翌週の月曜、俺は黒板の上で雑巾を滑らせながら、胸の奥でひとつ、数を数えるみたいに言葉を温めていた。ルール。俺たちにはもう、それがある。けれど、もう一段階、見通しの良い手すりがほしい。紙の端で足を踏み外さないための目印が。
チャイムが鳴る前、教卓の日直日誌を開き、鉛筆の先を軽く噛む。ページの繊維に、芯の黒が沈む感触を確かめてから書いた。
――提案。質問は一日一個。ヒントは二択で。
書いてすぐ、ページの上からボールペンの音が落ちてきた。「コトン」というキャップの小さな衝突音が、やけに近い。俺は顔を上げない。上げない練習を、最近よくしている。
インクの線は迷わないで走った。
――いいね。さっそく、好きな飲み物は? A:炭酸 B:ココア
俺は口の中で「B」と言ってから、鉛筆で「B」に丸をつけた。丸の下、ほんの少しだけ潰して。眠そうに見える句点の作り方を、今日は意識的にやっている。観察されることを、観察に返す練習。
数分と経たずに返事が来る。
――B。
俺は勝手に“優しい人”を想像した。炭酸の刺激で喉を洗う人は、状況の舵を取りにいくタイプで、ココアを選ぶ人は、舌を温めてから言葉を探す。もちろん偏見だ。でも、人は偏見抜きでは誰も好きになれない――そんな言い訳を胸のポケットにしまっておく。
候補は、三人に絞られる。いつもの三人、と言ってもいい。
高城――顔面が強い。クラスの中心。体育では目立つが、掃除でもふつうに働く。先生に媚びない。褒め言葉の角度がうまい。冗談が過ぎたときは自分でブレーキを踏む。
三浦――よく笑い、よくからかい、よく謝る。気が利くというより、気が前に出る。場の温度を読む速度がずば抜けていて、いつの間にか一番寒い人の隣で手を擦っているタイプ。
篠原――左利き。言葉が少ないかわりに、沈黙がきれい。紙を大事にして、端を指で撫でる癖がある。インクだまりがいつも、ノートの端に黒い星座を作る。
昼、購買の列で並んでいると、先にサンドイッチを確保した三浦が、片手でトレイを掲げながら言った。
「日直、ありがとな。黒板、今日もピカピカ」
「俺だけじゃないよ」
「知ってる。もう一人の奴、仕事きっちりだよな」
――匿名くん?
喉の裏が、急にちくりとした。表情に出さない。俺はストローを刺しながら言う。
「……そうだな」
「お前さ、黒板の上段の中央、最後に撫でる癖あるだろ。いつもそこ、艶が違う」
「……見てるな」
「お前の仕事は、見られてナンボだろ」
「なんの仕事」
「日直。いや、字の仕事」
「職業になってる」
三浦は笑い、俺の口端のパン粉を指で示した。今度はすぐ落とす。俺が落としたのを見て、彼は満足そうに頷いた。彼の満足はいつも、他人の小さな居心地の良さに寄り添っている。
午後、世界史の終わりにノートを開くと、ページにはもう一問、置かれていた。
――席は黒板から見て右寄り。A:窓側 B:廊下側
俺の席は、窓側。いつも風の通る音が遠くから来て、耳の中で丸くなる。俺は「A」に丸をつける。と、窓ガラスの反射でふいに視線が交差した。ガラスの向こうの俺と、こちら側の誰かが、ちょうど同じタイミングで瞬きをしたみたいに見えた。
「寝るなよ、○○」
高城が、後ろから笑って手を振る。彼の手の振り方は、作為がない。だからこそ、作為ゼロの人間にも見えてしまう。
「寝てない」
俺が言うと、彼は唇を尖らせ、すぐにまた笑い、前を向いた。勝手に心が騒ぐのは、やめろと命令しても難しい。
斜め前では、篠原がシャーペンの芯を替えて、ふっと窓の外に目を流した。目線の角度に、間の持ち方に、紙の上の“彼”が宿る。宿る、と言ってしまうのは、俺の心の容疑が濃いからだ。濃い色は、薄い紙をすぐに透かす。
放課後、教卓の前。俺はいつもどおり、黒板を消し、チョークの箱を整え、ノートを開く。ページの匂いは、授業の焦げた空気と混じって、少し金属っぽい。
そこに、匿名くんの文字が置かれていた。
――君の「、」の打ち方、急ぐと丸くなる。そこが好き
俺は、鉛筆の芯の先で紙を軽く突いた。
――観察しすぎ。変態
返事はすぐ。
――変態でいい。君の字だけは許可が欲しい
ページの間で、声も出さずに、俺は笑った。紙が「笑い」を吸ってくれるから、顔はまだ無表情でいられる。俺はその保護色に甘えすぎだろうか。
――許可、出してもいいかも
書いて、ほんの一拍置いてから、消しゴムで「かも」を薄く撫でた。完全には消さない。紙の目の底に、影のように残す。許可の影。俺の影。
火曜日。二択は遊びに変わる。朝、俺が聞く。
――休み時間、どっちが落ち着く? A:図書室の匂い B:体育館の木の床
返ってくる。
――A。紙の匂いは、時間の匂い
――わかる。紙には昨日が混ざってる
――黒板の粉にも、昨日が混ざってるよ
――じゃあ俺は毎日、昨日を拭いてるのか
――そう。昨日の輪郭を、君の手が薄くする
――なんか、いい仕事してる気がしてきた
――実際、いい仕事だよ
授業間の短い時間でも、彼の文は呼吸を怠らない。紙の上で、俺たちの息がすこしずつ合っていくのがわかる。俺は二択のレベルを、ほんの少しだけ上げた。
――体育、好き? A:好き B:苦手
――A。球技、好き。観戦も
――観戦、誰の?
――君
――体育、俺を観戦しないで
――じゃあ、字を観戦する
――観戦じゃなくて観察な
――観戦のほうが熱あるだろ
――……勝手に熱くなるな
昼、廊下で高城が声をかけてくる。
「今日の放課後、司書室行かね?」
「なんで」
「文化祭の展示でさ、去年の写真、借りたい。お前、字がうまいから、キャプション頼む」
「おだてても字は変わらないぞ」
「変わらなくていいから頼んでる。……あとでサイダー奢る」
「俺、ココア派」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。高城は片眉を上げて、「へえ」とだけ言って、先に歩いていった。背中の広い人間の、去り際の「へえ」は厄介だ。意味が過多で、意味が不足する。
図書室で、司書の先生が去年のアルバムを出してくれた。ページの上に、去年の俺たちの知らない顔が整列している。キャプションを書くのは簡単だが、簡単な仕事ほど緊張する。文字は、写真の端につく小さな重りになる。軽すぎても、重すぎても、写真が傾く。
「お前の字は、写真の下で姿勢を良くするタイプだ」
と、背後で高城が言った。「犯罪者っぽい」と自嘲する彼の字は、ここでは意外にも素直だった。真面目に線を引けば、彼の線は人の目を傷つけない。そう思いながら、俺は「三年演劇部 幕間」と書いた。点の丸を、少し眠そうにしてやった。
水曜日、二択はさらに個人的なところへ踏み込む。匿名くんから来た。
――朝、家を出るとき。A:玄関で靴紐を結ぶ B:廊下で歩きながら結ぶ
――A。結び目は家の外に持ち出さない
――きれい
――お前は?
――B。間に合わないから
――想像つく
――……想像、どのくらい?
――三秒遅刻して走ってくる
――二秒
――誤差の範囲
――範囲、やさしいな
――許可制だから
――許可?
――君の遅刻も、君の句点も、許可
――……甘やかすな
――君だけ
教室では、別の騒がしさが流れている。高城が体育祭の準備で体育委員と喧々諤々やっているらしく、昼休みも落ち着かない。三浦は相変わらず、誰かの間に座って笑う。篠原は、シャーペンの芯を替えるときだけ、ほんの一瞬、眉間に皺を寄せる。その皺の深さが、今日の「忙しさ」を教えてくれる。
放課後、黒板の前でイレイサーを動かしていると、背後から唐突に声が落ちた。
「君の『、』、今日も丸い」
俺は反射で振り向いた。誰もいない。窓の反射に、俺の驚いた顔と、教室の空気だけが映っている。振り向いたはずの何者かは、もういない。けれど、紙には続きがあった。
――君の「、」の丸、急ぐと丸くなる。そこが好き
同じ文が、今日の紙にも落ちている。既視感は、安心と不安を同じ比率で混ぜる。俺は、その混合液を静かに飲んだ。喉は焼けず、胸だけが温かい。
木曜、俺は少し意地悪な二択を用意した。
――プリント配るとき。A:前から順に B:一番後ろに投げる
――A。ただし、端は揃える
――「紙の端」が好きだろ
――うん。端は呼吸するから
――端が呼吸?
――紙の繊維は、端から乾く。息は、端に触れる
――詩人か
――詩人の真似事。君の字が詩になるから
昼、三浦が珍しく真顔で言った。
「○○、お前、最近、言いたいことを言うまでの“間”が短くなってる」
「そうか?」
「俺にだけじゃなく、他のやつにも。なんか、前より“届きそう”って顔する」
「顔は関係ないだろ」
「大いにある。顔って、壁でもあるし窓でもあるからな」
「どっちに見える」
「窓。開け方、知ってる感じ」
からかいじゃない声だった。からかわれない声を、俺は置き場所に困って、空の牛乳パックの隣に立てかけた。
放課後、雨が来た。校舎の角を曲がる風が、鈍い金属音を持ってくる。黒板の水分は一気に増え、拭いても拭いても薄い影が残る。力が入りすぎて、腕が痛くなる。イレイサーを持ち直した瞬間、また、背後から手が伸びてきた。左手。あの日と同じ。手はふっと俺の手からイレイサーを奪い、黒板の上に一筋、見事な水平線を引いた。振り返る前に、その人は去ってしまう。残ったのは、粉の匂いと、紙の上の一行。
――手、無理しない。君のペースで
「君のペース」という言い方に、俺はやけに救われる。勉強でも、恋でも、世界でも、ペースはいつも他人が決めるものだ。自分のペースという概念を、今の今まで持っていなかった気がする。
金曜、俺は二択を一度やめて、空白だけを開けた。紙の真ん中に、息を置くみたいに余白をつくる。匿名くんは、その余白を見逃さない。
――質問なし。僕からのヒントだけ。A:右利き B:左利き
――B?
――さあ
――ずるい
――ずるい、許可
昼休み、高城が俺の机に腰かけ、プリントの束を投げた。
「キャプション、神。マジで助かった。先生が『誰が書いたの』って。俺、胸張って『○○です』って言っといた」
「言わなくていい」
「なんで」
「匿名の仕事は、匿名のままがいい」
「ふうん」
彼は、俺の言い方の角度をまっすぐ受けて、あえて深追いしなかった。深追いしないという選択に、彼の優しさが宿る。優しさにも、形がある。高城のは、馬力型だ。
その日の最後に、俺は紙の下辺に、ごく小さな字で書いた。
――君の観察、許可する
鉛筆の線を、指で一度なぞる。指先に黒が薄くついて、爪の間が灰色になる。ノートを閉じる音は、いつもより静かで、いつもより遠かった。遠いのに、届く。そんな感覚が、今日の締めくくりだった。
*
翌週、ルールはもはや遊びになっていた。二択は、ときに意味がなくてもよかった。「朝の色 A:銀 B:乳白」「インクの匂い A:葡萄 B:鉄」。答えは、理由に先立って落ちてくる。「B」「A」。理由は、あとから拾えばいい。拾うとき、彼の語彙はいつも、俺の知らない引き出しから出てくる。
――どうして鉄?
――君の「。」が固い日がある。そういう日は匂いが鉄っぽい
――固い日、あるな
――そういう日は、無理に丸くしようとしないよ
――……やさしいな
――やさしい、許可
昼、三浦が俺にチョコチップメロンパンを差し出し、半分こにしながら言う。
「なあ、○○」
「ん」
「お前、ほんとに“いい顔”になってきた」
「それ、三回目だぞ」
「三回言うことは、たいがい本気だ」
「それ、どっかの政治家が言いそう」
「いや、俺が言った」
俺は笑った。笑っている間、ページの向こうで誰かが笑っている気がした。紙を挟んでも、笑いは移る。笑いは、液体だ。染みて、乾く。乾いたあとに、わずかな輪郭が残る。それが残香になる。
放課後、窓に夕陽が差し込む。ガラスはオレンジ色の膜になり、教室はすこし劇場みたいに見える。俺は黒板の端を拭き終え、ノートを開く。今日の匿名くんの文字は、いつもより少しだけ緊張していた。線が細い。息を詰めて書いた線だ。
――君の「、」の丸、急いでない。今日は眠ってない。そこが好き
俺は、呼吸の奥をそっと掬って確かめる。今日は、たしかに急いでない。言葉の手すりを両手で掴んで、段差をひとつずつ降りている感じがする。俺は鉛筆の先で紙を撫でるみたいに、返事を書いた。
――今日は、許可をちゃんと出せそう
インクが重なった。
――じゃあ、お願い。君の『、』の丸、俺のために一度だけ、わざと大きくして
ページの上で、俺は一度、目を閉じた。目を閉じると、黒板の粉の匂いが濃くなる。粉は視覚の仕事を肩代わりして、嗅覚に残り香をくれる。ゆっくり息を吸い、吐く。鉛筆を持ち直し、紙の上にひとつ、丸を置いた。いつもより、気持ち大きく。下の潰れを、ほんの少しだけ残す。
――、
それを見ている誰かの顔を想像する。想像の顔は、想像のままが一番美しい。けれど、俺はもう、その顔の輪郭の一部を、知ってしまっている。左手の癖。紙の端の撫で方。息の吸い方。笑う前の“一秒”。
インクが落ちる。
――ありがとう。君の丸が、きょうは星みたいだ
星。黒板の粉が光に舞うときのあの粒のことを、彼もきっと知っている。知らないで出てきた言葉なら、もっと嬉しい。知っていて出てきた言葉でも、やっぱり嬉しい。
ノートを閉じる前に、俺は、ページの一番下に、ほんの小さく書いた。
――見てていいよ
書いた瞬間、胸の奥で何かが静かに鳴った。鐘の音は小さいほど、遠くへ届く。俺はチョークの箱を揃え、窓の鍵を確かめ、黒板の端をもう一度撫でた。明日はまた、二択がやって来るだろう。二択は、相手を縛らないための優しさだ。正解を与えないための、練習だ。
帰り道、アスファルトは昨日より硬く、空の色は今日のほうが柔らかかった。信号が青になって、俺は渡る。渡るとき、胸の中にもう一度、彼の文字が落ちた。
――変態でいい。君の字だけは許可が欲しい
許可は出した。紙の上で。声ではまだ、出していない。声にする練習は、次の章に回そう。練習の途中にある今が、一番静かに美しいことを、俺はうすうす知っている。けれど、いつまでも練習を続けるわけにもいかないことも、同時に。
靴紐を結び直し、俺は家の門をくぐった。靴紐の結び目は、家の外に持ち出さない。今日も、そのルールは守った。いいルールは、人を自由にする。俺たちの二択も、きっとそうだと、強がりじゃなく思えた。
チャイムが鳴る前、教卓の日直日誌を開き、鉛筆の先を軽く噛む。ページの繊維に、芯の黒が沈む感触を確かめてから書いた。
――提案。質問は一日一個。ヒントは二択で。
書いてすぐ、ページの上からボールペンの音が落ちてきた。「コトン」というキャップの小さな衝突音が、やけに近い。俺は顔を上げない。上げない練習を、最近よくしている。
インクの線は迷わないで走った。
――いいね。さっそく、好きな飲み物は? A:炭酸 B:ココア
俺は口の中で「B」と言ってから、鉛筆で「B」に丸をつけた。丸の下、ほんの少しだけ潰して。眠そうに見える句点の作り方を、今日は意識的にやっている。観察されることを、観察に返す練習。
数分と経たずに返事が来る。
――B。
俺は勝手に“優しい人”を想像した。炭酸の刺激で喉を洗う人は、状況の舵を取りにいくタイプで、ココアを選ぶ人は、舌を温めてから言葉を探す。もちろん偏見だ。でも、人は偏見抜きでは誰も好きになれない――そんな言い訳を胸のポケットにしまっておく。
候補は、三人に絞られる。いつもの三人、と言ってもいい。
高城――顔面が強い。クラスの中心。体育では目立つが、掃除でもふつうに働く。先生に媚びない。褒め言葉の角度がうまい。冗談が過ぎたときは自分でブレーキを踏む。
三浦――よく笑い、よくからかい、よく謝る。気が利くというより、気が前に出る。場の温度を読む速度がずば抜けていて、いつの間にか一番寒い人の隣で手を擦っているタイプ。
篠原――左利き。言葉が少ないかわりに、沈黙がきれい。紙を大事にして、端を指で撫でる癖がある。インクだまりがいつも、ノートの端に黒い星座を作る。
昼、購買の列で並んでいると、先にサンドイッチを確保した三浦が、片手でトレイを掲げながら言った。
「日直、ありがとな。黒板、今日もピカピカ」
「俺だけじゃないよ」
「知ってる。もう一人の奴、仕事きっちりだよな」
――匿名くん?
喉の裏が、急にちくりとした。表情に出さない。俺はストローを刺しながら言う。
「……そうだな」
「お前さ、黒板の上段の中央、最後に撫でる癖あるだろ。いつもそこ、艶が違う」
「……見てるな」
「お前の仕事は、見られてナンボだろ」
「なんの仕事」
「日直。いや、字の仕事」
「職業になってる」
三浦は笑い、俺の口端のパン粉を指で示した。今度はすぐ落とす。俺が落としたのを見て、彼は満足そうに頷いた。彼の満足はいつも、他人の小さな居心地の良さに寄り添っている。
午後、世界史の終わりにノートを開くと、ページにはもう一問、置かれていた。
――席は黒板から見て右寄り。A:窓側 B:廊下側
俺の席は、窓側。いつも風の通る音が遠くから来て、耳の中で丸くなる。俺は「A」に丸をつける。と、窓ガラスの反射でふいに視線が交差した。ガラスの向こうの俺と、こちら側の誰かが、ちょうど同じタイミングで瞬きをしたみたいに見えた。
「寝るなよ、○○」
高城が、後ろから笑って手を振る。彼の手の振り方は、作為がない。だからこそ、作為ゼロの人間にも見えてしまう。
「寝てない」
俺が言うと、彼は唇を尖らせ、すぐにまた笑い、前を向いた。勝手に心が騒ぐのは、やめろと命令しても難しい。
斜め前では、篠原がシャーペンの芯を替えて、ふっと窓の外に目を流した。目線の角度に、間の持ち方に、紙の上の“彼”が宿る。宿る、と言ってしまうのは、俺の心の容疑が濃いからだ。濃い色は、薄い紙をすぐに透かす。
放課後、教卓の前。俺はいつもどおり、黒板を消し、チョークの箱を整え、ノートを開く。ページの匂いは、授業の焦げた空気と混じって、少し金属っぽい。
そこに、匿名くんの文字が置かれていた。
――君の「、」の打ち方、急ぐと丸くなる。そこが好き
俺は、鉛筆の芯の先で紙を軽く突いた。
――観察しすぎ。変態
返事はすぐ。
――変態でいい。君の字だけは許可が欲しい
ページの間で、声も出さずに、俺は笑った。紙が「笑い」を吸ってくれるから、顔はまだ無表情でいられる。俺はその保護色に甘えすぎだろうか。
――許可、出してもいいかも
書いて、ほんの一拍置いてから、消しゴムで「かも」を薄く撫でた。完全には消さない。紙の目の底に、影のように残す。許可の影。俺の影。
火曜日。二択は遊びに変わる。朝、俺が聞く。
――休み時間、どっちが落ち着く? A:図書室の匂い B:体育館の木の床
返ってくる。
――A。紙の匂いは、時間の匂い
――わかる。紙には昨日が混ざってる
――黒板の粉にも、昨日が混ざってるよ
――じゃあ俺は毎日、昨日を拭いてるのか
――そう。昨日の輪郭を、君の手が薄くする
――なんか、いい仕事してる気がしてきた
――実際、いい仕事だよ
授業間の短い時間でも、彼の文は呼吸を怠らない。紙の上で、俺たちの息がすこしずつ合っていくのがわかる。俺は二択のレベルを、ほんの少しだけ上げた。
――体育、好き? A:好き B:苦手
――A。球技、好き。観戦も
――観戦、誰の?
――君
――体育、俺を観戦しないで
――じゃあ、字を観戦する
――観戦じゃなくて観察な
――観戦のほうが熱あるだろ
――……勝手に熱くなるな
昼、廊下で高城が声をかけてくる。
「今日の放課後、司書室行かね?」
「なんで」
「文化祭の展示でさ、去年の写真、借りたい。お前、字がうまいから、キャプション頼む」
「おだてても字は変わらないぞ」
「変わらなくていいから頼んでる。……あとでサイダー奢る」
「俺、ココア派」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。高城は片眉を上げて、「へえ」とだけ言って、先に歩いていった。背中の広い人間の、去り際の「へえ」は厄介だ。意味が過多で、意味が不足する。
図書室で、司書の先生が去年のアルバムを出してくれた。ページの上に、去年の俺たちの知らない顔が整列している。キャプションを書くのは簡単だが、簡単な仕事ほど緊張する。文字は、写真の端につく小さな重りになる。軽すぎても、重すぎても、写真が傾く。
「お前の字は、写真の下で姿勢を良くするタイプだ」
と、背後で高城が言った。「犯罪者っぽい」と自嘲する彼の字は、ここでは意外にも素直だった。真面目に線を引けば、彼の線は人の目を傷つけない。そう思いながら、俺は「三年演劇部 幕間」と書いた。点の丸を、少し眠そうにしてやった。
水曜日、二択はさらに個人的なところへ踏み込む。匿名くんから来た。
――朝、家を出るとき。A:玄関で靴紐を結ぶ B:廊下で歩きながら結ぶ
――A。結び目は家の外に持ち出さない
――きれい
――お前は?
――B。間に合わないから
――想像つく
――……想像、どのくらい?
――三秒遅刻して走ってくる
――二秒
――誤差の範囲
――範囲、やさしいな
――許可制だから
――許可?
――君の遅刻も、君の句点も、許可
――……甘やかすな
――君だけ
教室では、別の騒がしさが流れている。高城が体育祭の準備で体育委員と喧々諤々やっているらしく、昼休みも落ち着かない。三浦は相変わらず、誰かの間に座って笑う。篠原は、シャーペンの芯を替えるときだけ、ほんの一瞬、眉間に皺を寄せる。その皺の深さが、今日の「忙しさ」を教えてくれる。
放課後、黒板の前でイレイサーを動かしていると、背後から唐突に声が落ちた。
「君の『、』、今日も丸い」
俺は反射で振り向いた。誰もいない。窓の反射に、俺の驚いた顔と、教室の空気だけが映っている。振り向いたはずの何者かは、もういない。けれど、紙には続きがあった。
――君の「、」の丸、急ぐと丸くなる。そこが好き
同じ文が、今日の紙にも落ちている。既視感は、安心と不安を同じ比率で混ぜる。俺は、その混合液を静かに飲んだ。喉は焼けず、胸だけが温かい。
木曜、俺は少し意地悪な二択を用意した。
――プリント配るとき。A:前から順に B:一番後ろに投げる
――A。ただし、端は揃える
――「紙の端」が好きだろ
――うん。端は呼吸するから
――端が呼吸?
――紙の繊維は、端から乾く。息は、端に触れる
――詩人か
――詩人の真似事。君の字が詩になるから
昼、三浦が珍しく真顔で言った。
「○○、お前、最近、言いたいことを言うまでの“間”が短くなってる」
「そうか?」
「俺にだけじゃなく、他のやつにも。なんか、前より“届きそう”って顔する」
「顔は関係ないだろ」
「大いにある。顔って、壁でもあるし窓でもあるからな」
「どっちに見える」
「窓。開け方、知ってる感じ」
からかいじゃない声だった。からかわれない声を、俺は置き場所に困って、空の牛乳パックの隣に立てかけた。
放課後、雨が来た。校舎の角を曲がる風が、鈍い金属音を持ってくる。黒板の水分は一気に増え、拭いても拭いても薄い影が残る。力が入りすぎて、腕が痛くなる。イレイサーを持ち直した瞬間、また、背後から手が伸びてきた。左手。あの日と同じ。手はふっと俺の手からイレイサーを奪い、黒板の上に一筋、見事な水平線を引いた。振り返る前に、その人は去ってしまう。残ったのは、粉の匂いと、紙の上の一行。
――手、無理しない。君のペースで
「君のペース」という言い方に、俺はやけに救われる。勉強でも、恋でも、世界でも、ペースはいつも他人が決めるものだ。自分のペースという概念を、今の今まで持っていなかった気がする。
金曜、俺は二択を一度やめて、空白だけを開けた。紙の真ん中に、息を置くみたいに余白をつくる。匿名くんは、その余白を見逃さない。
――質問なし。僕からのヒントだけ。A:右利き B:左利き
――B?
――さあ
――ずるい
――ずるい、許可
昼休み、高城が俺の机に腰かけ、プリントの束を投げた。
「キャプション、神。マジで助かった。先生が『誰が書いたの』って。俺、胸張って『○○です』って言っといた」
「言わなくていい」
「なんで」
「匿名の仕事は、匿名のままがいい」
「ふうん」
彼は、俺の言い方の角度をまっすぐ受けて、あえて深追いしなかった。深追いしないという選択に、彼の優しさが宿る。優しさにも、形がある。高城のは、馬力型だ。
その日の最後に、俺は紙の下辺に、ごく小さな字で書いた。
――君の観察、許可する
鉛筆の線を、指で一度なぞる。指先に黒が薄くついて、爪の間が灰色になる。ノートを閉じる音は、いつもより静かで、いつもより遠かった。遠いのに、届く。そんな感覚が、今日の締めくくりだった。
*
翌週、ルールはもはや遊びになっていた。二択は、ときに意味がなくてもよかった。「朝の色 A:銀 B:乳白」「インクの匂い A:葡萄 B:鉄」。答えは、理由に先立って落ちてくる。「B」「A」。理由は、あとから拾えばいい。拾うとき、彼の語彙はいつも、俺の知らない引き出しから出てくる。
――どうして鉄?
――君の「。」が固い日がある。そういう日は匂いが鉄っぽい
――固い日、あるな
――そういう日は、無理に丸くしようとしないよ
――……やさしいな
――やさしい、許可
昼、三浦が俺にチョコチップメロンパンを差し出し、半分こにしながら言う。
「なあ、○○」
「ん」
「お前、ほんとに“いい顔”になってきた」
「それ、三回目だぞ」
「三回言うことは、たいがい本気だ」
「それ、どっかの政治家が言いそう」
「いや、俺が言った」
俺は笑った。笑っている間、ページの向こうで誰かが笑っている気がした。紙を挟んでも、笑いは移る。笑いは、液体だ。染みて、乾く。乾いたあとに、わずかな輪郭が残る。それが残香になる。
放課後、窓に夕陽が差し込む。ガラスはオレンジ色の膜になり、教室はすこし劇場みたいに見える。俺は黒板の端を拭き終え、ノートを開く。今日の匿名くんの文字は、いつもより少しだけ緊張していた。線が細い。息を詰めて書いた線だ。
――君の「、」の丸、急いでない。今日は眠ってない。そこが好き
俺は、呼吸の奥をそっと掬って確かめる。今日は、たしかに急いでない。言葉の手すりを両手で掴んで、段差をひとつずつ降りている感じがする。俺は鉛筆の先で紙を撫でるみたいに、返事を書いた。
――今日は、許可をちゃんと出せそう
インクが重なった。
――じゃあ、お願い。君の『、』の丸、俺のために一度だけ、わざと大きくして
ページの上で、俺は一度、目を閉じた。目を閉じると、黒板の粉の匂いが濃くなる。粉は視覚の仕事を肩代わりして、嗅覚に残り香をくれる。ゆっくり息を吸い、吐く。鉛筆を持ち直し、紙の上にひとつ、丸を置いた。いつもより、気持ち大きく。下の潰れを、ほんの少しだけ残す。
――、
それを見ている誰かの顔を想像する。想像の顔は、想像のままが一番美しい。けれど、俺はもう、その顔の輪郭の一部を、知ってしまっている。左手の癖。紙の端の撫で方。息の吸い方。笑う前の“一秒”。
インクが落ちる。
――ありがとう。君の丸が、きょうは星みたいだ
星。黒板の粉が光に舞うときのあの粒のことを、彼もきっと知っている。知らないで出てきた言葉なら、もっと嬉しい。知っていて出てきた言葉でも、やっぱり嬉しい。
ノートを閉じる前に、俺は、ページの一番下に、ほんの小さく書いた。
――見てていいよ
書いた瞬間、胸の奥で何かが静かに鳴った。鐘の音は小さいほど、遠くへ届く。俺はチョークの箱を揃え、窓の鍵を確かめ、黒板の端をもう一度撫でた。明日はまた、二択がやって来るだろう。二択は、相手を縛らないための優しさだ。正解を与えないための、練習だ。
帰り道、アスファルトは昨日より硬く、空の色は今日のほうが柔らかかった。信号が青になって、俺は渡る。渡るとき、胸の中にもう一度、彼の文字が落ちた。
――変態でいい。君の字だけは許可が欲しい
許可は出した。紙の上で。声ではまだ、出していない。声にする練習は、次の章に回そう。練習の途中にある今が、一番静かに美しいことを、俺はうすうす知っている。けれど、いつまでも練習を続けるわけにもいかないことも、同時に。
靴紐を結び直し、俺は家の門をくぐった。靴紐の結び目は、家の外に持ち出さない。今日も、そのルールは守った。いいルールは、人を自由にする。俺たちの二択も、きっとそうだと、強がりじゃなく思えた。



