朝の教室は、粉の香りがいつもより薄かった。湿度が下がって、黒板の肌理が乾いている。布を一往復させただけで、白い霧がすっと空にまざって消えた。窓際の後方――新しい席から見える世界にも、もう緊張の皺は残っていない。左肩に光、右側にクラスのざわめき。背中で受ける音はやわらかく、背骨の真ん中でひとつにまとまって、胸の奥へ落ちてくる。
教卓に立ち、日直日誌を開く。ページの端が指先に触れて、薄い紙の冷たさが一拍遅れて伝わる。ここは、もう交換ノートではない。匿名のルールは封を切られ、封筒は役目を終えて、きちんと畳まれた。けれど、ページの上で育ってきた呼吸は、消えたりしない。
最終ページに、俺は静かに鉛筆を置いた。最初の日、黒板の粉の匂いに紛れて見つけたあの走り書き。始まりの線へ、もう一度。
――お前の字、好き。
その右側に、すこし間を置いて、もう一行を重ねる。
――君の声も、好き。
書き終えると、胸の内側に、ゆっくりと水が満ちるみたいな静けさが生まれた。言葉を置いてから訪れる静けさは、前よりも濃い。匿名という薄い布がなくなったぶん、音が直に届くようになったのだろう。怖さはない。怖かった場所に、名前が置かれている。
チャイム直前、扉の金具が軽く鳴り、足音がひとつ分だけ近づいた。俺の席の横で、呼吸がふわりと止まる。
「……○○」
名前を呼ばれただけで、胸の奥がやけに静かになった。篠原の声は、紙の向こうで読んできた温度と同じだ。近いのに、優しく落ちてくる。音の縁が丸い。黒板の「よ」の尾みたいに、最後が少しだけ長く残る。
「好き」
言い切った彼の声の重さが、机の木目に溶けて、掌までもぐり込んでくる。俺は、二拍も一拍半も要らずに、返事を口に乗せた。
「……俺も」
その瞬間、教室の空気の密度がほんの少し変わった気がした。世界が一度手前に寄ってきて、俺たちの周りで落ち着く感じ。誰かが息を呑み、誰かが笑う気配がして、予想通り、軽口の合唱がすぐ始まる。
「おーい、朝から何だよ告白劇場」
「観客いらない」
「じゃ放課後チケット売るわ。S席黒板前、A席窓側」
「値段は?」
「拍手払い。あと交換ノートの過去回読ませろ」
「読ませない」
笑いが波のように広がる。けれど、その波の中心は揺れなかった。高城が遠くからこっちを見て、親指を一度だけ立てる。三浦は机を指で二度トントンと叩いて、目だけで「ようこそ」を言う。先生が教卓に入ってきて、日直ノートの表紙に手を伸ばした。
「最後のページ、確認するぞ。今日でしめだ」
俺は頷いて、ノートを閉じて、先生に返した。先生は何も言わない。紙をパタンと叩く音だけが教室をよぎり、そこに小さな儀式の影が落ちた。交換ノートは、今日で本当に終わる。終わるけれど、終わりに名前があるなら、終わりは引き継ぎ式みたいな顔をする。紙から声へ。余白から呼吸へ。
ホームルームのあと、黒板の右下を見た。紙やすりを当ててから数日経つ角は、ますます滑らかで、そこだけ薄い光を湛えている。俺が布で一往復している間、篠原は左手でイレイサーの面を整え、右手でチョークを箱に戻していった。動作のひとつひとつが丁寧だ。動作の丁寧さは、言葉の準備になっている。準備された言葉は、短くてもよく届く。
現代文の時間、先生が言った。「声に出して読むこと」と「黙読すること」は、脳の別の場所を使うらしい。紙の上で理解していたことが、声に乗せるだけで、別の角度から自分の中に沈んでいく。黒板に書かれた「声」の二文字は、いつもより深く見えた。
昼。弁当のふたを開けると、三浦がすぐ寄ってくる。
「日直じゃない日も、ノート開いとく?」
「もう閉じた」
「閉じたのか。めでたい」
「めでたい?」
「ページを閉じるのは、声で開く合図だろ」
「うるさい比喩だな」
「晴れの日は辞書、曇りはハイブリッド、雨の日は詩。今日は快晴。全部使う」
高城も、トレーを片手に座り込む。
「お前ら、朝のS席、俺が買い占めた」
「誰に売るつもりだった」
「会場の骨に興味がある人々に」
「骨って言うな」
「骨があるから盛り上がるんだ。……で、今日のチケット代は?」
「拍手」
「安いな」
「けど満たされる」
「だろ?」
笑っている間、ふと視線の端で、篠原がストローをつまんで外す仕草をした。蓋の穴の縁を指でそっとなぞってから、静かに差し直す。その慎重さに、声の影が宿る。紙の上では感じ取っていた性質が、声にすると違う色で立ち上がる。俺はそれが不思議で、面白く、すこし切なかった。
午後の授業は、淡々と進んだ。歴史の年号は、今日は語呂合わせがすっと入る。数学は、分数の約分がいつもより滑らか。滑らかに解ける線の流れは、午前中に名前を呼ばれたときの胸の静けさに似ている。静けさというのは、集中の別名だ。
掃除の前、篠原が俺の席の横に立って、小さく言う。
「日直じゃない日も、君を見ていい?」
「許可。……ただし見返す」
「それが一番怖い」
「おあいこ」
彼は笑って、ほんの少し肩を竦める。その小さな身振りが、紙の上の括弧の働きに似ている。括弧で照れを包んでから、核心を差し出すやり方。俺はそれごと好きだと思った。好きは、合計の言い方で伝えると、嘘っぽくならない。
掃除の時間、黒板の上部を拭くために椅子に乗る。篠原がいつものように足元の椅子を押さえ、揺れを止める。俺は上から下、左から右、最後に上段中央を撫でる。粉が雲みたいに薄く舞い、教室の空気に溶ける。ああ、この動作も今日で区切りがつくのだと思うと、指先が普段より少し丁寧になった。丁寧の最後に、吐く息が遠くへ伸びる。
先生にノートを正式に返す時間になった。教卓の前。俺と篠原と、ノート。先生は軽く頷き、表紙を撫でて、棚に収めた。誰かの宿題の束と同じ場所に、俺たちの白い季節が静かに滑り込む。その光景を見た瞬間、なぜか胸が誇らしくなった。見られることが、ちょっとだけ誇らしい。だって、見ているのが篠原だから。俺の字を知っていて、俺の「間」を知っている人間に、見られている。
放課後。雨上がりの昇降口は、光が湿っていた。床に薄い水の膜が残り、蛍光灯の白を鈍く返す。空はまだ低い。遠くの雲の縁だけ、微かにほぐれている。
靴を履き替えながら、俺はスマホのメモを開いた。篠原の横顔が、ガラスに薄く映る。左手が胸の上で、いつものように指先をそっと押さえている。彼は何か言いかけ、少し飲み込んで、結局、短く落とした。
「君の字で、俺の名前、呼んで」
紙の上で呼ぶのでは、もう足りないのだ、と彼の目が言っている。ページを閉じたぶん、場所を移そう。俺は頷いて、スマホの画面に手書きのメモを開き、“俺の字”でゆっくり書いた。
――しのはら
払いの長さを、彼の息に合わせる。最後の「ら」の尾を、黒板の「よ」の尾みたいに、気持ち長く残す。画面を傾けて見せると、彼はほんの少し目を細めて、息を吸った。
「……○○」
声は、スマホの光ごと、俺の胸に入ってきた。声で呼ばれる名前は、紙の上よりも早く届き、遅く消える。消え際に、小さな尾が残る。その尾に、二人の足音が重なる。昇降口の床に、小さな水の輪が並ぶ。俺たちの靴先で、黒板の粉みたいな光が淡く散った。
「明日、朝」
「うん」
「黒板、二分」
「うん」
約束は、短いほど強い。長い約束は、時々、言葉が荷物になる。荷物は減らして、手は空けておく。空けた手で、相手の声を受け取るために。
帰り道、規則正しく並ぶ街路樹の影が、道路に鍵盤みたいな模様を作っていた。そこを歩くと、靴の底が音を置く。縦棒の足音。匿名の季節に覚えた感覚が、今は歩幅の中に溶け込んでいる。匿名は守るためのルールだった。守ったうえで破るのが、今日の正解だった。破る許可をくれたのは、篠原の「いる」という一行と、あの朝の二分。二分の余白は、思っていたよりも遠くまで届く。
家に着くと、机に向かった。日直ノートはもう手元にない。けれど、机の上の白は、あの紙の白に続いている。俺は白の真ん中に、小さく点を置いた。点は、音の前。呼吸の前。名前になる前の前。そこから線を一センチだけ引く。線の前の“皺”を慎重になぞる。明日のための、いつもの練習。
スマホが震えて、三浦からメッセージが来る。「今日の“ありがとう”、ゼロ拍」。「最短だな」と返すと、「最短は最良、最長は最遠、どっちも必要」と謎の格言が飛んできた。「どこで拾ってくるんだ」「俺の中」「リサイクルかよ」「サステナブルな詩」。高城からも来る。「明日S席、もう売り切れ」。無視した。いや、スタンプだけ返した。バニラのやつ。
シャワーで粉の残りを落とす。掌から白い星雲が流れ、排水口に消えていく。落ちていく白を見送りながら、落ちないものの正体を思う。声だ。紙から剥がれないインクの匂いみたいに、声は体の中に居候する。居候させる場所を、俺は今日、やっと整えた。
灯りを落とし、天井を黒板に見立てて、目を閉じる。黒板の右上に、小さな点。点の横に、短い線。線の先に、名前。俺は喉の奥で、一度だけ自分の名前を呼んでみる。呼んでから、篠原の名前を、紙じゃなく、声で呼ぶ。呼んだ音は、壁に当たって戻ってこない。消える。消えながら、どこかに残る。残り方が、紙の文字と違う。違いを好きになるのに、時間は要らなかった。
――
翌朝。二分前。教室の空気は冷たく、黒板の肌は乾いている。扉の金具が音を立て、篠原が入ってくる。言葉の代わりに、目が一度うなずく。俺たちは黒板の“何もないところ”に目を置いて、同じ呼吸をひとつ分、浮かせた。
俺が先に声を出す。
「……篠原」
名前だけ。小さく、はっきりと。黒板の右下、紙やすりの痕が薄く光る。彼は笑って、同じだけの小ささで、俺の名前を返す。声は、粉の季節の祝福の下で、すこしだけ星みたいにきらめいた。
日直ノートは閉じた。最後のページには「君の声も、好き」と書いてある。ページを閉じた音は、思ったよりも軽かった。軽い音は、遠くへ行きやすい。遠くへ行って、戻ってこない。戻ってこない音は、かわりに胸に居つく。居ついて、日常の真ん中に椅子を置く。椅子の座り心地は、驚くほどいい。
授業が始まっても、俺の中のざわめきは、急に静かになった。静けさは、何かを失ったあとの空白ではない。何かを得て、余計な音が減ったあとの適温だ。黒板の文字はいつも通り、先生の声の高さもいつも通り、クラスの笑いのタイミングもいつも通り。すべてが「いつも通り」で、その中心に新しい椅子がある。それだけで、風景の見え方は変わる。
昼、廊下で高城が「S席立ち見」とふざけ、俺は「却下」と返し、三浦は「今日のノートのコーナー、放送終了」と校内放送風に締めた。「次回予告は?」「声の特集」「お前ら、仕事が速い」。笑い合う間にも、俺の耳は、ふいに自分の名前を拾う。呼ばれ慣れていない音は、拾われるたび姿勢を正す。姿勢を正して、その姿勢が自然になる。自然になったら、俺はもう、匿名のページに戻れない。戻らなくていい。
放課後、昇降口で、俺はもう一度だけスマホを取り出した。メモの画面に“俺の字”で、彼の名前を少し崩して書く。崩した「の」の丸は、昨日より少し大きい。崩し方にも、許可が出たのだと思う。
「……しのはら」
彼は笑って、少しだけ照れて、右手で自分の胸ポケットを押さえた。左手を胸から離し、今度はその指先で俺の名前を空に書く。空だから、消えない。見えないけれど、確かにそこにある。俺はその見えない線の上に、声をひとつ乗せた。
「はい」
返事のテンポは、もう誰にも計られない。計られなくていい。計られない返事は、自由だ。自由な返事は、やさしい。
黒板の粉は、今日も指の谷間にうっすら残る。粉が舞っている間は、線が生まれ続ける。ノートは閉じた。けれど、会話は始まったままだ。ページではなく、声で。余白ではなく、呼吸で。匿名ではなく、名前で。
帰り道、アスファルトに落ちた光のかけらを踏んで歩きながら、俺は新しい自分の輪郭を指先で確かめていた。匿名のページに隠れて、俺は自分の“声”を手に入れた。これからは、見られることがちょっと誇らしい。だって、見ているのが、篠原だから。
彼が見て、彼に見返されて、笑って、たまに黙って、二分の余白を守って、名前で呼び合う。距離は、チョーク一本ぶん。けれど、その一本の上に俺たちは、今日もちゃんと立っている。落ちずに。ぶれずに。静かに。やさしく。――少しだけ、切なく。
紙の季節は終わった。代わりに、声の季節が始まる。始まったばかりの季節は、何度でも、最初の一音からやり直せる。
俺は喉の奥で、もう一度だけ、彼の名前を呼んだ。
小さく、はっきりと。
呼んだ音が、空に吸い込まれていく。
吸い込まれて、どこかで星になる。
その星の下で、明日もまた、二分。
黒板の前で。
ページは閉じたまま、声で呼ぶ。
それが、俺のこれからの、告白の仕方だ。
教卓に立ち、日直日誌を開く。ページの端が指先に触れて、薄い紙の冷たさが一拍遅れて伝わる。ここは、もう交換ノートではない。匿名のルールは封を切られ、封筒は役目を終えて、きちんと畳まれた。けれど、ページの上で育ってきた呼吸は、消えたりしない。
最終ページに、俺は静かに鉛筆を置いた。最初の日、黒板の粉の匂いに紛れて見つけたあの走り書き。始まりの線へ、もう一度。
――お前の字、好き。
その右側に、すこし間を置いて、もう一行を重ねる。
――君の声も、好き。
書き終えると、胸の内側に、ゆっくりと水が満ちるみたいな静けさが生まれた。言葉を置いてから訪れる静けさは、前よりも濃い。匿名という薄い布がなくなったぶん、音が直に届くようになったのだろう。怖さはない。怖かった場所に、名前が置かれている。
チャイム直前、扉の金具が軽く鳴り、足音がひとつ分だけ近づいた。俺の席の横で、呼吸がふわりと止まる。
「……○○」
名前を呼ばれただけで、胸の奥がやけに静かになった。篠原の声は、紙の向こうで読んできた温度と同じだ。近いのに、優しく落ちてくる。音の縁が丸い。黒板の「よ」の尾みたいに、最後が少しだけ長く残る。
「好き」
言い切った彼の声の重さが、机の木目に溶けて、掌までもぐり込んでくる。俺は、二拍も一拍半も要らずに、返事を口に乗せた。
「……俺も」
その瞬間、教室の空気の密度がほんの少し変わった気がした。世界が一度手前に寄ってきて、俺たちの周りで落ち着く感じ。誰かが息を呑み、誰かが笑う気配がして、予想通り、軽口の合唱がすぐ始まる。
「おーい、朝から何だよ告白劇場」
「観客いらない」
「じゃ放課後チケット売るわ。S席黒板前、A席窓側」
「値段は?」
「拍手払い。あと交換ノートの過去回読ませろ」
「読ませない」
笑いが波のように広がる。けれど、その波の中心は揺れなかった。高城が遠くからこっちを見て、親指を一度だけ立てる。三浦は机を指で二度トントンと叩いて、目だけで「ようこそ」を言う。先生が教卓に入ってきて、日直ノートの表紙に手を伸ばした。
「最後のページ、確認するぞ。今日でしめだ」
俺は頷いて、ノートを閉じて、先生に返した。先生は何も言わない。紙をパタンと叩く音だけが教室をよぎり、そこに小さな儀式の影が落ちた。交換ノートは、今日で本当に終わる。終わるけれど、終わりに名前があるなら、終わりは引き継ぎ式みたいな顔をする。紙から声へ。余白から呼吸へ。
ホームルームのあと、黒板の右下を見た。紙やすりを当ててから数日経つ角は、ますます滑らかで、そこだけ薄い光を湛えている。俺が布で一往復している間、篠原は左手でイレイサーの面を整え、右手でチョークを箱に戻していった。動作のひとつひとつが丁寧だ。動作の丁寧さは、言葉の準備になっている。準備された言葉は、短くてもよく届く。
現代文の時間、先生が言った。「声に出して読むこと」と「黙読すること」は、脳の別の場所を使うらしい。紙の上で理解していたことが、声に乗せるだけで、別の角度から自分の中に沈んでいく。黒板に書かれた「声」の二文字は、いつもより深く見えた。
昼。弁当のふたを開けると、三浦がすぐ寄ってくる。
「日直じゃない日も、ノート開いとく?」
「もう閉じた」
「閉じたのか。めでたい」
「めでたい?」
「ページを閉じるのは、声で開く合図だろ」
「うるさい比喩だな」
「晴れの日は辞書、曇りはハイブリッド、雨の日は詩。今日は快晴。全部使う」
高城も、トレーを片手に座り込む。
「お前ら、朝のS席、俺が買い占めた」
「誰に売るつもりだった」
「会場の骨に興味がある人々に」
「骨って言うな」
「骨があるから盛り上がるんだ。……で、今日のチケット代は?」
「拍手」
「安いな」
「けど満たされる」
「だろ?」
笑っている間、ふと視線の端で、篠原がストローをつまんで外す仕草をした。蓋の穴の縁を指でそっとなぞってから、静かに差し直す。その慎重さに、声の影が宿る。紙の上では感じ取っていた性質が、声にすると違う色で立ち上がる。俺はそれが不思議で、面白く、すこし切なかった。
午後の授業は、淡々と進んだ。歴史の年号は、今日は語呂合わせがすっと入る。数学は、分数の約分がいつもより滑らか。滑らかに解ける線の流れは、午前中に名前を呼ばれたときの胸の静けさに似ている。静けさというのは、集中の別名だ。
掃除の前、篠原が俺の席の横に立って、小さく言う。
「日直じゃない日も、君を見ていい?」
「許可。……ただし見返す」
「それが一番怖い」
「おあいこ」
彼は笑って、ほんの少し肩を竦める。その小さな身振りが、紙の上の括弧の働きに似ている。括弧で照れを包んでから、核心を差し出すやり方。俺はそれごと好きだと思った。好きは、合計の言い方で伝えると、嘘っぽくならない。
掃除の時間、黒板の上部を拭くために椅子に乗る。篠原がいつものように足元の椅子を押さえ、揺れを止める。俺は上から下、左から右、最後に上段中央を撫でる。粉が雲みたいに薄く舞い、教室の空気に溶ける。ああ、この動作も今日で区切りがつくのだと思うと、指先が普段より少し丁寧になった。丁寧の最後に、吐く息が遠くへ伸びる。
先生にノートを正式に返す時間になった。教卓の前。俺と篠原と、ノート。先生は軽く頷き、表紙を撫でて、棚に収めた。誰かの宿題の束と同じ場所に、俺たちの白い季節が静かに滑り込む。その光景を見た瞬間、なぜか胸が誇らしくなった。見られることが、ちょっとだけ誇らしい。だって、見ているのが篠原だから。俺の字を知っていて、俺の「間」を知っている人間に、見られている。
放課後。雨上がりの昇降口は、光が湿っていた。床に薄い水の膜が残り、蛍光灯の白を鈍く返す。空はまだ低い。遠くの雲の縁だけ、微かにほぐれている。
靴を履き替えながら、俺はスマホのメモを開いた。篠原の横顔が、ガラスに薄く映る。左手が胸の上で、いつものように指先をそっと押さえている。彼は何か言いかけ、少し飲み込んで、結局、短く落とした。
「君の字で、俺の名前、呼んで」
紙の上で呼ぶのでは、もう足りないのだ、と彼の目が言っている。ページを閉じたぶん、場所を移そう。俺は頷いて、スマホの画面に手書きのメモを開き、“俺の字”でゆっくり書いた。
――しのはら
払いの長さを、彼の息に合わせる。最後の「ら」の尾を、黒板の「よ」の尾みたいに、気持ち長く残す。画面を傾けて見せると、彼はほんの少し目を細めて、息を吸った。
「……○○」
声は、スマホの光ごと、俺の胸に入ってきた。声で呼ばれる名前は、紙の上よりも早く届き、遅く消える。消え際に、小さな尾が残る。その尾に、二人の足音が重なる。昇降口の床に、小さな水の輪が並ぶ。俺たちの靴先で、黒板の粉みたいな光が淡く散った。
「明日、朝」
「うん」
「黒板、二分」
「うん」
約束は、短いほど強い。長い約束は、時々、言葉が荷物になる。荷物は減らして、手は空けておく。空けた手で、相手の声を受け取るために。
帰り道、規則正しく並ぶ街路樹の影が、道路に鍵盤みたいな模様を作っていた。そこを歩くと、靴の底が音を置く。縦棒の足音。匿名の季節に覚えた感覚が、今は歩幅の中に溶け込んでいる。匿名は守るためのルールだった。守ったうえで破るのが、今日の正解だった。破る許可をくれたのは、篠原の「いる」という一行と、あの朝の二分。二分の余白は、思っていたよりも遠くまで届く。
家に着くと、机に向かった。日直ノートはもう手元にない。けれど、机の上の白は、あの紙の白に続いている。俺は白の真ん中に、小さく点を置いた。点は、音の前。呼吸の前。名前になる前の前。そこから線を一センチだけ引く。線の前の“皺”を慎重になぞる。明日のための、いつもの練習。
スマホが震えて、三浦からメッセージが来る。「今日の“ありがとう”、ゼロ拍」。「最短だな」と返すと、「最短は最良、最長は最遠、どっちも必要」と謎の格言が飛んできた。「どこで拾ってくるんだ」「俺の中」「リサイクルかよ」「サステナブルな詩」。高城からも来る。「明日S席、もう売り切れ」。無視した。いや、スタンプだけ返した。バニラのやつ。
シャワーで粉の残りを落とす。掌から白い星雲が流れ、排水口に消えていく。落ちていく白を見送りながら、落ちないものの正体を思う。声だ。紙から剥がれないインクの匂いみたいに、声は体の中に居候する。居候させる場所を、俺は今日、やっと整えた。
灯りを落とし、天井を黒板に見立てて、目を閉じる。黒板の右上に、小さな点。点の横に、短い線。線の先に、名前。俺は喉の奥で、一度だけ自分の名前を呼んでみる。呼んでから、篠原の名前を、紙じゃなく、声で呼ぶ。呼んだ音は、壁に当たって戻ってこない。消える。消えながら、どこかに残る。残り方が、紙の文字と違う。違いを好きになるのに、時間は要らなかった。
――
翌朝。二分前。教室の空気は冷たく、黒板の肌は乾いている。扉の金具が音を立て、篠原が入ってくる。言葉の代わりに、目が一度うなずく。俺たちは黒板の“何もないところ”に目を置いて、同じ呼吸をひとつ分、浮かせた。
俺が先に声を出す。
「……篠原」
名前だけ。小さく、はっきりと。黒板の右下、紙やすりの痕が薄く光る。彼は笑って、同じだけの小ささで、俺の名前を返す。声は、粉の季節の祝福の下で、すこしだけ星みたいにきらめいた。
日直ノートは閉じた。最後のページには「君の声も、好き」と書いてある。ページを閉じた音は、思ったよりも軽かった。軽い音は、遠くへ行きやすい。遠くへ行って、戻ってこない。戻ってこない音は、かわりに胸に居つく。居ついて、日常の真ん中に椅子を置く。椅子の座り心地は、驚くほどいい。
授業が始まっても、俺の中のざわめきは、急に静かになった。静けさは、何かを失ったあとの空白ではない。何かを得て、余計な音が減ったあとの適温だ。黒板の文字はいつも通り、先生の声の高さもいつも通り、クラスの笑いのタイミングもいつも通り。すべてが「いつも通り」で、その中心に新しい椅子がある。それだけで、風景の見え方は変わる。
昼、廊下で高城が「S席立ち見」とふざけ、俺は「却下」と返し、三浦は「今日のノートのコーナー、放送終了」と校内放送風に締めた。「次回予告は?」「声の特集」「お前ら、仕事が速い」。笑い合う間にも、俺の耳は、ふいに自分の名前を拾う。呼ばれ慣れていない音は、拾われるたび姿勢を正す。姿勢を正して、その姿勢が自然になる。自然になったら、俺はもう、匿名のページに戻れない。戻らなくていい。
放課後、昇降口で、俺はもう一度だけスマホを取り出した。メモの画面に“俺の字”で、彼の名前を少し崩して書く。崩した「の」の丸は、昨日より少し大きい。崩し方にも、許可が出たのだと思う。
「……しのはら」
彼は笑って、少しだけ照れて、右手で自分の胸ポケットを押さえた。左手を胸から離し、今度はその指先で俺の名前を空に書く。空だから、消えない。見えないけれど、確かにそこにある。俺はその見えない線の上に、声をひとつ乗せた。
「はい」
返事のテンポは、もう誰にも計られない。計られなくていい。計られない返事は、自由だ。自由な返事は、やさしい。
黒板の粉は、今日も指の谷間にうっすら残る。粉が舞っている間は、線が生まれ続ける。ノートは閉じた。けれど、会話は始まったままだ。ページではなく、声で。余白ではなく、呼吸で。匿名ではなく、名前で。
帰り道、アスファルトに落ちた光のかけらを踏んで歩きながら、俺は新しい自分の輪郭を指先で確かめていた。匿名のページに隠れて、俺は自分の“声”を手に入れた。これからは、見られることがちょっと誇らしい。だって、見ているのが、篠原だから。
彼が見て、彼に見返されて、笑って、たまに黙って、二分の余白を守って、名前で呼び合う。距離は、チョーク一本ぶん。けれど、その一本の上に俺たちは、今日もちゃんと立っている。落ちずに。ぶれずに。静かに。やさしく。――少しだけ、切なく。
紙の季節は終わった。代わりに、声の季節が始まる。始まったばかりの季節は、何度でも、最初の一音からやり直せる。
俺は喉の奥で、もう一度だけ、彼の名前を呼んだ。
小さく、はっきりと。
呼んだ音が、空に吸い込まれていく。
吸い込まれて、どこかで星になる。
その星の下で、明日もまた、二分。
黒板の前で。
ページは閉じたまま、声で呼ぶ。
それが、俺のこれからの、告白の仕方だ。



