最初に黒板を拭いたのは、一年の春だった。雑巾を絞る力加減がわからず、床に滴を落とし、先生に「掃除の延長じゃないのよ」と笑われた。あれから一年半、手は勝手に動く。上から下、左から右。線と線のあいだに薄く残るチョークの粉を、指先で確かめてから、角をいったん折り返す。布に含ませた水の温度まで覚えた。二時間目のあいだにぬるくなる。三時間目が終われば、もう手のひらの熱と同じになる。
 きょうも同じ手順だった。違ったのは、拭き終わって振り向いたとき、教卓の上に置かれた日直日誌のページ端に、見覚えのない文字が、針の先で刺すみたいに小さくあったことだ。

 ――お前の字、好き。

 「俺の……?」
 誰に向けた言葉なのか、一瞬では判断できなかった。けれど、すぐにわかった。そこに続く一文が、俺の癖を正確に言い当てていたからだ。
 〈「は」と「ほ」の払いが長い。あと、句点の丸がときどき眠そう〉
 眠そうな句点、という言い方に、少し笑ってしまった。授業中、ノートを取るたびに、俺は句点の丸を小さく、丸の下をわずかに潰す癖がある。眠いときはそれが顕著になる。誰が見てもわかるほどの違いではない。黒板の文字をノートに写す集中のなかで、隣の席の呼吸さえ遠のくときに、そんな細部を見るやつがいるだろうか。
 つい、教室の隅々を見渡した。窓の反射に俺の顔が揺れて、誰かの視線を探す自分の目だけが、やけに生々しく映った。誰もこちらを向いていない。いや、向いている奴はいたのかもしれないが、俺は見つけられなかった。

 昼休み、同じ班の三浦が、俺のノートを覗き込みながら言った。
「なあ、○○、今日の字、機嫌よさそうだったな」
「字に機嫌って出る?」
「出る出る。お前の『お』、ごきげんのとき丸がでかい」
「じゃあ朝の英語は不機嫌だったってこと?」
「でかかった。あと、コッペパン二本食ったろ」
「なんでわかる」
「粉、口につけたまま五分しゃべってた」
「言えよ、そういうのは」
「言う前に、けっこう愛おしくて」
「は?」
 三浦は笑って、牛乳パックをストローでへこませた。からかいにしか聞こえない言い方だけど、彼の笑いはいつも空気をやわらげるために先に鳴るベルみたいで、本気で怒る気分にはならない。
 高城はそのやり取りを眺めながら、体育館シューズのひもを結び直して言った。
「字が機嫌よさそうって、いいな。俺の字はいつも犯罪者っぽいって言われる」
「それ、字じゃなくて顔が怖いだけ」
「ひど。イケメンに向かって」
「自分で言うやつはイケメンじゃない」
「でも俺、イケメンなんだよなあ」
「はいはい」
 篠原は少し離れた席で、左手にシャーペンを持ったまま、紙の端を指で撫でていた。彼は大きな声を出さない。出すときはいつも的確で、必要なことだけが落ち着いてテーブルの上に置かれる。たぶん、彼のノートは線がきれいにそろっているだろう。インクのしみを嫌う人の紙の匂いがする。
 ――お前の字、好き。
 ページ端の一行は、昼のざわめきと一緒に、喉の奥でころがり続けた。転がるたびに、粉砂糖が指にまとわりつくように甘く、でもどこか、指紋をさらわれていくような怖さもあった。

 放課後、黒板を消して、チョークの箱を並べ直し、日直日誌を教卓の中央に戻した。ページをめくる指が、自分のものじゃないみたいに軽かった。鉛筆を取り、ページの隅に、小さく書いた。
 ――誰?
 鉛筆の芯が紙の繊維に引っかかるときの音は、いつもよりも柔らかかった。書いてから、消しゴムで一度薄くなぞり、文字の輪郭を曖昧にした。それでも、問うてしまったことの輪郭だけは、はっきり残る。閉じようとしたとき、ふと、ボールペンのキャップが転がる音がした。誰かが、後ろにいたのかもしれない。振り返るのが怖くて、俺はページにだけ目を落とした。
 その上から、ボールペンのインクで、さらりと重なる。

 ――匿名。ここは“日直中だけの交換ノート”にしない?

 心臓が、背中の内側から軽く叩かれたみたいに跳ねた。俺はボールペンのあざやかな線を、ひと呼吸ごとに確かめる。匿名。名乗らない選択。それなのに、俺にだけ向けられていることが、なぜか確信できる言い方。
 俺は鉛筆で返した。
 ――ルールは?
 ボールペンが、すぐ上を走る。
 ――本名禁止/絵文字可/落書き可/先生に見つかったら即終了。質問は一日一個まで。
 俺は笑いそうになるのを飲み込んだ。紙の上の誰かの声は、音じゃないのに体温があって、しかも冷めにくい。ルールがある恋のほうが、俺には安心だった。形式が先に来ると、心が後から追いついてくる気がする。

 匿名の相手は、俺の文の間を撫でるように、短い一文を置いてくる。
 ――今日の「お」の丸、眠そう。
 ――……見すぎじゃない?
 ――見てるよ、ずっと。

 最後の行が、心臓の裏側に貼りついた。剥がそうとすると、皮ごとはがれそうで、触れられない。教室の午後の光が、長机の角で細く折れて、俺の指の関節を淡く照らしている。ノートを閉じる音が、いつもより静かだった。
 帰り道、アスファルトは雨上がりで柔らかく、踏みしめる音が吸い込まれていった。誰かの視線というものに、急に重さがあると知って、背中のどこに載せればいいか迷った。肩甲骨のあたりに置けば姿勢がよくなる。腰にかければ歩幅が狭くなる。額にかけたら、たぶん目つきが変わる。家の門をくぐるまで、俺は視線の置き場所を決められなかった。

 翌朝、教室に早く入った。黒板に昨日の数式が残っていて、消す前に数字の連なりだけをしばらく眺めた。桁の多い数は、丸や棒の集まりなのに、どこか窮屈そうだ。俺は雑巾をきゅっと絞る。水はまだ冷たくて、掌の線に入り込んでくる。上から下。左から右。昨日よりも丁寧に拭いたのは、誰かが見ているという前提で動く手が、ほんの少しだけ演技を覚えてしまったからだ。
 日直日誌のページは、昨日の続きのようにそこにあった。俺は鉛筆を置いた。
 ――質問は一日一個、だっけ。好きな飲み物は? A:炭酸 B:ココア。
 ボールペンが、ためらいなく紙の繊維に入り込んだ。
 ――B。
 俺は勝手に“優しい人”を想像した。ココアを選ぶ人間は、少なくとも俺の周りでは、他人の話を遮らない。黙って湯気を見ている間、沈黙の温度を下げない。候補が三人、頭に浮かぶ。
 高城――顔面が強い。運動神経がよくて、誰の中心にもなれる。笑い方が派手だが、意外と他人の失敗を笑ったことは一度もない。
 三浦――うるさいけれど、空気をやわらげるために先に笑う天才。俺が言葉に詰まると、先回りで「つまりこうだろ」と橋をかけてくれる。
 篠原――左利き。静かで、紙の端を撫でる癖がある。言葉の選び方がいつも慎重で、選ばれなかった言葉の影まで一緒に机に置いていく。
 この三人の誰かが、匿名の「君」? 確証はない。けれど、選択肢が生まれただけで、教室の風景は少し立体になった。顔が輪郭を持ち、距離に陰影がつく。

 ホームルームのあと、黒板の前でノートを開いていると、背後から篠原が言った。
「消し、手伝う」
「――あ、ありがと」
「……字、きれいだよな」
「え?」
「板書。先生が喜ぶやつ」
「ああ。……ありがとう」
 心臓が跳ねたのは、言葉の内容より、置かれ方のせいだ。彼の言葉はいつも、机の上に音を立てずに置かれる。匿名の行と似ている“間”があった。似ているからといって、同じだと決めるのは愚かだと思いつつ、俺は愚かに少し期待してしまう。

 昼、高城が言った。
「明日、俺、日直だわ。よろしくな」
「よろしく」
「俺の字、犯罪者扱いされないように、見本書いといてくれ」
「それはもう手遅れだろ」
「ひどい」
 彼の軽さは、俺の足音から緊張を奪っていく。それがありがたいときもある。怖いときもある。彼が匿名で、こんなふうに軽く踏み込んでくるなら、俺はきっと負ける。
 三浦はパンの袋を丸めながら言った。
「ミステリーかよ。犯人はだいたい近くにいるって言うしな」
「犯人って言うな」
「じゃあ相棒?」
「それもしっくりこない」
「共犯とかどうだ」
 その言葉に、どくん、と心臓が打った。夜、ノートに戻ると、最後の行がこう締めくくられていた。
 ――犯人って言葉、やだな。僕たちただの共犯だろ。
 俺はページの端をつまんで、紙の毛羽を指先で千切ってしまいそうになった。共犯。いい言葉だった。いい言葉は、胸骨の裏に静かに吊るされて、日常の振動に合わせて小刻みに揺れる。

 その日から、俺たちはルールに従って、毎日一個ずつ、互いの輪郭に触れる質問を交換した。好きな教科。体育は得意か。朝はパン派か。家では犬派か猫派か。二択の選び方には癖が出る。匿名の君はいつも、少しだけ即答でない方を選んだ。少し考えてから、「B」。俺の頭の中の地図の上で、点と点が近づく。
 やり取りのあいまに、彼は必ず観察の断章を挟む。
 ――今日の『り』の尻尾、雨みたい。
 ――雨、降りそうだね。
 ――君の『、』は、急ぐと丸くなる。そこが好き。
 ――観察しすぎ。変態。
 ――変態でいい。君の字だけは許可が欲しい。
 ――……許可。
 紙の上では、俺は饒舌だった。声にすると、たぶんこの半分も言えない。ページという壁が、俺の呼吸を乱さずに受け止めてくれる。匿名の彼も、きっと同じだ。そう思うことで、同罪でいられた。

 梅雨が来た。黒板が湿り、消し跡がうっすら残る。俺は力を入れすぎて腕が痛くなった。イレイサーを握り直した瞬間、背後から、そのイレイサーをふっと奪う手があった。左手だった。俺は振り向く前に、手の形で候補者を思い浮かべ、顔を見る勇気が出る前に、その手は軽やかに遠ざかった。残ったのは黒板の上に走った綺麗な水平線だけ。
 ノートに走り書きがあった。
 ――君の腕、無理しない。
 続く一文。
 ――きょうは、君のペースに合わせたい。
 雨音が強くなり、教室の蛍光灯が一瞬だけ揺れて、薄く暗くなった。窓ガラスに俺の顔と、誰かの影が重なった気がした。目が合ったと錯覚して、胸が変なふうに跳ねた。錯覚であってほしい。錯覚でなかったら、もっと困る。

 文化祭の準備が始まると、俺は黒板アートの文字装飾を任された。チョークの粉が星みたいに舞う。篠原が定規で線を引き、高城が人を集め、三浦が音楽を流して場をあたためる。匿名の君はページにこう書いた。
 ――君の字で、俺の名前を呼んでほしい。いつか。
 俺は慎重に返す。
 ――呼ぶ前に、聞きたい。君は俺の何が好き?
 返ってきた行は、小さな列を成していた。
 ――「好き」の前にある無言。黒板を消して振り返るまでの一秒。ノートをめくる親指の乾き。『、』の丸。授業中、机の下で指を組む癖。――それらの合計。
 息が詰まった。逃げ場がなくなるほど見られているのに、逃げたいとは不思議と思わなかった。見られている自分を、少しずつ好きになっていく過程を、俺はこっそり自分の内側から観察した。

 俺は彼の「名前」をまだ知らない。けれど、名前を呼ぶ練習は、黒板の上でできる。俺は白いチョークで、彼の名前かもしれない文字の最初の一文字だけを、誰にもわからないように小さく書いて、すぐに手のひらで消した。粉が手相の谷間に積もった。手のひらに白い季節が来る。

 文化祭当日、ステージの司会をなんとかやりきり、心拍数がやっと落ち着いてきたころ、日直日誌のページが、空白のまま返ってきた。いつもある一言がない。白い紙は、言葉がないことで逆に重たくなる。ページの白さに、胸の焦りがにじみ出していくのが自分でわかった。二日間、紙は沈黙を続けた。
 三日目の夜、端に薄い跡が残った。
 ――ごめん。君に、向き合いたくなったから、言葉が追いつかない。
 その不器用さに、やっと笑えた。急がなくていい、と書こうとして、鉛筆を持つ手が止まる。文字にする前に、心で言えた。急がない。ここにいる。ずっと。

 席替えがあって、俺は窓側の後ろに移動した。黒板から遠くなった分、彼の観察はどうなるだろうと試すみたいな気持ちになった。ノートは正確に反応した。
 ――今日の「い」の縦棒、遠くなって、伸びた。
 ――気のせい。
 ――気のせいじゃない。距離は字に写る。
 距離は字に写る。たしかにそうだ。近いと、丸が大きくなる。遠いと、横線が少し長くなる。俺は自分の字を、彼の目で読み直すことを覚えた。
 放課後、篠原が俺の新しい席に寄ってきて、ノートの端を指で押さえた。
「席、前のほうがよかった?」
「どっちでも。……前は前で、緊張した」
「そっか」
 彼は、俺の顔を見ないで、ノートの紙目だけを見ていた。紙の質感を確かめる指先の速さが、ページの上の匿名の文体に似ていた。似ている。似ているだけだ。似ているものは、世界にいくらでもある。俺は浮かれすぎないように、紙の繊維の方向を目で追った。

 やり取りは、やがて仕掛けを持ち始めた。彼が提案した縦読み。ページの左端、各行の頭文字を拾っていくと、そこに現れたのは――。
 し の は ら
 俺は息を呑んだ。ページの上で、名前が音になる瞬間。紙の繊維が、声帯みたいに震えた気がした。
 放課後、教卓の前で、ノートを開いたままにして、俺は声に出す練習をした。
「……いる?」
 窓の反射の奥から、足音が近づく。
「いる」
 篠原が現れて、少し笑った。匿名ルールは、この瞬間に破れた。破ったのは、彼だろうか。俺だろうか。たぶん共犯だ。
「匿名、破る?」
「うん。破りたい」
 距離が一歩ずつ縮まる。言葉は相変わらず下手だった。
「お前の字、好き。ずっと」
「……俺は、お前の間が、好き」
「間?」
「笑う前に考える一秒。返事の前に息を吸う音。ノートを閉じるときに、指で最後の一文を撫でる癖」
 篠原は目を逸らした。耳の先が、すこし赤かった。
「見すぎ」
「おあいこ」
 彼は左手で自分の胸を押さえ、右手でノートをひらりと開いて見せた。
「本当は、ページじゃなくて、本体に書きたい。……君に」
「やめろ」
「ごめん」
「やめないで」
 黒板の粉が、ふたりの靴先で淡く光った。教室は、午後の光で、すこしだけ金属の匂いがした。窓の外で、風が旗を鳴らした。

 名前で呼ぶ練習は、その翌朝、本番になった。チャイム直前、篠原が俺の席に来て、いつもの“一秒の間”を置いてから言った。
「○○」
 名前を呼ばれただけで、胸の奥がやけに静かになった。静かすぎて、逆にうるさく感じるほどに、血の音がよく聞こえた。
「好き」
「……俺も」
 男子の冷やかしは、予想どおり、すぐに湧いた。
「おーい、お前ら、朝から何だよ」
「観客はいらない」
「じゃ放課後チケット売るわ」
 三浦の声が、緊張の膝を叩いてくれた。笑いが波のように広がって、でも中心は揺れない。俺たちは、先生にノートを返した。匿名のページは閉じる。でも、会話は終わらない。紙に頼らなくても、声で繋がれるように、もう準備ができていた。

 最後に、俺は日直日誌の最終ページに、最初と同じ言葉を書いた。
 ――お前の字、好き。
 そして、小さく付け加えた。
 ――君の声も、好き。
 チョークの粉は、今日も手相の谷間に白く積もる。粉はすぐ落ちるが、指に残る感触は、なかなか消えない。名前を呼ばれるたび、その感触が蘇る。見られていることが、こんなにも静かで、こんなにもあたたかいものだと知った。視線の置き場所は、やっと決まった。背中でも、腰でも、額でもない。胸骨の裏。言葉が生まれるところの、すぐ隣だ。

 教室の窓辺では、午後の光がもう一段やわらいで、黒板の端で金色の粉塵が踊っていた。ページを閉じても、粉は舞う。恋も、たぶん、そうやって舞い続ける。指先が覚えてしまった順番で、俺は黒板を拭きながら、次の行を考えた。声で言うための、一文だ。