翌朝。
「あ、さっくんおはよ〜」
「朔くん、おはよ」
扉を開ければ、いつも通りの双子の姉弟が玄関前に立っていた。行ってきます、と朔夜は母親に声をかけ、鞄を手に家を出た。
「おはよ……」
「さっくん、なんか元気ないね」
みのりが右横から顔を覗き込んでくる。頭ひとつ分背が低いみのりの大きな瞳と目が合う。グレーとブラウンのチェック柄のスカート。白いシャツと薄いニットのベストの上にグレーのジャケット。さりげなく可愛らしい北高の制服はみのりによく似合っていた。
「朔くん、なにかあったの?」
優羽が同じように左横から覗き込むように訊ねてきて、思わず「お前が……っ」と叫びそうになったがなんとか呑み込む。目を細めて笑みを浮かべた優羽に対して、朔夜は「なんでもない!」と勢いよく顔を背けた。
「優羽くんも昨日帰ってきた時、すごく変だったんだよ?」
「みのりちゃん?」
「変? 優羽が?」
「そうだよ。見たことないような怖い顔で帰ってきたんだよ」
「みのりちゃん?」
優羽の珍しく低い声が頭の上の方から降ってきた。そこに浮かぶ真っ黒な笑みに、みのりは「はいはい、黙りますよ〜だ」とにやにや顔でまったく動じず答えていた。
「朔くんが気にすることじゃないよ」
「……ふーん。別に気にしてないし」
めちゃくちゃ気になるけども! 朔夜はそっけない回答をしたつもりだが、心の声は真逆だった。怖い顔の意味がわからない。あんな風に「なにもありませんでした」みたいな顔で帰り道も普通だったくせに。
「あ、電車来たよ」
みのりが朔夜のカーディガンの袖を引く。
「ほら、ぼうっとしているとぶつかっちゃうよ」
優羽が朔夜の右肩に手を回して、降りてきた乗客を避けてくれた。都会と違いぎゅうぎゅう詰めになることはないが、朝の電車は学生が大勢使用する。四両編成の電車は乗る駅によってはすでに座れる場所がないことの方が多い。
朔夜たちは車両の奥の広いスペースに並んで立ち、いつも通り他愛のない会話をしていた。三駅先が終点。それまではゆらゆらと不規則に揺れる車内に寄りかかりながら、十五分ほどゆるい時間を過ごす。車内には学生たちの声。時折笑い声も混じって賑やかしい。
「おはよう」
約五分後。次の駅に電車が止まると、朔夜たちがいるすぐ近くの扉が開く。ちょうど乗り込んできた日上陽が朔夜を見つけるなり声をかけてきた。
「おはよ、陽」
「おはようございます、日上先輩」
朔夜の声に被せるように優羽が挨拶を交わした。
「……おはよう」
陽と優羽は数秒間ほど意味深そうに見つめ合い、それから何事もなかったかのようにお互いに背を向けた。
「はじめまして、優羽くんの双子の姉のみのりって言います」
「……どうも、」
「陽は俺の同級生で、同じバスケ部。ちょっと口数は少ないけど、真面目でめちゃくちゃいい奴だよ」
「知ってるよ」
ぽつり、とそう呟いた優羽の声。どこか嫌味っぽさを含んだ表情は一瞬だけで、気付けばいつもの笑顔に隠される。陽はそれに対してなんとも思っていないようだった。終点まではみのりがずっと喋っていて、駅前で別れた後は男三人で登校することになった。
朔夜はなんだかわからないが変な圧を感じ、いつも通りの会話は上手くできそうになかった。優羽と陽は朔夜を介さないと会話ができないのかというほど会話が不自由で、朔夜は余計に疲れてしまう。
優羽と別れ、陽と並んで教室まで歩く。
「……実は昨日、」
唐突に陽が話し出したその内容に、朔夜は「なにやってんだ、あいつ」と顔を歪めた。
□□□
部活が終わった後。三年生が着替え終わった頃に、二年生と体験入部の一年生が入れ替わるように更衣室に入った。
「皆藤のおかげでほとんど雑用しなくて良くなったから、ホント助かるよな〜」
その声はあの時ボールを拾いにきた生徒だった。
「けどさ、あの事故がなかったら怪我もしてなかったわけだし、今もレギュラーだったわけじゃん。それが今じゃマネージャーで。バスケもできないってのに、よくやれるよな。俺だったら無理だわ」
「俺もあの時点で辞めるかも。ここにいても虚しいだけじゃん?」
バン!
どこからか聞こえてきたロッカーを強く叩くような音に、二年生の数人がビクッと肩を揺らした。きょろきょろと更衣室内を見回し、生徒たちはその犯人を特定するも押し黙る。
「……じょ、冗談だって、そんな怖い顔するなよ」
「なら口にしなければいい。皆藤はそんな言葉、気にも留めないだろうがな」
陽の耳に入ってきたその陰口とも取れる内容は、日常的に耳に入ってくるものではあったが、さすがに黙っていられなかった。しかしロッカーを殴って二年生を黙らせたのは陽ではなかった。ちらりとその真犯人に視線だけ向ける。
「先輩、ちょっといいですか?」
「えっと、確かさっき入部希望出してた三枝、だっけ? なに?」
部長が一年生を集めた時に、すでにふたり正式に入部が決まったらしく、部員たちの前で自己紹介をしていたので名前は憶えられていたようだ。三枝優羽。皆藤朔夜とは同じ中学で家も近所と聞いていた陽だったが、なにか言い方に引っかかりを覚えた。
「先輩って確か、朔夜先輩の代わりにレギュラーになったって聞いたんですけど」
「優羽、やめとけって……」
隣にいたもうひとりの入部希望の一年、相澤直が慌てて止めに入る。
「だったらなんだよ?」
「じゃあそれなりに実力があるってことですよね? ってことで、俺と勝負して欲しいんですけど?」
「はあ? なんで一年なんかと?」
「俺が負けたらなんでも言うこと聞くんで、どうですか? 悪くない提案でしょ? 人数も五人以内なら何人でもかまわないんで」
どう考えても五対一は不利、というか無謀だろう。
「ちょっと待った! 優羽のアホ、さすがに無理だろそれ。あ、俺も参戦しますんで五対二ってことでどうですか?」
「……俺も参加する」
「は? 日上は関係ないだろ? ってか、するなんてひと言も言ってないし!」
「別にそっちは悪い条件なんてひとつもないと思うんですけど? それとも自信ないんですか? 仮にも強豪校のレギュラーなんですよね?」
なぜそこまでして強引に勝負をしたがるのか。
その理由はなんとなく、わかる。
「そこまで言うならやってやる。負けたらちゃんと約束は守れよ?」
「もちろん。けど、俺たちが勝ったらひとつだけお願い、聞いてもらってもいいですか?」
一年の、まだ入部して十五分程度しか経っていない生意気な態度の優羽に、二年生たちは眉を顰めつつもそれ以上はなにも言わずに逃げるようにさっさと更衣室を出て行った。
「俺も帰る。優羽は朔夜先輩と帰るんだろ? けど先輩になんて言うんだよ」
「それは明日考える」
「日上先輩もなんかすみません」
「……やるからには勝つしかないだろう」
「ですよね〜。はは……じゃあまた明日」
直は苦笑を浮かべながら更衣室を出て行った。陽もこれ以上はどうにもならないと帰ることにした。扉を開けると同時に、なにも知らずにやって来た朔夜が目の前に立っていた。

