雨の音が、遠くなった。
天秤の間の湿度はまだ高いのに、耳の裏では乾いた砂のこすれる気配がする。皿の上にしつらえられた細い筋――確定の下りの前触れだった砂の小道――は、夜のうちにわずかに幅を増して、指でなぞれば崩れそうなやわらかさで静止している。
案内人は何も言わない。言わないのに、言葉が在る。天秤の柱の真鍮は冷え、壁に残った雨粒の地図は、呼吸に合わせて淡く明滅する。六月二十七日・午後一時四十八分。その数字はもう、刃物ではなく、封緘の蝋の印に見えた。
直接の再会はない。
そのことだけは、初めから了解されている。
約束の効き目は、正面よりも斜めから見たほうが分かる。背中ごし、窓ごし、SNSの断片、部屋の配置。生活の温度計は、表情よりも、家具の影に隠れている。
私たちは、天秤の間に居ながら、それでも外の温度の変化を、同じ湿度の中で受け取る準備をした。
◇
梓――〈詞〉の刻印の余韻。
午前十時を過ぎたばかりの喫茶店。窓ガラスには、昨夜の雨の名残が、斜めの筋になって乾いていた。
彼は一人で入ってきて、壁際の二人がけの席に座る。椅子の脚が床に当たっても、音は出ない。店の空気が軽い。
卓上の小さな黒板に、今日のコーヒー豆の名前。彼はそれを読まない。代わりに、メニューの隅に書かれた曲名のメモに目を止める。誰かの手書きの“今週のおすすめ曲”。
ポケットから細いペンを出して、紙ナプキンの端に小さく書く。
――“Green Fuse / Solo Ver.”
――“夏の尾根”
――“間に合わない日”
店のスピーカーから流れているのは、別の曲だ。
彼は耳を傾けながら、メッセージアプリを開く。
下書きに、短い文を打っては消し、打っては消す。
――今日は君を待たない。
点滅するカーソルが、その文を沈める。
代わりに、彼は別の文を組み立てる。
――今度、君の行きたい店を教えてね。
送信。
画面の端で、青い小さなチェックマークが、ひとつ増える。
部屋の空気は、背中に出る。
彼の部屋の窓辺に置かれた観葉植物の葉が、朝の光を受けてわずかに反る。床に置かれたギターケースは開かないまま、しかし埃を吸っていない。
共有プレイリストの“二人の曲”は少し減っている。空白は空白のまま、アプリの中で黙っている。
その代わり、彼の“好き”は、紙に増える。紙ナプキン。手帳の余白。レシートの裏。
自分の足音を追いかけるとき、人は紙を欲しがる。
画面の光よりも、紙の手ざわりのほうが、自分の“次”を確かめやすいからだ。
天秤の間から、梓はそれを見た。
見たといっても、映像や音ではない。湿度の変化、呼吸の深さ、置かれたコップの輪の伸びる速度。
梓は、涙を選ばない。
深く吸い、長く吐く。
――どうか、あなたの人生を。
言葉にならない言葉が胸の中の空気を温める。
それは祈りではなく、送った〈詞〉の反響だった。
反響は、部屋の角に溜まって、やがて薄くほどける。
ほどけるものを、追わない。
追わない姿勢が、梓の“残したい像”の輪郭を少しだけくっきりさせる。
◇
廉――〈詞〉の刻印の余韻。
彼(友)のスマホの“リマインダー”に、新しい項目が増えている。
通知音は鳴らない。画面の隅に、静かな粒のように置かれているだけだ。
――ブレーキ交換/明日/19:00/ガレージ。
日付は、六月二十七日。
彼はその夜、いつものように缶コーヒーを二本買い、一本をすぐに開ける。
別の友にメッセージを送る。
――明日、レンと店行く。
送りっぱなしで、既読はつかない。
それでも、送った事実は、受信者のポケットの中のどこかに、見えない質量を作る。
夜は、事故へ向かって進む。
曲がり角のアスファルトは昨日より乾いていて、対向車のヘッドライトは、昨日より白い。
死は変わらない。
なのに、“明日”が、画面のどこかに残る。
“明日”という小さな旗が、アプリの中で立っている。
意味は変えられない。でも、旗の本数は増やせる。
旗は、誰かの記憶に移る。移った旗が倒れずに立ち続けるとき、別の芽が出る。
通夜の席。
香の匂いは、いつもどおり鼻に残る。
座卓のはじで、別の友が言う。
「アイツ、整備の資格取りたいって言ってたらしい」
“らしい”がつく。それで十分だ。
“らしい”は、未来の芽を守るための呼び方だ。
その“らしい”を受け取った誰かが、資格の申し込み画面を、夜中に一度だけ開く。
閉じる。
その動作にも意味がある。
意味は、夜に寝ているときに、ゆっくりと形になる。
形は、朝の背伸びの角度で、わずかに変わる。
天秤の間で、廉は拳を握る。
握りしめた拳は、もう殴るための形ではない。握りしめることで、ほどけない約束の感触を忘れないための形だ。
「今度は逃げない」
声は出さない。出さないけれど、胸の内側の骨が、その文を覚える。
覚えた骨は、次に立つべきときに、身体を先に動かす。
廉の“残したい像”は、“行くやつ”の背中になって、天秤の間の空気を少しだけ乾かした。
◇
蒼――〈時〉の刻印の余韻。
別の現場。六月二十七日ではない。
アスファルトの照り返しはないが、室内の蛍光灯が額に白い線を作る。
新人が、手袋のゴムをうまく引き上げられず、指がもたつく。
呼吸が上がる。耳の中のノイズが大きくなる。
蒼は、その横で、低く短く言う。
「間に合った分で繋がる」
それだけ。
新人の指が止まらない。止まらず、次の動作へ滑る。
吸引のタイミングが、一拍早い。
胸骨圧迫のリズムが、音楽を要らない。
「間に合った分で繋がる」。
その文は、掛け声ではなく、操作説明の一項目として効く。
救われた人の家で。
数日後の午後。
リモコンの上に小さな手。
テレビから流れるお昼の番組の、笑い声のいちばん軽いところだけが、部屋に残る。
子が笑う。
笑った理由は、たぶんドラマの台詞ではない。
窓から入る風が、カーテンで波紋を作るのを、初めて見たからだ。
あるいは、味噌汁の表面に浮いた葱が、思っていたよりもゆっくり沈むのを、初めて知ったからだ。
理由が何であれ、笑いはそこにある。
蒼は、その笑いを知らない。
知らないけれど、救える“系”はある、と信じ直す。
“系”は網だ。自分たちは結び目で、結び目の位置を少しずらせる。
ずらしたぶんだけ、別の誰かの一拍が、間に合う。
それで十分だ。
十分では足りない夜もあるが、今は十分で、次にすすむ。
天秤の間で、蒼は手袋を外し、掌に残った粉の白さを見た。
それは、現場の光ではなく、この部屋の静かな灯りの下でも白い。
粉は、約束の砂とよく似ていた。
粉は指から落ち、皿の筋に混じって見えなくなる。
“残したい像”は、粉のように細かい。
細かいものが、呼吸を支える。
◇
灯――〈時〉の刻印の余韻。
母の冷蔵庫に、“山の買い物リスト”。
――レインウェア(軽いの)
――靴下(厚手)
――渋皮煮用の栗(大ぶり)
――きび砂糖
――ドライヤーのフィルター
紙の端に、母の癖の小さな顔がある。笑っていないのに、見ていると笑ってしまう顔。
台所の隅に、保存瓶が並ぶ。
まだ何も入っていない。入っていない瓶が、光を持っている。
空の容器の明るさは、約束の明るさに似ている。
中身が決まっていないからこそ、光る。
決める権利がまだ残っているから、光る。
秋の風が、部屋を抜ける。
母が、空のマグカップに手を添える。
湯気はない。けれど、指先は温かそうに見える。
窓際の椅子の上に、登山雑誌が開きかけのまま表紙を上にして置かれている。
母はそれを開かない。開かないで、ページの厚みだけで季節を想像する。
“山のコースタイム”という文字のすぐ横に、小さく“灯は下りが速い”とメモがある。
言葉の横にある文字のほうが、生活の温度を上げる。
“速い”で、カップの底の影が少しだけ丸くなる。
交差点の花束は消えない。
雨に濡れ、日に乾き、また雨に濡れ、色は薄れる。
その隣に、小さな登山バッジが置かれる。
青い山の稜線。頂上に白い点。
誰が置いたのかは、分からない。
「ありがとう」を言う人は、毎回違う。
違うけれど、バッジの形は同じ。
同じ形が重なって光るとき、祈りでない何かが働いている。
天秤の間で、灯は悟りに似たものを取り扱う。
“約束は、実現しないとしても、生きる人の姿勢を支える”。
決意ではない。
姿勢だ。
背筋を伸ばすでも、肩をすくめるでも、どちらでもいい。
その人が息をしやすい角度で立てること。
それを支える。
支えた痕跡は、冷蔵庫の紙の端や、空の保存瓶の光や、枕元の付箋の裏に残る。
灯の“残したい像”は、誰かの手に触れないまま、その手の温度を少しだけ上げる位置に置かれた。
◇
四人の選択は、奇蹟ではなかった。
死は変わらない。
けれど、生活の温度が、変わった。
温度は、涙の代わりに働く。
涙は流れ、温度は残る。
残るものが、次の背中を押す。
梓は、送られてくるメッセージの文末の“ね”の位置が、以前より少し後ろに下がっているのを見て、息を整えた。
廉は、ポケットの紙片“BR-7000”の角が丸くなっていくのを指で確かめながら、ガレージの蛍光灯をひとつ、明るいものに替えた。
蒼は、休憩室の壁の“声かけ”の紙の下に、鉛筆で小さく三本線を引いた。誰かが見落としてもいい、見つけた人だけが分かる印。
灯は、母の手帳の新しいページに、細い付箋を二枚重ねて貼った。上の付箋は“山”、下の付箋は“帰りの温泉”。重ねる角度を半度ずらし、二色の端が、斜めに見えるように。
直接の再会はない。
それで十分だと思える瞬間が、日々のどこかに置かれる。
置かれた場所は、毎日は変わらない。
変わらないけれど、温度が違う。
違いは、スタンドライトの色温度や、冷蔵庫の音の高さや、スマホのバイブの持続時間や、ハンドマイクのわずかな擦過音に現れる。
生活は、音程で温度を教えてくれる。
◇
天秤の間に、風はない。
なのに、壁の雨粒の地図が、乾いていく。
乾きながら、色が濃くなる。
濃くなるのは、痕跡が意味を持ったからだ。
私たちは、天秤の前で立つ。
四人、それぞれの“残したい像”が、等身大になった。
理想でも悪夢でもない。
等身大は、写真で見ると物足りない。けれど、鏡で見ると、やっと呼吸が合う。
その合致が、いまは救いだ。
案内人が、一歩だけ近づく。
黒い布の縁取りが、金の細い線で、部屋の淡い光を受けた。
「天秤はあなたがたを量ったのではありません」
案内人は、針に触れずに言う。
「あなたがたが、自分の重さを、分け合ったのです」
量る、ではなく、分ける。
分けた先は、他人の背中であり、自分の明日であり、部屋の隅の保存瓶であり、壁の紙の角であり、バッジの銀色であり、紙ナプキンの端のインクの滲みだ。
分け合った重さが、奇蹟の代わりに働く。
奇蹟は起きない。
起きないのに、世界は少し良くなる。
“良くなる”は、誰のものでもない。
私たちが握っていたものの温度が、冷めにくくなるだけだ。
案内人は、天秤の柱から手を離し、背を向けた。
背中越しに、最後のひと言を残すでもなく、扉のほうへ歩いていく。
扉は、まだ閉じたままだが、縁が薄く光る。
終章の用意ができている。
砂の匂いはさらに薄れ、代わりに、栗の渋皮を剥いたときの甘い皮の匂いが、どこからか届く。
それは、約束の味だ。
奇蹟ではない。
けれど、温度は、確かだった。
私たちは、同じ湿度を吸い、同じ長さで吐いた。
それぞれの“残したい像”を胸の内側に立て、等身大の重さを確かめる。
重さは、歩幅に合っている。
歩幅が、次を選ぶ。
私たちの次は、もう、定規や規定や罪状で測るものではない。
紙ナプキンと保存瓶と、壁の紙の角度で、測れる。
天秤の針は、揺れない。
揺れないことが、いまの私たちを許している。
その許しは、赦しとは違う。
ただ、立つことを許す。
立って、見る。
窓越しに、背中越しに、SNSの断片越しに、部屋の配置越しに。
間接の像のほうが、約束の芯に近いことを、ようやく知ったのだ。
扉の縁の光は、少しだけ強くなる。
終章は、光の向こうにある。
奇蹟は、ない。
けれど、約束は、ある。
その事実だけが、私たちを前に押す。
押すのではなく、支える。
支えられた背は、まっすぐでも曲がっていても、どちらでもいい。
どちらでも、歩ける。
その歩ける、が、やっと私たちのものになった。
部屋の湿度が、わずかに下がる。
深呼吸が、少しだけ浅くても足りるようになる。
天秤は、静かにそこにあり、壁の地図は静かに乾き、砂の筋は、崩れないまま、薄明かりをまとっていた。
奇蹟のない世界の、優しい手順。
その手順の先で、約束は、形を持ち続ける。
私たちは、目を上げた。
終章へ向かう合図は、もう、出ている。
背筋の温度が、それを知っていた。
天秤の間の湿度はまだ高いのに、耳の裏では乾いた砂のこすれる気配がする。皿の上にしつらえられた細い筋――確定の下りの前触れだった砂の小道――は、夜のうちにわずかに幅を増して、指でなぞれば崩れそうなやわらかさで静止している。
案内人は何も言わない。言わないのに、言葉が在る。天秤の柱の真鍮は冷え、壁に残った雨粒の地図は、呼吸に合わせて淡く明滅する。六月二十七日・午後一時四十八分。その数字はもう、刃物ではなく、封緘の蝋の印に見えた。
直接の再会はない。
そのことだけは、初めから了解されている。
約束の効き目は、正面よりも斜めから見たほうが分かる。背中ごし、窓ごし、SNSの断片、部屋の配置。生活の温度計は、表情よりも、家具の影に隠れている。
私たちは、天秤の間に居ながら、それでも外の温度の変化を、同じ湿度の中で受け取る準備をした。
◇
梓――〈詞〉の刻印の余韻。
午前十時を過ぎたばかりの喫茶店。窓ガラスには、昨夜の雨の名残が、斜めの筋になって乾いていた。
彼は一人で入ってきて、壁際の二人がけの席に座る。椅子の脚が床に当たっても、音は出ない。店の空気が軽い。
卓上の小さな黒板に、今日のコーヒー豆の名前。彼はそれを読まない。代わりに、メニューの隅に書かれた曲名のメモに目を止める。誰かの手書きの“今週のおすすめ曲”。
ポケットから細いペンを出して、紙ナプキンの端に小さく書く。
――“Green Fuse / Solo Ver.”
――“夏の尾根”
――“間に合わない日”
店のスピーカーから流れているのは、別の曲だ。
彼は耳を傾けながら、メッセージアプリを開く。
下書きに、短い文を打っては消し、打っては消す。
――今日は君を待たない。
点滅するカーソルが、その文を沈める。
代わりに、彼は別の文を組み立てる。
――今度、君の行きたい店を教えてね。
送信。
画面の端で、青い小さなチェックマークが、ひとつ増える。
部屋の空気は、背中に出る。
彼の部屋の窓辺に置かれた観葉植物の葉が、朝の光を受けてわずかに反る。床に置かれたギターケースは開かないまま、しかし埃を吸っていない。
共有プレイリストの“二人の曲”は少し減っている。空白は空白のまま、アプリの中で黙っている。
その代わり、彼の“好き”は、紙に増える。紙ナプキン。手帳の余白。レシートの裏。
自分の足音を追いかけるとき、人は紙を欲しがる。
画面の光よりも、紙の手ざわりのほうが、自分の“次”を確かめやすいからだ。
天秤の間から、梓はそれを見た。
見たといっても、映像や音ではない。湿度の変化、呼吸の深さ、置かれたコップの輪の伸びる速度。
梓は、涙を選ばない。
深く吸い、長く吐く。
――どうか、あなたの人生を。
言葉にならない言葉が胸の中の空気を温める。
それは祈りではなく、送った〈詞〉の反響だった。
反響は、部屋の角に溜まって、やがて薄くほどける。
ほどけるものを、追わない。
追わない姿勢が、梓の“残したい像”の輪郭を少しだけくっきりさせる。
◇
廉――〈詞〉の刻印の余韻。
彼(友)のスマホの“リマインダー”に、新しい項目が増えている。
通知音は鳴らない。画面の隅に、静かな粒のように置かれているだけだ。
――ブレーキ交換/明日/19:00/ガレージ。
日付は、六月二十七日。
彼はその夜、いつものように缶コーヒーを二本買い、一本をすぐに開ける。
別の友にメッセージを送る。
――明日、レンと店行く。
送りっぱなしで、既読はつかない。
それでも、送った事実は、受信者のポケットの中のどこかに、見えない質量を作る。
夜は、事故へ向かって進む。
曲がり角のアスファルトは昨日より乾いていて、対向車のヘッドライトは、昨日より白い。
死は変わらない。
なのに、“明日”が、画面のどこかに残る。
“明日”という小さな旗が、アプリの中で立っている。
意味は変えられない。でも、旗の本数は増やせる。
旗は、誰かの記憶に移る。移った旗が倒れずに立ち続けるとき、別の芽が出る。
通夜の席。
香の匂いは、いつもどおり鼻に残る。
座卓のはじで、別の友が言う。
「アイツ、整備の資格取りたいって言ってたらしい」
“らしい”がつく。それで十分だ。
“らしい”は、未来の芽を守るための呼び方だ。
その“らしい”を受け取った誰かが、資格の申し込み画面を、夜中に一度だけ開く。
閉じる。
その動作にも意味がある。
意味は、夜に寝ているときに、ゆっくりと形になる。
形は、朝の背伸びの角度で、わずかに変わる。
天秤の間で、廉は拳を握る。
握りしめた拳は、もう殴るための形ではない。握りしめることで、ほどけない約束の感触を忘れないための形だ。
「今度は逃げない」
声は出さない。出さないけれど、胸の内側の骨が、その文を覚える。
覚えた骨は、次に立つべきときに、身体を先に動かす。
廉の“残したい像”は、“行くやつ”の背中になって、天秤の間の空気を少しだけ乾かした。
◇
蒼――〈時〉の刻印の余韻。
別の現場。六月二十七日ではない。
アスファルトの照り返しはないが、室内の蛍光灯が額に白い線を作る。
新人が、手袋のゴムをうまく引き上げられず、指がもたつく。
呼吸が上がる。耳の中のノイズが大きくなる。
蒼は、その横で、低く短く言う。
「間に合った分で繋がる」
それだけ。
新人の指が止まらない。止まらず、次の動作へ滑る。
吸引のタイミングが、一拍早い。
胸骨圧迫のリズムが、音楽を要らない。
「間に合った分で繋がる」。
その文は、掛け声ではなく、操作説明の一項目として効く。
救われた人の家で。
数日後の午後。
リモコンの上に小さな手。
テレビから流れるお昼の番組の、笑い声のいちばん軽いところだけが、部屋に残る。
子が笑う。
笑った理由は、たぶんドラマの台詞ではない。
窓から入る風が、カーテンで波紋を作るのを、初めて見たからだ。
あるいは、味噌汁の表面に浮いた葱が、思っていたよりもゆっくり沈むのを、初めて知ったからだ。
理由が何であれ、笑いはそこにある。
蒼は、その笑いを知らない。
知らないけれど、救える“系”はある、と信じ直す。
“系”は網だ。自分たちは結び目で、結び目の位置を少しずらせる。
ずらしたぶんだけ、別の誰かの一拍が、間に合う。
それで十分だ。
十分では足りない夜もあるが、今は十分で、次にすすむ。
天秤の間で、蒼は手袋を外し、掌に残った粉の白さを見た。
それは、現場の光ではなく、この部屋の静かな灯りの下でも白い。
粉は、約束の砂とよく似ていた。
粉は指から落ち、皿の筋に混じって見えなくなる。
“残したい像”は、粉のように細かい。
細かいものが、呼吸を支える。
◇
灯――〈時〉の刻印の余韻。
母の冷蔵庫に、“山の買い物リスト”。
――レインウェア(軽いの)
――靴下(厚手)
――渋皮煮用の栗(大ぶり)
――きび砂糖
――ドライヤーのフィルター
紙の端に、母の癖の小さな顔がある。笑っていないのに、見ていると笑ってしまう顔。
台所の隅に、保存瓶が並ぶ。
まだ何も入っていない。入っていない瓶が、光を持っている。
空の容器の明るさは、約束の明るさに似ている。
中身が決まっていないからこそ、光る。
決める権利がまだ残っているから、光る。
秋の風が、部屋を抜ける。
母が、空のマグカップに手を添える。
湯気はない。けれど、指先は温かそうに見える。
窓際の椅子の上に、登山雑誌が開きかけのまま表紙を上にして置かれている。
母はそれを開かない。開かないで、ページの厚みだけで季節を想像する。
“山のコースタイム”という文字のすぐ横に、小さく“灯は下りが速い”とメモがある。
言葉の横にある文字のほうが、生活の温度を上げる。
“速い”で、カップの底の影が少しだけ丸くなる。
交差点の花束は消えない。
雨に濡れ、日に乾き、また雨に濡れ、色は薄れる。
その隣に、小さな登山バッジが置かれる。
青い山の稜線。頂上に白い点。
誰が置いたのかは、分からない。
「ありがとう」を言う人は、毎回違う。
違うけれど、バッジの形は同じ。
同じ形が重なって光るとき、祈りでない何かが働いている。
天秤の間で、灯は悟りに似たものを取り扱う。
“約束は、実現しないとしても、生きる人の姿勢を支える”。
決意ではない。
姿勢だ。
背筋を伸ばすでも、肩をすくめるでも、どちらでもいい。
その人が息をしやすい角度で立てること。
それを支える。
支えた痕跡は、冷蔵庫の紙の端や、空の保存瓶の光や、枕元の付箋の裏に残る。
灯の“残したい像”は、誰かの手に触れないまま、その手の温度を少しだけ上げる位置に置かれた。
◇
四人の選択は、奇蹟ではなかった。
死は変わらない。
けれど、生活の温度が、変わった。
温度は、涙の代わりに働く。
涙は流れ、温度は残る。
残るものが、次の背中を押す。
梓は、送られてくるメッセージの文末の“ね”の位置が、以前より少し後ろに下がっているのを見て、息を整えた。
廉は、ポケットの紙片“BR-7000”の角が丸くなっていくのを指で確かめながら、ガレージの蛍光灯をひとつ、明るいものに替えた。
蒼は、休憩室の壁の“声かけ”の紙の下に、鉛筆で小さく三本線を引いた。誰かが見落としてもいい、見つけた人だけが分かる印。
灯は、母の手帳の新しいページに、細い付箋を二枚重ねて貼った。上の付箋は“山”、下の付箋は“帰りの温泉”。重ねる角度を半度ずらし、二色の端が、斜めに見えるように。
直接の再会はない。
それで十分だと思える瞬間が、日々のどこかに置かれる。
置かれた場所は、毎日は変わらない。
変わらないけれど、温度が違う。
違いは、スタンドライトの色温度や、冷蔵庫の音の高さや、スマホのバイブの持続時間や、ハンドマイクのわずかな擦過音に現れる。
生活は、音程で温度を教えてくれる。
◇
天秤の間に、風はない。
なのに、壁の雨粒の地図が、乾いていく。
乾きながら、色が濃くなる。
濃くなるのは、痕跡が意味を持ったからだ。
私たちは、天秤の前で立つ。
四人、それぞれの“残したい像”が、等身大になった。
理想でも悪夢でもない。
等身大は、写真で見ると物足りない。けれど、鏡で見ると、やっと呼吸が合う。
その合致が、いまは救いだ。
案内人が、一歩だけ近づく。
黒い布の縁取りが、金の細い線で、部屋の淡い光を受けた。
「天秤はあなたがたを量ったのではありません」
案内人は、針に触れずに言う。
「あなたがたが、自分の重さを、分け合ったのです」
量る、ではなく、分ける。
分けた先は、他人の背中であり、自分の明日であり、部屋の隅の保存瓶であり、壁の紙の角であり、バッジの銀色であり、紙ナプキンの端のインクの滲みだ。
分け合った重さが、奇蹟の代わりに働く。
奇蹟は起きない。
起きないのに、世界は少し良くなる。
“良くなる”は、誰のものでもない。
私たちが握っていたものの温度が、冷めにくくなるだけだ。
案内人は、天秤の柱から手を離し、背を向けた。
背中越しに、最後のひと言を残すでもなく、扉のほうへ歩いていく。
扉は、まだ閉じたままだが、縁が薄く光る。
終章の用意ができている。
砂の匂いはさらに薄れ、代わりに、栗の渋皮を剥いたときの甘い皮の匂いが、どこからか届く。
それは、約束の味だ。
奇蹟ではない。
けれど、温度は、確かだった。
私たちは、同じ湿度を吸い、同じ長さで吐いた。
それぞれの“残したい像”を胸の内側に立て、等身大の重さを確かめる。
重さは、歩幅に合っている。
歩幅が、次を選ぶ。
私たちの次は、もう、定規や規定や罪状で測るものではない。
紙ナプキンと保存瓶と、壁の紙の角度で、測れる。
天秤の針は、揺れない。
揺れないことが、いまの私たちを許している。
その許しは、赦しとは違う。
ただ、立つことを許す。
立って、見る。
窓越しに、背中越しに、SNSの断片越しに、部屋の配置越しに。
間接の像のほうが、約束の芯に近いことを、ようやく知ったのだ。
扉の縁の光は、少しだけ強くなる。
終章は、光の向こうにある。
奇蹟は、ない。
けれど、約束は、ある。
その事実だけが、私たちを前に押す。
押すのではなく、支える。
支えられた背は、まっすぐでも曲がっていても、どちらでもいい。
どちらでも、歩ける。
その歩ける、が、やっと私たちのものになった。
部屋の湿度が、わずかに下がる。
深呼吸が、少しだけ浅くても足りるようになる。
天秤は、静かにそこにあり、壁の地図は静かに乾き、砂の筋は、崩れないまま、薄明かりをまとっていた。
奇蹟のない世界の、優しい手順。
その手順の先で、約束は、形を持ち続ける。
私たちは、目を上げた。
終章へ向かう合図は、もう、出ている。
背筋の温度が、それを知っていた。



