【読む前に3行だけ】
・破談の先で見つけたのは、国を起こす手順書。
・資源・物流・人材を“設計”して積み上げる。
・恋も国家も、ルート設計で最短到達。
〈読了目安〉約9分
・・・
第1話「断罪の間で、扉が開く」
 鏡のように磨かれた白大理石の床に、王家の紋章が金糸で編まれた赤い絨毯が走っている。天窓から射す午下がりの光が、長い長い影を引いた。軽やかな音楽は途中で断ち切られ、代わりに礼拝堂じみた沈黙が広間を支配する。
 王太子アレクシスは玉座の階段の半ばに立ち、青い外套を翻した。硬い声音が広間に落ちる。
「侯爵令嬢クラリス・アーデルハイト。そなたとの婚約を、ここに破棄する」
 ざわめき。扇の影で笑う者、目を伏せる者、口元を押さえる侍女。クラリスは一歩前へ進み、礼を取る。背筋は澄んだ弦のようにぴんと張っていた。心臓の鼓動は早い。だが、震えは唇の内側で止めた。
「理由をうかがってもよろしいでしょうか、殿下」
「嫉妬深く、醜悪な振る舞いで、王太子妃にふさわしくない。無辜の子女を陥れた証拠も上がっている」
 証拠。用意されているに決まっている。今日の舞踏会が「慈善の夜会」から「断罪の劇場」に衣替えすることなど、一週間前から水面下の噂で知っていた。
 壇の脇で、栗毛の少女が怯えたふりをして肩を震わせる。男爵令嬢ミレイユ――いつのまにか「王太子の庇護を受ける健気な娘」として持ち上げられ、社交界の話題をさらっている子。彼女の傍らには、侍従長が差し出す羊皮紙がある。魔術封蝋付きの“証”だ。 クラリスは羊皮紙を受け取り、封蝋を指先でなぞった。王宮魔術院の印。完璧だ。完璧すぎて、逆に作り物の匂いがする。
 封を切り、さらりと目を走らせる。貴族学校での嫌がらせ、寄付金の着服、侍女への暴力。すべて彼女がやったことになっている。
書体は統一、証言者名も整然。整いすぎている。
「よく整えられた書面でございますね」
 皮肉など乗せない。見解を述べただけだ。
 王太子の眉がわずかに動く。背後に控える宰相が目配せをよこす。
――分かっている、これは政治の段取り。侯爵家アーデルハイトの影響力を削ぐための、舞台装置。
 父――アーデルハイト侯は、列席を許されていない。王都に呼び寄せる名目で、遠くの視察へ出ている。宰相派の手回しは見事だった。
 クラリスは書面を返し、静かに膝を折る。
「陛下の御名代としての殿下のご決断、拝受いたします」
 その瞬間、広間の一角で小さく息を呑む音がした。隣国からの留学生であり王立学院の同輩、黒髪の青年が立っていた。銀の胸甲、右肩には見慣れぬ紋章。――誰だろう、と視線が交差する。彼はほんの僅かに首を横に振った。止まれ、という合図に見えた。
「ただし、一つだけ、お許しを」
 王太子が顎を上げる。「申せ」

「私に与えられるはずだった王太子妃としての持参金と収入地、すべてを放棄いたします。その代わり、母系より伝わる辺境の塩湖と、
その周辺三村の直轄を願います。追放の身として、辺境にて静かに暮らしたく存じます。王都には二度と戻りません」 広間がどよめいた。
 宰相の目が鋭く細まる。彼らは、クラリスが王都にしがみつき、少しでも名誉挽回を願うような哀れな姿を思い描いていたに違いない。だが、彼女は自ら扉を選び、外へ出ようとしている。
 王太子は逡巡した。だが、断罪の場で寛大さを示すのは彼の得点になる。なにより、辺境の塩湖など――そう、彼らは「干上がりかけた不毛の地」だと信じている。
「よかろう。塩湖と三村、王命をもって与える。そなたは本日限りで王都から退去せよ」
「ありがたき幸い」
 クラリスが頭を垂れると、ミレイユが震える声で言った。
「こ、こわかった……。殿下、わたくし……」
「ミレイユ、もう大丈夫だ」
 王太子は彼女を抱き寄せる。優雅な抱擁。拍手が起こる。劇は幕を閉じた――ように見えた。
 クラリスは最後に一度だけ広間を見渡す。幼いころからの友人たちは、扇の陰に隠れて目を逸らしていた。ひとりだけ、視線をそらさない者がいた。王国騎士団の若き隊長、レオン・バルツァー。氷色の瞳が、あからさまに苛立ちを湛えて彼女を追う。 控えの間へ下がると、侍女長のマリナが待っていた。
「お嬢様……!」
「泣かないで、マリナ。目が腫れると、道中の塵が入ったときに痛むわ」
 冗談めかして言うと、マリナはぐっと口を結ぶ。雇い入れて八年になる。彼女の頼もしさなくして、今日まで淑女としての仮面を維持できたかどうか。
 壁際の机に置かれたトランクは、昨夜のうちに詰め終えたもの。学術書、家計簿、古い地図、母が残した小箱。扉が開き、先ほどの黒髪の青年が入ってきた。
「はじめまして、クラリス嬢。私はユリウス・ハイン。〈異邦研究院〉――いや、こちらでは『外来学派』と言ったほうが通じますか。
今日の芝居、乱暴ですね」
「お招きした覚えはありませんが」
「私も勝手に足が動いたのです。あなたが最後に願った“塩湖”、あれは、手放しでは笑えない賭けだ」
 クラリスは目を細める。
「あなたは、あの塩湖をご存じなの?」
「この半年、王国地誌を読みあさりました。昔の記録に、塩と一緒に“砂の下の金”という奇妙な言葉がある」 砂の下の金。 クラリスの奥歯が音もなく噛み合わさる。――母の遺した手帳に、似た記述があった。『雨のない年ほど、湖は黄金に近づく』。
 彼は続ける。
「あなたがこんな結末を選ぶなら、同行させてください。私には、あなたが必要だ」
「どうして?」
「あなたの家計簿、見事でした。王立学院で誰も気づいていない“ 数字の魔法”を使っている。……いや、魔法ではない。合理――あなたの言葉で言えば、現代知識。私はそれを、異世界から流れついた人間が持つ“記憶”だと考えている」
 クラリスは一歩近づき、ユリウスの胸元の紋章に目を留める。見慣れぬ幾何学の印――この世界にない形。
「あなたも……外から来たのかしら」
「問いに答える前に、あなたの問いに一つだけ質問で返させてください。――あなたは『奪われることに慣れた顔』をしている。今日だけではない。ずっと、少しずつ削られてきたのでは?」 クラリスは笑ってみせた。
「ええ。だからもう、削るところが残っていないの」
 その時、廊下の向こうから陽光が差し、誰かの影が伸びた。レオン・バルツァーだ。誰もいないのを確かめ、早足で入ってくる。
「クラリス嬢。……不躾だが、単刀直入に言う。今日の断罪には不正がある。騎士団の内部にも、宰相派の手が回っていた。誰が敵で誰が味方か、私にもまだ見えない。だが――」
「ご忠告、感謝します。けれど私は、王都を出ます」
「出るのは勝手だが、護衛がいる。私の部下を――」
「要りません」
 レオンは言葉を飲み込んだ。氷の瞳が、熱に揺れる。
「なるほど。王都にしがみつく人間の目ではない。……私は職務上、
あなたにこれ以上肩入れはできない。だが、道を選び直すことはできる。必要なら呼べ」
 彼は短い革紐に通した小さな指笛を差し出した。王国北境の遊牧民が使う、護衛の符。
「鳴らせば、三日以内に私が行く」
 クラリスは受け取り、袖の内側に隠した。背を向けるレオンの歩幅は大きい。去り際、ほんの少しだけ肩が落ちた――それが彼の誠実さの重みなのだと、彼女は思う。
 夕刻。王都の外れ、辻馬車の停車場。
 クラリスは荷台に乗り、最後に一度だけ城壁を振り返った。白い塔が陽に光る。あれは檻だ、とようやく言語化できた。
「行きましょう、マリナ」
「はい、お嬢様」
 御者台がきしみ、馬が歩き出す。街道を抜ければ、麦畑が波立ち、やがて森が連なる。旅は長い。だが、その長さは救いだ。考える時間が与えられるから。
 彼女は膝の上で、母の小箱を開けた。薄い手記。擦れた革表紙。
そこに、小さな折り図が挟まっている。
 ――“黄金の大地”。
 幼いころ、母は冬の居間でこの言葉を笑いながら口にした。祖先の誰かが、塩湖の南に広がる砂礫地をそう呼んだのだという。「春の風が来るたびに、地面が光ってね。まるで誰かが砂の下で灯りをともしたみたいだった」と。
 クラリスは、指で文字をなぞる。
 黄金は、貨幣だけを意味しない。豊穣、技術、信用、秩序――“ 人が安心して眠れる夜”の総名が、黄金なのだ。
 夜。宿場町の板間の部屋。窓の外で風鈴が鳴る。マリナは疲れて早くに眠った。ユリウスは蝋燭の灯りで図面を広げている。
「塩湖の周囲は、年々干上がりが進んでいる。もし本当に“砂の下の金”があるなら、地表の変化と連動しているはずだ」
「地下水脈。あるいは、塩を生む層の下に別の鉱層。……金色は、比喩かもしれない」
「あなたはどちらだと思う?」
「どちらでも、使い道はあるわ」
 ユリウスが微笑む。
「やはり、あなたは面白い」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
 クラリスは羽根ペンを取り、紙に書きつけ始めた。 ――初動計画。
一、住民との契約更新。年貢の方法を“物納から貨幣・労役の選択制”へ。
二、水と塩の管理。塩湖の堤防点検と簡易蒸留器の導入。
三、冬越し費用の積立。飢饉対応の共同倉。
四、治安の骨格。自警団の整備と、夜間見回りの交代制。
五、読み書き算術の学び舎。次の春までに、子どもたちに計算を教える。
六、交易路の設計。塩と干し肉、皮革、薬草。まずは隣の小領から。
七、魔道具――灯り、ポンプ、測量器。可能な範囲から量産。
 紙に走るペン先が、部屋の静けさを細かく刻む。
 クラリスの中で、王都で身につけた淑女の作法が音もなく剝がれていく。残るのは、もっと古く、もっと頑丈な骨組み。――生き延びるための、理と工夫。
 扉が小さく叩かれた。宿の少年が、夜更けの手紙を持って立っている。封蝋は見知らぬ紋。開くと、簡潔な文。
『北境の古図に“黄金の大地”の注解あり。王立学院図書塔・禁書庫四段、索引記号A-Ω-13。閲覧は王命か宰相承認を要す』
 差出人は記されていない。だが、誰かが見ている。助けようとしているのか、罠か。
 クラリスは手紙を火にくべ、完全に灰になるまで見届けた。
「明日からは馬を一台増やしましょう。荷を減らす代わりに、移動速度を上げたい」
「はい」「ユリウス。あなたは塩湖へ着いたら、最初に何を見たい?」
「水の味。……そして、風の向き」
「いいわね。私は、人の顔を見たい。そこに、希望が残っているかどうか」
 窓の外で、砂を含んだ風が一度だけうなり、静まった。
 クラリスは指笛を袖から取り出し、月明かりにかざしてみる。吹く気はない。けれど、音のない約束があるというだけで、心が少し軽くなる。
 彼女は灯りを落とし、目を閉じた。瞼の裏で、塩湖は黄金色に揺れ、誰かが砂の下で灯りをともす。
 ――その灯りを、今度は自分の手で、地上に引き上げるのだ。
 夜が明ける。
 旅立ちの朝は、冷たい。だが、冷たさは目を覚ましてくれる。
 御者台に腰かけ、クラリスは空気の匂いを嗅ぐ。乾いた草、遠いところで焚かれる薪の匂い。
「行こう、黄金の大地へ」
 馬が前脚で土を掻き、車輪が回る。
 王都は、もう背後の霞の中だ。
 追放という名の扉は、確かに閉じられた。
 だが、その向こうに、もう一つの扉の気配がある。
 ――辺境で最強の国家を作る。
 宣誓の言葉は声にならないが、胸の中心で、硬く、静かに鳴り続けていた。

第2話「黄金の大地の呼び声」
 王都を離れて三日。道は泥濘み、空は薄灰色に曇っている。馬車の窓から見える景色は、次第に人の気配を失い、木々の間に放置された石の祠や、倒れた柵ばかりが目につくようになった。
 クラリスは膝の上に母の遺した小箱を抱え、静かに指で縁を撫でていた。
「お嬢様、そろそろ休まれては……」
 マリナが気遣わしげに声をかける。
「大丈夫よ。今は眠ってはいけない気がするの」
 そう答える声には、疲労と同じだけの昂揚が混じっていた。
 馬車の反対側では、ユリウスが古い地図を広げている。羊皮紙に描かれた線は薄れていて、ところどころ墨が滲んで判別しにくい。「ここが塩湖の入り口にあたる集落です。住人は……記録が十年前で途切れている。逃散か、疫病か。あるいは――」
「資源を奪い合って、争ったのかもしれないわね」
 クラリスの言葉にユリウスは頷いた。
 馬車が大きく揺れた。御者が叫ぶ。
「盗賊だ!」
 次の瞬間、矢が馬車の木壁に突き刺さった。
 クラリスはすぐさま身を低くし、マリナを抱き込む。外から粗野な笑い声が響く。
「金持ちの箱入り令嬢が辺境に? いい土産だ!」
 御者が剣を抜いたが、多勢に無勢。馬車を囲んだのは十人以上の盗賊。粗末な鎧、しかし目は血走っている。
「マリナ、荷の中に“灯りの宝石”があるわ。手に取りなさい」
「で、でも……」
「大丈夫。私が合図したら、床に投げて」
 クラリスはユリウスに目配せをする。彼は黙って腰の袋から粉末を取り出した。銀色の微粒子が、彼の掌で淡く光る。
 馬車の扉が蹴り破られた瞬間――
「今!」
 マリナが宝石を床に叩きつけた。まばゆい閃光。盗賊たちの目が潰され、叫び声が広がる。
 ユリウスが粉を空気に散らす。閃光に反応して粒子が青く輝き、視界は一瞬で白銀の霧に覆われた。
「退け!」
 御者が鞭を振るい、馬車は霧を突き破って疾走する。
 しばらくして、追手の声が遠のいた。
 クラリスは深呼吸を一つして、落ち着いた声音で言った。
「やはり、この辺境は放棄されて久しいのね。治安も秩序も崩れている」
「だからこそ、あなたが必要なんです」 ユリウスの声は熱を帯びていた。「ここは“空白”だ。法律も、権威も、誰も持っていない。ただの無法の土地。だからこそ、新しい秩序を植え付けられる」
 クラリスは窓の外を見つめる。遠くに、淡く輝く水面が見えた。 それは湖――しかし青ではなく、夕陽を浴びて黄金に染まっていた。
「……これが、母の言っていた黄金の大地」
 クラリスは思わず呟いた。胸の奥で何かがはじける。
 断罪も、追放も、婚約破棄も、この瞬間のために用意された舞台に過ぎないのかもしれない。
「ユリウス。ここで、国家を作りましょう」
 その言葉は、夢でも冗談でもなかった。
 彼女の中で確かに響く、決意の鐘の音だった。 
第3話「辺境の民、最初の約束」
 塩湖は、近づくほどに匂いを濃くした。舌の奥に苦い塩が乗り、風は乾いた砂を含んで頬を刺す。夕刻前、湖の東岸に点々と並ぶ粗末な小屋が見えた。屋根は藁を土で抑えただけ、壁は割れ目だらけの日干し煉瓦。煙突からは薄い煙が上がり、かすかに干し魚の匂いが漂う。
 クラリスは御者に合図し、馬車を止めさせた。ユリウスは肩に古地図を担ぎ、マリナは荷の上から毛布を一枚取り出す。日が傾けば、砂の夜は急に寒くなる。
 最初に現れたのは、背の曲がった老人だった。褐色の皮膚に深い皺。片足を引きずり、手に尖った棒を握っている。続いてやせた女たち、目だけが大きい子どもたちが距離を置いて立った。
「旅か。ここに来る者は久しい」
 老人の声は砂利のようにざらついていた。
「私はクラリス・アーデルハイト。この塩湖と周辺三つの村を、王命によって預かる者です」
 ざわめきが走る。老人は目を細め、クラリスの顔を確かめるように見つめた。
「預かる者、だと……? ここを“預かる”者は、前にもいた。王都から来た役人は、塩を量り、税を取り、飢えた子の手から干し肉を奪って帰った。次に来たのは兵隊だ。男を連れていき、戻ってきたのは骨ばかり。お前は、何を奪いに来た」
「奪いには来ていません」
 クラリスははっきりと答え、馬車から降りた。砂に沈む靴の感触が、王都での踵とは違う重さを伝える。
「名は?」
「ガラン、と呼ばれている。元は湖の西の塩汲み頭だったが、皆散った」
 老人は尖った棒を土に突き立てた。
「飢えは、怒りよりも静かだ。静かに、家を空にする。お前にできることはあるのか」
「あります」
 クラリスは頷き、ユリウスとマリナに視線を送った。
「今夜、焚き火の回りで話しましょう。私の計画と、皆さんの現実とを、同じ火で温め合わせたい」
 集落の中央――といっても、半ば崩れた井戸と石の祠があるだけの空き地だ――に火が起こされた。細い枝から太い幹へ、火の梯子がゆっくり登る。集まったのは四十ほど。老いが目立ち、若い男は少ない。
 クラリスはまず、持ってきた粗面のパンを子どもへ配った。マリナが持つ小鍋からは、干し肉と塩、数枚の野草で取った濃いスープの匂いが立ち上る。ほんの僅かだが、匂いというものは腹に先に届く。子が皿を抱えた腕の震えがとまる。母親の目から、針のような光が一本抜け落ちる。
「約束を二つ、すぐに交わしたい」
 火の明かりの輪の中心で、クラリスは声を張った。
「一つ目。年貢は当面、物納と労役の選択制にします。食べる物がない家から食べ物を取れば、家は潰れます。労役――水路の掘削、堤の補強、夜警、子どもたちの読み書きの場作り――これらに参加した日数を、税に換えます。記録は私がつけ、誰でも閲覧できるよ

うにします」
 ざわめき。老人ガランが唇を噛みしめた。
「口で言うのは簡単だ」
「だから二つ目の約束です。記録の帳面は今この場で作ります。帳簿は村ごとに二冊。片方は私が預かり、もう片方は村の“手番”が持つ。手番は毎月交代。読む力のない人にも見えるよう、印と数字を併記します」
 クラリスは膝をつき、板の上に紙を広げて、羽根ペンを走らせた。
 ――“辺境直轄 労役・物納換算帳”
 項目は大きく、誰にでも見分けがつくように。名前の横に印を描く欄を作り、できるだけ数字を少なく。
「これを、誰かに託したい。私一人の帳面では、私が不正を働いたと疑われる余地が生まれますから」
「……私が持とう」
 低い声が輪の後ろから落ちた。振り向くと、背に革の胸当てをつけた女が立っていた。髪を短く束ね、顔に薄い古傷。腰には刃を抜いたままの短剣。
「名は?」
「イングリット。西岸の見張りだった。昔は兵の真似事をさせられた。今は、夜に火を絶やさない役」
 クラリスは頷き、一冊を彼女へ差し出す。
「任せます。あなたの目は、火の番をする人の目だ」
 イングリットは帳面を抱き、火の照り返しを黙って受け止めた。 次にクラリスは、ユリウスに合図する。ユリウスは革袋から、細い金属管と、丸い板を取り出した。
「これは風を測る器具です。北から吹く夜風の強さを数にする。風は塩の結晶の育ち方を決める。風向と結晶の粒の関係が分かれば、同じ手で同じ結果を出せる。塩は“運”ではなく“技術”になる」 彼は板に穴を開け、草紐で柱の先に固定した。金属管がわずかな音で歌い、ときどき低く詰まる。
「わしらは、勘でやっていた」
 ガランが管に指をかざし、呻くように言った。
「勘は年とともに鈍る。だがこの管は老いない。……面白い」
「もう一つ」
 クラリスは懐から、掌に乗るほどの小さな魔道具を取り出した。石英で作られた円筒に、薄い刻印がぐるりと回っている。
「これは“灯り”です。初等の魔道具ですが、二つ工夫を加えました。内部に反射板を入れて光を一点に集めることと、回転式の遮光輪を付けて三段階に明るさを調節できること。夜警と作業の効率が上がります。明日から十台ずつ作り、まずは夜の見張りと井戸、共同倉へ」
「そんな……材料はどこから」
 マリナが答えた。
「湖畔に散らばった割れた器と、祠の裏の砂に混じっていた透明の石――石英です。炉は集落の西の窪みを使えば風が安定する。粘土は井戸の底に沈んでいました」
 いつのまに、と人々の目が丸くなる。
 火の輪に、少しずつ息が混じり始めたのが分かった。怒りと警戒の呼気が、興味と期待の呼気にほどけていく。
 クラリスは畳みかけず、そこで言葉を飲み、耳を開く側に回った。ある女が夫の失踪を語り、少年が夜の遠吠えの数を数えた話をする。ひとりの老女が祠の古い歌を掠れた声で口ずさみ、それが“干魃の年ほど湖は輝く”と繰り返す節であることにクラリスは耳を澄ませた。
 ――“砂の下の金”。母の言葉と、歌の節が小さな橋でつながる。
 夜が深まる前に、最初の“仕事”が始まった。井戸の修繕。井戸枠の煉瓦は崩れ、桶を下ろす滑車は軸が歪んで軋んでいる。
「イングリット、力のある者を四人。ガランは昔の水の高さを覚えている?」
「年の印で覚えがある。祠の石の苔の跡も目安になる」
「よし。まずは井戸の底の泥を掻き出して水脈の位置を確かめる。次に、蒸留器を一基だけ作って“味”を測る。塩を抜けば、病が減るはず」
 ユリウスは頷き、手早く木枠を組み始めた。金属管は冷えると低い音になり、北風が強まったことを告げる。
 作業の合間、クラリスは子どもたちに数字の石を配った。小さな丸石に一から十までの点を穿ち、指でなぞれば数の形が残る。
「これは“数の石”。名前と同じくらい大事な、家の財産よ」
 子の一人が恐る恐る指で石を撫で、笑った。歯が欠けていても、笑いはまっすぐだ。
「ねえ、お嬢さま。ここに残るの」
 その問いに、クラリスは迷わず答えた。
「残るわ。あなたたちの“夜”が静かになるまで」
 作業は夜半で切り上げ、見張りの番を決めて解散した。クラリスとマリナは崩れかけの小屋を借り、藁を少しだけ厚く敷いて横になる。天井の穴から星が覗いていた。
「お嬢様」
「眠っていいわ、マリナ」
「はい……でも少しだけ。――今日、わたし、自分が役に立てた気がしました」 マリナの声は、砂に落ちた雨粒のように小さかった。
「役に立つ人は“役”を置く人よ。あなたが運んだ鍋も、配ったパンも、誰かの明日の体温になる。……ありがとう」
 明け方。空が白むよりほんの少し前、低い唸りが湖の向こうからやってきた。最初は風の音かと思ったが違う。地面に足裏で触れると、皮膚の下で骨が鳴るような重たい振動――群れの足音。
 イングリットの笛が短く鳴り、眠りかけた人々が音もなく起き上がる。
「砂犬だ。大きい群れだ」
 イングリットは短剣を逆手に持つ。
 砂犬――乾いた地の肉食獣。夜に群れで動き、弱った獲物を音で囲って狩る。
「囲炉裏の火を大きく」
 クラリスは指示しながら、昨夜の“灯り”の一つを取って円筒の遮光輪を回し、光を最も強くした。湖面に白い筋が走り、砂丘の稜線に目が生まれる。
 ユリウスは塩を布に包んで火に投げ入れ、ぱちぱちと弾ける音を立てる。
「音が嫌いだ。群れの足並みを乱せる」
 砂の影から、灰色の毛並みが現れた。目は夜の炎を映して黄色い。
十はいる。いや、もっと。
「子どもは奥へ!」
 イングリットが吠える。
 クラリスは灯りを高く掲げ、群れの先頭にゆっくりと光の円をなぞった。光は線ではなく“壁”になる。砂犬は壁を嫌う。最初の二頭が足を止め、唸りだけが高くなった。
 その瞬間、背後で金属管が澄んだ高音を鳴らした。風が変わった。
北から、乾いた鋭い風。ユリウスが低く叫ぶ。
「今だ、灰を!」 ガランが駆け出し、祠のそばの灰溜まりから灰を掴んで投げた。風に乗った灰が砂犬の鼻面を覆う。くしゃみ、咳。群れの列が崩れる。
「押し返す!」
 イングリットと数人の男が、火の棒を高く振りながら一歩、二歩と前へ出た。
 数息のせめぎ合いの末、砂犬は踵を返して走り去った。残ったのは、砂の上に刻まれた無数の爪跡と、熱くなった呼吸だけだった。 静けさが戻ると、誰かが笑い、誰かが泣いた。笑いと涙は似ている。どちらも、胸に溜まっていたものを外へ運ぶ。
 クラリスは灯りの遮光輪を絞り、光を柔らかくした。ユリウスは金属管を外して、風の角度と音の高さを書き留める。
「道具は、恐れを半分にしてくれる」
 イングリットが肩で息をしながら言った。
「恐れが半分になれば、残りの半分と戦える」
 朝日が湖を薄く染め、塩の結晶が霜のように光った。
 クラリスは皆を集め、小さな布袋を配った。袋には大きな縫い目で“契”の印。
「今日から“契り袋”を持ってください。袋は家の分。中には、その月にした仕事の“印”を入れる。印は小さな木札で、仕事ごとに形が違います。水路は三角、夜警は丸、学び舎は四角。月末に袋の中を数えて、税と交換する。――これは私と、皆さんとの最初の契約です」
 ガランが袋を指で撫でた。
「わしらの村には、昔“貝殻束”というのがあった。働いた分の貝を束ね、祭りの日に皆で見せ合った。それを思い出す」
「なら、きっと続けられる」
 クラリスは微笑んだ。
「契約は、古いほど強い。外から持ってくる新しいものと、ここにあった古いものを結び合わせたいの」
 午前。井戸の底から汲んだ水を蒸留にかけ、最初の一滴が管先から落ちた。透明で、塩気の少ない水。マリナが恐る恐る口に含み、頬の力がふっと緩む。
「……甘いわけではないのに、甘い」
「それが“安全”の味です」
 クラリスは周りを見回し、声を少し低くした。
「今日から三日、食糧は私が持ってきた備蓄と、隣村から借ります。借りは将来の塩で返す約束を取り付けます。私が出向いて契約してくる。その間、ここでやるべきことは三つ――井戸、夜警、そして学び舎の準備」
「学び舎?」
 イングリットが首をかしげる。
「この湖は、人の手で守れる。ならば“手”を増やすのが早い。読み書きと数ができる子が増えれば、道具の意味が皆に伝わる。冬までに十人。来年までに三十人。三年で、誰もが“契り袋”の数を自分で数えられるように」
 クラリスは、旅の途中で拾い集めた板片を並べ、簡易の机を作った。
「教えるのは私とマリナ。ユリウスには“風と塩の学”を担当してもらう」
 ユリウスは片目をつむって笑い、金属管を囁くように吹いた。子どもたちが興味津々で寄ってくる。
「音で風を読むの?」
「そう。音は目に見えないものの形だ。数も同じだよ」 昼過ぎ、遠見の岩の上で見張りをしていた少年が駆け下りてきた。
「ひとが来る! 馬に二人……三人……旗は、王都の色!」
 空気がぴんと張る。イングリットが短剣に手をやり、ガランが子どもを後ろに下げた。
 クラリスは息を整え、一歩前へ出る。
「迎えましょう。ここは、私たちの“国の入り口”ですから」
 砂塵を巻き上げてやってきたのは、粗末な旅装の男たちだった。だが馬具は良く手入れされ、背筋は伸びている。先頭の男が馬から降りると、胸に手を当てて礼をした。
「辺境直轄の長、クラリス・アーデルハイト様にお目にかかる。―
―王国交易院・臨時査察官、ルーカス・ヴェイル」
 交易院。王都で唯一、宰相派と王太子派の間を“物の理屈”で渡る組織。
「本日は通告。王都は、塩の徴発を一時停止する。代わりに、この湖の“生産計画”を提出せよ、とのことだ」
 ざわ、と人々の背中が揺れた。
 クラリスは目を細め、笑みを抑えた。
「ありがたい通告です。王都は、飢饉を恐れているのですね」
 ルーカスが眉を上げ、わずかに口元を緩めた。
「……恐れている。都の蔵は、見せかけほど満ちていない。あなたがここで何をするか、都は見たい。助けたい者もいれば、躓くのを待つ者もいる」
「なら、見せましょう」
 クラリスは契り袋と帳面を掲げ、井戸の新しい滑車を指さした。「ここから三十日で、水を安定させる。四十五日で、夜の襲撃を半分に減らす。六十日で、塩の結晶を規格化し、粒の大きさごとに袋詰めして、隣領までの交易路を開く。九十日で、冬の備蓄量を三倍に。――それが“生産計画”です」
 沈黙。湖のさざめきだけが、言葉の間を満たした。
 ルーカスはやがて、懐から小さな封筒を取り出して差し出した。「これは、交易院の“中立証”。院の者があなたの邪魔をしたら、これを見せろ。効かない相手には、私を呼べ」
 封蝋の紋は本物だ。クラリスは受け取り、胸の近くに仕舞った。
「クラリス様」
 ガランが前に出る。
「最初の契約の印を、わしに」
 クラリスは木札の箱から三角の印を取り、ガランの手のひらに乗せた。
「井戸、完了一。――ありがとう」
 ガランは小さく笑い、木札を契り袋に入れた。その仕草は、祈りに似ていた。
 日が傾く。湖面は金ではなく、銅に近い色で揺れ始める。
 クラリスは焚き火のそばに立ち、皆の目の高さで言った。
「今日、私たちは“国”を始めました。国とは、旗や玉座のことではありません。夜に灯りをともすこと、約束を数えること、明日の食べ物を今日の手で作ること。あなたがたの手が、今日から“国の手”です」
 ひとりが手を上げ、もうひとりがそれに触れ、輪が広がる。冷えた風の中で、手の温度は確かな現実だ。
 クラリスは胸の内で、静かに宣誓を繰り返した。
 ――婚約破棄から始まった物語は、ここで“国家創建”へと歩き出した。 その一歩は小さい。だが、小さい一歩は、何千何万と重ねられる。重ねる方法を、彼女は知っている。
 背後でユリウスの金属管が、夕風に細く鳴った。風は北から。明日は乾き、塩はよく育つだろう。
 クラリスは湖面に目をやり、ゆっくりと頷いた。
「さあ、始めましょう。――黄金の大地の国づくりを」

第4話「王国交易院の影」
 日が傾くころ、塩湖の東岸に仮の会合所が設けられた。といっても、崩れかけた祠の壁に布を張り、机代わりの板を置いただけの粗末な場所だ。しかし、そこに集まったのは村の古老ガラン、夜警を率いるイングリット、そして王国交易院から来た査察官ルーカス・ヴェイル。クラリスは彼らの視線を受け止めながら、机に新しい帳面を置いた。
「これは本日の“契り袋”の集計です。井戸の修繕に従事した者が二十七名。夜警に加わった者が十五名。学び舎の準備に協力した子が八人。――この数は、私が誤魔化すことも、隠すこともできません。袋の中身はそれぞれが持ち帰り、月末に皆で数えるからです」
 ルーカスは帳面を手に取り、目を細めた。
「なるほど。王都の役所に比べれば稚拙だが、ここでは十分すぎるほどの透明性だ。……だが、ひとつ問いたい」
「どうぞ」
「この仕組みは“信頼”に依存している。裏切りや、怠け者が現れたらどうする?」
 クラリスは即座に答えた。
「怠け者は必ず出ます。ですが、“記録”があれば、怠け者を怠け者のままにしておくことはできません。袋に印がない者は、皆の前で明らかになる。私は罰するつもりはありません。恥じるかどうかは、その人自身と家族次第です」 沈黙。火の爆ぜる音が、議論の間を満たした。
 やがてルーカスは小さく笑った。
「王都の法廷よりも、人の目のほうが恐ろしいかもしれんな」
 その時、外から砂を蹴る音が近づいた。見張りの少年が駆け込み、叫んだ。
「旅人だ! 湖の南から! 武装してる!」
 イングリットがすぐに立ち上がる。
「また盗賊かもしれん」
 クラリスは冷静に指示を飛ばす。
「灯りを三つ。見張りを広げて。戦う準備はするけれど、まずは話を」
 数分後、夕陽に照らされて現れたのは十人ほどの集団だった。粗末な鎧に剣や槍を携えているが、統一感があった。盗賊にありがちな乱れた動きではなく、列を組んでいる。
 先頭の男が兜を外し、深々と頭を下げた。
「私はドミトリ・ハルバード。北辺境から流れてきた傭兵団の長だ。
王都に居場所を失い、この地で働き口を探している。……噂を聞いた。『辺境に女の王が立った』と」
 ざわめきが広がる。
 クラリスは一歩前に出て、彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「私は王ではありません。まだ“国”を作り始めたばかりの、ただの追放令嬢です」「だが、あなたは約束を守る。王都で聞いた噂とは違う。もし雇っていただけるなら、我らの剣を差し出そう」
 イングリットが眉をひそめる。
「傭兵を抱えれば口減らしどころか食糧が減る。飢えた剣は危うい」
 クラリスはしばし考え、帳面を手に取った。
「ドミトリ殿。あなた方を雇うには、まず“契約”が必要です」
「契約?」
「剣を振るうのは構いません。ただし、労役の印も同じだけ稼いでもらいます。水路を掘り、塩を運び、学び舎で子どもに戦の知恵を教える。剣だけでは、この国には居場所はありません」
 ドミトリは一瞬目を見開き、それから豪快に笑った。
「面白い! 王都の貴族は剣しか見ない。だがあなたは、剣を人と同じに扱う。よかろう、我らは剣と腕で契約を結ぶ!」
 人々の間に驚きと安堵が広がる。クラリスは静かに頷いた。
「では、あなた方の契り袋を今作りましょう」
 マリナが急いで袋を縫い、ドミトリら傭兵団に手渡した。粗野な男たちが袋を受け取る姿は奇妙に見えたが、その目には不思議な真剣さが宿っていた。
 夜、焚き火を囲んで人々が散ったあと、クラリスはルーカスと向かい合った。
「見事な采配だ。だが、覚えておけ。剣を抱えることは、王都の政治を呼び込むことでもある」「承知しています。けれど、この辺境を守るには剣も必要です」
「……ならば、取引をしよう」
 ルーカスは声を潜め、懐から羊皮紙を差し出した。
「宰相派の貴族が、この地に目をつけている。彼らは“黄金の大地 ”の噂を嗅ぎつけた。私は交易院の名で一時的にそれを遮っているが、長くはもたない。あなたが三ヶ月で成果を示せば、私は院を動かし、この地を“交易特区”にできる。そうなれば王都も迂闊には手を出せない」
 クラリスは羊皮紙を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「三ヶ月……短いですが、挑みましょう」
「よろしい」
 ルーカスは微笑んだ。
「あなたの敵は、王太子や宰相だけではない。王都の欲望そのものだ。それを退けるには、民と剣と、そして数字――あなたの帳面が必要になる」
 焚き火がぱちりと弾け、火の粉が夜空に散った。クラリスは拳を握り、心に誓った。
 ――婚約破棄で奪われた未来は、もう要らない。
 私が選んだのは、この黄金の大地で“真の国”を築く未来。第5話「礎を据える者たち」
 翌朝、湖は淡い乳白色の靄を纏っていた。陽が上がるとともに靄は薄れ、塩の結晶が霜柱のように立ち上がる。クラリスは岸辺に板を渡し、仮の見張り台から全体を見下ろした。
 湖の東岸から西岸へ、浅瀬に白い帯が伸び、ところどころに黒ずんだ斑点がある。ユリウスが望遠鏡もどきの筒を覗き込み、斑点の位置を板図に写していく。
「黒い部分は不純物が多い層だ。昨夜の風向きと一致する。――ここを切り分け、塩床を“区画”しよう」
「区画?」イングリットが首を傾げた。
「塩を“育てる畑”に見立てるの。四角に仕切って、水の出入りを人の手で制御する。運任せを半分にし、もう半分を技術に置き換えるのよ」
 クラリスは棒で砂に線を引いた。湖岸に沿って長辺を取り、横に溝を等間隔で走らせる。四角い升目が並ぶ図が出来上がる。
「一辺は八歩。これを“八升(やっしょう)”と呼ぶわ。原因は単純でいい。計測は足で済むから」
「八升、了解」イングリットが短く復唱する。
「溝の深さは膝下。木枠で堰を作り、板で開閉する。昼は風を入れて蒸発を促し、夜は閉める。風が強すぎる日は板を半分だけ開ける。
――それから、結晶の粒を均す“ならし板”を作る。表面の凹凸が少ないほど、粒は揃う」
 集まった者たちの目が、少しずつ“作業の目”に変わっていく。ドミトリ率いる傭兵団も混ざっていた。粗剛な腕に縄を巻き、杭を打ち、木を担ぐ。
「剣より重いな」
「重いものほど、国に残るわ」
 クラリスの言葉に、ドミトリは歯を見せて笑った。
 午前の作業計画を配り終えると、傭兵団の一角から小競り合いの声がした。細身の青年が仲間と肩をぶつけ合い、苛立ちを露わにしている。
「名は?」
「……フェン、です」
「剣の腕は?」
「隊では三番目に速い」
「では、試練を与える。“速さ”を、ここで役立てて」
 クラリスは八升の端に小旗を二十本立て、指示した。
「今から“風見の走り”をやるわ。旗一本ごとに風向きを口で報告、
ユリウスが記録する。走りきるころには、今日の“開け板”の角度が決まる。あなたが速いほど、塩は均一になる」
 フェンは目を瞬かせ、それから唇の端を上げた。
「任せてください」
 彼は地を蹴り、旗から旗へと駆けた。息を切らしながら「北北西、強」「北、弱」「北北東、強」と叫ぶ。傭兵仲間が冷やかしかけたが、ドミトリの一喝で黙った。
 走り終えたフェンは肩で息をしながら、こぼすように笑った。
「剣の試合みたいだ。勝ち負けはないのに、勝ちたい気がする」
「勝つ相手は“昨日の自分”よ。毎朝やるわ」
 フェンは頷き、目の奥に競う炎を灯した。
 昼が近づくころ、ユリウスが湖岸の砂を掬い、匂いを確かめた。
「塩の下、土の臭いが甘い。――硝の気配だ」
「硝?」

「火薬に使う硝石。正確に言えば、硝酸塩の層だ。干ばつの年ほど、
地表に析出しやすい。……“砂の下の金”の一つは、これかもしれない」
 クラリスは息を飲んだ。
「塩に加えて硝。流通に乗せられる?」
「乾いた気候、家畜の糞尿、木灰――材料は揃ってる。窪地に“硝床”を作り、浸出・再結晶を繰り返せば採れる。ただし、時間が要る」
「時間は“手”で短縮できる。人を割り振るわ。――イングリット、夜警の手から二人、日中の交代を回して硝床の見張りにつけて」
「承知した」
 会合所へ戻ると、王都方面からの伝令が待っていた。馬は汗に泡を散らし、乗り手は灰色の外套に交易院の小紋を留めている。
「報せだ。王都で麦の相場が跳ね上がった。北の穀倉地帯で虫害。
――三週間で二割高、さらに上がるだろう」
 周囲に緊張が走る。クラリスはすぐに帳面を繰り、指で机を軽く叩いた。
「計画変更。塩の一部を“麦の先買い”に回す。隣領の小領主に今すぐ使者を。条件はこう――塩袋百で、麦袋百二十を“収穫前に契約”。渡しは収穫後でいい、ただし“欠配”の場合は利付五で翌年繰り延べ。保証は私の名と、この湖の印で」
 ルーカスの目が鋭くなる。
「強気だな。だが通る。今は皆が“確実”を求めている」
「通さなければ、冬に誰かが死ぬ」
 クラリスは静かに言い、使者の紙に印を押した。
 午後、八升の溝掘りが本格化すると、土の硬い層に当たった。鋤が跳ね、男たちの額に汗が滲む。
「水を撒いてから掘れ!」フェンが叫び、走り回って桶を渡す。「ならし板はこちらだ!」ドミトリが木工に長けた男を連れてきて、板の端を滑らかに削る。
 クラリスは歩きながら、それぞれの動きを目で拾い、木札の箱から印を取り出して配った。三角、丸、四角――印が掌に積もるたび、誰かの動きが軽くなる。
 印は、目に見える約束だ。目に見える約束は、足を前に出す力になる。
 作業の合間、イングリットが耳打ちした。
「南の道に、見慣れない影。偵察を出す」
「三人で。逃げ足の速い者を」
 イングリットは即座に頷き、砂の影に消えた。
 夕刻前、偵察が戻る。
「王都の色の旗を持つ二騎。偵察か、それとも……」
 ルーカスが短く息を呑む。
「宰相派の“鼻”だな。様子見だ」
「迎えましょう」クラリスは即答した。
「拒めば“何か隠している”と受け取る。見せるものは、今ここにある」
 馬蹄の音が近づく。二騎は砂塵を抑え、きちんと止まった。先頭の男は細長い顔、薄い笑みを唇に貼り付けている。
「お噂はかねがね。辺境で“女王ごっこ”とは、楽しげだ」
 イングリットの肩がぴくりと動いたが、クラリスは手で制した。「王国交易院の通告に基づき、私はこの地を預かっています。見学なら歓迎します。――ただし、手を汚す覚悟があれば」
「ほう」
 クラリスは男に“ならし板”を渡し、八升の一つへ案内した。
「塩を“作る”とはどういうことか、手で覚えていただきたいの。板を押し、表面を均す。あなたの手で風を感じれば、数字の意味もわかるでしょう」
 男は一瞬たじろいだが、侮りは顔に残したまま、板を受け取った。
足を入れると、塩のざらつきが靴底に伝わり、板が重くなる。
「……想像以上に、骨が折れるな」
「国づくりは、いつだって骨が折れるわ。けれど骨は、折れれば太くなる」
 男は言葉を失い、額に汗を浮かべた。やがて板を返すと、礼にも似ぬ会釈で馬に戻った。
「ごっこ遊びの割には、真剣なことだ」
「ええ。真剣よ」
 二騎は去った。見送りながら、ルーカスが低く笑った。
「見せ方が見事だ。侮りを“計測可能な労苦”にぶつける。王都の手練でも、汗には弱い」
 夕暮れ。作業を切り上げると、学び舎の準備に取りかかった。板片を並べただけの机、壁に吊るした字札、数の石。クラリスは黒い板に大きく“あ”と書き、その横に一、二、三の点を打った。
「字は音、数は形。音と形を結ぶ。――今夜は“契り袋”の数え方を練習しましょう」
 子どもたちの目が、火を映して丸くなる。マリナが優しい声で点を数えさせ、ユリウスは金属管を外して“風の歌”を聞かせる。
「風は見えない。でも、音でわかる。数も同じ。見えないけれど、手触りがある」
 フェンがいつのまにか入口に立ち、照れくさそうに腰を下ろした。
「俺にも、数を教えてくれ」
「もちろん。剣の速さは、数で鍛えられる」
 フェンは笑い、子どもたちの間に混じった。
 夜半、会合所に少人数が集まった。クラリス、ユリウス、イングリット、ドミトリ、そしてルーカス。灯りは最小限。帳面だけが白く浮かぶ。
「本日の印、総数は二百三十一。内訳――溝掘り百二、ならし板五十六、夜警三十、学び舎二十三、井戸の管理二十。よく動いたわ」
 イングリットが腕を組み、満足げに頷く。
「夜は静かだった。砂犬の気配も遠い」
「硝床は?」
「窪地を二つ確保。明日から灰と土を混ぜて寝かせる」ユリウスが答える。
「良い。――次に“剣の試練”を決めたい」
 クラリスはドミトリを見る。
「あなた方傭兵団の“居場所”を確固にするために、剣も“約束” に乗せましょう。三日後、“辺境試合(へんきょうだめし)”をする。相手は、自然と作業だ」
「自然と、作業?」ドミトリが目を細める。
「砂犬の接近に合わせ、夜警、灯り、灰撒き、子の避難、そして“ 風見の走り”。これを“刻”で区切り、連携の速さと確実さを計る。
勝敗は“被害の少なさ”と“印の積み上げ”で決める。剣は最後まで抜かない」
 沈黙のあと、ドミトリが笑った。
「面白い。剣の誇りを、剣を抜かずに示せというわけだな」
「ここでは、そういう剣が一番強い」
「受けよう。団員にも誓わせる。――ただし、ご褒美は?」
「“塩の白旗”を与えるわ。白旗を掲げる家は、三日、夜警免除。
代わりに学び舎で先生をするの」
 ドミトリは腹の底から笑い、手を叩いた。
「よし、やるぞ!」
 会合が終わり、皆が散ったあと、ルーカスだけが残った。灯りの芯を短く切り、声を潜める。「一つ、気がかりがある。今日の“王都の鼻”――あれは宰相派の筆頭格、オーベルン伯の手先だ。伯は“塩も硝も貨幣に変える術” を持つ。つまり、あなたと同じ盤面を見る目を持っている」
「なら、早く“旗”を立てないと」
「旗?」
「形にして、世に見せる旗。交易特区の勅許が下りる前に、ここの “商品”を王都の口に入れてしまうの。味覚は法より早く人心を掴む」
「つまり――」
「“辺境塩・第一号”を作るわ。粒度を三段に揃え、袋に“契”の印と“湖の紋”を押す。袋口は二重縫い。偽物を嫌う“面倒くささ
”を、最初から纏わせるのよ」
 ルーカスは目を細め、唇の端を上げた。
「あなたは本当に、数字と商いの女王だ」
「女王ではないわ、まだ。けれど――」
 クラリスは外の闇を見た。湖面は月を砕いてちらし、八升の区画は黒い影の市松に沈んでいる。
「この大地の手は、確かに動き始めた」
 その夜更け、クラリスはひとり帳面を開き、細い字で“礎”(いしずえ)と書いた。
一、八升区画 二十面開設。堰板十六枚追加。
二、風見の走り 毎朝二十旗。記録者固定、報告者輪番。
三、硝床 二基起工。灰と土の比率一対三。
四、麦の先買い 隣領へ使者派遣。返礼塩袋百用意。
五、辺境試合 三日後夜半、刻割り表作成。
六、第一号商品 粒度三段、袋規格、紋章図案。
 最後の行に、ふとペン先が止まった。
 ――紋章。 彼女はしばらく考え、紙に小さな図を描いた。輪の中に三つの点。
輪は湖、三点は“契・灯・風”。輪の外に短い線が八つ――八升。
 質素で、子どもでも描ける。偽物を容易に見破れる。
「これでいい」
 彼女は小さく頷き、灯りを落とした。
 翌明け方、冷え込む空気の中で、八升の一角に最初の“規格塩” が袋詰めされた。袋口を縛り、紋を押す。
「辺境塩、第一号」
 マリナが息を呑み、掌で袋の表面を撫でる。
「手の音がする……」
「手の音?」
「ええ。みんなの手が、ここに入ってる音」
 クラリスは微笑み、袋を胸に抱いた。
「この音を、王都に届けましょう」
 背後で、フェンが笛を吹いた。短い合図――風向、北。
 今日も乾く。今日も、積み上がる。
 クラリスは湖を振り返り、低く、しかし確かに言った。
「礎は据わった。ここからは、積むだけよ」

第6話「辺境試合の夜」
 湖に日が沈むと、八升の区画に火が灯った。焚き火ではない。昨日作った灯りの魔道具が三十基、湖面の周囲に等間隔で並び、橙色の輪を描いている。その中心に集まったのは、傭兵団、村の男たち、女たち、子どもまで。今日は“辺境試合”――剣を抜かぬ戦の訓練の日だ。
 クラリスは高台に立ち、短い宣言をする。
「今日の試合は、国を守る“型”を作るためのものです。剣を抜かずに、砂犬の群れを退ける。夜警、走り、灰撒き、避難――それぞれの速さと確実さを計ります。勝敗は“印”で示されます」
 人々の表情は硬い。しかしそこには恐怖だけでなく、競う熱もある。ドミトリが大声で号令をかけた。
「剣を抜かずに勝つ――これこそ辺境の戦だ! 全員、胸を張れ!」
 合図の笛が鳴る。第一刻、夜警の合図役が灯りを掲げ、灰を撒く者が走る。フェンが旗を駆け抜け、風向を叫ぶ。
「北北東、強!」
 ユリウスが記録を取り、クラリスが即座に堰板の開閉を指示する。
 第二刻。子どもたちの避難。マリナが率いて小屋の陰へ誘導し、イングリットが扉の前に立つ。傭兵団の若者が笑いながら子を抱えて走る。笑い声に緊張が和らぎ、子らの目から涙が消える。
 第三刻。灰撒きの合図が遅れた。群れ役を演じる男たちが声を張り上げ、混乱を再現する。
「遅れた! どうする!」
 フェンが息を切らしながら駆け込み、砂を掴んで撒いた。灰が舞
い、声が収まる。クラリスは木札を取り出し、彼の袋に印を入れた。
「遅れても、動いたことが勝ちです」
 第四刻。最後は全員で灯りを掲げ、湖面を照らす。風が強まり、火の輪が揺れる。だが、誰も退かない。剣を抜かずに立ち続ける。その姿は、確かに“戦”だった。
 試合は夜半で終わった。全員が汗に濡れ、灰で顔を黒くしながら、笑っていた。クラリスは帳面を開き、総印を数える。
「総印三百二十五。……辺境の民は、今夜“国の兵”になりました」
 歓声が上がる。子どもが袋を振り、大人たちが肩を叩き合う。ドミトリは剣を掲げ、声を張った。
「我らの剣は、この国の名に従う! 女王クラリスに!」
 クラリスは首を振る。
「女王ではありません。――けれど、この地の“契りの守り手”にはなります」
 その言葉に、群衆は一層大きな声を上げた。
 夜更け、会合所に少数だけが残った。クラリス、ユリウス、イングリット、ドミトリ、ルーカス。
「見事だったな」ルーカスが言う。
「だが王都の耳は近い。今日の試合も、いずれ噂として届くだろう。
辺境に“軍”ができた、と」「軍ではありません。“国の手”です」クラリスはきっぱり答えた。
「けれど、軍と呼びたい者は呼ぶでしょう」ルーカスの声は静かだった。
「だからこそ、今のうちに旗を掲げる必要がある」
 クラリスは机の上に昨日描いた紋を広げた。輪の中に三点、“契・灯・風”を示す印。
「これを“辺境の旗”とします。旗の下で働いた印は、すべて“国の印”として数えられる。王都が軍と呼ぼうと、我々は“国”と呼ぶ」
 ドミトリが笑い、拳を握った。
「なら、俺たちはその旗の兵だ」
 ユリウスは目を輝かせた。
「硝床も順調です。もし量が取れれば、交易院に“火薬”の名で売れる」
 ルーカスは険しい顔で頷く。
「王都の戦争屋どもが黙っていないだろうな。だが、逆に利用できる。力を恐れる者は、取引に走る」
 クラリスは深く息を吸い、静かに告げた。
「今日の試合は“礎”です。次は“証明”を――辺境塩の第一号を、王都に届けましょう」
 翌朝。
 湖面に朝日が差すと、八升の区画から規格塩が袋に詰められて運び出された。白旗の紋が押され、二重縫いで口が閉じられている。 クラリスは袋を抱きしめ、村の人々に見せた。
「これは、我々の“国の証”。これを王都に届け、口にさせます。
味は法より速く人を動かす。――これが私たちの剣です」
 歓声が湖に響き、塩の結晶が陽にきらめいた。
 黄金の大地は、確かに“国”の鼓動を始めていた。 
第7話「王都への初商隊」
 湖畔の広場に、二十袋の塩が積まれていた。袋口は二重に縫い、紋章は鮮やかに染められている。輪の中に三つの点、周囲に八つの線――「契・灯・風」を示す新しい国の印。
 クラリスは袋の一つを両腕で抱き上げ、皆の前に掲げた。
「これが“辺境塩・第一号”です。今日、王都に向けて商隊を出します。目的はただ一つ――この味を王都に知ってもらうこと」
 人々の間にざわめきが走った。誇らしげな笑みと、同時に不安も混じる。ドミトリが剣を腰に差し、前に出た。
「護衛は我ら傭兵団が務める。塩袋二十、商人三名、御者二人。途中の賊は俺たちが叩き潰す」
 ルーカスが補足する。
「だが賊よりも危険なのは“王都の眼”だ。宰相派は必ず嗅ぎつける。袋の紋章は彼らの鼻を刺激するだろう」
「構いません」クラリスはきっぱり答えた。
「彼らに恐れられるなら、それは“力を持った”証です」
出発
 日の出とともに、馬車三台の商隊が動き出した。
 先頭はユリウスが乗る計測車。風向と距離を記録するため、簡易な測定器が取り付けられている。二台目には塩袋十を積み、三台目には残り十袋と麦袋を少し載せた。これは隣領との取引に備えてのものだ。
 村人たちが手を振り、子どもが契り袋を掲げて見送る。クラリスは胸の奥で誓った。――必ず、この塩を王都に届ける。
 道中は荒れ果てていた。かつての交易路は草に覆われ、橋は半ば崩れている。だがドミトリの団員たちは慣れた手つきで修繕を手伝い、荷を押し、馬を導いた。
「剣を振るより重労働だな」
「それが国を守る剣よ」
 クラリスの言葉に、男たちは笑い声を上げた。
襲撃
 三日目の午後、峡谷に差しかかったときだった。岩陰から矢が飛び、先頭の馬が嘶いた。
「盗賊だ!」フェンが叫ぶ。
 十数人の男たちが飛び出し、馬車を囲む。だがドミトリは剣を抜かず、声を張った。
「灰を撒け!」
 傭兵団の一人が袋を破り、灰を風に投げる。矢を射た男たちが目をこすり、混乱する。フェンは旗を掲げ、風向を叫ぶ。
「南東、強!」
 ユリウスが即座に計算し、クラリスが指示を出す。
「馬車を南に寄せて! 風を背に受ければ煙が広がる!」
 煙と灰に包まれ、盗賊たちは怯んだ。ドミトリは剣を半ば抜きかけたが、クラリスが制した。
「抜かないで! “剣を抜かずに勝つ”のが私たちの誇り!」

 その声に応え、傭兵たちは棍棒で盗賊を追い払い、誰一人殺さずに退けた。
 塩袋は一つも失われなかった。
隣領での取引
 峡谷を抜けた翌日、商隊は隣領の小城に入った。城主はまだ若く、倉庫の管理に追われていた。虫害で麦の半分を失い、困り果てていたのだ。
 クラリスは塩袋五を差し出し、契約書を広げた。
「塩五袋で、麦二十袋。収穫後に倍を返す。欠配なら利付五。これが条件です」
 若き城主は驚き、ためらった。だがルーカスが口を挟んだ。
「今、確実な契約を結ばねば冬は越せない。これはただの塩ではない、“辺境塩”だ。粒は揃い、袋は偽造できない。来年には王都で高値がつく」
 結局、城主は同意した。印を押し、契約は成立した。クラリスは胸を撫で下ろす。――これで冬の備蓄に一歩近づいた。
王都の門前
 一週間後、王都の高い城壁が見えた。白い石が陽を反射し、塔の尖端は雲を突き抜けるようだ。
 門前には商人や旅人が列をなし、衛兵が検分を行っている。
「辺境の塩か?」衛兵が袋を突いた。
「はい」クラリスは堂々と答える。 衛兵は眉をひそめ、袋の紋を見て目を細めた。
「妙な印だな」
「契約の印です。偽物は作れません」
 衛兵は小さく鼻を鳴らしたが、通行を許した。
 王都の空気は、辺境と違って湿り気を帯びていた。石畳を踏む馬車の音が響き、商人たちの声が飛び交う。クラリスは袋を一つ取り出し、深く息を吸った。――ここが、本当の戦場だ。
交易院での試練
 ルーカスに導かれ、商隊は王都交易院の一角に入った。石造りの大広間には秤と記録台が並び、商人や役人が忙しなく動いている。
 クラリスは塩袋を台に置き、宣言した。
「これは辺境塩です。粒を三段に揃え、紋章を押してあります。偽物は作れません。――これを王都で売ります」
 役人たちがざわめき、秤に塩を載せた。粒の大きさを確認し、匂いを嗅ぎ、水に溶かして味を見る。
 やがて一人が驚きの声を上げた。
「……不純物が少ない。舌に刺さる辛さがない!」
「この規格は、王都でも例がないぞ」
 しかし別の役人が冷笑した。
「辺境でこの品質? 信じられん。裏に誰かついているのでは?」
 その声に、クラリスは一歩前に出て答えた。
「裏には誰もいません。あるのは、この大地と、人々の手だけです」 場が静まり返る。ルーカスが小さく頷き、囁いた。「今の一言で十分だ。――王都は、辺境を侮れなくなる」
宰相派の影
 その夜、宿舎に戻ったクラリスのもとに、一通の手紙が届いた。
封蝋にはオーベルン伯の紋。
 内容は簡潔だった。
『辺境塩は興味深い。取引したければ、私の館へ来られよ。拒めば、王都での商いは難しかろう』
 クラリスは手紙を火にくべ、灰になるまで見つめた。
「来ましたね……」
 ユリウスが顔を曇らせる。
「伯は危険です。あなたを利用し、国ごと飲み込むつもりでしょう」
「わかっています」
 クラリスは立ち上がり、窓から王都の街並みを見下ろした。
「けれど、逃げる気はない。――私は、この大地の“契りの守り手
”。ここで退けば、辺境の国は夢で終わる」
 翌朝、クラリスは塩袋を一つ抱きしめ、商隊の仲間たちに告げた。
「行きましょう。オーベルン伯との対決が、この国を次の段階へ押し上げるはずです」
 黄金の大地から運ばれた塩は、今や王都の権力を揺るがす武器になろうとしていた。

第8話「オーベルン伯の館」
 王都の北区、白大理石の館が並ぶ一角に、ひときわ威容を誇る屋敷がある。オーベルン伯の館――宰相派の中でも最も老練で狡猾な男の居城だ。高い門扉には黒鉄の棘が並び、庭園の生垣は迷路のように剪定されている。
 クラリスは深呼吸をし、塩袋ひとつを抱えて門をくぐった。随伴はユリウスとイングリット、そして護衛としてドミトリとフェン。ルーカスは表向き「交易院の立会人」として帯同している。
「くれぐれも、伯の挑発に乗るな」ルーカスが低声で釘を刺す。
「わかっています」クラリスは微笑んだ。
――王都で剣を抜くのは愚か者のすること。だが言葉を抜くのなら、勝敗は逆転し得る。
宴の間
 大広間には金と赤の豪奢な絨毯が敷かれ、長い卓には葡萄酒と肉料理が並べられていた。オーベルン伯は肥えた体を椅子に沈め、冷ややかな目を光らせている。
「ようこそ、辺境の令嬢。……いや、もう“令嬢”ではなかったな」
 皮肉を込めた言葉に、クラリスは優雅に礼を取った。
「辺境の塩を携えて参りました。陛下の臣として、王都に捧げるべく」
 伯は指を鳴らし、従僕に塩袋を開かせた。白い結晶が皿に盛られ、光を反射する。
「ふむ……粒が揃っている。だが、これがいかほどの価値になる?」
 周囲の貴族たちが嘲笑を漏らす。「塩などどこにでもある」「辺境の土産話だ」――その声は予想していた。
 クラリスは静かに匙を取り、葡萄酒に塩をひとつまみ落とした。
香りが引き締まり、甘味が際立つ。
「味見をどうぞ」
 半信半疑で口にした伯の顔色が変わる。ワインの質が上がったのは明らかだった。
「……これは」
「粒を揃えることで、余計な雑味を除きました。料理にも保存にも、従来の塩以上の効果を発揮します」
 ざわめきが広がる。従者が肉に塩を振り、焼いてみせた。香ばしい香りが立ち、誰もが息を呑む。
取引の提案
 伯は扇で口元を隠し、低く笑った。
「確かに素晴らしい。だが、問題は量だ。辺境の小さな村がいくら袋を作ったところで、王都の市場は満たせまい」
「ご安心を。すでに八升区画を二十面開設済みです。月に百袋の供給を見込めます」
「百袋? 王都全体には雀の涙だ」
 クラリスは一歩踏み込み、視線を鋭くした。
「ならば“王都全体”ではなく、“選ばれた者”に売りましょう。王侯貴族の食卓にこそふさわしい塩。独占したいとお思いなら、伯こそが最もふさわしいお方です」
 伯の瞳が光る。周囲の貴族たちが息を呑んだ。挑発と同時に、甘美な餌を差し出す――それがクラリスの策だ。
「なるほど……私を利用する気か」伯はゆっくり立ち上がり、巨体を揺らした。
「だが忘れるな、辺境の娘。利用されるのはお前のほうかもしれぬぞ」
思わぬ乱入
 そのとき、扉が勢いよく開いた。王太子アレクシスが現れたのだ。青い外套に身を包み、背後には従者と近衛を従えている。
「ほう、ここにいたのか。辺境に追放されたはずの女が、王都で商いとは」
 場が凍りつく。伯でさえ口をつぐんだ。
 クラリスはゆっくりと振り返り、深く礼をした。
「殿下。私は辺境にて塩を生み出しました。それを王都に届けるのは、臣として当然の務めです」
「務め? 笑わせる。お前のような女に務めなど――」
「殿下」クラリスは遮った。
「私は“悪役令嬢”として追放されました。しかし辺境の民は私を必要としています。――この塩袋一つが、彼らの命をつなぐのです」
 王太子の顔が怒りに染まる。だが周囲の貴族の視線は既に塩袋へ向いていた。嗅覚は権力より早く、利益を嗅ぎ取る。
伯の裁定
 沈黙を破ったのはオーベルン伯だった。
「殿下、この塩は確かに価値がある。無視すれば、他国に流れかねません」
「伯!」王太子が声を荒げる。
「この女を庇う気か!」
「庇う? 違います。利用するのです」
 伯はクラリスを見据え、にやりと笑った。
「辺境塩の専売権を、私に差し出せ。そうすれば、お前の商隊は保護され、王都での商いも許されるだろう」
 クラリスは息を整え、静かに答えた。
「専売権は差し出せません。辺境の民の命を伯の胸先三寸に委ねることになるからです。ただし、“取引”なら歓迎いたします。供給の半分を伯に優先的に卸す――その代わり、辺境への交易路を守っていただきたい」
 伯の目が細められ、しばし沈黙が流れる。
 やがて、腹の底から笑い声が響いた。
「ほう! 悪役令嬢とは聞いていたが、悪どい交渉をするではないか。いいだろう。半分を私に、残りはお前の好きに売れ」 王太子は激昂した。
「伯! なぜそんな女に――」
「殿下。これは国益だ」伯の声が鋭く響く。「辺境の塩は、もはや無視できぬ“力”だ」
館を後に
 交渉を終え、館を出たクラリスは大きく息を吐いた。イングリットが横に立ち、囁く。
「危うい賭けでしたね」
「ええ。でも必要な賭けでした」
 ユリウスが記録帳に数字を書き込みながら言う。
「これで王都は辺境塩を認めざるを得ない。だが同時に、宰相派の庇護下に置かれたことにもなる」
「庇護は枷にもなる」クラリスは呟く。
「けれど、枷は外せばいい。――辺境は私たちのもの。伯のものではない」
 ドミトリが笑い、フェンが旗を肩に担ぐ。
「なら次は、“塩”だけじゃなく“国そのもの”を見せつけてやりましょう」
 クラリスは夜空を見上げた。星々は冷たく輝き、その下で王都はざわめいている。
「ええ。次は“辺境国家”としての姿を、彼らに示す時です」

第9話「王都の動乱」
 翌朝。王都の街はざわめきに包まれていた。広場の露店から貴族の館に至るまで、話題はただ一つ――「辺境塩」である。
 商人たちはこぞって噂を拾い集めていた。
「伯爵家の宴で出された塩が絶品だったそうだ」
「肉の味を変え、葡萄酒を高めたと聞くぞ」
「だが専売はオーベルン伯に握られたらしい。あの伯が黙っているはずがない」
 クラリスは宿舎の窓からそのざわめきを聞いていた。ユリウスは帳面に次々と数字を書き込み、イングリットは剣帯を締め直す。
「伯との交渉は成功した。だが殿下の怒りは計り知れない」ユリウスが低く言う。
「殿下はプライドを傷つけられた。……それは権力者にとって、命より重い傷になる」
「ならば備えるだけです」クラリスは冷静に答えた。
「辺境の国を守るためには、ここで退けません」
宮廷の陰謀
 昼過ぎ、ルーカスが戻ってきた。表情は険しい。
「王宮で宰相派と王太子派が激しく衝突している。殿下は『辺境塩は偽物』と叫び、伯は『国益に資する』と主張。……ついに陛下の耳にも届いた」「陛下が動けば、私たちの未来も決まる」クラリスは息を整えた。
「だが、今のままでは伯の庇護下に縛られるだけ」
 ルーカスが机に地図を広げる。
「王都には交易院の倉庫が三つある。もしそこで辺境塩が一般に売られれば、伯の専売権は形骸化する。だが、それをするには“市場の証明”が必要だ」
「市場の証明……」クラリスの瞳が光る。
「ならば、庶民に口で語ってもらいましょう。味覚は何よりも早く広がる」
市場での試み
 翌朝。クラリスは人々の集まる南市へ向かった。果物や野菜、香辛料が並ぶ露店に混じり、傭兵団が運んだ小さな屋台を設ける。
 袋を開き、肉片に辺境塩を振りかけ、焼き上げる。香ばしい匂いが漂い、群衆が集まってきた。
「これはただの塩ではありません。“辺境塩”です」クラリスは声を張った。
「粒が揃い、不純物が少ない。――どうぞ、味を確かめてください」
 庶民が恐る恐る肉を口にし、目を見開いた。
「うまい……! 肉の臭みが消えている!」
「葡萄酒が甘く感じる!」
 歓声が広がり、列ができた。
 その様子を、貴族の従者が遠巻きに見ていた。噂はさらに加速する。
襲撃
 だが夕刻。群衆の熱気が最高潮に達したとき、突然、暴漢が飛び込んできた。黒布で顔を覆い、刃を抜いて屋台を叩き壊す。
「辺境塩など偽物だ!」「この女を捕らえろ!」
 市は混乱に陥る。だがイングリットが即座に立ちはだかり、暴漢の腕を受け止めた。ドミトリ率いる傭兵団が群衆を守り、フェンが走って合図の笛を吹く。
 灰が撒かれ、煙が広がり、視界が曇る。その中で暴漢たちは次々と倒され、逃げ去った。
 クラリスは息を切らしながらも群衆に向かって叫んだ。
「見てください! 剣を抜かずとも、我らは立ち続けます! ―― この塩は偽物ではない!」
 群衆の中から拍手が起こり、歓声が上がる。人々は逆に結束を強めていた。
王宮からの召喚
 その夜。宿舎に王宮の使者が現れた。
「クラリス・アーデルハイト殿。陛下がお召しである。明朝、謁見の間に参れ」
 場に緊張が走る。ユリウスは口を結び、ルーカスは眉をひそめた。
「陛下直々の召喚……これはただの商談ではない。おそらく裁定が下される」
 クラリスは静かに頷いた。
「ならば、逃げるわけにはいきません。明日こそ、辺境国家の名を刻む日です」
夜の決意
 人々が眠りについたあと、クラリスは一人、塩袋を抱きしめた。
 母の遺した言葉が蘇る。――「黄金の大地は、人の手で光を生む」

 婚約破棄された悪役令嬢が歩んできた道は、ここで王国そのものとぶつかろうとしている。
 窓の外、王都の塔が月明かりを浴びて白く輝いていた。
「明日、私は裁かれるでしょう。だが、裁かれるのは私ではなく、この塩、この国の価値です」
 クラリスは拳を握り、心に誓った。
「――辺境の国を、必ず守り抜く」
第10話「謁見の間の裁定」
 王都の中央、白亜の宮殿に朝の鐘が鳴り響いた。
 クラリスは正装に身を包み、塩袋を一つ抱えて謁見の間へと進む。磨き上げられた石畳は冷たく、赤い絨毯の先に玉座がある。天井の高い広間に集ったのは、宰相派と王太子派の貴族、そして王国の重臣たちだった。
 ユリウスとイングリット、ドミトリとフェンが後ろに控える。ルーカスは交易院の立会人として列席していた。
王の登場
 黄金の冠を戴いた国王レオポルド三世が玉座に座した。年老いてなお眼光鋭く、その声は広間に重く響いた。
「辺境に追放された侯爵令嬢クラリス・アーデルハイト。――そなたを呼んだのは、噂の“辺境塩”について直接見極めるためである」 王太子アレクシスが一歩前に出る。
「父上! その女は偽りの証で私を陥れた悪女です! 辺境塩とやらも、怪しいまやかしにすぎませぬ!」
 オーベルン伯が扇を広げ、低い声で笑った。
「殿下。塩を口にした者の誰もが、その価値を認めておりますぞ。
国益を無視するのは愚かでは?」
 謁見の間の空気は、早くも火花を散らしていた。
塩の証明
 クラリスは深く礼をし、玉座に向かって進み出る。
「陛下。辺境の塩、ここにございます」
 塩袋を開け、粒の揃った白い結晶を皿に盛る。王の侍医と料理長が検分し、舌に載せた。
「これは……!」料理長が驚きの声を上げた。
「不純物が極端に少なく、味が澄んでおります。王都の塩より格段に上質!」
 侍医も頷く。
「保存性も高く、病の原因となる雑菌を減らせましょう」 広間がざわめき、視線が王太子に集まる。
王太子の反論
 アレクシスは顔を赤らめ、声を荒げた。
「証人など買収できる! その女は辺境で異端の知識を振りかざし、民を惑わせているのです!」
 クラリスは一歩も退かず、静かに告げた。
「殿下、もし私が惑わせているというなら、辺境の民を呼んでお確かめください。彼らは飢えを凌ぎ、今は契約と印によって自ら働いています」
 ルーカスが前に出て補足する。
「交易院も確認済みです。帳面は公開され、改ざんの余地はない。 ――この塩は国益となりましょう」
民意の力
 その時、謁見の間の扉が再び開いた。
 昨日市場で塩を味わった庶民たちが、役人に導かれて入ってきたのだ。パン職人、葡萄酒商人、宿屋の女将――彼らが口々に訴える。
「辺境塩で焼いたパンは、今までより長持ちします!」
「葡萄酒がまるで別物のように香り立ちました!」
「宿の客も、あの塩を求めて戻ってきます!」
 王都の広間に、庶民の声が響く。貴族たちはざわめき、王太子は唇を噛みしめた。
王の裁定
 国王レオポルド三世は立ち上がり、杖を鳴らした。
「聞いたか。民の声は嘘をつかぬ。この塩は確かに国益である」
 王はクラリスを見据え、厳かに言葉を続けた。
「クラリス・アーデルハイト。そなたを“辺境直轄領代官”に任ずる。塩湖と周辺三村を統べ、交易の責を担え。――これは王命である」
 広間に驚きと歓声が広がった。
 王太子は膝を震わせ、伯は満足げに扇を閉じる。
新たな宣誓
 クラリスは深く頭を垂れ、声を震わせずに答えた。
「謹んで拝命いたします。――辺境の大地を、黄金に変えてみせましょう」
 その瞬間、彼女はただの追放された悪役令嬢ではなく、王国に認められた「辺境の主」となった。
 だが、玉座の陰で王太子の瞳は憎悪に燃えていた。
 そして伯の笑みには、別の思惑が潜んでいた。
 クラリスは知っている。この裁定は始まりにすぎない。
 これから訪れるのは、復讐と覇道の嵐だ。 
第11話「王太子の逆襲」
 王宮の謁見を終えた翌日、クラリスは宿舎で帳面を広げていた。 「辺境直轄領代官」として任じられた今、王命により塩湖と周辺三村は正式に彼女の管轄となった。王都の権威を得たのだ。
 だが安堵する暇はなかった。
 ユリウスが慌ただしく駆け込む。
「クラリス様! 王都の広場で、王太子派が“辺境塩は呪いの結晶だ”と触れ回っています!」
 イングリットが舌打ちした。
「奴め……謁見で敗れた腹いせに、庶民を扇動しているな」
 クラリスは静かに帳面を閉じ、椅子から立ち上がった。
「予想通りです。――ここからが本当の戦い」
流言の広がり
 王都の路地では、黒衣の者たちが声を張り上げていた。
「辺境塩を食べた者は病にかかる!」
「悪女クラリスが魔道で塩を操っている!」
 噂は瞬く間に広がり、庶民の間に不安を呼んだ。市場の塩袋は一時的に売れ残り、商人たちは眉をひそめる。
 クラリスは商隊の仲間たちを集め、短く告げた。
「放っておけば噂は真実に変わります。だから、証拠をもって打ち破るのです」
公証の策
 ルーカスが口を開いた。
「交易院には“公証試験”の制度がある。品物を王都の公証人の前で検査し、合格すれば“王印”を与えられる。王印があれば、誰も偽物とは言えない」
「ただし」ユリウスが顔を曇らせる。
「試験官の多くは王太子派に買収されている。審査は公平とは限らない」
 クラリスは即座に答えた。
「ならば、市場で“民の目”に晒しながら行わせましょう。王太子派が不正をすれば、民の目が逆に暴くはず」
 イングリットがにやりと笑った。
「なるほど、“剣を抜かずに勝つ”やり方だ」
公証試験
 三日後。王都南市の広場に机が設けられ、塩袋が運ばれた。群衆が取り囲み、好奇の視線を向ける。
 王太子派の試験官が現れ、鼻で笑う。
「これが辺境塩か。では規定に従い、純度と効果を試す」
 塩が水に溶かされ、蒸発皿に残る残渣が調べられる。不純物はほとんどなく、基準を大きく下回っていた。
「なっ……!」試験官の顔が歪む。 次に肉を焼いて味見する。群衆の中から選ばれた庶民が口にし、歓声を上げた。
「うまい! 昨日の肉とは別物だ!」
「保存しても腐らなそうだ!」
 試験官は額に汗を浮かべた。だが公証人が立ち上がり、宣言する。
「辺境塩、王印を授与する!」
 広場がどよめきに包まれた。
王太子の策動
 だがその夜。宿舎に戻ったクラリスのもとへ急報が届いた。
「王太子派の兵が、辺境への街道を封鎖し始めています! 商隊が戻れなくなる!」
 ドミトリが拳を握りしめる。
「これは挑戦状だ。剣で打ち破るしか――」
「待って」クラリスは首を振った。
「剣を抜けば、こちらが反逆者とされる。……別の道を使うしかない」
 ユリウスが地図を広げた。
「北西に古い鉱山道があります。長らく使われていませんが、馬車なら通れるはず。危険も多いですが……」
 クラリスは決断した。
「そこを通ります。塩を辺境に持ち帰らなければ、この国は夢で終わる」
夜の誓い
 窓から見下ろす王都の街は、灯火の海のように輝いていた。だがその光の裏で、権力の闇が蠢いている。
 クラリスは塩袋を抱き、静かに呟いた。
「殿下……婚約破棄の屈辱は、すでに力に変えました。次に裁かれるのは、あなたの“空虚な権威”です」
 風が窓を揺らし、遠くで鐘が鳴った。
 ――辺境への帰路は、復讐と改革の第二幕となる。 
第12話「封鎖突破」
 夜更け。王都の外れに停められた商隊の馬車の周りで、静かな準備が進んでいた。
 街道はすでに王太子派の兵に封鎖されている。南門も東門も兵が二重に張り付き、辺境へ帰る道は閉ざされた。
 残されたのは、北西に口を開ける廃鉱山道――十年前に閉じられ、今は誰も通らない危険な道だった。
 クラリスは地図の上に手を置き、仲間を見渡した。
「ここを抜ければ、王太子の網をかいくぐれる。危険はあるけれど、辺境に戻るにはこれしかない」
 ドミトリが笑い、剣帯を叩いた。
「狭い道なら十人もいれば十分守れる。剣を抜くのは嫌だろうが、山賊の群れなら躊躇せんぞ」
「ええ。剣を抜くのは“国を壊す者”に向けてだけです」 クラリスの言葉に、フェンが大きく頷いた。
廃鉱山道
 月明かりの下、商隊はひっそりと出発した。馬車の車輪が軋み、冷たい風が吹き込む。
 鉱山道の入り口は崩れかけた石門で、蔦が絡み、岩壁の裂け目に吸い込まれるようだった。
 進むと、道は狭く曲がり、馬車がぎりぎり通れるほど。頭上からは岩がせり出し、滴る水が冷たく頬に落ちる。 イングリットが剣を抜かずに前を警戒し、フェンが走って風向を確かめながら旗を振る。
「北西、弱風! ……空気が重い。湿り気が強いぞ!」
 ユリウスが手元の器具を確認し、眉を寄せる。
「……硫黄の匂いだ。鉱山が生きている。崩落に注意を!」
襲撃
 その時、暗がりから影が飛び出した。粗末な鎧を着た山賊たちだ。
「塩を置いてけ!」
 刃が光り、馬車を取り囲む。
 だがクラリスは即座に叫んだ。
「灰を撒いて!」
 ドミトリの団員が袋を破り、灰を風に投げる。狭い道に煙が充満し、山賊たちが咳き込む。
 イングリットが盾で押し返し、フェンが走って合図を飛ばす。
「側道に二十! 背後に五!」
「後ろを抑えろ! 抜けるぞ!」ドミトリが吠え、棍棒で敵を打ち倒した。
 剣を抜かずに戦う――辺境試合で磨いた連携が生きていた。山賊たちは煙と混乱に飲まれ、次々と逃げ散った。
崩落の危機
 勝利も束の間、頭上から岩が崩れ落ちる音が響いた。湿った硫黄の匂いが濃くなり、地面が揺れる。
「まずい! 山が動いている!」ユリウスが叫ぶ。
 クラリスは即断した。
「馬車を軽くして! 塩袋を前に移動! 人は後ろを押して!」
 仲間たちが必死に馬車を押す。重い袋を前に積み替え、岩が落ちる直前に馬車は狭い通路を抜け出した。
 背後で轟音が響き、道が完全に塞がれる。
 フェンが額の汗を拭い、笑った。
「……戻る道はなくなった。進むしかないな」
「それでいい。国も同じ。前へ進むしかないのです」クラリスは答えた。
新たな同盟者
 鉱山道を抜けた先、荒れ地に小さな集落があった。家々は崩れかけていたが、人々がわずかに暮らしていた。
 彼らは驚いた様子で商隊を迎え、長老が前に出る。
「……あなた方は何者だ? この道を通ったのは十年ぶりだ」
 クラリスは塩袋を示し、微笑んだ。
「辺境塩を持ち帰る者です。もしよければ、あなた方にも分けましょう」
 長老は一粒を舐め、目を見開いた。
「……これは、天からの贈り物か。私たちはずっと塩不足で苦しんでいた」
 クラリスは頷き、塩袋を二つ手渡した。「代わりにお願いがあります。この道を、辺境と王都をつなぐ新たな路にしたいのです」
 長老は深く頭を垂れた。
「我らは喜んで協力しましょう。あなたこそ、この荒野に光をもたらす方だ」
辺境へ
 数日後。商隊はついに辺境の塩湖へ帰還した。村人たちが歓声を上げ、子どもたちが契り袋を振る。
 クラリスは塩袋を掲げ、宣言した。
「王都で“王印”を授かりました! これからは堂々と、この塩を国中に届けられます!」
 歓声はさらに大きくなり、辺境の大地が震えるようだった。
次なる嵐
 しかし、ユリウスが耳打ちした。
「安心はできません。王太子派は必ず次の手を打ってくる。――恐らくは軍事的圧力です」
 クラリスは空を見上げ、深く息を吐いた。
「ならば、こちらも“国”として備える時です。辺境はもう村ではない。――国家の始まりなのです」
 黄金の湖面が陽光を浴びて輝き、まるで未来を照らすかのようだった。
第13話「軍靴の影」
 帰還から十日。辺境の空気は喜びに包まれていた。
 塩湖の八升区画は増設され、契り袋の数は日に日に膨らんでいる。王都で「王印」を授けられた塩は、もはや誰も疑わない価値となり、隣領や近隣の商人が次々に取引を求めて訪れていた。
 だが、その繁栄の影で、不穏な気配が近づいていた。
不吉な報せ
 ある夕刻、イングリットが血相を変えて駆け込む。
「クラリス様! 王都から急報。王太子派の兵が辺境街道に展開しているとのことです!」
 ユリウスが帳面をめくりながら険しい表情を浮かべた。
「……やはり来たか。王太子は“辺境直轄領”を認めない。兵力で圧をかけ、塩湖を奪おうとしている」
 ドミトリが拳を握る。
「奴らが来るなら、迎え撃つまで。ここは俺たちの“国”だ!」
 クラリスは深く息を吸い、静かに告げた。
「剣は抜かない。――けれど、守るための“型”をつくらなければ」
防衛会議
 湖畔の会合所に人々が集まった。武装できる傭兵団、夜警を務める村人、商人、そして子どもを抱えた母たちまで。
 クラリスは板図を広げ、道と湖を示す。
「王太子派の兵が来るのは時間の問題です。数はおそらく五百。こちらは百五十。数で勝つことはできません。――けれど、守るべきは“数”ではなく“湖”です」
 ユリウスが続ける。
「八升区画を盾にします。堰を閉じれば道は泥に沈み、馬も兵も動けない。湖岸の灯りを増やし、敵の足を混乱させる」
 フェンが旗を握りしめる。
「風向きは俺が読む。灰を撒けば敵は咳き込み、突撃できない」
 イングリットは頷き、鋭く言い放つ。
「子どもや非戦闘員は学び舎に避難。剣を抜くのは最終手段。まずは“剣を抜かずに退ける”」
 クラリスは人々を見渡し、宣言した。
「――これが“辺境防衛の誓い”です。数では劣っても、知恵と契りで守り抜く!」
軍靴の足音
 数日後、地平に砂煙が立った。王太子派の旗を掲げた軍列が、辺境街道を進んでくる。鎧のきらめき、槍の林立――まさしく正規軍の威容だった。
 村人たちは息を呑むが、逃げる者はいなかった。契り袋を胸に抱き、固く立ち尽くす。

 ドミトリが剣を抜きかけたが、クラリスが首を振る。
「まだです。――剣を抜くのは最後の一瞬だけ」
交渉の幕開け
 先頭に立つのは王太子の側近、冷徹な将校ハーゲン。彼は馬上から声を張った。
「辺境代官クラリス! その地は王太子殿下の領土である! 直ちに塩湖を明け渡せ!」
 クラリスは湖畔の高台に立ち、風に髪を揺らしながら答える。
「ここは国王陛下の命により、直轄領と定められました。私はその代官です。――王命を覆すおつもりですか?」
 ざわめきが広がり、兵たちの間に動揺が走る。
 ハーゲンの顔が歪んだ。
「戯言を! 王太子こそ次代の王である!」
 クラリスは一歩も退かず、声を張った。
「では問います! 次代の王が“民を飢えさせる王”でよいのですか!?」
 その言葉に、辺境の民が一斉に契り袋を掲げた。無数の袋が風にはためき、ざわめきが波紋のように広がる。
緊張の中で
 ハーゲンが剣を抜いた。兵たちの足音が一歩前へ揃う。
 その瞬間、ユリウスが合図し、堰が閉じられた。湖水があふれ、街道は瞬く間に泥に沈む。馬が嘶き、兵が慌てて体勢を崩す。 フェンが走り、旗を振った。
「西風強! 灰を撒け!」
 灰が風に舞い、敵陣を包む。咳き込み、混乱が広がる。
 剣を抜かずに、辺境は敵を止めた。
王太子の影
 その報せは、すぐに王都へ届いた。
 王太子アレクシスは玉座の間で拳を握りしめ、怒りをあらわにする。
「……あの女が、私を嘲るのか!」
 だが側近の貴族が冷静に進言した。
「殿下。力押しは危うい。辺境塩はすでに“王印”を得ています。
武力で奪えば、陛下の逆鱗に触れましょう」
 王太子の瞳に狂気が宿る。
「ならば――闇を使え。暗殺でも、裏切りでもよい。あの女を消せ
!」
辺境の夜
 その夜、塩湖の空には満月が浮かんでいた。
 クラリスは湖畔に立ち、波に映る光を見つめる。
「剣を抜かずに守れた……。けれど、これは始まりにすぎない」
 イングリットが横に立ち、低く告げる。
「殿下は必ず次を仕掛けてきます。――剣ではなく、もっと汚い手で」
 クラリスは静かに頷いた。
「いいでしょう。ならばこちらも、“国”として応えましょう。民と契りがある限り、闇に屈しはしない」
 湖面の黄金の輝きは、嵐の予兆のように揺れていた。

第14話「暗殺の刃」
 辺境防衛の誓いから数日後。
 塩湖の八升区画は順調に稼働し、契り袋は日に日に増えていた。人々は笑い、子どもは学び舎で数と字を覚える。――だが、クラリスの胸には重苦しい影が漂っていた。
「殿下が黙っているはずがない」
 イングリットの言葉が、夜毎に耳に残る。
不審者
 ある夜、警戒の笛が短く鳴った。湖畔に影が差し、夜警の兵が倒れているのが見つかった。命に別状はないが、後頭部を殴られていた。
 イングリットが剣を抜き、周囲を探る。
「侵入者がいる。狙いは……クラリス様だろう」
 クラリスは落ち着いた声で命じた。
「契り袋を三つ渡し、夜警を増やして。だが騒ぎ立ててはいけません。敵は闇を好む。ならば、闇で迎え撃ちましょう」

 翌晩、クラリスは執務室に明かりを灯し、机に座るふりをした。
 実際の彼女は別室の小窓から、湖面に映る影を監視している。 ――カラン。
 窓の鍵が外され、忍び込む気配。黒布をまとった男が短剣を握り、机に歩み寄る。
 その瞬間、床下から縄が跳ね上がり、男の腕を絡め取った。
「なっ……!」
 ドミトリとフェンが飛び込み、男を押さえ込む。
 クラリスは姿を現し、静かに問いかけた。
「誰の命令で?」
 男は唇を噛み、吐き捨てる。
「……王太子殿下だ」
動揺と結束
 捕らえた暗殺者は牢に入れられたが、辺境の人々に動揺が走った。
「王太子が本当に……」
「塩を守るために、私たちまで標的になるのか?」
 クラリスは広場に立ち、全員を前に声を張った。
「はい、殿下は私を消そうとしました。ですが、それは私たちが“ 国”になった証です。剣ではなく、闇を使うしかなかったのです」
 彼女は契り袋を高く掲げた。
「これは皆で積み上げた証。私一人ではなく、ここにいる全員の力。
――殿下が私を狙おうと、この国は倒れません!」
 群衆の中から「その通りだ!」と声が上がり、次々に契り袋が掲げられた。
 闇が狙った刃は、逆に人々の結束を強めたのだ。
王都への伝達
 ルーカスは交易院の封蝋を押した書簡を差し出した。
「この件は王都に報告します。王太子が背後にいると明らかになれば、陛下の逆鱗に触れるでしょう」
 クラリスは書簡を受け取り、頷いた。
「けれど、ただ裁かれるだけでは足りません。殿下は必ず次を仕掛ける。――その前に、こちらからも“証”を示さなければ」 ユリウスが首を傾げる。
「証、とは?」
「辺境は塩だけではありません。硝床も育ちつつある。――それを王都に示しましょう。塩と硝、二つ揃えば、もはや誰も無視できない」
夜の誓い
 その夜。湖畔に立つクラリスの前で、波が月明かりを反射して揺れていた。
 イングリットが隣に立ち、言う。
「暗殺を退けたとはいえ、殿下はこれで引かない。次はもっと大きな力をぶつけてくる」
 クラリスは静かに答えた。
「ならば、こちらも“国”として受けて立ちます。剣を抜かずに守り抜き、そして証明する。――辺境が、真の国家であることを」 湖のきらめきは、まるで黄金の未来を約束するように輝いていた。

第15話「硝床の秘密」
 夜明けの湖畔は白い霧に包まれていた。だが、その向こうで人々は既に動き始めている。新たに掘られた窪地――硝床である。
 木灰と土を混ぜ、家畜の糞尿を加え、湿らせて寝かせる。時をかけ、硝酸塩を析出させる仕組みだ。
 ユリウスが桶を運びながら、説明を続ける。
「灰と糞を三対一に。水を含ませ、発酵させる。表面に浮いた白い結晶こそ、火薬の主成分――硝石になる」
 村人たちは驚きと不安の目で見つめる。
「火薬……武器になるのか?」「危ないものじゃないのか?」
 クラリスは前に出て、穏やかに告げた。
「これは戦のためだけに使うのではありません。土壌を豊かにする肥料にもなるし、害獣を追い払う道具にもなる。――私たちは“命を奪う”ためではなく、“命を守る”ために育てます」
成功の兆し
 数日後。ユリウスが硝床から塊を取り出した。白く乾いた結晶。
「……出た!」
 人々が息を呑む。クラリスは掌に乗せ、太陽光に透かして見た。
透明な輝きは、塩とは異なる力を秘めていた。
「これが……辺境の第二の宝」
 ドミトリが笑い、拳を突き上げる。
「塩に硝! これで王都の誰も無視できん!」
 フェンが旗を振り、子どもたちが走って広場に報せる。
 村中に歓声が広がった。
王都の動き
 その頃、王都ではまた別の動きが生まれていた。
 王太子派の議場で、重臣たちが怒声をあげる。
「辺境が硝を産する? 火薬の材料を握らせれば、王国の軍権が揺らぐ!」
「陛下が彼女を直轄代官にしたのは誤りだ!」
 アレクシスは冷たく笑った。
「よかろう。塩に続き、硝までも得たなら、辺境は必ず慢心する。
……そこを叩くのだ。武力ではなく、策で」
 彼は密かに命じた。
「辺境の内から崩せ。――裏切りを仕込め」
不安と対策
 辺境の会合所。ルーカスが王都からの報告を携えて戻ってきた。「殿下は硝の噂に激しく動揺している。次は間違いなく“内乱”を仕掛けてくる。……辺境の誰かを買収し、分裂を誘うはずだ」
 イングリットが険しい顔をする。
「民を疑うのか?」「疑うのではありません。――守るのです」クラリスはきっぱりと言った。
 彼女は契り袋を掲げる。
「今から“二重契り”を始めます。仕事の印だけではなく、“誓いの印”を一人ひとりに刻む。裏切り者は必ず、印の欠けで見えるはず」
 ユリウスが補足する。
「つまり、働きの契りと、忠義の契り。二つ揃って初めて“国の民
”となる」
 人々はざわめいたが、やがて同意の声が広がった。
夜の決意
 作業を終えた後、クラリスは湖畔に立った。塩湖は月明かりに照らされ、硝床からはかすかに甘い匂いが漂う。
 イングリットが背後で問いかけた。
「殿下が次に放つのは、剣でも兵でもない。――人の心です。それでも勝てますか?」
 クラリスは湖面に映る自分を見つめ、静かに答えた。
「勝ちます。剣より強いものを、私は手にしました。――それは“ 契り”です」
 彼女の瞳には、黄金の湖と白き硝石の輝きが映っていた。

第16話「裏切りの火種」
 辺境に静かな影が忍び寄っていた。
 塩と硝の二つの宝を得た辺境は、かつてない繁栄を迎えようとしている。だが、それを快く思わぬ者が必ず現れる。――それは遠く王都から放たれた種であり、内部に芽吹く「裏切り」という名の火種だった。小さな不満
 ある日の会合。契り袋の集計を終えた後、年老いた農夫が手を挙げた。
「代官様……契りは公平だとわかっておりますが、わしらの畑仕事は袋に印が少なすぎます。塩や硝ばかりが印を得るのは、不公平ではありませんか?」
 別の男も続く。
「そうだ! 俺たちは麦を育てているのに、収穫まで印が少ない。塩湖ばかりが優遇されている!」
 ざわめきが広がる。イングリットが睨みつけるが、クラリスは手で制した。
「意見は大切です。……ならば“先の印”を与えましょう。農作業は収穫でしか成果が見えません。だから、段階ごとに印を刻む。種蒔き、水やり、除草――ひとつひとつが国を支える働きです」
 人々は静まり、やがて頷いた。だが、その場にいた一人の若い男は陰で小さく笑っていた。
王都からの手
 夜更け。湖畔の倉庫に忍び寄る影。
 若い男は密かに袋を開き、羊皮紙を取り出す。そこには王太子派の印が押されていた。
『麦農を集めよ。塩と硝は貴族の贅沢にすぎぬ。民の糧を忘れた悪女に従うな』
 男は羊皮紙を胸に抱き、囁いた。
「……殿下の言葉が真実だ。俺たちは塩より麦だ」
不穏な兆し
 数日後。ユリウスが報告を持ってきた。
「麦農の一部が契りを怠っています。印が三つも欠けている。これは偶然ではありません」
 クラリスは眉を寄せた。
「……火種が投げ込まれたのね」
 イングリットが剣に手をかける。
「裏切り者を炙り出すか?」
「いいえ。剣を抜けば、殿下の思うつぼです」
 クラリスは帳面を開き、新たな策を記した。
「“麦の祭り”を開きましょう。農の契りを国全体の祝祭にする。
印の欠けは、人々の前で自然と明らかになります」
麦の祭り 三日後。湖畔の広場に麦の束が積まれ、子どもたちが歌をうたいながら踊った。パン職人が窯を開き、焼きたての香りが漂う。
 クラリスは壇に立ち、声を張った。
「麦は命の糧。塩や硝と同じく、国を支える宝です。――今日はその働きを讃える日とします!」
 群衆が歓声を上げ、契り袋が掲げられる。だが一部の袋は明らかに印が少なく、周囲の視線を集めた。
 不満を漏らしていた若い男が顔を赤らめ、群衆から後ずさる。
 クラリスは彼を責めず、静かに言った。
「印が欠けるのは恥ではありません。働きを重ねれば、袋はまた満ちるのです」
 その寛容な言葉に、群衆はざわめき、やがて大きな拍手が起こった。
闇の報せ
 だが夜。捕らえられた密使が口を割った。
「……俺たちは王太子派の手先だ。辺境を分裂させ、内から崩せと命じられた……」
 イングリットが顔をしかめる。
「やはり殿下の仕業か」
 クラリスは瞳を閉じ、ゆっくりと開いた。
「裏切りの火種は見えました。――ならば、もう燃え広がることはありません」
 彼女は契り袋を胸に抱き、誓った。
「剣でなく心を守る。それが、この国の最も強い盾になる」
迫る嵐
 その頃、王都の王太子は報告を受け、怒りに震えていた。
「祭りで逆に結束を強めた、だと……!」
 彼の瞳は狂気を帯び、次の命を下す。
「ならば、辺境そのものを焼き払え。――軍を動かす!」
 黄金の湖に映る月は赤く染まり、迫る嵐を告げていた。 
第17話「赤月の前兆」
 夜空に浮かぶ月は、いつもより赤く滲んでいた。湖面に映る光は血のようで、辺境の人々はその不吉な色を「赤月」と呼んだ。
 そして今宵、その赤月が昇った。
王太子の宣告
 王都から急報が届いた。ルーカスが汗を拭いながら会合所に駆け込む。
「クラリス様! 殿下が正式に軍を動かしました。名目は『辺境の乱を鎮める』――三千の兵が南門を出立したとのことです!」
 会合所はざわめきに包まれた。百五十人の辺境兵と数百の民に対し、三千の正規軍。数字だけを見れば絶望的だった。
 イングリットが机を叩く。
「焼き払いだ。塩湖ごと辺境を潰すつもりだ!」
 ドミトリが剣の柄を握りしめる。
「正面からは勝てん。だが湖を武器にすれば、まだ道はある!」
 フェンが旗を掲げ、叫んだ。
「俺たちは逃げない! あの塩と硝は、もう俺たちの国だ!」
決断
 人々の視線がクラリスに集まった。 彼女は深く息を吸い、静かに言葉を紡ぐ。
「確かに数では勝てません。けれど、私たちには“契り”があります。塩湖を盾にし、硝を光に変え、民の力を一つにすれば……剣を抜かずに、軍を退けられるかもしれません」
 沈黙が流れた。やがて老いた農夫が立ち上がり、契り袋を掲げた。
「わしは逃げぬ。あんたに付いてきたのは、畑を守るためじゃ。畑も湖も、この国も……命を懸けて守る!」
 その声に続き、次々と契り袋が掲げられる。
「塩を育てた手を無駄にするな!」
「硝を仕込んだ汗を捨てられるか!」
「この大地はもう我らの国だ!」
 会合所は熱気に満ち、誰もが震える声で叫んだ。
赤月の下の準備
 その夜、赤月の下で準備が始まった。
 ユリウスが堰の仕掛けを調整し、湖水を街道へ流す導線を作る。
 フェンは旗を持って丘を駆け、風の流れを測り続ける。
 ドミトリと傭兵団は灰を袋詰めにし、硝石を少量ずつ樽に仕込んだ。
 イングリットは夜警を率い、村の子どもと女たちを学び舎に集める。
「怖がるな。ここは砦だ。お前たちが未来を学ぶ限り、この国は負けない」
 クラリスは広場に立ち、民の一人ひとりに契り袋を手渡した。「これはあなたの剣です。血で汚さず、汗で満たしてください」 赤月が高く昇るころ、辺境はひとつの大軍に変わっていた。
王太子の軍
 翌日。砂煙を上げて王太子軍が迫る。槍と盾の列、旗の林、規律正しい足音。
 先頭の軍鼓が鳴り響き、赤月を背に進む姿はまさに鉄の洪水だった。
 アレクシスは馬上から冷笑する。
「愚かな女よ。辺境ごと焼き払ってやろう。悪役令嬢は舞台から去るのがお似合いだ」
 だがクラリスは湖畔に立ち、赤月の光を浴びながら叫んだ。
「辺境はもう舞台の端ではありません! ここが国の中心となるのです!」前夜の誓い
 戦いは避けられない。だが誰も怯えてはいなかった。
 クラリスは仲間を見渡し、静かに誓った。
「明日、私たちは試されます。塩も硝も、契りも、すべてを懸けて ――“剣を抜かずに国を守れるか”。負けても、奪われても、この日が歴史の始まりになるでしょう」
 ドミトリが剣を掲げ、フェンが旗を振り、イングリットが盾を鳴らす。
 民の声が夜空に響いた。
「守れ! 契りの国を!」
 赤月はなお血のように輝き、戦の前兆を告げていた。 
第18話「契りの戦場」
赤月の朝
 夜明けと同時に、湖畔の空気は張り詰めた。
 赤月は西に沈みかけていたが、その不吉な光はなお大地を染めている。
 丘の向こう、王太子軍三千が列を組んで迫っていた。槍の穂先が朝日にきらめき、鼓動のような軍鼓が響く。
 クラリスは湖畔の高台に立ち、深く息を吸った。
「……今日が、この国の始まりの日」
 背後には百五十の辺境兵と民兵、そして数百の農夫や職人。剣も鎧も揃ってはいない。だが、皆の胸には契り袋が光っていた。
第一の防壁
 王太子軍の先陣が進み出る。馬が嘶き、槍の列が街道を覆った。
 クラリスは手を上げ、ユリウスに合図する。
 堰が解かれ、湖水が一気に流れ出す。乾いた街道は瞬く間に泥に変わり、馬が足を取られ、兵たちは膝まで泥に沈む。
「ぬかるみに……!」
「進め! 止まるな!」
 だが列は乱れ、前進は鈍る。クラリスは静かに頷いた。
「これが塩湖の盾。剣を抜かずとも、軍は止まる」
第二の仕掛け
 混乱する敵軍に向かい、フェンが旗を振った。
「西風強! 撒け!」
 民が袋を破り、灰を風に投げる。白い粉が敵陣に舞い込み、咳と涙を誘う。
 兵たちが目を覆い、槍の列が崩れた。
 ドミトリが笑みを浮かべる。
「どうした王都の兵! 灰にすら勝てぬか!」
硝の閃光
 しかし敵は数に勝る。後方から新たな列が押し寄せ、辺境の陣を圧し潰そうとした。
 その瞬間、ユリウスが仕込んだ樽が火を吹いた。硝石の粉と火薬が閃光を生み、轟音が山に響く。
 敵兵が叫び、馬が暴れ出す。
「雷か!?」「魔法か!?」
 クラリスは声を張った。
「これが辺境の力! 塩と硝、民の知恵が生んだ光です!」
剣を抜かず
 だが圧力はなお強い。敵の将校ハーゲンが馬を進め、剣を抜き放った。

「女狐を捕らえよ!」
 辺境兵は剣を抜きかけたが、クラリスが叫ぶ。
「待て! 剣は抜かない! 私たちは殺さずに退ける!」
 イングリットが盾を構え、敵の刃を受け止める。ドミトリが棍棒で相手を弾き飛ばし、フェンが旗で合図して兵を誘導する。
 辺境の戦いは、血を流すためではなく、守るための舞だった。
契りの声
 戦場の喧騒の中、クラリスは両手を掲げた。
「民よ、声を上げて!」
 辺境の人々が一斉に契り袋を掲げ、叫んだ。
「守れ! この大地を!」
「剣なき国を!」
「契りこそ我らの誓い!」
 その声は波となり、敵兵の心を揺らす。
 泥に足を取られ、灰に咳き込み、閃光に怯えながら、彼らの耳に響くのは「国を守る民の声」だった。
 ハーゲンの顔が歪む。
「……こんな戦は……戦ではない!」
退却
 夕刻。王太子軍はついに陣を崩し、退却を始めた。
 追撃を求める声もあったが、クラリスは首を振った。「剣を抜かずに退ける。それが勝利です。血で汚せば、我らは殿下と同じになる」
 泥に沈む街道に、赤月が沈みゆく光を落とした。
 辺境は守られた。――だが戦いは終わっていない。
王都の動揺
 その報はすぐ王都に届いた。
 玉座の間で、王太子アレクシスが震える声を上げる。
「三千の兵が……百五十の農民に退けられたと!? あり得ぬ!」
 重臣たちは沈黙し、やがて一人が口を開く。
「殿下……もはやこれ以上は隠せません。民は皆、辺境の女を“女王”と呼び始めております」
 アレクシスの瞳が狂気に燃えた。
「ならば最後だ。あの女を、この手で――」
終幕への兆し
 辺境の夜。湖畔に立つクラリスは静かに湖面を見つめていた。
 イングリットが隣に立ち、低く言う。
「勝ったが、殿下は必ず自ら動く。次が最後になる」
 クラリスは頷いた。
「ええ。剣を抜かずにここまで来ました。次こそ、決着の時です」
 黄金の湖は静かに揺れ、やがて夜明けを映し出そうとしていた。第19話「黄金の大地、国の誕生」
王太子の来訪
 赤月の戦から十日後。辺境は静けさを取り戻していた。
 だが、その静けさを破るように、王都からの使者が現れる。
「殿下ご自身が軍を率いてこちらへ向かわれる」
 その報せに、人々の間に緊張が走った。
 イングリットは剣を握りしめたが、クラリスは首を振る。
「剣を抜かずにここまで来たのです。最後まで、その誓いを曲げません」
 やがて塩湖の畔に、黒馬を駆る王太子アレクシスの姿が現れた。
 甲冑に身を包み、瞳には怒りと焦りが宿っている。
「クラリス……辺境を返せ! 女が国を興すなど、王国の恥だ!」
対峙
 クラリスは民と共に湖畔に立ち、契り袋を高く掲げた。
「殿下。私は悪役令嬢と呼ばれ、婚約を破棄され、辺境に追われました。ですが見てください――この地は死地ではなく、黄金の大地だったのです」
 人々が次々に袋を掲げる。
「クラリス様こそ我らの主だ!」
「この地を守る女王だ!」 湖畔に響く声は波のように重なり、アレクシスの怒声をかき消した。
王の裁定
 その時、王都からの伝令が駆け込んだ。
 王国の旗を背に、王の親書が読み上げられる。
「国王陛下の勅命により、辺境直轄領を“自由領”として認める。代官クラリスを初代領主とし、国に属しながらも独自の政を許す」 群衆がどよめき、歓声が広がった。
 アレクシスの顔は蒼白になり、剣を抜こうとしたが、近衛兵が立ちふさがった。
「殿下、これ以上は逆賊の所業にございます」
 アレクシスは呻き声を上げ、剣を落とした。
辺境の即位
 その夜。湖畔の広場に篝火が焚かれ、人々が集まった。
 クラリスは壇に立ち、静かに告げた。
「私は侯爵令嬢ではありません。悪役令嬢でもありません。――この辺境の女王です」
 契り袋が無数に掲げられ、歓声が夜空を震わせた。
 ユリウスが涙を拭い、イングリットが盾を高く掲げ、フェンが旗を振り、ドミトリが剣を掲げる。
 黄金の湖が篝火に照らされ、きらめいた。
未来への道
 翌朝。赤月は消え、清らかな青空が広がっていた。
 クラリスは湖畔を歩き、静かに呟く。
「婚約破棄から始まった物語が、ここまで来たのですね」
 マリナが隣に立ち、微笑む。
「いいえ、ここからが始まりです。国を興し、民を守り、未来を築く。クラリス様の物語は、まだ続きます」
 クラリスは頷き、湖面を見つめた。
 そこに映るのは、悪役令嬢ではなく――建国の女王の姿だった。
終章
 かくして辺境は「自由領」として認められ、クラリスは初代女王として名を残した。
 塩は国を潤し、硝は知恵を広げ、契りは人々を結ぶ。
 “悪役令嬢”の汚名は消え、黄金の大地から新たな国が生まれたのだ。
 ――これは、婚約破棄から始まる逆転劇。
 そして「悪役令嬢が国家を築く物語」の、第一幕にすぎなかった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

〈次に行くなら〉『祈りの背中 ― 沖田静 回顧録集 第一巻』
→【URL】https://novema.jp/book/n1757784
〈青春で締めるなら〉『学校イチのイケメン×学校イチのイケメンは恋をする』
→【URL】 https://novema.jp/book/n1761242
〈怖さで締めるなら〉『白いドレスに滲むもの』
→【URL】 https://novema.jp/book/n1761088