目を閉じると、薄い硝子を指先でなぞるみたいな音がする。ぴん、と鳴ってから、すぐ消える。
 天秤の間の空気は、さっきよりもわずかに湿っていた。暖簾の向こうで雨が降っている気配。匂いだけが降りてきて、音はない。
 案内人は天秤の柱をひと撫ですると、こちらを見た。

「十二時間。時間の重さは、使い道で変わります。選んできてください。死を変えるためではなく、言葉の重さを測るために」

 灯、蒼、梓、廉。それぞれの掌に、同じ鍵が載せられた。
 どれも古びた、でも磨かれている鍵。回すと、過去へと繋がる扉がひとつだけひらくという。
 私は――灯は、鍵を握りしめる。汗で少し滑る金属。ひらく先は知っている。あの交差点。けれど、私は禁忌を言わないと決める。言ってしまえば全部が壊れる気がするから。言葉は、端を欠くべきじゃない。欠けたところから、水みたいに滲んでしまう。

 目を開けると、台所の蛍光灯の白がいた。六月の昼の白さ。換気扇の小さな唸り。
 母が流しで手を洗っている。指の爪の間に蓄えた小麦粉が、蛇口の下でほどけていく。
 時計は、交差点での出来事の二時間前を指していた。

     ◇

 最初の十二時間――灯。

 冷蔵庫の扉がゆっくり閉まる。中の明かりが、閉じる直前だけふっと強くなるのはいつもの癖だ。
 私は、母の背中に向かって声をかけた。

「紙、ある? 買い物メモ、書くやつ」

 母は振り返る。濡れた手で髪を耳にかける。
 「メモ帳、ここにあるよ」
 引き出しの中から、角の欠けたメモパッドが出てくる。私は万年筆を借りて、書きはじめる。

 ――大根、牛すじ、生姜。
 ――渋皮煮用の栗、重曹、きび砂糖。
 ――雨の日の髪ドライ。
 ――母のドライヤーのフィルター掃除。
 ――古い電球の替え。
 ――髪留め(黒)。

 母が肩越しに覗き込む。「渋皮煮?」
 「うん。去年、言ってたじゃん。皮むきで指切るから嫌だって。手袋買ってくるからさ、やろ」
 言葉に“ありがとう”“ごめんね”を混ぜない。ただ写真みたいに、生活の具体だけを並べる。
 母は笑って、あごで外を示した。「降るよ。今日、雨」
 私は頷く。「知ってる。タオル多めに干すね。浴室乾燥も回す」

 私が書いたメモが冷蔵庫に貼られる。マグネットは旅行先でもらった小さな鳥居のやつ。ちょっと重くて、下の角が落ちてくるから、母はもうひとつマグネットを追加する。
 私は冷蔵庫の銀色の扉に、私の顔がぼんやり映るのを見ていた。
 “ありがとう”を言わない代わりに、やることを指でなぞる。真ん中の線を太くするみたいに。
 母は、鍋の蓋を外し、湯気に顔をしかめる。「塩、入れすぎたかな」
 私は味見をして、分量じゃなく温度の話をする。「火、弱める。蓋ずらすと、におい出るよ」
 そうやって、二時間が静かに埋まっていく。

 出かける支度のとき、母が私の髪を指でまとめてくれた。雨の日は結んだほうがいい。
 ゴムを探す母の指さきが少し震えているのを、私は見ないふりをする。
 靴べらを渡し、玄関の鍵をいつもより少し深く押し込む。
 交差点の時間が近づく。喉の奥が冷たくなる。
 私は禁忌を言わない。ただ、横断歩道の手前で母の肩に手を添える。
 「行こっか」
 指先で、そっと引く。ほんの、ほんの少しだけ。

 世界が、硬くなる。
 信号の音、車のタイヤ、遠くの店のシャッター。その全部が、私の指の力をあざ笑うみたいに、予定どおりの軌道で動いていく。
 死は、変わらない。それは分かっていた。分かっていたはずなのに、膝のうらが痛くなるほど悔しかった。
 次の瞬間、母の横顔がちらりとこちらを向いた。
 そこに、一瞬だけ――安堵がよぎった。
 何に対する安堵かは、言語化できない。けれど、私の手の温度が、彼女の体温に届いていたのだ、と理解する。
 世界は変わらない。けれど、残像はずれる。
 横断歩道の向こう、古い電柱があった角に、低い植え込みが広がっている。前はなかった緑。雨に濡れた葉の光。
 家に戻ると、冷蔵庫のメモがひとつ増えていた。渋皮煮の材料のメモの横に、細い字。
 ――灯の濡れ髪は、ドライヤー冷風で。
 ――風邪をひくな。
 母の字だ。
 私は、息をふっと吐いて、気づく。「言葉が、残像を変える」。後から振り返る世界の、温度を。

     ◇

 二つ目の扉――蒼。

 無線の声は、いつだって重なる。三件同時。場所は近いが、優先順位がある。教本どおり。
 私はすでに答えを持っている。けれど、今日は言い回しを変える。
 隊長として間違わないためじゃなく、誰かの呼吸を守るための言葉を選ぶ。

「一番は心停止の疑い、次が転落、三番目が呼吸困難。経路はこの順。……いいか、間に合った分が、誰かの世界を繋ぐ。全部は無理でも、繋げる。だから、焦っても手順は落とすな」

 同乗の新人が、喉で何かを飲み込む音を立てた。
 「……はい」
 返事の高さが半音だけ落ちる。そこに、腹式の呼吸が戻ってくる気配がある。
 救急車の掲示の配置が、いつもと違って見えた。
 “声かけを忘れないで”というポスターが増えている。ラミネートの端に、新しいテープの光。
 現場は、待ってくれない。信号がひとつ、ふたつ、浮かんでは消える間に、道はほどけていく。
 私はハンドマイクに口を近づける。「到着まで四十秒。運転さん、左寄せお願いします。新人、吸引器のライン確認。酸素はワンリットルから調整、声は出し続けろ」

 病室の匂いは、外にも漏れる。消毒の匂い。鉄と汗。
 到着の数十秒は変えられない。門を抜ける曲がり角の角度も、ブレーキの鳴きも、受付の小走りのスリッパも。
 ただ、同乗の新人の表情と呼吸が、安定していった。
 手袋をはめる手つきが、いつもより少しだけ滑らかだ。
 私は患者に声をかける。「今、ここにいます。心配いりません――嘘じゃない、今は」
 患者の目が私に焦点を合わせる。わずかに、光る。
 “未来の救命率”という言葉はばかばかしいほど大きい。けど、確かに何かが系全体に波紋を広げる感覚があった。
 終わったあと、私は掲示板の前に立つ。新しいポスターの角を指で押す。乾いた紙の音。
 “声かけ”の文言は、昨日まではなかったはずだ。
 私は、胸骨の中心に置いていた言葉を少しずらす。
 もし、次の新人がこのポスターを見てから乗り込むなら――その一秒が、人の世界を繋ぐ。
 救急車の扉が閉まるたび、私は自分が巨大な網の目のひとつの結び目になれた気がした。細いけれど千切れない結び目。その確かさだけを信じて走る。

     ◇

 三つ目の扉――梓。

 遅刻を恐れて“彼に嘘をついた朝”。
 駅のベンチの木目。コンビニのビニールが擦れる音。
 私はそこに立っているのに、いるのは別の私だ。観察者であることを選ぶ。
 ベンチに座る彼が、少し眠そうに笑っている。
 画面の中の薄青い吹き出しに、私の嘘が乗っている。
 ――もう少しで着く。
 実際は、まだ家の玄関で靴を選んでいる時間。
 彼は「ゆっくりでいいよ」と打つ。その癖は昔からだ。いつだって相手に合わせる。
 私は、ベンチの影から、自分の表情を見る。
 角のとれた、申し訳なさを貼り付けたような口元。嘘をつき慣れている、という種類の表情。
 胸の奥が、じりじりと焼ける。

 彼が立ち上がって、改札のほうを見た。
 ポケットから出てきたのは、折りたたんだ紙。ライブのチケット。
 その日、私が「行けるか分からない」と濁したやつだ。
 彼はその紙を見て、笑う。「また今度もあるし」
 “また今度”は、いつも彼から出る言葉だ。
 私は、何も戻さない。ここでは行動を変えない、と決めていた。
 ただ、見ていた。自分が、彼の“今度”を増やすように仕向けてきたこと。
 私が黙って合わせさせ続けることで、彼の人生から“自分らしさ”を剥がしていったこと。
 彼は、私に合わせる。その根拠は優しさだ。優しさで自分のリズムを削っていく癖が、彼にはある。
 私は、それに甘えていた。
 通り過ぎる高校生の笑い声が、冷たい朝に鋭く響く。
 電車が入り、風が靴ひもを揺らす。

 スマホが震える。別の世界の私が、同じメッセージを打とうとしている。
 “ごめん”。
 指が止まる。
 私は観察者だ。送信はしない。けれど、目の前の彼の手元に目を凝らす。
 彼のスマホの画面には、共有アルバムが開かれている。
 先週の写真。私の撮った、コーヒーの泡。彼の撮った、ギターの弦。
 キャプションが、変わった。
 前は“良い音”だったところが、“張り替えはエクストラライト。指の運びが速くなる”に変わっている。
 具体が増えている。彼の趣味に、彼自身の言葉が増えていく。
 私は、小さく笑った。
 “私の真実は、彼の明日を軽くする”。それは仮説だけど、手ざわりがある。
 このあと私は――別のときに――嘘をやめるだろう。
 そのとき、彼の“今度”の数は減る。代わりに、“今日”が増える。
 それだけで、彼の呼吸は、少し軽くなるはずだ。

     ◇

 四つ目の扉――廉。

 ガレージは夜の匂いがする。油と埃。机の下に沈んでいく夏の熱。
 友のバイクがスタンドに立てられ、ヘッドライトが消えても目の奥に残像が残る。
 ブレーキワイヤーの被膜。指で押すと、きしむ感触。
 私は、前の私を見ている。金の話を恐れて黙り込む私。唇を噛んで、言えないでいる私。
 今回は――声をかける。

「おい、ワイヤー、やばい。今、替えたほうがいい」

 友は笑って、手を振る。「明日でいいよ。今、金ないし。明日、給料日」
 言葉は軽い。けれど、その軽さに私は飲み込まれない。
 “死は変わらない”。分かっていても、言いたいことがある。
 私は工具箱を引き寄せ、蓋を開ける。並び順が、いつもと違う。
 ソケットレンチの列が入れ替わっている。十ミリが手前に来ている。
 私は十ミリを手に取り、机に置き直す。
 「時間、取る。今だけ。貸すから。明日でも返せるだろ」
 友は苦笑して、ポケットを裏返すジェスチャーをする。「マジで、今は無理なんだって」
 私は、深く息を吸う。「分かった。じゃあ――次の約束な。明日、仕事終わりにここ集合。部品、俺が先に買っとく。金は、来月でもいい」
 “次の約束”を、言葉にして置いていく。
 友は一瞬、目を泳がせて、それから頷いた。「悪い。助かる」
 彼がジャケットを脱ぐと、ポケットから、薄い紙が落ちた。
 拾い上げると、それは自転車店の広告の切れ端で、隅にボールペンで文字が書かれている。
 ――ブレーキ部品 型番:BR-7000
 彼は「あ、それ、昨日メモった」と照れ笑いする。
 私は、胸のどこかがゆるむのを感じた。
 工具箱の並びが変わる。指が覚える順番が、ほんの少しだけ組み替えられる。
 “明日”という言葉に、別の重さが乗る。
 その重さが、夜のガレージの空気を少しだけ澄ませる。
 私はライトを消す前に、机の端に置き忘れていた軍手を畳んだ。
 次の約束の場所を、視線で確かめるみたいに。

     ◇

 扉を閉じると、みんなの手から同時に金属の音がした。
 天秤の間に戻ってくる。空気は行きよりも冷たく、けれど湿り気は増している。
 壁に、うっすらと雨粒の痕跡が浮かんでいる。
 初めは、誰も気づかないほど薄い。
 灯が一歩踏み出して、その痕に指先を近づける。
 蒼が、天秤の支柱の影と壁の距離を測るみたいに首をかしげる。
 梓が、口を開く前に小さく息を整える。
 廉は、軍手をポケットに入れ直す仕草をして、それから壁を見た。

「あったっけ、これ」
 廉がつぶやく。

「なかった」
 灯が答える。「たぶん、いま増えた」
 蒼は、壁の模様を眺める目で言った。「いや、正確には――見えるようになった、が近い。集まったと言うべきか」
 梓は雨の痕の形を追いながら、ぽつりと呟いた。「雨って、降りながら蒸発もするよね。降るし、ほどける」

 案内人が、天秤の陰から現れた。
 黒い服。金の細い縁取り。笑うのではなく、肯う気配。

「闇は、あなたがたの言葉を媒介に、集まり、そしてほどけます」
 声は乾いているのに、湿り気を運ぶ。「死は変わりません。それでも、あなたがたが選んだ言葉は、残像を動かします。……それが、扉の使い道です」

 灯は、冷蔵庫のメモを思い出す。
 蒼は、救急車のポスターの角の、透明なテープの厚みを思い出す。
 梓は、共有アルバムの具体的なキャプションの行を思い出す。
 廉は、工具箱の並びと、ポケットの紙片を思い出す。
 それぞれに、雨粒が落ちて、輪を広げたみたいな印がある。
 天秤の皿は、重さを測る道具だ。けれど、いまは重さよりも、湿度を測っているように見える。
 灯が皿に手を置くと、指先に冷たさが移る。
 蒼は、息を整える。
 梓は、瞼を一度、長く閉じる。
 廉は、肩を回す。

「次は?」
 廉が、案内人に尋ねる。
 案内人は、雨粒の痕を一瞥し、天秤の柱に手を当てる。

「次は、言葉の密度を上げる順番です。隠さず、削らず、しかし暴かない。――“告白”が、扉をひらきます」

 言葉の最後に、乾いた舌打ちのような雨音がした。
 耳の裏で、雷の気配が半歩だけ近づく。
 灯は、自分の心臓がほんの少し速く打ったのを自覚する。
 蒼は、手袋を指で弾く音を止めた。
 梓は、喉の奥の言葉を指で撫でた。
 廉は、次の約束の形を、口の中で転がした。

 その夜、天秤の間の壁に浮かんだ雨粒は、誰の目にもはっきりと見えた。
 ぽつ、ぽつ、と離れていたものが、細い線で結ばれ、ひとつの流れをつくる。
 私たちが過去に置いてきた言葉の端が、細い川になってここへ戻ってくるように。
 川べりに立っているのは、私たち自身だ。
 孤立した水たまりは、いつか繋がる。
 その繋がりが、まだ見ぬ誰かを救うかもしれない。あるいは、私たち自身を少しだけ軽くするだけかもしれない。
 それでも、選ぶ。
 十二時間の使い道は、明日には別の形になるだろう。
 私たちは、扉の前で、靴ひもの結び目を確かめ合った。

 扉の向こうにあるのは、まだ誰にも言っていない言葉。
 告げる準備をするために、私たちは同じ部屋で、同じ湿度を吸い込む。
 息は混じる。けれど、声は、ひとつずつだ。
 天秤の皿は静かに揺れて、水平へ戻る。
 その静けさが、次の章の最初の一行を待っている。

     ◇

 灯の掌に、まだメモの紙のざらつきが残っていた。
 蒼の耳には、救急車のサイレンの後ろで微かに響く心音が残っていた。
 梓の胸の中には、言い訳の余白と真実の行間の境界線が薄く光っていた。
 廉の肩には、約束という名の見えない工具箱が乗っていた。
 四人は、同じ雨音を聞いた。
 “集まり、ほどける”。
 案内人が消えて、天秤の間は、ただの部屋に戻った。
 けれど、壁の雨粒の痕跡だけは、消えなかった。
 その輪郭をなぞりながら、私たちは、次に言うべきことの順番を、静かに組み替えていった。

 扉は閉じている。鍵は、もう一度、掌に戻っている。
 十二時間は、もう一巡する。
 私たちは、同じ景色に違う言葉を置いて、同じ雨の中を歩くつもりだ。
 歩きながら、私たちは気づくだろう。
 ――死が変わらなくても、世界の“温度”は変わることを。
 ――温度が変われば、手は、別のものを掴めることを。
 それはたぶん、救いというほど綺麗なものじゃない。
 でも、夜のガレージで軍手を畳むみたいに、明日へ手を置く仕草にはなる。

 灯、蒼、梓、廉。
 それぞれの名が、天秤の皿の上で静かに重なる。
 雨は、見えない外で降っている。
 壁の痕跡は、まだ乾かない。
 その湿りが、言葉の密度を少しだけ上げて、私たちの舌に残る。

 ――次は、告白。
 私たちは知っている。扉の向こうに、その重さが待っていることを。
 重さを測る手が、今度は震えないように。
 雨音の間を、ひと呼吸、またひと呼吸。
 第二章は、そこで、そっと幕を閉じる。