扉が静かに閉じたあと、天秤の間の匂いが変わった。
 湿った金属の底に、乾いた鉱物が混ざる。砂の匂い。さっきまで皿の上でわずかに波打っていた見えない水は、夜のうちに蒸発したらしい。残ったのは、極小の粒子。雨がやんだあと、アスファルトの端にだけ薄く残る砂。
 皿の上で砂は、風もないのに音もなく移動して、ひとつの筋を作っていた。何度も、誰かが同じところを踏みしめたみたいに。
 案内人は天秤の柱に触れて、その筋の先端に視線を落とすだけで、何も言わなかった。言葉を節約することが、いまは正確だった。

 円卓はもう片づけられている。代わりに、低い台座が四つ、等間隔に置かれていた。台座にはそれぞれ、細い溝が小さく刻まれている。〈詞〉の刻印と、〈時〉の刻印。昨日、案内人が見せた文字が、ここでは触れられる形になっていた。
 溝は、ほんのわずかに光っている。濡れた街灯の足もとみたいに、温度は低いのに、存在だけが濃い。

「順番は、梓、廉、蒼、灯」
 案内人が告げる。「灯を最後にしなさい。約束は、最後に結ぶとほどけにくい」

 私たちは頷いた。
 六月二十七日、午後一時四十八分。
 交差点の地図は壁に薄く残り、雨粒のテクスチャだけが淡く増減している。
 最後の選択。
 選び終えたあと、砂は止まるという。
 止まった砂は、確定の合図になるという。
 確定――言葉の重さに似合わない、事務的な音がした。

     ◇

 最初は――梓。

 台座の前に立つと、〈詞〉の溝の光が、わずかに脈を打った。呼吸の速さに合わせるみたいに。
 私は深呼吸を二つ重ねる。胸の奥で、幼いときに呑みこんだ唾の味がした。あれは多分、嘘を覚えた頃の味だ。

 私は、婚約者――彼――に渡す言葉を、頭の中で並べ直す。
 『愛してる』は、残す。
 でも、それで全部を包まない。
 包む言葉は、何でも包み込めるけれど、中の形は見えなくなる。
 今日は、見えるまま渡す。
 丸めない。
 角は角のまま。
 尖ったところは、尖ったまま。

 指先に、目に見えないペンを持つ。
 私は、円卓のときに決めた自分の芯――〈詞〉――を思い出す。言葉が傾けるのは、相手の“次の一歩”の角度だけ。押し流さない。傾けるだけ。
 彼の足は、彼のものだ。
 私の“愛”は、彼の今日を軽くするほうへ働きたい。
 私の“正直”は、私を薄くするほうへ働いてしまうだろう。
 それでも、ここで歪めたら、〈詞〉は嘘になる。

 私は、書き始める。

 ――愛してる。
 ――でも、合わせるのは、もうやめる。
 ――私が行ける日は、行く。行けない日は、行かない。
 ――あなたの山に、私を合わせないで。
 ――あなたの今日が、あなたの足の跡で満ちるのを、私の好きは邪魔しない。
 ――あなたの「今度」は、あなたのために使って。

 言葉の配列を、ほんの数ミリだけ替える。
 『愛してる』の前に、『でも』を置くか置かないかで、誰かの夜の湿度は変わる。
 私は、置く。
 彼の耳に届いたとき、少しだけ重くなる順番。
 重さは、天秤に乗るはずだ。
 その重さを、世界はどこかから借りるだろう。
 借金の当てが、私の胸であることは、もう分かっている。

 刻印先を、選ぶ。
 “事故の朝より前”。
 スマホの画面の中に、見えないカレンダーが広がる。歯車がひとつ噛み合う音が、耳の裏でする。
 六月二十七日の、午前六時二十八分。
 駅のベンチに彼が座る前の時間。
 私が嘘を打つ前の時間。
 そこへ、言葉を滑り込ませる。
 “送信”はしない。
 “刻む”。
 〈詞〉は、画面の奥ではなく、彼の心の浅いところに触れて“角度”を傾ける。
 ――自己決定を、ほんの少し強く。
 天秤の皿が、ほんのわずかに鳴った。微かな金属音。空耳かと思うほどの、乾いた響き。

 代償は、すぐに現れた。
 スマホの音楽アプリの“共有プレイリスト”から、“二人の曲”が二つ、消える。
 何度もループしたイントロが、指先の感覚から抜けていく。
 彼が私のためにつくってくれたミックスの、四曲目と七曲目。
 再生ボタンを押すと、空白が流れる。
 “項目が見つかりません”。
 短い英語の文字列が、胸板の裏側に貼りつく。
 痛い。
 でも、私の痛みは、彼の軽さへ流れていくための坂道だと思う。
 私は、胸の内側に短く言う。
 ――軽くなって、生きて。
 ――あなたの「今日」を、あなたで満たして。
 言い終えると、胸の奥の古い苔が一枚剥がれる。剥がれた下から、新しい緑がのぞく。
 うつむいた視界の端で、〈詞〉の溝の光がふっと弱まり、すぐに戻った。
 刻み終えた合図だった。

 ひと呼吸置く。
 指先の、見えないペンが消える。
 私は、台座から半歩下がった。
 足もとで砂が小さく鳴る。
 砂は、確定の準備を始めている。

     ◇

 次は――廉。

 廉は台座の前で、両手をぶらさげたまま、空気を握るみたいに指を曲げて伸ばした。
 〈詞〉の溝に、迷いの影が落ちて見えた。彼は昨日、〈時〉を肩にかけると言っていた。けれど、最後の選択の前では、〈詞〉の刃を鞘から出すほうを選んだらしい。

「言葉で行く」
 廉は、小さく言った。「行動もやる。でも、まずは言う。逃げないやつになる、その第一歩は、言うことだ」

 彼は、見えないペンを握り直す。
 “友”の名前を心の中で呼ぶ。
 ブレーキワイヤーの被膜のきしみが、指の腹に甦る。
 あの夜の笑い声が、半拍遅れてついてくる。

 ――明日、一緒に部品を買いに行こう。
 ――金は、俺が出す。
 ――いいか、これは「貸す」じゃない。「替える」だ。
 ――だから、明日、仕事が終わったら、ここに来い。
 ――時間は、俺が作る。

 言葉は、相手を責めない順番で。
 小さな意地を折るために、大きな意地を立てない。
 彼は順序を変えた。“金”を先に言う。そこから逃げ道を塞ぐ。
 『貸す』の代わりに『替える』。
 審判台の上からではなく、同じ床の上で言う。
 彼は、唇の裏を噛む。血の味がするかどうかを確かめるみたいに。
 “明日”という言葉は、薄い笑いで使うと滑って遠くに行く。
 厚みをつけて渡すために、彼は自分の“今”を削って空ける。
 〈詞〉は、彼の声の太さで働く。彼の太さは、昨日よりも少しだけ太かった。

 刻印先は、事故の前夜。
 ガレージのシャッターを半分だけ開けて、夜気が足もとから入ってきた時間。
 スマホの画面に、見えない時計が浮かぶ。
 六月二十六日、午後十一時四分。
 缶コーヒーの甘さが、喉に残っていた時間。
 そこへ、廉の言葉は落ちる。
 “送信”の代わりに、“刻む”。
 友のポケットの中で、紙片の上に“BR-7000”の文字が一度濃くなり、誰にも見えないほどわずかに、大きくなる。

 代償は、やはり来た。
 彼らが夜更かしで交わした“他愛ない話”が、幾つか薄れる。
 “どっちのラーメンが旨いか”の論争の、笑いの間合いが一拍消える。
 “いつまでこの町にいるか”の問いの、答えの偽りない苦笑が、不透明になる。
 胸の中に立つ電柱の影が、短くなる。
 廉は、ノドの奥で小さく言った。「今度は、昼に笑える」
 夜を削ったぶん、昼に笑いを置く。
 その置き場所を、彼は自分の中に作った。
 〈詞〉の溝が、ゆっくりと明滅を止める。
 刻み終えた合図。
 廉は、台座からひと足下がり、肩を回す。
 背中の筋肉が、硬さの層をひとつ剥いだように見えた。

     ◇

 三番手は――蒼。

 蒼は、台座の前で立ち止まり、〈時〉の溝に手をかざした。
 光が、指の骨の形を透かして見せる。流れているのは光ではなく、“時間に触れる感覚”そのものだった。
 蒼は、息を整えた。救急車の中でルートを確認する前の、あの呼吸。

「〈時〉は、俺に返す」
 蒼の声は、低く落ち着いていた。「“規定の陰”の俺に、もう一回、歩幅を渡す」

 彼は、言葉をできるだけ小さく、ミニマムな仕様にする。
 現場の空気は、余計な修飾語を死なせる。
 だから、必要な名詞と動詞だけ。
 “間に合う”“繋ぐ”“壊すな”。
 語尾の選択は、呼吸に合わせる。
 自分の心拍を、他人の命のリズムに連結させない。
 それが、今日この瞬間の“正しい”。

 ――間に合った分で世界は繋がる。
 ――間に合わなかった分で、自分を壊すな。

 これだけ。
 たったこれだけを、現場到着前の自分に返す。
 『俺は、こう思う』を、車内の振動の中に置く。
 手袋をはめる秒数を、ゆっくりにするための言葉。
 ハンドマイクに口を寄せる角度を、ほんのわずか変えるための言葉。
 〈時〉は、過去の自分に預けっぱなしにした約束を、現在の自分に返す。
 返すとき、道が作られる。
 その道は、交差点へではなく、これからの未知の現場に伸びていく。

 刻印先は、六月二十七日の午後一時四十二分。
 サイレンが遠くに滲む駅前の角。
 ラミネートの“声かけ”ポスターを、心の目で読み直した直後。
 蒼は、そこで“刻む”。
 言葉は、行為の手前でふくらみ、衝動の角をひとつ削る。
 救命率という勾配に、微細な曲率が加わる。
 現場は、待たない。
 待たないけれど、言葉は“待たない中で働く”。
 それが、蒼の選択。

 代償は、やはりあった。
 新人時代に先輩からもらった、あのフレーズ――“焦るのは血だけでいい、頭は歩け”――が、少し曖昧になる。
 壁の裏に隠れていた鉛筆書きの痕が、消しゴムで軽くなぞられたみたいに薄くなる。
 蒼は、眼差しを下げずに言った。「本質は、受け継ぐ」
 先輩の言葉の“芯”――焦らせない、歩かせる――は、もう蒼の中に骨として残っている。
 フレーズが薄れても、骨は残る。
 その骨で、次の誰かの呼吸を支える。
 〈時〉の溝の光が、すっと消え、すぐに常温に戻る。
 刻印、完了。
 蒼は一歩下がり、肩で息をひとつ吐いた。吐いた空気は、部屋の湿度にまぎれて消えた。

     ◇

 最後は――灯。

 灯は、〈詞〉の前で立ち止まりかけた。自分の芯はそちらにあると、昨日は言った。
 けれど、案内人の言葉――「約束は、最後に結ぶとほどけにくい」――が、灯の耳の裏でひっそりと震えた。
 灯は、視線を〈時〉へ移す。
 〈時〉の溝は、他のときよりも静かに光っていた。
 灯は、掌を開いて、そこに見えない鍵を置くみたいに空気を受け取る。

「行くのは、〈時〉」
 灯は、自分に言い聞かせるように、そして私たちに聴かせるように、同時に言った。「約束を、結び直す」

 刻印先は、交差点ではない。
 “母の手帳を勝手に捨てた午後”。
 灯は、その午後を思い出す。
 春の終わり、窓を全開にして、家の紙類を整理した日。
 机の隅に山になっていた古い手帳――表紙の端が丸くなって、背がほつれ、ところどころにレシートやメモが貼りついて分厚くなっていた。
 灯は、あの日、それを“捨てた”。
 母は風呂掃除をしていて、声は届かなかった。
 箱に入れたとき、手帳は軽かった。
 軽いことを“正しい”と呼んだ。
 呼んだ直後、胸が少しだけ痛んだ。
 その痛みを、“片付け疲れ”だと誤魔化した。

 灯は、目を閉じる。
 手帳の一ページ目に、小さな走り書きがあったはずだ。
 ――秋にもう一度、山へ。
 誰の字だろう。母の字に似ていて、でもどこか父の癖が混じっていた気がする。
 あの“約束の種”を、灯は捨てた。
 だから、いま、拾いに行く。

 灯の十二時間は、具体のために配る。
 運転免許の申し込み。
 申請ページを開いて、必要書類の写しをそろえ、予約のボタンを踏む。
 日程の仮押さえ。
 秋の初め、母の仕事が入らない曜日に丸をつける。
 登山靴を見に行く計画。
 母の足の幅をメジャーで測る。「幅広」「甲高」の項目にチェックを入れる。
 宿の候補を三つに絞る。
 「標高は低め」「温泉」「膝に優しい」と検索欄に打つ。
 “渋皮煮の実演”がある宿を見つけて、思わず指先が笑ってしまう。
 新しい手帳を買ってくる。
 捨ててしまった手帳に似たサイズ、似た色。
 表紙の内側に、薄い付箋を仕込む。
 ――秋にもう一度、山へ。
 今度は、灯の字で。
 約束は、誰かの字を真似ることでつながることがある。
 母には言わずに、冷蔵庫に貼る。
 貼る前に、付箋を一枚、母の枕元の本に挟む。

 〈時〉は、灯の歩幅を変える。
 しずかな準備は、約束の温度を上げる。
 交差点の死は、変わらない。
 それでも、“次の秋”の温度は、ほんの少しだけ変えられる。
 旅の天気は、選べない。
 でも、靴のサイズは、選べる。
 選べるものを選ぶ。
 それが灯の最後の選択だ。

 刻印の瞬間、過去の“捨てた午後”の手元に、薄い影が差した。
 箱に落ちたはずの手帳が、ふと、手のひらの上に戻る。
 戻ったわけではない。
 “捨てない”と決めた可能性のほうへ、灯の歩幅が傾いただけ。
 傾きは微小。
 けれど、秋までの日数を歩いた先では、違う景色に出るだけの角度はある。

 代償は、すぐに訪れた。
 アルバムの中の、家族旅行の一枚が、あいまいになる。
 海の青が砂糖で薄められたみたいに白んで、父の帽子の色が判別できなくなる。
 痛む。
 灯は、その痛みを抑え込まない。
 胸の上に置き、息を通す。
 代わりに、“未来のメモ”が鮮明になっていく。
 冷蔵庫の扉に、母の字で書かれた紙片が増える。
 ――灯の濡れ髪は冷風で。
 ――山のレインウェア(軽いの)。
 ――ドライヤーのフィルター掃除(来週)。
 ――栗は大ぶり。
 灯は、それを見て、微笑む。
 “死は変わらない”が、“残された母の秋”の温度は、違っていい。
 違ってよくて、その違いを作るのが、いまの灯の仕事だ。

 〈時〉の溝の光が、やわらかく消える。
 刻印、完了。
 灯は、台座から離れ、私たちの方を見た。
 その目は、涙で濡れてはいない。
 でも、涙が来る前の光沢が、薄くあった。
 それは、約束の表面にできる薄い膜に似ていた。割れやすく、でも、わずかに光る。

     ◇

 四人が戻ると、天秤の上の砂が、音もなく動きを止めた。
 粒子の列は、皿の縁から縁へ、ひとすじの線を描いたまま、静止する。
 線の真ん中に、細い針が下りてきた。
 針は、微かに震え、最後に“水平”で落ち着く。
 空気が、すっと軽くなったように感じたのは、気のせいだったのかもしれない。
 いや、たぶん、気のせいではない。
 世界は、いま確定の下りに入った。
 案内人が、そう告げた。

「これより、確定の下りがあります」
 案内人の声は、雨上がりの道路標識みたいに清潔だった。
「あなたがたの〈詞〉と〈時〉は、それぞれ選んだ時間へ刻まれ、配分が完了しました。代償は支払われ、返済は始まっています。ここから先は、世界のほうが歩きます」

 私たちは、互いの顔を見た。
 梓は、胸に手を置いた。“二人の曲”の空白が、胸板の裏で音もなく光っている。
 廉は、ポケットの紙片を指で確かめた。そこに書かれた“BR-7000”の文字が、昨日よりわずかに写実的に見えた。
 蒼は、目を閉じて、耳の奥でサイレンの余韻を確認した。そこに混じる先輩の言葉は薄い。でも、骨は残っている。
 灯は、手帳の質感を指で思い出し、それがもう紙というより“秋の空気”の手ざわりであることに、少しだけ胸がふるえた。

 誰も、他者を責めなかった。
 誰も、自分を赦しもしなかった。
 赦すのは、確定のあとでいい。
 確定の手前では、ただ“選ぶ”。
 選んだことを身体に馴染ませる。

「終章へ」
 案内人が言う。
「扉は一枚。開くのは一度だけです」

 壁の地図の雨粒が、最後に一度だけ光った。
 六月二十七日、午後一時四十八分。
 その数字の右で、まだ見えない文の最初の一文字が、かすかに呼吸したように揺れた。
 私たちは、同時に頷いた。
 視線は、円を描いてから、まっすぐ前へ。
 扉の縁は、もう見える気がした。
 砂の匂いは、静かに薄れていく。
 代わりに、栗と雨の匂いが、遠くのほうから近づいてくる。

 終章の名を、まだ誰も知らない。
 でも、そこに行く脚は、もう用意ができていた。
 灯の靴ひも。
 蒼の手袋。
 梓のスマホの画面。
 廉の工具箱。
 それぞれの場所で、それぞれの音が、同じ静けさに溶けていく。

 天秤の針は、揺れない。
 私たちは、前へ。
 雨は、また降り出すかもしれない。
 それでも、歩幅は決まっている。
 最後の選択は、もう、過去形だ。
 これから見る景色は、未来形でしか書けない。

 扉が、音もなく、開いた。
 私たちは、同じ湿度を吸い込み、同じ速度で吐いた。
 その呼吸の合図で、終章が始まった。