夜明け前の浜辺は、息を呑むほど静かだった。
 海はまだ灰色を帯び、空の端がようやく淡く色づき始めている。
 大芽は三脚を立て、水平線を確かめながら深く息を吸った。
 「今日が最後の撮影だな」
 背後から、優里が温かい缶コーヒーを差し出した。
 「おつかれ、監督。……緊張してる?」
 「少しな。上映がうまくいくかより、“終わる”って実感の方が強い」
 大芽の声に、優里は笑った。
 「終わるんじゃなくて、“町に返す”日でしょ」
 その少し離れた場所では、弘喬がカメラバッグを整理し、千優が布を抱えて座っていた。
 布には、あの流木の模様が刺繍されている。
 金と藍の糸で描かれた線は、朝の光を受けてほのかに輝いていた。
 「千優、それ……仕上がったの?」
 「うん。“最後の模様”。町の掲示板に飾る」
 小さな声だったが、その表情は穏やかで、どこか誇らしげでもあった。
 やがて太陽が顔を出し、海面を照らす。
 カメラが回り始め、波がゆっくりと押し寄せる。
 流木は、浜の端に転がったまま潮に濡れ、静かに揺れていた。
 その姿を最後のショットに収めようと、大芽が構図を決める。
 「……回してくれ、弘喬」
 「了解」
 レンズが光を捉える瞬間、潮が満ちて波がひときわ高く寄せた。
 流木が、ふわりと浮いた。
 優里が思わず息を呑む。
 「……動いた?」
 「潮の加減だよ」大芽が言いかけたそのとき、風が吹き抜けた。
 流木は、まるで見送られるようにゆっくりと沖へ流れていく。
 四人はただ黙って見つめていた。
 やがて陽が昇りきる。
 海面は鏡のように光を跳ね返し、カモメが一羽、流木のあとを追うように舞った。
 そのとき、千優が刺繍の布をそっと掲げた。
 糸の模様が朝の光を受け、波の形のようにきらめく。
 「“町に返す”……これで、終わり」
 彼女の声に、大芽がうなずいた。
 「ありがとう、千優。――みんな、本当にありがとう」
 上映はその夜、浜カフェで行われた。
 白い布に映し出される映像を、町の人々が息を詰めて見つめる。
 笑いが起き、ざわめきが広がり、やがて拍手が波のように押し寄せた。
 エンドロールの文字が流れる。
 《協力:海架町の皆さん/そして、カモメたち》
 その一行で、客席からくすっと笑いが起きた。
 大芽は後ろの席で静かに立ち上がり、マイクを取る。
 「この映像は、町がくれた物語です。
 “ここは虚構?それとも現実?”――その答えは、今日を生きる皆さんの中にあります」
 会場が一瞬静まり、次の瞬間、小さな手が上がった。
 前列にいた男の子が、まっすぐ大芽を見て、親指を立てた。
 「すっごくよかった!」
 その言葉に、大芽は思わず笑った。
 「最高のフィードバック、いただきました!」
 拍手が広がり、優里が涙をこらえながら笑う。
 弘喬はカメラ越しにその瞬間を捉え、千優は胸の前で刺繍布を握りしめた。
 上映が終わったあと、浜辺へ出ると、潮風が夜の灯りを揺らしていた。
 流木の姿はもうどこにもない。
 けれど、砂の上に残る模様のような波跡が、まるで“明日の道”を描くように伸びていた。
 四人はその線を見つめ、静かに歩き出す。
 空には星がひとつ瞬き、波がやさしく足元を洗う。
 ――ここは虚構?それとも現実?
 誰も答えなかった。けれど、答えはもう、心の中にある気がした。