放課後の校舎は、静かだった。

 チャイムの余韻が消えて、廊下の先に夕日が流れ込む。

 風の音と、誰かの足音だけ。



 屋上へ続く鉄の扉の前で、私は息を整えた。

 胸の奥がざわざわしている。

 これが「緊張」ってやつなんだろうか。

 ドアの向こうに、湊がいる。

 昼間の図書室で見たときより、少しだけ大人びた表情が浮かぶ。



「来たんだ」



「……来たよ」



 その声に、風が混じる。

 髪が揺れて、まつ毛の影が長く伸びる。

 夕日が沈む前の、金色の時間。



「で、話って――クローゼットのこと?」



「うん。……たぶん、湊も、関係あると思う」



「俺?」



 湊は首をかしげる。

 その仕草が、昔と何も変わらなくて、胸が痛い。

 私はポケットから、封筒を取り出した。



「これ。私の部屋のクローゼットの奥にあったの。

 差出人は書かれてない。でも、湊の名前がある」



 彼は黙って封筒を受け取った。

 指先で文字をなぞる。

 それから、深く息を吸って、吐いた。



「……覚えてる。この字。

 たぶん、あのとき――俺が閉めた、クローゼットのことだ」



 その言葉に、空気が止まった。



「やっぱり、湊……」



「三年前。文化祭の片づけのあと。

 委員長、泣いてたんだよ、クローゼットの中で」



「え?」



「教室の片隅。誰もいなくなって、俺が忘れ物取りに戻ったら、

 扉の隙間から、声が聞こえてさ」



 ――あのとき、クローゼットの中で泣いていた私を、見なかったふりをしてくれてありがとう。



 便箋の文字が、頭の中でよみがえる。



「……私、泣いてたの?」



「うん。小さく。しゃくりあげてて、顔、見えなかったけど。

 “誰にも見つかりたくない”って空気があったから、扉、静かに閉めた」



 湊は少し笑った。

 寂しそうな、でも優しい笑みだった。



「そのあと、手紙を見つけた。

 机の下に落ちてたんだ。多分、誰かが書いて、出せなかったやつ。

 名前はなかった。俺、勝手に読んだ」



「えっ……!」



「ごめん。でも、あれ読んで、泣いた。

 “ありがとう”って書いてあった。

 “気づいてくれなくて、よかった”って」



 私は何も言えなかった。

 風の音が、やけに遠い。



「だから俺、それを封筒に入れて、クローゼットの奥に置いた。

 “見つけた人が、いつか笑えますように”って。

 ……まさか、三年後に、委員長が見つけるとはな」



「……なんで、そんなこと……」



「当時の俺も、好きだったんだよ。誰かを。

 でも、言えなくて。

 だから、自分の気持ちも一緒にしまった。

 “あの扉の中には、もう過去だけ”って」



 沈黙。

 オレンジ色の空が、ゆっくりと群青に変わっていく。



「じゃあ、この手紙の“私”って――」



「たぶん、委員長じゃない。

 でも、“俺たち”のどっちかに似てる誰か」



 彼の言葉に、胸の奥がふるえた。



 私が泣いていた理由も、

 彼が扉を閉めた理由も、

 どちらも、たぶん、同じだった。



 “好き”という言葉を、しまっておくため。



 湊が屋上のフェンスに寄りかかって、笑う。

 その笑顔に、少し春の風が混じる。



「なあ、委員長。

 卒業式の日、クローゼットの前で会おうか。

 あの扉、今度は一緒に開けよう」



 私は、頷いた。

 声にならないけど、ちゃんと頷いた。



 夕日が沈みきる。

 その瞬間、クローゼットの中の止まっていた時計が、静かに動き出した気がした。



――つづく――