第一章 断罪の開幕



 鐘が三度、冷たく鳴った。

 王都裁定院、白大理石の床に、私の足音だけが場違いに小さく跳ねる。



 私は膝をつかされ、剣の穂先が肩口にそっと触れる。

 痛みはない。ただ、「ここで終わりだ」と知らされるための儀式のように。



「オルガ・レイナ。おまえは王宮記録庫より文書を盗み、偽造し、無辜の貴族を陥れた嫌疑がある」



 読み上げ役の役人は、私の名を正しく呼んだ。

 その正確さが、逆に可笑しい。彼らは私の名を知っている。けれど、私がこの一年、何をしてきたかは知らない。



 私の視線の先。

 列席する貴族たちの最前列に、派手な羽根飾りの令嬢が座り、赤い唇で笑う。

 ミルファ・エルノア。――公爵令嬢。

 この裁定の“告発人”にして、私の元の主人の新しい婚約者。



 彼女の横には、父である大臣エルノア卿。

 指は短く太く、指輪は多すぎる。贅沢は、悪徳の飾り付けによく似合う。



「証拠は揃っておりますわ」

 ミルファが扇を鳴らす。

「記録庫の鍵を盗み出したのは、その女。侍女上がりのくせに身の程知らず。ねえ、皆さま」



 会場の空気が、彼女の笑いで軽くなる。

 笑っていいのだ、と誰かが許した。だから、彼らは笑う。



 私は目を伏せない。

 床の線の一本まで覚えようとする。

 ――逃げれば、負ける。逃げたふりをすれば、もっと負ける。



 読み上げ役が続ける。

「また、被告は主君に対し、婚約破棄を唆したとの証言も――」



「唆してなどいません」

 私の声が、思ったよりも遠くへ飛んだ。

「婚約破棄を“望んだ”のは彼です。望まざるを得なくされた、が正確でしょうね」



 小さなどよめき。

 ミルファは眉をひそめ、すぐ笑顔を戻す。



「言い訳? 哀れね。あなたに婚約者がいた? 誰が? あの方は、私のものよ」



 あの方――彼女がそう呼ぶ相手は、王宮財務局の若き長官。

 数字に強く、正義にも強い、まっすぐな人。

 私は彼と婚約の約束をしていた。指輪は質素、でも私には眩しかった。

 けれど、彼は突然に私の前から消え、しばらくして――ミルファの隣に座った。



 彼の目は、今も私を正面から見ない。

 ……構わない。私が今、見たい顔は別にある。



「被告に最終の申し立てはあるか」

 読み上げ役の声。

 私は背筋を伸ばし、場内を見渡す。

 玉座は空席だ。王は出席しない。

 代わりに、玉座の右下――王族席の一角に、黒衣の男が座っている。



 王弟殿下。

 その名を呼ぶと、噂が傾く。

 評議では沈黙し、戦場では雷鳴のように語る人。

 私とは縁がない。……はずなのに。



「申し立ては一つ」

 私は唇を湿らせ、言う。

「この場にある“証拠”は、証拠ではありません。切り貼りされた記録、差し替えられた印。

 真正の記録は、ここにない」



「どこにあるというの」

 ミルファが笑う。

「あなたの懐の中かしら?」



 私は首を振る。

「――王弟殿下の手の内に」



 白いどよめき。

 王弟は、初めてこちらに視線をよこした。

 黒曜石のような瞳。そこに、わずかに揺れが生まれる。



 読み上げ役が慌てて声を張る。

「静粛に! 被告は虚言を弄して――」



「虚言かどうかは、彼が決める」

 私が言い切った刹那、王弟殿下が座を立った。



 床の線が震える。

 彼は玉座の斜め下、裁定台と列席の貴族を見下ろす位置で立ち止まった。

 黒い外套が波のように広がり、その内側に、重ねた書板と封蝋が覗く。



 誰かがごくりと喉を鳴らす。



「証拠は――“私の妻”が握っている」



 その宣言は、鐘よりも重く、鋭く、会場の空気を切り裂いた。

 笑いは止まり、扇は固まる。

 王族席の近侍が目を見開き、読み上げ役は声を失い、ミルファは扇を落とした。



 私は息を吸う。

 ……その言葉を、何度も心の中で練習してきた。

 けれど、実際に聞くと、こんなにも胸に刺さるのだ。



 私の頬が熱くなる。

 王弟は、ほんの少しだけ、目尻で笑った。



「“妻”だと……?」

 エルノア卿が低く唸る。

「侍女上がりの女が、王弟殿下の妻を称すと?」



「称してなどいない」

 王弟の声は静かだった。

「既に婚姻は成立している。王族婚ではない。私の私婚だ。

 ――ゆえに、彼女は私の“契約妻”。名はオルガ・レイナ」



 石像のように静かな沈黙。

 それから、破裂したようなざわめき。



 私は片手で胸を押さえた。

 契約妻――その言葉の、甘さと苦さ。

 わたしたちは本当に、紙一枚の“契約”で結ばれた。

 恋ではない、と何度も繰り返した。

 ……けれど、その紙が今、私を救う盾になる。



 王弟は書板を掲げる。

「この中に、記録庫の真正写しがある。密偽を見破るため、三重の写しを作った。

 炎で、光で、そして――声で」



「声?」

 ミルファが顔をしかめる。



「王宮の要路では、合議のすべてが記録される」

 王弟は言う。

「すべて、だ。おまえが財務長官と取引する時に、囁いた一語一句も」



 会場の温度が、ひとつ下がった気がした。



「再度、宣告する」

 王弟の声が低く降りる。

「証拠は妻が握っている。――彼女は、私のためではなく、王国のために、汚れ仕事を引き受けた。

 侍女の手は、宮中のどこへでも届く。砂埃も、鍵穴の油も、誰の目にも映らない。

 だからこそ、真実に触れられる」



 読み上げ役が青ざめた顔で私を見る。

 私は頷いた。

「記録庫に残っていた“本物”は、殿下の命で複写したのち、封じました。

 ――封蝋の印は、殿下と、私のもの」



「印を確かめよ!」

 誰かが叫ぶ。

 近侍が駆け、封蝋を掲げ、ハンマーのように印面を取る。

 浮かび上がる二つの紋――王弟位の黒百合と、私の小さな羽ペンの紋。



 騒めきが、怒号に変わる寸前で、王弟の一睨みがすべてを沈めた。



「では、開封しよう」

 彼は書板を開く。

 硬い紙がめくられる音。

 そこに、真実が眠っている。



 私は、指先が震えるのを押しとどめた。

 ――ここから先は、速く、強く。

 “ざまぁ”は、迷いのない刃の角度でなければならない。



 王弟殿下が最初の頁を掲げる。

 そこには、エルノア卿の帳簿に挟まれていた“寄付”の記録。

 寄付は、同額が二つ。

 宛先は王立孤児院――そして、ミルファ個人の衣装商。



「王国に寄付なさる慈善の心は立派だ」

 王弟は淡々と告げる。

「だが、寄付の出所が“国庫”である場合、それは横領と呼ぶ」



 笑いが引きつる。

 ミルファの扇が震える。

「偽造よ! これは、その女が――」



「偽造は、音まで真似られない」

 王弟は第二の板を開く。

 魔盤が光り、薄く紋様が浮かび、会場に声が流れた。



『――いいかしら? 孤児院に寄付するの。帳簿上は』

『ええ、では国庫から……』

『違うわ。国庫から、よ? ねえ、分かるでしょう』



 ミルファの声。

 そして、相槌を打つのは、財務長官。私の元婚約者。



 会場の空気がざわめきを忘れ、無音に近づいた。

 誰もが、耳だけになって、音を飲み込む。



『ミルファ嬢、それは……』

『恩を売るの。孤児院にも、民にも。そうして――私にも、豊かさを。ね?』



 魔盤の光が消える。

 沈黙。

 やがて、誰かが扇を閉じる乾いた音。



「音の偽造はあり得ぬ」

 王弟は結ぶ。

「合議の部屋の魔盤は、王印三つがなければ起動しない。

 そのうち二つは、王と――私だ」



 エルノア卿の顔色が蒼白から土色に変わる。

 ミルファは、唇を噛み、ようやく叫んだ。



「で、でも! この女は侍女上がり! 王弟殿下の妻だなんて、契約ですわ、契約! 恋でも、血でも、ない!」



「そうだ」

 王弟は、あっさりと頷いた。

「恋でも血でもない。――ゆえに、彼女の手は、清い」

「……え?」



「恋に溺れた証言は疑える。血の縁の言葉も疑える。

 だが、契約は疑えない。契約は、履行が真実を証明する。

 この一年、彼女は“王国のために働く”という契約の条項を、一字一句、守り通した。

 だから私は、彼女を妻と呼ぶ」



 胸が苦しくなった。

 泣くな。まだ早い。

 “ざまぁ”は、彼らの頬に叩きつけるまでが仕事だ。



 王弟が、最後の板を開く。

 そこは、私が写し、彼が封じた“印影比較”。

 王宮記録庫の印と、エルノア卿の私印。

 並んだ印影は――わずかに、違っていた。

 私印の刻線が疲れ、最近になって彫り直された痕跡がある。

 古い印影と、新しい印影。それを重ねれば、差分は一目瞭然。



「印は、誤魔化せぬ」

 王弟の声は低い。

「――ここまでで足りるか?」



 読み上げ役は、震える手で書記に合図した。

 書記の羽ペンが、すべてを“裁定文”に刻み始める。

 会場の空気が、敗者の匂いに変わった。



 ミルファが最後の矛を投げる。

「で、でも! その女が記録庫に入った時点で罪だわ! 鍵は、どうしたの!」



「鍵は、私が渡した」

 王弟が言う。

「王弟として、王の命により。“内部の汚濁”を炙り出すために」



 会場の空気が、完全にこちらへ傾いた。

 白い大理石が、ほんの少し暖かく感じる。



 読み上げ役が宣する。

「告発人ミルファ・エルノア、ならびにエルノア大臣に対する……予備拘束を命ずる!」



 鉄の音。衛兵が踏み出す。

 ミルファの扇が床に落ち、彼女は叫んだ。

「いやよ! いや、待って! わたしは――」



 ――ざまぁ。



 その言葉は、私の喉元まで上がったが、唇の内側で溶かした。

 言わないことが、なお刺す刃になることもある。



 王弟が、私の方へ歩み寄る。

 剣の穂先が退き、私はゆっくり立ち上がる。



 彼は、誰にも見えない角度で、囁いた。

「よく、耐えた」



「契約ですから」

 私は小さく笑った。

「契約に、違約金はありますの?」



「あるとも」

 王弟の目が、いたずらに笑う。

「支払いは、あとで話そう」



 胸が、また忙しくなる。

 ――支払い、ね。

 私たちの契約は、ここからが本番だ。



 鐘が四度、静かに鳴った。

 第一章、了。



第二章 王弟の介入



 拘束されたミルファは、なお口を動かし続けた。

 その一語一句が、今は全て“供述”として記録される。

 扇のない彼女は、小鳥のように頼りない。



 エルノア卿は反対側で、別の意味で静かだ。

 静かさは、重い。



 王弟は、玉座の脇へと進み、王族席の合図で“臨時裁可”を取った。

 王署が下りる。

 この場で確定できるのは、予備拘束と、財務局の一時凍結。

 それだけで充分だ。

 汚濁の川は、堰を切れば自ら流れ出す。



 私は、胸の奥で呼吸を整えた。

 ――終わりではない。

 “ざまぁ”は始まりの合図だ。

 このあと、私の片付けるべきことが残っている。



「オルガ」

 名を呼ばれて顔を上げると、王弟の黒衣が隣にあった。

 彼は人払いをする。近侍たちが半歩遠のく。



「歩けるか」



「ええ。膝も、まだ残っています」



「残しておけ。必要になる」

 彼は小声で笑い、私の肘に軽く触れた。

 その仕草は、契約の線のこちら側にある、慎ましいものだ。

 ……物足りない、なんて言ってはだめ。



「この後は、王宮記録庫へ戻る。写しの原票を、正式に王庫へ移す」



「はい」



「それから――」

 彼はわずかに間を置き、言葉を選ぶように視線を落とす。

「おまえの婚約について、処理をする」



 胸の鼓動が失礼なほど大きく跳ねる。

 “おまえの婚約”。

 つまり、財務長官――元婚約者のこと。



「処理、とは」



「王弟の契約妻に、他との婚約はあり得ない」

 王弟は淡々と告げる。

「法に照らして“無効”だ。おまえに瑕疵はない。

 彼には、きちんと支払いをしてもらう」



「支払い……違約金?」



「そうだ。契約は、支払いでしか終わらせられない」

 彼の横顔が、すこしだけ愉快そうに見えた。



「違約金の払いは、金ですか。それとも――」



「――名誉だ」

 私は言いかけた言葉を呑み込んだ。

 王弟の目が笑わない時、そこには剣がある。

 彼は“支払い”を、名誉で取るつもりだ。



 それは、金より痛い。



「オルガ」

 彼は少し声を落とす。

「おまえは、今日までよく働いた。

 だが――ここから先は、私の番だ」



「殿下の番?」



「“ざまぁ”の刃は、二段だ」

 彼の声が、低く柔らかい。

「今、目に見える刃は、彼らに向いている。

 もう一段、目に見えない刃を、私が抜く。

 王国は、今日だけで綺麗にならない」



 私は、頷いた。

 彼の性分は、沈黙と徹底だ。

 だから私は、目に見える刃を担当した。

 人の前に立ち、嘲笑に耐え、真実を置く。

 それが、私の契約の履行。



「殿下」

 私は、勇気を結んで一つだけ問う。

「……“妻”の呼称は、契約に含まれていましたか?」



 ほんの刹那。

 王弟の目が柔らかくほどける。



「含まれていたと、今日から記録しておこう」



 苦笑が漏れた。

 ずるい。こういうところが、ずるい。



 私たちは石段を下り、記録庫へ向かう廊下を歩く。

 王宮は、嘘がよく響く。

 だから、真実を置く足取りは、静かであるべきだ。



 途中、財務長官――つまり元婚約者が、衛兵に伴われて立っていた。

 拘束ではない。事情聴取だ。

 私と彼の視線が、初めて真正面で交わる。



「オルガ」

 彼は、乾いた声で言った。

「君は、いつから……王弟殿下の、側に」



「ずっと」

 私は短く答える。

「あなたが“こちら”から目を逸らした、その日から」



 彼の目が揺れた。

 何かを言おうとして、言葉が出ない。

 それでも、私は彼の口を救うつもりはない。

 救う権利は、とうの昔に、彼自身が捨てたのだから。



「長官」

 王弟の声が、彼に向く。

「おまえの婚約は、王弟の契約婚に抵触していた。

 ――よって、無効とする。

 名誉の支払いとして、明朝の告示に、おまえの署名を載せろ。

 “自らの不見識により、婚約を取り違えた”とな」



 財務長官の顔が、白から赤へ、そして無色へ。

 名誉の支払い。

 彼は、公の文書で、愚かさを認める。

 それが、彼にできる、私への一番の支払い。



「オルガ……」

 彼は、低く言う。

「君は、幸せに」



「契約に従って」

 私は、最後までそれを崩さない。

 恋でも憎しみでもなく――契約。

 それが、今の私を一番、強くしてくれる。



 王弟が歩を進め、私も続いた。

 背中に視線を感じる。

 過去は、見るだけなら無害だ。

 けれど、振り向けば毒になる。

 私は前だけを見る。



 記録庫。

 冷たい石と、紙の匂い。

 番人の老司書が目を細め、私を見るなり、頷いた。

「――お帰り。小さな羽ペン」



「ただいま戻りました。封蝋の原票、王庫へ移します」



「王弟殿下の印は」



「ここに」

 王弟が印章を示す。黒百合が冷ややかに光る。



 移送のあいだ、老司書がぽつりと言った。

「若いの。人は、恋のために嘘をつき、契約のために真実を守る。

 おまえは、どちらを選んだ」



「……今は、契約を」



「ならば、恋は後から追いついてくる」

 老司書は笑った。

「紙は、後からインクを受け入れる。良い紙ほど、滲みもまた美しい」



 胸の奥で、何かがほどける。

 私の指は、まだ少し震えていたけれど、目は、もう、揺れない。



 移送が終わり、王庫へ封じられた。

 夕光が高窓から差し込み、埃が黄金に見える。



「殿下。本日の“ざまぁ”は、これで一段落?」



「そうだな」

 王弟は、窓辺に目をやる。

「……だが、夜が来る。夜は、夜に相応しい刃が要る」



「夜の刃?」



「エルノア卿の背後には、まだ数人。

 夜目の利く連中だ。

 彼らには、夜の言葉で、支払いをしてもらう」



「夜の言葉、とは」



「沈黙だ」

 王弟は、ほんの少し笑う。

「――静かに、長く、黙ってもらう」



 私も笑った。

 彼の“ざまぁ”は、やはり徹底している。

 目に見える刃と、目に見えない刃。

 両方が揃ってこそ、王国は少しだけ綺麗になる。



「オルガ」

 呼ばれて振り返る。

 王弟は、外套の内側から、細い箱を取り出した。

 黒革の箱。

「支払いの前金だ」



「前金?」



「契約に対する、私からの違約金だよ」

 彼は、箱を開く。

 中には、細い銀の指輪。

 中央に小さな黒曜石が一粒。

 質素で、静かで、よく彼に似ている。



「……どうして、殿下が違約金を」



「契約の始めに、私は一つだけ、約束を守れなかった」

 王弟は視線を落とす。

「“危険な役目には、私が立つ”と、言った。

 だが、今日、最も危険な席に座ったのは、おまえだ。

 だから、支払う」



 胸の奥が、ぎゅっと痛む。

 なんて、ずるい人だろう。

 こんなふうに、支払いを重ねるのなら、私はいくらでも違約したくなる。



「受け取る?」

 問われ、私は頷いた。

「契約ですから」



 銀の輪が、指に落ちる。

 ひやりとして、すぐに体温をもらう。



 ――そして、重い扉の向こうで、鐘が五度、鳴った。

 夜が来る。



 第二章、了。



第三章 暴露と逆転



 夜が落ちた。

 王都の屋根は墨で塗ったように重たく、灯りは少しの風で揺れた。

 王宮の裏手――記録庫からさらに奥、物見塔の影で、私は黒外套の端を握りしめる。



「寒いか」

 殿下が小さく問う。



「平気です」

 ここからが、目に見えない刃の仕事。



 細い路地に、車輪の軋む音がした。

 灯りを消した荷馬車。

 積荷は樽と木箱。香辛料の匂いが濃い。



「止まれ」

 殿下が低く命じると、影から現れた近侍たちが静かに輪を描いた。

 衛兵とは違う、夜向きの連中だ。足音がない。



「王宮納入業者、ギメリ商会です……!」

 御者は笑顔を作ったが、額の汗は誤魔化せない。



「樽の底を割れ」

 殿下の言葉に、近侍が斧を入れる。

 香辛料が散り、鼻を刺す。

 ……次の瞬間、金貨の音が鳴った。



 樽の二重底。

 剥がれた板の下から、袋に詰められた金が、月を映す。



「これは――」

 御者の声が裏返る。



「国境税の迂回だな」

 殿下は淡々と言い、私を見た。

「オルガ。記録を」



「はい」

 私は小さな魔盤を起動する。

 炎の写しでも、光の写しでもない。

 触った指の数、油の匂い、封蝋の配合。

 記録庫で覚えた“人の手の記録”を、淡々と並べた。



「この袋の封蝋、エルノア家の副印と一致。配合率、蜜蝋八、松脂二。副印の刻線に欠け、先月の修繕痕が一致――」



「十分だ」

 殿下が頷く。

「夜の支払いは、沈黙で良い。だが証拠は、朝の刃にする」



 ギメリ商会の主は膝をつき、口の中で何かを呟いた。

 言い訳は風と一緒に消え、残ったのは袋の重さだけ。



 次の場所は、城下の人気のない倉庫。

 壁の石積みがわずかに甘く匂う。

 ――砂糖だ。

 砂糖樽の列、その四段目、中央から二つ目。

 鍵穴に油が新しい。

 私は髪から細いピンを抜き、膝をつく。



「時間は」

 殿下が問う。



「十秒」

 私は深呼吸し、静かに回す。

 ……カシリ。

 錠が甘く笑った。



 木箱の中身は、帳簿。

 公文書の写しではなく、私帳。

 名前の列に、印の代わりの絵印が並ぶ。

 金貨一袋につき、子鹿の絵。

 十袋で、角の数が増える。



「かわいらしい、ですね」

 私が言うと、殿下は肩で笑った。



「罪は、ときどき可愛げの仮面を被る」

 彼は箱を近侍に渡し、第三の場所を告げる。

 夜明けが近い。

 最後は、王都の中心――告示板のある広場だ。



 そこに、もう一人、待っている人がいる。

 ……財務長官。私の元婚約者。



 薄い灯りの下、彼は紙に向かい、羽ペンを握っていた。

 殿下が用意した告示文。

 “自らの不見識により、婚約を取り違えた”――名誉の支払いだ。



「書けるか」

 殿下が問う。



「……はい」

 彼は震える筆先を抑え、丁寧に字を書いた。

 一文字、一文字。

 その遅さは、誠実というより、痛みだ。



 私は、近くでその文字を見守る。

 胸の中が、静かに冷える。



「オルガ」

 彼は書きながら、声を搾る。

「君に、言いたいことがある」



「聞きません」

 私は短く言う。

「ここでの言葉は、公の支払いだけです。私への個人的な言葉は、契約の外」



 彼の手が止まり、また動く。

 殿下は何も言わず、ただ夜明けの空を見ていた。



 最後の署名が置かれる。

 ――財務長官 レイン・カーティス。

 告示文に彼の名が載った瞬間、東の空が薄く白む。



「掲示を」

 殿下の合図で、近侍が告示板に文を貼る。

 打ち付ける釘の音が、鳥の声と混じった。



「レイン」

 殿下が彼の名を呼ぶ。

「王宮は、今日で辞するが良い。

 罪ではない。だが、おまえの席は、もうない」



「……仰せのままに」

 彼は、力の抜けた笑顔を作る。

 痛い笑顔だった。

 けれど、痛いのは彼自身の選択の結果だ。



「オルガ」

 今度は私へ、彼が小さく頭を下げた。

「君の“契約”が、君を強くしたのだと思う。

 ……どうか、幸せに」



 私は答えない。

 答える言葉は、まだ持たない。

 代わりに、殿下の外套の端を、少しだけ掴んだ。



 朝が来る。

 目に見える刃は、告示板を経由して、王都の隅々まで届く。

 目に見えない刃は、夜に振り下ろされ、もう跡が見えない。



「戻るぞ」

 殿下が言い、私は頷いた。



 王宮へ戻る途中、孤児院の前を通った。

 門の前に、朝一番の小さな列。

 パンを受け取る子どもたち。

 院長が私に気づき、手を上げる。



「レイナ嬢」

 院長は笑った。

「告示、見たよ。帳簿の寄付が、本当の寄付になる日が、やっと来る」



「はい」

 私は笑い返す。

「今日からは、帳尻ではなく、食卓に届くはずです」



 院長はうなずき、殿下へも会釈した。

「王弟殿下。ありがとうございます」



「礼は、妻へ」

 殿下は、さらりとそう言った。

 院長は目を丸くし、すぐに柔らかく笑う。



「良いご夫婦だ」



 胸の奥が、じんわりと温かくなった。

 契約の言葉に、余計なものが混ざる。

 喜びとか、照れとか、未来とか。

 それらは、契約書には書けない。



 王宮に戻る頃、王都はすっかり朝の顔になっていた。

 白い壁に、爽やかな影。

 昨日の嘲笑は、今日はもう、別の話題に塗り替えられていく。



「オルガ」

 王宮の階段で、殿下が立ち止まる。

「――最後の可視の刃を、今、振るう」



 彼は、玉座の間へ歩いた。

 昨日は空席だった玉座の前に、今日は王の代理印が置かれている。

 殿下はその前で片膝をつき、短く一礼すると、振り返って私に手を差し出した。



「来い」



 私は一歩、前へ。

 殿下が、紙束を掲げる。

 公開の場で、はっきりと告げた。



「王弟クリストフ・アーデルは、契約婚を解く。

 ――本日をもって、契約妻オルガ・レイナを、正妻として迎える」



 空気が跳ねた。

 驚きと、ざわめきと、何か温かいものの混ざった波。

 私は足が震えるのを、必死におさえる。



「……殿下」

 声が出た。

「契約が、好きでした。強くなれたから。

 でも――婚姻の条項は、読んだことがありません」



「今、書こう」

 殿下は微笑んだ。

「条項第一。妻を尊び、守ること」

「条項第二。妻の望みを聞き、叶えること」

「条項第三。違約金は、キスで支払うこと」



 玉座の間が、笑いでほどけた。

 私の頬は、火がついたみたいに熱い。



「では、条項……第四」

 私は勇気を集める。

「王国のために、ふたりで働くこと。

 恋は、その報酬に、含めてください」



 殿下の目が、一瞬だけ驚き、それから静かに笑った。

「承認」



 近侍が証書を整え、老司書が印台を持って走ってきた。

 黒百合の印と、小さな羽ペンの印が、同じ紙に並ぶ。

 契約ではなく、婚姻。

 紙は違う。けれど、滲むインクは、きっと同じだ。



「これにて」

 殿下が言い、私の手を取る。

 手が、温かい。

 昨日の冷たい大理石とは、違う温度。



 私は――泣いた。

 短く、静かに。

 殿下が、誰にも見えない角度で、親指で涙を拭った。

「支払いの前金、もう一つ」

 彼は、耳元でささやく。

「――愛している」



 胸の奥で、何かがほどけて、結び直された。



第四章 決着と“余韻1行”



 昼過ぎ。

 告示板の前には人だかり。

 子どもが背伸びし、大人が羊皮紙に目を凝らす。

 “婚約取り違えの告示”の下に、もう一枚、紙が貼られた。



 ――王弟殿下、婚姻の宣し。

 王都は歓声と冷やかしと祝福で騒がしい。

 酒場は話題を得て、パン屋は甘い菓子に黒曜石の砂糖を置いた。

 黒曜石。殿下の指輪の色だ。



 午後、私は孤児院へ行った。

 新しい帳簿が開かれ、本当の寄付が記された。

 小さな手が、パンを両手で受け取り、笑う。

 院長が目尻を下げて言った。

「インクの滲みが、今日はやけに綺麗だ」



「良い紙だから」

 私が笑うと、院長が首を振る。

「良い人が書いたからよ」



 夕方。

 王宮の一角、古い庭で、殿下が私を待っていた。

 薄い雲、低い風。

 彼は黒外套を脱いで、いつもより少しだけ柔らかく見える。



「オルガ」



「はい」



「二枚看板で行く」

 唐突な言葉に、思わず笑う。

「殿下の可視の刃と不可視の刃で、ですか」



「そうだ。妻は目に見える刃を。私は目に見えない刃を」



「では、報酬は二倍で」

 私が言うと、殿下は真面目に頷いた。



「違約金は二倍のキスだな」



「それは……条項の外で」

 自分で言って、耳まで熱くなる。



 ふたりで小道を歩く。

 樹影が短く、夕日が横から差す。

 私は、昨日から今日にかけてのことを、胸の中で何度も並べてみた。

 嘲笑、刃、告示、契約、婚姻。

 どれも重く、どれも軽い。

 その重さと軽さのバランスを、私はやっと、手の中で上手く転がせる気がした。



「殿下」

 私は立ち止まり、彼を見る。

「ざまぁって、どこで終わるんですか」



「そうだな」

 殿下は少し考え、空を見る。

「“怒り”が正義に変わったところ、だろう。

 そこから先は、正義が“日常”になるまで、続ければ良い」



「日常」



「孤児院のパンも、王宮の帳簿も、普通に正しいことが、ちゃんと続くこと」



 私はうなずいた。

 普通に正しい。

 それを支えるのが、私たちの仕事だ。



 庭の端に、小さなベンチ。

 殿下が手で示して、私は座る。

 夕風が、紙の匂いを運んでくる。

 インク、蝋、古い皮表紙。

 私の世界の匂いだ。



「オルガ」

 殿下がゆっくりと私の手を取る。

 指輪が触れ、指輪が応える。

「契約を、越えよう」



「もう、越えました」

 私は笑う。

 笑いながら、涙がこぼれた。

 止めない。

 止めなくていい涙は、こぼれる分だけ、幸せだ。



 殿下が、額に、そっと口づける。

 違約金の支払い、一回目。

 規定外の支払い、ゼロ回目。



 私は目を閉じ、薄く笑って、余白に一行だけ書いた。

 ――証拠は、確かに――愛でした。


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