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・辺境の小さな食堂、実は“スキル錬成工房”。
・味と職能を掛け合わせ、役立つ力に“調理”する。
・今日の一皿が、明日の英雄をつくる。
〈読了目安〉約18分
・・・
第1話「追放と最初の一皿」
 目を開けると、石造りの天井があった。濁った灯りがいくつも、皿のような金具の中で揺れている。鼻に入るのは、古い羊毛と香草の匂い。床は磨かれた石で、冷たさが靴底から脛へと這い上がってくる。
 ざわめき。自分の他にも十数人、年齢も服装もばらばらの人間が並んでいた。スーツ姿の男、学生服の少年、エプロンを着けたままの女性――。隣の男が自分の腕をつねりながら、小さく呟く。
「……夢じゃ、ないのか?」
 広間の奥、玉座のように高い椅子がある。その前に立つ白髭の老人が、杖で床を二度叩いた。
「異界よりの来訪者よ。ようこそ我が王都へ。これより、汝らの加護と適性を鑑定する」
 老人の声は驚くほどよく通った。言葉は不思議と理解できる。耳の奥で何かがゆっくりと回転し、意味を寄せ集めて形にしてゆく感覚。
 俺――カイは、最後に覚えている場面を思い出そうとした。終電間際の駅、眠気で視界が滲み、階段を踏み外して……そこから先は暗い。息が詰まる。深呼吸。肺に入った空気は乾いていて、金属のような味がした。
 列は一人ずつ進み、広間の中央に据えられた水晶へと導かれていく。水晶は人の背丈ほどもあり、内部にゆっくり流れる霧のような光が見えた。
「剣聖の素質あり!」
「回復術師、希少な祝福だ!」
 歓声とどよめき。人々は、自分の番が来るまで落ち着かない指で袖をいじる。順番が近づくほど、胸の鼓動がうるさくなる。並ぶ者の視線の矢じりが、前の者、そして次に来る俺の背中を刺す。
 やがて、老人が目を細めて俺を見た。
「名は」
「……カイ、です」
「よい。手を」
 水晶に触れた瞬間、指先から冷たさが骨まで染みて、頭の中に無数の細い糸が引き込まれる感覚が走った。糸は脳のどこかに結び目を作って、ぱちん、と小さな音を立てる。水晶の内側で光が瞬き、文字が浮かび上がった。
 老人はそれを読み上げる。
「――調理。調合。交易。……以上」
「以上?」
 思わず復唱した声が情けないほど軽かった。広間の空気が、少し笑った。
「戦えない、ってことか」
「いや、働き者ではあるのだろう」
「勇者の列からは外そう。次」
 玉座に座る男――王と思しき人物が、退屈そうに片手を払った。
落ちた埃のように、俺の立つ場所から意味が削り取られていく。
「待ってください。役に立てます。料理や調合が――」
「余は戦を前にしている。求むは剣と魔法だ。台所の腕では魔王は倒せぬ」
 王の声は冷ややかで、確信に満ちていた。
 俺は口を閉じた。確かに、その通りかもしれない。だが、胸に残

る引っかかりは消えない。これだけで本当に「無用」と決められるのか、と。
 その日のうちに、俺は城門の外へ放り出された。支給されたのは粗末な外套と、掌に収まるほどの銅貨だけ。門番の「気の毒に」という視線が、逆に痛かった。
 日が傾く。石畳に影が長く伸びて、城の影は町全体を覆い始める。
 俺は歩いた。何かを考える前に、足が勝手に前へ動いていた。歩きながら、掌に残る水晶の冷たさを思い出す。調理・調合・交易。地味だ。だが、俺が今まで生きてきた手触りに近い。ブラック企業の現場で、細い段取りと、においと、時間の火加減だけは、毎日捨てずに持ち帰ってきた気がする。
 城下を抜け、街道に出ると、両側には色を失った畑が広がった。風が土の上を走るたび、細かい砂が目に刺さる。遠くにひと塊の森が見え、道はそこへ細く続いている。
 空腹が、背骨の中に爪を立てた。腹の内側がきゅうと痛む。何か食べなければ。財布の銅貨では、宿の粗末なスープすら怪しい。
 日暮れの手前、小さな集落に辿り着いた。十数軒ほどの家は低く、屋根は干草で覆われ、壁は土と藁で塗り固められている。扉の隙間から漏れる灯りは弱く、子どもたちは痩せていて、目だけが大きかった。
「旅の方? 悪いけど、今は食わせる余裕がないんだよ」
 家々を回って宿を乞うと、皆、同じような申し訳なさそうな顔で首を振った。
「少しでいい。水と、焚き火が使えれば」
「井戸は村の真ん中さ。焚き火は……あんたが薪を拾えるなら、誰も文句は言わないよ」
 村長らしき老人が、顎で森を示す。
「森は、危ないか?」
「出るのさ。ちいさな牙と赤い目の連中がね。畑を荒らし、子どもを脅かす。兵士を呼ぶ金もない」
 老人の肩は細く、布の下で骨が浮いていた。彼らも限界なのだ。 俺は頷き、森へ向かった。空は茜から鈍い群青へと変わり、木々の黒が重く重なって行く。足元の枝が折れるたび、小さな獣の気配が散っては止まる。
 息を潜めて耳を澄ませる。葉脈の擦れる音の裏に、土を掻く軽い爪の音。目を凝らすと、茂みの陰で赤い目が二つ、揺れた。
 石を一つ拾い、重みを確かめる。投げる。鈍い音。短い悲鳴。茂みが裂け、兎ほどの大きさの獣が転がり出た。体毛は灰色で、背に黒い斑点、口には鋭い牙――村の人間が「小鬼兎」と呼んでいた魔物だ。
 胸の奥で、さっきの水晶の冷気が戻ってくる。調理。調合。俺はナイフを取り出し、躊躇なく皮を剥いだ。膝の上に板を置き、内臓を分け、食べられる部位と避ける部位を峻別する。血のにおいが温かい。
 森の縁で薪を集め、井戸端の共同炉に火を起こした。村人の視線がぼんやりと集まってくる。「何をするんだろう」という距離と、「何でもいいから奇跡が起きてほしい」という祈りの距離の中間くらいに、彼らは立っていた。
 鍋は――ない。だが、井戸の脇に大きな鉄の釜が据え付けられている。すすで真っ黒だが、内側は使い込まれて滑らかだ。村の女が言った。
「それは収穫のときに使う共同釜だよ。今は空っぽさ」
「使わせてもらっていいか」
「……うん」
 釜に水を張り、火にかける。沸騰までの時間が、空腹の胃袋に永遠のように長い淀みを作る。
 森から持ち帰ったのは小鬼兎の肉だけではない。見慣れない葉を数種、採ってきた。葉の縁が白く、茎が紫がかったソウゲ。丸い葉に微かな樟脳の匂いがこもるコグサ。そして、根に苦みの強いヤマニガ。
 村の老婆が眉をひそめる。
「ソウゲは、毒になるよ」
「加熱して最初の煮汁を捨てれば、強い成分は抜ける。コグサで香りを立てて、ヤマニガで味を締める。俺の“感覚”がそう言ってる」
 “感覚”と口にした時、自分でもおかしな気持ちになった。言葉にすると頼りないが、確かなものが背中を押している。水晶の糸が、また一つ音を立てた気がした。
 湯が踊り始めた。まずソウゲを放り込む。青臭い香りが強く立ち上がる。しばらく煮て、湯を捨てる。釜の底に残る緑の泡がしゅう、と弾けて消えた。再び水を張り、今度は小鬼兎の骨と肉を入れる。 火。泡が縁に集まり、灰色のアクが花のように咲く。丁寧にすくう。アクは苦みの塊だ。ここを怠ると全てが台無しになる。
 香りが変わる。肉の甘い匂いが立ち上がり、そこにコグサのすっとした涼しさが背骨を通して入ってくる。ヤマニガは砕いて布に包み、しばらく沈める。
 味見をした。舌の付け根がじんわりと温かくなり、胃の奥に火が灯る。「いける」と体が言った。
「少し多めに作る。子どもから先に」
 椀を配る。最初の一口を、老人に勧めた。 老人は恐る恐る口をつけ、目を見開いた。
「……指が、痛くない」
 老人の手は節くれだっていて、長年の関節痛が癖になっているようだった。彼は指を握ったり開いたりして、信じられないという顔で笑った。
 次々と椀が空く。頬に色が戻ってゆく。涙ぐむ者もいた。鍋の湯気は夜の冷気に混じり、村の広場に白い雲をいくつも浮かべる。
 その光景を見ながら、俺の頭の中に、言葉にならないが確かな“ 式”のようなものが組み上がっていくのを感じていた。調理の線と、調合の点群、それから交易の矢印。線と点と矢印が、鍋の中で、村の空で、衰弱した身体の中で、正しい位置を見つけて合流する。
「おまえさん、名前は?」
「カイ」
「カイ。……明日も、やってくれるかい」
 村長の声は、期待を怖がる声だった。期待は裏切られる痛みを前借りする。だから、彼らは長い間、期待という行為を節約して生きてきたのだ。
 俺は火の先を見つめた。薪はちろちろと音を立て、炭が赤く呼吸をしている。
「明日もやる。できれば畑を見せてほしい。土と水。それから、森で採れる草のことも教えてほしい。もっと良くできるはずだ」
「良く?」
「うん。腹を満たすだけじゃない。働ける体にする。眠れる夜にする。傷の癒える速さを上げる。料理と調合で、村を“強く”できる」
 自分で言って、胸の奥が熱くなった。俺が言った? 本当に? けれど、俺の口の内側には、確かな味が残っている。できる。やれる。鍋の湯気に、そんな手触りが含まれている。
 その夜、村の空には雲が薄くかかり、星の数は少なかった。俺は共同小屋の隅に寝床を借り、外套を丸めて枕にした。梁の影が壁を斜めに切り、遠くで犬が一度だけ吠えた。
 目を閉じると、今日一日の音が戻ってくる。水晶の冷たさ。王の乾いた声。森の葉擦れ。鍋の泡の弾ける音。子どもの笑い。 胸が静かに上下するたび、どこかで新しい歯車が噛み合う音がした。それは、俺がこの世界で初めて手に入れた“リズム”だった。 翌朝。水は針のように冷たく、指先がじんじんと痺れる。顔を洗い、井戸の縁に手を置いて空を仰ぐ。雲は高く、鳥は低く鳴いた。 村長が来た。痩せた頬に、昨夜よりも少しだけ血の色が戻っている。
「畑を見に行こう。おまえさんの言う通り、土と水を」
「助かる」
 畑は村の外れ、川の曲がり角に広がっていた。土は表層が固く、爪先で削るとすぐに石交じりの層が顔を出す。
「去年、長い雨が続いた。その後に干ばつ。根が息をできなくなったのさ」
 村長がしゃがみ込み、乾いた塊を崩した。
 俺は掌で土を揉み、鼻に近づける。匂いは弱く、疲れている。
「コグサは畑の外縁に植え直した方がいい。根が浅いから、土の匂いを連れ戻せる。ソウゲは森の縁から少しずつ移植して、毒抜きの知恵を子どもに教える。ヤマニガは乾かして粉にして、冬に備えておく。……“交易”は、町へ行くだけじゃない。村の中で、場所から場所へ、時から時へ、ものと手を渡すことだ」
 自分でも驚くほど、言葉がすらすらと出た。頭の中の矢印が、土の上に白い線を引く。
 村長は目を細めて頷いた。
「わかった。やってみよう。だが、金はない。道具も少ない」
「じゃあ、まずは鍋から始めよう。今日の昼は、昨日よりもう少し大きく作る。働ける者は森へ。コグサと、木の実と、木の皮を少し。
木の皮はスープの濁りを沈める。……皆で鍋を囲む。そこから始めよう」
 村長は笑い、とてもゆっくりと、俺の肩に手を置いた。
「おまえさん、王の城で何を言われた」
「無用だと」
「なら、ここでは有用にしてやろう」
 その言い方が、温かかった。言葉の奥で、長い年月の痛みが柔らかく折りたたまれているのがわかった。
 昼。鍋は昨日の二倍の量を満たし、香りは広場いっぱいに流れた。
子どもらが列を作り、女たちは笑いながら叱り、男たちは斧を肩に担いで戻ってくる。
 そこへ、異質な蹄の音が混じった。
 見れば、薄汚れた革鎧に身を包んだ男が三人、馬で村へ入ってくる。腕には古い紋章。槍の穂先は研がれているが、眼は飢えた狼のようだった。
 一人が顎をしゃくって、鍋を見た。
「いい匂いだな。税の取り立てだ。鍋ごと寄越しな」
 広場の空気が凍る。子どもが一人、椀を抱えたまま固まった。
 俺は鍋の前に立ち、軽く首を振った。
「これは村の“食料”だ。払うべき税があるなら、干し肉にして明日渡す。今は、皆が食べる」
 男は笑った。笑いは、刃物が鞘から出る前に金属が擦れる音に似ている。
「誰に口を利いている?」
 槍の穂先がほんの少し、こちらへ傾く。
 村長が震える声で言った。
「カイ、やめなさい。彼らは――」
「大丈夫」
 俺は鍋の蓋を開け、柄杓でスープをすくい、最前の男へ差し出した。
「飲んでみてくれ。長く旅をしている味だ。腹に入れれば、話も柔らかくなる」
 男は一瞬、訝しんだが、柄杓の縁に舌を近づけた。熱が驚きを誘い、次に味が舌を抱き込む。
 目が変わった。
 彼は無言で三口ほど飲み、柄杓を返した。
「……明日だ。干し肉で払え。量は、鍋一つ分。遅れたら、倍にする」
 踵を返し、仲間に合図をして馬の腹を蹴る。蹄の音は埃と共に去り、広場に溜まっていた息が一つに吐き出された。
 村長が肩を落とし、笑うのか泣くのか決めかねた顔で言う。
「命拾いした。スープで命拾いだ」
「スープは武器じゃないよ。……でも、人を殺す武器の前で、人を繋ぎ止めるために掲げてもいい」
 自分でも驚くほど、静かな声だった。
 その日の夕暮れ、鍋は空になり、子どもたちは久しぶりに走った。
男たちは森で手際よく枝を組んで乾燥棚を作り、女たちは肉と草を紐で結んで吊るした。
 俺は火の番をしながら、空の色が藍に変わっていくのを見た。
 遠い王都で「無用」と断じられた手が、ここでは柄杓を握っている。柄杓の重みは、仕事の重みだった。言い訳も、証明も、ここではいらない。うまいか、まずいか。元気になるか、ならないか。それだけだ。
 夜、共同小屋で横になる前に、村長が干し草の匂いを連れて訪ねてきた。
「明日、村の端の空き家を掃除しよう。そこをおまえさんの店にしたらいい」
「店?」
「名前も要るな。看板も。村の外からも人が来る。……そうでなきゃ、税を払えない」 俺は笑った。「看板、か。じゃあ――《辺境食堂》でどうだろう。飾り気はないけれど、迷いようがない」
 村長は満足げに頷いた。
「いい名だ。迷子を呼び止める名だ」
 扉が閉まる。小屋の中は静かで、茅葺の隙間から星の光が針のように落ちていた。
 目を閉じる。明日の手順を頭の中で並べる。朝一番に湯を沸かし、昨日より薄く切った骨を焼いて香りを出し、コグサの茎は叩いて繊維を割り、ヤマニガは砕きすぎない。干し肉の仕上がりを見て、取り立てに来た連中には約束の量より少し多めに渡す。余裕を見せることが、次の余裕を呼ぶ。
 胸の奥で、再び小さな音が鳴る。調理と調合と交易。三つの歯車が、かちりとかみ合った音だ。
 眠りに落ちる直前、ふと、自分に言い聞かせる。
 ――料理一皿が、国を揺らす。
 大袈裟かもしれない。けれど、その大袈裟さを灯りにして、明日へ歩いてみよう。ここは王都ではない。**《辺境食堂》**の最初の夜だ。

第2話「辺境食堂、開店準備」
 夜が明けた。
 東の空が薄く白むと同時に、村の鶏が鳴き、犬が吠えた。
 カイは藁布団から体を起こし、冷たい水で顔を洗った。昨日までの疲労は残っていたが、胸の奥には小さな炎が燃えていた。――この村で、食堂を始める。
 村長が案内してくれたのは、村の外れの空き家だった。扉は外れかけ、壁の一部は崩れて穴が開いている。けれど、屋根はしっかり残っていた。
「ここなら誰も文句を言わんさ。昔は倉庫だったが、もう十年は放置している。直せば住めるし、店にもできるだろう」
「ありがとうございます」
 カイは埃を払いつつ、足を踏み入れた。土間の床は固く踏み固められていて、竈の跡もある。梁は太く、煙で黒ずんではいるがまだ丈夫だ。何より――空気が乾いている。
「うん、悪くない。あとは掃除と、道具を揃えれば」
 村の子どもたちが「手伝う!」とほうきを持って駆けてきた。
 彼らは埃まみれになりながら窓を磨き、蜘蛛の巣を払った。笑い声が広がり、薄暗い空き家は徐々に光を取り戻していく。
 掃除の合間、カイは村長に尋ねた。
「薪と鍋、それから食器はありますか?」
「鍋は共同釜しかない。食器は各家にある分で精一杯だ」
「なるほど……じゃあ、まずは木を削って椀を作ります。俺がやります」 木工は素人だったが、ブラック企業で身につけた「段取り力」が役立つ。必要なものを洗い出し、順序を組み立てれば、手も体も自然に動き始める。
 村の若者たちが斧を担いで戻ってきた。彼らは薪を割ると同時に、カイが椀を作る用に柔らかい木材も運んできてくれた。
「最初は粗末でもいい。食べられるなら、誰も文句は言わんさ」
「いや、見た目も大事です。料理は舌だけじゃなく、目でも味わうものだから」
 若者たちは目を丸くし、それから小さく笑った。
 昼過ぎ、ようやく仮の竈に火を入れられるようになった。
 今日の食材は――森で採れたコグサの葉、川で捕れた小魚、畑で余った硬い麦。
「麦は硬くて、煮ても膨らまないから……粉に挽いて粥にしましょう。魚は塩がないから、草の汁で臭みを抜いて」
 カイは作業を進めながら、村人たちに簡単な役割を振った。
「子どもたちは石を拾って洗って。竈の床に敷くんだ」
「おばあさんは草を細かく刻んでください。包丁がなくても石で叩けばいい」
「若者たちは魚の内臓を取って。苦い部分は絶対に残さないで」
 皆が慣れない手つきで作業するうちに、不思議と表情が和らいでいく。
 鍋に材料を入れ、煮立たせる。湯気が立ち上ると、子どもが鼻をひくつかせた。
「いい匂い……!」
「ただの粥でも、ひと工夫すればごちそうです」 出来上がった粥は、麦の香ばしさと魚の旨みが溶け合い、草の涼やかな風味が後味を引き締めていた。
 村人たちは夢中で食べ、食べ終えたあとに深いため息をついた。
「カイ、これが“食堂”か?」
 村長が空の椀を置きながら問う。
「ええ。でも、まだ仮です。ここから本当の店にしていきます」
「どうやって?」
「まずは食器を揃える。次に、保存食を作る。干し肉や乾燥野菜。
それから……交易です」
「交易?」
「はい。この村には森と川がある。食材は豊富です。でも調味料や布は不足している。隣町と繋げれば、互いに助け合えるはずです」
 村長はしばらく黙っていたが、やがてゆっくり頷いた。
「……おまえが言うなら、やってみよう」
 その夜。
 食堂の前に灯された小さな焚き火を囲みながら、村人たちは笑い合った。
「腹が膨れるって、こんなに幸せだったんだな」
「明日も食べられるのか?」
「もちろん。明日はもっと工夫します」
 カイの言葉に、皆の顔が明るくなった。
 ふと夜空を見上げると、満天の星が広がっていた。
 ――王都で「無用」と切り捨てられた自分が、今ここで「必要」とされている。
 胸の奥が熱くなり、目尻がじんとした。「辺境食堂、開店準備完了だな」
 小さく呟いたその言葉を、薪の火がぱちんと肯定するように弾けた。 
第3話「最初の客――兵士と商人」
 昼の陽射しが斜めに差し込むころ、村の道に埃が舞った。
 遠くから馬のいななき。やがて、革鎧に身を包んだ兵士三人が現れた。背には槍と盾、腰には短剣。彼らは旅塵を浴び、頬は乾ききっている。
「水を……それと、食事はできるか?」
 先頭の兵士が低い声で言った。
 村人たちは戸惑い、互いに顔を見合わせる。これまでは客を迎える余裕などなかったのだ。だが、今は――。
「ようこそ。《辺境食堂》へ」
 カイが一歩前に出て、笑顔を作った。
「粗末なものですが、腹を満たせます。中へどうぞ」
 掃除を終えたばかりの食堂に兵士たちを招き入れると、彼らは驚いたように目を瞬いた。
 窓際には削り出した木椀が並び、壁には干した薬草が吊るされている。
 小さな竈からは香ばしい匂いが立ち昇り、村の子どもたちが手伝って麦を挽いていた。
「……辺境の村で、これほど整った食事処があるとは」
「昨日まではなかったんですよ。今日から始まったんです」
 カイは微笑んだ。
 兵士たちには、川魚と麦の粥、そして魔物の肉を使ったスープを出した。
 匙を口に運んだ瞬間、兵士の表情が変わる。
「……これは」
「どうでしょう?」
「体が……軽い。疲労が抜けていくようだ」
 それは、調理スキルと調合スキルが組み合わさった効果だった。 魔物の肉は、ただの食材ではない。適切に処理すれば、薬草と同じように効能を持つ。
「お代は?」
「金貨はいりません。銅貨で十分です。できれば噂を広めてください。それが一番の支払いになります」
 兵士たちは互いに顔を見合わせ、やがて笑った。
「変わった料理人だな。だが、悪くない」
「王都へ戻ったら話してみよう。辺境に面白い食堂があると」
 こうして、《辺境食堂》は初めて“外の客”を得た。
 数日後。
 村に荷馬車がやってきた。荷台には布や陶器、鉄製の道具が積まれている。
「噂を聞いて来た。ここで食事ができると」
 姿を現したのは、王都から来た行商人だった。
 濃い色の外套を翻し、計算高そうな目をしている。
「食事はできます。ただ、豪勢なものではありません」
「構わん。道中で腹を壊さない食事なら、それで十分だ」 カイはスープと麦粥を出した。行商人は静かに口へ運び、しばし黙り込む。
 やがて彼は、長い息を吐いた。
「……確かに、これは金になる」
 その一言に、村人たちは息を呑んだ。
 だが、カイは肩をすくめて答える。
「金ではなく、人を動かすものにしたいんです」
「人を動かす?」
「はい。飢えた者が動けるように。疲れた兵士がもう一度立ち上がれるように。交易は、その力を橋にして広がるべきだと思います」
 行商人はしばし黙り、やがてにやりと笑った。
「面白い料理人だな。……いいだろう。次に来るときは塩と陶器を持ってきてやる。その代わり、このスープをまた食わせろ」
「約束しましょう」
 夜。
 焚き火を囲む村人たちは、興奮冷めやらぬ声を上げていた。
「兵士も商人も、この村に来るなんて!」
「本当に変わり始めているんだな」
「カイ、あんたのおかげだ!」
 カイは薪を足しながら、静かに答える。
「俺ひとりじゃない。皆が手を貸してくれたからです。……でも、
ここからが本番です。噂が広がれば、助けてくれる人も増えるけど、妨害する人間も出てきます」
 村人たちは顔を見合わせ、やや不安げに頷いた。
「だからこそ、強くなりましょう。食事で、体を。交易で、暮らしを。知恵で、未来を」
 焚き火の火がぱちぱちと弾け、星々が空から見下ろしていた。
 ――辺境食堂の物語は、今まさに動き出したのだ。 
第4話「ライバル登場――隣町の料理人」 翌朝。
 村の広場に、また見慣れぬ荷馬車が停まっていた。車輪は頑丈な鉄で補強され、馬の毛並みも艶やかだ。御者台から飛び降りたのは、三十前後の男。
 漆黒の髪をきっちり撫でつけ、真新しい白の調理服を着ている。
腰には短剣、背には木箱。目は鋭く、笑っても温かさがない。
「ここが噂の《辺境食堂》か。……ふん、想像より粗末だな」
 男の声はよく通り、広場にいた村人たちがざわついた。
「お前は?」
 カイが問いかけると、男は胸を張った。
「俺の名はジルベルト。王都の『青銀亭』で料理長を務めていた。だが商会と契約して、辺境の食市場を広げる役を任された。……お前のことは耳にしたよ。『魔物料理で兵士を癒す』? 面白いが、危険極まりない」
 ジルベルトは箱を開けた。中には香辛料や乾燥肉、瓶詰めのソースがぎっしりと詰まっている。
「王都の最新の味だ。安全で、確実で、保証付き。……村人どもよ、無知な素人の鍋に命を預けるより、俺の料理を選ぶべきだ」
 村人たちは顔を見合わせる。昨日までなら、即座に頷いたかもしれない。だが、今は――カイがいる。
 村長が一歩前に出て、静かに言った。「カイの料理は、我らの体を立たせてくれた。……だが、選ぶのは我々だ。今日は二人の料理を食べ比べさせてもらおう」
 村人たちがざわめき、やがて歓声が上がった。
「食べ比べだ!」「公平だ!」
 ジルベルトが薄笑いを浮かべ、カイは小さく頷いた。
「望むところだ」
村の料理対決
 広場の中央に二つの竈が並べられた。片方にジルベルト、片方にカイ。
 村人たちは輪になって見守る。子どもたちの目はきらきらと輝き、老人たちは胡坐をかいて腕を組む。
 ジルベルトは瓶を取り出し、鮮やかな赤いソースを鍋に注いだ。にんにくと香辛料の香りが広がり、村人たちの鼻をくすぐる。
「王都直送のトマトソースだ。肉と煮込めば滋養もあり、香り高い料理になる」
 一方、カイは森で採れた薬草と、昨日干したばかりの小鬼兎の肉を取り出した。
「魔物の肉は処理を間違えれば毒だが、正しく煮れば薬になる。今日は、疲労回復のスープを作ります」
 観衆は息を呑んだ。
 調理が始まる。
 ジルベルトは手際が良く、刃物さばきも華麗だ。肉を切る音が小気味よく響き、香辛料が次々と加えられていく。
 カイは村人たちに役割を振った。子どもには薬草を刻ませ、老人には火を見張らせ、若者には水を汲ませた。
「料理は、皆で作るものです」
 その言葉に、村人たちの顔がほころぶ。
 やがて、二つの鍋が仕上がった。
 ジルベルトの鍋からは濃厚な香りが漂う。真っ赤なソースが肉を包み、見た目にも豪華だ。
 カイの鍋は、澄んだ黄金色。香草の香りが柔らかく広がり、湯気はどこか体を軽くするようだった。
「さあ、食べてみろ!」
 ジルベルトが自信満々に皿を差し出した。
 村人たちが口に運び、目を見開く。
「……うまい!」
「肉が柔らかい!」
 歓声が上がり、ジルベルトが得意げに笑う。
 次にカイのスープ。
 口に含んだ瞬間、村人の顔に驚きが走った。
「……体が温かい」
「背中の痛みが和らいだ……!」
「息がしやすい……!」
 驚きはやがて静かな感動へ変わり、広場にはざわめきよりも深い沈黙が広がった。
 村長が椀を置き、二人を見渡す。「ジルベルトの料理は確かに美味かった。だが、カイの料理は我々の体を支えた。……我らが選ぶのは、《辺境食堂》だ」
 村人たちの拍手が広がる。子どもたちは笑い、老人たちは涙をこぼす。
 ジルベルトは顔を引きつらせたが、やがて肩をすくめた。
「……ふん。だが覚えておけ。市場は甘くない。噂が広まれば、必ず敵を呼ぶぞ」
 そう言い残し、荷馬車に飛び乗って去っていった。
残された火種
 夜、食堂で焚き火を囲みながら、村人たちは喜びに湧いた。
「勝ったな!」「《辺境食堂》が本物だ!」
 子どもたちは「カイ先生!」と呼んで跳ね回り、老人たちは「久しぶりに体が楽だ」と笑った。
 だがカイは、笑いながらも胸の奥に冷たい影を感じていた。
 ジルベルトの言葉――「必ず敵を呼ぶ」。
 商会や貴族、利権を持つ者たち。彼らにとって、この辺境の小さな食堂が脅威になる日が来るのかもしれない。
 それでも――。
 カイは火の前で拳を握った。
「料理は、人を救える。俺はそのために鍋を振るう」
 薪が弾け、星空に火花が散った。
 辺境の夜は冷たかったが、村の広場には確かな温もりが満ちていた。
第5話「最初の交易――村の外へ」
 翌朝、村長の家に集まったのは十人ほどの村人だった。若者が四人、荷車を引く牛を二頭、そして子どもが三人。さらに老人たちも
「見送りに行く」と言って杖をついて立っている。
 目的はただひとつ――隣町までの初めての交易だ。
「乾燥させた小鬼兎の肉、計二十束。草薬を束にしたものが三十。
そして粥用の麦を半分」
 カイは荷を並べ、指で一つひとつ数え上げる。
「代わりに塩、陶器、布を仕入れる予定です。商人と直接やり合うのは俺がやります。皆さんは荷を守ることに集中してください」
 村人たちは頷いたが、不安は隠せなかった。村の外を越えるのは久しぶりなのだ。
「……本当にうまくいくのか?」
「やるしかないさ。村の未来がかかってる」
 カイは笑ってみせた。胸の奥には緊張の塊があったが、それを顔には出さない。
道中の森
 午前の光の中、荷車はぎしぎしと音を立てながら森を抜けていった。
 小鳥のさえずり、草を踏む音、風に揺れる枝。だが、ときおり獣の低いうなりが響き、子どもたちが怯えたようにカイの後ろに隠れる。
「大丈夫。俺たちがいる」
 若者のひとりが槍を構えて歩き、カイは薬草袋を開けて中を確認した。もし襲われても、応急の処置はできる。
 だが、最初に現れたのは敵ではなく――旅の吟遊詩人だった。
 色褪せた外套を羽織り、リュートを背負った中年の男。
「おや、珍しいな。辺境の村から隊列とは」
「交易の最中です」
「そうかそうか。ならば、歌でも一曲贈ろう」
 彼が奏でる旋律は素朴だったが、疲れた心を少し和ませた。
 子どもたちは笑い、牛も落ち着いたように歩みを緩める。
「歌はいい薬だな」
「ええ、料理と同じです。心を支える」
 吟遊詩人はにやりと笑い、道端の石に腰を下ろした。
「噂は王都にも届くぞ。『辺境に人を癒す食堂あり』とな」
 その言葉が、カイの背筋を震わせた。噂はすでに広がり始めている――。
隣町の市場
 昼過ぎ、ようやく隣町の門が見えた。
 町は村の十倍は大きく、石造りの家々が並び、煙突からは白い煙が立ち上る。通りには露店が並び、香辛料や布、鉄製品が雑多に積まれている。
 村人たちは目を丸くした。
「すごい……!」

「これが町……!」
 だが、カイは気を引き締めた。市場は笑顔と同時に牙を隠す。油断すれば騙される。
「代表は俺一人で行きます。皆は荷車のそばで待っていてください」
「気をつけろよ、カイ」
 村人たちは不安げに頷いた。
 市場の奥、香辛料の匂いに満ちた露店の一つで、カイは声をかけた。
「塩と陶器を探しています。交換に、干し肉と薬草を」
 店主は小太りの男で、目を細めて荷を見やった。
「ふむ……干し肉ね。だが魔物の肉じゃないか? 危険だ、安くしか買えん」
「処理済みです。昨日の兵士や行商人も食べています。試してみますか?」
 カイは干し肉を火で炙り、小さな皿に盛って差し出した。
 店主は渋い顔をしながらも口に入れ、数秒後に目を見開いた。
「……旨い! しかも力が湧くようだ!」
「正しく調理すれば、魔物の肉は薬になります」
 その一言で、周囲の商人たちがざわめいた。
「薬になる?」「本当か?」
 店主は慌てて声を上げた。
「塩二袋、陶器十枚と交換しよう!」
「待て、俺も買う!」
「いや、うちは銀貨を出す!」
 一気に競り市のような喧騒になった。
初めての駆け引き
 カイは冷静に言った。
「焦らないでください。取引は一度に一軒だけ。質と誠意を見せてくれる相手と組みます」
 その言葉に商人たちは顔色を変え、次々と条件を叫んだ。
「塩に加えて油をつける!」
「陶器に加えて布を五反!」
「うちは次回から安定供給を保証する!」
 最終的に、カイは一番誠実に応じた陶器商人と契約を結んだ。
 荷車には塩と陶器、布が積まれ、村人たちの目は輝いた。
「すごい……! 本当に物が増えた!」
「これで冬を越せる!」
 喜びに湧く村人たちの姿を見ながら、カイは安堵の息をついた。
 だが、その背後で冷ややかな視線を感じた。
見えない影
 市場の人混みの奥、白い調理服を着た影――ジルベルトが腕を組んでこちらを見ていた。
 彼はにやりと笑い、口の形だけで言った。
「次は潰す」 その言葉は声にならずとも、刃のようにカイの胸を刺した。
 だがカイは視線を逸らさず、小さく呟いた。
「俺は潰されない。料理は、人を救うためにある」
 村へ戻る道。荷車は重く、だが足取りは軽かった。
 子どもたちが塩の袋を撫で、老人たちは陶器を抱え、若者たちは布を肩に担いだ。
 彼らの顔には、確かな未来への光が宿っていた。

第6話「交易路の脅威――盗賊団との遭遇」
 帰り道の森は、行きよりも重かった。荷車には塩と陶器、布が積まれ、牛は汗を滴らせながらゆっくりと歩く。村人たちは喜びと緊張の入り交じった表情で荷を守り、子どもたちは布の端を握ってはしゃいでいた。
 だが、カイの胸には嫌な予感が渦巻いていた。市場で見たジルベルトの冷笑。――「次は潰す」。
 彼が商会と繋がっているなら、動きは早い。交易の芽を摘むには、盗賊をけしかけるのが手っ取り早い方法だ。
森の影
 森に入って一刻ほど。風が止み、鳥の声も消えた。
 若者のひとりが囁く。
「……妙に静かだ」
 カイは足を止め、耳を澄ませた。木々の間に、乾いた枝が踏み砕かれる音。数は……五、六、いや十以上。
 その瞬間、矢がひゅんと飛んできて荷車の木枠に突き刺さった。
「盗賊だ!」
 若者たちが慌てて槍を構える。牛が怯えて暴れ、荷車が傾いた。子どもが悲鳴を上げ、老人が庇うように覆いかぶさる。
 茂みから、粗末な鎧と布をまとった十数人の男たちが現れた。顔は覆面で隠し、手には刃や棍棒。
「荷を置いていけ。命までは取らん」
 頭らしき男が冷たく告げた。
追い詰められた村人たち
 若者たちは必死に構えるが、相手の数が多すぎる。子どもや老人を守りながら戦うのは不可能に近い。
 村人の一人が震え声で言った。
「カイ……どうする……?」
 カイは歯を食いしばった。戦士としては無力。だが、与えられたスキルは――調理・調合・交易。
 戦いに役立たない? 否。今こそ活かすときだ。
「皆、時間を稼いでくれ! 五分だけでいい!」
 叫ぶと同時に荷車を漁り、薬草と干し肉の束を取り出す。ナイフで素早く刻み、布袋に詰め込みながら竈に火を起こす。
即席の“戦う料理”
 竈に投げ込んだのは、煙の強い薬草――ハイソウ。焚くと鼻を突く刺激臭を放ち、目を潤ませる効果がある。
 同時に、干し肉を細かく砕いて塩と混ぜ、水で溶かして粘りを出す。これを布に塗りつけ、即席の“煙幕弾”を作った。
 盗賊が迫る。
「何をしてやがる!」
 頭目が叫んだ瞬間、カイは布袋を火に投げ入れた。
 ぼん、と鈍い音。
 白煙が立ち上り、刺激臭が森に広がった。盗賊たちは咳き込み、目を押さえて倒れ込む。
「今だ! 前へ!」
 若者たちが槍を突き出し、咳き込む盗賊の武器を叩き落とす。牛も暴れ、荷車を揺らして盗賊を弾き飛ばす。
盗賊頭との対峙
 混乱の中でも、頭目だけは冷静だった。布で口と鼻を覆い、真っ直ぐにカイへ迫ってくる。
「小細工しやがって……だが料理人風情が!」
 刃が振り下ろされる。
 カイは咄嗟に木の杓文字を構え、刃を受け止めた。金属と木がぶつかり、火花が散る。
 押し負けそうになりながらも、カイは叫んだ。
「料理は小細工じゃない! 生きるための知恵だ!」
 次の瞬間、背後から村の若者が飛び込み、槍で頭目の肩を突いた。呻き声と共に刃が落ち、地面に転がる。
 盗賊たちはリーダーの劣勢を見て動揺し、やがて森の奥へと逃げ去った。
戦いのあと
 森に再び静寂が戻る。
 咳き込みながらも、村人たちは荷車を守り抜いたことを実感し、歓声を上げた。
「勝った……!」
「カイ、あんたの煙が効いたんだ!」 カイは肩で息をしながら、布袋の残りを握りしめた。
「料理は……武器にもなる。だが、それで終わりにしちゃいけない。食べて、動いて、また笑えるようにする……それが、本当の役割だ」
 その夜、村に戻った彼らは、陶器の椀に温かいスープをよそい合った。
 盗賊を退けた安堵と、交易の成功の喜び。その味は格別で、涙と笑顔が同じ椀に混じった。
次なる影
 だが、カイは知っていた。
 盗賊たちはただの野良ではない。背後に誰かがいる。ジルベルトか、そのさらに奥にいる商会か。
 辺境食堂の名が広がれば広がるほど、敵も増える。
 それでも――。
 カイは焚き火を見つめながら、拳を握った。
「必ず守る。この食堂を。この村を。この料理で」
 薪がぱちぱちと弾け、炎が夜空に火花を散らした。
 辺境食堂の戦いは、まだ始まったばかりだ。第7話「王都からの招待――揺れる食堂」
 盗賊を退けてから数日。村は以前にも増して賑やかになっていた。
 荷車に積まれた陶器や布は、村の家々に分けられ、冬支度が進んでいる。子どもたちは新しい布をまとって走り回り、老人たちは陶器の椀で温かい粥をすすりながら「歯に優しい」と笑った。
 《辺境食堂》の竈には毎日火が入り、カイは村人たちと共に新しい料理を試みていた。麦を発酵させて酒に近い飲み物を作り、薬草を混ぜて体を温める湯を試す。村人たちは皆、生きる力を取り戻しつつあった。
 そんな折――村の広場に、一台の立派な馬車が現れた。
王都の使者
 馬車から降り立ったのは、金糸を織り込んだ服をまとった青年だった。背筋を伸ばし、手には王都の紋章が刻まれた筒を抱えている。
 村人たちは息を呑み、子どもたちは隠れるようにして覗き込んだ。
「こちらが……《辺境食堂》を営む、料理人カイ殿か」
「そうですが……」
 青年は胸を張り、筒を差し出した。
「王都の貴族、リヴァンス侯爵家よりの招待状である」
 ざわめきが広がった。
 カイは手を伸ばし、封蝋を割って文を開いた。『辺境の食堂にて、兵士と行商人を癒す料理を振るう者ありと聞き及んだ。
我が屋敷にて、その才を披露することを望む。
王都リヴァンス侯爵邸にて、来月初旬、宴の席を設ける。
招待状を携え、必ず参られよ。』
 読み終えた瞬間、村人たちは口々に叫んだ。
「すごい!」「ついに王都に!」
「けれど、危なくはないか?」
 カイは招待状を胸に抱え、深く息を吸った。王都――かつて「無用」と切り捨てられた場所。再びそこに足を踏み入れる時が来たのだ。
揺れる村人たち
 夜、焚き火を囲んで村の会議が開かれた。
 若者たちは興奮気味に言った。
「カイが王都に認められれば、この村も豊かになる!」
「交易路も整備され、盗賊も近づけなくなるかもしれない!」
 一方で、老人たちは眉をひそめる。
「だが、王都の貴族など信用ならん。利用されて終わるかもしれん」
「カイを取られて、この村からいなくなったらどうする」
 カイは両手を膝に置き、皆を見渡した。
「俺は、この村を捨てません。どんな場所に招かれようと、ここが始まりです。けれど――王都に行く価値はある。料理が人を救えると証明する場が広がるのなら」

 沈黙のあと、村長が頷いた。
「ならば、行け。だが一人では危険だ。護衛と仲間を連れて行け」
旅の準備
 翌日から、村は王都行きの準備に追われた。
 干し肉と薬草を詰め、陶器をいくつか持ち、交易用の品として布を整える。牛車の代わりに馬を借り、荷を軽くする。
 同行を志願したのは、若者二人と、村長の孫娘リーナだった。
「私も行きます!」
「リーナ、お前はまだ……」
「薬草の知識なら私もあります。それに、王都で何かあったときに一人でも多い方がいいでしょう?」
 村長は渋い顔をしたが、最終的に許した。
 カイは心強く思った。料理も大事だが、支えてくれる仲間がいなければ立ち向かえない。
王都への道
 王都までは十日ほどの道のり。森を抜け、川を渡り、丘を越える。
 最初の三日は穏やかだった。夜は焚き火を囲み、干し肉のスープをすすり、星空を眺めながら眠った。
 だが四日目、街道の分岐で再び盗賊に狙われた。
 十数人の盗賊が道を塞ぐ。頭目は別の顔だったが、背後に商会の紋章を刻んだ腕章をつけている。
「侯爵に呼ばれた料理人か。悪いが、ここで足止めさせてもらう」 カイはすぐに竈を組み、煙草草を焚いて煙幕を張った。リーナは薬草を砕いて傷薬を作り、若者たちは槍を振るう。
 戦いは激しかったが、彼らは盗賊を退けることに成功した。
「やはり……裏に誰かがいる」
 カイは息を整えながら呟いた。ジルベルト、そしてその背後にいる商会の影が濃くなっていく。
王都の門
 十日目の夕暮れ、ついに王都の巨大な門が見えてきた。
 高くそびえる城壁、石畳の広い道。人々が行き交い、商人の声が響き、香辛料や焼き菓子の匂いが漂ってくる。
 村人たちは息を呑み、リーナは目を輝かせた。
「すごい……こんなに大きな街、初めて見ました!」
 門番が招待状を確認すると、即座に道を開いた。
「リヴァンス侯爵邸へ向かうがよい」
 王都の中は活気に満ち、だが同時に鋭い視線が突き刺さるようでもあった。
 ――ここで自分の料理が試される。失敗すれば村も巻き込む。
 カイは拳を握り、深く息を吐いた。
宴への幕開け
 リヴァンス侯爵邸は、王都でも屈指の大邸宅だった。白い石造りの壁、広い庭園、煌びやかな門。
 執事に案内され、カイたちは応接間に通された。「明日、宴が開かれる。諸国から貴族や商人が集う。そこでお前の料理を披露してもらう」
 執事は淡々と告げた。
「期待に応えられなければ、ただの田舎者として嘲笑されることになるだろう」
 リーナが不安げにカイを見た。
 だがカイは微笑んだ。
「大丈夫。料理は俺が裏切らない。村で積み重ねた日々があるから」
 窓の外、王都の夜空には満天の星が広がっていた。
 村で見上げた星と同じ光。
 ――ならば、恐れることはない。
 こうして、《辺境食堂》はついに王都の舞台へと歩み出すのだった。

第8話「王都の宴――料理対決ふたたび」 翌日。
 リヴァンス侯爵邸の大広間には、すでに数十人の貴族や商人が集まっていた。
 金糸を織り込んだ衣服、宝石をあしらった装飾具、香水の匂い。辺境の村では想像もできないほどの華やかさが広がっていた。
 天井には巨大なシャンデリアが下がり、蝋燭の光が鏡に反射して大広間を昼のように照らしている。
 招待客たちは噂を囁き合っていた。
「例の“辺境の料理人”が来るらしい」
「魔物の肉を料理するという、あの?」
「荒唐無稽だ。だが兵士たちは癒されたと聞く」
「本当に人を救う料理なら、商会を揺るがすだろうな」
 カイは深呼吸を繰り返しながら、背筋を伸ばした。隣にはリーナ、後ろには村から同行した若者たち。
 村での夜を思い出す。星空の下、皆で囲んだ鍋の温もり――あれを、ここで再現すればいい。
ジルベルトの登場
 扉が開き、見覚えのある男が現れた。
 白の調理服を纏い、髪を撫でつけ、鋭い目で会場を見渡す。
 ジルベルト。王都の有名料理人であり、カイの前に立ちはだかるライバル。「本日は光栄だ。王都最高の味を、この場で示させてもらう」
 彼は胸を張って宣言した。会場からは拍手が起こる。
 ジルベルトはすでに侯爵家と商会の後ろ盾を得ていた。彼が勝てば、辺境の噂は潰され、カイはただの田舎者に逆戻りする。
 侯爵が立ち上がり、声を響かせた。
「これより、料理人二人による競演を行う! 題は――『人を癒す料理』!」
 大広間がざわめき、料理台が用意される。豪華な銀器と調理道具、王都から取り寄せた新鮮な食材が山のように積まれていた。
豪華さと素朴さ
 ジルベルトは迷わず高価な食材を手にした。
 脂の乗った鴨肉、希少な香辛料、熟成させた葡萄酒。
 手際よく肉をさばき、赤ワインで煮込み始める。香りが広がり、貴族たちは早くも拍手を送った。
 一方、カイが手にしたのは――干し肉、薬草、そして畑で余りがちな麦だった。
 ざわめきが広がる。
「何だあれは?」「あんな貧相な材料で……」
 嘲笑も聞こえたが、カイは気にせず火を起こした。
 彼はまず麦を挽き、粥を作る。そこに刻んだ薬草を加え、魔物肉の干し肉を戻して煮込む。香りは素朴だが、どこか心を温める匂いが漂い始めた。
 リーナが横で支え、若者たちが火加減を調整する。辺境で培った連携が、ここでも活きていた。
味の審判
 やがて二つの料理が完成した。
 ジルベルトの皿は、濃厚な赤ワインソースで輝き、鴨肉が豪華に盛り付けられている。
 カイの椀は、黄金色の粥に薬草の緑が散り、湯気が優しく立ち上る。
 侯爵が審査の合図を出し、まずジルベルトの料理が配られた。
 一口食べた貴族たちは、感嘆の声を上げる。
「絶品だ!」「口に広がる香りが素晴らしい!」
 次にカイの料理。
 最初の一口を運んだ貴族は、しばし黙り込んだ。周囲がざわつく。 だが次の瞬間、彼は深く息を吐き、椀を抱えるようにして言った。
「……体が軽い。疲れが溶けていく……」
「本当だ……胸の痛みが和らいでいく……!」
 あちこちから驚きの声が上がり、静かな感動が広がっていった。
 侯爵自身も椀を口にし、目を閉じた。
「――これは、薬か、いや……確かに料理だ。人を癒す力を持つ料理だ!」会場の反応
 会場はざわめきから拍手へ変わり、やがて大きな歓声が広がった。
「辺境の料理人が、本当に癒した……!」
「ただの噂ではなかった!」 ジルベルトは顔を歪め、唇を噛みしめた。
「そんな……粗末な材料で……」
 だが、どれほど豪華な食材を使おうと、人を癒す力までは真似できない。
 侯爵は立ち上がり、堂々と宣言した。
「この場の勝者は――カイ、《辺境食堂》の料理人である!」
 大広間に拍手と歓声が響いた。リーナは涙ぐみ、若者たちは拳を突き上げた。
 カイは深く一礼し、胸の奥に確信を抱いた。
 ――料理は、武器ではない。人を救うためにある。
新たな脅威
 宴の終わり、侯爵はカイを呼び寄せた。
「そなたの才は確かに本物だ。だが気をつけよ。王都には商会の利権が渦巻いておる。今日の勝利は、同時に敵を増やすことにもなる」 カイは頷いた。
「承知しています。けれど、俺は退きません。食堂を守り、仲間を守り、料理で人を救う。そのためにここまで来たのです」
 侯爵は満足そうに笑い、彼の肩を叩いた。
「ならば力を貸そう。辺境と王都を繋ぐ交易路を整え、食堂を支援する。そなたの料理は、この国に必要だ」
 その言葉に、カイの胸は熱くなった。
 だが同時に、会場の隅で鋭い視線を感じた。
 ジルベルト――そして彼の背後にいる商会の男たち。 彼らは笑ってはいなかった。
夜の誓い
 宴のあと、宿に戻ったカイたちは静かに語り合った。
 リーナは真剣な目で言った。
「今日の勝利は確かに大きい。でも、敵も強くなります。盗賊だけじゃなく、もっと大きな力が動きます」
「分かってる」
 カイは頷いた。
「けど、俺たちは退かない。料理一皿で人が救えるなら、それを広げるだけだ」
 夜空には、村で見上げたのと同じ星が瞬いていた。
 《辺境食堂》の物語は、ついに国全体を揺るがす局面へと踏み出したのだった。

第9話「商会の陰謀――食材供給の封鎖」
 王都での宴から数日。
 《辺境食堂》の名は一気に広がった。
 「辺境の料理人が人を癒した」という噂は街角の酒場から兵舎まで駆け抜け、行商人たちはこぞってその真偽を確かめに辺境へ行こうとした。
 カイは宿の一室で、リーナや仲間と今後の計画を練っていた。
「侯爵からの支援で交易路が少しは安全になる。でも、商会は黙っていない。……何を仕掛けてくると思う?」
 リーナが眉をひそめる。
「盗賊を使うのはもう見え透いています。もっと直接的に、交易そのものを止めにくるはず」
 若者の一人が唇を噛んだ。
「塩や布が入らなくなったら……村はまた飢える」
 その時、宿の扉が乱暴に叩かれた。使いの少年が転がり込むように飛び込んできた。
「大変だ! 市場で《辺境食堂》への物資の取引が禁止された!」
市場の封鎖
 駆けつけた市場には、すでに人だかりができていた。
 入口には商会の紋章を掲げた兵士が立ち、布や塩の荷を積んだ行商人たちを押し返している。
「これはどういうことだ!」 カイが声を上げると、商会の役人が冷ややかに振り返った。
「《辺境食堂》に物資を流すことは禁ずる、との決定だ。理由は簡単。魔物肉を使うなど危険極まりない。王都の秩序を乱す者には供給しない」
 行商人たちは不満を口にするが、役人は鼻で笑った。
「従わぬなら、市場から締め出すまでだ」
 カイの胸に怒りがこみ上げる。だが拳を振るっても解決はしない。
 ――商会は正面からではなく、生活の根を切りにきた。
村への影響
 辺境の村に戻ると、状況はすぐに悪化した。
 塩がなければ保存食が作れない。布がなければ防寒具も足りない。
 子どもたちが「しょっぱいスープが飲みたい」と泣き、老人たちは布切れを重ね着して震えていた。
 村長が深いため息をつく。
「交易を止められれば、この冬は越せぬ……」
 リーナが拳を握りしめた。
「こんな理不尽、許せない!」
 カイは竈の前で膝をつき、長い時間火を見つめていた。
 ――料理は人を救うためにある。ならば、供給を断たれても何か方法があるはずだ。
“作る”という発想
 翌朝、カイは村人を集めた。「商会が供給を止めたなら、俺たちが作ればいい」
「作る?」
「塩だ。布だ。全部を一度に作るのは無理でも、工夫すれば代替できる」
 村人たちは目を丸くした。
「塩を……作るだと?」
 カイは川辺に案内した。
「川の下流には干潟がある。潮が満ちて引く場所だ。海水を汲んで煮詰めれば、塩になる」
「そんなことが……」
「時間はかかるが、できる。料理の延長だ」
 さらに布の代わりには羊毛を紡ぎ、薬草を混ぜて防寒性を高める案を示した。
「辺境の暮らしは不便だ。だが、それは工夫の余地があるということだ」
 村人たちの目に光が戻る。
「やってみよう!」「俺も手伝う!」
塩づくりの挑戦
 干潟に鍋を運び、薪で火を焚く。
 子どもたちが海水を汲み、若者たちが煮立った鍋をかき回す。
 湯気が立ち、やがて底に白い結晶が残った。
「これが……塩?」
 舐めた瞬間、顔がほころぶ。
「しょっぱい!」
 歓声が広がり、村全体に活気が戻った。
 少量でも、自分たちの手で塩を作れた。その事実が心を支えた。
商会の妨害
 だが、商会も黙ってはいなかった。
 数日後、村の入口に武装した男たちが現れた。
「塩の密造など許されぬ! これは商会の権利を侵す行為だ!」
 彼らは市場の兵士を装っていたが、実態は商会の私兵だった。
 村人たちは怯えたが、カイは前に出た。
「塩を作ることが罪だというなら、飢えて死ねというのか!」
「秩序を乱すな!」
「秩序を乱しているのはお前たちだ!」
 刃が抜かれ、緊張が走った。
 その瞬間、森の奥から兵士の部隊が現れた。侯爵家の紋章を掲げて。
侯爵の庇護
 兵士の隊長が声を張り上げる。
「侯爵の命により、《辺境食堂》は保護下に置かれる! 商会の私兵は直ちに退け!」
 私兵たちは舌打ちし、渋々引き下がった。
 村人たちは歓声を上げ、カイは深く息を吐いた。
 ――危うく全てを奪われるところだった。 隊長はカイに近づき、低く言った。
「侯爵は貴殿の料理を高く評価している。だが同時に、商会の圧力も強まっている。戦いはこれからだ」
 カイは頷いた。
「覚悟はできています。俺は退かない」
冬の始まり
 その夜、村では自分たちで作った塩を使ったスープが振る舞われた。
 味は少し荒削りだったが、皆の顔は笑顔で満ちていた。
「自分たちで作った塩で……生きられる!」
「辺境でも、やれるんだ!」
 カイは椀を手に、焚き火の光を見つめた。
 商会の陰謀はこれからも続くだろう。だが、この村には工夫と希望がある。
 料理は武器にも盾にもなる。
 そして、何より――人を繋ぐ力になる。
 冷たい風が吹き、夜空の星が瞬いた。
 辺境食堂の戦いは、まだ始まったばかりだ。

第10話「宮廷の試練、王の匙」
 冬の入口を告げる風が王都の屋根を鳴らした。辺境へ戻ったその翌週、リヴァンス侯爵からの第二の書状が届く。王宮より正式に̶ ̶ 「療食」を披露せよ、と。場所は宮廷の内台所、臨席は王太后と王弟、侍医団、宮廷楽団の長、そして商会連合の監察役。敵も味方も揃う舞台だった。
 村の広場で封を切ると、紙の繊維の奥まで威圧の匂いが染みている気がした。リーナが唇を引き結ぶ。
「……逃げ道を塞いできてる」
「行くさ。逃げるより、鍋を持って歩いた方が温かい」
 カイは笑って見せ、村人と抱き合い、旅支度を整えた。携えるのは少量の干し肉、自作の塩、薬草束、陶器の椀、そして《辺境食堂》の煤の匂い。若者二人とリーナが同行する。村長は背を伸ばし、「王の匙でも、お前の柄杓には敵うまい」と冗談めかした。笑いがこぼれ、冬の息が白く揺れた。
 王宮の門は、前回よりも重く見えた。だが招待状に侯爵の印があ ̶る限り、誰も止められない。通されたのは「内台所」 王の口へ入るものだけを扱う、静謐で冷たい石の部屋だった。壁には磨き上げられた銅鍋が並び、床は水で洗い立て、冷えが足裏から脛まで刺す。
 出迎えたのは、総料理長オルダン。白髪の髭を短く整え、目だけが刃物のように細い。
「辺境の鍋の者か。規律は守れ。刃は右、塩は王家の蔵のものを使え。火はこの篝火のみ。持ち込みは原則禁止だ」 言いながら、オルダンは黙ってカイの荷を検めた。干し肉、自作
̶の塩、薬草束 ひとつずつ摘まむ指先が、疑念の癖を持っている。
̶ 塩は不可。外の塩は王家の味を乱す」「
「では、王家の塩で」
 カイはあっさり頷く。持ち込むべきは塩そのものではない。塩の
「使い方」だ。
 案内された調理場の隅では、見覚えのある白服が肩を揺らした。ジルベルトだ。彼は薄笑いをし、ささやくように囁いた。
「ここでは田舎の煙幕は使えない。舞台は香りと規律と伝統だ。お前の鍋では届かない高さがある」
「高さがあるなら、脚立を作ればいい」
̶ 脚立を燃やすのが王都のやり方だ」「
 ジルベルトは踵を返し、銀の蓋を小気味よく鳴らして遠ざかった。
 試練の条件が侍医から告げられた。王太后は長患いで胃が弱く、王弟は戦傷の痛みで睡眠が浅い。脂と香りの強いものは禁じ、しかも「宮廷の塩」「宮廷の水」「宮廷の薪」を使うこと。与えられた ̶時間は昼鐘から夕刻まで。求めるのは 「癒し」である。
 周囲には王都一流の料理人が並び、銀器が鳴り、刃が走る。オルダンは遠目に腕を組み、監察役は書記を従え、筆を走らせる。リーナは台を拭き、若者たちは火加減と水運びに回った。
 カイは耳の奥であの「式」が組み上がるのを感じた。骨、水、塩、香草、火加減。点と線と矢印が、石の台の上に白い痕跡を描く。選んだのは宮廷の貯蔵庫に眠っていた老いた雌鳥の骨、乾きかけた根菜、わずかな大麦。それらを黄金の清湯に仕立て、粥と二種の小皿に展開するつもりだった。
̶ まずは骨。 
 鶏骨を冷水から静かに起こす。沸点の手前で灰色の泡が寄り、詫びるように弾ける。アクをすくい、音が「ことり」と穏やかに変わるところで火を落とす。水面は鏡のようになり、底から光の筋が立つ。塩はまだ入れない。塩は最後、体に馴染ませる瞬間のために残す。
̶ 香草は刃でなく、息で。
 リーナに合図し、宮廷の庭から許された少量のタイムに似た草と、穏やかな苦みの葉をすり鉢で撫で合わせる。叩かない。潰さない。香りの扉だけ開ける。若者は火の「呼吸」を覚えた手つきで薪を寄せ、湯を微睡ませ続ける。
̶ 根菜は角を落とし、四隅に甘みを出す。 
 小さな鍋で別に煮含め、塩はひとつまみ、指の腹で雪にする。これは王太后の皿に刻む「やさしさ」。
 内台所の空気が微かにざわついたのは、隣の台でジルベルトが早くもひと皿仕上げたからだ。白身魚を蒸して乳で伸ばし、柑橘の香りを纏わせたソース。軽やかで、音楽のように流麗だ。貴婦人の嗜 ̶好に寄せた見事な手並み だが、侍医の目は動かない。彼らが見るのは香りではなく、体がどう応えるかだ。
 カイは湯の表情を読み続ける。表層の小さな泡が中心に集まって消えるたび、骨の中の「諦め」が出て、湯がそれを受け容れていく。やがて黄金の清湯ができた。目で見える透明さではなく、舌の上で消えて、あとから血に染みる透明さ。ここで初めて、王家の塩をひとかけ、溶かす。舌ではなく、喉で味を決める。 粥の釜を起こし、大麦を洗い、湯で膨らませ、清湯をかけてさらに育てる。皿は三つに決めた。
̶ 一、黄金清湯の粥 王太后へ。
̶ 二、根菜の薄煮と柔らかい白身の蒸し物 胃の負担を逃がし、眠りへ誘う皿。
̶ 三、香草の温かな茶 王弟へ。痛みの峰をやわらげ、夜の入口を見せる一服。
 仕上げの直前、カイは塩壺のふたを開けて指を入れ、すぐに眉根 ̶を寄せた。 嫌な「遅さ」が舌に残る。王家の塩、ではあるが、蔵の一部にだけ混ざる苦い後味。金属疲労のような鈍いざらつき。
誰かが意図的に、あるいはずさんに鉱滓を混ぜたのだ。
 「リーナ、壺を替えて」
 「え?」
「この塩は遅い。清湯が疲れる」 オルダンが近づく。
̶「規律を 」
「規律のために舌を壊すわけにはいかない。別の壺でも宮廷の印があるなら同じだ」
 カイの声は静かだった。オルダンは刃物のような目で数秒見つめ、別の壺を指した。
「試せ」
 新しい塩は、指で潰すと雪の音がした。舌の上で軽く溶け、後ろへ、血へ、穏やかに沈む。「これだ」。
 盛り付けの時、ジルベルトが肩越しに囁いた。
「塩の選り好みで王の機嫌を損ねるな。宮廷では『用意された条件』で勝つ。それが美学だ」
「なら、美学を食べて眠れるか?」
 カイは返し、椀口を拭った。
 献立は王太后から。カイは膝をつき、椀を差し出す。白金の髪は陽に透け、頬には長い眠りの影がある。侍医が匙を取り、わずかを口へ。王太后の喉が静かに動き、肩がひとつ落ちた。彼女は自ら匙 ̶を持ち、二口、三口 目尻に小さな皺がほどける。
「温かい川の音がするね」
 その一言に、侍医の筆が止まった。脈拍が、呼吸が、わずかに深くなっている。
 王弟には白い皿。蒸した白身に根菜のやわらかな甘みをのせ、清湯を薄く注いだ。噛むというより、舌で崩す料理。彼は戦の傷を右脇に抱え、夜ごと痛みで目を開けるという。
「痛みの峰は越えられぬ」
 侍医が低く言った。
「峰は越えない。ただ、登り口を緩やかにする」
 カイは香草の茶を添えた。苦みは恐れの手を握り、温かさは眼差しを夜に向ける。王弟は一息で飲み、長い呼気を吐いた。掌が膝の上でほどけ、眉間の糸が緩む。
̶「今夜は 眠れるかもしれぬ」
 内台所は静かな熱で満ちた。オルダンの顎がわずかに上がり、監察役は数字のない帳面に、何かを書いた。ジルベルトは唇を噛み、俯いた顔に影が斜めに走った。
 休む間もなく、監察役が前に出る。
「なお、第二の課題を加える。商会連合の協賛である。王都の貧民院に即席の施食を行い、三百人を二刻で養え。食材の購買は本日より三日の間、商会の市場でのみ許可する」 ジルベルトが目を光らせる。取り引きの封鎖を、試験と称して合法化したのだ。リヴァンス侯の眉が動くが、監察役は冷たい笑みで続ける。
「王の為政は秩序の上にある。秩序の枠で結果を出す者を、王は愛する」
 カイは短く頷いた。秩序という名の囲いの中で、どうやって外へ ̶風を通すか それが次の鍋だ。
「材料の自由がないなら、工程で自由を作る」
 彼はリーナと若者を見た。目の奥の火は、村の焚き火と同じ色だった。
 三日間、カイは市場で「最も売れ残る食材」を集めた。筋張った牛のすじ、芽吹きそこねた豆、皮に傷のある芋、香りの抜けた麦。
商会の店主たちは嘲った。
「場末の鍋だな。王都でやることか」
「食べられるものは全部役に立つ」
 カイは淡々と返す。
 貧民院の中庭に大釜を据え、薪を積み、湯を起こす。まず牛すじを叩いて繊維を解き、低い火で長く、長く。水が疲れないよう、薪の呼吸を整え、アクを丁寧にすくう。そこへ洗った麦を入れ、豆を加え、皮の傷を落とした芋を崩し入れる。香草は侍医が許した範囲
̶ 苦くない、眠りを遠ざけないものを、風のように少し。で
 塩は王家の蔵のもの。しかし、鈍い壺は避ける。仕上げにだけ、雪の音の壺からひとつまみ。味を手前に引っ張らず、奥へ沈めるために。
 列ができた。痩せた頬、寒さで青い唇、子どもを抱えた母親。最初の椀を差し出すと、湯気が顔にかかり、表情がほどけた。
̶ あったかい」「
 ひと口で涙をこぼす者がいる。二口目で笑う者がいる。子どもが両手で椀を抱き、鼻の頭を赤くしながら「おいしい」と言った。
 ジルベルトは離れた場所で腕を組んで見ていた。彼の台にも大釜が据えられ、磨かれた穀物と香り高いスープが美しく並んでいる。だが列は短い。彼の料理は「見事」だが、「遠い」。貧民院の空腹は、理屈ではなく触れる温度を求めていた。
 二刻の鐘が鳴る頃には、三百の椀は空になっていた。鍋底には黄金色の薄い膜だけが揺れ、最後の子にそれを掬って渡すと、彼は舌で大事そうに溶かした。
 その場で侍医団が簡易の観察を行い、体温、脈、顔色、呼吸のリズムを確かめる。書記の筆が初めて忙しく動いた。監察役は無言で数字を覗き込み、表情を崩さないままだった。
 翌朝、王宮の小広間に呼ばれる。リヴァンス侯、オルダン、侍医長、そして商会連合の監察役が並ぶ。壁のタペストリーに朝の光が斜めに落ち、糸の金が寒い。
 侍医長が口火を切った。
̶「内台所の献立、貧民院の施食 いずれも『過度の香りと油を避け、体におさまる温度と塩の位置を守っている』。結果、睡眠の質と疼痛の自覚は統計的に改善した」
 オルダンは鼻を鳴らし、「技は粗野ではない」とだけ言った。最大級の賛辞だった。
 監察役が扇を畳み、ゆっくりと口を開いた。
「しかし、秩序の問題は残る。辺境の食堂が王都の供給網に口を出すなら、混乱は避けられまい」
 カイは一歩進んだ。
「口を出すつもりはありません。鍋を出します。王都の網に細い糸を足すだけです。『旅する大釜』を作りたい。王都と辺境、村と村を回って、施食と小さな教えを置いていく。商会の店から買えるものは買う。買えない場所は自分たちで作る術を教える」
 監察役の眉が動く。「教える?」
「はい。塩の煮詰め方。水の沸かし方。苦みの逃がし方。眠りの入口の作り方」
 沈黙。壁の金糸が震えるように見えた。
 リヴァンス侯が笑った。
̶「王は匙を持つ者を愛する と、祖父は言った。匙で叩く者ではなく、すくう者を。よい、王命として『旅する大釜隊』を認可しよう。護衛は王弟の名で付ける。商会は妨げるべからず」
 監察役は扇で口元を隠したまま、目だけで笑った。敗北の笑みではない。狩場を移す獣の笑みだ。
「王命とあれば、従うまで」
 退室の際、オルダンが低く言った。
̶「塩の壺の選別に気づいたのは、見過ごせぬ耳だ。 敵は塩を濁す」
「はい」
「塩は目ではなく、喉で選べ。喉の後ろの方、そこに雪が降る音が
̶する壺を 」
「知っています」
 オルダンの目が、初めてほんのわずか柔らかくなった。
 王宮を出ると、冬の日差しが鈍い銀の皿のように街を照らしていた。リーナが肩の力を抜き、空を仰ぐ。
「勝った、のかな」
「勝ち負けじゃない。やっと、歩ける道が見えた」
 若者のひとりが笑った。
「『旅する大釜隊』って、名前がもううまそうだ」
「うまそうが一番だ」
 カイは肩の荷を少し持ち替え、王都の石畳へ足を踏み出した。
 その頃、宮廷の奥の別室で、ジルベルトは商会の男と向かい合っていた。男は黒い手袋を外し、机に指を鳴らす。
「王命は重い。だが、塩は我らの海から上がる。彼らが教える『やり方』は、我らの利を削る」
 ジルベルトは視線を落とし、指先を組んだ。
「辺境の鍋は素朴で、強い。だが、強さには名をつけ、契約に縛ればいい」
「どうする」
「『規格』を作る。塩の純度、薪の種類、火加減の温度帯、配膳の量、施食の回数。王都で決めた規格を守らぬ鍋は、王命に背く鍋だと、印を押す」
 男の唇に線が引かれた。
「よかろう。規格は秩序、秩序は印、印は金だ」
 風が窓を鳴らし、遠くで鐘がひとつ鳴った。
 《辺境食堂》へ戻る途中、カイはふと振り返った。石の塔の上で、光が小さく点滅した気がした。王宮の窓か、商会の灯か。どちらでもいい。火は火だ。鍋にくべれば、湯はまた沸く。
 村に着いた夜、初めての「大釜隊」の集いが開かれた。広場の真ん中に大釜を据え、子どもから老人までが薪を一本ずつ持ち寄る。薪には名前が書かれている。火は皆の名を舐め、煤でひとつの家族を描いた。
 カイは柄杓を握り、ゆっくりと湯を回した。
̶「旅は長い。だけど、椀は軽い。持てるだけ持って、配ろう。
料理一皿が、国を揺らす」
 リーナが笑い、若者が頷く。村長は杖で地面をとんとんと叩き、低く歌い出した。吟遊詩人がいつか奏でた、あの簡素な旋律。焚き火が応え、星が寄ってくる。
 冬は深まる。だが、湯気は空へ道を作る。
 《辺境食堂》の物語は、王都の石畳から土の道へ、そしてまた王 ̶都へ戻る、往復の息を覚えた 。

第11話「旅する大釜隊――規格との衝突」
 冬の空気は重く澄み、吐いた息が音もなく凍りそうだった。村の広場に据えられた大釜は、すでに煤で黒光りし、周囲には村人が集まっている。薪にはそれぞれ名前が書かれ、一本一本が家族や仲間の証だった。
 カイは柄杓を握り、皆に告げる。
「王命により、《旅する大釜隊》が認められた。これからは村を超 ̶えて、町を超えて、人を救う鍋を運ぶ。 だが、商会は黙っていない。彼らは“規格”で縛りに来るだろう」
 リーナが唇を結ぶ。
「規格……つまり、決められた手順以外は“違法”ってことですよね」
「そうだ。味ではなく、数字で鍋を裁く。けれど、本当に必要なのは数字じゃなく、人の体と心に届く温度だ」
 村人たちは黙って頷いた。
 その夜、大釜は轟々と火を吐き、辺境の夜空に白い道を描いた。
最初の遠征
 翌週、《大釜隊》は出発した。
 荷車に釜と食材を積み、若者三人とリーナ、そしてカイ。
 侯爵家から派遣された護衛兵も同行し、旗には「王命施食」と刺繍された紋章がはためいた。 最初の訪問地は、王都の北にある寒村だった。
 飢えた子どもたちが凍え、老人たちが枯れ木のように肩を寄せ合っている。
 釜に火が入り、麦粥が湯気を立て始めると、村人たちの目に希望が戻った。
 「温かい……」「体が震えなくなった……」
 涙をこぼしながら笑う子どもを見て、リーナは鍋の縁に額を寄せた。
「この瞬間のために、私たちは歩いてるんだね」
商会の「規格」
 だが、喜びは長く続かなかった。
 施食を終えた翌朝、村の入口に商会の役人が現れた。
 手には厚い羊皮紙。そこにはびっしりと数字と規定が並んでいる。「商会規格第十二号に基づき、“施食に用いる塩は純度九十七以上、
火力は薪の種類を指定、配膳量は成人一人につき三百二十グラムを標準とする”」
 カイは紙を受け取り、冷ややかに目を通した。
「つまり……この規格に従わなければ、俺たちの鍋は“違法”だと」
「その通り。王命であろうと、商会規格に違反する者は交易の場から排除される」
 護衛兵が一歩踏み出すが、役人はにやりと笑った。
「力で鍋を守れると思うか? 市場も、交易も、全て商会の網の中だ。網に従わぬ魚は、干上がるだけだ」 去っていく背中を見送りながら、カイは深く息を吐いた。
 鍋を壊すのではなく、鍋の「定義」を変える。それが彼らの戦い方だった。
仲間たちの不安
 その夜、焚き火のそばでリーナが言った。
「規格に従えば、施食はできる。でも、それじゃ……あの黄金の粥の温かさは出せない」
「従わなければ、交易を断たれて人が飢える」若者が苦々しく呟いた。
「どうすればいいんだ……」
 カイは黙って鍋を見つめた。炎に照らされた粥の湯気が、揺れながら夜空に消えていく。
「規格は確かに強い。でも、鍋は一人じゃない。王都の人も、兵士も、飢えた村人も、みんなが椀を求める。……その声を集めて、規格を揺らすしかない」
 リーナが目を見開いた。
「声を……規格に勝つのは、数字じゃなく、人の声」
王都での集会
 数日後、《大釜隊》は王都へ戻り、広場で大釜を据えた。
 人々が列をなし、噂を聞きつけた兵士や職人、貧民が次々に集まった。
 椀を受け取った者たちが声を上げる。
「この粥で眠れた!」「痛みが和らいだ!」「子どもが笑った!」 群衆の声は広場を包み、やがて宮廷の窓にまで届いた。
 リヴァンス侯が現れ、群衆を見渡した。
̶ 王は民の声を聞く。鍋は秩序の外にあるのではなく、秩序を「支える柱である」
 その言葉に歓声が上がり、商会の役人たちは顔を引きつらせた。
商会の反撃
 しかし、商会はただ黙っていなかった。
 翌朝、王都の新聞に大きな見出しが踊った。
「辺境の鍋、規格違反! 民衆を惑わす危険な粥!」
 ジルベルトの名もそこにあった。彼は記事でこう語っていた。
『癒しを謳うが、科学的根拠はない。鍋の中にあるのは偶然と迷信
̶だ。 真の秩序を守るのは、規格と商会である』
 王都はざわめいた。
「本当に安全なのか?」「ただの噂では?」
 支持と疑念が入り混じり、街は分断され始めた。
炎の中の決意
 夜、宿の一室でカイは窓から街を眺めた。
 リーナが静かに問う。
「……悔しくないんですか? ジルベルトに、商会に、好き勝手言われて」
「悔しいさ。けど、鍋は声を出せない。だから俺が代わりに声を出す。食べた人の体と心が証拠だ。数字じゃ測れない温度を、俺は椀に込める」
 カイは柄杓を握りしめ、静かに誓った。
「規格が鍋を縛るなら、俺は椀で国を揺らす。料理で人を救う、それだけは誰にも止めさせない」
 窓の外で鐘が鳴った。
 王都の夜空に、次の戦いの火種が灯っていた。

第12話「規格裁判――公開審問」
 王都中央広場の鐘が三度鳴った。冬の空気は薄い金属の匂いを運び、人波は大広間へ吸い込まれてゆく。今日は「規格裁判」の日だ。商会連合が提案した新しい「施食規格」を、王命で動き出した《旅する大釜隊》が守っていないとして、公の場で審問する。勝てば道は開け、負ければ大釜は国中の街道から追い出される。
 大広間の床は黒い石で組まれ、中央に円形の調理台が据えられて
いた。左右に二つの釜。片方は磨かれた銀の縁を持つ商会の標準釜、もう片方は煤で黒光りする《辺境食堂》の大釜だ。見物席には兵士、職人、貧民院の母親、そして貴族たち。天井の梁には王家の旗。リヴァンス侯は壇上に座し、侍医長と総料理長オルダンが脇に控える。
監察役は白い扇を持ち、薄く笑んだ。
「審問を始める」
 書記官の声が響き、羊皮紙の束が開かれる。
̶「被審問者 《旅する大釜隊》代表、料理人カイ」
「ここに」
̶「審問申立人 商会連合代表、監察役カルド」
「心得た」
 ざわめきの中、ジルベルトが商会側の列から進み出た。白の調理服は無駄がなく、胸元で光る金の留め具が眩しい。
「本件の焦点は一つ。施食は秩序の内にあるべきか、外にあるべきか。外なら野蛮、内なら文明。われらは内を選ぶ」
「質問ではない。主張は後にしろ」
 オルダンの低い声が落ち、ジルベルトは肩をすくめて下がった。 監察役が扇を傾ける。
̶「規格十二号 配膳は成人三百二十グラム、小児百六十グラム。
塩の純度九十七以上、火力は楢を標準、鍋底温度は八十二度を維持。
これに従わぬ施食は“秩序に対する挑発”とみなす」
 声は滑らかで、刃のように冷たい。
「《大釜隊》はこれに従ったか?」
 カイはまっすぐに答えた。
「従っていない。従えない場がある。薪が楢でない村、塩が海から ̶遠い村、子どもの頬がこけて数字の枠に収まらない夜 そこに鍋を持っていくのが、俺たちの仕事だ」
 広間の後列で「そうだ!」と叫ぶ声。すぐに衛兵が静粛を促す。
 監察役は扇で口元を隠した。
̶「ならば検めよう。 実地検証だ」
 円形台の上に、二つの条件が置かれた。
 一、商会規格に完全準拠した施食を、商会側が調理し配膳する。 二、同じ材料を用い、規格を参照しつつも現場判断で調整した施食を、《大釜隊》が調理する。
̶ そして 食後、侍医団が脈、呼吸、体温、痛みの自己申告、睡眠潜時(眠りに落ちるまでの時間)を、当日夜から翌朝にかけ記録する。数ではなく、体で判定するための「白椀検査」だ。
 被験者として、前夜に募った市井の二十名が入場した。織工の女、夜警の男、貧民院の少年、兵役上がりの老人。緊張と期待が混じる目の列。
 オルダンが短く頷く。
「火を入れよ」 ジルベルトが規格書に沿って鍋を起こす。薪は楢。火は強すぎず弱すぎず、温度計の針が八十二を指すよう細く調整する。塩は連合の印が押された壺。麦は磨かれ、牛すじは規定時間で煮られ、泡は寸分違わず掬われる。見事だった。誰も文句をつけようがない「均し」の技。
 カイは同じ材料を手に取りながら、目を閉じて音を聞いた。火の呼吸、水の機嫌、骨の諦め。薪は王都の広場で調達した雑木、湿り気が強い。火が鈍ると、若者に合図して薪の組み方を変える。鍋底の泡が大きくなりすぎた瞬間は、少しだけ鍋をずらし、火の尖りを
̶外す。塩は王家蔵から回された壺を指先で試す 雪の音。よし。
 リーナが薬草を掌で撫で、香りを撫でるだけで終える。潰さない。
疲れた体に重い香りは要らないから。
 「配膳量は?」と侍医が問う。
「成人は三百前後。子どもは頬と目の沈みで変える。今日は百八十
̶ 昨日の冷え込みで消耗している」
 侍医は眉を上げたが、筆を止めなかった。
 やがて二つの鍋から、二十の椀が生まれた。
 規格粥は美しく、光沢が均一で、匙の跡がすぐ消える。
 大釜粥は素朴で、湯気が濃く、香りに水の甘さが立つ。 人々は最初に商会の椀を、次に大釜の椀を口に運んだ。
広間に、一瞬の静けさが落ちる。
 織工の女が先に言葉を見つけた。
「どちらも温かい。でも……こっちは、背中の強ばりがほどける」
 夜警の男が続く。
「目の奥の痛みが薄くなった。こっちは腹の上に何かが乗ってるみたいに重い」
 少年は椀を抱え、鼻の頭を赤くして笑った。「眠くなる粥はこっち」
 笑いが起き、衛兵も口元を緩めた。
 審問はそこで終わりではない。侍医団は人々に小さな砂時計を渡し、夜の潜時を測る方法を説明した。計測係が各家庭へ同行し、翌朝、記録を持ち帰る。
「数字で裁くのではない。体が書いた数字を読む」
 オルダンの言葉に、監察役は扇先で机をとんとんと叩いた。
̶ 夜。 
 王都の冬は骨にしみた。カイは宿の小窓から街の灯りを眺め、息を白く吐いた。リーナは施食の残りで薄い茶を啜り、若者たちは薪の組み方を紙に描いて復習している。
「勝てると思う?」
̶「勝ち負けで言えば、半分はもう勝ってる。あとは 誰が数字を拾い、どう読ませるか」
 カイは柄杓を握り直した。
「鍋は叫ばない。だから、椀を渡し続ける」 ̶ 翌朝。
 大広間に人が集まる。侍医団の前に積まれた簡易票。潜時、夜間覚醒の回数、痛みの自己評価。記録係が順に読み上げ、書記が板に刻む。
「被験者二十名中、規格粥先食群で潜時平均二十七分、大釜粥先食群で十八分。夜間覚醒回数、規格粥一・七回、大釜粥零・九回。自
̶己評価 “体が軽い”は規格粥群で四名、大釜粥群で十四名」
 ざわつきが波のように広がり、やがて止む。数字は嘘をつきにくいが、読み方で表情が変わる。侍医長は表を見つめ、静かに言った。「差がある。偶然とみなすには、整いすぎている」
 監察役が扇を半分だけ開いた。
「だが、規格は安全の最小値を保証するためのもの。あなた方は“ 最小値”を踏み越え、現場判断という名の恣意で秩序を乱す」
 その時、後列から低い声が飛んだ。
「秩序は腹を満たすのか?」
 声の主は、かつて貧民院で配られた椀をいまも包んで持ち歩く老人だった。握られた陶器はひびだらけで、しかし清潔に洗われている。
「わしの秩序は、この椀の温かさで決まる」
 静寂。
 リヴァンス侯が立ち、広間を見渡した。
「規格を否定はしない。必要だ。だが、規格は“底”であって“天井”ではない。鍋に天井を打つのは、王のやることではない」 監察役の眉がわずかに動いた。
「提案がある」
 侯は続けた。
「“民声条項”を規格に加える。施食の場で医官と民代表が同席し、
規格に適さぬ条件がある場合、現場判断で変更を許可する。その記録は公開し、誰でも閲覧できる。これでどうだ」
 商会側の列にざわめき。ジルベルトが一歩出た。
̶「記録の公開は混乱を招く。素人が火加減に口を出す世界など 」
「素人が口を出せない世界で、誰が鍋の失敗に気づく」
 カイの声は静かだった。
「鍋はいつも、誰かの台所にある」
 議場は割れた。貴族の一部は商会に頷き、職人と兵士は大釜隊に頷く。侍医長は長い沈黙ののち、短く言った。「試行だ。三十日のあいだ“民声条項”を運用し、結果を持ち寄る」 リヴァンス侯が槌を打つ。
̶ 暫定採択!」「
 歓声と罵声が同時に上がった。衛兵の槍が床を打ち、広間に秩序が戻る。
 審問は終わり……のはずだった。
 だが、扉の陰から慌てた小姓が駆け込み、オルダンに耳打ちした。
総料理長の目つきが変わる。
「塩蔵に不審。印の偽造と、鉱滓の混入が発覚」
 ざわめきは悲鳴に変わった。監察役は扇を閉じ、薄く笑う。
「犯人は誰だ?」
̶「まだ だが、蔵番のひとりが逃げた。商会の印を持って」
 視線がいっせいに商会列へ向く。ジルベルトは表情を変えなかった。
 リヴァンス侯が低く言う。
̶「規格以前の問題だ。塩は国の舌であり血だ。これを濁す者は 」
 槌音が轟いた。
「王法で裁く」
 裁判は急きょ二部に分かれた。ひとつは施食の枠組み、もうひとつは塩の汚染。後者は王宮の法廷へ送致、前者は暫定運用のまま《大釜隊》が動けるよう命が下る。
 広間を出たところで、ジルベルトがカイの前に立った。
「俺ではない」
「信じたいが、信じられない。お前は“規格”を信じる男だ。けれど、壺に砂を混ぜるのは規格ではない」
̶ 規格は使い方次第だ」「
 それだけ言って、彼は踵を返した。白の背中に、ためらいが走ったのをカイは見た。
 外は雪だった。薄い、粉のような雪。リーナが掌を差し出し、笑った。
「空から塩が降ってきたみたい」
「なら、鍋はしょっぱくなるな」
 冗談に、若者たちがほっと笑う。緊張がほどけ、吐く息がやさしい白になる。
 その夜、《大釜隊》は王都の外れ、貧民院の中庭に釜を据えた。暫定の“民声条項”のもとで、最初の公開施食を行う。
 火は濡れた薪で機嫌が悪く、風は北へ逃げる。カイは薪の組みを変え、鍋を半歩ずらし、湯に息をさせた。
 列ができる。陶器の欠けた椀、布で継いだ袖、赤い鼻。
 カイは一杯ずつ、目と頬と手の震えを見て量を決める。
「あなたには少し濃いめ」「子どもは薄めで、温度は低く」
 記録係が書く。医官が頷く。
 最初の母親が口に運び、泣いた。
̶ あったかい、あったかい」「
 その言葉は雪に落ち、溶け、夜をやさしく濡らした。
 施食がひと段落した頃、一人の影が列の最後尾に立った。フードを深く被り、手に白い壺を抱えている。
「塩を、返しに来た」
 震える声。壺の封に商会の印。
「蔵番だった。逃げた。混ぜろと言われ、混ぜた。眠れない夜が続いた。……戻したい」
̶ カイは壺を受け取り、指で雪の音を聴いた。 しない。
「これは砂の音だ。だが、返しに来た手は雪の温度だ」 彼はリーナに目配せし、医官を呼ぶ。「話を聞こう。手を洗って、まずは食べてから」
 審問が散会したあと、オルダンは人払いをして、石の台に塩壺と木匙を並べた。薄暗い内台所に、釜のぬるい匂いが漂う。
̶「舌の地図を見せる。 地図といっても、紙ではない。指で喉の奥に雪を降らせる練習だ」
 老料理長は塩をひとつまみ、指の腹で雪にし、ほんの少量を水に溶いてから、木匙で喉の奥へそっと触れさせた。
「強い塩は舌の先で騒ぐ。良い塩は喉の奥で静かに消える。そこに “眠りの入口”がある。お前の粥が人を眠らせるのは、火と水と骨の他に、この“雪”を知っているからだ」
 カイは目を閉じ、静かに頷いた。
「俺は村で覚えました。雪の夜に、鍋に顔を近づける子どもたちの呼吸で」
「なら、忘れるな。規格は舌の先で鳴る。だが、王を動かすのは喉で消える雪だ」
 さらに侍医長が三十日の運用計画を読み上げた。
「巡回は北門下町、織工街、兵舎裏、貧民院、そして東の二つの村だ。各地で“民声条項”の記録を取り、塩・薪・水の条件も合わせて書く。配膳量は医官と合議、誰がどれだけ食べたかを“ひとりの物語”として残す」
 書記が新しい厚い帳面を差し出す。表紙には『巡回記録帳・第一巻』。
 カイは掌でその革の感触を確かめ、うなずいた。
̶「数字と一緒に、物語を書く。 それなら、鍋も息ができる」
 翌日、兵舎裏の施食では古参兵が列の前で立ち止まった。頬に古い傷、眼に夜の影。
「俺は戦場から戻って眠れねぇ。医者は薬をくれたが、朝の足が重くなる。……あんたの粥は、朝に足が軽い」
 彼は椀を空にし、静かに言った。
「規格が守るのは“最小限の俺”。あんたの鍋は“歩く俺”を守る。
どっちが秩序か、俺は知ってる」
 その言葉は記録帳の余白に、太い線で書き足された。
 遠くで鐘が鳴る。三度。
 王都はまだ揺れている。規格は動き、塩は裁かれ、人々は椀を求める。
 カイは火のそばで柄杓を立て、静かに息を吐いた。
̶ 鍋は続く。裁判の間も、雪の夜も。明日も火を起こして、椀「を満たす」
 雪は深くなり、湯気は空へまっすぐ昇った。
 《辺境食堂》の物語は、数字と声の狭間で、新しい温度を探し始めている。

第13話「巡回記録帳――陰の監視者」
 冬の曇天は低く、街道を歩く《大釜隊》の旗を灰色に染めていた。
 荷車に積まれた大釜はぎしぎしと軋み、薪と麦袋が揺れる。リーナは馬を曳き、若者たちは前後を守る。侯爵家から派遣された侍医が同行し、記録帳を胸に抱えていた。表紙にはまだ新しい革の匂いが残っている。
「今日からだね、巡回記録帳」
 リーナが笑いながら言った。
「数字と一緒に“物語”を書くんでしょう? 楽しみです」
「楽しみというより、責任だな」
 カイは深く息を吐き、荷車を支える。
「これが本当に続けば、国が変わる。けど続かなければ……ただの実験で終わる」
下町の施食
 最初の施食地は王都の下町。石畳が崩れ、屋根瓦は欠け、子どもたちは裸足で走り回っている。
 大釜に火が入り、麦粥が煮え立つと、人々が列を作った。
「お母ちゃん、匂いがする!」
「静かに並びなさい!」
 侍医は真剣な目で人々を観察し、記録帳を開いた。
「氏名、年齢、体調……そして“食後の言葉”も必ず書き記す」 配られた椀を抱えた男が、震える声で言った。
「久しぶりに……腹が温まった。働ける気がする」
 その言葉が、記録帳に残された最初の“物語”だった。
監視の影
 施食が進む中、リーナがふと背筋を強張らせた。
「……見られてる」
 街角の影に、黒い外套の男が立っていた。フードを深く被り、じっとこちらを見ている。
 配膳が終わると男は姿を消し、翌日の施食地でも別の場所から視線を感じた。
「商会の間者か?」
 若者が囁く。
「たぶん。それか……もっと大きな何か」
 カイは気配を振り払い、鍋をかき回した。
「鍋を止める理由にはならない。火は見られても、消させない」
記録帳の重み
 三日目、兵舎裏での施食。
 古参兵が列の先頭に立ち、皺だらけの手で椀を受け取った。
「戦から戻って眠れなくなった。だが昨日の粥で眠れた。今朝、足が軽かった」
 侍医が記録帳にその言葉を書き込みながら、ふと呟いた。
「数字以上に……生きた証になる」
 記録帳の頁は重くなっていく。
 一つひとつの言葉が、商会の規格よりも確かな証拠となって積み重なる。不審な壺
 ある夜、宿へ戻ると玄関に小さな壺が置かれていた。封には商会の印。
 カイが蓋を開けると、中の塩は灰色に濁っていた。
「混ぜものだ……」
 侍医が険しい顔になる。
「これは挑発だな。記録帳を汚すための」
 リーナが怒りを露わにした。
「人の口に入るものを……!」
「逆に利用しよう」
 カイは落ち着いた声で言った。
「これは証拠だ。記録帳に残す。商会が何をしているか、国に示すために」夜の訪問者
 その夜更け、宿の扉が再び叩かれた。
 現れたのは、あの黒い外套の男だった。
 彼は怯えた様子で壺を差し出し、声を震わせた。
「……俺がやった。混ぜろと言われ、混ぜた。だが、眠れなくなった。食べた人の顔が離れない。だから、返しに来た」 カイは静かに壺を受け取り、目を見た。
̶「鍋は人を裁かない。食べていけ。 そして、話せ」 男は涙を流しながら粥を口に運んだ。
「……あったかい」
 その言葉もまた、記録帳の一頁を染めた。
冬の星空
 施食を終えた夜、カイは焚き火のそばで柄杓を立てた。
 リーナが星を見上げながら言う。
「この記録帳は、規格を超える証になる。人の声が、国を揺らす」
「そうだな」
 カイは火を見つめた。
「だが同時に、誰かが必ず壊そうとする。壊されないように、鍋を守り続ける」
 冬の星空は静かに瞬き、焚き火の煙が空へと溶けていった。
 《大釜隊》の巡回は始まったばかり。だが、その影には確かに“ 監視者”がついていた。第14話「記録帳の公開――王都を揺らす言葉」
 王都の大広間に、朝の鐘が三度響いた。
 石造りの高い天井には王家の旗が翻り、壇上にはリヴァンス侯と侍医長、総料理長オルダンが並んでいる。
 中央の机に置かれているのは、一冊の厚い革表紙の本。
 《巡回記録帳・第一巻》。
 そこには、北門下町から貧民院までの施食で集められた声と数字が綴じ込まれている。
 見物席には兵士や職人、商人や貴族たちが押しかけていた。
 「本当に“声”で規格を揺らすのか?」
 「馬鹿げている。記録帳ごときで秩序が変わるものか」
 「だが、子どもたちが眠れたと噂しているぞ」 ざわめきは止まらない。
読み上げ
 書記官が立ち上がり、記録帳を開いた。
 羊皮紙の頁は、ところどころ墨がにじみ、現場で急いで記された跡が残っている。
̶「被験者一、北門の織工女。食後の言葉 “背中の強ばりがほどける。久しぶりに糸を織れる気がする”」 会場が静まる。
̶ 「被験者二、夜警の男。 “目の奥の痛みが薄れた。眠気が来る”」
 またざわめき。
̶ 「被験者三、貧民院の少年。 “眠くなる粥はこっち”」
 読み上げに合わせて笑いが漏れる。
 次々に続く証言は、数字や規格では測れない感覚を生々しく記していた。
 「働ける」「笑えた」「歩けた」「夜に泣かなくなった」
 一つひとつの言葉が積み重なり、やがて大広間の空気を揺らしていく。
商会の反駁
 やがて、商会連合の監察役カルドが立ち上がった。
 白い扇を広げ、冷ややかな声を響かせる。
「感覚の寄せ集めで秩序を揺らそうとは、滑稽だ。人の言葉は誤る。
人は嘘を吐き、錯覚し、感情で物を語る。数字は裏切らない。規格こそ唯一の秩序だ」
 会場から怒号が上がる。
「俺たちの腹の声を嘘と言うのか!」
「数字に救われたことなんてない!」
 カルドは涼しい顔で言葉を重ねる。
「仮に効能があるとしても、それは偶然の積み重ね。鍋が毎回同じ効果を出せる保証はどこにある? 均しができないものは秩序の外にある。それだけだ」
カイの答え

 静かな声が、怒号を切った。
 「保証ならある」
 壇上に立つカイが、記録帳を片手に進み出ていた。
 「保証は、この記録帳にある」
 ざわつきが広がる中、カイは一頁を開いて見せた。
「確かに言葉は揺れる。けれど、揺れが積み重なれば形が見える。眠れた、軽くなった、笑えた。その揺れが百重なれば、偶然じゃない。人の体と心が書いた事実だ」
 彼は机に掌を置き、声を強めた。
「商会の規格は、底を守るものだ。だが底に沈んでいた人間を立ち上がらせるのは、この揺れなんだ。数字じゃなく、椀の温度が人を動かす」
民衆の声
 その言葉に、広間の後列から声が上がった。
「俺は昨日の粥で眠れた! 五年ぶりだ!」
「子どもが泣かなくなった!」
「働けるようになった!」
 民衆の叫びが次々に広がり、やがて大広間を埋め尽くした。
 兵士も職人も母親も、椀を掲げて声を重ねる。
「粥は規格を超える! 声を記せ!」
 その熱に押され、貴族の一部も立ち上がった。
「規格の上に声を!」「声を記録せよ!」
判定
 リヴァンス侯は静かに立ち上がり、手を挙げた。
 「静粛!」
 波のような声が次第に収まり、侯の言葉に耳が傾けられる。
̶ 規格を否定せぬ。だが規格は“底”であり、“天井”ではな「い。
 これより、施食には必ず《記録帳》を伴うことを王命として定める。数字と共に、人の声を記す。これが、新しい秩序だ」 広間が大きく揺れ、歓声と拍手が巻き起こった。
商会の沈黙
 カルドは顔色一つ変えず、扇を閉じた。
「声を規格に入れる……か。ならば、声を歪めるのは容易い」
 その呟きはカイの耳に届いた。
 視線を合わせた瞬間、冷たい笑みが浮かぶ。
「人の声ほど、操作しやすいものはない。お前は椀を守れるか?」
 カイは柄杓を握り直した。
「守る。椀一つずつ、嘘じゃない声を」
夜の誓い
 その夜、《大釜隊》は宮廷を後にし、宿の広間で火を囲んだ。
 リーナが記録帳を撫でる。
「国が、変わったよ」
「まだ始まったばかりだ」 カイは火に映る仲間たちの顔を見渡した。
「声を歪めようとする奴らが、必ず動く。だが、俺たちは続ける。椀を渡し、声を記す。それが、鍋の戦いだ」
 窓の外には冬の星が瞬き、記録帳の頁が静かに風を受けて揺れた。
 その一頁一頁が、やがて国を揺るがす灯となるのだ。

第15話「声の偽造――記録帳を巡る陰謀」
 午前の光は、王都の屋根を白く撫でただけで、路地の底まで届かない。
 《旅する大釜隊》の旗を掲げて歩くと、露店の主人が顔を上げ、子どもが列の名残で手を振る。――うん、悪くない兆候。記録帳は読まれ、声は広がり始めている。
 だが、甘い匂いに釣られて油断すると、だいたい火傷するのが世の常だ。
 宿に戻った瞬間、扉に何かが釘で打ち付けられているのに気づいた。羊皮紙。赤い蝋。いやな既視感。
「……掲示だ。王都告示板の写し?」
 リーナが眉を寄せ、紙を剥がす。
 読み上げられた文面に、一同の背筋が冷えた。
《巡回記録帳・第一巻》に記載された証言の一部に偽造の疑い。
書記官ギルドより調査官派遣。大釜隊は本日正午、中央庁舎に記録帳を持参し、閲覧と照合を受けること。
 偽造、ね。おいおい、先にやったのはどっちだ。胸のあたりで苦笑が渦巻くのを、俺は深呼吸で押し込んだ。
「行くしかない。逃げれば“図星”に見える」
「でもカイ、記録帳を渡したら差し押さえられる可能性も……」
「渡さない。見せるが、奪わせない。閲覧手順をこちらで決める」 ラノベ的に言えば、ここは“頭脳戦編・前編”ってところだ。俺の必殺スキルは【調理】【調合】【交易】。書類戦闘は得意分野じゃない。でも――鍋と同じ。段取りが勝負だ。
 ││正午。中央庁舎、閲覧室。
 石壁に囲まれた静かな部屋。机、封印台、砂の時計。書記官ギルドの調査官が三名、ぴしっと真っ直ぐな背。商会側の監察役カルドは例の白扇で口元を隠し、涼しい笑み。ジルベルトは後列で腕を組み、視線は氷の温度。
「大釜隊代表、記録帳を」
 調査官の声は硬質。
 俺は革紐をほどき、《巡回記録帳・第一巻》を机に置いた。ただし、鎖で腰に繋いだまま。ざわり、と空気が波立つ。
「閲覧は結構。ただし“持ち出し不可”、ページの切り離し不可、筆での書き込み不可。写しはあなた方の前で、こちらの書記が作る。異議は?」
 調査官が互いに目配せ。カルドの扇が一度だけ動き、やがて調査官は頷いた。
「受理する」
 最初のページが開かれ、筆跡と印、日付、配膳量、体温、潜時。
ギルドが検め、我々も横で読む。
 十頁、二十頁――問題なし。
 三十一頁目で、調査官の筆が止まった。
「ここ。同一人物の筆跡が三名分に使われている」 確かに癖が似ている。だが俺の背中は凍らない。理由を知っているからだ。
「その三名は文字が読めない。代筆は同行の書記が行った。本人の拇印、口述録、立会人の署名、全部ある」
 拇印を指差す。指の荒れ、墨の滲み、織工の女、夜警の男、隣人の署名。
 調査官はうなずき、朱印を押して先へ進む。
 四十四頁目。
「……おや?」
 紙の匂いが違った。羊皮紙――のはずが、ここだけ綿紙。しかも王都工房の印すらない。
 カルドの扇の先が、楽しげに揺れた。
「紙の種類が違う。つまり、差し替えられた可能性がある」
「“誰に”だ?」
「もちろん、帳簿を所持している側が最も容易い」
 そこだよな。こっちに過失が一つでもあれば、あとは“推定有罪
”で押し切られる。
 俺は記録帳の背から細い糸を一本、調査官に見せた。
「針穴見てください。うちの書記は、綴じ穴の“微妙な針目”を毎日記録してます。ページを抜けば、糸の“撚り”が必ず乱れる。ここ、乱れがない。つまり最初からこの紙だった」
 調査官の目が細くなる。
「となると、紙自体は“現場で”提供された?」
「はい。北門の路地工房。王都工房の下請け。刻印がないのは“急ぎの追加納品”。つまり――現場の混乱に紛れて、紙の供給網に工作した者がいる」
 カルドの扇がぴたりと止まった。
 ジルベルトがわずかに目を見開く。氷に、ひび。
 そこへ、閲覧室の扉が荒々しく開いた。
 入ってきたのは、黒外套の男。以前、塩壺を返しに来た蔵番だ。
護衛に連れられ、俯いたまま震えている。
「証人だ」
 侍医長が短く言い、男に頷く。
 男は肩をすぼめ、掠れ声で吐き出した。
「“偽の声”を作れって命じたのは、ギルドの下の書写工房。商会の男が金を置いてった。『眠れた』『軽くなった』って言い回しを並べた紙を、路上で配った。みんな文字が読めないから、“こう書け”って」
 閲覧室がざわめく。カルドは笑わない。ただ扇の内側で、何かを噛み潰すような目つき。
「偽造“指導”ってやつか。……上手いじゃないか」
 口の中で、俺は苦く笑った。声を規格に入れた瞬間、声を偽造する。理屈としては正しい。最悪に。
「で、証人さん。あなた、なぜ今ここに?」
「……眠れなかった。あの日、施食の列で見た“泣いて笑った顔” が、離れない。だから、もう嫌になった」
 いいね。火種は、いつだって誰かの胸の中で勝手に燃える。 閲覧が終わり、調査官の結論はこうだ。
 ――偽造“の疑い”は認める。ただし、大釜隊によるものと断定できない。
 この中間判決。勝ちでも負けでもない。けど、時間は稼げる。
 庁舎を出たところで、カルドが近づく。白扇は閉じたまま、声は鋭い。
「声は武器だ。鍋より軽く、鍋より速く、鍋より簡単に偽れる。君の“温度”がどこまで耐えられるか、見物だ」
「見るだけでいい。口を出すと火傷する」
「火傷は慣れている」
 ふたりの会話は氷点下の温度で交差し、別れた。
  ◇
 その夜。《大釜隊》は公開施食+公開記録という、正面突破の策を打ち出した。
 広場に釜、隣に長机と帳面と砂時計。“その場で”聞き、書き、読み上げる。
 代筆は必ず二名の立会い。音でも残す。王都の吟遊詩人を雇って、短い節で口述を歌わせる。――偽造するなら、歌まで偽造してみせろ。
「ラノベ的に言うなら、“実況入り決戦”だね」
 リーナが半笑いで言い、俺は頷いた。
「ついでに鍋の可視化もやる。薪、火力、塩、温度、全部“見える
”ように」
 俺は工夫した。塩の壺には小さなガラス窓を嵌め、ひとつまみ取るごとに砂時計を返す。記録係が“塩の雪音”を聞き取り、欄に丸をつける。薪の組み方は紐で結んだ三種類から選び、火の呼吸を手旗で合図する。
 ――これなら、誰が見ても同じ手順になる。魔法なんていらない。
段取りは最強のスキルだ。
 鍋が沸く。列が伸びる。
 最初の椀を手にした母親は、皿の欠け目を指で撫で、そっと口へ運んだ。
「……体が、戻る」
 書記がそれをその場で記し、吟遊詩人が短い節で歌う。
♪ ひと口で 背中がほどけ 眠りよ来い
 次の老人は、頬に刻まれた古い傷を指で叩き、呟く。
「夜中に目が覚める回数が、一回減った」
 数字、来た。簡明で、偽造しづらい。
 公開施食は順調――に見えた。だが、“混ぜ物”はいつも静かな顔で来る。
 列の中ほどに、えらく気取った上衣の男が立っていた。手指にインク汚れ、視線は落ち着きすぎている。
 椀を受け取り、ひと口。大きく頷き、やたらと整った言葉を口にした。
「諸症状の改善を顕著に自覚し、この粥の有効性を断じて肯定――」
 ……おい。それ書面の言い回しだろ。 書記が困ってペン先を宙で迷わせる。
 俺は咳払いし、にっこり笑った。
「“いつもの言葉でどうぞ”。……たとえば、“眠れた”とか、“ 痛みが楽”とか」
「ええと、その、つまり……効果があった」
「どこに?」
「その……胸と背中」
「“どれくらい”?」
「昨夜より、三刻ぶん」
 よし、針穴を抜けた。偽造は整いすぎる。ふらつきが混ざっていない言葉は、逆に浮く。
 とはいえ、向こうも手を緩めない。翌朝、別の場所で“ふらつき
”を学習した偽造組が出てきた。
 言葉はこなれて、数字も抑えめ。……厄介だ。
「ならば、椀の重さで記録しよう」
 俺は陶器の底に目に見えない重りを三種類入れ替え、配膳量と“ 感じた満足度”の相関を取る仕組みを作った。誰にも見えない。だから、偽れない。
 結果は露骨だった。“偽造組”の満足度は、配膳量と相関しない。
 つまり、食べてない。口は動いても、体は動いていない。
 侍医長が無言で頷き、書記官ギルドの調査官が静かに歩みを進める。淡々と、偽造者の名を控える。
 カルドの白扇は、今度は大きく開かなかった。
  ◇
 夜。大釜の火が落ち、皆が疲れを椅子に置く時間。
 リーナが記録帳を抱えてうとうとしているのを毛布で包み、俺は一人で焚き火を見た。炎の呼吸。薪の水気。塩の雪音。
 そこへ、氷の足音。ジルベルトが現れた。白の調理服は夜でもやたら目立つ。
「……君は、料理人のはずだ」
「料理人だよ」
「なのに、鍋の外側で戦いすぎている。紙、歌、重り。君の柄杓は、もう武器だ」
「柄杓は武器じゃない。けど、“盾”にはなる」
「盾で守れるものは限られる。声は、際限なく歪む」
「だから、明日も配る。歪んだら配り直す。鍋は何度でも沸かせる」
 ジルベルトは目を伏せ、微かな息を吐いた。
「……羨ましいよ、その単純さが」
「単純じゃない。難しいから、単純にするんだ」
 背を向けた彼の肩に、一瞬だけ“揺れ”があった。氷に、またひとつ、細いひび。
  ◇
 翌日。事件は、唐突に起きた。
 公開施食の最中、記録帳が消えた。
 机の上。閉じたはずの革。紐は切られ、鎖が、ない。
 ――やられた。胸が落ちる音が、鍋より重かった。
「追う!」
 若者が飛び出し、護衛が続く。俺は深呼吸。焦ったら負け。段取りだ、段取り。
「リーナ、複製帳」
「はい!」
 彼女は小箱から薄い冊子を二冊取り出し、机に広げる。毎夜作っていた“影写し”。
 吟遊詩人には合図。歌で、偽造者を足止め。
 > ♪ 盗みの足は 石で鳴る
 >  鎖の音は 人を呼ぶ
 その歌に呼応して、人垣がざわめき、走る影が浮く。
 路地の角。黒外套――いや、違う。白衣の書写。ギルドの印、袖にあり。
 俺は追わない。追うのは得意じゃないから。代わりに叫ぶ。
「鍋を閉じるな! 配り続けろ! “今の声”を記せ!」
 たぶん、向こうの狙いは“流れ”を止めること。なら、止めない。
記録は“現在進行形”で上書きする。記録帳が消えようが、声は今ここに。
 やがて護衛が戻り、盗難帳は回収。書写は取り押さえられたが、口を割らない。背後はまだ影の中だ。
 閲覧室での続きを、今度は広場のど真ん中でやる。
 調査官が即席の机について、ページと針穴と糸の撚りを示し、吟遊詩人が“ページ番号の節”を歌う。
 > ♪ 三十一 針目は四つ 撚りは右
 >  四十四 紙は綿紙 印は無
 ……歌にするの、地味に便利だな。耳で覚えるし、書き換えにくい。
 最後に、俺は鍋の前で深く息を吸った。 “人気ラノベ的に言えば”――締めは決めゼリフだ。ここは逃せない。
「声は鍋で熱くなる。 冷たい紙の上では、すぐに死ぬ。
 だから俺は、椀で声を守る。
 誰かが歪めたら、明日も配る。
 数字は読む。けど、眠りの入口は、喉の奥の雪が決める。
 ――それが、《辺境食堂》の流儀だ」
 拍手。どよめき。湯気。
 カルドは遠くで扇を閉じ、ジルベルトは一度だけ目を伏せた。
 その夜、王都の風は鋭かったが、広場の火は高く、白い道を空へ描いた。
 記録帳は“盗まれても、燃え上がる”。書物じゃない。人の中にあるから。
 そして俺たちは知る。翌朝、王宮からの通達が来る。
 ――“記録帳・公開方式”の常設化。
 王都の四つの広場に、常設の閲覧台と歌読み職が設けられる。
 商会は、声を独占できなくなった。
 もちろん、戦いはこれで終わらない。次の手は必ず来る。
 けれど、鍋は知っている。明日の火の起こし方を。
 俺は柄杓を立て、胸の底で短く笑った。
 ――さあ、次は“規格の心臓”を温めにいこうか。
 王都の夜が深くなる。湯気は真っ直ぐ、星の底へ吸い込まれていった。

第16話「規格の心臓――書記官ギルド本部攻略」
 王都の夜は冷たい。だが、もっと冷たいのは“沈黙”だった。
 公開施食での勝利は確かに人々を沸かせた。けれど、その翌朝に届いた一通の文書は、大釜隊を再び氷の底へ突き落とす。
《巡回記録帳》における管理不備の責任を問い、書記官ギルド本部にて正式審査を行う。
大釜隊は全員、本部への召喚に応じること。
 管理不備――つまり、「帳簿を盗まれたのはお前たちの落ち度だ」ということだ。
 声を守るための帳簿が、逆に枷になる。
 ……うん、やっぱり火を焚く前に煙を嗅ぎつけるのは、あのカルドの得意技だな。
本部への道
 石畳を叩く車輪の音。
 リーナは大釜の縁に腰をかけ、不安そうに記録帳を抱えていた。
「本当に行くんですか? ギルドの“心臓”に」
「行かなきゃ勝てない。敵の一番硬い場所に火を放たないと」
 俺は深呼吸した。正直、心臓はこっちが先に焼けそうだ。でも“ 怖い”ってのは火を扱うときの常識だ。怖さを忘れた奴は火事を起こす。
 護衛兵たちも無言だ。侯爵家の紋章旗だけが、灰色の朝に頼りなく揺れている。
書記官ギルド本部
 王都中央区。大理石の塔のような建物。
 門前には羽根ペンを象った紋章、扉の上には「秩序は記録に宿る」の銘文。
 兵士でも商会でもない。だが、この塔の書類一枚で、町一つを潰すことができる。それがギルドだ。
 通されたのは、書棚の壁に囲まれた巨大な円形審議室。
 中央に長机、周囲には無数の書記官。羽根ペンの音が絶えず響く。
 調査官長エリクが姿を現した。
 銀髪、痩身、氷のような瞳。
「大釜隊、入廷を許す。記録帳を提出せよ」
偽造の証拠?
 机に広げられた《巡回記録帳》。
 エリクは一枚の紙を持ち上げ、冷ややかに告げる。
̶「ここにある証言、 “眠くなる粥はこっち”。筆跡が一致しな
い」
「子どもだからです。文字が書けず、代筆しました」
「ではこの“働ける気がする”という言葉。別の被験者にも同じ文句がある。捏造の可能性が高い」
 会場がざわめく。
 カルドが扇で口元を隠しながら、低く笑うのが聞こえた。
 ……ああ、なるほど。奴ら、“言葉の重複”を証拠に偽造だと言い張るつもりか。
カイの反論
「待てよ」
 俺は柄杓を机に叩いた。書記官たちが一斉に振り向く。
「“働ける”って言葉が重なるのは、偽造じゃない。人の体は似た反応をするからだ。疲れた人間が粥を食えば、立ち上がりたくなる。眠れた子どもは同じように笑う。
 それを“偽造”だと言うなら、世界中の笑顔は全部コピーになる
!」
 ざわめきが広がり、職人席の男が思わず頷いた。
「そうだ、俺だって粥を食えば“体が軽い”ってしか言えねぇ!」 笑いが起きる。だが、エリクの瞳は冷たいままだ。
裏切り者?
 そのとき、一人の書記官が前に出た。
 黒外套……いや、塩壺を返したあの男だ。
 緊張に震えながらも声を張り上げた。
「偽造の指示を出したのは……商会の下請け工房です!」
 審議室が爆発した。
 カルドの扇が折れるほど握られ、ジルベルトが立ち上がりかける。
 エリクは手を挙げ、鋭く命じた。
「証人を隔離せよ!」
 護衛兵が動き、男は引き立てられた。
 ――だが、十分だった。偽造の種は“外”にあると示されたのだから。
“規格の心臓”を突け
 俺は机に両手をつき、声を張った。
「ギルドは秩序の心臓だろう? なら聞け! 鍋は誰のために沸く
? 秩序のためじゃない、人のためだ!
 記録帳が守るのは“文字”じゃない、“声”だ! それを偽造で塗り潰すなら、この国の秩序はただの空っぽだ!」
 会場に重苦しい沈黙が落ちた。
 その沈黙を破ったのは、オルダン総料理長だった。
「……言葉に証明を与えるのは、次の火だ。では問う。次の施食を “本部前広場”で行え。記録帳は公開し、書記官全員が立会う。民の声と規格、どちらが真に秩序か、そこで見極めよう」
 審議室にざわめきが戻り、エリクは長く目を閉じた後、頷いた。
「承認する」
夜の誓い
 宿に戻ると、リーナが小さく笑った。
「また大博打ですね」
「ラノベ的には……“最終決戦・前編”ってとこだな」
 俺は柄杓を握り直した。
「火を恐れるな。燃やすのは敵じゃない、空気だ。
 ――明日、規格の心臓を、俺たちの鍋で温める」
 窓の外、王都の塔の影が月に伸びていた。
 そして広場にはすでに、明日の列を待つ人々の影ができ始めていた。
第17話「本部前決戦――声か数字か」
 朝の王都は、石畳の隙間に冷気を溜め込んでいる。
 書記官ギルド本部前の広場には、臨時の台が二つ。片方は商会規格台、もう片方は大釜隊公開台。
 台の真ん中に、鐘と砂時計、そして“歌読み職”の席。昨日、王命で常設が決まったばかりの設備だ。……なるほど、見せ場を作る気満々らしい。
 人の波。兵士、職人、織工、貧民院の母親、そして好奇心を隠さない貴族。
 上から見下ろすバルコニーには、リヴァンス侯爵、侍医長、総料理長オルダン、書記官長エリク。
 白い扇を持つカルドは、相変わらず涼しげ。ジルベルトは対面の台に立ち、銀の蓋を整えていた。あの背筋、氷でできてるのかってくらい真っ直ぐだ。
「カイ、準備できてる?」
 リーナがマフラー越しに声を落とす。
「いつでも。――火は怖い。でも、怖いまま扱う」
 俺は大釜の縁を叩き、呼吸を整えた。柄杓は手の一部みたいに馴染む。震えはある。けど、震えたまま掬えばいい。
 書記官長エリクが合図を送る。
「本日の趣旨を告げる。規格粥と公開粥、同一の素材を用い、三つの観点で比較する。
一、即時の体感――その場での言葉。
二、潜時と夜間覚醒――侍医団の追跡。 三、再現性――手順の公開度と、第三者がなぞれるか。
 ……数字は読む。だが、今日は声も読む」
 歓声と拍手。広場の空気が一段上がる。
 カルドが扇をわずかに開く。
「規格粥の調理はジルベルトが行う。規格十二号に準拠、温度・配膳量・塩の純度を厳守。
 公開粥は大釜隊のカイ。民声条項に基づき、現場判断を必要とするなら、その理由と手順を全て公開すること」
 全公開、ね。――いいさ。丸見えで勝てる鍋しか、ここにはない。
 鐘が鳴る。火が入る。
 ジルベルトは規格台の薪を整え、温度計を睨む。八十二度、針がぴたりと止まる。塩壺の蓋が開き、雪のような塩が匙の上に落ちる。手付きは完璧。美しい。
 一方で俺は、薪を三角・鶴・輪の三種に組み分け、手旗で火の呼吸を伝える。塩壺には小窓。匙が入るたび砂時計が返る。吟遊詩人が節で読み上げる。
♪ いちすくい 砂が落ちるよ 雪の音
 人々が笑い、肩の力が抜ける。
 ――祭りじゃない。でも、怖がらせない工夫は、戦いのうちだ。
 素材は同じ。麦、すじ肉、根菜、許可された香草。
 違うのは、水との距離の取り方。
 俺は骨の“あきらめ”を待つ。泡の縁が小さく、静かに中心へ寄り、消える、その瞬間。火を半歩ずらし、鍋底の苛立ちを外へ逃がす。

 ジルベルトは迷わない。時間で刃を入れ、温度で抑え、見事に均す。均しは王都の美学。分かってる。だからこそ、そこにないものを出す。
「――カイ、塩は?」
「最後」
 喉の奥に雪を降らせるのは、最後の仕事だ。
 やがて二つの鍋が、それぞれの声を持った。
 規格粥は澄みきった表情で、匙の跡がすぐ消える。
 公開粥は黄金にうっすら濁り、湯気に水の甘さがある。粥の粒は、噛まずに崩れて“喉の雪”を呼ぶ。
 配膳。書記官たちは列を整え、偶数番が規格↓公開、奇数番が公開↓規格の順で食べる。順序バイアス? 上等、潰してある。
 “歌読み職”が小さな琴を鳴らし、その場で言葉を短い節に落としてゆく。
♪ 背がのびる 肩の石おち 息が出る
♪ 舌の先 ではなく喉で 雪が消え
 ……よし。喉の雪、伝わった。
 カルドが静かに扇を叩いた。
「即時の声は所詮、気分だ」
 分かってる。だから――二本目の槍。
「重さの盲検、始めます」
 俺は配膳場の下で、陶器の底に入れた目に見えない重りを三段階で切り替える。配膳量は均一。感じた満足度と底の重さの相関を、書記官が記録する。
 偽造は“外から作れない”。だから炙れる。
 結果、公開粥は重さと満足度が綺麗に相関。規格粥は相関が弱い。
――均しすぎた粥は、重くしても満足度が上がりにくい。喉へ届く
“雪”が薄いせいだ。
 ざわつきが広がる。
 ジルベルトの眉がわずかに動いた。氷に細い亀裂。
 さらに三本目。
 侍医団の指示で、受け取り票に簡易な眠気スケールを追加。昼下がりまでの“舟”の回数、夜の入口の眠気。数字で拾う。
 書記官ギルドの若い連中が、目を輝かせて走り回る。……そういうの、好きなんだな。分かるぞ。
 午前が終わる頃には、広場の空気は変わっていた。
 誰もが“勝ち負け”じゃなく、“自分の体がどう答えたか”を話し始めている。
 それは、規格が最も苦手とする領域。均しでは届かない差分の領域だ。
 ――と、油断した瞬間にくるのが、世の常。
 列の中から、突然の怒号。
「大釜の塩、商会印だぞ!」
 誰かが塩壺の小窓に指を突っ込み、印を掲げて叫んだ。
 広場が揺れる。ざわ、ではなく、どっ。
 カルドの扇がゆっくり開き、涼しい声。
「ほら見たまえ。結局、君たちも我々の海に頼っている」 くそ、触らせたのがミスだ。だが――へし折る手は用意してある。
「その壺、回して」
 俺は司会役の書記に合図し、壺を高く掲げて回転させた。
 小窓の反対側、底に貼った薄い蝋紙が、太陽でうっすら透ける。
そこには刻印。
 “蔵:王家/混ざりなし”。
 商会印は蓋に押されているだけ。運搬の印だ。中身の保証印は別。
 オルダンが低く頷き、侍医長が短く言う。
「印の場所を見ろ。蓋は海の印。塩は王の印。――混同するな」
 広場の空気が呼吸を取り戻す。
 カルドの扇が、少しだけ下がった。
 ジルベルトは何も言わない。ただ、こちらを一瞬だけ見た。…… 目の温度が、氷から水に近づいている気がしたのは、気のせいか。
 午後。再現性の番だ。
 書記官ギルドから五名、貧民院から三名、兵舎から二名、そして商会の若手一名――計十一名の“見習い調理人”が台に上がる。
 俺は手順を全部口で出し、旗で火を、歌で塩を、紙で配膳を、丸ごと可視化した。
「骨は泡の粒で読む。大きい泡は怒り、小さい泡は“あきらめ”。
“あきらめ”が出たら半歩ずらす」
「塩は舌じゃなく喉で。指で雪を作り、水に溶き、喉の奥に一滴」「温度計は見る。でも、耳でも聞く。沸騰音が“ことり”になったら、火が吸ってる合図」
 見習いたちはぎこちない手付きで、しかし確かに、同じ音を鳴らし始めた。
 できあがった椀を、侍医団と書記官がブラインドで評価。
 結果――素人でも八割方、同じ“眠りの入口”を作れた。 エリクが初めて、わずかに眉を上げた。
「……再現できるのか」
「できます。段取りは技術です。魔法じゃない」
 俺は胸の奥で呟く。段取りは最強のスキル。ラノベ的に言えば、地味に見えて世界をひっくり返すやつ。
 夕刻。砂時計の砂が尽き、鐘が鳴る。
 人々はまだ列を作っていたが、判定は出される時刻だ。
 エリクが前に立つ。声は乾いているが、言葉は重い。
「本部前決戦の結語を述べる。
一、即時の体感は公開粥が優勢。
二、潜時・夜間覚醒は、本日分の速報で公開粥が優勢。最終は今夜の追跡を待つ。
三、再現性は、公開手順が**“非専門家でも八割方”再現可能と示した。
 よって――“声は秩序たりうる”。
 規格は“底”であり、“天井”ではない。民声条項は恒久化、公開記録・歌読み・手順開示を追加条項として採択**する」
 広場が割れたみたいに沸いた。
 兵士がヘルメットを掲げ、織工が糸束を振り、子どもが跳ねる。
 リーナが泣き笑い。若者たちは抱き合った。
 俺は柄杓を立て、深く息を吐いた。――勝利、だ。完全じゃないけど、確かな一歩。
 そのとき、カルドの扇がぱちんと音を立てて閉じた。
「結構。では、次の規格を出そう。
 “供給規格”。――塩、薪、水、陶器、全ての供給源に“安全印 ”を義務化する。印のない鍋は、たとえ声があろうと、街に入れない」
 にこり、と笑う。冷たい。
「声の価値は認めよう。だが、声が届く場所を狭めるのは、簡単だ」
 広場に寒風が吹いた気がした。
 オルダンが顔を上げる。
「供給印は必要だ。だが、印を握る手は誰だ?」
「もちろん、商会だ」
 答えるカルドに、俺は即座に被せた。
「なら、印を増やす。王都の四広場と、辺境の三村に**“共同印 ”**を作る。王家/ギルド/大釜隊/自治の四者で押す。一者欠けても無効。
 あと、印の作り方を公開する。蝋の配合、刻印の刃のパターン、毎週の“傷”。偽造しづらい印を、印そのものも“公開”で守る」
 カルドの目が細くなった。扇の内側に、初めて“計算外”の影。
 エリクが眠そうな目で頷く。
「共同印、審議に値する。ギルドとしても、印の単独支配は好まぬ」
 オルダンが笑った。
「鍋の火は、一本の薪より、束の方が強い」
 歓声のあと、広場はゆっくりと解けていった。
 王都の空に、薄い雲。
 俺は台の上で柄杓を置き、息をひとつ。リーナが肩を叩く。
「勝った……でいい?」
「勝った。でも、次の薪を拾いに行く」
「どこへ?」
「水源だ。カルドの“供給規格”、心臓は水。塩と薪は遠回りできるけど、水は代わりが利かない」 その言葉に、後ろで足音が止まった。
 白の調理服。ジルベルトだ。
 氷の目、でも今日の氷は深くない。
「……共同印、悪くない。秩序が多すぎると、料理は死ぬ。なさすぎても、死ぬ」
「知ってる。だから、底をつくって、天井を外す」
 ジルベルトはわずかに笑った。
「君の“単純”は、複雑で疲れる。――手を貸すべき時が来たら、貸そう」
 そう言って背を向ける。歩幅は揺れない。氷は歩く。けど、芯に温度があった。
 夕暮れ。広場の端で、吟遊詩人が最後の節を歌う。
♪ 声は鍋で 温度になるよ
 数字は雪で 跡を残すよ
 底を守って 天井外そう
 人々が口ずさみ、子どもが覚え、明日にはどこかの路地で響くだろう。
 歌は軽い。だから速い。声の偽造にも使われた。
 でも、今日は違う。公開の歌は、偽造を焼く火になる。 夜。宿に戻る前に、俺たちは大釜を小さく温め直した。
 わざと弱い火で。
 薪が鳴らないくらいの、眠りの入口に合わせた火で。
 今日の広場の声を、湯気の中でひとつずつ思い出しながら、椀に注ぐ。
 書記官の若い子が初めての粥をすする音。兵士が兜を外して笑う音。母親が「明日も来る」と呟く声。
 それら全部が、明日の“共同印”の蝋を温める。
 窓の向こうで、王都の塔が影を伸ばす。
 カルドの次の一手は、きっと水。
 だから――こっちも、先に動く。
「明朝一番で北の水源を見に行く。ギルドに“水の記録帳”を起こさせて、水そのものも公開する」
「“喉の雪”の次は“水の地図”か」
 リーナが笑う。
「忙しいね、うちの食堂」
「食堂は忙しい方がうまい」
 俺は柄杓を立てた。
 火は小さい。でも、続いている火が一番強い。
 明日も沸かす。その次も。声が歪められたら、何度でも上書きする。
 それが《辺境食堂》、そして《旅する大釜隊》の、戦い方だ。
 外の空気は冷たい。けれど、広場の真ん中に残した灰色の円は、明日の火床になる。
 数字は雪で跡を残し、声は鍋で温度になる。
 その両方で、この国の秩序を“食べられる形”にするまで、俺たちは歩く。
 ――次の目的地、北の水源。
 夜は深く、星は低い。湯気はまっすぐ、星の底へ吸い込まれていった。
次回は 第18話「水の地図――供給規格の心臓」。

第18話「水の地図――供給規格の心臓」
 北門を出た風は、刃物みたいに薄かった。
 吐いた息が白くちぎれて、王都の塔の影をかすめて消える。
 《旅する大釜隊》は夜明けの街道を北へ。荷車には小さめの釜と、
̶陶器の壺がずらり。壺の蓋には昨日決まった“共同印”の試作
王家・ギルド・大釜隊・自治の四つの刻印が、まだ乾ききらない蝋で光っている。
「今日の目的は三つ」
 俺は歩きながら指を立てた。
「一つ、水の地図を作る。二つ、供給規格の“心臓”に穴を開ける。
三つ、明日から誰でも運べる“公開の水路”を作る」
「三つ目、字面だけで難しそう」106
 リーナが苦笑する。
「難しいから、単純に割る。見る・測る・記す。いつもの三段だ」
 ラノベ的に言えば、ここは“フィールド攻略編”。ボスは数字じゃない。透明で、誰のものでもない“水”。
 北へ半日。丘を越えると、谷がぱっくりと口を開けた。
 雪解けの川が音を立て、谷の底で白い泡を噛んでいる。木造の堰、石の井筒、取水小屋。門前には**水守(みずもり)**と呼ばれる氏族の番人が槍を持って立っていた。袖口には商会の小さな布印。
「ここから先は契約地だ。立ち入りは禁ずる」
 番人の声は乾いている。
「王命で来た。《供給規格》のための調査だ。立会いの下で“見る・測る・記す”だけ。水は奪わない」
 護衛兵が通行証を掲げる。水守は書付を見て、眉をひそめた。
「……“共同印”の試作か。印は増えるほど、責任の所在が曖昧になる」
「曖昧にしないために、公開するんだ」
 結局、俺たちは井筒の縁まで入ることを許された。
 谷風が冷たい。手の皮が張って、指が木みたいになる。
荷車から木の台を降ろし、透明瓶をずらり並べる。瓶の背後に白布。濁りが一目で分かるように。
 書記官ギルドから来た若い書記が、嬉々として筆を走らせた。こういうの、彼らは大好きだ。
「測る道具、準備」
 俺は手を叩く。若者たちが走る。
̶ 煮沸減量。水を小鍋で一定量煮詰め、残った結晶を量る。 
̶ 灰試し。乾いた灰に水を一滴落として、泡立ちと匂いを記録 する。※灰に含まれるカリで雑味を拾う原始手法。
̶ 魚の鏡。磨いた錫皿に水を張り、昼の陽で光を返して、表面の動きを見る。油と砂は嘘をつかない。
̶ 喉の試飲。少量を舌ではなく喉へ。三名の“喉役”が交代で判定。「空の味」がするか、「鉱滓の重さ」が残るか。
「料理なのに、理科準備室みたい」
「鍋はいつも、理屈を煮てる」
 最初の一瓶。川の上流直取水。
 透明。匂い、なし。煮詰めた皿に白い粉が指先ひと摘まみ。雪の音。
 喉役のリーナが目を細める。「空の音。喉の奥で、すうって消える」
 記録:良。印候補:青。
 二本目。井筒の底から汲み上げた水。
 見た目は同じ。でも煮詰めると、皿の上にざらり。指先で擦ると、雪じゃない音がする。
 リーナの眉間に皺。
「……喉の川が、途中で石に当たる」
 記録:注意。印候補:黄。
 三本目。取水小屋の樋から流れてくる水。
 透明瓶の外からでも分かる。糸みたいな揺れがある。
 煮詰めた皿は灰色に曇り、灰試しで泡が強い。鼻の奥に鈍い重さ。
 喉役の若者が咳き込んだ。
「これ、混ぜてる……」
 記録:警告。印候補:赤。
 水守の番人が槍の柄を握り直した。
「濡れ衣だ。ここは古くからの井筒で、何も変えていない。樋は…
…いや、樋は最近、商会が修理したが」
 カルドの顔がちらつく。供給規格、心臓はやはり水。
 俺は深く息を吸った。鍋の前でやることは同じ。段取りだ。
「公開する。目を増やせ」
 俺は白布をもっと大きく張り、広場側に向けた。
 透明瓶に順番札。青・黄・赤。
 吟遊詩人に合図。水歌を短く。
♪ 青は空 喉で消えて 影を残さず
 黄は石 舌に触れて 喉で薄れる
 赤は鉱 鼻の奥へ 重さを置く
 人が集まる。子どもが背伸びし、老人が目を細め、職人が腕を組む。
 水守の年寄りがゆっくり歩み出て、赤い瓶をじっと睨んだ。
「昔は、こんな糸の揺れは出なかった」
 年寄りの手が樋の下を探り、木板をこんこん叩く。音が違う場所。
 若者が道具を持ってきて板を外すと、鉱滓まじりの砂袋が出てきた。
 袋の口には、見覚えの印。商会の運搬印。
 広場が一斉に息を呑む。
 ……やっぱり。水の“規格”を作る前に、水そのものを握りつぶしておく。カルドの常套手段だ。
「誰が、こんなことを」
 番人の肩が震えた。
 犯人探しは後だ。先に水を通す。命の順番は、いつだって同じ。
「袋を全部抜いて、樋を洗う。公開でやる。水守、手を貸してくれ」
 番人は一度だけ躊躇い、そして頷いた。
 水路掃除は地味で重い。だが、公開でやれば、儀式になる。
 子どもが桶を運び、若者が縄を張り、老人が節を歌う。
̶ 袋が抜かれ、樋が洗われ、樋の下から古い刻印が現れた。 かつての自治の印。消されていたものが、再び空気に触れる。
 瓶を満たし直し、白布の前に並べる。
 青、戻った。
黄、薄くなった。
 赤、消えた。
 拍手。谷に反響して、雪がはらはら落ちる。「水守の名に誓って、樋を守り直す」
 年寄りが杖を掲げる。
「守るだけじゃ足りない。記すんだ」
 俺は“水の地図”の板を立てる。
 板には谷の簡易地図、瓶の番号、青黄赤の札、日付、手順。
 さらに、刻み用の木針を吊るし、**訪れた者が刻める“日にちの傷”**の欄を作った。
「誰でも、ここへ来て、今日の水を刻める。嘘は、毎日には耐えない」
 ここまでが午前戦。
̶ 午後は 書記官ギルドへの橋渡しだ。
 王都から来ていた若い書記が目を輝かせたまま、手を挙げた。
「本部に“水記録課”を設けたい! “巡回記録帳”に“水章”を増設。水の透明度、灰試し、煮沸残量、水歌の節まで記録して保存する!」
 エリクに似た、乾いた声が谷に届く気がした。「承認」。勝手に聞こえただけかもしれない。でも、そういう未来は、先に声に出すと早い。
 ……で、こうなると黙っていないのが、カルドだ。
 谷の入口に白い扇。やっぱり、来るよな。
「見事な“公開”だ。感銘を受けた」
 カルドの笑みは相変わらず、冬の光の角度をしている。
「だが、供給規格はこう変わる。“共同印”の押印には、水源証明 ̶が必要だ。証明は商会の鑑定所でのみ発行。鑑定料は そうだな
̶ 一樽につき銀貨二枚」
 ざわっ。谷風じゃなくて、人の息で木が揺れた。「印を増やすなら、その分“窓口”を整える。それが文明だろう?」
 要するに、金を取る。水の通行税。これをやられると、辺境の村は一日で干上がる。
 俺は喉の奥に、雪をひとかけ落とした。怒りは熱い。だから先に冷やす。
「鑑定所、作ろう。現地に。“共同鑑定台”。誰でも鑑定人になれるやつだ」
「資格もなしに?」
「資格を作る。公開の手順で。塩の雪音、灰試し、煮沸、喉役。三つ合格したら、“水読み札”を渡す。偽造しづらい札にして、歌でも覚えさせる」
 吟遊詩人が目を輝かせる。
♪ 水読み札は 喉で鳴る 札を偽れば 声が詰まる
 カルドの扇が、わずかに鈍った。
「“誰でも”が、君の武器だな。だが“誰でも”は、すぐに群れる。
群れは、燃えやすい」
「燃えたら、鍋で火をもらう」
 俺は笑った。
「火事は怖い。だからこそ、段取りだ」
 夕暮れ。
 水守の番小屋の壁に、水の地図の板が並んだ。
 上流、中流、井筒、樋、集水樽。青・黄・赤の札。日にちの傷。
 その横に、共同鑑定台。白布、透明瓶、灰皿、煮沸台、小さな秤。
 さらに、歌読み職の台。
 「水歌」はシンプルで、子どもでも覚えられる。覚えられるものは、奪いづらい。
̶ 最後に残ったのは 契約だ。
 水守と、王都と、村々と、ギルドと。
 俺は蝋を温め、共同印の刃を指で確かめる。
「“四者印”。一者欠ければ無効。押し直しは誰でも請求可。不審があれば、歌と記録を同時に閲覧」
 番人が唸り、年寄りが頷く。
 書記官の若者は目を輝かせ、吟遊詩人はメモを取る。
 リーナは肩で息をしながら笑った。
「今日一日で、制度が二つ増えた……! 忙しいにもほどがある」
「食堂は、忙しい方がうまいって言っただろ」
 最後の押印。蝋に刃が入り、ぱちんと音を立てた。
 谷に夜が降りる。
 樋の水音が、さっきより澄んでいる。
 喉の奥に、空の味が落ちた。
 ……その時、谷の入口で馬の嘶き。
 白の調理服。ジルベルトが息を切らして駆けてきた。
「カルドが、南の水源を先に押さえに動いた。鑑定所と徴税台を一晩で立てるつもりだ。明日の朝には“印のない水は違法”の掲示が出る」
 やっぱり早い。早さは、あいつの武器だ。
 俺は即答した。
「北から“水の地図”を落とす。歌と板と鑑定台を担いで、“先に広める”。
 王都の四広場にも水章の板を立てる。商会の掲示より、先に歌わせる」
 ジルベルトが一瞬だけ、笑った。「君の単純さ、やっぱり複雑で疲れる」
「慣れると体が軽いぞ」
「……それは、君の粥のせいだ」
 夜通しの準備が始まった。
 木工担当は板を削り、書記はひな形を写し、詩人は節を整える。 リーナは喉役のための“薄い茶”を仕込み、若者たちは樽を洗って並べる。
 水守の子どもたちが走って、近隣の集落に声をかけに行った。
 「明日の朝、歌を持ってきて!」
 星が低い。
 小さな火をいくつも灯して、谷に星の地図みたいな光の点を作った。
 それを見上げながら、俺は柄杓を握る。
「カルド、次は“水で首根っこ”を取る気だ。
 ならこっちは、“誰でもの喉”を連れていく」
 段取りは整った。あとは、流すだけだ。
 明け方。
 氷の空を一羽の鳥が横切る。
 樋の水が、寝ぼけた村を起こす。
 俺たちは荷車を押し、板と瓶と歌を積んで、南へ向かった。
 王都では同じ頃、書記官ギルド本部の前に新しい掲示が貼られる。
《水章》の常設化。四広場に水の地図板を設置。
水記録課、暫定発足。
共同印“試運用”。歌読み職の協力を求む。 カルドの掲示が来る前に、こっちの歌が届く。
 声は軽い。だから速い。
 偽造にも使える。けれど、それを焼くのも、公開の歌だ。
 途上、俺はふと、喉の奥に指を当てた。
 雪が、まだ鳴っている。
 鍋の勝ち方は、いつだって同じ。
 怖いまま火を扱い、見せ、測り、記す。
 そして、食べさせる。
「行こう。水の心臓を、食べられる形にする」
 リーナが頷く。若者たちが笑う。
 荷車の軋みが、行進曲に聞こえた。
 王都の空は薄青で、星の名残がほつれていた。
 湯気はまだ見えない。でも、確かに流れている。
 明日の椀へ向かって。

第19話「南原水庭(なんげんすいてい)――印と歌の夜」
 夜明け、王都の南門に人の波。
 掲示板には黒々とした文字が釘打ちされていた。
《告:印のない水は違法》
明朝より、南原盆地の水は商会鑑定所の印を持つ樽のみ搬入可。違反者の水は没収し、罰金。徴税台は南原水庭に設置。
 やっぱり来たか。カルドの“早さ”は、いつでも正しい場所を先に占領してくる。
 でも今回は――歌が先に着く。
「急ごう。広場より先に、うちの板と歌を立てる」115
 俺は荷車の後ろを叩いた。板、瓶、白布、灰皿、錫の皿。夜のうちに作った水の地図・携行版がぎっしり詰まっている。
 リーナは頷き、喉役用の薄茶の壺を抱えた。若者たちは縄と杭を肩に、吟遊詩人は木の琴を背負って走る。王都の四広場にも同時に掲示が貼られるはずだ。こっちの歌が先だと、人は“こっちを基準
”にしてくれる。
 南へ半日。丘の切れ間から盆地が開け、南原水庭が見えた。
 水庭――南一帯の町と畑を支える巨大な調整池。水面は朝の光を受けて金に揺れ、その縁に、商会の白幕と高い徴税台。すでに列ができている。樽をいくつも抱えた農夫、桶を積んだ女たち、肩で息をしている駄賃稼ぎの男。
 その横で、俺たちは共同鑑定台を展開した。白布。透明瓶。歌読みの台。地図板。杭を打ち、縄を張り、ものの十分で“場”が立ち上がる。
「吟遊詩人、音合わせ。書記、板題を」
「へいへい!」
【南原水庭・水章】本日の水:青/黄/赤
誰でも見て、測って、刻めます。
 歌が立つ。
♪ 青は空 喉で消える 影を残さず
 黄は石 舌で触れて 喉で薄れる
 赤は鉱 鼻に残って 重さを置く
 人が集まる。徴税台の列にいた者まで、こちらを振り返った。先に見えるものは、疑いをほどく。
 俺は透明瓶を三本並べ、南原水庭の上流・取水門・堰の陰から汲んだ水をなみなみと注いだ。白布が昼光を跳ね返し、僅かな濁りの差までも浮かび上がる。
「まずは見る」
 人々が覗き込む。子どもが指を伸ばして叱られ、老人が目を細め、職人が顎に手をやる。
「次に測る」
 煮沸の小鍋に水を量り、焚き口に小さな薪をくべる。砂時計が落ち切るまで、吟遊詩人が**“水歌”の短い節を繰り返す。
「最後に記す**」
 書記が板に今日の日付を刻み、色札をかけ替える。青:上流。黄:取水門。赤:堰の陰。 そのときだ。徴税台から白扇。カルドが涼しい笑みで歩いてきた。「相変わらずの“公開”。見事だ。だが、印がなければ水は出ない。
秩序ゆえに」
「秩序の前に、喉がある」
 俺は瓶の前に立ち、喉役の二人にうなずいた。リーナが青を、若者が黄を、少量ずつ“喉で”試す。
「……青、空の音。黄、わずかに石。赤は――鉱」
 リーナの眉が寄る。赤い瓶は堰の陰。つまり、水庭の内側が濁っている。
 カルドが扇を一度だけ打ち、徴税台の役人に合図した。
「“赤は鑑定不可”。搬入は青のみ。鑑定料銀貨二枚」
 あ、即決。値切る暇もくれないやつだ。
 列の後ろから悲鳴にも似たざわめきが起きる。二枚は収穫半月分だ。払えない。払ったら干上がる。
「“鑑定所”をここに作る」
 俺は割って入った。
「いいか、共同鑑定台は誰でも“合格証”を得られる。喉役/灰試し/煮沸残量の三試験だ。今日は南原百人を即日認定する」
「面白い。だが認定は君が出す。私的認定だ」
「違う。王家・ギルド・自治・大釜隊の四者印。刻んで押す。合議で剥奪も可能」
 カルドの目が細った。扇の内側で計算が走る。
「で、鑑定料は?」
「無料。歌と板で支払う」
 ざわり。人の息が大きく吸われ、小さく吐かれた。無料は強い。
歌はもっと強い。偽造に使われた武器を、公開で取り返す。「合格試験、始めます!」
 リーナの声が水庭に響く。
 灰皿。砂時計。薄茶。錫の皿。
 南原の若者が列を作り、老人が並び、女たちが子を抱いて輪に入る。
 灰試しは泡の“強さ”と“匂い”。
 煮沸残量は目盛と“雪音”。
 喉役は一滴だけ。舌の先で騒ぐ塩と、喉の奥で消える塩の違いを聞き分ける。
 合格した者には水読み札。今朝、谷で作ったばかりの薄い木札。
表に“水章”、裏に短い歌。
♪ 喉で読む 空の音
 雪の音 砂の音
 商会の徴税台の列からも、人が流れてきた。秩序の窓がもう一つできれば、人は自然にそちらも覗く。
 カルドは扇を揺らしながら、徴税台に一言だけ命じた。
「……徴税を棚上げ。まずは鑑定を。我々の印も“青に限り”無償とする」
 盤面を一気にひっくり返さず、半歩引いて形を変える。嫌なほど上手い。
 でも、半歩引いたら歌が入る。
 吟遊詩人が子どもたちに節を教え、子どもたちは母親の背の上で歌って笑う。偽造は、子どもの歌に勝てない。
 ――日が傾く。南の風が少し温くなり、池面が桃色を帯びてくる。
 合格者は九十七。もう少しで百だ。
 そのとき、鑑定台の端で瓶が割れた。
 カランという小さな音。けれど、場は即座に冷えた。 赤い瓶――堰の陰の水。
 割ったのは、痩せて目が泳いだ男。袖口にインク汚れ。書写の匂い。
「すみません、手がすべって……」
 嘘だ。匂いが“すべって”ない。
 彼の足元に、別の瓶。口に布。中身は濁り。
 入れ替えるつもりだった。青を赤に、赤を青に。歌の信頼ごと。
 周囲の視線が鋭くなる。
 俺は手のひらを上げて、止めた。
̶「鍋は人を裁かない。 まず、飲め」
 男の顔色が変わる。
「これを……?」
「自分の声で、喉にどう落ちるか言ってくれ」
 彼はしばらく震え、そして瓶を受け取って、喉へ落とした。
「……砂。鼻の奥で重い。胸が、冷たくなる」
 人々の息が揃って、ふうと抜けた。
 偽造の手口より、本人の声の方が、人を動かす。
「誰に頼まれた」
 問う声は固くない。火を大きくしないための声。
 男は涙をこぼして言った。
「筆の仕事を、取り上げられた。商会の人に、一度だけでいいからって、銀貨を……」
 沈黙。
 俺は頷いた。
「鍋は人を裁かない。歌に書く。偽の手口も、同じ場に残す」
 吟遊詩人が短い節で歌い上げ、書記が板に**“偽装未遂”**の欄を刻む。隠すより、晒す。公開の火は、闇を乾かす。 合格者がちょうど百になった頃、白幕の向こうから銀の蓋の音。
 ふっと笑う。――やっぱり来た。
 ジルベルトが、商会の台所から大鍋を抱えて現れた。
「規格スープ、配る。無料で」
 ざわつき。規格を掲げる彼が“無料”を口にした。
「規格の狭さは、胃を狭くする。今日は広げる」
 短い言葉。氷の人間が、火の場に立つ。
 彼のスープは淡く、軽く、体の上で静かに消える。
 俺の粥は喉で雪になり、眠りの入口を作る。
 違うけれど、敵ではない。
 カルドの扇が、初めて完全に止まった。
 日没。
 水庭の縁に灯(あか)り舟が並ぶ。
 薄い木舟に油を垂らし、芯を立て、小さな火を載せる。
 “水の地図”の完成祝い――という名目の、夜の公開だ。
 舟の列は青↓黄↓赤↓黄↓青の順で水庭を一周し、色の変化を目で見せる。
 歌が重なり、子どもが走り、老人が頷く。
 夜の“記録”は、文字より灯の方が速い。
 そこへ、駆け足の影。書記官ギルドの若い書記が、息を切らして紙を掲げた。
「本部より速達! “水章”の常設化、承認! 共同印、南原を含む五水域で試運用開始!」
 歓声。指が鳴る。舟が揺れ、火が踊る。
 カルドは笑わない。扇の内側で、次の計算をしている顔。
 でも今夜は、その計算に火の粉が飛ぶ。公開は、そういう種類の風だ。
 ――夜半。
 人の群れが落ち着き、灯り舟が岸へ寄せられ、最後の薄茶が分けられた頃。
 ジルベルトが静かに近づいた。
「カルドが南東の井戸街を押さえる。水を“王都通行”扱いにして、街道税に繋げる。明朝には役人が動く」
「井戸街は、井戸の数だけ喉がある。税は“井戸の口”で詰まる」
 俺は荷車の縄を引いた。
「井戸札を作る。“水読み札”の簡易版。井戸ごとに“今日の水” を刻んで、口にぶら下げる。井戸が自分で声を持つように」
「歌は?」
「短く。三拍子で。子どもが跳ねながら歌えるやつ」
 吟遊詩人が嬉嬉として弦を鳴らした。
♪ 井戸の口 青ならひと口 赤なら待て
 黄なら鍋へ 雪でならせ
 リーナが笑う。
「跳ね歌だ。覚えやすい」
「覚えやすいものは、取られにくい」
 俺は柄杓を握り直した。
「今夜のうちに十井戸。明日は三十。明後日には、井戸街全部に歌をぶら下げる」
 ジルベルトが目を細めた。
「……やっぱり、君の単純は複雑だ」
「難しいから単純にする。段取りの基本だ」
 互いにわずかに笑い、背中を向ける。氷と火が、同じ夜に息を吐く。
 その背を、白扇の影が遠くから見ていた。
 カルドは扇を開き、夜の火を一度だけ映した。
「声は軽い。だから速い。だが、重さも与えられる」
 彼は南の闇に消えた。
 次は、“重さ”。きっと陶器か、舟だ。供給規格の網は、素材でも編める。
 でも、喉はどこにでもある。鍋も。
 暁。
 俺たちは水庭を後にし、井戸街へ走った。
 板、札、歌、錫皿、灰、砂時計。
 どこへ行っても、やることは同じだ。
 見る・測る・記す。
 そして、食べさせる。
 ラノベ的に言えば――夜襲は成功。次は市街戦だ。
 段取りは整った。火も起きた。
 あとは、明日の椀まで運ぶだけ。
 王都の南空が薄く染まる。
 湯気はまだ見えない。けれど、喉の奥で雪が鳴っている。
 声は鍋で温度になり、水は歌で地図になる。
 その二つで、供給規格の心臓を、食べられる形にしてやる。

第20話「井戸街の跳ね歌――重さで塞がれた道」
 夜の名残りがまだ石畳に貼りついている。
 南原水庭から戻った《旅する大釜隊》は、その足で井戸街へ向かった。ここは王都でも古い区画で、路地の両側に家と家が寄り添い、その真ん中に丸い石の口がぽつぽつ開いている。井戸の口――つまり、喉が並んでいる町だ。
「今日やること、三つ」
 俺は荷車を止め、指を立てる。
「一つ、井戸札をぶら下げる。二つ、跳ね歌を回す。三つ、**秤(はかり)
**を広場に据える」
「秤?」
 リーナが首を傾げる。123
「うん。“重さ”で攻めてくる。だから、“重さ”で勝つ」
 昨夜、南でカルドは“供給規格”をもう一段引き締める匂いを漂わせた。次の網はきっと重さだ。重い瓶、重い舟、重い税。流れを鈍らせるには、速度より先に重量をいじるのが早い。
 最初の井戸。石の縁に苔が薄く生え、桶の縄は擦り切れ気味だ。
 俺は袋から井戸札を出す。木札の表に井戸番号、裏に短い跳ね歌。
♪ 井戸の口 青ならひと口 赤なら待て
 黄なら鍋へ 雪でならせ
 札を縄に結び、井戸の口にぶら下げる。
 側で見ていた子どもが真似をして歌い、母親が笑い、老人が指で拍を刻む。覚えやすいものは奪われにくい。これは鍋場の鉄則だ。
 ふたつめ、みっつめ……札は増え、歌は路地を跳ねた。
 そして昼下がり。俺たちは井戸街の真ん中の小さな広場に、木枠の秤を据えた。皿は二枚。片方に水入りの器、もう片方に砂袋。秤の梁には、歌読み職の小さな鈴。
「“重さの公開”を始めます。商会“標準壺”と、自治の“軽樽”、同じ水量で、どれだけ運べるか」
 俺の声に、人垣ができる。鍛冶屋、織工、子ども、そして――白い扇。やっぱり来たな、カルド。
 商会の台から運ばれてきた“標準壺”は、やたら分厚い陶器だった。蓋に商会印、肩に鉄輪。頑丈で落としても割れにくい。だけど ……重い。
 一方、こっちの“軽樽”は薄板を編んだ木樽。内側に樹脂を薄く塗って水をはじく。軽い。落とせば割れる。だが、運べる。
「安全のためには、重さが必要だ」
 カルドが扇で“標準壺”を示す。
「落とせば割れる樽で、水路は守れない」
「落とさなければいい」
 俺は笑って、秤に“標準壺”と“軽樽”を載せた。中身の水は同量。
 秤は――標準壺側に、がくん。
 広場に笑いが走る。
「重さは安全の印になる。だが、運べる距離は短くなる。一本の背中で運べる水は、軽い方が多い」
 俺は若者に合図。路地の端から端まで、実走だ。
 同じ背丈の二人が、同時に出る。曲がり角、段差、子どもの列。
 結果は明快だった。軽樽が二往復しても、標準壺は一往復の途中で肩を下ろした。肩に乗った“重さ”は、背骨から眠気を奪い、指先の血を奪う。
 歌読み職が鈴を鳴らし、短い節に落とす。
♪ 重い壺 一度で息ぎれ 水こぼす
 軽い樽 二度で笑って 歌になる
 カルドは扇を傾ける。
「では、割れ。落とせ。どちらが多く残る?」
 試験が一段、えげつなくなる。だが、逃げると“図星”に見える。
「条件を合わせる。高さは膝。落下は一回。拾い直しと再蓋(さいがい)可」
 俺は路地の石段を選び、膝の高さに水を持ち上げさせる。同時に落とす。
 かしゃん。軽樽の蓋が転がり、水が半分ほどこぼれた。
 どん。標準壺は割れない。けれど――立て直すのに時間がかかった。
 若者が慌てて持ち上げる間に、ほとんどの水が口から揺れて零れた。
 残量は、ほぼ同じ。
「安全は、重さだけじゃない。段取りだ」
 俺は樽の蓋を取り、薄い革の“落下蓋”を見せた。落としても付いたままの柔い蓋。
「重さの代わりに“工夫”で守る。鍋と同じだ」
 その時、衛兵が広場に駆け込んだ。腕には王都の帯。
「“陶器規格”発布! 本日より、使える器は商会印の“標準壺” に限る。軽樽の水運びは禁止。違反は没収」
 うわ、来た。重さで塞ぐ第二段だ。
 広場がざわめき、ため息と怒りが混じって渦になった。 カルドは扇を軽く振る。
「秩序は、壊れにくい器に宿る」
「秩序は、届く器に宿る」
 俺は即答した。
「なら、印を増やす。王家・ギルド・自治・大釜隊の四者印“器章 ”。落下蓋・薄板・樹脂の配合・歪み。全部公開。商会印と並存しよう」
「並存? 基準が増えれば、混乱が増える」
「増えた基準は、公開で整理する。秤がその“机”だ」
 ジルベルトが一歩出た。白い調理服、銀の蓋を脇に抱えて。
「俺の厨房でも“薄い器”を使う。熱を渡す速度がいい。落とすな、と鍛える」
 彼の声は氷の温度。でも今日は、少しだけ湯気が混じる。
「“標準壺”は、運搬には良い。だが配膳には遅い。両方残すべきだ」
 エリクがいつの間にか広場の縁にいた。書記官長は乾いた目で秤を見、短く言う。
「器章・暫定併存。公共の流通において、四者印の器を“標準壺と同権”とみなす。ただし秤と記録の常設が条件」
 歓声。拍手。肩の重さが少しだけ外れる。
 カルドは笑わない。扇の内側で計算を早める顔。
「では次だ。“舟(ふね)規格”。水は舟で運ぶ。舟底の厚み、舟板の重さ、印のない舟は水庭へ入れない」
 重さの第三段。舟に網を張る。
「舟ね」
 俺はあごに手をやった。
「浮き樽を使う。“舟”じゃなく、“水の上を歩く道”に変える。樽と樽を紐で繋いで、歩いて押す橋。印は器章を流用。舟規格の外側で水を運ぶ」
 広場が一拍、静かになり――笑いが弾けた。
 子どもが跳ね、若者が「できる!」と叫び、鍛冶屋が「金具は任せろ」と胸を叩く。
 カルドは扇をひとつ打った。
「やりたまえ。重さは、君の敵であり、君の味方だ」
 午後、俺たちは浮き樽橋の試作に取りかかった。
 樽と樽を木枠で繋ぎ、下に空気袋を吊るす。滑り止めに縄を編み、
̶要所に**“歌釘”** 拍ごとに足を置く場所が覚えられるよう、節番号を刻んだ釘を打つ。
 歌読み職がためしに弾く。
♪ いち・に・さん 釘を踏んで 舟を押す
 し・ご・ろく 浮きが笑って 水が運ぶ
 上に水を載せ、歩く。揺れる。でも、落ちない。
 重さは敵。だが、分ければ味方だ。
 橋が一本、二本。井戸街の運び手たちが行き来し、笑い声が水面で跳ねた。
 夕刻。井戸札は二十、跳ね歌は全域に。秤は広場で動き続け、器章の申請が列を作った。
 そこで、事件。
 井戸街の端、古い陶工(すえこう)の工房が封鎖された。扉に赤い紙。
「器章偽造の疑い」
 ……やりやがったな。
 陶工は腰の曲がった老女。指先はひび割れ、目は薄い灰色。「偽造なんかしとらん。昔からの釉で(うわぐすり)焼いただけだ」
 扉の前に役人二人。扇は白いけど、カルドではない。末端の“手
”。
 俺は掲示を睨み、扉の札を剥がして秤の脇に持っていった。
「公開審問。器章はここで読む」
 老女の器、商会の標準壺、自治の軽樽。全部秤に載せ、落として拾い、運んで注ぐ。
 水は嘘をつかない。器は“使って”初めて姿を出す。
 結果は、老女の器が一位だった。軽く、よくしなる。落下にも強い。
 広場が沸いた。
「偽造じゃなく、工夫だ!」
 歌読み職が節にする。
♪ 古の火 薄の器で 水を運ぶ
 偽と呼ぶな 工夫の跡を 秤が知る
 役人は顔を引きつらせ、掲示の紙を丸めた。
 そこに、氷の足音。ジルベルトだ。
「陶工の釉は、甘い火だ。急ぐ火じゃない。規格の紙は、火を急がせる」
 短い言葉。でも、言葉の中に台所が見える。
 カルドの影は見えない。代わりに、白扇を持たない濃紺の外套が現れた。
 書記官ギルドの監察筆(インスペクター)。背に羽根ペンの刺繍、目は眠そうで鋭い。
「公開、認める。陶工の工房、封鎖解除。器章は仮認定」
 彼はあくびを噛み殺して、掲示板に新しい札を頭から打ち込んだ。
「公開秤の結果は、掲示の上位に置く」
 紙より秤が上。
 広場にため息みたいな笑いがひろがった。
 夜。
 《大釜隊》は井戸街の真ん中に小釜を据えた。
 今日の“重さ”の戦いで疲れた背中に、薄い粥を。
 リーナが喉役のための薄茶を配り、若者たちが皿を拭き、老女の器が最初の配膳を受け取る。
 ジルベルトは自分の鍋で温いスープを作り、配りながら短く言った。
「明朝、カルドは舟印を一気に押しに来る。浮き樽橋を**“舟” として扱い**、規格違反にするつもりだ」
「“橋”と“舟”は違う。歩くから橋だ」
 俺は笑って、柄杓を立てた。
「橋章を作る。器章の派生。節釘と落下蓋と歩幅。三つの公開で“ 橋”を定義する。舟規格の外に、歩く水路を」
 ジルベルトが肩をすくめる。
「君の単純さ、やっぱり複雑だ」
「難しいから単純にする」
「分かってる。……羨ましいよ」
 氷が火を見て、ふっと笑った。
 そのとき、また紙の音。
 監察筆が低い声で告げる。
「王都の北門で、水章の地図板が焼かれた。犯人、不明。歌の台も壊された」
 広場が凍る。
 カルド……いや、これはたぶん**“見えない手”だ。商会が直接やれば、反発が大きい。だから、影。
 俺は深く息を吸い、喉の奥に雪を落とした。
「板は焼ける。でも、歌は焼けない。明朝、十倍の板を立てる。歌は百倍歌う。秤は移動する。重さは、広げれば軽くなる」 リーナが力強く頷いた。若者たちが拳を握る。老女の陶工が、皿を掲げた。
「わしの工房は夜通し焼ける。板のための薄皿**、明けまでに百」
 監察筆が眠そうに笑い、札をもう一枚打ち付ける。
「焼却への対抗は、倍返しでは足りない。公開百返し」
 笑いが戻る。弱い笑いじゃない。腹の底に火の芯がある笑いだ。
 俺は柄杓を握り直し、粥を一杯すくった。
 重さで塞がれた道は、分ければ通れる。
 舟でふさがれた水は、橋にすれば渡れる。
 印で縛られた器は、秤で自由を持つ。
 嘘で濡れた掲示は、歌で乾く。
「明日の段取り、いくよ」
 俺は指を立てた。
「一、橋章のひな形を作る。二、移動秤を十台。三、水章の板を二十。四、井戸札を百。五、歌――短いのを三つ増やす」 リーナが笑う。
「増やしすぎ」
「多すぎるくらいが、ちょうどいい」
 ジルベルトが「やれやれ」と肩をすくめ、しかし自分の鍋に薪を足した。氷が火を、火が氷を、少しだけ真似る。
 夜は更け、井戸街の上に跳ね歌が小さく流れ続けた。
♪ 井戸の口 青ならひと口 赤なら待て
 黄なら鍋へ 雪でならせ
♪ 秤の歌 重さで読むよ 器の声
 軽さは罪じゃ 工夫の名
♪ 橋の歩 いち・に・さんで 舟じゃない
 落ちても蓋で 水を守る
 そして、夜明け前。
 北門の方角に白い煙。焼かれた板の匂いが、まだ薄く残っている。
 俺は柄杓を立て、静かに言った。
「公開百返しだ。――行くぞ」
 井戸街の石畳が、朝の光で濡れたように光る。
 湯気はまだ見えない。けれど、喉の雪が鳴っている。
 重さで塞がれた道を、歌と秤でほどきながら、俺たちは走った。
 ラノベ的に言えば――“市街戦・中篇”。
 ボスの次の一手は分かっている。舟印、街道税、焼却の影。
 でも、鍋の勝ち方は変わらない。
 怖いまま火を扱い、見せ、測り、記す。
 そして、食べさせる。
 ――明日の舞台は、**北門広場の“公開百返し”**だ。
 段取りは、もうできている。

第21話「北門広場・公開百返し――火の跡に歌を」
 夜明け前の王都は、まだ眠い。けれど北門広場だけは、すでに鼓動を始めていた。
 昨日焼かれた水章の地図板の跡が、黒い歯型みたいに石畳を噛んでいる。煙の匂い、煤の粉。普通なら心が萎えるやつだ。……でも、今日は違う。
̶ 百返しだ。焼かれた板は一枚。立てる板は百」「
 俺は荷車の覆いを払った。
 薄皿で補強した新しい水章板が、束で眠っている。移動秤は十台。井戸札の束は百二十。橋章の節釘、袋いっぱい。
 リーナが頷き、喉役用の薄茶の壺を抱え直した。若者たちは杭と縄を肩に、吟遊詩人は木の琴を背負って跳ねる。132
「歌、三つ増やしたよ。重さの歌・橋の歌・火消しの歌」
̶「よし。 声は軽い。だから先に届く」
 北門の空が青む。合図の鈴。
 俺たちは黒焦げの跡の周りに白布を張り、透明瓶を並べ、煮沸台に小さな火を入れた。
 書記たちが板題を刻む。
【北門水場・水章】今日の水:青/黄/赤
見る・測る・記す。誰でもどうぞ。
 一枚目の板が立つ。拍手。
 二枚目。子どもが釘を打つ。
 三枚目。老女の陶工が薄皿を手渡す。
 十、二十、三十……石畳が、立札の森になっていく。歌がついて回る。
♪ 青は空 喉で消える 影を残さず
 黄は石 舌で触れて 喉で薄れる 赤は鉱 鼻に残って 重さを置く
 そこへ、白い扇。カルドだ。
 相変わらず冬の光みたいな顔をしてる。
「百返し。見事な過剰だ。秩序は最小で保つものだよ」
「鍋はね、少し過剰じゃないと沸かない」
 俺は透明瓶を指した。上流、取水門、堀の陰。三本に日付の札。「今日は青・青・黄。昨日の焼け跡の灰が、まだ水に混じってる。
灰試しは泡小、匂い薄。喉の雪は鳴る」
 喉役のリーナがうなずく。
「空の音。黄は石。赤はない」
 板に青・青・黄の札がかかった。
 群衆のざわめきが、胸の奥の冷えを押し出していく。見えると、人は強い。
「……で、火にはどう対抗する?」
 カルドの扇が、焦げ跡を示した。
 俺はうなずき、荷車の小箱から灰色の壺を出す。
「火消しの糊。粥と灰と塩を煮て作った。薄く塗ると、一度は炎を
舐めても黒くなるだけ。燃えないとは言わない。けど時間が稼げる。
̶稼いだ時間で 」
「歌を呼ぶ」
 吟遊詩人が続け、弦を鳴らした。
♪ 火が来たら 板は黒く 歌は白く
 黒の上に 白で書き足せ 今日の水
 人垣の中で、誰かが笑った。
 火の跡に白い歌。公開は、燃えやすくて、燃えにくい。
公開百返し・第一幕:秤の隊
 午前の最初は移動秤だ。
 商会の標準壺と自治の軽樽。同量の水を載せ、距離と回数で比べる。昨日井戸街でやった実走を、そのまま北門バージョンに。
 見物の列から、鍛冶屋の兄ちゃんと織工の姉さんが志願した。
 鐘。走る。角。段。人の波。
 結果はやっぱり同じ。軽樽二往復≒標準壺一往復。
 歌読み職が鈴で落とす。
♪ 重い壺 一度で息ぎれ 水こぼす
 軽い樽 二度で笑って 歌になる
 カルドは扇を横に払った。
「だから標準壺が必要なのだ。落としても割れにくい。すなわち“ 秩序は続く”」
「続け方は重さだけじゃない」
 俺は落下蓋を掲げ、実演した。
 膝の高さから落とす。蓋は革紐で樽に繋がっているから、飛ばない。こぼれる量は、訓練すればさらに減る。
̶ 重さの代わりに段取りで守る。これはもう、鍋の基本だ。 
 そこへ、役人。肩に青い帯。
「舟規格、本日より施行。水庭と堀の出入りは、商会印の舟に限る。浮き樽橋は“舟と見なす”。通行不可」
 群衆の空気が固くなる。昨日作ったばかりの浮き樽橋が、封じられる。
 カルドの扇が静かに開いた。
「橋を名乗っても、水上を移動しているなら舟だ。規格は形ではなく、機能で決まる」
 ……なら、機能を書き換える。
「橋章を、今ここで定義する。判定は歩幅・節釘・落下蓋の三点」
 俺は節番号を刻んだ橋用の板を掲げた。
「一、歩く:橋上の通行は、三拍子の踏板に限る。押すでも漕ぐでもなく、歩く。
二、節釘:手すりと踏板に節番号釘を打ち、足運びを歌と一致させる。
三、落下蓋:転落時の水こぼれを蓋構造で最小にする。
̶ この三つを満たすものを、舟ではなく橋と公開で定める」 
 リーナが手旗を揚げ、吟遊詩人が三拍子を刻む。
♪ いち・に・さん 釘を踏んで 舟じゃない
 し・ご・ろく 手すりつかんで 橋を押す
 書記官長エリクが、眠そうな目でこちらを見た。
「橋章・暫定承認。本日限りの通行試験を許可。事故ゼロで終えたら、正式採択に付す」
 広場に息が戻る。
 カルドは扇で白い息を切っただけで、何も言わない。……動きがないときが、いちばん嫌なときだ。
公開百返し・第二幕:焼却の影 昼。板は八十まで増え、井戸札は手押し車で配られ、喉役認定の列が蛇みたいに延びた。
 その時、油の匂い。
 振り向くと、板の影で小さな壺が割れている。黒い液が石目に走る。
̶ 影の手だ。 
 火打石のちいさな音が聞こえた瞬間、俺は叫んだ。
「灰! 皿!」
 老女の陶工が走る。薄皿の山。リーナが灰の壺をひっくり返す。
 火花が落ちる。ぼうっと黒が立つ。
 だが火消しの糊で薄く塗った板は、一瞬だけ炎を舐めて、すぐに黒へ。
 吟遊詩人の弦が跳ねる。
♪ 黒の上に 白で書け
 今日の水 明日の節
 火より速い 声で塗れ
 火は演目になり、歌に吸収される。
 影の手? 歌の舞台は、暗がりに向かない。
 衛兵が影を追い、書写の匂いの男を三人押さえた。袖口にインク汚れ。
 監察筆(インスペクター)が眠そうに来て、札をがん、と打ち込む。
「焼却未遂:三件。公開筆記・歌録音済み。公開百返し継続」 板がまた一本立つ。黒の上に白。今日の日付。青・青・黄。
公開百返し・第三幕:橋の通行 夕刻前。 浮き樽橋の試験が始まる。
 橋は節釘で、“いち・に・さん”の手すり。
 水運び人は喉役認定済みの若者たち。背筋、まっすぐ。
 エリクの槌。
「通れ」
 三拍子。橋が歌で歩く。
 落ちは、なし。
 橋上の樽は落下蓋で水こぼれ最小。
 対岸に渡った若者が、両手を上げた。
「橋は橋! 舟じゃない!」
 歓声。
 カルドの扇が短く震えた。怒りではない。計算の変更だ。
「通行よし。橋章・採択」
 エリクの声に、夜の一番星が早めに灯る。
 王都の堀に、歩く水路が承認された。
 重さで塞がれた道に、拍で開く橋が一本、確かにかかった。
それでもカルドは笑う
̶ いい一日だったな」「
 カルドが近づき、扇を閉じた。
 笑っていない顔で、笑っていない言葉を言う。
「声、秤、橋。どれも“公開”で守った。認めよう。
 だが、重さにはまだ層がある。陶土は誰のものだ?」
 ……来た。器章の心臓。器を焼く土。
「王都北東の陶土丘陵に、商会の採掘契約が入る。来週から、“器章”を焼ける土は印付きだけ。印のない窯は供給を絶たれる」
 広場の熱が、すっと下がる。
 老女の陶工の指が、皿の縁を掴んだ。「……また、重くするのかい」
「安全のためにね」
 カルドは優雅に頭を下げ、白い扇をくるりと回した。
 去る背中は冬色だ。早い。いつだって、先に契約を打つ。
 俺は胸の中で喉の雪をひとかけ落とした。怒りは熱い。冷やして、段取り。
̶ 図面を開く。器章の「薄器(うすうつわ)、釉の甘い火、落下蓋の革紐。全部、設計歌にして、辺境の窯に流す」
 リーナが目を瞬かせる。
「歌で……図面?」
「そう。“焼成の節”を覚え歌にする。詩人、頼む」
 吟遊詩人が身を乗り出す。
♪ 火を甘く 土を薄く 風は下
 灰は白く 塩はひと雪 音で止め
 割れたなら 蓋で抱け 革で結べ
 図面は燃える。歌は燃えない。
 器章の設計歌は、明日には井戸街の子どもが口ずさみ、来週には辺境の窯が覚える。
 契約に重さを足される前に、歌で広げる。
王弟、ふいに現る
 日が落ち、最終の粥を配っていると、思いがけない客が現れた。
 王弟だ。護衛も控えめに、外套の裾に煤をつけたまま。
「橋を、見た」
 彼は短く言い、椀を受け取って喉で粥を飲む。
 呼気が少し長くなって、目の端の痛みがほどける。
̶「眠れる粥だ。 橋章、よかった。戦は、歩いて運ぶものだ。声も水も」
 侍医長が後ろで頷いた。
 王弟は続ける。
「明日、北東の陶土丘陵へ護衛の一隊を出す。“歌読み職”を伴わせる。採掘契約の現地閲覧だ。歌の前で印を語らせる」
 広場が沸いた。
 公開の火は、とうとう王の枢にも届いた。
夜の段取り
 人が引き、広場に火の芯だけが残る。
 板は百。秤は十。井戸札は八十ぶら下がり、橋章の札が堀端で揺れる。
 リーナが薄茶を回しながら笑った。
「カイ、今日の鍋、勝ったよ」
「勝った。でも、土が来る。重さの、もっと底にあるやつ」
 ジルベルトが現れた。白の調理服に、門の風。氷の人間が、火の輪に入る。
「窯の火は急かすと甘さが死ぬ。設計歌は悪くない。だが、歌が速
̶すぎる場所もある。 図と秤も一緒に置け」
「分かってる。だから移動秤を窯に一台ずつ。焼成秤。釉の重さ、土の水分、甘い火の重み」
 ジルベルトがわずかに笑う。
「君の単純、やっぱり複雑」
「複雑な現実を、単純な段取りに落とす。それが食堂だ」
 監察筆が、大きな欠伸を一つ。
「掲示、追加。
̶ “焼却があれば百返し。 
̶ 重さで塞げば秤を増やす。 
̶ 舟で囲えば橋を歩く。 
̶ 土を囲えば歌で焼く。” 
 ……長いな。まあいいか」
 札はがんと打ち込まれた。笑いが零れた。
 公開は、冗談が混ざるくらいがちょうどいい。
明日への仕込み
 宿に戻る前、俺たちは小釜で**“火消しの糊”**をもう一度炊いた。
 粥に灰と塩。火のそばでねちねち練る。
 鍋の匂いはやわらかく、冬の鼻を撫でる。
 老女の陶工が指を突っ込み、塗りざわりを確かめる。
「甘い。これなら、一度目は耐える」
「一度でいい。時間が稼げれば、歌が追いつく」
 喉の奥で雪が鳴る。
 今日一日で、火の跡は舞台になった。
 重さで塞がれた道は、拍で開いた。
 そして明日、土が来る。
 土は重い。けど、焼けば器だ。器は椀になる。椀は声を運ぶ。
「段取り、確認」
 俺は指を上げた。
「一、器章の設計歌を今夜中に四つ作る。薄器・落下蓋・釉・焼成秤。
 二、焼成秤を三台、夜明け前に窯へ。老女、頼める?」
「火の面倒は任せな」
「三、王弟隊の先回りで、丘陵の水章板と秤を設置。採掘の“泥水 ”をその場で読む。
 四、橋章を南門にも一本。歩く水路は二本あれば網になる」
 リーナが拳を握る。
「“公開百返し”、第二日目だね」
「そう。公開は続くほど強くなる。鍋も同じ」
 夜が落ち、星が低い。
 北門の板の森が、風にぱらぱらと鳴る。
 歌は小さく、でも消えない。
 火は小さく、でも続く。
 俺は柄杓を立て、短く呟いた。
「鍋は叫ばない。だから、椀で答える。」
 湯気はまっすぐ、星の底へ吸い込まれていった。
 明日の舞台は、陶土丘陵。
 重さの底で、甘い火を守る戦いが始まる。