その週の早朝。海架浜は、まだ淡い朝霧に包まれていた。
 潮が引き、砂浜の模様がくっきりと浮かび上がっている。波打ち際の湿った砂に、昨日見つけた流木が横たわっていた。
 大芽は、カメラを三脚に固定しながら小さく息を吐いた。
 「……おかしいな、模様が違う」
 前回、千優が拓本を取ったときの線とは微妙に位置がずれている。丸みを帯びた渦の一部が、まるで擦り取られたように薄くなり、その代わりに新しい線が一本、海側に伸びていた。
 「昨日の潮で削れたんじゃ?」弘喬が首をかしげた。
 「でも削れたなら、ここに砂の層ができるはず」
 千優が指先で木肌をなぞる。その指の動きに迷いはなく、何度も何度も目で追ってきた職人のようだった。
 優里はしゃがみこみ、朝の光に透かして流木を見た。
 「……道みたい。昨日より“先”ができてる気がする」
 「先?」大芽が聞き返す。
 「うん。これ、線がつながっていく感じしない?」
 そう言って、彼女はスマートフォンで前回の拓本画像を呼び出した。二つを並べて見比べると、確かに“進行方向”のように新しい線が現れている。
 「試しに、線の通り歩いてみる?」
 弘喬が笑いながらカメラを肩に担ぐ。
 「いいね、“模様に導かれて朝市へ”みたいな構図、面白い」
 「行ってみよう」
 大芽がうなずき、千優は無言で和紙を広げ、新しい拓本を重ね始めた。
 ざらり、ざらりと鉛筆が木肌をこする音が、静かな浜辺に響く。
 その上から、弘喬が録音ボタンを押した。
 風のない朝。波音がかすかに寄せては返す。
 千優が紙をそっとめくると、二枚の拓本を透かして見た優里が息をのんだ。
 「見て、線が重なって道みたいになってる!」
 その道は、まっすぐではなく、ところどころで曲がり、まるで浜辺から商店街へ向かう“導線”のような形を描いていた。
 「……これ、祭の導線に使えるかも」
 大芽が思いついたように言う。
 「え、占いみたいに?」優里が笑う。
 「違う違う。観光客が迷わず回れるルートをこの形に沿って設置する。現実の“線”で再現してみよう」
 四人は近くの岩場に転がっていた石と旗を使い、流木の線に似せたルートを作り始めた。
 旗が風を受けてはためき、朝の光にきらめく。
 その一方で、カモメが面白がるように旗をくわえて飛び去り、弘喬が全力で追いかけた。
 「おい、返せー! それ高かったんだぞ!」
 その様子を見て、優里が大笑いする。
 「大芽監督、これ“自然との共演”ってことで!」
 「もう、カモメもエキストラ扱いだな!」
 笑いの中でも、カメラは回り続けた。
 旗の導線を辿って歩いていくと、浜を抜け、朝市の入口が見えてくる。
 すでに露店の準備をしていた老夫婦が、四人に気づいて手を振った。
 「おお、大芽くんたちやないか。朝から何してるん?」
 「撮影です。導線のテストを」
 大芽が説明すると、老夫婦は顔を見合わせ、柔らかく笑った。
 「こんな朝早くから動いてくれる若い子がおるだけで、うちは嬉しいわ」
「ほんま、祭りが楽しみになってきた」
 その言葉に、優里が嬉しそうに「ありがとうございます!」と頭を下げた。
 四人は少し離れた場所で撮影を続け、最後に浜を振り返った。
 流木の線は、今や潮に濡れて再びぼやけていた。
 千優が静かにカメラのファインダーを覗く。
 「……線、また変わってる」
 その声に、大芽が微笑んだ。
 「じゃあ、明日も確かめよう。変わり続けるなら、それは“生きてる模様”だ」
 朝霧の中で、弘喬が撮った映像には、かすかな陽光と笑顔、そして“消えかけの線”が確かに映っていた。
 誰が描いたか分からないその模様が、町の人たちの道しるべになるかもしれない――そう思えるほど、やさしい時間が流れていた。