天秤の間に戻ると、壁の湿りは昨日よりも濃かった。雨粒の痕はひとまわり大きく、輪郭がほつれ、糸みたいな細い線で互いにつながりはじめている。
空調は変わらないのに、湿度だけが増える。不意に肺が重くなる感じ。吸い込むたび、言えなかった言葉が喉の奥で膨らむ。
案内人は天秤の真鍮の柱に手を置いた。指先は冷たいはずなのに、触れた場所からぬくもりが広がっていくように見える。
「重ねは、しばしば剝ぎ取りを伴います」
私たちの視線が集まるのを待たず、淡々と続ける。
「あなたがたの言葉は、これからも残像を動かすでしょう。同時に、別の輪郭が薄れていきます。痛みは避けられません。けれど、それは“誤り”と同義ではない」
灯、蒼、梓、廉。
四人の名が、天秤の皿の上で無言のまま等高線を描く。
扉はまた、内側からも外側からも開く準備ができている。
ひとりずつ、触れていく。
上書きがどこを削るのかを、目を逸らさずに確かめるために。
◇
最初は――灯。
居間に差し込む日差しが、薄紙を通したみたいに白かった。カーテンの縁が少しだけ揺れている。風がある。
私は、いつもの棚の前に立った。
そこにあるはずのもの――初詣の写真――父と母と私の三人が並んだ小さな長方形。
目を凝らすと、色だけが先に退色して、輪郭があとから慌てて追いかけているみたいにピントが合わない。
父のコートの質感が砂粒になって、母のマフラーの織り目が霧に溶ける。私の笑っている口元は、笑いの数式だけが残されて、誰のものか判別できない。
額縁のガラスを指で拭っても、曇りは取れない。
ぼやけているのは、私の目ではなかった。
胸の内側がきゅっと縮む。
写真の背中側に、冷蔵庫の白が見える。
扉には、昨日貼った買い物メモの横に、新しい紙片が増えていた。母の字で、細く、密に。
――七月の山。標高は低め。梅雨の晴れ間。
――温泉併設の宿。渋皮煮の実演あり。
――レインウェア(灯の分・軽量)。
――父の膝、上り下り少ないルートで。
母の手帳を開くと、同じ“山”のページが厚くなっていた。付箋の色が重なって、まるで地層みたいだ。
宿の候補が三つ、父の名前で予約未確定と書かれている。
“父の膝”のところに、別の付箋で小さく“ストレッチ表参照”と付け加えられている。
写真はぼやけ、手帳は鮮明。
私がここ数日、生活の具体を選んで母に手渡した“重さ”が、別の配置に幸福を組み替えはじめている。
言葉の積層が、行き先を変えていく。
それはたぶん、良いことだ。たぶん。
でも、私は急に、父の笑い声の高さを思い出せなくなった。
正月の神社の階段で、私のマフラーを直してくれた手の温度が、うまく想起できない。
掌に残っているはずのざらりとした毛糸の感触が、掌から蒸発していくみたいに薄れていく。
私は額縁を戻し、手帳を閉じた。
階段を上がって、天秤の間へ戻る。
案内人は最初から、ここに私を待っていたみたいに立っていた。
「ねえ」
声が、自分のものじゃないみたいに乾く。
「私が選んだ言葉のせいで、父の記憶が薄れてない? “山”が鮮明になる代わりに、初詣が遠ざかってる。私が、削ってる」
案内人は首を傾げた。判別のつかない微細な角度。
「誰かの軽さは、別の誰かの重みから借りてくることがある」
学術用語みたいに中立的で、責めない言い方。
「あなたがたの言葉は、世界の重さ配分を組み替えます。借りて、返して、また借りる。その過程で、濃淡は動く。……それでも、あなたが母上に渡したのは、確かに今必要な軽さでした」
私は、唇を噛んだ。
軽くなることは救いだ。
だけど、借りているなら、いつか返す日が来る。
返済の当てに、父の笑いを差し出すことになるのなら。
苦い。正しい苦さでも、喉を通るときはやっぱり痛い。
額縁の中の三人は、そこにいるのに、少し遠い。
手帳の“山”は、まだ地図の上にしかないのに、質量がある。
私は、どちらの重さを選び続けるかを、次の十二時間で決めなければならない。
決めるたびに、何かが削れていく。
それが、この章の名前の意味だと、ようやく分かりかける。
◇
二つ目は――蒼。
休憩室の蛍光灯は白すぎる。コップの水面がわずかに振動して、遠くの救急車庫のシャッターの開閉が伝わってくる。
壁には、昨日より明らかに紙が増えている。“声かけフレーズ”のメモ。
「名を呼ぶ」「いま何をするか伝える」「痛みの場所を一緒に確認する」「今、ここにいる、と事実で支える」……。
手書きの字が何人か混じっている。太い字、細い字、震える字。
その中に――見慣れていたはずの言葉が、見当たらない。
違和感の正体はすぐに分かった。
新人時代に自分を救ってくれた先輩が、いつも口にしていた短い口癖。
「焦るのは血だけでいい、頭は歩け」
あの人は、処置のたびにそれを言って、私の肩の力を抜いてくれた。
現場に走る前、廊下の曲がり角でそれを言われると、不思議と足の運びがまっすぐになった。
私は自分が新しく貼った文言を見つめる。「間に合った分が、誰かの世界を繋ぐ」
それはたしかに役に立つ。新人の呼吸を整える。系全体の救命率のどこかに、微分可能な勾配として効く。
でも――私がここに立つ形を作った古い言葉が、壁から消えかけている。
壁の紙の角が増えるほど、脳内の先輩の声の輪郭が薄れていく気がする。
私の“新しい言葉”が、かつての恩人の言葉を上書きしている。
皮肉でも、現実だ。
私は、休憩室の椅子に腰を下ろした。
テーブルの木目の筋をひとつ指でなぞる。
目の前のコップには、わずかな気泡が底に張りついている。
先輩の背中を思い出す。汗で滲んだユニフォームの背中に、いつも見えない重しが乗っているようだった。
「公共性」と「個人的恩」。
どちらが私を立たせている?
答えは、今日に限っては簡単ではなかった。
現場は待ってくれない。壁の紙を眺めている間にも、無線は鳴る。
私はメモの一枚をそっと手に取り、裏を見た。
そこには、誰かが鉛筆で小さく書き込んでいた。
“焦るのは血だけでいい、頭は歩け”
薄い。消えかけている。消しゴムで一度擦ったみたいな痕がある。
私はペンを取り出し、上からなぞり直した。濃く、しかし目立ちすぎないように。
上書きの上書き。
それでは救えないもののほうが多いと、どこかで分かっている。
それでも、私の中でだけは、先輩の声を薄くしない、という小さな頑固さを持っていたかった。
「出るぞ」
隊長の声に、私は立ち上がる。
ドアの取っ手が冷たく、手袋をはめる感触が今日も正気を取り戻させる。
廊下を走りながら、私は小さく呟く。
「間に合った分が、誰かの世界を繋ぐ」
そして心の奥では、別の声が同時に響く。
“焦るのは血だけでいい、頭は歩け”
二つの言葉はぶつからない。少しずつ重なって、同じ方向を向く。
壁の上では片方が薄れても、私の中ではどちらも濃いままでいられる。
公共性と個人的恩の間で揺らぎながら、私はハンドマイクを握る力をほんの少しだけ強めた。
◇
三つ目は――梓。
財布のカード段に指を入れて、私は一枚の厚みを探した。
見慣れたロゴ。二人でよく通ったパスタ店のポイントカード。
そこにあるはずの紙が、ない。
似た手触りの別のカードに指先が引っかかり、私はそれを引き抜いた。スポーツ用品店の会員証。登山用品のメーカーのロゴが、つやつやで新しい。
胸が、うすく冷える。
スマホの中の“ウォレット”アプリを開く。
ポイント残高画面から、あの店のアイコンが消えている。代わりに、山の写真が背景の“登山サークル割引”が追加されていた。
共有アルバムを開くと、彼の写真が増えている。山の尾根。雲の切れ間。赤いザックの影。
キャプションが具体だ。“標高一四八〇。稜線の風。グローブは薄手に変更”。
知らない単語が増えていく。“コル”“トレランシューズ”“アタックザック”。
私の知らない、でも彼の体温に近い言葉たち。
私は画面をスクロールして、去年の写真まで遡った。
テーブルの上の小さな皿。半分に折ったポイントカード。
“十個目のスタンプ、きょう”と、私が書いたメモと一緒に。
その写真は、ひどくあいまいになっている。
焦点が合わないのはピントのせいではない。
上書きは、私の系だけで完結しない。
灯の“山”が濃くなる。
その濃さが、世界のどこかで別の山を引き寄せる。
彼が入った登山サークルの写真が増える。
言葉は、意図せず干渉し合い、鎖のように別の記憶を引っ張る。
星新一の短編なら、ここに鋭いオチが置かれるのかもしれない。原因と結果がぴたりと噛み合って、にやりとするやつ。
でも私たちの現実は、もう少し粘ついている。
さらりと笑えない。
私は、ふいに予感した。
私が言葉を残せば残すほど、二人の“合わせ合い”の記憶は削れ、彼は“ひとりで選ぶ癖”を取り戻す。
痛い。
でも、それが正しい。
彼が自分の足音で歩くとき、私の手は空を掴むかもしれない。それでも、軽くなるのは誰かの明日だ。
その軽さは、きっと借り物だ。どこかから持ってきた重さを返すのだ。
返済先が、私の胸のどこかだとしても。
駅のホームで、私はメッセージの下書きを開いた。
――来週のあれ、私は行けない。本当は最初から、行きたいと言えなかった。
指が止まる。
“ごめん”は入れない。
“ありがとう”も入れない。
私の本当を、相手の呼吸に合わせないで置いていく。
送信はしない。まだ。
つぎの十二時間で、私はどこに置くかを決める。
彼の登山サークルの写真に“いいね”は付けない。付けなくても、彼の足取りは軽い。
それでいい。それがいい。
ホームに風が吹いて、誰かの傘がたわむ音がする。
空は、雨を落とす準備をしている。
上書きの痛みに濡れる予感は、今のところ、確かだ。
◇
四つ目は――廉。
夜更けのガレージは、音を飲む。
換気扇の低い唸りも、ネジが机の上で転がる小さな音も、厚手のカーテンで包まれるように外へ漏れない。
私は、友と語り合った夜の断片を拾い集めようとした。
初めて“金がない”と笑わずに言えた夜。
初めて“怖い”と黙らずに言えた夜。
工具の油のにおいと、コンビニの甘いパンの味と、スマホの画面の白。
そのうちのいくつかが、薄絹の向こうへ退いていく。
言い回しの一部が、抜け落ちている。
笑いの間合いが、半拍ずれる。
声の高さの記憶が、周波数ごと流れていく。
代わりに――スマホの“購入履歴”アプリに、項目が増えていた。
“六角レンチセット 2,480”“ブレーキワイヤーキット 1,980”“トルクレンチ(中古) 3,500”
スクロールすると、時系列が、私の記憶の薄れと反比例するみたいに細かくなっていく。
友の死は、変わらない。
なのに、私の宝物――語り合った夜――が削れていく。
世界は、役に立つほうへ記憶の予算を再配分する。
それが“正しい”のか。
役に立つことは、いつも正しいのか。
答えは、いまの私には喉に刺さる魚の骨だった。
腹の底から、怒りが上がってくる。
怒りは、理不尽を探して居場所を作りたがる。
私は、天秤の前に立った。
皿は、静かに水平を保っている。
そこに乗っているのは、誰かの今日と、別の誰かの昨日。
私は、拳を握りしめた。叩けば、何かが戻る気がした。
打ち付ける寸前、灯の声がした。
「待って」
静かな声。湿度を含んで、私の皮膚に入ってくる声。
「消えるのは“無かったこと”じゃない。あなたが渡した重みの行き先が変わるだけ」
私は、拳を止めた。
灯は、私のほうを見ない。天秤の皿と、その上で見えない水が移動する様子だけを見ている。
「あなたがその夜に渡した重みは、たぶんいま、別の形で役に立つ。工具の購入履歴かもしれないし、次に誰かがワイヤーを替える時間かもしれない。……あなたの怒りも、行き先を選べる」
怒りは、行き先を与えられなければ、最短距離で自分を傷つける。
私はゆっくりと手を開いた。
掌が熱い。爪の跡が白くなる。
天秤は、私の動きを見ていない。
ただ、揺れもしないで立っている。
その頑固さが、逆に救いになるときがある。
私は、息を吐いた。
友の夜のいくつかは薄れるだろう。
代わりに、アプリの履歴は増える。
その履歴が次の誰かの手を、ほんの少し早く工具へ導くなら。
それは、私が夜に渡した重みの別の行き先だ。
灯の言葉の意味が、胸のうちのどこかに住みつく。
◇
四人それぞれの重さが、別々の方向に動いた。
痛い。
でも、痛みの質が違う。
削られていく喪失の痛み。
別の場所が濃くなることで生じる引き攣れの痛み。
公共のために個人的な恩が薄くなる痛み。
選び続けることの、筋肉痛みたいな痛み。
案内人は、どれにも頷かない。どれにも首を振らない。
ただ、天秤の柱に触れている。
「あなたがたは、きっと二周目でまた選び直すでしょう」
案内人は言う。「そのとき、この痛みを“正しい痛み”と呼ぶかは、あなたがたの呼吸で決まります」
部屋の灯りが、わずかに落ちた。
壁の湿りが動く。
輪郭の曖昧な雨粒の痕が、すこしずつ光を帯びはじめる。
誰かが見えないペンで線を引いているみたいに、光の筋が壁を走る。
一本、また一本。
それぞれは独立しているのに、確信を持って同じ場所へ向かっていく。
灯が、息を呑む。
蒼が、肩を固くする。
梓が、指先を組む。
廉は、拳を開いたまま、手のひらで空気を掴むようにしている。
光の線は、やがて一点で交差した。
交差点。
壁の上に浮かぶ、見慣れた四角い形。白い線が四方向から伸びる。
そこに、微細な雨粒のテクスチャが重なっている。
交差点の角のひとつに、低い植え込みが描かれている。
別の角には、古い電柱が――あったはずの電柱の“影”だけが、薄く。
信号の位置。横断歩道の白。
そして、右上の角に小さな文字が浮かぶ。
――六月二十七日 午後一時四十八分。
――雨。
――南西の風。
私たちは、同時に息を止めた。
それぞれ別の立場で、その雨の交差点にいた。
灯は、母の肩にそっと手を添えようとしていた。
蒼は、無線で到着までの秒数を刻んでいた。
梓は、改札から伸びた屋根の下、傘を閉じ、遅刻の言い訳の言葉を飲み込んだまま、足を止めたかもしれない。
廉は、ガレージで“明日”を口にした直後、雨雲の匂いを嗅ぎながら、友のバイクがその先の交差点を曲がることを想像していた。
繋がっていた。
別の場所で別の重さを動かしているのに、同じ地点に、同じ時刻に、薄い糸が集まっていた。
案内人は何も言わない。
ただ、私たちがその図を見て、自分たちで言葉を選ぶのを待っている。
言葉は、次の扉の鍵になる。
どれを選ぶかで、次の削れ方が変わる。
それを私たちに分からせるためだけに、案内人は地図を見せたのだ。
灯が、最初に口を開いた。「あの時間、私は、言わなかった。言わないことを選んだ。――それでも、何かは動いた」
蒼が続ける。「間に合わなかった分が、今も肩に残ってる。だけど、間に合った分が“誰かの世界を繋いだ”感触も、ある」
梓はゆっくりと言う。「私が正直であればあるほど、彼は“自分の足”で歩く。私は、薄れるほうを選ぶのかもしれない。痛いけれど」
廉は、ためらいながら吐き出す。「俺は、殴らなかった。叩いたって戻らないのは分かってる。……それでも、怒ってる。怒りの行き先を、まだ探してる」
案内人は、やっと頷いた。
雨の匂いが、部屋の隙間から入ってくる。実際には降っていないのに、濡れた地面の匂いだけが届く。
「“闇の告白”が、次の扉です」
低く、一定の温度で。
「隠してきた言葉、残してこなかった言葉、誤魔化しの言葉。そのどれに、次の十二時間を渡すか。あなたがたの舌が決めます」
“上書きの痛み”は、まだ終わらない。
これから先の選択で、もっと鮮やかな削れが来るのかもしれない。
それでも私は、靴ひもの結び目を確かめる。
灯の指は、少し震えている。
蒼は、手袋を外して、空の掌を見下ろす。
梓は、スマホの画面を閉じた。“送信”の赤い丸は、そのまま。
廉は、ポケットから紙片を出す。
――ブレーキ部品 型番:BR-7000
紙は、雨に濡れたみたいに、角がこすれている。
天秤の皿は、水平を保ったまま。
ただ、皿の上に見えない水が張っている気がした。
そこに滴るのは、私たちの選んだ言葉が連れてきた雨。
集まり、そしてほどける。
壁の地図の交差点に、私たちの視線が重なる。
六月二十七日、午後一時四十八分。
次の章の最初の一行が、その数字の右隣でひっそりと待っている。
灯は、心の中で父の笑い声をもう一度呼び出そうとした。
蒼は、壁の裏側に隠れた先輩の声を濃く塗り直す方法を考えた。
梓は、彼に送らない言葉を舌の裏で温めた。
廉は、怒りの行き先を思索のテーブルに置き直した。
痛みは、ここからが本番だ。
でも、痛みがあるところにしか、手触りは生まれない。
――それを知るために、私たちは扉を選んだ。
天秤の間の湿度が、もう一段階上がる。
雨の交差点の光は薄れず、むしろ鮮明になった。
四本の線が交わる一点を中心に、微細な波紋が広がっていく。
その波紋の縁に、誰かのささやきがひっかかる。
“焦るのは血だけでいい、頭は歩け”
“間に合った分が、誰かの世界を繋ぐ”
“山の、低いほうへ”
“明日、仕事終わりに”
それぞれの声は、互いに上書きせず、ただ層を作る。
層は地図の等高線みたいに重なって、私たちの行く先の標高を示す。
高くても低くてもいい。
歩けることが、いまは救いだ。
その救いが借り物でも、返すあてが見つかるまでのあいだ、私たちが立っていられるなら。
案内人は、最後にひと言だけ付け加えた。
「雨は、次の章で強くなります」
それは予報とも警告ともつかない響きだった。
私たちは頷く。
靴底を確かめる。
六月二十七日の地図を、胸の裏に折りたたんで。
“闇の告白”へ向けて、ひとりずつ、言葉の重さを測り直しながら。
空調は変わらないのに、湿度だけが増える。不意に肺が重くなる感じ。吸い込むたび、言えなかった言葉が喉の奥で膨らむ。
案内人は天秤の真鍮の柱に手を置いた。指先は冷たいはずなのに、触れた場所からぬくもりが広がっていくように見える。
「重ねは、しばしば剝ぎ取りを伴います」
私たちの視線が集まるのを待たず、淡々と続ける。
「あなたがたの言葉は、これからも残像を動かすでしょう。同時に、別の輪郭が薄れていきます。痛みは避けられません。けれど、それは“誤り”と同義ではない」
灯、蒼、梓、廉。
四人の名が、天秤の皿の上で無言のまま等高線を描く。
扉はまた、内側からも外側からも開く準備ができている。
ひとりずつ、触れていく。
上書きがどこを削るのかを、目を逸らさずに確かめるために。
◇
最初は――灯。
居間に差し込む日差しが、薄紙を通したみたいに白かった。カーテンの縁が少しだけ揺れている。風がある。
私は、いつもの棚の前に立った。
そこにあるはずのもの――初詣の写真――父と母と私の三人が並んだ小さな長方形。
目を凝らすと、色だけが先に退色して、輪郭があとから慌てて追いかけているみたいにピントが合わない。
父のコートの質感が砂粒になって、母のマフラーの織り目が霧に溶ける。私の笑っている口元は、笑いの数式だけが残されて、誰のものか判別できない。
額縁のガラスを指で拭っても、曇りは取れない。
ぼやけているのは、私の目ではなかった。
胸の内側がきゅっと縮む。
写真の背中側に、冷蔵庫の白が見える。
扉には、昨日貼った買い物メモの横に、新しい紙片が増えていた。母の字で、細く、密に。
――七月の山。標高は低め。梅雨の晴れ間。
――温泉併設の宿。渋皮煮の実演あり。
――レインウェア(灯の分・軽量)。
――父の膝、上り下り少ないルートで。
母の手帳を開くと、同じ“山”のページが厚くなっていた。付箋の色が重なって、まるで地層みたいだ。
宿の候補が三つ、父の名前で予約未確定と書かれている。
“父の膝”のところに、別の付箋で小さく“ストレッチ表参照”と付け加えられている。
写真はぼやけ、手帳は鮮明。
私がここ数日、生活の具体を選んで母に手渡した“重さ”が、別の配置に幸福を組み替えはじめている。
言葉の積層が、行き先を変えていく。
それはたぶん、良いことだ。たぶん。
でも、私は急に、父の笑い声の高さを思い出せなくなった。
正月の神社の階段で、私のマフラーを直してくれた手の温度が、うまく想起できない。
掌に残っているはずのざらりとした毛糸の感触が、掌から蒸発していくみたいに薄れていく。
私は額縁を戻し、手帳を閉じた。
階段を上がって、天秤の間へ戻る。
案内人は最初から、ここに私を待っていたみたいに立っていた。
「ねえ」
声が、自分のものじゃないみたいに乾く。
「私が選んだ言葉のせいで、父の記憶が薄れてない? “山”が鮮明になる代わりに、初詣が遠ざかってる。私が、削ってる」
案内人は首を傾げた。判別のつかない微細な角度。
「誰かの軽さは、別の誰かの重みから借りてくることがある」
学術用語みたいに中立的で、責めない言い方。
「あなたがたの言葉は、世界の重さ配分を組み替えます。借りて、返して、また借りる。その過程で、濃淡は動く。……それでも、あなたが母上に渡したのは、確かに今必要な軽さでした」
私は、唇を噛んだ。
軽くなることは救いだ。
だけど、借りているなら、いつか返す日が来る。
返済の当てに、父の笑いを差し出すことになるのなら。
苦い。正しい苦さでも、喉を通るときはやっぱり痛い。
額縁の中の三人は、そこにいるのに、少し遠い。
手帳の“山”は、まだ地図の上にしかないのに、質量がある。
私は、どちらの重さを選び続けるかを、次の十二時間で決めなければならない。
決めるたびに、何かが削れていく。
それが、この章の名前の意味だと、ようやく分かりかける。
◇
二つ目は――蒼。
休憩室の蛍光灯は白すぎる。コップの水面がわずかに振動して、遠くの救急車庫のシャッターの開閉が伝わってくる。
壁には、昨日より明らかに紙が増えている。“声かけフレーズ”のメモ。
「名を呼ぶ」「いま何をするか伝える」「痛みの場所を一緒に確認する」「今、ここにいる、と事実で支える」……。
手書きの字が何人か混じっている。太い字、細い字、震える字。
その中に――見慣れていたはずの言葉が、見当たらない。
違和感の正体はすぐに分かった。
新人時代に自分を救ってくれた先輩が、いつも口にしていた短い口癖。
「焦るのは血だけでいい、頭は歩け」
あの人は、処置のたびにそれを言って、私の肩の力を抜いてくれた。
現場に走る前、廊下の曲がり角でそれを言われると、不思議と足の運びがまっすぐになった。
私は自分が新しく貼った文言を見つめる。「間に合った分が、誰かの世界を繋ぐ」
それはたしかに役に立つ。新人の呼吸を整える。系全体の救命率のどこかに、微分可能な勾配として効く。
でも――私がここに立つ形を作った古い言葉が、壁から消えかけている。
壁の紙の角が増えるほど、脳内の先輩の声の輪郭が薄れていく気がする。
私の“新しい言葉”が、かつての恩人の言葉を上書きしている。
皮肉でも、現実だ。
私は、休憩室の椅子に腰を下ろした。
テーブルの木目の筋をひとつ指でなぞる。
目の前のコップには、わずかな気泡が底に張りついている。
先輩の背中を思い出す。汗で滲んだユニフォームの背中に、いつも見えない重しが乗っているようだった。
「公共性」と「個人的恩」。
どちらが私を立たせている?
答えは、今日に限っては簡単ではなかった。
現場は待ってくれない。壁の紙を眺めている間にも、無線は鳴る。
私はメモの一枚をそっと手に取り、裏を見た。
そこには、誰かが鉛筆で小さく書き込んでいた。
“焦るのは血だけでいい、頭は歩け”
薄い。消えかけている。消しゴムで一度擦ったみたいな痕がある。
私はペンを取り出し、上からなぞり直した。濃く、しかし目立ちすぎないように。
上書きの上書き。
それでは救えないもののほうが多いと、どこかで分かっている。
それでも、私の中でだけは、先輩の声を薄くしない、という小さな頑固さを持っていたかった。
「出るぞ」
隊長の声に、私は立ち上がる。
ドアの取っ手が冷たく、手袋をはめる感触が今日も正気を取り戻させる。
廊下を走りながら、私は小さく呟く。
「間に合った分が、誰かの世界を繋ぐ」
そして心の奥では、別の声が同時に響く。
“焦るのは血だけでいい、頭は歩け”
二つの言葉はぶつからない。少しずつ重なって、同じ方向を向く。
壁の上では片方が薄れても、私の中ではどちらも濃いままでいられる。
公共性と個人的恩の間で揺らぎながら、私はハンドマイクを握る力をほんの少しだけ強めた。
◇
三つ目は――梓。
財布のカード段に指を入れて、私は一枚の厚みを探した。
見慣れたロゴ。二人でよく通ったパスタ店のポイントカード。
そこにあるはずの紙が、ない。
似た手触りの別のカードに指先が引っかかり、私はそれを引き抜いた。スポーツ用品店の会員証。登山用品のメーカーのロゴが、つやつやで新しい。
胸が、うすく冷える。
スマホの中の“ウォレット”アプリを開く。
ポイント残高画面から、あの店のアイコンが消えている。代わりに、山の写真が背景の“登山サークル割引”が追加されていた。
共有アルバムを開くと、彼の写真が増えている。山の尾根。雲の切れ間。赤いザックの影。
キャプションが具体だ。“標高一四八〇。稜線の風。グローブは薄手に変更”。
知らない単語が増えていく。“コル”“トレランシューズ”“アタックザック”。
私の知らない、でも彼の体温に近い言葉たち。
私は画面をスクロールして、去年の写真まで遡った。
テーブルの上の小さな皿。半分に折ったポイントカード。
“十個目のスタンプ、きょう”と、私が書いたメモと一緒に。
その写真は、ひどくあいまいになっている。
焦点が合わないのはピントのせいではない。
上書きは、私の系だけで完結しない。
灯の“山”が濃くなる。
その濃さが、世界のどこかで別の山を引き寄せる。
彼が入った登山サークルの写真が増える。
言葉は、意図せず干渉し合い、鎖のように別の記憶を引っ張る。
星新一の短編なら、ここに鋭いオチが置かれるのかもしれない。原因と結果がぴたりと噛み合って、にやりとするやつ。
でも私たちの現実は、もう少し粘ついている。
さらりと笑えない。
私は、ふいに予感した。
私が言葉を残せば残すほど、二人の“合わせ合い”の記憶は削れ、彼は“ひとりで選ぶ癖”を取り戻す。
痛い。
でも、それが正しい。
彼が自分の足音で歩くとき、私の手は空を掴むかもしれない。それでも、軽くなるのは誰かの明日だ。
その軽さは、きっと借り物だ。どこかから持ってきた重さを返すのだ。
返済先が、私の胸のどこかだとしても。
駅のホームで、私はメッセージの下書きを開いた。
――来週のあれ、私は行けない。本当は最初から、行きたいと言えなかった。
指が止まる。
“ごめん”は入れない。
“ありがとう”も入れない。
私の本当を、相手の呼吸に合わせないで置いていく。
送信はしない。まだ。
つぎの十二時間で、私はどこに置くかを決める。
彼の登山サークルの写真に“いいね”は付けない。付けなくても、彼の足取りは軽い。
それでいい。それがいい。
ホームに風が吹いて、誰かの傘がたわむ音がする。
空は、雨を落とす準備をしている。
上書きの痛みに濡れる予感は、今のところ、確かだ。
◇
四つ目は――廉。
夜更けのガレージは、音を飲む。
換気扇の低い唸りも、ネジが机の上で転がる小さな音も、厚手のカーテンで包まれるように外へ漏れない。
私は、友と語り合った夜の断片を拾い集めようとした。
初めて“金がない”と笑わずに言えた夜。
初めて“怖い”と黙らずに言えた夜。
工具の油のにおいと、コンビニの甘いパンの味と、スマホの画面の白。
そのうちのいくつかが、薄絹の向こうへ退いていく。
言い回しの一部が、抜け落ちている。
笑いの間合いが、半拍ずれる。
声の高さの記憶が、周波数ごと流れていく。
代わりに――スマホの“購入履歴”アプリに、項目が増えていた。
“六角レンチセット 2,480”“ブレーキワイヤーキット 1,980”“トルクレンチ(中古) 3,500”
スクロールすると、時系列が、私の記憶の薄れと反比例するみたいに細かくなっていく。
友の死は、変わらない。
なのに、私の宝物――語り合った夜――が削れていく。
世界は、役に立つほうへ記憶の予算を再配分する。
それが“正しい”のか。
役に立つことは、いつも正しいのか。
答えは、いまの私には喉に刺さる魚の骨だった。
腹の底から、怒りが上がってくる。
怒りは、理不尽を探して居場所を作りたがる。
私は、天秤の前に立った。
皿は、静かに水平を保っている。
そこに乗っているのは、誰かの今日と、別の誰かの昨日。
私は、拳を握りしめた。叩けば、何かが戻る気がした。
打ち付ける寸前、灯の声がした。
「待って」
静かな声。湿度を含んで、私の皮膚に入ってくる声。
「消えるのは“無かったこと”じゃない。あなたが渡した重みの行き先が変わるだけ」
私は、拳を止めた。
灯は、私のほうを見ない。天秤の皿と、その上で見えない水が移動する様子だけを見ている。
「あなたがその夜に渡した重みは、たぶんいま、別の形で役に立つ。工具の購入履歴かもしれないし、次に誰かがワイヤーを替える時間かもしれない。……あなたの怒りも、行き先を選べる」
怒りは、行き先を与えられなければ、最短距離で自分を傷つける。
私はゆっくりと手を開いた。
掌が熱い。爪の跡が白くなる。
天秤は、私の動きを見ていない。
ただ、揺れもしないで立っている。
その頑固さが、逆に救いになるときがある。
私は、息を吐いた。
友の夜のいくつかは薄れるだろう。
代わりに、アプリの履歴は増える。
その履歴が次の誰かの手を、ほんの少し早く工具へ導くなら。
それは、私が夜に渡した重みの別の行き先だ。
灯の言葉の意味が、胸のうちのどこかに住みつく。
◇
四人それぞれの重さが、別々の方向に動いた。
痛い。
でも、痛みの質が違う。
削られていく喪失の痛み。
別の場所が濃くなることで生じる引き攣れの痛み。
公共のために個人的な恩が薄くなる痛み。
選び続けることの、筋肉痛みたいな痛み。
案内人は、どれにも頷かない。どれにも首を振らない。
ただ、天秤の柱に触れている。
「あなたがたは、きっと二周目でまた選び直すでしょう」
案内人は言う。「そのとき、この痛みを“正しい痛み”と呼ぶかは、あなたがたの呼吸で決まります」
部屋の灯りが、わずかに落ちた。
壁の湿りが動く。
輪郭の曖昧な雨粒の痕が、すこしずつ光を帯びはじめる。
誰かが見えないペンで線を引いているみたいに、光の筋が壁を走る。
一本、また一本。
それぞれは独立しているのに、確信を持って同じ場所へ向かっていく。
灯が、息を呑む。
蒼が、肩を固くする。
梓が、指先を組む。
廉は、拳を開いたまま、手のひらで空気を掴むようにしている。
光の線は、やがて一点で交差した。
交差点。
壁の上に浮かぶ、見慣れた四角い形。白い線が四方向から伸びる。
そこに、微細な雨粒のテクスチャが重なっている。
交差点の角のひとつに、低い植え込みが描かれている。
別の角には、古い電柱が――あったはずの電柱の“影”だけが、薄く。
信号の位置。横断歩道の白。
そして、右上の角に小さな文字が浮かぶ。
――六月二十七日 午後一時四十八分。
――雨。
――南西の風。
私たちは、同時に息を止めた。
それぞれ別の立場で、その雨の交差点にいた。
灯は、母の肩にそっと手を添えようとしていた。
蒼は、無線で到着までの秒数を刻んでいた。
梓は、改札から伸びた屋根の下、傘を閉じ、遅刻の言い訳の言葉を飲み込んだまま、足を止めたかもしれない。
廉は、ガレージで“明日”を口にした直後、雨雲の匂いを嗅ぎながら、友のバイクがその先の交差点を曲がることを想像していた。
繋がっていた。
別の場所で別の重さを動かしているのに、同じ地点に、同じ時刻に、薄い糸が集まっていた。
案内人は何も言わない。
ただ、私たちがその図を見て、自分たちで言葉を選ぶのを待っている。
言葉は、次の扉の鍵になる。
どれを選ぶかで、次の削れ方が変わる。
それを私たちに分からせるためだけに、案内人は地図を見せたのだ。
灯が、最初に口を開いた。「あの時間、私は、言わなかった。言わないことを選んだ。――それでも、何かは動いた」
蒼が続ける。「間に合わなかった分が、今も肩に残ってる。だけど、間に合った分が“誰かの世界を繋いだ”感触も、ある」
梓はゆっくりと言う。「私が正直であればあるほど、彼は“自分の足”で歩く。私は、薄れるほうを選ぶのかもしれない。痛いけれど」
廉は、ためらいながら吐き出す。「俺は、殴らなかった。叩いたって戻らないのは分かってる。……それでも、怒ってる。怒りの行き先を、まだ探してる」
案内人は、やっと頷いた。
雨の匂いが、部屋の隙間から入ってくる。実際には降っていないのに、濡れた地面の匂いだけが届く。
「“闇の告白”が、次の扉です」
低く、一定の温度で。
「隠してきた言葉、残してこなかった言葉、誤魔化しの言葉。そのどれに、次の十二時間を渡すか。あなたがたの舌が決めます」
“上書きの痛み”は、まだ終わらない。
これから先の選択で、もっと鮮やかな削れが来るのかもしれない。
それでも私は、靴ひもの結び目を確かめる。
灯の指は、少し震えている。
蒼は、手袋を外して、空の掌を見下ろす。
梓は、スマホの画面を閉じた。“送信”の赤い丸は、そのまま。
廉は、ポケットから紙片を出す。
――ブレーキ部品 型番:BR-7000
紙は、雨に濡れたみたいに、角がこすれている。
天秤の皿は、水平を保ったまま。
ただ、皿の上に見えない水が張っている気がした。
そこに滴るのは、私たちの選んだ言葉が連れてきた雨。
集まり、そしてほどける。
壁の地図の交差点に、私たちの視線が重なる。
六月二十七日、午後一時四十八分。
次の章の最初の一行が、その数字の右隣でひっそりと待っている。
灯は、心の中で父の笑い声をもう一度呼び出そうとした。
蒼は、壁の裏側に隠れた先輩の声を濃く塗り直す方法を考えた。
梓は、彼に送らない言葉を舌の裏で温めた。
廉は、怒りの行き先を思索のテーブルに置き直した。
痛みは、ここからが本番だ。
でも、痛みがあるところにしか、手触りは生まれない。
――それを知るために、私たちは扉を選んだ。
天秤の間の湿度が、もう一段階上がる。
雨の交差点の光は薄れず、むしろ鮮明になった。
四本の線が交わる一点を中心に、微細な波紋が広がっていく。
その波紋の縁に、誰かのささやきがひっかかる。
“焦るのは血だけでいい、頭は歩け”
“間に合った分が、誰かの世界を繋ぐ”
“山の、低いほうへ”
“明日、仕事終わりに”
それぞれの声は、互いに上書きせず、ただ層を作る。
層は地図の等高線みたいに重なって、私たちの行く先の標高を示す。
高くても低くてもいい。
歩けることが、いまは救いだ。
その救いが借り物でも、返すあてが見つかるまでのあいだ、私たちが立っていられるなら。
案内人は、最後にひと言だけ付け加えた。
「雨は、次の章で強くなります」
それは予報とも警告ともつかない響きだった。
私たちは頷く。
靴底を確かめる。
六月二十七日の地図を、胸の裏に折りたたんで。
“闇の告白”へ向けて、ひとりずつ、言葉の重さを測り直しながら。



