突然真っ暗になった更衣室。ゆっくりと振り向けば、不透明なすりガラスの小窓の明かりが優羽だけを浮かび上がらせて、朔夜は思わず息を呑んだ。
「……えっと、優羽? 待っててくれた、のか?」
「…………」
「電気、消えちゃったみたいだから、つけていい?」
「…………」
優羽は無言のままこちらを見つめてくる。知ってて欲しいことってなんだ? なんでそんな顔をしてるんだ? 訊きたいことはいくつかあるのに、喉の辺りまで出かかっては引っ込んでしまう。いったいどうしたというのだろう。その、どこか苦しそうな表情に朔夜はそれ以上言葉が出てこない。
「……俺も着替えたいんだけど、暗くてよく見えないから、とりあえず電気、」
朝、一緒に登校した時と同じ、水色のシャツに黒いラインが下の方に入っている白のカーディガン、緑と黒のチェック柄のズボン姿の優羽が扉を塞ぐように立ち尽くしていた。朔夜はしどろもどろな言葉しか紡げず、自分より少し上にある視線から目をそらす。
仕方なく仄かな明かりだけを頼りに、自分のロッカーの前に向かう。今日の優羽は変だ。なんなら最近の優羽の様子が、時々おかしい。電車でも帰り道でも話していてもどこか上の空で。なにか悩みでもあるのだろうか。
Tシャツを捲し上げて着替えようとしたその時。いつの間にか背後にいた優羽が、朔夜の身体を囲うようにロッカーに両手をついて、『壁ドン!』ならぬ『ロッカーバン!』をしてきたのだ。
「は? へ? な、なに……ど、した?」
さすがにびっくりした朔夜だったが、振り向くこともできずに固まる。練習の時も思ったが、ものすごく機嫌が悪いようだ。首のすぐ後ろの方に他人の息づかいを感じ、変な雰囲気になっている気がして身構える。ここはふざけて笑うところなのだろうか。そもそもこれはどういう状況なのだろう。
(昔からたまに無言で訴えてくることがあったけど、その延長線? これって俺が察してやらないとダメなやつ? いや、そもそも俺なんかしたか?)
時間的にそろそろ出ないと先生が見回りに来るだろう。鍵がかかっていて電気も消えていたら、もう帰ったと思われてしまうかもしれない。そうなれば色々と理由を説明するのが面倒になる。どうしたらこのメンヘラモードを解除できるのだろうか。朔夜はシャツに手をかけヘソを出したまま今も動けずにいる。
「……朔くん、俺のことどう思ってる?」
「ど、どう、とは?」
「弟? 家族? それともただの幼馴染?」
「って、言われても……」
トーンの低いその声は、いつもの優羽とは別人に思えて。朔夜はここで答えを間違ったらどうなるかわからないという不安に襲われる。早く着替えてここから出たいのに、そういう状況ではないことも理解した上で。
「……じゃない」
「え? な、なんて?」
「俺は、朔くんの弟じゃない」
優羽の体温が背中に伝わってくる。触れ合ってくっついているわけじゃないのに、その熱は朔夜を混乱させる。同時に、その言葉にショックを受けてもいた。前に優羽が言ったそれとは比にならないくらいの、高いところから思い切り突き落とされたかのような、そんな感覚。
「手を繋いでる時も、一緒に遊んでる時も。隣で寝てる時だって。俺は、一度も朔くんを家族だなんて思ったことはないよ?」
それってつまり、俺のことが嫌いってこと?
今まで自分の隣で無邪気に笑っていた、色んな姿の優羽が走馬灯のように思い出される。幼稚園の時、小学校の時、中学生の時、そして今も。朔夜はぐるぐると考えすぎて目がまわりそうだった。
「あ……そう、だよな? やっぱ、俺、お前に兄貴ヅラしててちょっとうざかったかも?」
「……は? なに言ってんの? 違うよ?」
え? と朔夜が顔を上げたのと同時に、腕を掴まれて視界が反転する。目の前に優羽の顔があり、ひんやりとしたロッカーの冷たさが背中を襲った。そして息がかかるくらいの近さで言葉を交わしたと思った矢先、柔らかい唇が遠慮がちに触れてきた。
いったいなにが起きているのか。
いや、起きたのか。
朔夜にはまったく理解が追いついてこなかった。目を開いたまま、離れていく優羽の顔をぼんやりと見上げていることしかできない。
「わかった? 俺はキスしたいくらい、朔くんが好きだってこと。俺以外が朔くんと仲良くしてるのは嫌だ。日上先輩に話しかけてるのも面白くない。弟なんかじゃなくて、俺は朔くんの恋人になりたい」
「…………は? え、ええっと……つ、つまり?」
あまりにも予想だにしなかった衝撃的すぎる優羽の告白に、朔夜はもう逃げ出したい気分だった。つまり、優羽はずっと自分のことを性の対象として見ていたってこと? 男同士なのに? もうなにがなんだかわからない……。
「俺と付き合ってください」
いや、順番おかしくないか?
「返事は今じゃなくていい。もっと俺のことをちゃんと見て欲しい。俺は、朔くんの彼氏になりたい。そういうことだから、答えが出たら教えて?」
強い力で掴まれていた指先が離れていき、いつもの優羽がそこにはいた。
(……は? なに? なにが起こった? 俺、優羽になにされた?)
朔夜の心の中の混乱など知らない優羽は、電気をつけてさっさと更衣室から出ていってしまった。呆然としていた朔夜だったが、とにかく着替えて帰ろうとすぐに冷静になる。制服に着替え、ロッカーを閉め、つけたばかりの電気を消してさっさと更衣室から出た。
「じゃあ、一緒に帰ろっか」
「……あ、うん」
何事もなかったかのように優羽が外で待っていて、手を振ってきた。今のは夢だったのだろうか。困惑する朔夜をよそに、いつものように左手を繋がれる。手を引かれるまま校舎を後にして、夕暮れが半分藍色に染まった空の下を歩く。電車に乗っている間も、いつもの帰り道も。幼い頃のように、なにも変わらない。
「じゃあ、また明日ね」
「あ、うん、またな……」
ここまでどうやって帰って来たか正直よく憶えていなかった。優羽は「バイバイ」と言って隣の家に入っていった。朔夜もふらふらと鍵を開け、まだ誰も帰って来ていない自宅に入る。階段を上がり、鞄を机の上に置いた。そしてベッドに転がって天井を見上げて……。
「って、俺にあんなことしといて、なんであいつはいつも通りにできるんだよーーーーっ‼︎」
朔夜は思い切り遅れた突っ込みを叫んでいた。

