天秤の間の湿度は、もう部屋というよりも外気に近かった。見えない雨が、壁の向こうで静かに降っている。
壁に滲んだ雨粒の痕は、昨日よりもはっきりとした線を帯び、四方から集まって一点で交わる。その交点のまわりに、極小のしぶきが弾ける。
部屋の中央には、これまでなかった円卓が置かれていた。天秤の土台から伸びた真鍮の軸の上に、薄い円盤が浮いている。表面は木目に似せてあるが、手で触れると金属の冷たさが返ってくる。四つの椅子が、等間隔に沈黙していた。
案内人は、私たちが席に着くのを待っていた。黒い服の縁取りはやはり金で、光を吸いも弾きもしない。
「ここは、責め合いの場ではありません」
案内人は、それだけ言うと後ろへ下がった。
「“闇は集う”。けれど、集めるのは誰の罪かではなく、真実に与える名前です」
灯、蒼、梓、廉。
互いの顔を見る。雨の匂いのような視線が、円卓の上で交差して、それぞれの胸の内側に落ちていった。
最初に、灯が話した。
◇
「交差点の手前で、私は、母の肩に手を置いた」
灯の声は乾いていた。乾いているのに、舌の上でほどける湿度がある。
「ほんの少し、引いた。ほんの少しだけ。死は変わらないって、頭では分かっていた。だから禁忌を言わないと決めた。『死ぬよ』を言わないことで、世界の糸を守るつもりでいた」
灯は、円卓の端に並んだ小さな刻印に目を落とした。刻印は、針の目のように細い穴で、ひとつずつ光を抱えている。
「その直前、スマホを出した。母の歩幅に合わせて、横断歩道の端で片手で打った。――『大丈夫』って。『大丈夫、雨は弱いし、駅まですぐだから』」
灯は、指先で自分の掌を撫でた。そこにもうスマホはないのに、打鍵の感触が遅れて戻ってきたかのように。
「それが、いま、刃みたいに胸に刺さる。軽かった。あのとき、私は、もっと幼く泣けたはずだった。『怖い』って言えたはずだった。母の手を、子どもみたいに握りしめられた。泣いて足を止めさせることは、禁忌じゃなかったはずなのに。私は、大人のふりをして、『大丈夫』を使った。軽さは、便利だった。……だからいま、重い」
灯は、息を吐いた。
「初詣の写真が、ぼやけたままなの、見た。母の手帳の“山”は鮮明だった。私はそれを“良いこと”だと思いたい。思いたいのに、父の笑い声の高さが思い出せなくなると、身体が別の判断を下す。『間違えた』って。
本当は、間違いじゃないのかもしれない。上書きの痛みは“返済”のようなものだと、頭では理解してる。それでも、私は『大丈夫』を選んだ自分に、いまも腹が立つ。私は、もっと幼く泣けた。泣いてよかった。泣くのは、重さを置く行為だって、ようやく分かったのに」
円卓の向こう側で、蒼が小さく頷いた。灯の言葉は、円卓の中央を通過して、彼の胸骨の裏に刺さったが、矢印は灯自身へ向け直されていた。刺すためではなく、位置を確かめるために。
◇
蒼が、口を開いた。
「三件同時の要請。優先順位は、教本に書いてある。俺は、それに従った。それ以外の選択肢を検討する時間は、なかった」
蒼は、指先でテーブルの縁を一周りなぞった。金属の涼しさが、指の腹から肘にかけて上がってくる。
「でも、本当はあったんだ。時間じゃない。言い方の、余白だ。呼吸を一つ整える間に、自分の声でひとこと言えたはずだった。『俺は、こう思う』って。規定は盾じゃない。目安だ。盾にしてしまったのは、俺だ」
蒼は、壁の地図に目を向ける。六月二十七日、午後一時四十八分。
「俺は、規定の陰に隠れていた。優先順位を“事務的に”処理した自分を、いまは嫌悪している。正しいことが、悔いないことと一致しないって、まさかとは思っていたけど、現場に立ち続ければいつかはぶつかると、どこかで怖れていた。
先輩の声が薄れていくのを見て――『焦るのは血だけでいい、頭は歩け』――俺は、新しい紙を貼った。『間に合った分が、誰かの世界を繋ぐ』。
そのときは、自分を励ますためだった。でも、その紙の角が増えるたび、先輩の言葉の輪郭が壁から消える。公のためだと分かっていても、俺の中の“個人的恩”が薄れていくのが、こんなにも痛いとは思わなかった」
蒼は、自嘲した。
「滑稽だよな。俺は、いまさら『規定の陰に隠れていた』なんて言う。隠れていた場所は、あたたかくて、正しいふりができた。……でも、あの交差点に対して、あの“雨の時間”に対して、俺は自分の声で責任を負うのが怖かった。
いまは、怖さの名前は言える。言えるけれど、遅い。遅いことを認めて、なお前に進む、それが俺の『告白』だ」
梓の喉が一度だけ鳴った。自分の番が近いことを、身体のどこかが知っていた。蒼の言葉は彼女の心臓も刺す。けれど、やはり矢印は蒼自身へ戻る。責めるのではなく、輪郭を取る。
◇
梓は、指を組んだまま、円卓の上に小さく置いた。
「私が『ごめん』を言わずに、『行けるかも』を繰り返していた日々がある。彼は、私に合わせ続けた。善良さの根拠を、私は利用した。……怠慢だよね」
梓は、黙って笑った。笑いは、湿度に溶けていった。
「遅刻を恐れて嘘をついた朝、私は、自分の表情を見てしまった。言葉の角を丸くして、相手の呼吸に合わせる“癖”。それが、彼から“ひとりで選ぶ癖”を奪っていったと、やっと分かった。
あの日、私は、彼を呼び出した。『もう少しで着く』って送って、彼は改札の屋根の下で傘を閉じて、時間を私のほうへ寄せてくれた。交差点は、その“呼び出した時間の先”にあった」
梓の視線は、壁へ。交差点の四角が、雨の粒で縁取られている。
「私は、正直であることが、ここでは痛いって知った。正直に『行けない』と言えば、彼はきっと、別の道を選ぶ。登山サークルに行くかもしれない。彼の写真が増える。彼が『今日』を選ぶ回数が増える。私と彼の“合わせ合い”の記憶が薄れ、ポイントカードが消える。
それでも、正しい。……正しいのに、私は自分の胸を撫でながら、『ずるい』とつぶやく。世界が彼のために正しく動くとき、削られるのは私のほうだと感じてしまうから。
『ごめん』も『ありがとう』も入れずに、ただ『行けない』と送るために、私はここにいる。告白とは、たぶん、私の中のずるさに名前を与えることだ」
廉が、うなじを一度さすった。自分の番までの距離が縮まる。梓の言葉は彼の皮膚にも刺さる。だが刃先は梓に向き直される。責めるのではなく、配置する。
◇
廉は、拳を開いたまま、円卓の上に置いた。爪の白い跡が、じんわりと肌色に戻っていく。
「ブレーキの異音に気づいていた。『替えたほうがいい』と言えた。言った、とは言える。言ったけれど、金のことに触れるのが怖くて、手前で止めた。
『今は無理だ』って言われたとき、俺は『じゃあ、明日』と笑った。笑い方が、今思えば薄かった。薄い笑いの裏で、俺は『ここで踏み込むと嫌われる』って計算していた。それが俺の“小ささ”だ」
廉は、壁の地図を見る。
「事故の知らせは、スマホのニュースで知った。現場に駆けつけなかった。怖かった。俺が“言えるやつ”じゃないことを突きつけられるのが、たぶん一番怖かった。
翌日、ガレージに行って、工具箱を見た。並び順が変わっていた。アプリの購入履歴が増えていた。『役に立つほうへ記憶の予算が再配分される』って、頭では納得している。友の死は変わらない。でも、俺の宝物――夜更かしの話の時間――が薄れていくのは、やっぱり理不尽に見える。
天秤を殴りたい夜があって、でも灯が『消えるのは無かったことじゃない。渡した重みの行き先が変わるだけ』と言った。……言ったやつがここにいるから、殴らずに済んだ。
それでも、俺は逃げたやつだ。『ニュースで知った自分の卑怯』だ。あの夜の俺に名前をつけるなら、卑怯だ。だからここで言う。俺は卑怯だった。次に“卑怯”と呼べる場面が来たら、そこに『行く』。それが、たぶん俺の告白だ」
四人の言葉は、互いの心臓を刺した。
灯の「大丈夫」に、蒼は自分の“事務”の影を見る。
蒼の「規定の陰」に、梓は自分の“善良さへの寄りかかり”の輪郭を見る。
梓の「正直の痛み」に、廉は自分の「薄い笑い」を拾う。
廉の「卑怯」に、灯は自分の「幼く泣けなかった」を重ねる。
けれど、その刺す矢印は、それぞれの胸の内側へ向いていた。
円卓の中央には、誰の責めも置かれない。
置かれたのは、名前のついた事実だけだ。
案内人が一歩、前に出た。
「よく、言葉になさいました」
それは、賞賛でも慰撫でもない。事実の確認の響き。
「“闇は集う”。それは、責め合うためではありません。“真実に名前を与える場”です。名前は、次を決めるために必要です」
案内人は、円卓の縁に指を置いた。金属面に波紋が走る。
「少しだけ、天秤の仕組みを明かします」
指先から走った光が、円卓の中心に二つの記号を描いた。
〈詞〉と、〈時〉。
どちらも、雨のしずくを含んだ文字で、縁に薄い虹を宿す。
「〈詞〉で刻んだ言葉は、相手の“次の一歩”のベクトルだけを傾けます。押し流すのではなく、傾けるだけ。角度は微小でも、歩数が進めば、行き先は変わる。
一方、〈時〉は“自らに帰る約束”を取り戻す性質が強い。言い換えれば、過去の自分に預けて置き去りにした“約束”の座標を、現在の自分に返す。〈時〉は、あなたの歩幅を変え、歩幅が変われば、見える景色も変わる。
どちらも、世界全体の配分に微小ながら影響を与えます。重さの再配分は、あなたがたの選ぶベクトルの総和で決まります」
灯が、〈詞〉の文字を見つめた。
蒼が、〈時〉の文字に手をかざした。
梓は、二つの文字の間に視線を往復させた。
廉は、無意識にポケットの紙片――“BR-7000”と書かれた薄いメモ――を指で探し、触れ、そして手を戻した。
「選びなさいとは言いません」
案内人は、首を傾ける。
「ただ、自分の芯が、どちらの性質に強く惹かれているかを、知ってください。芯を知ると、次の十二時間の使い道が、ぶれにくくなります」
灯が、最初に口を開いた。「私は、〈詞〉だと思う。母に渡す言葉の角度を、変えたい。『大丈夫』の代わりに、泣く言葉を持ち帰る。子どもみたいな言葉を軽蔑しないで、置く。母の次の一歩の角度は、私の言葉で傾く。……傾けたい」
言い終えると、灯の喉がわずかに上下した。なにかを飲み下す仕草は、羞恥ではなく決定の合図に見えた。
蒼は、少し間を置いた。「俺は、〈時〉に引かれる。規定に隠れた自分に名前をつけた。なら、次は、過去の俺に預けっぱなしにした『俺の声』を取り戻す。現場で『俺は、こう思う』と言う約束を、自分に返す。歩幅を変えるのは怖いけれど、頭を歩かせるのは俺の仕事だ」
彼の横顔には、先輩の言葉の影が、薄く濃く揺れた。
梓は、両手を円卓に置いた。「私は、〈詞〉と〈時〉のどちらにも手を伸ばしたい。でも芯は、〈詞〉なのだと思う。彼に『行けない』を渡す。『好きだけど、行けない』を渡す。『あなたの今日を軽くするために、私は薄くなる』を渡す。……それを口にするとき、同時に〈時〉で自分の約束も回収したい。『合わせない』って、私は自分に約束する。それは、私の歩幅の話」
彼女は小さく笑い、すぐ消した。その笑いは、湿度に吸われて跡を残さなかった。
廉は、俯いてから顔を上げた。「俺は、〈時〉だ。あの夜、逃げた。なら、次は“行く”。『明日』と言ったら、明日に行く。約束を守る側に自分を置く。それから、〈詞〉で――金の話を言う。怖いって言ってから言う。『貸すから』じゃなく、『替えよう』って言う。順番は、約束が先だ。俺は、行くやつになる」
言い切ったあと、廉の肩が、少しだけ軽くなった。肉体が判断したのだろう。芯の方向を。
円卓の中央に、四つの薄い光が灯った。
〈詞〉〈時〉〈詞〉〈時〉。
光は、互いに干渉せず、細い糸で天秤の針へ結ばれている。糸は雨の匂いを運ぶ。
壁の地図に、新しい矢印が出現した。交差点の四隅から、それぞれ微小な角度で、先の見えない方角へ伸びていく。
矢印の角度は小さい。だが、距離が延びれば、十字路を越えて別の街に至るほどには、違いが出るだろう。
案内人は、その矢印を見て頷いた。
「この場で“誰の罪か”を決めてしまうのは、簡単です。簡単で、危険です。罪の線を一本にしてしまうと、あなたがたの矢印は、そこで止まる。
罪を名付けるかわりに、事実に名前を与えた。『大丈夫の軽さ』『規定の陰』『合わせる怠慢』『明日という卑怯』。名前があれば、次に傾けるベクトルが見える。
闇は、集まり、ほどけます。ほどける先は、あなたがたの選んだ〈詞〉と〈時〉が決める」
沈黙が、円卓の上に薄く敷かれた。
それは重くはない。足音を吸収する絨毯のような沈黙だ。
私たちは、互いの目を見た。
灯の瞳は、にじむことを恐れていないように見えた。
蒼の瞳は、深い水面の底で小さな魚が方向を変えるみたいに、意志の光を寄せていた。
梓の瞳は、言葉を選ぶときの、少し前の静けさを湛えていた。
廉の瞳は、照れや怒りや悔しさの層を剥いだ、その下の、まっすぐな細い光を見せていた。
円卓の縁に刻まれた針が、微かに震えた。
最初は、金属疲労のような微振動。やがて、雨粒が落ちた音と同期する。
案内人が、天秤の柱に指を置く。そして、静かに告げる。
「次の扉が開きます。最後の選択です」
壁の地図が、薄く明滅した。
六月二十七日、午後一時四十八分。
交差点の四隅から伸びる矢印の先に、まだ見えない場所の輪郭が、遠雷のように震えた。
最後の選択は、きっと、誰かを救い誰かを削る。
それでも、ここまで来た私たちは、選ぶ前に逃げることだけは、もうしない。
灯が、蒼を見た。
蒼が、梓を見た。
梓が、廉を見た。
廉が、灯を見た。
視線は円を作り、円は、円卓の上にもうひとつの見えない円を描いた。
四人は、小さく頷き合った。
だれも、言葉を足さない。
足さないことで、すでに十分だった。
針は、揺れを収めつつある。
次の一歩の角度は、もう、決まっていた。
湿度の高い空気を胸に入れ、私たちは、扉のほうへ目を向けた。
◇
扉は、まだ見えない。
けれど、手が鍵の形に馴染む。
灯は〈詞〉を掌にのせる。『大丈夫』の代わりに泣く言葉を、舌の裏に温める。
蒼は〈時〉を握る。『俺は、こう思う』を現場の空気に返す準備をする。
梓は〈詞〉を選び、〈時〉を帯として腰に巻く。『行けない』と『合わせない』を重ねて身につける。
廉は〈時〉を肩にかける。『明日』に行く足を、いまここで決める。〈詞〉の刃は鞘に入れ、必要な角度で抜く。
壁の雨粒の痕が、また少し大きくなった。
外はきっと、強く降っている。
案内人は、何も足さない。
足さないことで、扉のノブの冷たさだけが、はっきりする。
最後の選択は、たぶん美しくない。
でも、美しさよりも、湿度のほうが、いまは正確だ。
湿った言葉は、乾いた言葉よりも、重さを持つ。
重さは、天秤に乗る。
天秤は、針を震わせる。
私たちは、互いの目をもう一度だけ見て、それから視線を外に向けた。
六月二十七日の地図を、胸の裏で四つ折りに畳み直す。
四隅をなぞる。
角に集まる雨粒の感触を、指の腹に覚えさせる。
そのうえで、歩く。
誰の罪かではなく、どの言葉で、どの約束で歩くのかを、それぞれの芯に聞きながら。
“闇は集う”。
けれど、ほどけもする。
ほどけた先が、別々の明日であることを受け入れて、私たちは、円卓から立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音は、雨音に紛れてすぐ消えた。
扉の前に立つと、そこにはやはり何も見えなかった。
でも、目に見えないものを開けるのは、いつだって言葉と約束だ。
だから、私たちは、鍵を回す動作を、同時に行った。
針が、最後に大きく震えた。
扉は、静かに――そして確かに――開いた。
私たちは、同じ湿度を吸い込み、同じ温度で吐いた。
小さく頷き合い、足を、前へ出した。
壁に滲んだ雨粒の痕は、昨日よりもはっきりとした線を帯び、四方から集まって一点で交わる。その交点のまわりに、極小のしぶきが弾ける。
部屋の中央には、これまでなかった円卓が置かれていた。天秤の土台から伸びた真鍮の軸の上に、薄い円盤が浮いている。表面は木目に似せてあるが、手で触れると金属の冷たさが返ってくる。四つの椅子が、等間隔に沈黙していた。
案内人は、私たちが席に着くのを待っていた。黒い服の縁取りはやはり金で、光を吸いも弾きもしない。
「ここは、責め合いの場ではありません」
案内人は、それだけ言うと後ろへ下がった。
「“闇は集う”。けれど、集めるのは誰の罪かではなく、真実に与える名前です」
灯、蒼、梓、廉。
互いの顔を見る。雨の匂いのような視線が、円卓の上で交差して、それぞれの胸の内側に落ちていった。
最初に、灯が話した。
◇
「交差点の手前で、私は、母の肩に手を置いた」
灯の声は乾いていた。乾いているのに、舌の上でほどける湿度がある。
「ほんの少し、引いた。ほんの少しだけ。死は変わらないって、頭では分かっていた。だから禁忌を言わないと決めた。『死ぬよ』を言わないことで、世界の糸を守るつもりでいた」
灯は、円卓の端に並んだ小さな刻印に目を落とした。刻印は、針の目のように細い穴で、ひとつずつ光を抱えている。
「その直前、スマホを出した。母の歩幅に合わせて、横断歩道の端で片手で打った。――『大丈夫』って。『大丈夫、雨は弱いし、駅まですぐだから』」
灯は、指先で自分の掌を撫でた。そこにもうスマホはないのに、打鍵の感触が遅れて戻ってきたかのように。
「それが、いま、刃みたいに胸に刺さる。軽かった。あのとき、私は、もっと幼く泣けたはずだった。『怖い』って言えたはずだった。母の手を、子どもみたいに握りしめられた。泣いて足を止めさせることは、禁忌じゃなかったはずなのに。私は、大人のふりをして、『大丈夫』を使った。軽さは、便利だった。……だからいま、重い」
灯は、息を吐いた。
「初詣の写真が、ぼやけたままなの、見た。母の手帳の“山”は鮮明だった。私はそれを“良いこと”だと思いたい。思いたいのに、父の笑い声の高さが思い出せなくなると、身体が別の判断を下す。『間違えた』って。
本当は、間違いじゃないのかもしれない。上書きの痛みは“返済”のようなものだと、頭では理解してる。それでも、私は『大丈夫』を選んだ自分に、いまも腹が立つ。私は、もっと幼く泣けた。泣いてよかった。泣くのは、重さを置く行為だって、ようやく分かったのに」
円卓の向こう側で、蒼が小さく頷いた。灯の言葉は、円卓の中央を通過して、彼の胸骨の裏に刺さったが、矢印は灯自身へ向け直されていた。刺すためではなく、位置を確かめるために。
◇
蒼が、口を開いた。
「三件同時の要請。優先順位は、教本に書いてある。俺は、それに従った。それ以外の選択肢を検討する時間は、なかった」
蒼は、指先でテーブルの縁を一周りなぞった。金属の涼しさが、指の腹から肘にかけて上がってくる。
「でも、本当はあったんだ。時間じゃない。言い方の、余白だ。呼吸を一つ整える間に、自分の声でひとこと言えたはずだった。『俺は、こう思う』って。規定は盾じゃない。目安だ。盾にしてしまったのは、俺だ」
蒼は、壁の地図に目を向ける。六月二十七日、午後一時四十八分。
「俺は、規定の陰に隠れていた。優先順位を“事務的に”処理した自分を、いまは嫌悪している。正しいことが、悔いないことと一致しないって、まさかとは思っていたけど、現場に立ち続ければいつかはぶつかると、どこかで怖れていた。
先輩の声が薄れていくのを見て――『焦るのは血だけでいい、頭は歩け』――俺は、新しい紙を貼った。『間に合った分が、誰かの世界を繋ぐ』。
そのときは、自分を励ますためだった。でも、その紙の角が増えるたび、先輩の言葉の輪郭が壁から消える。公のためだと分かっていても、俺の中の“個人的恩”が薄れていくのが、こんなにも痛いとは思わなかった」
蒼は、自嘲した。
「滑稽だよな。俺は、いまさら『規定の陰に隠れていた』なんて言う。隠れていた場所は、あたたかくて、正しいふりができた。……でも、あの交差点に対して、あの“雨の時間”に対して、俺は自分の声で責任を負うのが怖かった。
いまは、怖さの名前は言える。言えるけれど、遅い。遅いことを認めて、なお前に進む、それが俺の『告白』だ」
梓の喉が一度だけ鳴った。自分の番が近いことを、身体のどこかが知っていた。蒼の言葉は彼女の心臓も刺す。けれど、やはり矢印は蒼自身へ戻る。責めるのではなく、輪郭を取る。
◇
梓は、指を組んだまま、円卓の上に小さく置いた。
「私が『ごめん』を言わずに、『行けるかも』を繰り返していた日々がある。彼は、私に合わせ続けた。善良さの根拠を、私は利用した。……怠慢だよね」
梓は、黙って笑った。笑いは、湿度に溶けていった。
「遅刻を恐れて嘘をついた朝、私は、自分の表情を見てしまった。言葉の角を丸くして、相手の呼吸に合わせる“癖”。それが、彼から“ひとりで選ぶ癖”を奪っていったと、やっと分かった。
あの日、私は、彼を呼び出した。『もう少しで着く』って送って、彼は改札の屋根の下で傘を閉じて、時間を私のほうへ寄せてくれた。交差点は、その“呼び出した時間の先”にあった」
梓の視線は、壁へ。交差点の四角が、雨の粒で縁取られている。
「私は、正直であることが、ここでは痛いって知った。正直に『行けない』と言えば、彼はきっと、別の道を選ぶ。登山サークルに行くかもしれない。彼の写真が増える。彼が『今日』を選ぶ回数が増える。私と彼の“合わせ合い”の記憶が薄れ、ポイントカードが消える。
それでも、正しい。……正しいのに、私は自分の胸を撫でながら、『ずるい』とつぶやく。世界が彼のために正しく動くとき、削られるのは私のほうだと感じてしまうから。
『ごめん』も『ありがとう』も入れずに、ただ『行けない』と送るために、私はここにいる。告白とは、たぶん、私の中のずるさに名前を与えることだ」
廉が、うなじを一度さすった。自分の番までの距離が縮まる。梓の言葉は彼の皮膚にも刺さる。だが刃先は梓に向き直される。責めるのではなく、配置する。
◇
廉は、拳を開いたまま、円卓の上に置いた。爪の白い跡が、じんわりと肌色に戻っていく。
「ブレーキの異音に気づいていた。『替えたほうがいい』と言えた。言った、とは言える。言ったけれど、金のことに触れるのが怖くて、手前で止めた。
『今は無理だ』って言われたとき、俺は『じゃあ、明日』と笑った。笑い方が、今思えば薄かった。薄い笑いの裏で、俺は『ここで踏み込むと嫌われる』って計算していた。それが俺の“小ささ”だ」
廉は、壁の地図を見る。
「事故の知らせは、スマホのニュースで知った。現場に駆けつけなかった。怖かった。俺が“言えるやつ”じゃないことを突きつけられるのが、たぶん一番怖かった。
翌日、ガレージに行って、工具箱を見た。並び順が変わっていた。アプリの購入履歴が増えていた。『役に立つほうへ記憶の予算が再配分される』って、頭では納得している。友の死は変わらない。でも、俺の宝物――夜更かしの話の時間――が薄れていくのは、やっぱり理不尽に見える。
天秤を殴りたい夜があって、でも灯が『消えるのは無かったことじゃない。渡した重みの行き先が変わるだけ』と言った。……言ったやつがここにいるから、殴らずに済んだ。
それでも、俺は逃げたやつだ。『ニュースで知った自分の卑怯』だ。あの夜の俺に名前をつけるなら、卑怯だ。だからここで言う。俺は卑怯だった。次に“卑怯”と呼べる場面が来たら、そこに『行く』。それが、たぶん俺の告白だ」
四人の言葉は、互いの心臓を刺した。
灯の「大丈夫」に、蒼は自分の“事務”の影を見る。
蒼の「規定の陰」に、梓は自分の“善良さへの寄りかかり”の輪郭を見る。
梓の「正直の痛み」に、廉は自分の「薄い笑い」を拾う。
廉の「卑怯」に、灯は自分の「幼く泣けなかった」を重ねる。
けれど、その刺す矢印は、それぞれの胸の内側へ向いていた。
円卓の中央には、誰の責めも置かれない。
置かれたのは、名前のついた事実だけだ。
案内人が一歩、前に出た。
「よく、言葉になさいました」
それは、賞賛でも慰撫でもない。事実の確認の響き。
「“闇は集う”。それは、責め合うためではありません。“真実に名前を与える場”です。名前は、次を決めるために必要です」
案内人は、円卓の縁に指を置いた。金属面に波紋が走る。
「少しだけ、天秤の仕組みを明かします」
指先から走った光が、円卓の中心に二つの記号を描いた。
〈詞〉と、〈時〉。
どちらも、雨のしずくを含んだ文字で、縁に薄い虹を宿す。
「〈詞〉で刻んだ言葉は、相手の“次の一歩”のベクトルだけを傾けます。押し流すのではなく、傾けるだけ。角度は微小でも、歩数が進めば、行き先は変わる。
一方、〈時〉は“自らに帰る約束”を取り戻す性質が強い。言い換えれば、過去の自分に預けて置き去りにした“約束”の座標を、現在の自分に返す。〈時〉は、あなたの歩幅を変え、歩幅が変われば、見える景色も変わる。
どちらも、世界全体の配分に微小ながら影響を与えます。重さの再配分は、あなたがたの選ぶベクトルの総和で決まります」
灯が、〈詞〉の文字を見つめた。
蒼が、〈時〉の文字に手をかざした。
梓は、二つの文字の間に視線を往復させた。
廉は、無意識にポケットの紙片――“BR-7000”と書かれた薄いメモ――を指で探し、触れ、そして手を戻した。
「選びなさいとは言いません」
案内人は、首を傾ける。
「ただ、自分の芯が、どちらの性質に強く惹かれているかを、知ってください。芯を知ると、次の十二時間の使い道が、ぶれにくくなります」
灯が、最初に口を開いた。「私は、〈詞〉だと思う。母に渡す言葉の角度を、変えたい。『大丈夫』の代わりに、泣く言葉を持ち帰る。子どもみたいな言葉を軽蔑しないで、置く。母の次の一歩の角度は、私の言葉で傾く。……傾けたい」
言い終えると、灯の喉がわずかに上下した。なにかを飲み下す仕草は、羞恥ではなく決定の合図に見えた。
蒼は、少し間を置いた。「俺は、〈時〉に引かれる。規定に隠れた自分に名前をつけた。なら、次は、過去の俺に預けっぱなしにした『俺の声』を取り戻す。現場で『俺は、こう思う』と言う約束を、自分に返す。歩幅を変えるのは怖いけれど、頭を歩かせるのは俺の仕事だ」
彼の横顔には、先輩の言葉の影が、薄く濃く揺れた。
梓は、両手を円卓に置いた。「私は、〈詞〉と〈時〉のどちらにも手を伸ばしたい。でも芯は、〈詞〉なのだと思う。彼に『行けない』を渡す。『好きだけど、行けない』を渡す。『あなたの今日を軽くするために、私は薄くなる』を渡す。……それを口にするとき、同時に〈時〉で自分の約束も回収したい。『合わせない』って、私は自分に約束する。それは、私の歩幅の話」
彼女は小さく笑い、すぐ消した。その笑いは、湿度に吸われて跡を残さなかった。
廉は、俯いてから顔を上げた。「俺は、〈時〉だ。あの夜、逃げた。なら、次は“行く”。『明日』と言ったら、明日に行く。約束を守る側に自分を置く。それから、〈詞〉で――金の話を言う。怖いって言ってから言う。『貸すから』じゃなく、『替えよう』って言う。順番は、約束が先だ。俺は、行くやつになる」
言い切ったあと、廉の肩が、少しだけ軽くなった。肉体が判断したのだろう。芯の方向を。
円卓の中央に、四つの薄い光が灯った。
〈詞〉〈時〉〈詞〉〈時〉。
光は、互いに干渉せず、細い糸で天秤の針へ結ばれている。糸は雨の匂いを運ぶ。
壁の地図に、新しい矢印が出現した。交差点の四隅から、それぞれ微小な角度で、先の見えない方角へ伸びていく。
矢印の角度は小さい。だが、距離が延びれば、十字路を越えて別の街に至るほどには、違いが出るだろう。
案内人は、その矢印を見て頷いた。
「この場で“誰の罪か”を決めてしまうのは、簡単です。簡単で、危険です。罪の線を一本にしてしまうと、あなたがたの矢印は、そこで止まる。
罪を名付けるかわりに、事実に名前を与えた。『大丈夫の軽さ』『規定の陰』『合わせる怠慢』『明日という卑怯』。名前があれば、次に傾けるベクトルが見える。
闇は、集まり、ほどけます。ほどける先は、あなたがたの選んだ〈詞〉と〈時〉が決める」
沈黙が、円卓の上に薄く敷かれた。
それは重くはない。足音を吸収する絨毯のような沈黙だ。
私たちは、互いの目を見た。
灯の瞳は、にじむことを恐れていないように見えた。
蒼の瞳は、深い水面の底で小さな魚が方向を変えるみたいに、意志の光を寄せていた。
梓の瞳は、言葉を選ぶときの、少し前の静けさを湛えていた。
廉の瞳は、照れや怒りや悔しさの層を剥いだ、その下の、まっすぐな細い光を見せていた。
円卓の縁に刻まれた針が、微かに震えた。
最初は、金属疲労のような微振動。やがて、雨粒が落ちた音と同期する。
案内人が、天秤の柱に指を置く。そして、静かに告げる。
「次の扉が開きます。最後の選択です」
壁の地図が、薄く明滅した。
六月二十七日、午後一時四十八分。
交差点の四隅から伸びる矢印の先に、まだ見えない場所の輪郭が、遠雷のように震えた。
最後の選択は、きっと、誰かを救い誰かを削る。
それでも、ここまで来た私たちは、選ぶ前に逃げることだけは、もうしない。
灯が、蒼を見た。
蒼が、梓を見た。
梓が、廉を見た。
廉が、灯を見た。
視線は円を作り、円は、円卓の上にもうひとつの見えない円を描いた。
四人は、小さく頷き合った。
だれも、言葉を足さない。
足さないことで、すでに十分だった。
針は、揺れを収めつつある。
次の一歩の角度は、もう、決まっていた。
湿度の高い空気を胸に入れ、私たちは、扉のほうへ目を向けた。
◇
扉は、まだ見えない。
けれど、手が鍵の形に馴染む。
灯は〈詞〉を掌にのせる。『大丈夫』の代わりに泣く言葉を、舌の裏に温める。
蒼は〈時〉を握る。『俺は、こう思う』を現場の空気に返す準備をする。
梓は〈詞〉を選び、〈時〉を帯として腰に巻く。『行けない』と『合わせない』を重ねて身につける。
廉は〈時〉を肩にかける。『明日』に行く足を、いまここで決める。〈詞〉の刃は鞘に入れ、必要な角度で抜く。
壁の雨粒の痕が、また少し大きくなった。
外はきっと、強く降っている。
案内人は、何も足さない。
足さないことで、扉のノブの冷たさだけが、はっきりする。
最後の選択は、たぶん美しくない。
でも、美しさよりも、湿度のほうが、いまは正確だ。
湿った言葉は、乾いた言葉よりも、重さを持つ。
重さは、天秤に乗る。
天秤は、針を震わせる。
私たちは、互いの目をもう一度だけ見て、それから視線を外に向けた。
六月二十七日の地図を、胸の裏で四つ折りに畳み直す。
四隅をなぞる。
角に集まる雨粒の感触を、指の腹に覚えさせる。
そのうえで、歩く。
誰の罪かではなく、どの言葉で、どの約束で歩くのかを、それぞれの芯に聞きながら。
“闇は集う”。
けれど、ほどけもする。
ほどけた先が、別々の明日であることを受け入れて、私たちは、円卓から立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音は、雨音に紛れてすぐ消えた。
扉の前に立つと、そこにはやはり何も見えなかった。
でも、目に見えないものを開けるのは、いつだって言葉と約束だ。
だから、私たちは、鍵を回す動作を、同時に行った。
針が、最後に大きく震えた。
扉は、静かに――そして確かに――開いた。
私たちは、同じ湿度を吸い込み、同じ温度で吐いた。
小さく頷き合い、足を、前へ出した。



