海架祭当日の朝、空は晴れのはずだった。
 天気予報も晴天マーク一色。けれど、防波堤の向こうで立ち上る靄が、どこか不穏に揺れていた。
 「なあ、これ……雨、来るんじゃないか?」
 弘喬が空を見上げながらつぶやく。
 「うそ、予報では降らないって!」優里が慌ててスマホを確認する。
 そのとき、カメラの液晶に映る地面の映像に、大芽が気づいた。
 「……おかしい。誰も通ってないのに、濡れた足跡がある」
 足跡は、屋台の設営エリアを抜けて、商店街の通りへ続いていた。
 その一歩一歩が、まるで「備えよ」と言っているようだった。
 「いやな予感するな」弘喬が言う。
 「ブルーシート、持ってきてたよね?」
 「もちろん。万一のために」
 大芽が笑い、リュックを背負い直した。
 その顔には焦りよりも、どこか確信めいた静けさがあった。
 彼らはすぐに行動を始めた。
 通りの出店者に声をかけ、ブルーシートを配る。
 「ちょっとでも風が冷たくなったら、これで覆ってください」
 「助かるよ、ありがとう!」と菓子店の老夫婦。
 弘喬はカメラを構え、優里は拡声器を手に通りを回る。
 「安全確認です! 商品は内側へ! 通路の水はけも整えておきます!」
 その声に、子どもたちが楽しそうにバケツを持ち、水を掻き出した。
 やがて午後。
 最初の屋台から笑い声が上がり、提灯の灯りが一つ、また一つと灯る。
 優里が胸に手を当てる。
 「……降らなかったね」
 「いや、これからだ」大芽がつぶやいた。
 まるで彼の言葉を合図にしたように、遠くの空で雷鳴が響く。
 風が冷たく変わり、ぽつり――ぽつりと雨が落ちてきた。
 「ブルーシート展開!」
 大芽の声が飛び、通りが一気に動く。
 屋台の人々が協力し合い、紙袋や商品を守る。
 濡れた足跡が、まるで彼らを誘導するように次々と伸びていく。
 五分もしないうちに、雨は勢いを増した。
 だが通りは整然としていた。
 排水溝の位置を早めに確認していたおかげで、冠水は最小限。
 人々はシートの下で笑い、雨宿りを楽しむように話している。
 「うち、こんな備え初めてや」
「“撮影隊の予知”やな!」
 そんな声があちこちから上がる。
 弘喬はカメラを防水ケースに入れ、群衆の後ろからその様子を撮り続けた。
 「映像、すごいよ。ビニール傘の群れが、まるで光の海みたいだ」
 「いいじゃん、“映える”よりずっと現実的で綺麗」優里が言う。
 雨が小降りになった頃、祭りのステージが再開した。
 濡れた提灯が照明を反射して、通り全体が金色に輝く。
 子どもたちが歓声を上げ、拍手の波が続いた。
 そして夜。
 商店街の中心で、優里が人々の間を歩いていた。
 一軒一軒、声をかけながら。
 「よかったですね、無事に終わって!」
 「売上も上々や!」
 「おめでとうございます!」
 彼女の“おめでとう”は、どこか祈りのようだった。
 浜カフェの前で、大芽が空を見上げる。
 雲の切れ間から、星が一つ、ゆっくりと顔を出した。
 「……本当に降る前から分かってたのかな」
 弘喬がつぶやく。
 「録音も、映像も、俺たちに何か知らせてくれてる気がする」
 千優が静かに答えた。
 「“気配”は、悪くない。守ってくれてる」
 その夜、撮影データを確認すると、濡れた足跡のシーンに、もう一つ奇妙な現象が映っていた。
 足跡の最後、祭りのステージに続く地点で――
 一瞬、流木の模様が砂地に浮かび上がっていたのだ。
 だがそれは、ほんの一秒にも満たない。
 フレームを止めても、誰の目にも偶然の陰影にしか見えない。
 ただ、大芽たちは誰も言わなかった。
 それが偶然でも、奇跡でも、今はまだ“町の秘密”のままでいいと思えたからだ。