第一話「婚約破棄と畑の夢」
 王城の大広間は、きらびやかな燭台と宝石のような笑い声に満ちていた。
 そのただ中で、王太子殿下は冷たい声を放つ。
「アリシア・エルド侯爵令嬢。君との婚約は今日限りで破棄する」
 空気が張り詰めた。
 周囲の令嬢たちが扇で口元を隠し、くすりと笑う。
 侍従たちは目を伏せ、父と母も顔をこわばらせている。
 けれど、私は――不思議なほど、心が静かだった。
「君は地味で、王妃にふさわしくない」
 殿下はそう告げ、隣の華やかな公爵令嬢へと視線を向ける。
 その姿を見ながら、私は胸の奥で小さく呟いた。
(……これで、畑ができる)
 怒りも、悲しみも、なかった。
 ただ、長年押さえ込んできた“願い”が解き放たれる音がした。
 私は、前世の記憶を持っている。
 異国で農業を学び、土を愛し、作物にすべてを捧げていた記憶。 肥料を工夫し、水路を掘り、荒れた土地を蘇らせる喜びを知っている。 けれど、この国の貴族社会で、その知識を口にすれば「変人」扱い。
「淑女が泥に触れるなど下品」
「畑は農民のもの」
 そう教え込まれ、私は庭の片隅でひそかに土を触るしかなかった。
 婚約破棄。
 それは、絶望ではなく解放。
 式典を終えて退出する私に、侍女がそっと囁く。
「アリシア様……どうかお気を落とされませぬよう」
「ありがとう。でも大丈夫よ。だって――畑を耕せますから」
 侍女は目を瞬かせ、困ったように笑った。
「やはり……変わっておいでですね」
 数日後。
 私が移り住んだのは、侯爵家の辺境の別邸。
 父が「せめてもの慰めに」と与えてくれた荒れ地だった。
 水路は枯れ、畝は崩れ、倉は崩れかけている。
 けれど、私には宝の山に見えた。
「この土……まだ生きてる!」
 しゃがみ込み、土を手に取る。黒い粒が指にまとわり、かすかに湿り気を残す。
 ――息をしている。
 私は興奮で胸を熱くし、前世の知識を頭の中で並べる。「まずは水路の掘り直し。堆肥は落ち葉と灰で……」
 そこへ、痩せた農民の老人が現れた。
「お嬢様、こんな所で何を?」
「畑を耕します」
「は、畑……? 冗談でしょう」
「本気よ。あなた、鍬を貸してくださらない?」
 老人は狼狽えた。
「貴族様の手に合う仕事じゃありません! 指が切れてしまう!」
「ええ。切れても構わないわ。ずっと、やりたかったの」
 私は袖をまくり、鍬を握った。
 ごつり、と硬い土に刺さる。
 腕に衝撃が走るけれど、不思議と痛みはない。
 土を返すたび、虫が這い出し、草の根が切れ、光が差し込む。
「……本気でなさるのですか」
「ええ。あなたも一緒にどうです?」
 老人はため息をつき、やがて小さく笑った。
「まったく、変わったお嬢様だ。……よろしい。手伝いましょう」
 日々、私は土を耕した。
 少しずつ仲間も増えていく。
 水路に水が戻り、堆肥の匂いが漂い、芽吹いた苗が風に揺れると ――人が集まった。
「収穫したら本当に食べていいのですか?」
「もちろん。あなたが耕した畑なのだから」
「こんなに実がつくなんて……去年は一粒も取れなかったのに!」
 涙を浮かべる農民を見て、私の胸も熱くなる。
 ――土は裏切らない。
 やがて噂が王都まで届く。
 「婚約破棄された侯爵令嬢が、辺境で畑を耕している」
 最初は笑い話だった。
 だが、笑いはやがて驚きに変わる。
「辺境で大豊作?」「飢えて離散した村人が戻っている?」
 そして――ある日。
 若き辺境伯が馬に乗って現れた。
 陽に焼けた顔に驚きと希望を宿して。
「……君が、この土地を蘇らせたのか?」
「ええ。土と水と、少しの知恵で」
「少しの……? 俺の兵でも何年もできなかったのに!」
 その瞳に、未来が宿っていた。
 私は、ようやく理解する。
 ――これはただの畑ではない。
 ――国を変える始まりなのだ、と。第2話「辺境伯の提案、最初の収穫祭」
 辺境の朝は、王都よりも一刻早く目を覚ます。
 鶏の声、井戸の鎖の軋み、薪を割る音――音の合間に、湿った土の匂いが漂う。
 私は膝をつき、芽吹いたばかりの小麦の葉先を指で撫でた。露が珠になって転がり、光を砕く。
「葉色、良し。窒素は足りてる。……でも、この畝は少し詰めすぎね」
 後ろから、がさりと草を踏む音。
 顔を上げると、陽に焼けた若い男――この地の若き辺境伯、ルディオ・ヴァン・グリムが立っていた。鎧ではなく、粗い布の作業服を着ている。肩には鍬。
 貴族のはずなのに、畑の匂いがする人だ。
「おはよう、アリシア。夜明け前から働くのは兵だけだと思っていたが……畑の兵はもっと早いな」
「畑は、朝の光を一番上手に使いますから。辺境伯さまも、鍬がお似合いですね」
「ルディでいい。さもないと肩がむずむずする」
 彼は笑って鍬を肩から下ろし、土を手にとった。
 指先で捻び、落ちる粒を目で追う。まじめな目だ。「兵に耕させれば進むと思っていたが、畑は命の機嫌で動くらしい。
――それで、頼みがある」
「頼み?」
「この谷に、新しい用水路を通したい。雪解けの水をひとまとめにして、干ばつの年にも畑が死なないように。だが、兵だけでは足りない。……“畑の軍師”に、指揮を頼めるか」
 畑の軍師。
 私の胸が、どくんと跳ねる。
 前世で夢見た肩書きに、やっと触れた気がした。
「喜んで。けれど、条件があります」
「言ってくれ」
「水路の入口に、堰板(せきいた)を。子どもでも扱える軽さで、図と印を付けること。――“誰でも使える仕組み”にしないと、続きません」
「任せろ。木工は兵の得意分野だ」
 ルディは迷いなく頷いた。
 彼の“任せろ”は軽くない。責任の気配が付いている。
 昼までに、私は村の広場で“用水路の段取り表”を描き上げた。
 白い板に炭で線を引き、矢印を描き、数字を書き添える。
 図の横には、種の袋を持った子どもが喜ぶ絵と、堰板を上げ下げする老人の絵。文字が苦手な人にも、意味が届くように。

「この線が水の道。……ここに堰板。印は三つ、太陽と雲と星。太陽の日はここまで、雲の日は半分、星の夜は閉じる」
 老農が顎髭を撫でながら頷く。
「印なら孫にもわかりやすい」
 ルディが横で腕を組み、顔を上げる。
「堰板の刻印は俺の工房で作らせる。兵に絵の練習もさせよう」
「兵に……絵の練習を?」
「戦がない日に剣ばかり振らせるより、板に笑顔を描かせた方が士気が上がる。俺の経験則だ」
 辺境伯は時々こういうことを言う。
 “強さ”と“暮らし”が頭の中でつながっている人の言葉だと思う。
 用水路の掘削は、翌朝から始まった。
 私が旗を振り、ルディが鍬を振るい、兵と村人が列になって土を運ぶ。
 最初はぎこちなかった列が、昼前には音を揃え、掛け声も自然に混じった。
 土の匂い、汗の匂い、焼けたパンの匂い――息が合えば、匂いも混じる。
 途中、私は畦に立って手を挙げた。
「止めて! この土は粘りが強い。水に弱いから、砕いた瓦礫を混ぜて基盤を作って」
 ルディが走る。
「砦の修繕で余った瓦礫がある。持ってこい!」
 村の少年が目を輝かせた。
「僕も運ぶ!」
「いいわ。でも、重いのは大人に任せて。君は刻印を彫るのを手伝って」
「刻印?」
「ほら、太陽と雲と星。君の絵が、村の“水の印”になるの」
 少年の胸に火が灯ったのがわかった。
 人は、自分の印を見つけると強くなる。
 畑も、印があると強く続く。
 三日で仮通水まで漕ぎつけた。
 堰板に刻まれた印は滑らかで、子どもの手でも上げ下げできる。
 水を走らせると、土が息をつき、畝が湿り、苗が葉を開く。
 村の女たちが歓声を上げ、老人が帽子を取り、兵たちは互いの背中を叩いた。
「アリシア!」
 ルディが水しぶきを浴びながら笑う。
「川が畑に降りてきた!」
「いいえ、畑が川を迎えに行ったのよ。……でも、まだ半分。次は堆肥(たいひや)舎よ」
「たいひ……?」「落ち葉と藁と獣糞と灰。空気を入れて積み、熱と菌で“土のご馳走”に変えるの」
 兵が顔をしかめる。
「臭いのは苦手だ」
「臭いは“生”の証拠。上手に作れば、臭いは甘くなるの。――やってみましょう」
 私は前世の記憶を辿り、層の順序と水加減を指示した。
 藁↓糞↓落ち葉↓灰↓水。
 足で踏み、棒で孔を空け、布で覆う。
 四日もすれば、手を差し入れたらぬくもりを感じるはずだ。
「堆肥は土の祈り。祈りは続けるから力になるのよ」
 老農が目を細めた。
「嬢ちゃんの言葉は、むずかしいようで、腹に落ちるな」
 その夜、焚き火を囲んで打ち合わせをしていると、王都から来た商人が現れた。
 上等な外套、整えられた口髭、足元の泥を嫌うような目。
「エルド侯の嬢君。辺境の小麦が取れるようになったとか。――王都で買い取ろう。相場より二割安いが、量は保証する」
「二割安い?」
 私は首を傾げた。
「“量の保証”を言い値の理由にするのは、商人の常套句。けれど、続けるには逆効果です」
 商人が眉を吊り上げる。
「逆効果?」
「農は年によって波がある。豊作の年は貯め、凶作の年は出す。― ―“穀倉”は畑の隣に必要です。王都の倉より、村の共同倉。私たちは、まず“続ける倉”を作ります」
「それでは現金が回らぬ」
「回るわ。現金は“必要な物と働き”に結びましょう。――王都から欲しいのは、麻布、鉄の鍬、釘。それと、種子用の麻袋の縫い糸。
相場で構いません」
 商人は舌打ちこそ飲み込んだものの、露骨に肩をすくめた。
「王太子の婚約を捨てられた娘が、“商い”を語るか」
 焚き火の向こうで、ルディの表情が冷たくなる。
 私は、笑って火に棒を差し入れた。火の舌が揺れ、赤が踊る。
「――王妃にならなかったから、畑の言葉が話せるの。ここは畑の国よ、商人殿」
 商人は言葉に詰まり、外套を翻して去った。
 背中に、兵の小さな笑いが追いかけた。
 ルディは肩の力を抜いて、私に言う。
「君はときどき、剣より切れる」「剣は一度抜けば鞘に戻すのが大変。でも、言葉は火加減ができる。
……焼けないように気をつけるわ」
 一週間後。
 堆肥舎は温み、用水路は安定し、畝の緑は濃くなった。
 私は“輪作表”を板に描き、村の壁に掲げた。
 小麦(穀物)↓豆(窒素固定)↓根菜(掘り返し)↓休作(堆肥すき込み)。
 絵で、矢印で、色で。
「畑にも休みを。休むのは怠けではなく、次のための貯金」
 少女が板の前で真剣に頷き、老農が「昔のやり方に似とる」と言った。
 そう――前世の“科学”は、この世界の“昔の知恵”とよく手を取り合う。
 なら、繋げればいい。
 新旧の間に、畝のように。
 そして――初めての収穫の日が来た。
 村にとっては久しい“豊作の兆し”だ。
 青空の下、刈り取りの歌が響く。鎌が稲穂を撫で、束が腕に積まれ、笑い声が風の中でほどける。
 私は麦束の匂いを吸い込みながら、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
 婚約破棄のあの日につかえた小さな棘が、土の中で腐葉土に変わった気がする。
「アリシア!」
 ルディが麦束を担いで駆けてくる。
「見ろ、穂が重い。首が下がってる。……土の礼だな」「土は正直。手を入れた分だけ、返してくれる」
 収穫の後、村の広場に長い机が並べられた。
 パン、煮込み、焼き肉、蜂蜜を垂らした薄焼き――香りが重なり、腹が鳴る。
 私は“最初の収穫祭”と小さく書いた板を立て、蜂蜜水を桶に満たした。
「これから毎年、収穫のたびに“種の交換”をしましょう。強かった畝からとれた種は札を付けて、来年の子へ。――“強い子の親” を皆で育てるの」
 子どもたちが目を輝かせ、手を挙げる。
「ぼくの畝、強かった!」
「わたしの豆、いっぱいなった!」
「じゃあ君たちは今日の“種守”ね。板に印を押して」
 笑いが膨らみ、ルディが私の隣に腰を下ろした。
 夕暮れが畑の稜線を金色に縁取り、遠くの森が紫に沈む。
「王都からまた噂が来るだろうな。『落ちぶれ令嬢が祭りで浮かれている』とか」
「浮かれてるわ。だって、浮かぶのは“湯気”よ。鍋の上に立ち上る湯気。――それは、国を温めるわ」
「その言い方、好きだ」
 ルディは蜂蜜水をひと口飲み、少し真剣な顔に戻った。
「アリシア。……君に正式にお願いしたい」
「なにかしら」
「この辺境一帯の“畑の軍師”として、俺の配下についてくれ。名目は“開墾顧問”。権限を与える。兵と街道と倉を使っていい。君の図と札を、この谷すべてに広げたい」
 焚き火のぱちりという音が、合図のように弾けた。
 私は、手の中の木杯を見下ろす。
 指には、昨日の鍬の小さな豆。
 その痛みが、答えの形を教えてくれる。
「お受けします。けれど、一つだけ」
「条件か?」
「はい。“偉い言葉”ではなく、“分かる図”で命令を出すこと。
……文字が読めない人にも届くように」
 ルディの目に笑いが宿る。
「約束しよう。俺は絵の練習を続ける」
「では、契りは十分ね」
 私たちは木杯を打ち合わせた。
 乾いた音が夕空に吸い込まれ、どこかで子どもが鈴を鳴らした。 祭りが最高潮に達したころ、ひとりの旅人が広場の端に立っていた。
 深いフード、細い杖。 彼は言葉少なに、私へ小さな包みを差し出す。
「王都より。……“旧友”から」
 包みには、薄い紙切れが入っていた。
 ――王太子の新しい婚約発表。
 華やかな筆致で“公爵令嬢フローレンス”の名が踊り、その横に踵で踏みにじられたような小さな染み。
 旅人は声を潜める。
「王都で噂が立っている。“辺境の土娘が、王家の面子を潰した” と。……貴族の中には、辺境の豊作を快く思わぬ者も」
 私は紙を折りたたみ、焚き火に近づけた。
 炎が舌を伸ばし、紙の端から焦がしていく。
 湯気の白と、煙の黒。
 紙が灰になるまで、目を離さなかった。
「面子は食べられないわ。……土は食べ物をくれる」
 旅人は目を細め、わずかに笑った。
「賢い。――気をつけなさい、畑の軍師」
 彼の背は、暮れなずむ森の方角へと溶けていった。
 祭りの終わり、私は堆肥舎の蓋をあけ、指を差し入れた。
 ほのかな熱。
 甘い、熟れた匂い。
 うまくいっている。
 土は“続ける”と、答えを返してくれる。
「アリシア」
 背後からルディの声。
 彼は星明かりの下で、少しだけ真剣な顔をしていた。
「君がここに来てから、兵も村も変わった。……俺も、変わった。 戦で俺は“守る”しか知らなかったが、畑は“育てる”ことを教える。
 守るだけでは、続かないのだな」
「ええ。守るは静止、育てるは運動。畑は、止まると死ぬの」
 彼は頷き、きまり悪そうに頭を掻いた。
「上手く言えないが……その、ありがとう」
「こちらこそ。――鍬の似合う辺境伯」
 言ってから、少しだけ笑い合った。
 夜風が畦を撫で、遠くで狼が短く鳴いた。
 土のにおいが深くなり、星の数が増える。
 私は心の中で、そっと誓う。
 この谷に、図と印と畝をもっと増やす。
 水と土と火と灰、そして笑い。
 “続ける”仕組みを、畑に根づかせる。
 たとえ王都が何を言おうと、胃袋は嘘をつかない。
 土は嘘をつかない。
 だから、勝つのは畑だ。
 翌朝。
 村の壁に新しい板が立った。
 〈畑軍師より〉と小さく書き、絵と印で今日の段取りを描く。
一、堆肥舎:一番右の山を返す(印=ぐるり矢印)
二、用水路:堰板“雲”まで(印=雲)
三、種の交換:強い畝の袋に赤紐(印=赤点)
四、鍬の修理:砦工房へ(印=金槌)
五、子ども組:太陽・雲・星の刻印練習(印=三つ並び)
 板の前に人が集まり、指で絵をなぞり、頷いて散っていく。
 “偉い言葉”は要らない。
手と足が動く言葉――それが畑の言葉。
 畝に一歩踏み出すと、露が靴を濡らした。
 今日も、土はやさしい。 鍬を握り、振り下ろす。
 土が返る。
 私の中で、何かがまた一つ、芽を出した。
「――さあ、今日も畑から始めましょう」
 私の独り言に、朝の風がやわらかく返事をした。

第3話「共同倉と“種守”の誓い」
 朝露に濡れた畝の向こう、まだ新しい用水路が銀の紐のように光っていた。
 私は膝をついて小麦の葉先を撫で、黄緑から濃緑へ移ろう色を確かめる。輪作表どおり、次は豆を入れる区画を少し広げる予定だ。
土の呼吸はゆったりしている。良い兆し。
「アリシア」
 背後から足音。振り返れば、鍬を肩に掛けたルディ――辺境伯の顔に、珍しくためらいが滲んでいる。
「どうかしたの?」
「王都の別の商団が来た。前の髭男より話が早いが、狙いは同じだ。
――“共同倉の前に王都倉を置け、価格は王都が決める”」
 私は土を一握りして立ち上がる。指先に残る湿りを見せるように、土を開いた。
「この湿りが、私たちの“相場”よ。――保存できる力があれば、売らない選択もできる。だから共同倉を先に建てるの」
「言い返してやったが、圧力は来る。兵を回すが、倉の場所はどうする?」
「谷の中央、風が通って、川霧が上がらない小高い丘。――昨日、目をつけたわ」
「行こう」 丘の上は、風が気持ちよく抜けた。南からの乾いた風が畝に触れ、薄い波を作る。
 私は棒で地面に丸を描き、円を四つ、重ねていく。
「円筒の倉を四基、風の道に沿ってずらし、間に“晒し床”を。床は板ではなく編み籠。下から風が抜けるようにして、日陰は布で作る」
「石ではなく、土壁か」
「ええ。外側は土に藁を混ぜた版築(はんちく)。内側は石灰で白く塗る。―― 白は熱を弾くし、害虫も嫌うの」
 側で聞いていた老大工が目を丸くした。
「そんな作り方、聞いたことがねぇ」
「前の世界で覚えたの。難しくはないわ。大勢で土を突いて、歌いながら固めていく」
「歌?」
「ええ。歌は共同作業の“刻み”。腕の振りと息がそろうと、土も強くなるの」
 ルディが片眉を上げ、面白そうに頷く。
「剣を振るのも同じだ。呼吸が揃えば、刃は曲がらない」
 共同倉の建設は、まず“歌づくり”から始まった。
 子どもたちが太陽・雲・星の印に合わせて手を叩き、婆さまたちが言葉をつけ、若者が拍を刻む。 「土を突け、突け、突け」「ひびを見ろ、見ろ、見ろ」「水は少し、少し、少し」――拍に乗るほど、難しい指示が簡単になる。
 私は“版築の配合表”を板に描いた。
 土:藁:水=5:1:0.5(湿りで調整)。
 強い土には砂利をひとつまみ。
 層は手の厚み三枚分、層ごとに木槌で“音”を確かめる。
 「低い音はまだ柔らかい。高い音が“乾きの合図”よ」
 最初の三日、壁はまだ頼りなかった。
 だが五日目、叩く音がからりと乾いた。
 十日目、白い石灰が陽を跳ね返し、丘に四つの白い塔が立った。
 見上げた子どもが口笛を鳴らす。
 老大工はしわしわの頬を膨らませ、「こいつぁ確かだ」とうなずいた。
 共同倉に収める“初物”は、あの収穫祭で選ばれた強い畝の種だ。
 私は“種守(たねもり)”たち――前回役目に名乗りを上げた子どもたち―― を呼び集めた。
「これから“種守の誓い”をするわ」
「ちかい?」
「ええ。種は未来のパン。――お腹がすいても、親が困っても、種袋だけは食べない。
 代わりに、**“種のパン”**を焼く。小さくて固い、保存用のパン。これは食べても良い。でも、種は来年の子ども」
 子どもたちは真剣に頷いた。
 私は木の札を手渡し、それぞれの名と、畝の印を刻ませる。
 赤い紐で袋の口を結び、白い粉――石灰を指でつけて印に“息” を入れる。
「種守は、明かり。――闇で迷ったら、この印を思い出して」
 小さな胸に札をかけた子たちが、互いの紐を確かめ合う。
 見守る大人たちの目に、静かな炎がともるのが分かった。
 共同倉の“番(つがい)”は、村の年寄り夫婦が務めることになった。
 鍵は一本にせず、半鍵を二つ。片方は爺さま、片方は婆さま。二つが合わなければ開かない。
 鍵には波型刻印と小さな鍋の影――錠前師と商人が一緒に作った新しい意匠が光る。
「よくもまあ、こんな細工ができたものね」
 私が感嘆すると、錠前師は鼻を鳴らして得意げに言う。
「鍋の湯気が、手先を暖めたんだよ」
「ふふ。じゃあ、この倉の湯気は大切にしないと」
 その矢先、王都からの圧力は一段強くなった。
 “王都倉と価格統制”を求める書状が二通。
 「共同倉は不正の温床」「辺境に価格を決める資格なし」――文面は取り繕っているが、要は“口を出させろ”ということだ。
 ルディは短く笑い、筆を取った。
「返答は簡単だ。――“王都は王都の倉を、辺境は辺境の倉を守る
”。それだけ書く」
「頭にくるでしょう?」
「昔の俺なら剣を抜いた。だが今は倉がある。倉は剣より説得力があるらしい」
「倉は“続く”の象徴。剣は“一度”だから」
 返書が出ていった翌日、王都商団が三十人で乗り込んできた。
 整った馬車、派手な羽飾り。
 中央の男――緑の羽根帽子――が、共同倉の前で声を張り上げる。
「辺境の倉番! 王都直轄の検査を受けよ。王都印のない袋はすべて王都倉へ搬入する!」
 ざわめき。
 私は一歩前に出た。
「検査は歓迎します。でも、**“開かれた検見台”**で。ここで袋を開き、湿りと粒を見て、色札を吊る。王都印は不要です。―
―私たちには波刻印がある」
「波刻印など玩具だ! 国家の商いは王都の印から始まる!」
 彼らの後ろで、兵の列が身構える。
 緊張がひりついたその時、共同倉の半鍵を首にかけた婆さまが、すっと前に進んだ。
 白髪を布でまとめ、皺だらけの手に、刻印の入った札を握って。
「ここは、わしらの“明日の腹”じゃ。王都の印がわしらに飯をくれたことは、一度もない。……倉を開けるのは、わしと爺さんの二つの鍵だけだよ」
 婆さまの声は大きくない。だが、石に沁みる。
 緑の羽根帽子が口を開こうとした瞬間、ルディが一歩出た。
 作業服のまま、肩に鍬。だが声は領主のそれだった。「王都の商人よ。ここで検見するのが怖いか。――怖いなら、帰れ」
 沈黙。
 彼らは互いに目配せし、しばらくの逡巡ののち、しぶしぶ検見台へ向かった。
 袋が開かれ、粒がこぼれ、日光に透かされる。
 湿り、虫食い、割れ――“色札”が吊るされ、良否が一目でわかる。
 村の子らが「これは◎」「これは△」と声を重ね、笑いとざわめきが戻っていく。
 緑の羽根帽子は終始むすっとしていたが、最後には鼻を鳴らして言った。
「……勝手にしろ。だが、王都の印がない袋は王都市場で安く買い叩かれるぞ」
「買い叩かれないように、“売らない力”をつけます」
 私は淡々と答えた。
「倉が満ちれば、私たちは選べるようになるの。売るか、待つか、加工するかを」
 商団は罵声に似た笑いを残し、丘を下っていった。
 背中を見送りながら、私は深呼吸を一回。胸の中の怒りを、土へ落とす。
 怒りは燃料。鍋の下へ戻せばいい。
 午後、風が乾き、晒し床の上で麦がかさりと鳴った。
 私は“加工”の図を板に描く。粉、乾麺、薄焼き、麦茶――保存性と必要資材、労力と日数。 子どもたちは“薄焼き”に目を輝かせ、老人は“麦茶”にうなずいた。
「乾麺は王都でも売れる。だが、最初の二割は村の“種のパン”へ」
「はーい!」
 “種守”の子どもたちが、袋を抱えて小さな工房へ走っていく。
 石臼が回り、小麦の香りが立ち、蜂蜜の甘さが混じり合う。
 私は手を粉だらけにしながら、心に別の“粉”のことを思い出していた。
 ――あの、甘くて黒く沈む粗製の粉。
 王都の誰かが、必ずまた仕掛けてくる。
 だからこそ、**“茶”**が要る。
 湯を沸かし、落とし、透かす。
 飲み物の方から、検見の習慣を暮らしに入れる。
「婆さま、麦茶に“灰ひとつまみ”を――渋味が落ちるわ」
「ほう、こりゃ確かに飲みやすい」
 夕方、丘の影が伸びるころ、黒い馬が一頭、土埃を巻き上げて走ってきた。
 騎手の肩には青い短い外套――国境で見た隣国の使者の従者だ。
 彼は馬から飛び降り、息せき切って紙片を差し出す。
「国境町より。――“共同検見台”の起工式の日取りが決まった。
君――“畑の軍師”も来てくれ、と」
 紙には小さく、青い印。
 私は頷く。
「もちろん。こちらの“倉の歌”も持っていくわ」 従者は目を細め、不意に笑った。
「歌か。あちらの子どもたちも、歌が好きだ」
「歌は国境を越えるもの」
「粉も越える。だが、歌なら、粉を見分ける眼を育てる」
 従者の言葉に、胸の中の緊張がやわらいだ。
 彼は短く敬礼し、北へ走り去る。
 夜。共同倉の白壁が月光に淡く光り、風に揺れる晒し布が波のように重なる。
 私は倉の前に座り、種袋の山を数え、半鍵の音を聞いた。
 爺さまと婆さまの笑い声が、若い頃のそれに少し似ている気がして、目頭が熱くなる。
「アリシア」
 ルディが木杯を二つ持って来た。蜂蜜水がひやりと喉を降りる。
「今日はよく頑張った」
「ええ。皆がね」
「皆を動かしたのは君だ。……王都の圧力は、おそらくこれからが本番だ。それでも、共同倉が立った。――俺は、誇らしい」
 珍しく感情をそのまま言葉にした彼に、私は杯を掲げた。
「“続けるために”。――乾杯」 杯が触れて小さく鳴る。 遠く、畑の端で“種守”たちの歌が聞こえた。
 「ひとつ、ふたつ、みっつの星」「あしたの麦は明日の子へ」―
―拍が夜気に吸い込まれていく。
 その夜更け――。
 共同倉の裏手、白壁の影に、人影が二つ。
 私は物音に気づき、そっと近づいた。
 しゃがみ込む影の手に、小瓶。甘い匂い。
 粗製粉だ。
 袋の口へ忍ばせ、明日検見の前に“混ぜる”腹づもり。
「やめなさい」
 静かな声で言った。
 影が跳ね起き、逃げようとする。私は足元の麻袋を――投げた。 ずしりと重い袋が一人に命中し、よろけたところをルディの腕が取る。もう一人はレオンが足を払って地面に転がした。
「王都の商団の下働きか?」
 レオンが縄をかけながら低く問う。
 二人は首を振り、うつむいた。
 村の若者だ。
 頬がこけ、眼は乾いている。
 その瞳に、私は既視感を覚えた――飢えと、焦り。
「……誰に頼まれたの」
「お、おっかぁの薬代が……王都の薬屋が貸しで……“印のない袋は不正だ、混ぜてやる、金になる”って……」
 私は短く息を吐き、瓶を拾い上げる。
 蓋を開け、水に落とす。黒い沈殿。 皆の前で、明日また見せることになるだろう。
 でも――今、ここで一つ、決めなければならない。
「君たちを裁くのは明日。倉番の前で、皆の前で。
 でも今夜は――“種守”の前で、袋を縫い直しなさい。
 君たちの手で、二重底をほどいて、罪を見える形にするの。子どもたちがそれを見て覚える。『混ぜる袋は、生まれない』って」 二人の肩が震え、静かに頷く。
 ルディが目で問う。“甘くないか?”
 私は目で返す。“甘くない。続ける罰よ”
「レオン、見張りを。……私は“種守”を起こしてくるわ」
 真夜中の工房に灯がともり、小さな手が針を握る。
 ほどかれる縫い目、現れる二重底。
 若者の震える指を、子どものまっすぐな目が追い、婆さまのしわだらけの手が導く。
 袋は一枚の布に戻り、あらためて縫い直される。
 縫い終わった袋の口に、赤い紐。
 石灰で印。
 ――“やり直しの印”。
 私は胸の奥で、静かに何かがほどけるのを感じた。
 罰と赦しは、どちらも“続ける”仕組みの一部だ。
 明日の検見台で、彼らは人の罰を受け、後で法の罰を受ける。
 順番を間違えなければ、村は壊れない。
 夜明け。
 共同倉の白壁が朝日を跳ね返し、丘全体が柔らかい光に包まれる。 検見台の前に人が集まり、色札が揺れ、半鍵が小さく鳴った。
 若者二人は自ら前に出て、袋を掲げ、声をふるわせた。
「俺たちは、混ぜようとした。……でも、袋をやり直した。――見てくれ」
 沈黙のあと、婆さまが頷き、色札の“やり直し印”に指を置いた。
 拍が始まり、歌が短く流れる。
 罰は与えられ、同時に、続け方が共有された。
 ルディが小さくつぶやく。
「壁が――人になっていく」
「ええ。倉も、畝も、歌も、ぜんぶ“人の形”になって続くの」
 私は陽に透かした種袋を掲げた。
 光の粒が白い壁を飛び、子どもたちの頬に跳ねる。
 胸の奥で、確かな合図が灯る。
「――さあ、今日も畑から始めましょう。倉は畑の隣。歌は倉の上。
続けるために」
 朝の風が、やさしく返事をした。
(つづく)

第4話「粉と歌、国境の起工式」
 朝の共同倉は、白い壁が柔らかく光り、晒し床が風にさやさやと鳴っていた。
 私は手を洗い、石臼の前に座る。臼の縁に指を添え、ゆっくり回す――粉の香りが立つ。
 粉は土の記憶だ。雨の回数、陽の角度、鍬の重さ、笑い声の数―
―全部が細かく砕かれ、香りに変わる。
「アリシア、臼の目、変えてみたぞ」
 錠前師兼なんでも工房の親方が、笑いながら新しい臼の上石を持ってきた。
 目が浅く、放射状の溝が増えている。
 私は試しに回し、指先で粉をひとなで。きめは細かいが、熱は上がりすぎていない。よし。
「これなら乾麺向き。――今日から“加工ライン”を本格稼働ね」
 板に描いていた図を、もう一度大きく描き直す。
 〈粉〉↓〈乾麺〉↓〈薄焼き〉↓〈麦茶〉の四つの台を矢印でつなぎ、それぞれの台に“歌”を割り振る。
 粉の歌は「回して、回して、息合わせ」。
 乾麺の歌は「踏んで、伸ばして、雲の薄さ」。
 薄焼きの歌は「火は弱く、風で強く」。
麦茶の歌は「湯に落とし、灰で斬る」。
 歌は段取りの刃。 刃が鈍れば指が切れるが、歌があれば動きも揃う。
 子どもたちが目を輝かせ、台へ散った。
 “種守”の赤紐が揺れている。
 私は薄焼き台の火加減を見て、蜂蜜壺を少し高い棚に移した。甘さはご褒美、習いを身につけた後。最初は香りだけで十分だ。
 昼には第一陣の乾麺が長い棚に並んだ。
 太陽の印の日は半日で乾くが、雲の日は倉の中で扇を使う。 扇の隊長は、先日“袋のやり直し”をした若者が志願した。
 彼の目は、昨夜よりずっと静かだ。
「アリシアさん、風はこう?」
「うん、扇は“雲”ね。太陽は皮膚を焼くけど、雲は中まで風を入れるの」
 彼は頷き、扇の角度を変える。
 罪は消えない。
 でも、習いに組み込めば、村は壊れない。
 私はその背を見て、胸の奥の小さな棘がまたひとつ土に還るのを感じた。
 午後、国境の使者の従者が再び現れた。
 埃を払い、手短に告げる。
「起工式は三日後。王都からも役人が来る。――“共同検見台”は国境の石橋の上、川風の通り道に設ける。
 ついては“倉の歌”と“色札の一式”を貸してほしい」
「貸すじゃなくて、贈るわ。国境は風が強い。札は少し重くする。石粉を混ぜた紙なら、風に負けない」
 従者は目を丸くし、それから口角を上げた。
「君はいつも“続ける”方を選ぶな」
「剣は一度、倉は毎日。――剣より倉を優先するだけ」
「剣を持つ側として、それを聞くのは、少し救いだ」
 彼は短く礼をし、走り去っていった。
 残る砂埃が光って舞い、私は“色札紙の配合表”を板に書き加えた。
 紙:石粉=4:1、糊を少し増やして耐水を上げる。
 “太陽・雲・星”の刻印も、国境版は線を太く、遠目にも読めるように。
 その夜、広場では“国境行きの前夜祭”の準備が始まった。
 と言っても、いつもの焚き火と歌、薄焼きの香りと蜂蜜水――変わらないから続く祭りだ。
 私は板の端に小さく〈国境:倉の歌・色札・半鍵(予備)・堰板模型〉と書き、荷の確認をする。
 そこに、ルディがやって来た。肩に披露用の短い外套、でも中はいつもの作業服。
「堰板の模型、兵が磨いた。子どもでも上げ下げできる重さだ。…
…あと、これ」
 彼が差し出したのは、薄い革の手袋。
 手首には小さな波の刻印と、鍋の影。「“畑軍師の印”だ。国境で、君の手が“だれのための手か”を示してくれる」
 私は手袋をはめ、握って開く。
 革は柔らかく、指に馴染む。
 胸の奥で、やさしい熱が灯る。
「ありがとう、ルディ。――借りるわ。返さないでいいなら、ずっと」
「返されても困る。俺の手は、君の印を頼っている」
 火の音がぱちんと弾け、言葉がそれ以上を求めずに沈んだ。
 沈黙は、よい火加減だ。
 三日後、国境。
 石橋の上には、青と白、赤と青の旗が並び、川風が混じり合う。
 橋の中央に“共同検見台”、両側に“国別検見台”。
 その真ん中に、紐で結わえた札束と、歌の板、堰板の模型、半鍵の予備。
 人の輪の向こう、王都の役人が顎を上げ、隣国の役人が扇を軽く打つ。
 黒扇の使者は一歩後ろ――だが、目は笑っていた。
「園……いや、“畑の軍師”。待っていた」
「“鍋の盟”に“倉の歌”を足しに来たの。――湯気の次は粉と歌よ」
 彼は扇を閉じ、短く頷く。
「風が変わるたびに、紙が増えるな」
「紙は乾く。歌は覚える。……続けるために、両方を」
 起工式は、形式ばった挨拶こそあったが、中心はあくまで“手” だった。
 最初に検見台へ袋を載せたのは、国境の羊飼いの少年。
 次に、隣国側の麦袋、王都側の豆袋。
 袋を開き、粒を掌に取り、光に透かし、色札を吊るす。
 “◎”“○”“△”“×”。
 ◎は共同倉へ、○は各国倉へ、△は加工へ、×は家畜へ――板に絵で示しながら、橋の上で決める。
 王都の役人が眉をしかめる。
「民の前で“×”を出せば、不安を広げるだけだ」
「“×”は鍋の下の火よ。隠せば床を焦がすわ」
 私は穏やかに返し、麦茶を手渡した。
「飲んで。灰をひとつまみ落としてある。渋味が消える。――“見える手順”の味」
 役人は訝しげに一口飲み、それからわずかに目を見開いた。
 渋味が落ち、穀物の香りだけが残る麦茶は、喉を素直に通る。
 言葉で説得できない相手には、味に任せる。畑の外交だ。
 午後、橋の上に“堰板の模型”を据え、子どもたちが上げ下げの手順を見せる番になった。
 太陽はここまで、雲は半分、星は閉じる――刻印が光るたび、拍手が湧いた。
 隣国側の子も王都側の子も、同じように笑う。 黒扇の使者が、私へ小声で囁く。
「国境で、はじめて“同じ笑い”を見た」
「湯気と粉と歌は、言葉より素直だから」
 彼は短く笑い、それから表情を引き締めた。
「だが、影も来ている。……橋の下、川舟に怪しい荷」
 私は合図を送り、レオンが兵を連れて橋の脇へ回る。
 舟が二艘、流れに紛れながら近づいていた。
 荷は白い袋。
 舟頭は「塩だ」と叫ぶが、袋の縫い目は“王都倉”規格ではない。
 私は川岸に降り、袋の口を切った。
 ――甘い匂い。
 指先で掬い、水に落とす。黒い沈殿。
 粗製粉。
 舞台に立つべき“道具”が、また裏から忍び込もうとしている。
「ここで、検見よ」
 私は橋の上へ戻り、舟から一袋ずつ持ち上げて台に載せた。
 隣国の役人、王都の役人、黒扇の使者、ルディ、爺さま婆さま―
―全員の前で。
 水、匙、落とす、透かす。
 子どもが色札の“×”を手にし、ためらい、私を見る。
 私はうなずいた。
 ――正しい“×”は、正しい“◎”への道。
 役人たちがざわめき、舟頭は青ざめた。
 そのとき、斜面の上から木杭が転がり落ち、検見台の脚を直撃した。
 台がぐらりと傾き、袋が滑る。
 悲鳴。
 私が支えるより早く、ルディが肩で台を受け、黒扇の使者が袋を押さえ、レオンが杭の元へ駆ける。
 斜面の上で、若い影が転び、逃げようとして兵に押さえ込まれた。
 私たちは息を整え、傾いた台を起こす。
 台の脚は折れていない。
 “版築”で固めた土台が、衝撃を受け止めたのだ。
「――続けよう」
 私は静かに言い、舟の袋に“×”を吊るした。
 罵声は上がらない。
 歌が、かすかに流れた。
 「湯に落とし、灰で斬る」
 橋の上に、暮らしが戻る。
 影はいる。
 だが、暮らしの側にいる人数は、もう影より多い。
 起工式の終わり、各国の印とともに、私の手袋の波刻印が“共同検見台・国境仕様”の板に焦がし印で刻まれた。
 板が風に鳴り、川面が光る。
 黒扇の使者が小さく囁く。
「君の印は、剣ではなく、歌の横に置かれた」
「私の剣は鍬。――鍬は土を斬らない。土を、ほどく」「ほどく……。よい言葉だ」
 その夜、国境の宿で、私は板の端に今日の“段取りの振り返り” を書いた。
 ・色札:国境版は重くして正解。
 ・堰板:子どもが上げ下げできた。
 ・検見台:土台は版築、脚は太めに。傾きにも耐えた。
 ・粗製粉:舟経由。斜面からの妨害。――次回、見張りを“灯り
”に。
 灯りは、歌の節に合わせて点滅させる。
 合図は「雲↓星↓太陽」の順。
 歌と灯りが合えば、人は間違えない。
 扉が軽く叩かれ、ルディが入ってきた。
 衣の裾が砂に汚れ、肩に砂がついている。
 彼は少し気まずそうに咳払いをした。
「……あの台を肩で受けた時、君が心配でね。
 俺は剣ならともかく、台は受けたことがなかった」
「受けてくれて、ありがとう。――土台が助けてくれたわ。あなたの肩も」
 彼は苦笑し、腰を下ろした。
 しばらく無言で、宿の窓から川の光を眺める。
 沈黙は火加減。
 やがて、彼は少しだけ照れた声で言った。
「国境の連名板に、君の印が刻まれたのを見て……誇らしかった」
「私も。――私の“今”が刻まれたから」
「“今”か」
「ええ。紙は乾いても、今は乾かない。毎朝湯気が立つから」
 彼は頷き、真面目な顔になった。
「帰ったら、領内の“畑軍師”を正式に発令する。紙も出す。君はもう、辺境の“方便”じゃない」
「紙は乾く?」
「鍋の横で乾かそう」
 二人で小さく笑った。
 外で川が低く鳴り、国境の灯りがゆっくり瞬いた。
 帰路。
 国境の市場は、もう“色札”を言葉のように使っていた。
 「この粉は○だ」「この豆は◎だ」「この干し肉は△だから煮込みへ」
 子どもが札を掲げ、老人がうなずく。
 歌は早い。
 紙より、はるかに。
 橋を渡りきるところで、黒扇の使者が扇を胸に当てた。
 目だけが少し柔らかい。
「君の“ほどく”という言葉、気に入った。
 剣は断ち、鍬はほどく。
 私の国でも、それを教える女がいる。いつか合わせてみたい」「鍋の横で、粉の香りの中で、なら」
「もちろん」
 彼は笑い、風の方角へ消えた。
 その背に、川霧が薄く絡み、やがてほどけた。
 辺境に戻ると、共同倉の白はさらに白く、晒し床の匂いはさらに乾いていた。
 “扇の隊長”が走ってきて、胸を張って報告する。
「台の脚、太くして、土台も叩き直した。――どんな杭が来ても、もう傾かない」
「ありがとう。君の手は、もう“雲”ね」
「雲?」
「風を中まで入れる手」
 彼は照れて鼻を掻いた。
 “種守”の子たちは、灯りの点滅練習をしている。
 雲↓星↓太陽――灯りが歌と合う。
 歌は灯りを導き、灯りは人を導く。
 夜、倉の前で、私は小さな板に今日の締めを書いた。
 〈明日〉
 ・乾麺:太陽の印――倉内から外へ移動
・薄焼き:王都行きの規格幅で試作・麦茶:色札“×”の見本を掲示(恐れないために)
・堰板:子ども組、上げ下げ競(きそ)い
・灯り:雲↓星↓太陽、練習
 書き終えて振り返ると、ルディが立っていた。
 月明かりの下、影が畝の上に伸びている。
 彼は一歩だけ近づき、低く言う。
「――ありがとう、アリシア。帰ってきてくれて」
「畑が呼ぶから、ね」
「俺も、呼んだ」
 短い言葉の、短い尾。
 それ以上は、いらない。
 彼の肩の影が、私の影と重なり、白い壁にやわらかく一つになった。
「さあ、明日も畑から始めましょう」
 私が言うと、夜風が畝を撫で、乾いた麦の匂いが、ほんのり甘く香った。
(つづく)

第5話「税の影、薄焼きの旗」
 朝、白い共同倉の壁に、うっすらと金の帯が走った。
 陽が上がりきる前の、その一筋だけが“今日の火加減”を教えてくれる。
 私は晒し床を歩き、乾き具合を指で確かめ、粉台に回り、麦茶台で湯を見、薄焼き台の火を弱める。
 ……いつもの流れ。続けるための手順。
 ところが、その手順に、影が差した。
「王都の役人だ!」
 扇の隊長が丘の下を指さす。
 塵を蹴立てて、茶と黒の外套を着た一隊が上がってきた。先頭の男は、鼻の横に縦の深い皺。
 肌理の細かい革手袋が、剣ではなく、紙を握るためのものだと告げている。
「エルド辺境の共同倉はどこだ」
 彼は問いではなく、布告の調子で言った。
 私は一歩進み、白壁の前に立つ。
「私が“畑軍師”アリシア。――ご用件を」
 役人は唇を歪め、巻物を広げた。
「王都決裁書。新税“畑の税(ハルム)”を辺境にも適用する。収穫の一割を “王都倉”へ。納めぬ場合は“倉の私的蓄財”として没収の権限を得た」 ざわめきが走る。婆さまが半鍵に手をやり、爺さまが一歩前に出る。
 ルディは落ち着いて役人を見据えた。
「王都倉は王都で守れ。ここは共同倉が守る。――それが、こちらの返答だ」
「無知な辺境の掟を、国家に優先させる気か」
 役人の声には、わずかな愉悦が混じっている。
 “勝ち筋”を持ってきた男の余裕――紙一枚で人の暮らしを裏返せると思っている者の声だ。
「紙は乾くが、腹は待たない」
 私は一歩進み、ゆっくり告げた。
「“畑の税”なら、畑で払う。――粉と薄焼き、乾麺、麦茶の“公共分”を先に取り、公共労で差し引く。用水路の維持、堰板の修繕、路面の砂利敷き。
 『働き=税』で数字を晒す。板に“畑の税札”を立てるわ」
 役人は鼻で笑った。
「労を税に充てるだと? 国庫は穀で運ぶ。兵も官も食う」
「ええ。だから“確実な形”で出すの。薄焼き旗――規格幅で焼いて、十枚束を旗のように結ぶ。湿りを示す切れ込み付き。運べて、数えやすく、腐りにくい。
 兵站が欲しいのは“運びやすさ”。――王都は剣を持つけど、剣は薄焼きを焼けない。ここが焼く」
 ルディが短く笑い、扇の隊長が目を輝かせる。
 役人は眉をひそめ、紙をぱしりと叩いた。「規格は王都が決める。印は王都印だ」
「色札と波刻印で十分よ。――それに、数字は“板”に出すわ。民閲板“畑の税欄”。
 太陽の印の日:薄焼き旗◎百束、乾麺○五十束、麦茶△六桶。
 これを毎朝更新。王都の役人殿、ここに立って、市民監査日に答えて」
 静寂。
 役人の背後で、随員の若い文吏が一瞬だけ喉を鳴らした。
 “板の前に立つ”のは、言葉より厳しい。
 間違えば、翌日も同じ場所に立たねばならないから。
「……その“旗”とやら、見せてみろ」
 私は薄焼き台へ合図を送り、歌を切り替える。
 「火は弱く、風で強く」から「重ねて、結んで、旗に」に。
 薄焼きが規格の幅で焼かれ、十枚ずつ重ねられ、赤い紐で結ばれ、柄の棒に通される。
 重さは、片手で掲げられるぎりぎり。
 旗の耳には小さな切れ込み――湿りやすさを示す。
 役人が無言で受け取り、片手で掲げる。腕が、わずかに震えた。
「……悪くない」
 その言葉は誉め言葉ではなく、認可の端だった。
 私は、追い打ちをかける。
「旗は“◎”“○”“△”で束の色を変える。◎は軍用、○は市用、
△は加工へ回し、在庫は板に載せる。――在庫が見える税は、不正が割り込めない。
 『王都印』は、ここでは鍋の影と波型よ。剣でも偽れない」
 役人の視線が少し揺れた。
 彼は紙を巻き取ると、投げかけるような目つきで言った。
「……よかろう。だが“収穫の一割”は崩せぬ。旗に焼くか、袋で出すかはそちら次第だ。月末までにだ」
 月末、という言葉が風より冷たく肌を撫でた。
 たった二十六日。
 薄焼き旗も乾麺も、歌と段取りで回せるとして――倉は虫に耐えねばならない。
 私は頭のどこかで、別の“影”を思い出していた。
 ――小さな翅の音。白い壁に散る微細な穴。
 貯穀虫。
 昼下がり。
 私は親方の工房に駆け込んだ。
「石灰と灰、樟木(しょうぼく)の粉! 倉の床に撒くわ」
「虫の季節か」
 親方は真顔で頷き、棚から粉袋を引き出す。
「石灰は“息を奪う”。灰は“滑り”で足を止める。樟は“匂いで追い出す”。――混ぜ方、あるか?」
「比率は3:2:1。……それから、薄荷(はっか)油が手に入るなら、晒し布に染ませて倉の天井に吊る。風が“虫の鼻”を鈍らせる」
「鼻があるのか、虫に」「あるのよ、土の中に。――あ、冗談。比喩だけど、効くわ」
 親方は笑い、すぐに真面目に指示を飛ばした。
 倉の床に粉が均一に撒かれ、白い薄靄のように広がる。
 婆さまが咳をしたので、私は口覆いを渡し、窓を開け、風の道を作る。
 **“虫対策の歌”**を新しく作り、拍に合わせて粉を打つ。
 「撒いて、掃いて、踏んで、歌う」
 子どもが真似て粉を小さな手でつまむ。
 私は笑い、指先の粉をその子の額にちょんとつけた。
 白い点が、印のように光る。
「君は今日、“虫守”」
「むしもり!」
 新しい役が生まれるたびに、仕組みは固くなる。
 “人”が“壁”の形になるからだ。
 その日の夕暮れ、倉前で“畑の税欄”を板に増設した。
 〈畑の税〉
 ・薄焼き旗◎:二十束(兵食)
 ・乾麺○:十五束(市と交易)
・麦茶△:二桶(作業者配給)
・公共労:用水路補修・堰板手入れ・路面砂利――五十人分
 板の端に、王都の役人の名を書き、**“立会印”**の場所を空ける。「明日、市民監査日に役人殿がここに立てば、数字は“火加減”になるわ」
 扇の隊長が感嘆の息を漏らす。
「板が剣になる……いや、鍋の蓋だな」
「蓋は、火を抑えもするし、香りを閉じ込めもする。――使い方次第」
 ルディが笑って頷く。
「剣より難しいな」
 夜。
 小さな事務小屋で段取りをまとめていると、扉を叩く音。
 入ってきたのは、昼の役人に随伴していた若い文吏だった。
 帽子を脱ぎ、目を泳がせ、机の縁を握る。
「……叱られるのを承知で申し上げます。月末の“一割”は、**
“王都倉の空きを埋めるため”です。王都倉は今、空だらけなのに、
帳面では満杯。“紙の満杯”**を現実に合わせるために、辺境の数字を引っ張る」
 私は目を閉じ、一回深呼吸した。
 紙の満杯。
 ――数字に人を合わせさせる、最悪の火加減。
 彼は続ける。
「私は板の前に立つのが怖い。でも、今日の旗を見て……。
 あれが**“見える税”**なら、王都の“見えない満杯”は、いずれ負ける」
「あなたの名を、板に書いていい?」
 彼はびくりと肩を震わせ、逡巡し、やがて頷いた。
「……私の名で“立会印”を押す。明日の監査日に」
 私は小さな印章台を差し出し、彼の指を軽く導いた。
 赤い円が板の端に生まれる。
 紙ではない、板に刻まれる赤。
 その赤は、風でめくれない。
 翌日。
 監査日。
 白い壁の前、板の前、歌の前。
 王都の役人も立ち、若い文吏も立ち、村人も兵も隣国の従者までが立つ。
 私は段取りを貫き、数字を読み、旗を掲げ、薄焼きの耳をちぎって味を見せる。
 「火は弱く、風で強く」。
 麦茶を注ぎ、灰をひとつまみ落として渋味を斬る。
 見える手順を、見える税に変える。
 役人は終始無言だった。
 だが、若い文吏の赤い印が板に増え、村の少年の指が印の上をなぞり、婆さまが頷いた。
 それだけで十分だった。
 昼過ぎ、虫の影が本当に来た。
 倉の天井の白に、黒い点々。
 私は“虫守”の子に合図し、歌を切り替えた。
 「撒いて、掃いて、踏んで、歌う」。
 樟と灰と石灰の粉が雨のように舞い、薄荷の香りが走り、虫の翅が沈む。
 爺さまの半鍵が鳴り、扉が開く。
 風の道がつながる。
 虫の群れは、歌の中で消えた。
「勝ったな」
 ルディが小さく言う。
「戦は、こういう勝ちが一番良い」
 私は頷いた。
「声が残る勝ちね」
 その夜。
 薄焼き旗を束ね、第一便を王都へ送る。
 薄焼き旗◎二十束。乾麺○十束。麦茶△一桶。
 旗の柄には波刻印と鍋の影。束の結び目には赤い糸。
 運び手は兵と村の若者。
 先頭には扇の隊長。後方にはレオン。
 私は旗の先頭を一枚だけ抜き、王都印の代わりに、**“畑軍師の手袋”**で握って見せた。
 その手が“誰のための手か”を、旗が覚えるように。
「行って」
「おう!」
 掛け声が丘にひびき、旗が風を切った。
 薄焼きの旗は、剣より早く、剣より遠くへ、“税の形”を届けに行く。
 静かになった倉の前で、私は膝に両肘を乗せて息をついた。
 月が白壁に乗り、薄い影が揺れる。
 ルディが隣に来て、何も言わず木杯を差し出した。 蜂蜜水は少し薄く、けれど喉に正しい。
「……君の“税”は、俺の知ってる税じゃない」
「払うために続ける税。払えば痩せる税じゃなく、払っても太る税。
――畑の税は、畑の言葉で」
「王都は怒る」
「怒りは鍋の下へ。板の前へ。歌の横へ」
 そう言って笑うと、ルディは肩で笑い、少しだけ真面目になった。
「アリシア。……君の旗が、王都に届く前に、俺はもう一つ“旗” を立てたい」
「もう一つ?」
「“畑軍師任命書”。明日、紙を持ってくる。鍋の横で乾かそう。
――これは税にはならないが、君に払う」
 胸の奥で、ゆっくり火が鳴った。
 紙は増える。
 だが、鍋の横で乾く紙は、暮らしの道具になる。
「受け取るわ。返さないでいいなら、ずっと」
「返すな。俺の方こそ、返せない」
 沈黙。
 火加減はちょうどいい。
 白い壁に私たちの影が重なり、薄焼き旗の影が、その上を静かに揺らした。「――さあ、明日も畑から始めましょう。板を見て、歌を合わせて、旗を結ぶ」
 夜風が、やわらかく返事をした。
(つづく)

第6話「任命書、街道の灯」
 白い共同倉の壁に、朝の光が薄く広がる。
 晒し床で乾く乾麺が、風にさやさやと鳴いた。
 私は板の前に立ち、〈畑の税〉の欄に昨夕出立した薄焼き旗と乾麺束の数字を記す。
 旗◎二十束、乾麺○十束、麦茶△一桶――月末へ向けた一便目。
 板の端には、王都から来た若い文吏の赤い“立会印”。
 赤は朝露に濡れて、しかし色褪せない。
「アリシア」
 背後からルディの声。
 彼は丸めた紙束を胸に抱えていた。表紙の革には、鍋の影と波型の刻印。
 彼は紙を掲げて、少し照れくさそうに笑う。
「“畑軍師任命書”。……鍋の横で乾かそう」
 胸の奥で、やさしい鐘が鳴る。
 私は頷き、倉の影に据えた鍋の蓋を外した。
 湯気が紙に触れ、繊維がわずかに開く。
 文字を受け入れる準備をする紙の匂い――これは、私が最も好きな“式の香り”だ。
「読み上げる」
 ルディの声は、剣ではなく鍬の重さを持っていた。 “エルド辺境伯ルディオ・ヴァン・グリムは、当地の畑を守り育てる軍師として、アリシア・エルドを任ずる。以下の権限を与える ――倉・街道・堰板・市民監査・色札・歌の運用。紙は鍋の横で乾かすこと。”
 最後の一行に、私は小さく笑った。
 “紙は鍋の横で乾かす”――式文にしてはあまりに素朴だ。でも、この地にふさわしい。
「署名を」
 私は指先にインクを含ませ、ゆっくりと名を書く。
 ――アリシア・エルド。
 ルディも続け、鍋の影と波の刻印を押す。
 湯気が紙に触れ、インクが定着し、紙が乾いた。
「……畑軍師、任に当たる」
「お受けします。返さないでいいなら、ずっと」
 彼は頷き、視線を一瞬だけ逸らし、それからまた私を見た。
 言葉は短く、沈黙は良い火加減だった。
 任命式の直後、丘の下から鈴が駆け上がって来た。
 扇の隊長だ。顔に埃、肩に薄焼き旗の束を一本。
「街道茶屋、設え完了! “薄焼き旗の休み処”三カ所。旗の湿りを点検し、麦茶で喉を通す仕組み、運び手が自分で使えます!」
「よくやったわ。……“雲の日”は旗を寝かせ、“太陽の日”は裏返す。切れ込みの“耳”が湿っていたら、布で拭う」「合言葉は?」
「“雲↓星↓太陽”。灯りをその順に点滅させて、**“街道の灯(あかり)
”**にするの。夜間は灯で合図、昼間は旗の耳」
「了解!」
 街道に灯りが点けば、薄焼き旗は道そのものになる。
 税は“見える形”を得て、人を“続ける”方へ導く。
 昼、私は板に新しい欄を増やした。
 〈街道の灯〉
 ・一の灯(谷口):点灯、雲↓星↓太陽
 ・二の灯(森手前):点灯、雲↓星↓太陽
 ・三の灯(丘上):点灯、雲↓星↓太陽
 ・旗の湿り報告:二束/十束(雲の合図)
 “灯の番”は、**“星守(ほしもり)”**という新しい役にした。
 “種守”が未来のパンを守るなら、“星守”は道の息を守る。
 子どもが「星守! かっこいい!」と叫び、婆さまが笑って星の印を縫い付ける。
「守りは続くため」
 私は板の下に小さく書き足した。
 言葉は短く、けれど日々、目に触れる場所に置くこと――それが畑の“法”だ。
 午後、王都へ向かった第一便の使いが戻ってきた。
 息は上がり、頬が火照っている。
「門を通った! 王都の門番が“王都印がない”と渋ったが、“畑の税欄”の板写しと“立会印”を見せたら、若い文吏が通した。薄焼き旗は城の兵糧庫へ。**『軽くて数えやすい』と褒められたそうだ!」
 広場に歓声が走る。
 扇の隊長が跳ねるように笑い、私は胸を撫で下ろした。
 剣より早い旗が、紙より正しい板に支えられて、王都へ届いた。
 数刻ののち、王都の若い文吏本人が、埃をまとって現れた。
「市民監査日の立会、続ける。……それと王都広場にも“畑の税欄
”を作る。――見せてくれ、板の木取りと字の大きさ」
 私は図を描き、“王都仕様”の札の重さや、“人の波”の流れを読む立て位置を記した。
 王都は人が多い。数字が流れに溺れないよう、**“読み人”*
*を置く必要がある。
「“読み人”?」
「板の横で数字を声にして読み上げる人。――“耳への札”よ」
 彼は頷き、目を細めた。
「君の言う“耳”は、剣より強い」
「耳は鍋に蓋をしても聞こえるから」
 夕刻。
 私は“街道の灯”の一つ、森手前の茶屋を見に行った。
 粗い板壁、風が抜ける窓、梁から吊られた薄荷の布。
 棚には“麦茶の桶”と“布包みの塩”と“灰の壺”。 壁には**“旗の耳”の絵札**――湿りの見分け方、結び目の点検、旗の裏表。
 茶屋を預かるのは、かつて袋をやり直した若者だ。
 彼は胸に“雲”の札と“星守”の印をつけ、まっすぐに私を見た。
「ここ、俺の居場所です」
「うん。ここは、誰かの次の一歩のための場所」
 彼が旗の耳を示し、私は頷く。
 窓辺に刻んだ**“雲↓星↓太陽”**の小さな灯の段。
 夜になれば、順に灯がともる。
 歌に合わせて点滅すれば、人は間違えない。
 茶屋を出ようとしたとき、森の影から二つの人影。
 フードは深く、足取りは躊躇いなく速い。
 レオンが半歩前へ出て、静かに手を上げる。
 「止まれ」
 影のひとつが袖から小瓶を落とした。甘い匂い。
 粗製粉。
 私は茶屋の台を指で示した。
「ここで検見。舟でも袋でも、道で見せるの」
 木皿に水、匙で粉、落とす、透かす。
 黒い沈殿。
 若者の目がわずかに揺れ、星守の灯が雲↓星と点り、次の瞬間、太陽が灯った。
 レオンが二人の腕を取る。
 抵抗は薄く、足取りはほどけた。
「どうして混ぜるの」
 私の問いに、片方が唇を噛んだ。
「“王都倉が空だらけ”を埋める金が出るって……“雲の灯が三つともった時が合図”と……」
 私は息を呑んだ。
 雲↓星↓太陽の合図が**“雲だけ三つ”**に偽られた。
 “歌”の影を狙う手口。
 道具は、使う者を選ばない。ただ、場が選ぶ。
「今日はここで**“灯の読み合わせ”ね」
 私は板を取り出し、灯の順の図を描き直す。
 “雲↓星↓太陽”は“行け”。“星↓雲↓星”は“止まれ”。
 歌に二種の節をつけ、“行きの歌”と“待ちの歌”**を分ける。
 道で対策を増やす――これが畑のやり方だ。
 夜更け、共同倉に戻ると、白壁に灯りが揺れ、薄焼き旗の影がやわらかく踊っていた。
 私は板に〈街道の灯〉の“読み合わせ”を追加し、**“待ちの歌”**の節回しを書き付ける。
 そこへ、ルディが入ってきた。手に紙をもう一枚。
「……王都から返書。『薄焼き旗、兵糧として優良。ただし“王都印”は必要』」
「印は“立会”で押す。紙ではなく、板の横で。
 王都の広場の“畑の税欄”の前で、“読み人”が旗を数え、赤い立会印を押す。それが王都印でいい」 ルディは薄く笑い、紙を畳む。
「鍋の横で乾く印だな」
「ええ。風にめくれない印」
 彼は少し躊躇い、それから言葉を選ぶように口を開いた。
「……アリシア。任命書を読み上げるとき、手が震えた。剣の時は震えないのに」
「剣は一度。紙は毎日。――続ける方が、怖いの」
「君は、怖くないのか」
「怖いわ。だから、歌にする。図にする。札にする。……怖さを手順に変える」
 彼は深く頷き、手袋の上から私の手を、一瞬だけ握った。
 短い、でも確かな重み。
 “任せろ”ではなく、“一緒に続けよう”の重みだ。
 翌朝。
 王都からの使いが、王都広場の“畑の税欄”の絵写しを届けてきた。
 板は高く、文字は太く、横に**“読み人台”。
 若い文吏の赤い立会印が四つ、すでに並んでいる。
 彼の書き添え――“板の前で、剣より多くの人が足を止める”*
*。
 私はその一行を指で撫で、胸の奥に小さな灯をともした。
「耳への札、王都でも効いてる」 扇の隊長が肩で息をしながら走ってきた。
「街道の二の灯、狐火で紛らわされたが“待ちの歌”で止めた! 旗は濡れず、運び手は足を休められた!」
「よし。狐火も歌には勝てない」
 狐火は風の悪戯だ。
 でも、合図の歌があれば、人の足は惑わない。
 夕刻、第二便の旗束が組まれる。
 薄焼き旗◎二十五束。乾麺○十五束。麦茶△二桶。
 私は一本を抜き、**“畑軍師任命書”**の隣に立てかけた。
 紙と旗。
 どちらも鍋の横で乾いた。
「行って」
 運び手たちがうなずき、**“行きの歌”**を低く合わせる。
 雲↓星↓太陽。
 灯りが街道に連なる。
 レオンが私の横に立つ。
「……王都の“紙の満杯”は、君の旗で破れる」
「破るんじゃないわ。乾かすの。湿った紙は、鍋の横で」
 彼は笑い、少し真面目になった。
「君の比喩は、腹が減らない」
「なら、勝ちよ」
 夜。
 倉の前で、私は小さな板に〈明日〉を書いた。
 ・薄焼き旗:規格幅、耳の切れ込み、赤紐
 ・灯:“待ちの歌”の節回し練習
 ・茶屋:薄荷布の交換、灰の補充
 ・王都:読み人の節の送り、耳への札
 ・虫:石灰・灰・樟の配合3:2:1再確認
 書き終え、空を仰ぐ。
 星は手が届かない。
 でも、星守の灯は、手が届く。
「――さあ、明日も畑から始めましょう。旗を焼いて、灯をつけて、板を読む」
 夜風が、やわらかく返事をした。
(つづく)

第7話「王都の板、影の声」
 王都の朝は、鐘の音から始まる。
 城門の石畳を渡る靴音、商人の呼び声、荷車の軋み。
 だが、この日、広場の中心で人を立ち止まらせたのは――鐘ではなく一枚の板だった。
 〈畑の税欄(王都広場仕様)〉
 ・薄焼き旗◎二十束(兵糧庫)
 ・乾麺○十束(市場)
 ・麦茶△一桶(作業者用)
 ・公共労:水路補修二十人分、路面砂利三十人分
 読み人が声に出すたび、行き交う人々が足を止め、耳を澄ませた。
 「旗って何だ?」「麦で旗が立つのか?」「◎は軍の分、○は市の分……見える税?」
 噂は瞬く間に広がった。
 その頃、私は辺境の倉で板を更新していた。
 若い文吏が届けてきた便りにはこう書かれていた。
 “剣より多くの人が、板の前で足を止める”。
 私は指先でその文字をなぞり、胸に小さな炎を抱く。
 ――板は剣より強い。
 だが同時に、剣より脆い。声ひとつで揺らぐから。
 夜。
 王都広場に灯がともり、人がまだ板の前に集まっていた。
 その人混みの隙間に、一人の影。
 口元を布で覆い、声を落とす。
「旗は粉を隠す布。◎と○は作り話。……倉は“私的蓄財”。板は偽りの壁だ」
 低い囁き。だが、人は囁きに弱い。
 一人が耳打ちを広げ、二人目が眉を曇らせ、三人目が唇を噛む。
 影はそれを見て、広場を離れた。
 石畳の上に残るのは、不安の種。
 翌日、若い文吏が辺境に駆け込んできた。
 額には汗、手には筆跡の崩れた紙片。
「“板は偽り”という囁きが広場を回っている! 『見える税』が、逆に“見せかけ”だと……!」
 ルディが腕を組み、低く唸った。
「剣ではなく、声で攻めてきたか」
 私は深呼吸し、机の上に白紙を広げた。
「なら、声に返す。……“耳への札”を強めるの」
「耳への札?」
「読み人の声を“ひとつ”から“複数”にする。
 同じ数字を、農人・兵・商人が交互に読む。立場の違う声が揃えば、囁きより強い。
 それから、“味”を加える。麦茶をその場で注ぎ、灰を落として見せる。……声と味で、“続ける証”にするの」 文吏は目を丸くした。
「味を、証に?」
「ええ。声だけは影に似る。でも、味は真似できない。……“灰で渋味を斬る”のは、畑の証よ」
 三日後、王都広場。
 読み人は三人に増えていた。
 一人目――農人が、旗の数を読む。
 二人目――兵が、麦茶の桶を示す。
 三人目――商人が、公共労を声にする。
 そして、読み終えたあと、麦茶を注ぎ、灰をひとつまみ落とす。
 渋味が消えた一口を、誰もが順に飲む。
 「本当だ……」「渋くない」「旗と数字は、味で繋がってる」
 囁きは力を失い、笑い声が戻った。
 広場の端で、あの影は歯噛みし、暗闇に消えた。
 辺境の倉で、文吏が報告を読み上げる。
「……“声と味で、囁きは負けた”」
 私は胸に安堵を抱き、しかし同時に確信した。 影は剣でも紙でもなく、声を武器にしてくる。
 だから私たちは、声を歌に変えるしかない。
「ルディ。――“板歌(いたうた)”を作りましょう」
「板の数字を、歌に?」
「ええ。旗◎○△、公共労、読み上げを節にして。……声は影に似る。でも歌は影に似ない。続く声は、歌になるから」 彼は短く笑い、頷いた。
「歌に剣は勝てない。……やってみよう」
 夜。
 共同倉の前で、私は最初の旋律を刻んだ。
 「旗◎二十束、乾麺○十束、麦茶△一桶――公共労は五十人分」
 数字が節になり、リズムに変わる。
 子どもたちが真似し、老人が拍を打ち、若者が声を合わせる。
 板歌が、夜風に乗って流れていった。
 その時。
 倉の壁に映る影が、一瞬揺れた。
 見知らぬ背が窓に近づき、そして――すぐに消えた。
 私は胸の奥で静かに思う。
 影は来る。
 けれど、板も歌も、灯も旗も、人の形をしている。
 影より人が多ければ、畑は負けない。
「――さあ、明日も畑から始めましょう。板に歌を、声に味を」
 白い壁が月に光り、歌がゆっくりと夜を満たしていった。
(つづく)
第8話「逆節の囁き、契約の歌」
 王都広場で生まれた〈板歌〉は、たちまち街道へ広がった。
 旗を担ぐ若者が声を揃え、茶屋の星守たちが拍を刻み、村の子どもたちが覚えた節を口ずさむ。
 「旗◎二十束、乾麺○十束、麦茶△一桶――公共労は五十人分」 数字が歌になり、人々は笑いながら覚え、囁きに惑わされることは減っていった。
 だが――影は黙ってはいなかった。
 ある夜、街道の二の灯で、星守の子がふいに眉をひそめた。
「……歌が、違う」
 耳を澄ませば、林の向こうから別の節。
 「旗◎は隠し、乾麺○は倍に――△は虚ろ、労は嘘」
 逆節。
 数字を崩し、リズムをずらし、耳に不安を植える歌。
 若者の一人が「どっちを信じれば」と動揺し、旗の足が乱れた。
 だが、星守の子は小さな灯を掲げ、声を張った。
「本当の歌は――雲↓星↓太陽!」
 灯が順に点り、茶屋の扇隊長がすぐに拍を合わせた。
 本来の板歌が重なり、逆節は風に消えた。
 翌朝、星守の子が倉に駆け込んできた。
「アリシア様! 歌が……歌が偽られてます!」
 私は机に新しい板を置き、数字を書きながら答えた。「逆節は影の声。でも歌は契約にできる」
「契約……?」
 子どもたちが首をかしげる。
 私は赤い紐を取り出し、旗の耳に結んで見せた。
「歌を歌ったら、この紐に触れる。――声と手を結ぶの。歌が違えば、手も違う。声と手を合わせた歌だけが契約になる」
 ルディが頷き、補足した。
「剣の誓いは口で終わる。契約の歌は、声と手が揃わなければ成立しない。――これなら影は真似できない」
「じゃあ、板歌を……契約の歌に」
 扇の隊長がにやりと笑い、拳を握った。
 その夜。
 倉の前に集まった人々の前で、私は新しい歌を示した。
 「旗◎二十束――手を重ねよ」
 「乾麺○十束――紐を結べ」
 「麦茶△一桶――灰を落とせ」
 「公共労五十人分――灯を合わせよ」
 数字を歌い、所作を加える。
 声と手、灯と味。
 四つが揃ったときにだけ、歌は完成する。
 子どもたちは大喜びで覚え、老人は拍を刻み、若者は真剣に紐を結んだ。
 契約の歌が辺境に満ちていく。
 だが、影も動いていた。
 街道の三の灯で、逆節の囁きがまた流れた。
 「旗は隠す、麦茶は濁す、労は怠け、灯は偽り」
 だが、歌に合わせて紐を結ぼうとした瞬間――紐は結べなかった。
 灯も節と合わず、麦茶の渋味も残った。
 偽りは契約にならない。
 囁きを放っていた影は、苛立ちに小瓶を投げ捨てて消えた。
 だがその瓶が割れ、甘い匂いが立つ。
 粗製粉――まだ終わってはいない。
 王都から戻った文吏が、報告を差し出した。
「広場でも逆節が囁かれた。だが“契約の歌”を取り入れると、囁きは破れた。
 ――人々は言った。『声は影でも、手は影じゃない』」
 私は胸の奥で小さな灯を感じた。
 声と手、味と灯。
 それを結ぶことで、影の囁きは風に消える。
 夜更け、倉の前でルディが私に問う。
「アリシア。……君はなぜ、ここまで“続ける”仕組みにこだわる
?」
 私は少し黙り、それから答えた。
「前の世界でね。……“仕組みがなければ、どれほどの畑も一度で終わる”のを見たの。
 仕組みがあれば、人が変わっても、畑は続く」 彼は目を伏せ、そしてまっすぐに見返した。
「君自身は……続きたいのか?」
 胸の奥に、一瞬だけ熱が走った。 私は笑みで隠し、歌を口ずさむ。
「旗◎二十束――手を重ねよ」
 ルディは短く笑い、私の手袋の上から、静かに手を重ねた。
 契約の歌は、影の囁きよりも確かに響いていた。
(つづく) 
第9話「祭りの板歌、逆契約の影」
 王都の広場に掲げられた〈畑の税欄〉の前で、人々が自然に声を合わせ始めた。
 「旗◎二十束――手を重ねよ」
 「乾麺○十束――紐を結べ」
 「麦茶△一桶――灰を落とせ」
 「公共労五十人分――灯を合わせよ」
 板歌は、数字を唱えるだけのものから、祭りの歌へと変わりつつあった。
 露店の娘はパンを焼きながら節を口ずさみ、兵は槍を肩に拍を踏み、子どもは紐を指に結びながら走り回る。
 歌は広がり、囁きは届かない。
 王都の若い文吏が辺境に便りを寄せた。
 “人々が自ら歌い、板の前が広場ではなく祭場のようになっている”
 一方で、影は次の手を打っていた。
 ある夜、街道の茶屋に奇妙な一団が現れた。
 彼らは「契約の歌を共に歌おう」と言い、紐を結び、灯を点けた。
 だが、その節は微妙に違っていた。
 「旗◎三十束――手を縫い留めよ」
 「乾麺○二十束――紐を絞めよ」
 「麦茶△二桶――灰を盛れ」
 「公共労百人分――灯を消せ」
 逆契約。
 数字を誇張し、所作を歪め、灯を闇へ導く。
 茶屋の星守の子は一瞬ためらい、紐を強く引かれかけた。
 だが、そこに居合わせた扇の隊長が即座に歌を変えた。
 「旗◎二十束――手を重ねよ!」
 「乾麺○十束――紐を結べ!」
 拍が正され、灯が正しい順に戻り、逆契約は破れた。
 一団は舌打ちをし、小瓶を置いて闇に消えた。
 割れた瓶からは、甘い匂い――粗製粉。
 報せを受けて、私は板に新しい欄を増やした。
 〈逆契約への備え〉
 ・歌の節を二重に(本節/守節)
 ・紐は必ず二人で結ぶ
 ・灯は「雲↓星↓太陽」のみ有効。他の順は逆契約
 ・麦茶は必ず灰を目の前で落とす
 「これで影は真似できない」
 そう言うと、ルディが頷き、低く言った。
 「だが、逆契約を仕掛ける影の狙いは“契り”だ。……声と手をねじ曲げ、偽りの婚礼のように縛る。――君と俺に、次はもっと直接来る」
 胸の奥に小さなざわめきが走る。
 婚礼。契約。……私とルディ。
 私は視線をそらし、板にさらなる言葉を書いた。
 “真の契約は、心が揃って初めて結ばれる”
 その夜。
 共同倉の前で板歌を合わせていたとき、影の囁きが耳に届いた。
 「婚礼の契約は、声と手だけで足りる。心は不要だ」
 冷たい声。
 けれど、ルディが私の手袋の上に静かに手を重ねた。
 「心がなければ続かない。剣は一度。……俺は“続けたい”」
 胸の奥で、熱が灯る。
 私は囁きに向け、静かに歌った。
 「旗◎二十束――手を重ねよ。
  乾麺○十束――紐を結べ。
  麦茶△一桶――灰を落とせ。
  公共労五十人分――灯を合わせよ」
 声と手と心が揃った瞬間、囁きは風に散った。
 翌朝。
 王都の広場では、板歌が完全に祭りの歌になっていた。
 人々は手を取り合い、紐を結び、灯を掲げる。
 契約は影ではなく、人と人の間に。
 ルディが私の肩に手を置き、低く言った。
 「……アリシア。俺たちも、“婚礼の契約”を結ぶ日が来るかもしれない」
 胸の奥に甘く重い鼓動が広がる。
 だが私は笑って返す。
 「そのときは、歌にしましょう。二人の契約の歌を」 ルディは頷き、笑みを深めた。 板歌の調べが、朝の光に溶けていった。
(つづく) 
第10話「板歌祭と王権の影」
 王都の朝は、鐘の音とともに広場へ人が集まった。
 だが今日は特別だ。広場中央に掲げられた〈畑の税欄〉の前には、色鮮やかな布飾り、木の仮設舞台、街路に吊るされた灯火の列。
 板歌祭――王都初の祭りだ。
 民の提案でも、王命でもない。
 板の前に足を止め、歌を覚え、声を重ねた人々が、自ら「祭りにしよう」と決めたのだ。
 兵士たちでさえ槍を布で飾り、商人は屋台に旗型のパンを並べ、子どもは手を赤紐で結んで走り回る。
「旗◎二十束――手を重ねよ!」
「乾麺○十束――紐を結べ!」
「麦茶△一桶――灰を落とせ!」
「公共労五十人分――灯を合わせよ!」
 声が波のように広場を包み、数字が歌になり、祭りの鼓動となる。
 私はその報せを辺境の倉で聞きながら、胸の奥に温かい炎を抱いた。
辺境の倉にて
 文吏が持ち帰った報告にはこうあった。
 “板歌は祭りに昇華した。王都の民は自らの数字を誇りとし、旗を掲げて踊っている”
 私は板の端に小さく書いた。
 “数字は民の舞台になる”。
 だが同時に、もうひとつの報せが届いた。
 “影が王権を名乗った”。
 王都広場に、黒衣の一団が現れたという。
 口上はこうだ。
 「王権の名において命ずる。板歌は廃し、王都倉の印を掲げよ。
数字は余の帳簿に従え」
 ――剣ではなく、王権をかたり、契約を奪おうとする影。
 私は震える手で筆を走らせ、板に書き足した。
 〈影の狙い〉 ・板を廃する
 ・王都倉の印を掲げる
 ・数字を帳簿に吸い上げる
 「……来たわね」
 ルディが肩で笑った。
 「影が剣でなく“王権”を騙るとは。……だが、板は剣に勝った。
なら王権にも勝てるはずだ」
王都広場 ― 板歌祭当日
 舞台の上で読み人たちが声を揃える。
 農人、兵、商人――三つの立場が同じ数字を歌う。
 人々は手を重ね、紐を結び、灯を掲げる。

 契約の歌は、広場を大きな一つの倉に変えていた。
 だがそこに、黒衣の一団が歩み出た。
 胸に銀の徽章を掲げ、口々に叫ぶ。
 「王権の名において命ずる! この祭りは無効! 板は偽り! 契約の歌は反逆!」
 広場がざわめく。
 人々は動揺し、歌が乱れそうになる。
 その瞬間、読み人の一人――若い兵が声を張った。
 「王権が本物なら、板歌を歌え!」
 広場が静まり返る。
 黒衣の一人が嘲るように歌い始めた。
 「旗◎三十束――手を縫い留めよ」
 「乾麺○二十束――紐を絞めよ」
 逆契約だ。
 紐は人を結ぶのではなく締め上げ、灯は闇を呼ぶ。
 囁きに似た歌に、人々の耳が惑わされかける。
契約の歌で返す
 私は広場に出ることを決めた。
 舞台に立ち、声を放つ。
 「旗◎二十束――手を重ねよ!」
 「乾麺○十束――紐を結べ!」
 「麦茶△一桶――灰を落とせ!」
 「公共労五十人分――灯を合わせよ!」 手を取り、紐を結び、麦茶を注ぎ、灰を落とし、灯を順に点す。
 所作が揃ったとき、歌は力となる。
 人々も次々と声を合わせ、逆契約は掻き消された。
 黒衣の一団は狼狽し、銀の徽章を掲げて叫んだ。
 「これは王権の印ぞ! 逆らえば反逆罪!」
 そのとき、広場の端から若い文吏が走り出た。
 赤い印を掲げ、声を張る。
 「王権はここにある! ――立会印だ! 板の横で押された、この赤こそ本物!」
 群衆がどよめき、黒衣の声は掻き消された。
婚礼の歌に似て
 影が退いたあと、広場は再び歌に満ちた。
 だがその歌には、以前よりも甘やかな調べが混じっていた。
 紐を結ぶ手は、まるで婚礼のように。
 灯を合わせる所作は、誓いのように。
 ルディが私の手袋の上にそっと手を置き、低く囁いた。
 「……アリシア。契約の歌は婚礼に似ているな」
 胸が熱くなる。
 けれど私は笑って返す。
 「婚礼の歌は、数字じゃなくて、心の節よ」 ルディは短く頷き、視線を逸らした。 その頬に、祭りの灯が柔らかく揺れていた。
影の去り際
 広場を去る黒衣の背中を、私は目で追った。
 影は剣でなく、王権でなく、囁きでなく――次は何を使うのだろう。
 だが一つだけ確信がある。
 板と歌と契約が揃えば、影は続かない。
 私は心の奥で誓う。
 「――さあ、明日も畑から始めましょう。歌を板に、灯を道に、契約を心に」
 夜風が返事をし、祭りの歌が、王都の夜を包み込んでいった。
(つづく)

第11話「歌貨と婚礼の調べ」
Ⅰ 王都からの報せ
 王都の若い文吏が再び辺境の倉を訪れた。
 馬車の帆布をめくると、中から現れたのは――銀色に輝く小さな円盤。
「……これが、“歌貨”だ」
 彼の声はわずかに震えていた。
 円盤には数字ではなく、板歌の節が刻まれていた。
 “旗◎二十束”“乾麺○十束”“麦茶△一桶”――短く切った旋律を刻印し、揺らすと微かな音がする。
「影の者どもが王都の市に流し始めました。……歌を貨幣に偽装し、広場で板歌を聞いた人々を惑わせようとしているのです」
 私は円盤を手に取り、耳に寄せた。
 確かに音は似ている。だが――微妙に節が違う。
 「旗◎三十束」と誇張し、「公共労百人分」と膨らませる。
 逆契約の延長だ。
Ⅱ 倉での議論
 倉に集まった人々の前で、私は円盤を掲げた。
「影は“貨幣”を真似てきた。……でも、貨幣は“信”の形。歌を偽れば、信を壊す」
 ルディが腕を組み、低く唸る。
「貨幣は剣より厄介だ。剣は一度、貨幣は毎日。……どう止める?」
 私は板に新しい案を書きつけた。
 〈歌貨への対策〉
 ・数字を変えぬ歌貨を発行する
 ・契約の歌に合わせ、所作を組み込む
 ・貨幣は“声”だけでなく“手”を必要とする
 「歌貨を否定するのではなく、“正しい歌貨”を作るの。
 ――一枚ごとに穴を開け、赤紐を通す。二人で紐を結んで初めて使える貨幣。
 **“契約貨”**よ」
 ざわめきが広がる。
 扇の隊長がにやりと笑い、紐を指に巻いた。
「紐を結ぶたびに歌う。……これなら影は真似できねぇな」
Ⅲ 王都広場にて
 数日後。
 王都の広場に、新しい貨幣“契約貨”が披露された。
 板歌を背景に、読み人が示す。
 「旗◎一束分――赤紐を二人で結んで、声を合わせよ!」
 農人と兵が一緒に紐を結び、歌を唱える。
 貨幣が人から人へ渡るたび、歌と所作が必ず伴う。
 影が流した“偽の歌貨”は、声だけ。紐も所作もない。
 すぐに見分けがついた。 群衆は「これが本物だ」と納得し、偽貨は市場から弾かれていった。
 王都の若い文吏が息を吐き、私に言った。
「……やはり、“所作”を加えるのが決め手でした。影は声を真似できても、心の手は真似できない」
Ⅳ 婚礼の調べ
 その夜。
 辺境の倉に戻り、私は疲れを抱えたまま灯火を眺めていた。
 ルディが静かに隣に腰を下ろす。
 「……君の歌貨は、婚礼に似ているな」
「婚礼?」
「二人で手を結び、声を合わせ、契約を立てる。……それは婚礼そのものだ」
 胸の奥が熱を帯びる。
 私は思わず歌を口ずさんだ。
 「旗◎二十束――手を重ねよ。
  乾麺○十束――紐を結べ」
 ルディが続ける。
 「麦茶△一桶――灰を落とせ。
  公共労五十人分――灯を合わせよ」
 声が重なった瞬間、灯火がゆらぎ、影が消えるように夜が澄んだ。
 歌は、契約であり、誓いでもあった。
Ⅴ 影の去り際
 その静けさを破るように、倉の壁に影が一瞬揺れた。
 囁きが微かに響く。
 「心は不要……手と声で十分」
 私は即座に立ち上がり、返した。
 「心がなければ、契約は続かない。剣は一度。貨幣も一度。―― でも心は、毎日だ」
 ルディが隣で剣を抜いたわけではない。ただ、私の手袋の上に手を重ねた。
 その温もりが、何よりの剣より強い返答だった。
 影は囁きを残して去った。
 「ならば、次は“心”を偽ろう」
Ⅵ 新しい誓い
 影が消えたあと、私は深く息を吐き、ルディに向き直った。
 「……心を偽ろうとするなら、私たちは“心を歌に”するしかない」
 ルディは頷き、少し照れたように微笑んだ。
 「なら、二人で作ろう。婚礼の歌を」
 胸の奥が震えた。
 恐れもある。だが、恐れを手順に変えるのが私の役目だ。
 私は静かに答えた。
 「ええ。……明日から畑を始める前に、一節ずつ、作りましょう」 夜風が倉を撫で、白い壁に二つの影が重なった。
 歌はまだ形になっていない。
 けれど、その調べは確かに始まっていた。
(つづく)

第12話「仮初めの婚礼、真実の歌」
Ⅰ 影の仕掛け
 王都の広場に、不気味な噂が広がり始めた。
 「板歌を婚礼の儀に使えば、簡易に結婚が成る」――。
 影が流したその言葉は、若者たちの心をくすぐった。
 「声を合わせ、紐を結び、灯を掲げれば婚礼成立だ」
 恋に急ぐ者、財を狙う者、軽い心で試す者。
 広場では、赤紐を結んで灯を点すだけの“仮初め婚礼”が次々と行われていった。
 翌朝、王都の文吏が辺境に駆け込んで来た。
 「アリシア様! “婚礼の歌”が……偽られています! 赤紐ひとつで夫婦だと……!」
 私は頭を押さえた。
 「影の狙いは“心の空洞化”ね。……契約の歌を、ただの形式に落とそうとしている」
Ⅱ 倉での対策会議
 倉に集まった人々の前で、私は板に新しい欄を書いた。
 〈仮初め婚礼への備え〉
 ・紐は必ず“三結び”
 ・歌は四節を必ず全て唱和する
 ・婚礼には“心を証す節”を追加する ルディが顎に手を当て、低く呟いた。
 「“心を証す節”……どう作る?」
 私はしばらく黙り、そして言った。
 「嘘がつけない言葉を歌にすればいい。畑の収穫を偽れないように、人の心にも“嘘がつけない実り”がある」
 扇の隊長が頷き、口を挟む。
 「たとえば“共に食べる”だな。……一緒に口に入れれば、心を偽れねえ」
 私は筆を走らせた。
 “灰を落とした麦茶を共に飲む”――これを婚礼の証にする。
Ⅲ 王都広場の混乱
 その頃、王都広場では仮初め婚礼が横行していた。
 若者が赤紐を結び、軽々しく「夫婦だ」と叫ぶ。
 だが数日もすれば揉め事が絶えなかった。
 「心が通っていない!」
 「紐を解け!」
 広場は訴えで溢れ、板歌そのものへの信頼が揺らぎかけていた。
 そこへ私とルディが到着した。
 舞台に上がり、私は声を張る。
 「板歌は遊びではありません! 婚礼の歌は、心を証すものです
!」
 群衆がざわめき、影の囁きが混じる。 「形式で十分」「心は不要」――。
Ⅳ 真実の歌を示す
 私は赤紐と麦茶を舞台に置き、ルディに向かって言った。
 「……試してみましょう。私たちで」
 ルディが驚いたように目を見開く。
 だが、すぐに静かに頷いた。
 私は深く息を吸い、歌を口にした。
 「旗◎二十束――手を重ねよ」
 「乾麺○十束――紐を結べ」
 「麦茶△一桶――灰を落とせ」
 「公共労五十人分――灯を合わせよ」
 そして最後に、新しい節を加えた。
 「灰を落とした麦茶を、共に飲め」
 杯を二つに分け、ルディと私が口をつける。
 喉を通る温かな味。灰で渋味が抜け、麦の甘さが広がる。
 群衆が息を呑み、そして拍手が湧き上がった。
 「心が……ある!」
 「これが本物の婚礼の歌か!」
Ⅴ 影の退き際
 広場の端で、黒衣の影が歯噛みした。
 「……心を歌にするとは……」 そして闇に溶けるように姿を消した。
 だが、去り際の囁きが耳に残る。
 「心を偽れぬなら、夢を偽ろう」
 私は胸の奥で冷たいものを感じた。
 影は次に“夢”へと向かうのだ。
Ⅵ 二人の影と光
 夜、倉に戻った私とルディは、静かな灯火の下で向き合った。
 彼がふと、真剣な声で言う。
 「……アリシア。君と歌った瞬間、俺は本当に婚礼を結んだ気がした」
 胸が震える。
 私は笑みで隠しつつ、答えた。
 「まだ途中よ。婚礼の歌は……明日から畑で少しずつ育てましょう」
 ルディは短く笑い、手を差し伸べた。
 私はその手に自分の手を重ねる。
 白い倉の壁に映った二つの影が、ひとつに寄り添った。
(つづく)
第13話「夢の収穫、現の歌」
Ⅰ 夢の囁き
 王都の広場で、奇妙な噂が流れ始めた。
 「昨夜、夢の中で畑が黄金に満ちていた」
 「見たのは私もだ! 麦が無限に穂をつけ、倉に収まりきらぬほどだった!」
 だが目覚めれば、畑は荒れたまま。
 人々は落胆し、「現(うつつ)の畑は夢に及ばぬ」と嘆く声が広がった。
 影は、人々に幻の収穫を見せ、現実への信を削ごうとしていたのだ。
Ⅱ 倉での報告
 若い文吏が駆け込んで来た。
 「アリシア様! 王都の民が“夢の畑”を口々に語っています。
影が幻を見せているのです!」
 私は眉を寄せ、板に書きつけた。
 〈影の狙い〉
 ・夢を用いて現を否定する
 ・幻の収穫で人心を奪う
 ・倉と畑の信を崩す
 ルディが低く言う。 「夢は剣より厄介だ。剣は切れるが、夢は心に残る」
 私は頷き、静かに答えた。
 「ならば、“夢と現を結ぶ歌”が必要ね。……夢だけでは終わらず、現とつなげる節を」
Ⅲ 夢と現の歌
 倉の前で、私は人々に向かって歌を示した。
 「夢は灯――やがて消える
  現は土――芽を抱く
  夢を語り、現を耕せ
  両の手で――歌を結べ」
 子どもたちが最初に覚え、老人がゆっくり拍を打ち、若者が声を重ねる。
 夢を否定せず、現に繋げる歌。
 「夢で見た黄金の麦は、明日の種になる。
  現の畑に蒔けば、やがて本当の収穫になる」
 その言葉に、人々の瞳が光を取り戻していった。
Ⅳ 影の逆襲
 だが影も負けじと囁く。
 「夢だけで満たされる。現は苦しい。夢に留まれ」 その囁きを打ち消すように、私は声を張った。 「夢は種、現は土。夢に留まれば種は腐る! 現に蒔けば芽吹く
!」
 人々が一斉に土を掴み、夢で見た黄金を心に重ねながら、畑に種を蒔いた。
 囁きは土の中に吸い込まれ、静かに消えていった。
Ⅴ 二人の影と歌
 夜、倉の灯火の下で、ルディが私に言った。
 「君の歌は……夢を否定しないんだな」
 私は頷いた。
 「夢を否定すれば、人は立てない。……でも夢だけでは歩けない。
  夢は光、現は影。両方あってこそ畑は続く」
 ルディが笑みを浮かべ、杯を掲げた。
 「なら、俺たちの婚礼の歌にも“夢”を入れよう。夢と現を結ぶ節を」
 胸が震えた。
 私は小さく歌った。
 「夢を語り、現を耕せ――」
 ルディが続ける。
 「両の手で――歌を結べ」
 声が重なり、夜風が倉を包む。
 影の囁きは、その調べに混ざることなく、遠ざかっていった。
Ⅵ 新たな始まり
 翌朝、王都の広場には新しい板が掲げられた。
 〈夢の欄〉
 ・夢に見た黄金の麦 = 明日の種
 ・夢に見た満ちた倉 = 現の労で満ちる
 ・夢に見た灯 = 現の歌で続く
 群衆は板を見て頷き、再び畑に向かった。
 夢と現が結ばれ、人々は笑顔を取り戻す。
 私は心の奥で誓った。
 「影がどんな偽りを仕掛けても、夢を現に変える歌で返す」
 ルディの横顔に視線をやり、静かに呟いた。
 「婚礼の歌も……夢と現を結ぶ歌にしましょう」
 彼は頷き、微笑んだ。
 「なら、もう始まってるな」
 白い倉の壁に映る二つの影が、ゆるやかに寄り添い、夜明けの光に溶けていった。
(つづく)
第14話「記憶の影、記録の歌」
Ⅰ 記憶の揺らぎ
 王都の文吏が慌ただしく辺境の倉に駆け込んできた。
 「アリシア様! 広場で“去年の収穫はなかった”と叫ぶ者が現れました!」
 私は目を見開いた。
 「去年の? そんなはずは……」
 去年、私たちは確かに麦を収め、麦茶を酌み交わし、契約の歌を響かせた。
 けれど群衆の中には、「そんな収穫はなかった」と信じる者が現れているという。
 影が“記憶”を偽り始めたのだ。
Ⅱ 倉での議論
 板の前に人々が集まった。
 私は声を張り、問いかける。
 「去年の収穫を覚えている人は?」
 何人もの手が挙がる。
 「俺は麦を刈った!」
 「私は灰を落として麦茶を飲んだ!」
 「子どもと旗を振った!」
 だが同時に、別の声も上がった。
 「いや、そんなことはなかった!」
 「倉は空だったはずだ!」
 記憶が食い違い、声が乱れ、広場はざわめいた。
 影は夢ではなく、過去そのものを歪めている。
 ルディが低い声で言った。
 「記憶は脆い。夢より深く、人より強く。……どうやって抗う?」
 私は震える手で板に新しい欄を書きつけた。
 〈記憶の影への備え〉
 ・記憶は声に留めず、板に刻む
 ・歌と板を重ね、記録の歌にする
 ・記録を更新するたび、全員で唱和する
Ⅲ 記録の歌
 私は新しい歌を示した。
 「去年の旗――二十束
  倉の麦茶――一桶
  共に飲み――歌を重ね
  記録残せ――板と声」
 子どもが声を上げ、老人が拍を打ち、若者が板の数字を指差しながら歌う。
 記憶は人ごとに揺らぐ。だが記録は揺らがない。
 歌に記録を組み込み、記憶を補う。
 これが「記録の歌」だ。

Ⅳ 影の囁き
 だが影も負けじと囁く。
 「板は偽れる。記録は塗り替えられる。声より紙の方が脆い」
 人々が一瞬、不安に揺らぐ。
 そのとき、ルディが剣を掲げ、広場に響く声で言った。
 「ならば記録を守るのは剣ではなく、契約だ! 偽りの板には、歌が合わぬ!」
 私は続けた。
 「板を偽れば、歌と灯と味が崩れる。影には再現できない!」
 群衆はうなずき、再び歌った。
 「去年の旗――二十束
  倉の麦茶――一桶
  共に飲み――歌を重ね
  記録残せ――板と声」
 声と板と所作が揃い、囁きはかき消された。
Ⅴ 個人的な記録
 夜、倉の灯火の下で、私は小さな木札を取り出した。
 そこには、私とルディが初めて契約の歌を歌った日の数字と所作が刻まれている。
 私は静かに囁いた。
 「……これが、私たちの記録」 ルディが木札を見つめ、短く笑った。
 「なら、俺も残す。……“アリシアと共に歌った日”ってな」
 胸の奥が熱くなる。
 記憶は揺らぐかもしれない。
 だが、この木札があれば、揺らいでも戻せる。
Ⅵ 婚礼の歌への歩み
 ルディが不意に真剣な声を出した。
 「……婚礼の歌も、記録にすべきじゃないか?」
 私は驚き、彼を見た。
 「婚礼の歌を……記録?」
 「心は偽れない。けど、人は忘れる。……だから“記録の婚礼” が必要だ」
 胸が震えた。
 私は木札を握りしめ、小さく答えた。
 「……ええ。婚礼の歌を、板に刻みましょう。夢も、現も、記憶も、全部結ぶ歌に」
Ⅶ 影の退き際
 倉の外で風が鳴った。
 影の囁きが微かに響く。
 「記録も燃やせば消える。心を偽れずとも、形は消える」 私は胸を張り、声を返した。 「記録は板に、歌に、人に刻む。……燃えても、歌があれば戻る
!」
 ルディが私の手を取り、重ねた。
 「君と俺が歌えば、記録は続く。……それが剣より強い証だ」
 白い倉の壁に映る影は二つ。
 寄り添いながら、ゆっくりと夜に溶けていった。
(つづく)

第15話「偽りの予言、予祝の歌」
Ⅰ 偽りの未来
 王都広場で、不気味な囁きが広がっていた。
 「来年は飢饉が訪れる」
 「倉は空になり、畑は枯れる」
 「板の数字は尽き、歌は沈黙する」
 影は未来を偽り、人々の胸に不安を植え付けていた。
 過去を歪め、夢を偽り、ついに未来までも奪おうとしているのだ。
 王都の文吏が息を切らせて辺境に駆け込んだ。
 「アリシア様! 広場の群衆が“未来は暗い”と怯えています!
 影が“偽りの予言”を叫んでいるのです!」
 私は胸の奥に冷たいものを感じつつも、深く息を整えた。
 「……未来はまだ来ていない。なら、偽りにも真にもできる。―
―だからこそ、歌で“結ぶ”しかない」
Ⅱ 倉での会議
 倉に集まった人々はざわめいていた。
 「飢饉が来ると本当に……?」
 「影の声が、まるで真実のようで……」
 ルディが剣の柄に手を置き、低く言った。
 「未来は剣でも切れない。だが、歌なら……?」 私は板に大きく文字を書いた。
 〈予祝(よしゅく)の歌〉
 ・未来を恐れるのではなく、未来を祝う
 ・“明日の収穫”を先に歌い、現の畑に刻む
 ・未来の歌を記録し、契約として残す
 「影が“未来を奪う”なら、私たちは“未来を祝う”。
 ――これが〈予祝の歌〉よ」
Ⅲ 予祝の歌
 私は人々の前に立ち、声を放った。
 「来年の旗――揺れる二十束
  倉の麦茶――満ちる一桶
  共に飲み――笑みを交わす
  未来祝え――声と灯」
 人々が驚いたように顔を見合わせる。
 まだ来ていない未来を、あたかも成ったかのように歌う。
 しかし声を合わせるうちに、胸の奥に灯がともっていった。
 「そうだ、来年も旗は揺れる」
 「倉は満ちる」
 「笑える」
 影の囁きは、「飢饉」という言葉を失い、風に薄れていった。
Ⅳ 影の逆襲
 だが影もただでは退かない。
 「祝えば叶う? 笑えば満ちる? ――それは愚か者の夢想だ」
 未来を祝う歌を“根拠なき楽観”と嘲り、再び群衆を揺さぶる。
 私は声を張った。
 「祝うだけでは足りない! 歌を現に刻むのです!」
 私は畑に立ち、鍬を振り、麦の種を蒔く。
 その一つ一つに声を重ねる。
 「来年の旗――揺れる二十束!」
 人々も次々に畑に入り、歌いながら土を打ち、種を蒔く。
 予祝が労へと変わる瞬間だった。
 影は言葉を失い、闇に溶けていった。
Ⅴ 婚礼の歌に未来を
 夜、倉の灯火の下。
 ルディが私の隣に座り、静かに言った。
 「……君の歌は、本当に未来を作るんだな」
 私は微笑んで答えた。
 「未来は恐れれば影に奪われる。でも、祝えば手に入る。……婚礼の歌も、未来を祝う歌にしましょう」
 ルディが目を見開き、そして小さく笑った。
 「婚礼の歌に、未来を……。つまり、俺と君の未来を祝う歌か」
 胸の奥が熱くなる。
 私は小さな声で節を口にした。
 「来年の灯――共に掲げ
  来年の杯――共に酌む」
 ルディが続ける。
 「来年の歌――共に響け
  来年の契――共に結べ」
 声が重なり、未来を結ぶ調べが倉を満たした。
Ⅵ 影の退き際
 その時、外で風が鳴り、影の囁きが微かに届いた。
 「未来を祝っても、死は奪う。……命を偽れば、歌は沈む」
 私は深く息を吸い、静かに返した。
 「死があっても、歌は残る。……人が消えても、契約は続く」
 ルディが私の手に自分の手を重ね、低く囁いた。
 「なら俺たちは、死すらも“未来の節”にしてやろう」 影は一瞬、沈黙し、やがて風に散った。
Ⅶ 新たな始まり
 翌朝、王都広場の板に新しい欄が刻まれた。
 〈未来の欄〉
 ・来年の旗 = 揺れる二十束
 ・来年の倉 = 満ちる一桶
 ・来年の杯 = 共に酌む
 ・来年の歌 = 共に響く 人々は板を見て笑い、歌を重ねた。
 未来を恐れる声は消え、広場は祝祭のように明るさを取り戻した。
 私は心の奥で誓う。
 「影が偽るなら、私は歌で結び直す。過去も、夢も、記憶も、未来も」
 ルディが隣で微笑み、静かに言った。
 「……次は、“死”かもしれないな」
 胸の奥が震える。
 けれど私は笑って返した。
 「死も、歌にしてしまえばいい。――“死を結ぶ歌”を」
 倉の白い壁に映る影は二つ。
 寄り添いながら、未来の灯を照らしていた。
(つづく)

第16話「死者の囁き、命結ぶ歌」
Ⅰ 死者の声
 王都の広場に、不気味な囁きが流れた。
 「去年死んだはずの父が、私に呼びかけた」
 「病で逝った子が、夢の中で『倉を棄てろ』と囁いた」
 人々は顔を青ざめさせ、板の前に集まっては怯えた。
 影がついに死者の声を偽り、群衆を揺さぶっていたのだ。
 若い文吏が駆け込んで来た。
 「アリシア様! 人々が“死者に従わねば祟られる”と恐れています!」100
 私は拳を握りしめた。
 夢も記憶も未来も偽られ、今度は死まで奪おうとする。
 「……なら、“死を結ぶ歌”を作るしかない」
Ⅱ 倉での会議
 倉の板の前に、人々が集まった。
 「死者に囁かれたんです!」
 「“倉を空にせよ”と!」
 声が乱れ、恐怖が広がる。
 ルディが前に進み出て、低く言い放った。
 「死は戻らない。剣でも呼び戻せない。……だが、歌なら?」 私は深く息を吸い、板に新しい欄を書いた。
 〈死を結ぶ歌〉
 ・死を恐れるのではなく、命と続きを歌う
・死者は声ではなく“記録”で残す
・倉の麦茶を墓前に注ぎ、歌を唱和する
 「死者の声に従うのではなく、死者と共に歌うのです」
Ⅲ 死を結ぶ歌
 私は舞台に立ち、人々に示した。
 「逝きし旗――倉に刻め
  共の声――板に残せ
  灰の麦茶――墓に注げ
  命続け――歌を結べ」
 人々が涙を流しながら声を重ねる。
 死者の名を板に刻み、共に歌うことで、声は恐怖ではなく絆に変わった。
 影の囁きは力を失い、風にかき消された。
Ⅳ 影の逆襲
 だが影は最後の一手を放った。
 「死は契約を断つ。死んだ者の誓いは無効だ。婚礼も、命も、続かぬ!」
 広場がざわめき、誰もが言葉を失った。 私は拳を強く握り、声を張り上げた。
 「死で契約は終わらない! ――倉に刻まれた歌が証です!」
 私は板に指を置き、強く歌った。
 「逝きし旗――倉に刻め!」
 群衆が続く。
 「共の声――板に残せ!」
 「灰の麦茶――墓に注げ!」
 「命続け――歌を結べ!」
 声が重なり、死を越える歌が広場を満たした。
 影の囁きは破れ、夜の闇に退いた。
Ⅴ 婚礼の歌と死102
 夜、倉の灯火の下で、ルディが私に囁いた。
 「……死をも結ぶ歌ができた。なら、婚礼の歌にも“死の節”を加えよう」
 私は息を呑んだ。
 「死を……婚礼に?」
 ルディは静かに頷いた。
 「生きている間だけの契約なら、影と同じだ。……死を越えて続くからこそ、婚礼だ」
 胸が震えた。
 私は小さく節を紡いだ。
 「逝きし後も――声を残し
  倉に刻み――契り続け」
 ルディが続けた。
 「命絶えても――歌は響き
  二人の影――倉に寄る」
 灯火の下で声が重なり、死をも結ぶ婚礼の歌が生まれ始めた。
Ⅵ 影の退き際
 外の風が低く唸り、影の囁きが微かに響いた。
 「死を越える歌……ならば、次は“名”を奪おう」
 私は胸を張り、静かに答えた。
 「名も歌に刻む。影が奪う前に、名を声に、板に残す」
 ルディが私の手を強く握り、笑った。
 「君の名は、俺が歌い続ける。……影には渡さない」
 白い倉の壁に映る二つの影は寄り添い、死を越えてなお続く契約を示していた。
(つづく)
第17話「奪われし名、呼び交わす歌」
Ⅰ 奪名の囁き
 王都の広場に、不気味な声が響いた。
 「おまえの名はアリシアではない。
  本当は“空(うつろ)”だ」
 別の者には、
 「おまえの夫の名はルディではない。
  本当は“影”だ」
 群衆がざわめき、互いを見失い始めた。
 子が母を呼んでも、母は自分の名を疑い、声が届かない。104  影が“奪名”を仕掛けたのだ。
Ⅱ 倉での会議
 文吏が震える声で報告した。
 「影は、人の名を偽ります。“名を呼んでも届かない”と、人々が怯えています!」
 私は板に新しい欄を書いた。
 〈名を守る歌〉
 ・名は影に奪わせず、板に刻む
 ・歌の節に名を組み込む
 ・互いに名を呼び合い、契約にする
 ルディが眉を寄せ、低く言った。
 「……婚礼の歌にも、名を入れるべきだな」
 私は頷いた。
 「名は、影に奪わせてはならない。
  名を歌えば、呼び交わせば、奪えない」
Ⅲ 名を守る歌
 私は人々に示した。
 「アリシア――旗を掲げ
  ルディ――槍を構え
  共に声――板に残し
  名を呼び――契約続く」
 人々が自分の名を節に乗せ、互いを呼び合う。
 「エレナ――灯を掲げ」
 「ヨハン――杯を酌め」
 名を呼ぶ声が広場を満たし、影の囁きを押し返した。
 奪われかけた名が、歌で取り戻されていく。
Ⅳ 影の逆襲
 影は悔しげに囁く。
 「名は声。声は偽れる。……呼び交わす声すら、影は真似できる」
 そのときルディが一歩前に出た。
 「ならば、名を声でなく“心”で呼ぶ」 彼は私をまっすぐ見つめ、はっきりと告げた。
 「アリシア」
 胸の奥が震えた。
 影の囁きが覆いかぶさる。
 「それは偽り。おまえは“空”だ」
 だが私は答えた。
 「ルディ」
 声と心が揃った瞬間、影の囁きは弾かれ、闇に散った。
Ⅴ 婚礼の歌に名を

 夜、倉の灯火の下で、私はルディに言った。
 「……婚礼の歌に、“名を呼ぶ節”を加えましょう」
 ルディが頷き、静かに歌い始めた。
 「アリシア――共に契り
  ルディ――共に歩む」
 私は続ける。
 「名を呼び――歌を結び
  死を越え――未来を祝う」
 声が重なり、名が歌に溶け込んだ。
 婚礼の歌は、夢も記憶も未来も死も越え、名を結ぶ歌へと進化した。
Ⅵ 影の退き際
 外で風が鳴り、影の囁きが微かに響いた。
 「名を守ったか……ならば次は、“血”を奪おう」
 私は胸を張り、声を返した。
 「血もまた、歌で結ぶ! ――影に奪わせない!」
 ルディが剣ではなく、私の手を握りしめて言った。
 「君の血は、俺の命と契約している。……影には触れさせない」
 白い倉の壁に映る二つの影が、強く結ばれて揺らぎもしなかった。
(つづく) 
第18話「血の契り、奪えぬ系譜」
Ⅰ 血を奪う影
 王都の広場で、黒衣の影が声を張った。
 「アリシアの血は侯爵家に非ず。偽りの娘だ!」
 「ルディの血は兵の家系ではない。血脈を誤魔化している!」
 人々がざわめき、互いを疑い始める。
 「本当に血筋は正しいのか?」
 「倉を導く者に血がなければ、契約は偽りになる!」
 影は血筋の偽りを囁き、契約そのものを崩そうとしていた。

Ⅱ 倉での会議
 文吏が震える声で報告する。
 「人々が“血の証”を求めています……! 影が『血を見せねば契約に非ず』と叫んでいるのです!」
 私は板に新しい欄を書いた。
 〈血を結ぶ歌〉
 ・血を流すことは不要
 ・麦茶に一滴の塩を落とし、“血の代わり”とする
 ・その杯を共に飲み、契約とする
 「血を見せる必要はない。……“象徴”を結べば、血は偽れない」 ルディが頷き、低く言った。
 「本物の血は一度しか流せない。だが象徴の契約なら、何度でも繰り返せる。……影に奪えぬ形だ」
Ⅲ 血を結ぶ歌
 私は広場で杯を掲げ、声を放った。
 「血は流さず――塩を落とせ
  麦の杯――共に酌め
  命結び――名を重ね
  影奪えぬ――契約続け」
 杯に塩を落とし、灰を少し加える。渋味を斬った味が、血の象徴となる。
 ルディと私が同時に口をつけ、群衆もそれに倣った。
 「これが……血の契りだ!」
 「血を流さずとも、契約は結べる!」
 人々の歓声が広場を満たし、影の囁きは押し返された。
Ⅳ 影の逆襲
 だが影はなおも叫ぶ。
 「血は流さねば証にならぬ! 塩も灰も偽りだ!」
 ルディが一歩前に出て、剣を抜かずに声を張った。
 「偽りかどうかは、“続くかどうか”だ! 塩と灰は繰り返せる。
血は一度きり。
  続く証が、倉の契約だ!」
 私は続けて叫んだ。
 「血を流さずとも、歌が流れる! それこそが真の契約!」
 群衆が再び歌い、杯を酌み交わした。
 影は歯噛みし、夜の闇へ退いた。
Ⅴ 婚礼の歌に血を
 夜、倉の灯火の下。
 私はルディに向き合った。
 「……婚礼の歌に、“血を誓う節”を加えましょう」
 ルディが頷き、杯に塩を落として私に差し出した。110
 「なら、まず俺たちからだ」
 私は杯を受け取り、歌った。
 「血は流さず――塩を落とせ」
 ルディが続ける。
 「麦の杯――共に酌め」
 二人の声が重なり、杯を口に運ぶ。
 温かな味が喉を満たし、胸の奥が震える。
 「命結び――名を重ね」
 「影奪えぬ――契約続け」
 声が灯火の中で響き、婚礼の歌は血を誓う歌へと進化した。
Ⅵ 影の退き際
 倉の外で風が唸り、影の囁きが微かに届く。
 「名も血も守ったか……ならば次は、“時”を奪おう」
 私は胸を張り、声を返した。
 「時も歌に刻む。朝も夜も、歌が続けば奪えない!」
 ルディが私の手を強く握り、微笑んだ。
 「君と共に歌う限り、時すらも俺たちの契約だ」
 白い倉の壁に映る影は、もはや揺らぐことなく、ひとつの大きな光に寄り添っていた。
(つづく)
第19話「時を奪う影、刻む契約」
Ⅰ 時の喪失
 王都の広場で、人々が混乱に陥っていた。
 「昨日は存在しなかった!」
 「明日は来ない!」
 「今この瞬間しかない!」
 影が囁き、人々の心から時の流れを奪っていた。
 昨日を忘れ、明日を疑い、今日に閉じ込められた民は畑に向かわず、倉を開けず、ただ怯えるばかりだった。
 文吏が駆け込んできた。112
 「アリシア様! 王都の板が『数字は今日のみ』と塗り替えられました!」
 私は息を呑んだ。
 「……影は“時”そのものを断とうとしている」
Ⅱ 倉での議論
 倉に集まった人々は顔を曇らせていた。
 「昨日の記録が消えたら、どう続ければ……」
 「未来を疑えば、畑を耕す意味もなくなる」
 ルディが剣を抜かず、低く言った。
 「時は剣では守れない。……アリシア、どうする?」 私は板に新しい欄を書きつけた。
 〈時を結ぶ歌〉
 ・朝と夜を必ず歌に刻む
 ・昨日を板に、今日を声に、明日を契に
 ・時を歌にすることで、影に断たせない
 「時を数字ではなく、歌で刻みましょう。……昨日・今日・明日を結ぶ歌を」 Ⅲ 時を結ぶ歌
 私は広場で声を放った。
 「昨日の旗――板に刻め  今日の声――倉に残せ
  明日の灯――契に掲げ
  時を結べ――歌を続け」
 人々が一斉に唱和し、拍を刻む。
 昨日の収穫を板に書き、今日の歌を倉に残し、明日の契約を赤紐で結ぶ。
 こうして時が歌の中に織り込まれた。
 影の囁きが覆いかぶさる。
 「昨日は幻! 明日は虚ろ!」
 だが群衆が声を重ねるたび、囁きは押し返され、未来へと続いていった。
Ⅳ 影の逆襲
 影はさらに巧妙に囁いた。
 「婚礼も昨日限り。明日には無効」
 「契約は時が断つ。続きは存在しない」
 広場がざわめき、若者たちが不安の目を交わす。
 そのとき、ルディが私の肩に手を置き、声を張った。
 「ならば俺とアリシアが示そう! ――婚礼の歌に“時”を刻む
!」
 私は頷き、二人で声を合わせた。
 「昨日の誓い――板に刻み
  今日の契り――声に残し114
  明日の歩み――灯に掲げ
  死を越えて――歌を続け」
 声が重なり、群衆が涙を流した。
 婚礼の歌が、時をも結ぶ節を得た瞬間だった。
Ⅴ 個人的な刻印
 夜、倉の灯火の下で、私は小さな木札を取り出した。
 そこに日付と共に、ルディと歌った婚礼の節を刻んだ。
 「昨日・今日・明日……そして死を越えて」
 ルディが笑みを浮かべ、私の木札に自分の名を重ねて刻んだ。
 「これで時が奪われても、歌と板が俺たちを繋ぐ」 胸の奥に甘く強い鼓動が広がった。
Ⅵ 影の退き際
 外で風が唸り、影の囁きが微かに響いた。
 「名も血も時も守ったか……ならば次は、“影そのもの”を奪おう」
 私は胸を張り、声を返した。
 「影すらも、歌に変える! ――倉の灯がある限り!」
 ルディが私の手を握り、静かに囁いた。
 「君と俺の影を、もう影と呼ばせない。……それは“契りの灯” だ」
 倉の白い壁に映る二つの影は、もはや闇ではなく、光に寄り添う絆となっていた。
(つづく)
第20話「影を灯に、婚礼の歌」
Ⅰ 影そのもの
 王都の広場に、夜の闇が凝り固まったような気配が漂った。
 人々が息を呑む中、黒衣ではない――影そのものが立ち現れた。
 人の形をしているようで、目も口もなく、ただ揺れる黒。
 その存在が声もなく囁く。
 「名も、血も、時も……結んだか。ならば最後に、おまえたちの
“影”を奪おう」
 群衆の足元から影が剥がれ、宙に吸い上げられていく。
 母と子の影が切り離され、兵と槍の影が歪む。116
 人々は恐怖に凍りついた。
 「影を奪われたら……もう自分ではなくなる!」
Ⅱ 倉の灯火
 私は震える群衆の前に立ち、声を張った。
 「影は闇じゃない! 影は灯に寄り添う姿!」
 ルディが剣を掲げ、灯火の前に立つ。
 「影を奪わせるな! 灯の下に立てば、影は必ず戻る!」
 私は板に新しい欄を書きつけた。
 〈影を灯に変える歌〉
 ・影は灯の形
 ・奪われても、灯の下で結び直す
・婚礼の歌に、影を節として組み込む
Ⅲ 影を灯に変える歌
 私は声を放った。
 「名を呼び――声を重ね
  血を誓い――杯を酌み
  時を結び――板に刻み
  影を灯――契り続け」
 ルディが続ける。
 「夢も記憶も――未来も死も
  すべて歌に――倉に残す
  二人の影――灯に寄り
  婚礼の歌――永遠に」
 群衆が声を重ね、広場の灯が次々と点った。
 剥がされかけた影が、灯火に引かれるように人々の足元に戻っていく。
Ⅳ 影の叫び
 影そのものが震え、黒を広げて叫んだ。
 「奪えぬのか……名も血も時も、影すらも!」
 だが群衆の歌が重なり、婚礼の節が響き渡る。
 「名を呼び――血を誓い
  時を結び――影を灯に」

 影は軋むような音を立て、やがて崩れ始めた。
 闇は闇でなく、灯に溶け、夜空に散っていった。
Ⅴ 婚礼の歌、完成
 広場に静けさが戻ったとき、ルディが私の手を取った。
 人々の前で、彼は静かに告げる。
 「アリシア。……ここで、完成させよう」
 私は頷き、共に歌った。
 「名を呼び――声を重ね
  血を誓い――杯を酌み
  時を結び――板に刻み
  影を灯――契り続け
  夢も記憶も――未来も死も
  二人の声――倉に残す
  婚礼の歌――永遠に」
 声が広場を満たし、人々が涙を流した。
 それはただの契約ではなく、国の新しい誓いになった。
Ⅵ その後
 影は消え、王都も辺境も歌で繋がった。
 板は数字だけでなく、人々の名と誓いを記す場となり、倉はただの倉でなく、契約の灯となった。
 夜。倉の前で、私はルディと並んで座った。 「……これで本当に、すべて結ばれたのね」
 ルディは笑みを浮かべ、私の手を握った。
 「君が歌ったからだ。……剣ではなく、歌で勝った」
 胸の奥が熱く満ちていった。
 倉の白い壁に映る影は二つ。
 だがそれはもう、影ではなく――ひとつの灯に寄り添っていた。
(完) 
エピローグ「灯の倉、二人の影」
Ⅰ 王都の朝
 影が散ってから、王都の朝は驚くほど澄んでいた。
 広場の板には、新しい欄が増えている。
 〈名〉、〈血〉、〈時〉、そして〈影〉。
 数字の横に人々の声が刻まれ、歌として残された。
 文吏たちは毎朝、板を読み上げる。
 「昨日の旗――二十束」
 「今日の声――三十人」 「明日の契――五十灯」

 群衆は笑顔で唱和し、倉へ向かう。
 もう誰も「昨日はなかった」「明日は来ない」と怯えない。
 歌が時を結び、名を守り、血を象徴し、影を灯に変えてくれたからだ。
Ⅱ 辺境の畑
 辺境の畑にも活気が戻った。
 荒れていた土地には緑が広がり、苗が風に揺れる。
 子どもたちは「板歌ごっこ」と称して数字を叫び、赤紐を結んでは笑っている。
 老人は麦茶の渋味を確かめ、若者は旗を掲げ、兵は槍を収めて鍬を握る。 「剣より歌が強い」――その実感が、誰の胸にも根を下ろしていた。
 倉の壁には、板と並んで一枚の木札が掲げられている。
 そこには大きく書かれていた。
 「婚礼の歌」
 名も血も時も影も結ぶ、永遠の調べ。
Ⅲ 民の祭り
 やがて王都では「板歌祭」が正式な祭事として定められた。
 季節ごとに広場で歌が響き、子どもも老人も、旅人すら声を合わせる。
 祭りの夜には灯火が無数に並び、地面に伸びる影は互いに重なり合う。
 人々はそれを見て、口々に言う。
 「影はもう闇ではない。灯に寄り添うものだ」
Ⅳ 二人の静かな時間
 その夜。
 辺境の倉の前、白い壁に映る二つの影を眺めながら、私はルディと並んで座っていた。
 「……終わったのね」
 彼はうなずき、少し笑った。
 「影は去った。けど、歌は残る。……それが本当の勝利だ」
 私は彼の横顔を見つめ、小さな声で口ずさんだ。
 「名を呼び――声を重ね
  血を誓い――杯を酌み
  時を結び――板に刻み
  影を灯――契り続け」
 彼が続ける。
 「夢も記憶も――未来も死も
  二人の声――倉に残す  婚礼の歌――永遠に」
 歌い終えた後、長い沈黙が落ちた。
 けれどその沈黙は、影ではなく、灯に包まれていた。
Ⅴ 灯と影
 白い壁に映る二つの影。122
 寄り添いながら、ゆるやかに揺れている。
 もう誰も、それを奪うことはできない。
 灯がある限り、影は共にある。
 影がある限り、灯は映える。
 その循環こそが、この国を支える新しい誓いとなった。
 私はそっと囁いた。
 「……これからも、畑から始めましょう。毎日、歌と灯と影と共に」
 ルディはうなずき、私の手を強く握った。
 倉の灯火が揺れ、影が寄り添い、夜空には静かな星が瞬いていた。
(終)