転生したら魔王だった。でも何故か世界から「聖人」扱いされている件

第1話 善人と呼ばれた魔王
 ――目を覚ましたら、玉座に座っていた。
 黒曜石の床、赤い絨毯、無駄に高い天井。左右にずらりと並ぶ角付きの従者たち。
 そして、鏡の中には――漆黒の鎧をまとい、紅い瞳を光らせる自分の姿。
「……おいおい、どう見ても魔王じゃねぇか」
 会社員だった俺・ユウトは、気づけば“異世界の魔王”になっていた。
 デスクの書類地獄から解放されたと思ったら、今度は魔界のトップとか、業務内容がブラックすぎる。
 目の前では、銀髪の女魔族が跪いていた。
「陛下、昨夜の戦火により南方の村が焼け落ちました。いかがいたしましょうか」
「え、ええと……再建を急がせて、被害者の救済を最優先で」
 思わず日本人の感覚で答えた。
 だが次の瞬間、玉座の間がどよめいた。
「さすがは我らが魔王様……!」
「人間の村など見捨てるのが常なのに……慈悲深い!」「陛下の御心はまさに聖人のごとく!」
 え、ちょっと待って。なんで褒められてる?
 俺、ただの常識的対応しただけなんだけど。
「……まあ、いいか。人を助けるのは悪いことじゃないし」
 そう思っていた俺は、この世界の“常識”をまだ知らなかった。
 翌日。
 復興支援のために、俺は兵を派遣した。道路整備の指示書を出し、物資を配る算段もつけた。
 日本の会社で散々PDCA回してきた俺にとって、段取りは得意分野だ。
 だが、その報告が王都に届くと――人間側がざわめいた。
「魔王が……我らを救済した……?」
「偽りだ、きっと罠に違いない!」
「しかし村人たちは実際に救われたと……」
 王国は混乱した。
 一方、魔界では――俺が“神に愛された魔王”として祭り上げられ始めていた。
◇ ◇ ◇
「陛下、井戸を掘る許可をいただけますか?」
「いいぞ。衛生環境を改善しよう」

「な、なんと……民の健康をも気遣われるとは……!」
 いやいや、普通だろ。衛生は基本だ。
 なんでいちいち感動されてるのか、理解できない。
 さらに、夜。書斎にいた俺のもとへ、参謀の老魔族がやってきた。
「陛下。民の間で“慈愛の魔王”と呼ばれております」
「やめてくれ、その称号……俺、悪役だよな?」
「いいえ、今や人間ですら陛下を恐れぬどころか、崇拝し始めております。『聖魔王ユウト』と」
 どこのRPGだよ、その二つ名。
「……いや、俺は世界征服とか興味ないし」
「お優しい……やはり陛下は聖人であらせられる!」
 話が通じない。
 なんでこの世界、まともな悪がいないんだ。
◇ ◇ ◇
 三日後。王国から使者が来た。
 勇者パーティの一行。白銀の鎧を着た青年――勇者カイルを筆頭に、神官、弓手、魔導士の四人組だ。「魔王ユウト。我らは貴様を討伐する使命を負っている!」
「……はいはい、そう来ると思ってた」
 ようやく“まともな展開”が来たと思ったのも束の間、彼の次の言葉が予想外だった。
「だが、討つべき悪とは何か……我々は迷っている」
「え?」
「貴様が村を救い、橋を直し、孤児を養っていると聞いた。
 それが真実なら、貴様は我々より正しいのかもしれぬ」
「……いや、俺はただ、インフラ整えてるだけで……」
「インフラ……? それは“平和を築く術”か」
 カイルは真剣な目で俺を見つめた。
 そして剣を下ろす。
「今日のところは引こう。貴様を斬る資格が、我々にはない」
 使者たちは静かに去っていった。
 玉座の間に残ったのは、ぽかんとした魔族たちと、現実を受け止めきれない俺。
「……なんでこうなるんだ」
「陛下、勇者を改心させるとは、さすがです!」
「神に背かせるほどの威光……まさに救世主!」
「ちがう! 俺は悪をやりたいのに!」
 叫んでも、誰も信じてくれない。
 俺が罵倒しても、「深い意味のあるお言葉」と解釈される始末だ。
◇ ◇ ◇
 夜。
 バルコニーに出て、冷たい風に当たる。
 闇夜に沈む魔界の街並みは、整備された灯りで穏やかに輝いていた。
 街路樹、整然とした家並み、笑顔で語らう魔族たち。
 ――おかしい。悪の支配って、もっと殺伐としてるはずだ。
「……俺、魔王として、間違ってるのか?」
 呟いた声が、夜に吸い込まれる。
 その背後で、参謀の老魔族が静かに頭を下げた。
「陛下。間違っているのは世界のほうです。
 陛下こそが、“真に正しい悪”を体現しておられるのです」
「なにその矛盾した日本語」
 だが――心のどこかで、俺はもう気づいていた。
 誰かが“悪”を引き受けなければ、世界は平和に回らない。
 善が溢れすぎれば、争いは生まれる。
 ならば、自分がその歪みを引き受けよう。 “聖人魔王”という皮肉な称号を背負ってでも。
「……まあ、いい。どうせやるなら、世界一まともな“悪”をやってやる」
 夜風が吹いた。
 遠くで鐘が鳴る。
 その音は、魔王の城を包みながら、静かに世界へと広がっていった。

第2話 勇者、悪を信じられない
 王都に戻る道は、思いのほか静かだった。
 木立の間から夏の名残りの風が吹き抜け、甲冑の合わせ目を冷やす。
 白銀の剣を背負いなおしながら、カイルは何度も振り返った。背後には、黒曜石の城――“魔王ユウト”の居城が、あり得ないほど静穏に佇んでいる。
 討つべき敵の根城が、夕暮れに溶けて美しく見えることなど、これまで一度もなかった。
「隊長、顔が暗いっすよ」
 軽口を叩いたのは弓手の少女・ミーナだ。陽気で、力よりも観察眼で戦うタイプ。
 隣で神官ローレンスが口元に手を当てた。「疲れているのだ。無理に笑わせるでない」
 最後尾でマントを翻す魔導士アイラは、無言のまま空を見上げている。彼女の視線の先には、魔王領の上空を規則正しく巡回するコウモリの群れ――ではなく、灯火の列があった。夜間の見張り用に、街道沿いに等間隔で提灯が吊られているのだ。
「街道に……灯り……?」
「ね、変だよね。あそこ、以前は日が落ちたら死人(しびとみち)道って呼ばれてたのに」
 ミーナが指差す。
 カイルは返事をしなかった。喉の底に石のような不快感が、ずっと落ちてこないでいる。
 ――魔王。
 ――だが、善行。
 どう整頓しても、二つの言葉は同じ皿に乗らなかった。
     ◇
 王都の外縁部、焼けたままの村に立ち寄ったのは、半分は任務、半分は自分のためだった。
 魔王が「救済」をしたという村。眉唾(まゆつば)に決まっている、と思いつつ。
「……橋、直ってる」
 ミーナの呟きに続き、全員が足を止めた。
 数か月前の豪雨で流された木橋は、今や厚い丸太と石の橋脚で補強され、両脇には転落防止の縄が編まれている。橋の手前には「荷車は一列」「渡る前に声かけ」と絵で描かれた札。文字が読めない者にも伝わる工夫――つまり、徹底された「配慮」。
 ローレンスが橋脚に手を当てた。「聖樹の樹脂で防腐。人間側では高価な処置だ。魔王が、これを?」
 橋の向こうから、花籠を持った少女が駆け寄ってきた。村の娘だ。
「勇者様ですか? 橋を見に来られたの?」
 カイルは頷いた。「この橋は、誰が?」
「黒いお城の人が来て、いっぱい測って、いっぱい木を運んで…… 魔王様が“落ちませんように”って、お祈りしてから渡ってました」 純粋な目が、嘘を知らない。
 アイラがささやく。「祈り、ね。……魔族の儀式かしら」
 「祈り」が「呪い」にも「祝福」にも聞こえる人間の耳の都合を、カイルは内心で苦笑した。
 村の広場には、井戸を囲む列ができていた。
 ただし、乱れはなく、順番札を持つ少年たちが列を捌(さば)いている。井戸の脇には簡素な掲示板があり、「一人桶に一杯まで」「煮沸してから飲む」と大きく描かれていた。
 以前は喧嘩が絶えなかった井戸端に、秩序が生まれている。
 ローレンスが深く息を吐いた。「……教会が何十年も説いてきて、届かなかった衛生の教えを、魔王は一晩で理解させたと?」
 彼の声色には怒りでも嫉妬でもなく、ただ真摯な驚きだけが混じっていた。
 そこで見つけたのは、角の小さな魔族の少年だった。
 彼は古びた皮袋から包帯を取り出し、農夫の手に巻いてやっている。手つきは拙いが真剣だ。
 ミーナがつい声をかけた。「君、名前は?」
「……リュン」
「その包帯、どこで習った?」
「城の、医療隊のおじさん。『汚れたら替える』『乾いた手で触る』

 少年が少し得意げに言う。
 アイラが眉をひそめた。「医療、隊……?」
「魔王が、作ったの」
 リュンは当たり前のように答えた。
 当たり前――。
 その言葉が、カイルの胸の奥で鈍い音を立てた。
     ◇
 王都に戻ると、空気は一変した。
 城の石段には討伐に向かう他の騎士団が列をなし、広場では「魔王許すまじ」の布が掲げられている。
 兵士たちの目は血走り、聖職者の祈祷はいつもより声が大きい。
 議事の鐘が鳴ると同時に、王城内で臨時評議会が開かれた。
「勇者カイル、報告せよ」
 重臣たちの視線が刺さる。
 カイルは正直に口を開いた。「魔王ユウトは、我々の想定する“ 悪”の像に合致しません。村落の復興、橋の補修、孤児保護――事実です。確認しました」
 ざわめきが走る。
 白い法衣を着た教国枢(すうききょう)機卿が立ち上がった。「欺きだ。魔王は人心を掌握し、国を内から腐らせるつもりだ」
「ですが、現地には実利がありました。見せかけに終わる仕事ではない」
 沈黙を破ったのは老宰相だ。「カイル、剣を下ろしたと聞いたが
?」
「はい。あの時、私は“善を斬る剣”になる危険を感じました」
「善か悪かは王権と教会が決する。勇者は執行に徹するべきだ」
 冷たい一言が胸を抉(えぐ)った。
 ミーナが小さく首を振る。彼女は言いたいことが山ほどあるのに、ここで口にすれば隊ごと切り捨てられるのを知っている。
「決定する。魔王領への第二次遠征を発する。勇者隊は先鋒、期日は七日後」
 王の言葉に、場は一斉に頭を垂れた。
 カイルは視界の縁が白くなるのを感じた。異議は、剣よりも鋭く己の喉を裂くだろう。
 だがそれでも――迷いを飲み込むだけの人間では、なかった。
     ◇
 会議後、回廊の影でアイラが小声で言った。「隊長。噂を聞きました。魔王領で“毒の井戸”が見つかった、と」
「毒?」
「人間側に責任を押し付けるための偽旗(にせはた)だと貴族連中は騒いでいます。『ついに正体を現した』ってね」
 ミーナが眉を吊り上げる。「でも、あの掲示板を見たでしょ? 煮沸しろって。毒なんか撒くやつが、衛生を教える?」
 ローレンスが唇を引き結んだ。「“毒”が本当なら、どこが入れたか調べねばならん。偽りなら、なおさらだ」
「――確かめに行こう」
 カイルの言葉に、三人は即座に頷いた。
 遠征の前日までは、まだ猶予がある。禁を犯してでも、真実を見たい。
 それが“勇者”よりも、ただの人間カイルの叫びだった。
     ◇
 毒が撒かれたと噂されたのは、以前見た橋から三つ隣の集落だった。
 井戸の周りには縄が張られ、近寄るなと描かれた札――そして見慣れない封蝋(ふうろう)がぶら下がっている。
 アイラが眉間に皺を寄せた。「王都の印章? なぜ魔王領に」
 ローレンスが地面に膝をつき、土を嗅ぐ。「……腐敗臭はしない。
鉱物系の臭いが微かに」
 ミーナが耳を澄ませる。「人の気配、右手の納屋」
 弓手の指が示す方向で、黒い外套の男が身を寄せ合っている。
 カイルが歩み出た。「王都の者か。何をしている」
 男は一瞬だけ青ざめたが、すぐに薄笑いを浮かべた。「勇者様。魔王の悪行の証拠固めを」
「その封蝋は王都のものだな。なぜ魔王領の井戸にぶら下がっている」
「……風で飛んできたのだろう」
「風で封蝋が縄に結びつくなら、天使の仕事だ」
 言い終わらぬうちに、男は煙玉を放った。視界が白に閉ざされ、足音が散る。
 ミーナの矢が煙を裂いたが、命中の手応えはない。
 アイラが風の術で煙を払い、ローレンスが祝詞(のりと)で周囲を清める。 井戸を覗き込み、カイルは頬を強張らせた。「黒い粉の袋……まだ口が結ばれていない」
 袋を縛る紐は、王都軍の糸印。
 ローレンスが乾いた笑いを漏らした。「“魔王の悪”を証明するために、人間が毒を入れる……か」
 真実は、たった一瞬の逃走劇でひっくり返った。
 だが、世間は一瞬では変わらない。
 “毒の井戸”という言葉は、事実より早く走る。
     ◇
 その夜、カイルは一人、街道の端で空を仰いだ。
 星は騒がない。
 善と悪がねじれても、宇宙は何も言わない。
 ただ、選ぶのは人間だ。
 背後で草が擦れる音がした。
 振り向けば、影のような人影が立っている。月明かりに、角の小さな少年――昼間のリュンだ。
「勇者、さま」
「どうしてここに」
「城の、おじさんが言ってた。“勇者は話がわかる顔をしてる”って」
 子どもの言う「顔」が、いつから自分から失われていたのか、カイルは思い出せなかった。
 リュンは小さな包みを差し出した。「これ、魔王様から」
 中には、巻紙がひとつ。
 封を切ると、簡潔な文があった。
――勇者殿へ
 井戸の件、そちらにとっても都合が悪いと察します。明日、国境の小礼拝堂で会いませんか。
 民の前でなく、剣の前でもなく、ただ言葉の前で。
 魔王ユウト
 ミーナが目を丸くする。「会うって。行くの?」
 ローレンスが慎重に言った。「罠の可能性は捨てきれん」
 アイラは巻紙を覗き込んで、ふっと笑った。「“言葉の前で”。魔族の王がこんな言葉を使うなんて、なかなか洒落てる」
 カイルは巻紙を握りしめた。
 罠でもいい。言葉が交わせるなら、剣よりもましだ。
「行く」
 言葉は驚くほど軽かった。
 だが、その軽さが、次に踏むべき石の重みを逆に教えてくれる。
     ◇
 国境の小礼拝堂は、昔、戦死者のために建てられたという。
 夜明けのモルゲンが窓を水色に染め、埃の匂いを淡く照らす。
 先に入っていたのは、黒い外套をまとった男――魔王ユウトだった。
 甲冑を着るでもなく、杖や王笏(おうしゃく)もない。
 やけに普通の、疲れた目をした男が、ベンチに腰を下ろしていた。
「来てくれてありがとう」
 その第一声は、驚くほど人間的だった。
 カイルは、剣帯を解いて入口脇に置いた。
「こちらも武器は置いた。……罠ではないのだな」
「罠をしかけたら、“善人ポイント”がまた勝手に上がる」
 魔王は自嘲気味に笑った。「もう、あれはこりごりだ」
 礼拝堂の中央に、古い石の祭壇がある。
 祭壇の縁には、どこかの僧が彫ったであろう拙い祈りの言葉が残っていた。
 ローレンスが一歩前に出ると、ユウトは軽く会釈をする。「あなたが神官?」
「教国ローレンス。しかし今日は、礼拝ではなく対話に」
「対話、歓迎。……俺、もともと会議ばっかりの仕事してたから」
「会議?」
 ミーナが首を傾げる。
「昔の世界の話。――まあ、それは置いといて。井戸の件、あんたらも困ってるだろう」
 カイルは頷いた。「人間の印の袋が、井戸から出た。そちらも気づいていたか」
「うん。うちの医療隊が見つけて、手は触れずに封鎖した。誰がやったかは、そっちのほうが詳しいはず」
「……王都の一部の貴族が、戦を続けたい。戦が彼らの富を増やすからだ」
 アイラが吐き捨てる。
 ユウトは一瞬だけ目を伏せ、その目をカイルに戻した。「俺は、魔界のために“まともな暮らし”を作ってるだけ。善人扱いは余計だ。でも、これ以上戦で人が死ぬのは、もっと嫌だ」
 その言い方は、妙に刺さらない。
 正義を振りかざす人間の尖り方ではなく、疲れてなお手放さない誠実の平らさがあった。
「ならば、なぜ“魔王”を名乗る」
 ローレンスの問いは、信仰というより倫理の問いだった。
 ユウトは肩をすくめた。「目を覚ましたら玉座の上だった。役職を降りると空位ができて、もっとひどい魔族が座るかもしれない。だから“引き受ける”。……善人か悪人かのラベルより、現実のほうがいつも先にある」
 現実。
 カイルは目を閉じた。
 自分の「勇者」という名もまた、現実より先に押されたスタンプだったのかもしれない。
「明後日、王都から第二次遠征が出る。俺たちは先鋒だ」
 ユウトの表情が、ほんのわずか固まった。「早いな」「止められない。だが――無益な衝突だけは避けたい」
 沈黙が、礼拝堂の梁(はり)にぶら下がって揺れた。
 ミーナが一歩踏み出し、祭壇に小さな矢羽を置いた。「これ、私の“誓い”。次に撃つのは、誰かを守るためだけ」
 アイラも、彼女の杖から星の欠片のような石を外して置く。「真実を曲げる魔術は使わない」
 ローレンスは聖印をはずし、祭壇に重ねた。「神もまた、対話を喜ぶはずだ」
 ユウトは苦笑した。「なんか、こっちが宗教に入信するみたいだな」
 そして、彼は自分の指輪を外した。黒曜石の指輪――魔王の印。
「俺も預ける。一時的にね。……互いに“引き金”を置いていこう」
 四人と一人。
 祭壇の上に、誓いが並んだ。
 見れば滑稽で、けれど、世界のどこよりも真面目な光景。
 だが、その瞬間。
 礼拝堂の外で、蹄(ひづめ)の音が荒々しく止まり、扉が乱暴に開いた。
「勇者カイル!」 怒声とともに飛び込んできたのは、王国軍の中隊長だった。背後には兵士が十。
 彼は祭壇に並ぶ指輪と聖印を見て、顔に嘲笑を貼り付ける。「何をしている。魔王と通じ、国を売るか」
 ミーナが弓に手を伸ばしかけ、アイラが制止する。
 ローレンスは前に出た。「誤解だ。今、我々は――」
 中隊長は聞かなかった。
 彼は巻紙を広げ、高らかに読み上げた。「王命である。――“魔王との一切の対話を禁ず。発見し次第、討て”。違反者は反逆者として裁く」
 剣が抜かれる音が、礼拝堂の穏やかさを切り裂いた。
 ユウトはゆっくりと立ち上がる。「困ったな。話し合いって、そんなに悪いこと?」
 カイルは彼と兵士の間に入り、背中で魔王を庇った。
「刃を納めろ。ここは礼拝堂だ」
「勇者よ、そこをどけ。王命だ」
「――王命のために、王国を壊すのか」
 言葉が刃になり、中隊長の目が血走った。
 彼は合図をし、兵士が一斉に踏み込もうとする――その時。
 礼拝堂の窓が、外から鳴った。
 誰かが鐘を鳴らしている。
 あの鐘は本来、火事や敵襲を知らせるためのものだ。
 兵士たちが一瞬だけ戸惑い、動きが止まる。
 鐘の音は、国境の小さな村を駆け、橋へ、井戸へ、掲示板へ、夜勤の見張りへと連鎖していく。
 ――誰かが知らせている。戦の前に、対話が行われていることを。 ユウトが小さく笑った。「民は賢い。上が止めても、鐘は鳴る」
 中隊長は怒号を上げた。「黙れ!」
 剣が振り上げられる。
 カイルは一歩も退かなかった。背中に、魔王の気配。祭壇には、互いに外した“引き金”。
 彼は深く息を吸い、決めた。
「――剣を抜くのは、今じゃない」
 腰の白銀の剣を、カイルはゆっくりと床に置いた。
 兵士たちがたじろぐ。勇者が、剣を放す。
 ミーナとアイラとローレンスも、それに倣った。
 武器が音を立てて床に並び、礼拝堂は奇妙な静寂に包まれる。
「王命に従い、魔王を討つならば、まず俺を討て。俺は“善を斬りたくない”。……それが反逆なら、喜んで受ける」
 震えは、なかった。
 剣を置くことのほうが、今は剣を握ることよりも、勇気が要る。
 その難しさを、背中の男はきっと誰よりも知っている。
 中隊長は顔を歪め、躊躇した。その間に、外の鐘の音がさらに大きくなる。兵士たちの足元が揺らぐ。
 一人がぽつりと呟いた。「……民が、集まってきます」
 集落の人影が、礼拝堂の外に膨らんでいくのが窓越しに見えた。 大勢の目の前で、勇者を斬り、武器を置いた魔王を斬り、祭壇に並ぶ誓いを踏みにじる――そんな絵は、いかにも「悪」だった。「退くぞ!」
 中隊長が吐き捨てるように言い、兵士たちは後退した。
 扉が閉まり、外のざわめきだけが残る。
 礼拝堂の中で、誰もすぐには口を開かなかった。
 やがて、ユウトがぽつりと言った。
「ありがとう」
 カイルは首を振った。「礼を言うのは、まだ早い。次に来るのは、もっと大きな波だ」
「だろうね。――でも、今は助かった」
 ユウトの笑いは、疲れていたが、どこか軽くなっていた。
「次は、こちらから王都へ“話”を送り込む番だ。橋を使って、鐘を使って、掲示板を使って。武器じゃなく、段取りで」
 ユウトの口調に、どこか仕事モードの色が差す。
 ミーナが目を丸くした。「段取りで戦う魔王、初めて見た」
 アイラが肩をすくめる。「私たちも段取りを整えましょう。情報を集め、味方を増やす。……“善人ポイント”なんて言葉、好きじゃないけど、今は冗談で済ませておく」
 ローレンスが祭壇に並ぶ誓いをひとつずつ手に取り、元の持ち主に返す。「誓いは預け合い、責任はそれぞれが持つ。――これが、対話だ」
 カイルは白銀の剣を腰に戻した。
 剣は重い。
 だが、背中の軽さは不思議だった。
 魔王を庇ったからではない。 自分の中の、見えない像をひとつ、そっと床に置けたからだ。
 礼拝堂を出ると、朝の光が村の屋根を金色に染めていた。
 鐘を鳴らしていたのは、角の小さな少年――リュンだ。
 彼は鐘の綱から手を離し、胸を張って言う。「勇者さま、聞こえた?」
「ああ。よく、鳴らした」
 少年は満面の笑みを浮かべ、走っていった。
 その小さな背中が、カイルにはどんな軍旗よりも頼もしく見えた。
     ◇
 王都に戻れば、審問と罰が待っているだろう。
 だが、恐れと同じくらい、奇妙な高揚が胸にあった。
 “善”は、名札ではない。
 “悪”は、仮面ではない。
 それらはいつも、誰かの暮らしの中で、井戸の水や橋の丸太に、鐘の音や掲示板の絵に、静かに宿る。
 勇者の剣は、そういうもののためにこそ抜かれるべきだ。
 カイルは歩き出した。
 次に会うとき、彼は魔王に伝えるつもりだ。
 ――あなたを信じたのではない。
 ――“信じられる現実”を、少しだけ信じてみたのだと。
 そして、まだ名もない第三の道――善でも悪でもない、誰かの暮らしを続けるための道――に、一歩を置いた。
(つづく)

第3話 魔王、和平交渉を企てる
 夜明け前の空は、墨のように濃かった。
 魔王城のバルコニーから見下ろすと、街の灯が一本の糸のように伸びている。井戸のある広場には、すでに人影がちらほらと動いていた。
 魔族たちが、今日も水を汲み、炊き出しを始めている。
 ユウトは欄干に手を置き、深く息を吐いた。
「……“悪の拠点”にしては、早起きすぎるな」
 背後で、参謀の老魔族・ギルベルがくぐもった笑い声を立てた。「陛下のおかげで、民が安心して眠れるようになりましたゆえ。夜盗も、盗賊も、もう出ません」
「平和なのはいいことだ。でもな、ギルベル。平和になりすぎると、どこかが壊れ出すんだ」
 ユウトは空を見上げた。夜と朝の境界、群青のグラデーションが、まるで善悪の曖昧さを象徴しているようだった。
「……さて。そろそろ“情報戦”を始めようか」
「情報戦、でございますか?」
「ああ。戦争を止めるには、戦うより先に“意味”を壊すんだ。
 つまり――『魔王=悪』という構図を、情報でぶっ壊す」
 ギルベルが頷く。「また、妙な策を……」
「妙じゃないさ。俺の前世の世界じゃ、真実より“印象”のほうが早く走る。なら、印象を作り替えればいい。悪役でも、ニュースのトップに『慈悲深き魔王』って出れば、それが正義になる」
 魔族参謀が苦笑した。「……言葉で戦を止めるとは、陛下らしい」
 ユウトは机に地図を広げた。
 赤い線が王国との国境を示している。その手前に小さな点――橋と村。そして、その村には、最近“鐘”が設置されたばかりだ。
「まず、橋沿いの村々に“鐘の連絡網”を広げる。王国が動けば、鐘が鳴る。村ごとに連携して動くんだ。報復も、略奪も、誰も得しないと教える」
「鐘が……武器の代わり、ということですか」
「そうだ。俺たちは武器より“言葉”を響かせる。
 それに、勇者カイルが協力してくれれば、双方に伝えられる。―
―俺たちは、戦わない意思を持っているってな」
     ◇
 一方その頃。
 王都の北塔の地下室で、勇者カイルは軟禁状態に置かれていた。
 名目は「謹慎」。だが実態は監視だ。
 窓は小さく、光は届かない。壁に掛けられた聖印が、皮肉のように冷たく光っている。
「勇者が“魔王と通じた”なんて話、誰が信じると思ってるんだ」
 ミーナの声が暗闇に響く。彼女は牢の格子の外、見張りの兵士に隠れて囁いた。
「誰も信じなくてもいい。真実は、鐘が鳴る時に届く」
「鐘……? あの子のこと?」
「ああ。リュンたちが動いてる。魔王領から王国の町まで、“平和を知らせる鐘”を広げてるんだ。王都がどれだけ隠しても、民の耳は塞げない」
 ミーナは不安げに眉を寄せた。「それ、王都にとっては反逆よ」「知ってる。でも、“正義”を奪われたまま、黙ってるほうがよほど罪だ」
 カイルの言葉は、静かだが強かった。
 それは剣よりも真っすぐな意志の音だった。
     ◇
 王都の上層部は焦っていた。
 魔王領からの「慈善活動」の噂が止まらない。橋の修繕、孤児院の開設、無償の医療……そして“鐘”。
 鐘が鳴るたびに、人々はこう囁く。
――「魔王様が、また誰かを助けたらしい」
――「人間の国のほうが、よっぽど冷たいじゃないか」
 このままでは民心が奪われる。
 枢機卿は拳を握りしめた。「あの魔王、神に成り代わる気か……」 彼は即座に宣言する。「“聖戦”を布告する。魔王を討てぬなら、信仰が死ぬ」
 その一言で、王都は再び血の準備を始めた。
     ◇
「……聖戦、か。嫌な響きだな」
 報告を受けたユウトは、深く眉をひそめた。
 ギルベルが言う。「陛下、撤退を? 城を捨て、民を避難させれば被害は最小に……」
「いや、それじゃ“逃げた悪”になるだけだ」
 ユウトは椅子から立ち上がった。
「俺が築いた橋も井戸も、全部意味を失う。民は“善”を信じられなくなる。だから、逃げない。――戦わずに、勝つ」
「……どうやって、ですか」
「俺たちの“敵”は兵じゃない。誤解だ」
 ユウトは地図の上に、幾つかの印を付けた。
 鐘の村、医療隊、交易路……そして王都へ通じる地下水脈の線。「この線を使う。王国側にも井戸が繋がっている。水は、人間も魔族も分け隔てなく流れる。
 なら、その流れに――“真実”を流せばいい」
「真実……?」
「この世界の“情報”は、人の口と噂に頼ってる。なら、水を通して伝えよう。
 俺が前世で使ってた“印刷術”の簡易版――木版に文字を刻んで、井戸の底に沈める。くみ上げたとき、水に溶けた墨が“言葉”になる。『戦わないで』『私たちは敵じゃない』――そういう短い祈りを、井戸ごとに流す」 ギルベルは目を見開いた。「それは……魔術でもないのに、まるで魔術のようだ」
「科学ってやつさ。言葉を水に溶かすだけで、世界は変わる」
     ◇
 数日後。
 王都の貧民区の井戸から、水を汲み上げた少女が叫んだ。
「お母さん! お水が……しゃべった!」
 桶の中に浮かぶ薄墨の文字は、太陽の光を反射して滲み、こう読めた。
“わたしたちは、敵ではない”
 それは瞬く間に人々の間で話題になり、恐怖と好奇心が入り混じった波となって広がった。
 誰かが言った。「魔王の仕業だ」
 別の誰かが答えた。「でも、この言葉に悪意はない」
 さらに別の誰かが、「じゃあ、本当の悪は誰なんだ?」と呟いた。
 その問いが、王都全体に感染するように広がった。
     ◇
 枢機卿は激怒した。「魔王が神の水を汚した!」
 だが、怒りの演説をしても、民の表情はもう変わらなかった。
 戦争を望まない者が増えていた。
 兵士の中にも、「魔王は悪ではない」と囁く者が現れ始めた。 そんな中、牢に繋がれていたカイルに密書が届いた。
 送り主はユウト。
 内容は、たった一行。
――“鐘が鳴る夜に、王都の北門を見てくれ”
     ◇
 夜。
 王都の北門前。
 兵士の見張りの下、静かに霧が漂っていた。
 やがて、遠くから「ゴーン」と鐘の音が響いた。
 ひとつ、またひとつ。
 まるで連鎖するように、各地の鐘が鳴り始める。
 その音に合わせるように、北門の外から列をなした灯火が現れた。
 魔族たちが、松明ではなく“灯籠”を手に歩いてくる。
 その灯籠には、子どもや老人、治療師、商人――武装した兵士はいない。
 彼らは静かに門の前に立ち、地面に灯籠を並べた。
 灯籠の側面には、同じ言葉が刻まれていた。
“敵を作るより、井戸を作ろう”
 カイルは門の上からその光景を見つめ、息を呑んだ。
 誰も叫ばず、誰も攻撃しない。ただ静かに、光が並ぶ。
 兵士たちが戸惑う中、ひとりの少年が群れの先頭に出た。
 角の小さなリュンだ。
 彼は両手を口に当て、大声で叫んだ。
「お水、ありがとう!」
 それは、戦の号令ではなかった。
 子どもの感謝の声。
 だがその一言が、兵士たちの剣を鈍らせた。
 王都の兵長が呻くように言う。「……これが、攻撃か?」
 カイルは首を振った。「違う。――これは、交渉だ」
 ユウトは群れの後方に立っていた。
 風に黒い外套が揺れる。
 彼はゆっくりと手を上げ、掌を開いた。
 その仕草だけで、群衆のざわめきが止まった。
 静寂の中、魔王の声が響く。
「戦わない勇気を、見せに来た」
 門上のカイルが叫ぶ。「ユウト!」
 その名を呼んだ瞬間、矢が放たれた。
 王国の右翼――暴走した一兵の矢だった。
 空を切る音。
 ユウトはとっさにギルベルを庇い、左肩に矢を受けた。
「陛下ッ!」
 悲鳴が上がり、灯籠の列が乱れた。
 ユウトは苦痛を押し殺しながらも、倒れずに立っていた。
 彼は血を流しながらも、静かに笑った。
「……ほらな。これが“善人ポイント”の恐ろしさだ。
 痛いのに、みんな拍手する」 その皮肉に、ギルベルが涙ぐむ。
 カイルは門から飛び降り、地面に膝をついたユウトのもとへ駆け寄った。
 矢を抜き、布で止血する。
「何で、そこまで……!」
「お前が言ったろ。剣より、言葉だって」
 ユウトの声はかすれ、しかし確かだった。
 その姿を見た民は、もう誰が善で誰が悪かを区別できなくなっていた。
 善も悪も、血の中で同じ赤を流す。
 それを見て、カイルは悟った。
 ――この戦は、もう“勝敗”の問題ではない。
     ◇
 その夜、王都の記録官は密かにこう記した。
「魔王、血を流す。勇者、剣を抜かず。
 民、鐘を鳴らす。戦、始まらず。」
 翌朝。
 王都の門の前には、千もの灯籠が並び、夜明けの風にゆらめいていた。
 その光景を、誰がどう呼ぶかは、もう問題ではなかった。
 ――それは、戦よりも強い“祈り”だった。

第4話 血の条約
 夜明けの空は灰色だった。
 王都の北門に残された千の灯籠は、風にあおられてゆらめき、燃え尽きたものから灰が舞い上がっていた。
 その灰は、夜の戦火ではなく、“戦わなかった”証だった。
 ――だが、誰もまだ、勝利を実感してはいなかった。
「陛下、もう休まれねば!」
「この程度の傷で寝ていられるか」
 ギルベルが止血の包帯を巻き直しながら、眉をしかめた。「肩に矢が刺さって“程度”ですか」
 ユウトは笑ってみせる。「なに、前の職場じゃ徹夜明けで会議に出るのが常だった」
 ギルベルはため息をついた。「その“職場”というのは、どんな地獄だったのです?」
「魔王城より騒がしかったな。上司の雷も落ちるし、残業は永遠に終わらない」
 ユウトの冗談に、側近たちは一瞬だけ笑った。
 笑えること自体が、奇跡のように思えた。
 彼らはまだ、王国がこの出来事をどう受け止めるのかを知らない。
 北門での流血は、双方にとって“痛み”であり“象徴”だった。
     ◇
 王都の大聖堂。
 枢機卿エリオットは、祭壇の前で怒りを噛みしめていた。 兵が報告する。「魔王は矢を受けながらも、反撃せず……民に“ 剣より祈りを”と語りました」
「民がどう反応した」
「……拍手しました」
 その言葉に、老人の目が細くなる。
「この国の信仰は、もう魔に奪われたというのか」
 彼は震える手で聖書を叩いた。「神の声が届かぬなら、我らが神の代わりに裁きを下すしかない」
 側近が恐る恐る問う。「つまり……」
「聖戦だ。真の意味でのな」
 老枢機卿の宣言は、教国全土に響き渡った。
 だが同じころ、勇者カイルは拘束を解かれ、王都の外郭に出ていた。
 彼を解放したのは、若い文官だった。
 「命じられました。勇者様の“処刑”を明日の儀式にて……だから今夜のうちに逃げてください」
 文官は震えていた。「俺……信じたんです。魔王の灯籠を見て。
あれが悪なら、俺たちは何なんですか」
 カイルは短く礼を述べた。「ありがとう。必ず、戻る」
 そして、彼は北門の外へと向かった。
     ◇
 夜風が冷たい。
 魔王城の医務室では、ユウトが椅子に座ったまま地図を見つめていた。
 左肩はまだうずくが、頭は妙に冴えている。
 机上には新しい紙が広げられていた。
 「魔界と人間界との停戦協定案」――  その上には、異世界の文字で書かれた奇妙な文体の文書。彼自身の手による「条約草案」だった。
「名づけて、“血の条約”」
 ギルベルが首を傾げた。「血の……?」
「どちらの血も、もう流れすぎた。だから、それを“起点”にする。
恨みではなく、証としてな」
 彼は紙に一行を書き足す。
“この血をもって、我らは戦を止める。”
「難しいことを……」とギルベルが苦笑した。「相手が同意しますか?」
「同意しなくても、書いておくことが大事なんだ。歴史ってのは、先に書いたほうが勝つ」
 ユウトの言葉に、部屋の空気が静まり返る。
 戦場を制するより、“記録”を制する――その考えは、この世界の誰も持っていなかった。
 そのとき、扉がノックされた。
 「勇者カイル、参上を願う」
 兵士の声に、ギルベルが驚く。「まさか、もう……」
 ユウトは微笑んだ。「予定より早かったな。彼、やっぱり真面目だ」
     ◇
 再会の場は、魔王城の小会議室だった。
 窓の外には、薄く月が滲んでいる。
 カイルは軽装で、剣は持っていなかった。 ユウトは包帯の上からローブを羽織り、軽く手を挙げた。
「無事だったか」
「お互いにな。……まさか、あの矢を受けても立っていられるとは思わなかった」
「根性だけは、異世界最強だからな」
 カイルは笑い、すぐに真顔に戻った。
「王都では“聖戦”が正式に宣言された。明日の正午、教国軍が北門へ進軍を開始する」
「……早いな」
「だが、民は違う。あの灯籠の光を見た者の中には、武器を捨てた兵もいる。今なら、対話が間に合うかもしれない」
 ユウトは頷き、机の上の紙を差し出した。
 「これを見てくれ。“血の条約”と名付けた」
 カイルは紙を手に取り、目を走らせた。
 条文は短く、たった三つの約定で構成されている。
一、双方の民の流した血をもって、戦を止めること。
二、勇者と魔王は共に代表し、互いの民に誓うこと。
三、破る者あらば、その者こそ真の“悪”とすること。
 読み終えたカイルは、しばらく黙っていた。
 「……これは、神にも、人にも、どちらにも属さない約定だな」 「そう。だからこそ意味がある。正義と悪の境界を越えた“第三の約束”だ」
 「もしこれを世に出せば、どちらの陣営からも裏切り者と呼ばれる」
 「構わない。俺はもともと、“魔王”だ」 ユウトの笑みに、カイルも微かに笑った。
 そして、ゆっくりと指を伸ばし、自らの親指を切る。
 滴る血が、条約の署名欄に落ちた。
 ユウトも同じように、血を落とす。
 二つの血が、紙の上で混ざり合い、紫色に滲んだ。
「これで、名前の意味ができたな」
 ユウトが笑う。「血の条約、成立だ」
     ◇
 だが――その瞬間、窓の外から矢が飛び込んできた。
 ユウトが反射的に腕を上げ、矢を弾いた。
 廊下から悲鳴が上がる。
 「刺客だ!」
 カイルは即座に剣を抜いた。
 扉を蹴破って入ってきたのは、黒衣の男たち。
 動きは訓練された兵。教国の暗部「浄化師団」――異端を“浄める”ことを使命とする者たち。
 リーダー格の男が叫ぶ。「勇者も魔王も、神の敵だ!」
 ユウトが舌打ちする。「宗教戦争、か……最悪の展開だな」
 カイルは剣を構え、ユウトの前に立った。「ここは俺が防ぐ。お前は――」
 「お前呼びはやめろ。“陛下”だ」
 「……ふざけるな!」
 ふたりの短い笑いが交錯する。
 その直後、剣と刃が火花を散らした。 ユウトは右手に魔力を集め、指を鳴らした。
 床に刻まれた古代の紋章が輝き、突入してきた兵士たちの足元に光の陣が展開する。
 「光の封印……? 魔族の術ではない!」
 ユウトは肩をすくめた。「“科学”だ。俺の世界のエレベーターに似てる。下には行かせない仕組みだ」
 床が開き、兵士たちは地下の牢へと吸い込まれていった。
 カイルが目を丸くする。「……お前、何者なんだ」
 「残業に強い一般人」
 「冗談言ってる場合か!」
 ギルベルが駆け込んできた。「陛下、外にまだ数十人の兵が! 防衛線がもたぬ!」
 ユウトは深呼吸をして、机の上の“血の条約”を掴んだ。
 「ギルベル、これを鐘の村に持っていけ。鐘の音と一緒に読ませるんだ」
 「しかし、陛下……!」
 「いいか、条約は“言葉”じゃない、“証”だ。誰かが読むだけで、意味が生まれる。俺が死んでも、これが生きてりゃ戦は止まる」 ギルベルが涙をこらえて頷く。
 「承知いたしました、陛下……必ず」
     ◇
 夜明け。
 王都へ向かう街道を、ギルベルが馬を走らせていた。
 背中の鞄には、血で滲んだ条約書。
 遠くで鐘が鳴る。ひとつ、ふたつ、またひとつ。
 それは、戦の合図ではなく、言葉の合図だった。
     ◇
 そのころ魔王城の天守では、ユウトとカイルが並んで立っていた。
 周囲には残った兵がわずか十数名。
 城の外には、教国軍の旗がはためいている。
 数千の軍勢。もはや抵抗などできるはずもない。
「撤退しろ」とカイルが言う。「生き延びろ。条約を完成させるには、お前が必要だ」
「それはお前も同じだ。勇者が死んだら、条約の“対”が消える」
 ユウトは口角を上げた。「だったら、生き残り勝負だな」
 空を裂くように号令が響いた。
 教国軍が矢を放つ。
 その瞬間――城の塔の上で、鐘が鳴った。
 誰が鳴らしたのか分からない。
 だが、その音は確かに世界に響いた。
 北門の村でも、王都でも、山の向こうの橋でも、同じ鐘が呼応するように鳴り始めた。
 戦場が、一瞬、静止した。
 兵士たちは耳を傾ける。
 風に乗って届いた声が、どこからともなく響く。
「血をもって、戦を止めよ――」
 ギルベルが“血の条約”を読み上げていた。
 鐘の音が増幅し、声が空を渡る。 兵士たちは互いの顔を見合わせ、矢を下ろした。
 誰も、最初の一撃を放てなかった。
     ◇
 日が昇った。
 血は流れなかった。
 魔王と勇者は生きていた。
 そして、両陣営の民の心に、ひとつの記憶が刻まれた。
“戦を止めたのは剣ではなく、言葉だった。”
     ◇
 夕刻、負傷の手当を受けながら、ユウトは窓の外を見た。
 遠くで、リュンが鐘の綱を引いている。
 あの小さな背中を見て、ユウトは微笑んだ。
「……善人設定ってのも、悪くないかもな」
 カイルが笑う。「お前の“悪”は、俺の“正義”より強い」
 ユウトは肩をすくめる。「そりゃどうも。じゃあ次は、休日の設定もくれ」
 鐘の音が、再び響いた。
 その音は、どの剣よりも遠く、深く、世界を震わせていた。

第5話 神の審問
 王都の鐘が、昼を告げる回数を数え終えたとき、民は大聖堂の前に集められていた。
 枢機卿エリオットの布告は簡潔だった――「神託が下りた。魔王と勇者を“審(さば)く”」。
 誰もが知っていた。昨日、血は流れなかった。だから今日こそ、血を求める者たちが“正しさ”という名の器を掲げて待っている、と。
 白い階段。白い柱。白い祭壇。
 名ばかりの白さの中へ、黒い外套の男と、銀の剣を腰にぶら下げた青年が、並んで歩いていく。
 ユウトとカイルだ。
 ざわめきは起きない。静寂は、剣よりも鋭い。
 祭壇の背後に据えられているのは、古来の神器――〈天秤の碑(ひ)〉。
 罪と徳を量るという石の天秤。中央には小さな皿が二つあり、片方は「意」、片方は「果」と刻まれている。
 意図と結果。
 この国はいつだって、後者の皿ばかり見てきた。
「これより“神の審問”を始める!」
 枢機卿の声は、雷より高く、鐘より遠くへ響いた。
 彼の隣には、黄金の仮面をつけた巫女が立つ。
 “神託”を下ろす媒介――鴉羽(からすば)の巫女。
 しかし、その仮面の目の穴から覗く瞳に、カイルは見覚えを覚えていた。怯え。迷い。
 彼は眉をひそめ、ユウトに小声で言う。「仮面の下、若すぎる」
「“使い捨て”は、どの世界にもある」
 枢機卿は両腕を広げる。「民よ、見よ。魔王は神水(しんすい)を汚し、井戸に呪を流した。勇者は剣を捨て、魔と通じた。神は怒り、神は問う。
――汝らは“善”か、“悪”か」
 祭壇の前に引き出された二人に、補佐の司祭が縄をかけようとする。
 ユウトが肩をすくめた。「手、痛いんだ。片方だけにしてくれ」
 司祭は一瞬躊躇し、片手だけ縛る。
 枢機卿の口元に、侮蔑の笑みが刻まれた。
 天秤の碑に、司祭が神油を垂らす。
 巫女が低く祈りを唱え、天秤の皿に薄い光が宿る。
 石で出来たはずの皿が、微かに呼吸をした。
「まずは魔王ユウト。汝の“意”は、何ゆえか」
 枢機卿の声に、ユウトは肩を竦める。
「楽に生きたい。残業を減らしたい。民に死なれたら、こっちの仕事が増える」
 群衆の中に笑いが走る。しかしすぐに、笑いは引っ込んだ。
 天秤の“意”の皿が、わずかに上がったのだ。
 枢機卿は眉をひそめる。「曲者め。では“果”。汝は何を為した」
「井戸を掘り、橋を直し、孤児院を作った。昨日は矢を受けた」
 “果”の皿が、ふわりと下がる。
 “善”と判定されたときに鳴る小さな鈴は――鳴らない。
 代わりに、静けさが深くなった。
「神の鈴が鳴らぬのがわからぬか! 偽善は神に届かぬ!」 枢機卿が叫ぶ。
 カイルが一歩前に出る。「鈴を鳴らすのは、神か、それとも人か」
「黙れ。勇者カイル、汝は“意”において裏切りを為し、“果”において国法を犯した。汝の剣は、今どこにある」
 カイルは腰の鞘に触れた。「ここにある。抜かなかっただけだ」
「ならば〈天秤〉に、汝の剣を載せよ」
 差し出されたのは、布で包まれた“意図の石”。
 それを剣に結びつけ、天秤の“意”の皿へ。
 皿は――動かない。
 群衆がどよめく。
 枢機卿は苛立ち、巫女を睨みつけた。
 巫女は一瞬だけ震え、さらに祈りを強める。
 天秤の“意”の皿が、きしきしと揺れ、わずかに沈んだ。
 雨に濡れた綱を無理に引くような、不自然さ。
 その時、列の後ろで小さな声がした。「ねえ、あれ、変だよ」
 振り返ると、角の小さな魔族の少年――リュンが、人垣の間から背伸びしている。
 彼の手には、擦り切れた鐘の綱の切れ端が握られていた。
 リュンは、ユウトと目が合うと、にっと笑った。
「カイル」ユウトが囁く。「“水”を借りられるか」
 勇者は頷き、司祭の持つ聖水皿を指さした。「その水、少し」
「神の水に魔の手を触れさせるな!」
「触れるのは俺だ。神のしもべだ」ローレンス――審問のために呼ばれていた神官が、前に出た。「中立の処置として、天秤の“仕組み”を確かめねばならない」
 枢機卿の目に、怒りが走る。「貴様、教国に弓引くか」
「私は“神”に仕え、同時に“真実”に仕える」 ローレンスは、天秤の中央柱に沿う配線のような溝を見つけ、そこへ聖水をそっと垂らした。
 石の継ぎ目から、目には見えない細い糸が浮かぶ。
 糸は台座の下へ、そこから祭壇の背後へ――巫女の足元へ。
 薄い水の線が、仮面の裾へ吸い込まれていく。
「“天秤”は、巫女の足元と繋がっている」
 ローレンスの言葉に、群衆がざわめいた。
 巫女の体がびくりと震え、仮面の孔から涙が光った。
 ユウトは柔らかい声で言う。「君、名前は」
「……セラ」
「セラ、君の足元の板、外せる?」
 巫女――セラは恐る恐る板を持ち上げた。
 そこには、小さな滑車と重り。
 足の指で微妙に牽き、天秤の皿を揺らす仕掛け。
 司祭たちの顔色が変わる。
 枢機卿は杖で床を叩いた。「異端の虚言! 巫女を欺く術だ!」
 その瞬間、ローレンスが一枚の布を取り出した。
 井戸水に浸し、絞った布。
 彼は布を祭壇の石板に押し当て、ゆっくりと引いた。
 石板に――文字が浮かび上がる。
 墨ではない。透明な薬で書かれた文言が、水分で反応し、黒へと変わったのだ。
“鈴は鳴らす。正義のために。――E”(エリオット)
 名前の頭文字。
 群衆の空気が、初めてはっきりと変わった。 枢機卿の顔から血の気が引く。
 彼は怒りではなく、恐怖に震えた。
 「偽りだ! 魔王の奸計だ!」
「奸計? じゃあ、これはどう説明する」
 カイルが、腰から解いた白銀の剣を祭壇に置いた。
 刃には、昨夜の灯籠の煤が薄く付いている。
 彼は剣の平に水を垂らし、祭壇の光の下にかざした。
 刃の面に、昨日、北門で浮かんだ水文字の残りかす――“敵ではない”の薄墨が、再びにじむ。
 それは、人の手で拭う前に刻まれた、確かな痕跡だった。
「俺は、魔王に“救われた”勇者だ。剣を抜かずに済む未来を見せられた。
 そして今、ここで“正義”の仮面を剥がしたのは、神ではなく、水と光だ」
 民の中から、ひとりの老女が叫んだ。「鐘を鳴らしたのは、この子だよ!」
 人垣から押し出されるように、リュンが前へ出た。
 彼は胸を張って言う。「ぼくは鐘を鳴らした。ただ知らせた。戦いじゃないことを」
 枢機卿が吐き捨てる。「魔の子の言葉に価値はない!」
 その瞬間、老女が杖で石畳を叩いた。「水も鐘も、魔も人も、喉が渇けば同じだよ!」
 短い言葉が、どっと拍手に変わる。
 拍手は次第に大きくなり、やがて大聖堂の天井へと沸き上がっていった。
 枢機卿は引かない。「神は、沈黙しておられぬ!」 彼は巫女の肩を掴み、仮面を無理やり押しつけようとする。
 セラの体が逃げ、仮面が地に落ちた。
 透き通るような顔に、若い恐怖と勇気が並んでいる。
「……神は、静かでした」
 セラの小さな声が、奇跡のように響いた。
「鈴が鳴ったのは、人が引いたから。私が引きました。
 でも、昨夜、北門で……鐘の音を聞いたとき、胸が熱くなった。
あれは、神の側に“人”が近づいた音でした」
 沈黙。
 それは、何よりも強い証言だった。
 ユウトは天秤に近づいた。
 縛られた片手のまま、皿の縁を指で軽く叩く。
「〈天秤〉は便利な道具だ。意図も結果も、重さに変えてくれる。 でもさ……“意図”という皿は、いつだって人の手が届く場所にある。だから騙せる。
 “結果”の皿は、時間が届く場所にある。だから、すぐには量れない」
「詭弁だ!」
「詭弁で充分だ。戦争も宗教も、詭弁から始まる。なら、詭弁で止めてやる」
 ユウトは、巫女セラの手を取った。
 自分の包帯の端をほどき、彼女の手首に巻きつける。
 「君の震えは、人間のものだ。神のものじゃない」 セラは涙を拭い、頷いた。「審問を続けるなら――証拠を増やそう」
 ユウトは祭壇から少し離れ、広場を見渡した。
 鐘の綱の切れ端を握るリュン、杖を突く老女、そして無数の市井の顔。
 その全てが、今だけは裁く者だった。
「俺を“善人”にする呪いは、もう飽きた。
 だから、ここで宣言する。
 俺は“悪”だ」
 ざわめき。
 ぎょっと顔を上げたのは、カイルだった。「おい」
 ユウトは続けた。「善いことをしているのは、負けるのが嫌いだからだ。殺し合いはコスパが悪い。
 助けるのは、助けられたほうが後でちゃんと働いてくれるからだ。
 ――それでも、いいなら、好きに呼べ。聖人でも、悪党でも」
 “意”の皿が、すっと沈んだ。
 “果”の皿も、僅かに沈んだ。
 天秤が、両方、同時に下がる。
 石で出来たはずの天秤が、初めて音を立てて軋む。
 「見たか」ユウトが笑う。「“善”と“悪”は、別の皿だ。
 片方だけ見てれば、誰かが動かせる。両方を同時に見れば――手出しが効かない」
 枢機卿が震える指で護符を掲げた。「魔王め、言葉で世界を惑わす気か!」
 その足元に、いつの間にか水が溜まっていた。 聖水皿が傾き、細い水路が祭壇の周囲に伸びている。
 ユウトが指を鳴らす。
 水の表面に、淡い文字が浮かび上がった。
“血をもって、戦を止めよ”
 〈血の条約〉の第一文。
 昨日、ギルベルが読み上げた言葉。
 だが今日は、水そのものが読む。
 民の足元で、子どもたちの掌で、兵の兜の縁で、同じ文がひらひらと現れては消えた。
 誰のものでもない声が、王都全体を満たす。
 枢機卿の護符が、手から滑り落ちた。
 彼は叫ぼうとして――声を失った。
 祈りの言葉が喉に引っかかる。
 なぜなら、その言葉を今、民が共有しているから。
 “正しさ”が、独占できなくなったから。
 やがて、枢機卿は沈んだ声で呟いた。「……敗北ではない。これは、試練だ。神は我らを試されている」
 その顔に、わずかな陰が差す。
 幼いころに身につけた“逃げ場”。
 彼は杖を振り上げ、衛兵に怒鳴った。「捕えよ! 魔王と勇者を
! 神の国から追放せよ!」
 衛兵が動かなかった。
 最初の一人が目を逸らし、二人目が兜を脱ぎ、三人目が剣を鞘に戻す。
 人の列が揺れ、やがて波が白波から穏やかなうねりに変わるように、緊張がほどけていく。
 そのとき。
 大聖堂の西側から、黒煙が上がった。
 誰かが油壺を投げたのだ。
 「火だ!」
 叫びと同時に、混乱の波が押し寄せる。
 群衆が身を寄せ、悲鳴が重なる。
 ユウトの視線が、瞬時に状況を走った。炎の筋は、あまりに滑らかで、着火の手際が良すぎる。
 ――計画的放火。
 枢機卿派の過激分子だ。
 ユウトは振り返り、カイルに短く言った。「水」
 勇者は頷き、ローレンスに合図する。
 神官は聖水皿を掲げ、周囲の人々に叫んだ。「列を作れ! 井戸から水を運ぶ! “煮沸”だ! 汲んだら、ここで鍋へ!」
 先に動いたのは、子どもたちだった。
 リュンが鐘の綱を掲げる。「鐘を鳴らして! 橋へ、井戸へ、掲示板へ! “火消し”の合図だ!」
 鐘の音が、また駆ける。
 武器のかわりに桶。罵声のかわりに手渡し。
 バケツリレーが生まれ、炎の舌が鈍る。
 ユウトは手をかざし、火の上に風の渦を作って酸素を奪う。魔法ではない。空気の流れを読む昔の知恵の応用だ。
 カイルは逃げ遅れた老人を背に担ぎ、外へ運ぶ。
 セラは僧房から布をちぎって湿らせ、口に当てて人々に配る。
 枢機卿の叫びは、火の音に飲み込まれた。
 火が、鎮まった。
 煤で黒くなった石壁から、湯気のような白が立つ。 ユウトは咳をし、肩の包帯を押さえた。
 カイルが支える。「大丈夫か」
「……善人ポイント、また上がるな」
「うるさい」
 二人の小さな笑いに、周囲の緊張が解けた。
 やがて、黒煙の向こうから、怒声とは違う声が近づいた。
 「道を開けろ! 負傷者はこっちだ!」
 それは魔王領の医療隊だった。
 角を隠しもせず、堂々と王都の中心へ入ってくる。
 先頭には、見知った顔――ギルベルがいた。
 彼は〈血の条約〉の写しを胸に抱え、ローレンスに手渡す。
 「王都の井戸ごとに配った。読み上げも済んだ」
 ローレンスは深く頷き、祭壇の上にその写しを置いた。
 火で黒ずんだ石に、血の文字が鮮やかに見えた。
一、双方の民の流した血をもって、戦を止めること。
二、勇者と魔王は共に代表し、互いの民に誓うこと。
三、破る者あらば、その者こそ真の“悪”とすること。
 枢機卿は膝をつき、肩を震わせた。
 彼の老いた体は、信仰というより、空虚に支えられていたのだと、誰もが理解した。
 それでも、ユウトは彼に近づいた。
 静かに言う。「あなたの“意図”を、否定はしない。国を守りたかったのだろう。
 ただ、結果が違った。
 ――だから、降りてくれ。あなたの正義、ここまでだ」 老人はユウトを睨み、そして、視線を落とした。 「……神は、沈黙されるのか」
 ユウトは頷いた。「多分ね。だから、俺たちが話す番だ」
 その言葉に、民の間からすすり泣きが起こった。
 誰かが拍手をし、それがゆっくりと輪になって広がり、大聖堂の白い天井を震わせた。
 拍手は祈りに似ていた。
 祈りは、言葉に似ていた。
 ローレンスが前へ出て、堂々と宣言する。「本日の“神の審問” は、ここに閉廷する。神は沈黙された。よって――人が決める。
 〈血の条約〉を、王都は暫定的に受け入れる」
 この言葉は、神学の敗北ではなく、宗教の成熟だった。
 誰もが、その違いを、ゆっくりと理解した。
 夕陽が、祭壇を赤く染める。
 ユウトは肩の痛みを堪えながら、祭壇の縁に腰を下ろした。
 そこへリュンが駆け寄り、濡れた布を差し出す。「魔王さま、血、でてる」
「今は“陛下”より、それが嬉しい」
 ユウトは笑い、布で汚れを拭った。
 カイルが隣に座る。「お前の“悪”、今日もよく働いたな」
「お前の“善”もな」
 二人は拳を軽く合わせた。
 拳の硬さは、石より柔らかく、水よりも確かだった。
 そのとき、セラが仮面を抱えて近づいた。「この仮面……どうすれば」
 ユウトは仮面を受け取り、祭壇の脇にそっと置いた。「そこに置いておこう。誰かがまた、神の声が必要になったら――“人の声” で代わりに話せるように」
 セラは微笑む。「それは、僧の仕事でしょうか」
 ローレンスが頷いた。「そして、民の仕事でもある」
 鐘が、夕刻を告げた。
 今日は、戦の始まりを告げる鐘でも、勝利の鐘でもない。
 暮らしへ戻れ、と告げる鐘。
 ユウトは空を見上げ、深く息を吸った。
 煙の匂いと、水の匂い。血の匂いは――ない。
「……次は、税の話だな」
 唐突な一言に、カイルが吹き出す。「色気ないにもほどがある」
「色気より、持続可能性。――戦を止めたら、暮らしが始まる」
 暮らし。
 言葉にすると、やけに大きく、そして手のひらに収まるほど小さい。
 大聖堂の広場に、盆のような月が昇る。
 月は、善も悪も、等しく照らす。
 いい月だ、とユウトは思った。
 その夜。
 王都の外れで、黒い影がひとつ、長い路地に溶けた。
 枢機卿の私室から、封蝋の束が消えていた。
 細い手首、速い息。
 仮面を置いた少女――セラが、暗がりの中を走っていた。
 封蝋には、一文字ずつ、こう彫られている。
“E にあらず”
 偽の印章。
 明日、彼女はそれを民の前で砕くだろう。
 神の声は静かに、しかし確実に、人の喉へ戻りつつあった。
 ユウトが眠りにつくころ、遠くの村でまた鐘が鳴った。
 遅い鐘。
 それに耳を傾ける者は少ない。
 それでも鐘は鳴る。
 ――“剣を置け。水を汲め。言葉を持て。”
 “聖人扱い”という呪いは、まだ解けない。
 だが、呪いの外側に、歩ける道が一本、増えた。
(つづく)

第6話 沈黙の神殿
 秋の風が、焼け跡に吹いていた。
 大聖堂の白壁は半ば黒く煤け、崩れた屋根の隙間から、薄い陽が差している。
 その光の中に、魔族も人も、疲れ切った顔で瓦礫を運んでいた。 昨日まで互いに剣を向け合っていた手が、今は同じ石を持ち上げている。
「不思議なもんだな」
 カイルが汗をぬぐった。「昨日まで“悪”と呼んでいた連中と、今こうして肩を並べてる」
「呼び方が違うだけで、やってることは同じだよ」 ユウトは腰を伸ばし、手に持った木槌を置いた。
 肩の包帯はまだ外せない。それでも動かずにはいられなかった。
 「仕事をしないと、“聖人ポイント”が減る気がしてな」
 冗談に、カイルが呆れたように笑う。
 「減らしていいだろ。もう十分稼いだ」
 「そうもいかない。あれが、今の世の“通貨”だからな」
     ◇
 修復作業が一区切りしたころ、ローレンスが神殿の奥から出てきた。
 「奇妙なものを見つけた。――これだ」
 差し出されたのは、煤けた石板。
 欠けた部分をつなぎ合わせると、かすかに読める古文字が浮かんでいる。
 「“神の声は、沈黙のうちに降る”……?」
 カイルが読み上げた。
 ローレンスが頷く。「神殿の創建記に記された文だ。
 神は、声を上げる者ではなく、声を“聞こうとする”者の耳に宿る――そう書かれている」
 ユウトは小さく息をついた。「皮肉だな。みんな声を張り上げてたのに」
 「沈黙こそ神の言葉、か」カイルがつぶやく。
 「それ、うちの世界でも似た格言があったよ。――“上司が黙るのは、だいたい問題が起きたとき”ってやつ」
 「……台無しだ」
 三人の笑い声が、崩れた屋根の向こうへ抜けていった。
     ◇
 夜。
 街は、ようやく灯を取り戻していた。
 魔界と王国の職人が一緒に立てた木の街灯が、通りをやわらかく照らしている。
 リュンがその下で、鐘の綱を磨いていた。
 「明日、また鳴らしていい?」
 ユウトは頷く。「好きなだけ鳴らせ。誰も止めない」
 「でも、もう戦は終わったよ?」
 「戦が終わっても、知らせることは山ほどあるさ。誰かが泣いてるとか、パンが焼けたとか。
 ――鐘ってのは、“誰かに伝えたい”って気持ちを鳴らすもんだ」
 リュンは嬉しそうに笑い、綱を胸に抱えた。
     ◇
 そのころ、王都の旧枢機卿室。
 瓦礫の下から引き上げられた古文書の束を、セラが一枚ずつ広げていた。
 彼女の手は震えている。
 「偽の神託……偽の印章……でも、ここに、ほんとの“信仰”はなかったのかな」
 ローレンスが静かに答えた。「あったさ。恐れも、祈りも、全部、信仰の一部だ。
 間違った言葉を消すことが、次の祈りを始めることになる」
 セラは仮面を見つめた。
 「神は沈黙する。――なら、人は何を語ればいいんだろう」
 「たぶん、“これから”の話だろうな」
 彼の言葉に、少女は小さく頷いた。
     ◇
 翌朝。
 城下の広場に、新しい井戸が完成した。
 周囲には、魔族と人間が一緒に並び、初めての水を汲む瞬間を見つめている。
 ユウトは手を合わせ、軽く祈るように頭を下げた。
 「この水が、誰のものでもなく流れますように」
 ローレンスが笑う。「それは立派な祈りだ。――神が聞いているよ」
 「それは困るな。また“善人ポイント”が上がる」
 「いいじゃないか。今度は、その“善”で税を取れる」
 「なるほど、“徳税”か」
 ふたりの冗談に、周りが笑った。
 リュンが井戸の縁に腰かけ、水面を覗き込む。 そこに、風に揺れる空と雲が映っていた。
 「ねえ、魔王さま。あの雲、なんて名前?」
 「“積雲”だ。――雨を連れてくる」
 「じゃあ、次は雨の神殿を作ろうよ」
 「いいな。それができたら、次は風の学校だ」
 カイルが口をはさむ。「その次は?」
 ユウトは考え込み、少し笑った。「“沈黙の神殿”」
 「神が沈黙するための?」
 「いや、人が耳をすますための、静かな場所を」
 風が通り抜け、鐘がひとつ、遠くで鳴った。
 その音は、誰の所有物でもなく、ただ空気の中にあった。
     ◇
 夕暮れ。
 丘の上に立つユウトの背に、カイルが声をかけた。
 「この世界は、やっとゼロに戻ったんだな」
 「そうだな。あとはプラスにもマイナスにもできる。好きにすればいい」
 「お前はどうする」
 ユウトは空を見上げた。
 「少し休む。それから……“悪”の続きを考える。
 ――今度の悪は、“働き方改革”だ」
 カイルは苦笑した。「お前らしいよ」
 ユウトは肩をすくめた。「善人設定のまま、ブラック企業をホワイトにしたら、さすがに呪いも解けるだろ」
 日が落ちる。
 鐘の音が遠くから届く。
 その音に混じって、誰かの笑い声、パンの焼ける匂い、子どもたちの歌。
 戦を止めた世界の音は、静かで、あたたかい。
 ユウトは最後にひとことつぶやいた。
 「……悪も、案外、いい仕事だな」
 その言葉を聞いた風が、どこかで鐘を鳴らした。
(完)