くんは小さくこう足した。

 ――見るスポーツも好き。君が走るのも、書くのも。

 俺は思わず口角が上がるのを、教科書の陰で押さえた。走るのも、書くのも。つまり、俺を“見るスポーツ”。言い切り方がずるい。ずるいけれど、嫌じゃない。顔に出さない訓練をしていなかったら、たぶん三浦にすぐ見抜かれて、うるさく茶化されていただろう。

 昼。購買の列はいつもより長かった。限定五十個の揚げパンが並ぶ日だ。列の途中で「売り切れました」の声がかかると、最後尾から小さなため息がいくつも飛んだ。

「お前、揚げパン難民、顔に出てるぞ」
 三浦が指で俺の頬をつつくまねをする。手の振り方は大げさなのに、指先の手前で必ず止まるのが彼のやさしさだ。
「出してねえよ」
「出てる。ほら、パン粉つけてやる」
「どこからパン粉を」
「想像で撒くの。情景に粉の質感がないとな。はい、情景作り直し」
「監督か」
「監督は高城」
「俺、主演で」
 なぜか会話に割り込んでくる高城は、揚げパンを二本、魔法のように確保していた。
「二本どうした」
「先に並んだ。一本やる」
「いらない」
「素直じゃないな。お前、こういうときいらん見栄張る」
「見栄じゃない。……ありがと」
「うむ。後で回収する」
「何を」
「恩」
「うわ、立替請求の人だ」
 三浦が笑って、紙パックの牛乳を俺の前に置いた。いつもの三人。明るい騒がしさの真ん中にいると、ページの上の匿名が遠くなるのではなく、むしろ近くなる。紙の向こうの“彼”も、今ここにいる誰かの可動域の中で息をしているのだと、重ねてしまうからだ。

 「お前、給食の揚げパンの粉、口の端につけたまま五分しゃべってたぞ」
 と、三浦が言う。今日も揶揄は遅れてやってくる。
「見てたなら教えろよ」
「もったいない。可愛かったから」
「可愛いって言うな」
「じゃ、好き」
「もっと困る」
「お、困らせた」
 高城が横から言葉を拾う。「好き」と聞くとなぜか彼は少し真ん中に寄ってくる。悪意はない。けれど、悪意がないことが一番たちが悪いこともある。俺は牛乳のストローを歯で噛む音に、自分の返す言葉を紛らせた。

 午後の世界史。先生が「三十年戦争」の年表を黒板に書き連ねる。数字が増えるたびに、黒板の左側の粉が雪崩になる。俺は指の甲で縁を拭き、チョークの箱を揃え、日直日誌に手を伸ばした。ページを開くと、匿名くんの字はさっきよりさらに近いところにいた。紙の目に入り込む角度が、呼吸の深さを連想させる。

 ――君の「り」の尻尾、今日は濡れてない。雨、途中でやんだね。

 窓の外を見ると、たしかに雲の隙間が薄く白い。雨粒の筋道が途中で空に途切れている。見ていたのだ、本当に。俺の「り」の尻尾を、雨粒の筋道みたいだと感じるほどの距離で。

 授業後、教卓の前でノートをめくっていると、背後から近づく足音があった。振り返る前に声が落ちる。

「消し、手伝う」
「あ、ありがと」
「……字、きれいだよな」
「え?」
「ノート。板書が、さ」
 視線が、ほんの数秒ぶつかって離れる。その“間”に、匿名くんの文体が重なる。篠原。左手でイレイサーを持ち、右手でチョークの箱の位置をすこしだけ整える。動きに余白がある。余白の使い方が、紙の上の彼のそれと似ている。似ている。似ている、だけかもしれない。
「ありがとう」
 俺が言うと、篠原は軽く頷き、イレイサーを元の位置に戻した。黒板の上の粉は、彼の手に触れると粉ではなく“粒子”になる。扱いが変わるのだ。物の呼び名が変わるほどの触れ方ができる人は、そう多くない。

 放課後のチャイムが鳴り終わる前、高城が扉のところで振り返って言う。
「明日、俺、日直だわ。よろしくな」
「よろしく」
「黒板、俺にも似合うようにしてくれ」
「そんな注文はない」
「字が犯罪っぽく見えない薬、塗っといて」
「それは難題だ」
「そこを何とか」
 軽口を残して、高城は廊下に消えた。その軽さが、俺の胸に残ったまま、グラウンドの風を揺らす。たとえば彼が匿名だったら。そう想像しただけで、教室の空気が少し別の高さに持ち上がる。けれど、彼の軽さは誰に対しても平等だ。平等な軽さは、特別な言葉より少しだけ重い。平等を「特別」に誤認しないようにする作業を、俺は自分に課す。

 三浦は椅子の背にもたれて笑った。
「ミステリーかよ。犯人はだいたい近くにいるって言うしな」
「犯人って言うな」
「じゃ、共犯?」
 その語が、黒板の粉より速く、俺の胸骨の裏に貼りついた。いい言葉だ。犯人ではなく、共犯。お互いにしか成立しない罪に名前をつけるやり方。罪と呼ぶにはあまりに無害で、でも、無害であることを隠したいような秘密の重さもある。

 夜。机のスタンドをつけると、光がノートの紙目の凹凸をくっきり浮かび上がらせた。ページは昼よりも呼吸が深い。昼の湿気を脱いで、夜の乾きに合わせた皮膚になる。俺は明日の準備みたいに、今日の言葉を並べ直す。

 ――今日の体育、見てた? A:見てた B:見てない

 返事は、数分後に来た。ボールペンの線は、昼間より少しだけ震えていた。たぶん、持ち手の指先が乾いている。

 ――A。君がボールを受ける前、肩甲骨の下で一度だけ息が止まるの、好き。

 俺は肩に手を当てた。骨の裏側に触れることはもちろんできないが、そこに息の止まり木があると信じた瞬間、呼吸がそっとそこに引っかかった。見すぎだ、と思う。けれど、見られて嫌じゃないことばかりを見つけられる人間を、どうして責められるだろう。

 俺は、今日一日の断片を思い出す。体育はミニサッカーだった。高城はチームを引っ張り、声のボリュームに比例して足も動く。声が走るのだ。三浦はゴールキーパーの前で不器用に腕を広げ、相手のシュートが外れるたびに「今の俺のおかげな」と笑っていた。篠原は無音で位置を取り、足の甲の角度だけでパスの意図を示す。音は出さないが、“音のない指揮”をするタイプだ。

 正体を探るための材料は揃っているのに、どれも指紋にはならない。俺は明日の二択を練り直す。指先のあわさり方、ペンを持つときの支点、紙の端の扱い。左利きか右利きかは、すでにヒントとして彼自身が提示した。ならば、別の角度を。

 ――筆箱、柔らかい素材? A:布 B:ハードケース

 ――B。角が好き。

 返答を見て、俺は高城のテーブルを思い浮かべる。彼の筆箱は布だった。何度も洗っているから柔らかくなりすぎて、口の金具が片側だけ甘い。三浦は布とハードの二段構えで、予備のペンを何本も持ち歩く。篠原は、確か黒のハード。角を指で撫でていた姿が、何度もフラッシュバックする。「角が好き」。紙の隅や、机の角や、キャップの角を、彼はよく確かめる。好きと嫌いの輪郭の確認作業。角は、輪郭が極端にまとまる場所だ。

 朝。窓に早い光が入る。廊下を吹き抜けた風が、教室のドアの金具を小さく鳴らした。俺はいつもの手順で黒板を拭く。上から下、左から右。最後に上段の中央を撫でる。撫でるという動詞が、ようやく自分の動作に馴染んできた気がする。以前は“拭く”だった。今は“撫でる”。誰かが見ていると知ってから、俺の手は対象に触る前に、触ることの言い訳を用意するようになった。

 日直日誌は、机の中央に置いた。ページの端に、匿名くんの文字がもうある。

 ――今日の「お」の丸、元気。眠ってない。君になにか、良いこと?

 ――良いことの定義、A:誰かに言えること B:言えないけどふくらむこと

 ――B。

 俺は、鉛筆の先で紙の毛羽立ちを押さえた。言えないけどふくらむ。見ているだけで大きくなる。それは、たぶん秘密の性質だ。秘密は本来、一人で持つと縮む。ふたりで持つと、ふくらむ。

 移動教室の途中、廊下の角で高城に呼び止められる。
「なあ、今日、俺、日直な」
「知ってる」
「板書、見本、頼む」
「はいはい」
「……それと」
「ん?」
「お前、ココア派だろ」
 彼の顔には、こないだの「へえ」と同じ薄い笑いが載っていた。俺は頷くかわりに、廊下の窓の外を一瞬見た。空が青すぎる日、学生は嘘をつけない。
「購買、行くか?」
「高城、日直」
「サボる」
「却下」
「じゃあ、後で」
 会話を切るタイミングも、彼はうまい。切り際の足元に、冗談の欠片をわざと残していかない。その潔さで、彼はたぶん多くの人を救っている。救いの手は、見えるときと見えないときがある。

 五時間目の終わり。教壇の前に立つと、目の前の世界が整列する。黒板、チョーク、消し、チョーク、チョーク。道具の全部がいつもの位置に戻ると、人間だけが残る。篠原が、俺の隣でイレイサーを持ち直す。左手の甲に粉がうっすら付いて、それを気にせずに水平線を引いた。線に迷いがないのは、線の先に、彼にとっての“正解”があるからだ。人は正解の方角にだけ迷わない。そんなあたりまえを、彼の腕が証明してみせる。

 ふと、篠原が言う。
「君、今日、句読点、軽い」
 匿名の文体と一語一句同じではないが、間がまったく同じだった。息の吸い方、吐き方。一秒の遅れの置き方。俺は曖昧に笑って、黒板の隅を撫でた。撫で方を見られていると、撫でる動作が急に意味を持つ。意味を持った動作は、動作である前に、告白になる。

 放課後。日直日誌を開くと、ページの最後の行に、匿名くんの字が横たわる。

 ――犯人って言葉、やだな。僕たちただの共犯だろ。

 思わず、椅子に座ってしまった。立っていると、重さが分散してしまう。座ると、言葉の重さが一点に集まる。胸骨の裏で小さく鳴っていた鐘の音が、低い音に変わった。共犯。俺たちは、何の罪を分け合っているのだろう。思いつく罪はどれも甘く、罰はどれもやさしい。これを罪と呼べるなら、世界はもっとやさしいのに、と半分本気で思ってしまう。

 「共犯」という語を指先で撫でると、紙のこすれる音が、ひどく静かに聞こえた。静かな音ほど、遠くへ届く。教室のドアが開く音がして、俺は日直日誌をそっと閉じた。

 帰り道、信号の手前で立ち止まり、靴紐を結び直す。結び目は家の外に持ち出さない――自分に課したそのルールを、今日は少し破りたかった。共犯の相手が、きっと同じタイミングでどこかの角で靴紐を結んでいる想像をして、それでも俺は、結び目をきっちり足の甲に載せた。ルールを守ることが、彼へのやさしさの一部になる日がある。破ることが、やさしさになる日も、いつか来るのだろう。

 家に着く前、コンビニの前で高城に会った。手にはココアが二本。
「やっぱりサボったな」
「サボってない。補講」
「何の補講」
「気配り」
「単位足りてるだろ」
「いや、俺、落としてるから」
 彼は笑って、一本を俺に投げた。受け取る前に、肩甲骨の下で息が一度止まる。――見られている癖が、体の内側から二度目の現実になる。ココアの缶は、手に取って初めて「温かい」とわかる温度だった。
「サンキュ」
「恩は回収するって言ったろ」
「はいはい」
 高城は「じゃ」とだけ言い、足音を軽く残して去った。彼の残像は、いつも風の匂いを連れていく。風は、紙の上にも匂いを残す。

 家に戻ると、机の上の日直日誌が、昼より紙の音を高くして待っていた。夜の紙は軽い。余白が浮く。そこに、今日の締めくくりを書きつける。

 ――共犯、いい言葉だな。

 鉛筆の芯が「いい」の「い」で少し欠けた。欠けの形が小さな三角形で、角が好きなあの人が指で確かめそうな形だったので、消しゴムで丸めず、そのままにした。欠けを残す許可。それもたぶん、共犯の一部だ。

 ベッドに潜り、目を閉じる。黒板の粉の匂いが、まだ指にまとわりついている。明日は、また二択が来る。二択は、正解を与えないやさしさだ。選ぶたびに、選ばなかったほうの余白が生まれる。俺たちは、その余白で会話をしているのかもしれない。余白で触れ、余白で笑い、余白で黙る。それを、恋と呼んでも、たぶん誰も傷つかない。

 ――見てるよ、ずっと。

 最初の週に紙に落とされたその一言が、ようやく具体の重さを持ちはじめた。具体の重さは、怖い。けれど、怖さの形を知って、そこに指をかけるのは、きっと成長の別名だ。俺は胸骨の裏の小さな鐘に、そっと手を添える。音は止まらない。止まらないまま、深くなる。共犯という語の響きは、眠りに落ちる直前、いちばん静かでいちばん大きい。

 そして、夢の中でも、紙は白い余白を保っていた。書こうとすれば、書ける。書かなくても、意味はそこにある。意味の前で息を合わせる練習を、俺たちはまだ続けている。どこか切なく、やわらかく。ページが閉じられたあとも、視線は残る。見ていることが、やさしさであるうちは、俺は――見られていたいと思う。いい共犯でいるために。