最初に静けさが降りた。
音が消えたのではない。どこか――厚手の布の向こう側へ、ひとつずつ運ばれていく。引き出しを閉めるみたいに、世界の物音が順に片づけられて、最後に残ったのが、私の呼吸だけだった。
私は目を開けた。白が、ある。
壁も天井も床も、白というより、こすった貝殻の粉末みたいな、細かな粒の集まり。そこに視線を置いていると、やがて灰色の輪郭がにじみ出る。
黒檀の台座。その中央に、古い形の天秤。
私は上体を起こした。制服のスカーフが首のくぼみに貼りつく。濡れていた気配はあるのに、水分はすでに気配だけになっている。指でつまむと、布は素直に形を変えた。
立ち上がると、白い空気が足首を撫でた。温度は、どこにも属していない。冷たくも、暖かくもない。未使用の器の底に張った水の、最初の一瞬だけの温度。
天秤に近づく。
左の皿に、小さな砂時計。乳白色の砂が、落ちていないのに落ちかけている。粒の周縁が微かに明滅して、砂というより、光の粉のように見える。縁には金の糸で**〈時〉と刻まれていた。
右の皿には、薄い金属片。羽根のかたちをしている。息のない部屋で、羽根だけが呼吸を知っているみたいに、わずかに震えた。こちらには〈詞〉**の文字。
声が降りた。
雨が窓ガラスに触れる直前に生まれる、ひやりとした予告の気配に似ている。
「お目覚めの順に、ご案内します」
振り向くと、灰色の瞳の人がいた。女とも男とも言えない、年齢も季節も持たない気配。衣の裾は床を滑るのに、擦れる音はしない。声だけがここに属し、身体はどこにも属していないようだった。
「ここは『天秤の間』と呼ばれています。あなたがたは、それぞれ一度だけ選べます」
あなたがた――という言葉に合わせるように、視界が開いていく。
私以外に三人。
ひとりは、肩に救急鞄をかけた青年。鞄の革に沁みた水の匂い、金属と消毒液が薄く混ざった匂いが、白の中でだけはっきりする。背筋はまっすぐなのに、右手の人差し指が小さく震えていた。無線の癖が、まだ身体のどこかに残っているのだろう。
ひとりは、黒いパンプスを両手で抱くように持った女性。素足の親指に、ストッキングの跡。爪の先には、壊れたファンデーションの粉が白くこびりついている。早足の朝に崩れた化粧を、どうにもできなかった時間の粉。
ひとりは、フードの影で目の色を隠した少年。手の甲には、黒い油と赤い擦り傷の乾いた境目。工具の匂いが、ここにも持ち込まれている。
自分の名が、口の中に戻ってくる。灯(あかり)。十八。
雨の、匂い。
ブレーキの悲鳴。
母の指先。
喉に引っかかった言葉の角が、まだそこにある。
灰色の瞳は、天秤の上に視線を落とした。
「説明いたします。左の皿――**〈時〉を選べば、あなた自身の過去へ、十二時間だけ戻れます。右の皿――〈詞〉**を選べば、この場から動かずに、誰か一人の心に“言葉”を刻み残すことができます」
救急鞄の青年が、息を呑む音を、私は聞いた気がした。実際に音がしたのか、私の想像が音のいる場所に当てはまっただけなのか、ここでは判別がつかない。
「ただし」灰色の瞳は、柔らかく硬く、両方の調子を同時に保った。「死の運命は変えられません。あなたはすでに、こちら側にいます。向こうへは戻らない。戻った先で自分が死んだことを明かすのも、禁じられています。また、あなたが過去に残す行為や言葉は、**“上書き”**として働きます。ある記憶を鮮やかにするとき、別の記憶が、うっすらと薄くなることがある」
上書き。
その言葉は、消しゴムの粉と、まだ乾かないインクの匂いを同時に連れてくる。
「どのくらい、薄くなるのですか」
パンプスの女性が訊ねた。声は細いのに、芯がある。繕いではない問いの角度。
「“消える”という表現は、ここでは正確ではありません」灰色の瞳が、首をわずかに傾ける。「重さの配分が変わる、と捉えてください。誰かの明日を軽くすれば、別の誰かの昨日が、いくらか重くなるかもしれない。その逆も起こりえます」
フードの少年が、短く笑った。音は乾いていて、けれど刺さらない。
「公平ってやつは、ここにもないんだな」
「公平は、あなたがたが分け合うものです」
その言い方は、なにかの定義を読み上げているのではなく、ここでだけ通用する優しさの重さを、正確に量って置く手つきだった。
「選択は一度だけ。順番はありません。ひとりずつ扉をくぐり、戻ってきたら、もう一度ここで会いましょう」
扉。
言われて初めて、部屋の四方に白い扉があることを知る。どれも同じ白。同じ取っ手。同じ蝶番。違うのは、取っ手の付け根に埋め込まれた、ごく小さな灯りの色だけ。赤、青、緑、橙。豆のような光が、呼吸するみたいに明滅する。
「扉の色に意味はありません。便宜上の目印です。意味は、あなたが決めてください」
灰色の瞳は、天秤の軸にそっと触れた。
「上書きの仕組みを、ひとつだけ可視化しておきます」
部屋の四隅には、1から4までの番号プレートが貼られていた。
案内人の指が、天秤の金属の芯に触れる。カチリという音はしない。けれど、四隅の数字がかすかに滲み、入れ替わるのが見えた。1が3に、2が4に、4が1に。
不気味というより、まばたきのタイミングを一つずらされた感じ。
目立たない。けれど、確実に、世界の向きが一度だけ息を変えた。
「この程度の変化で済むこともあれば、もっとはっきりとした置き換わりが起きることもあります。選ぶのは、あなた」
救急鞄の青年が、口を開いた。
「僕は――蒼(あおい)といいます。救急です。出場要請が三件同時に来た夜があって、僕はマニュアルどおりに優先順位を選びました。それが正しかったことは、わかっている。けれど、“もっと早く”という感覚が、身体から抜けていかない」
パンプスの女性は、靴底を見つめたまま言う。
「梓(あずさ)です。今日は、遅れたくなかった。だから、嘘をつきました。“向かってるよ”って。実際は、向かってなかった。わたしは、彼に合わせることに慣れていた。合わせてもらうことにも」
フードの少年が、言葉を選ぶ間の沈黙を、正確に置いた。
「廉(れん)。友達のバイク、ブレーキが鳴ってた。金の話を出して嫌われるのが怖くて、見ないふりをした。工具箱を閉めた音だけ、耳に残ってる。……逃げた」
私は、喉の奥で転がる小石みたいな言葉を、掌のうえで形にするみたいにして整える。
「灯です。交差点で、言えなかったことがある。ひとこと。たったひとこと。ありがとう」
四人は、互いの顔を、正面からは見ない。視線はうつむくのに、匂いだけが立ち上がる。
濡れたアスファルトの匂い。雨と金属と消毒液が混じる匂い。パンプスの踵に挟まった泥の粒の匂い。工具にしみ込んだ油の薄い膜の匂い。
私たちは同時に、同じ雨の湿度を思い出していた。
名指しはしない。けれど、確信は、もうほとんど確信だった。
――どこかで、同じ場所の温度を知っている。
天秤は、まだ真っ直ぐだ。
選ぶことは怖い。選ばないことは、もっと怖い。
私は、赤い灯りの扉の前に立つ。取っ手は、冷たい。
指が震えたのは、寒さのせいではない。過去の水に手を入れる直前に、皮膚が覚える温度の、あのわずかな後ずさり。
「順番はありません」灰色の瞳が微笑む。「あなたがたの後悔の入口は、それぞれに灯っています」
青い灯りの扉の前で、蒼が救急鞄のファスナーを引き上げた。鞄の金具が、小さく当たって、音を出しかけて、出さない。
彼は深く息を吸い、私たちを振り向く。
「すぐ戻ります」
その背中から、濡れた救急鞄の金属臭が立ちのぼる。鼻腔を通り抜けた匂いが、脳のどこかに触れる。母の頬の冷たさが、はっきりと戻る。
――あの夜、私の世界に駆けつけてくれた人だ。
蒼が扉に手をかける。青の豆灯がひときわ強く脈打つ。扉は、音を持たないまま開いた。
湿った風がひとすじ、白い部屋に忍び込む。蒼はその風の輪郭になって、向こう側へ溶ける。
誰も声をかけなかった。呼び止める言葉を、それぞれが選び損ねた。
天秤の皿は、まだまっすぐだ。
けれど、内側で、世界の針がひと目盛りだけ、同じ方向へ寄る。
私は、指を取っ手から離し、深呼吸をひとつ置く。吸った空気は、味を持たない。吐いた空気は、わずかに甘い。自分の体温が混ざるからだ。
視線の端で、梓がパンプスを片手に持ち替えた。つま先が床の白に触れ、ほんの少し、跡をつける。跡はすぐに消える。消えるのに、たしかに、そこを通った感じだけが残る。
廉は、フードのふちを指で挟んだまま、緑の灯りを見ている。視線は揺れない。揺れないのに、揺れている。
灰色の瞳は、天秤の中央に置かれた金属の芯を、そっと撫でる。
「恐れるのは、まともです。ここで恐れない人は、まだ選ぶ時ではない人です」
まとも、という言葉の置き方が、救いに似ていた。
私は、首を小さく縦に振る。喉の奥に差し込まれていた言葉の角が、わずかに形を変える。ありがとう。
あの言葉を、あの場所に置けなかった自分を憎む気持ちと、いま置こうとしている自分を信じたい気持ちが、同じ重さで、両の掌に載っている。
遠くで、扉が開く気配。青い光の脈が弱まって、代わりに橙がひときわ明るくなる。
梓が、パンプスを履かないまま、そっと前に出た。踵の骨が、床に音を立てない。
「行ってきます」
彼女は橙の扉に触れ、開き、吸い込まれていく。
残った空気に、朝のファンデーションの粉の匂いが、ほんの微量、漂った。
私は、その匂いを知っている。母のドレッサーの前で、休日に鏡の明るさを調節していた、あの手の匂い。
思い出すたび、過去は新しくなる。上書きは、痛む。痛みは、ここでは鈍くならない。
緑の灯りがつよくなる。廉が一歩、出る。
フードの影で、かすかに口元が動いた。「すぐ、戻る」
彼は自分に言ったのか、私たちに言ったのか、扉に言ったのか。言葉の相手は、重なった。
扉が彼を飲み込み、風がまた、ひとすじ。
白い部屋に、私と、灰色の瞳だけが残る。赤い灯りが、呼吸する。
取っ手に触れた指先に、過去がつくる温度が戻る。私は、母の手の温度を測るみたいに、もう一度、深呼吸を置いた。
「灯さん」
呼ばれて、顔を上げる。
灰色の瞳は、まっすぐにこちらを見る。
「ここは、あなたを量る場所ではありません」
「なら、何を」
「分け合う場所です。あなたがたの重さを」
私は目を閉じた。
母と台所。
水切りかごに並ぶ、銀色のボウル。
秋のはじめに、渋皮を残して煮た栗。
台所の換気扇が、ゆっくりと回る音。
『来年は、もっと上手にできるね』
母が笑って言った。私は適当に返事をした。ちゃんと笑って返したかどうか、覚えていない。覚えていないことが、ナイフみたいに鋭い。
冷蔵庫に貼ったメモの、角。『砂糖』『生クリーム』『重曹』。
メモは、たぶんあの日には、まだ書かれていなかった。
私は、赤い灯りの前で目を開け、取っ手に手をかける。
恐れは、まともだ。まともなものは、選べる。
「行ってきます」
扉が、静かに開いた。
白い部屋の空気がひと筋、私の背中を押す。
私は、赤の向こう側へ歩き出す。
その直前、振り返った。
天秤はまだ、どちらにも傾いていない。
けれど、私たちの心だけが、静かに、同じ方角へ寄り合っていた。
―――
母の声を、ふと探していた。
台所の奥から響く鍋の音。換気扇の回転。雨の日はいつも、匂いが台所に籠もる。その中で母が「そろそろ火を止めようか」と声を掛けてくれる。私は返事をし損ねることが多かった。スマホを見ていたから。あるいは、返事をしたつもりで口が動かず、胸の中で言葉を飲み込んだだけだったから。
返しそびれた「うん」が、何十個も胸の奥で干からびている。ここに来ても、その数は減らない。
スカーフの端を握りしめた。布越しに感じる体温だけが、私が「まだ自分」だと確かめる唯一の証拠だ。
――あの夜。交差点で、母が倒れたとき。私は肩を引くことができなかった。
視線を足元に落とす。白い床には影がない。私の身体がここにあるのに、影は残らない。
代わりに、他の三人の輪郭から“匂い”が浮かび上がる。
救急鞄の金属臭。
ファンデーションの粉の甘い匂い。
工具油の焦げた匂い。
どれも、どこかで嗅いだことがある匂いだった。
同じ雨の夜に。
交差点で。
けれど、まだ私は言葉にしない。確信だけが内側で膨らみ、喉の奥を塞いでいる。
案内人の灰色の瞳は、誰の視線も跳ね返さない。深い井戸に石を落とすように吸い込んでいく。
その瞳に映っているのは私たちか、それとも天秤の針か。
“裁かれる”感覚ではない。けれど“量られている”実感が、じわじわと背骨に沈む。
もし針が今すぐ傾いたら――何が削られ、何が残るのだろう。母の笑顔か、父の声か。あるいは、私自身が覚えている「灯」という名前の輪郭すら、ここでは薄くなり得るのではないか。
蒼がわずかに肩を動かした。救急鞄のファスナーの金具が、かすかに音を立てかけて、立てなかった。音は飲み込まれ、痕跡だけが残る。
梓はパンプスの底を撫でるように親指でなぞっている。爪の先に残る粉は、朝の慌ただしさそのものだろう。彼女の瞳は床を見つめているのに、思考は別の場所にいる。
廉はフードの中で小さく息を吐いた。少年らしい浅さではなく、誰かを遠ざける大人びた息。十七歳に似つかわしくない呼吸音が、白に混ざる。
そして私は、母の頬の温度を想起する。
――冷たい、でもまだ柔らかい。雨粒が皮膚に残っていただけなのか、命が抜けた温度なのか。判断ができなかった。あの曖昧さが、いちばん私を苦しめる。
だから私は、この天秤を選ぶべきだと、胸のどこかで理解していた。選んで、取り返せるのは時間ではなく、言えなかった言葉。
たったそれだけのために、私はここに来ている。
壁に埋め込まれた赤い灯りが、また脈打った。心臓がひとつ打つたび、呼応するみたいに。
蒼が立ち上がる。靴底は音を立てない。彼の呼吸だけが合図になる。
「すぐ戻ります」
その言葉の響きに、私は一瞬だけ目を閉じる。救急車のサイレンと重なった。
あの夜、私の交差点にもサイレンは来た。けれど、母には間に合わなかった。
――蒼の背中は、きっとあの夜のサイレンのひとつだ。
彼が青い扉に手をかけた瞬間、金属臭が鼻を突く。私の視界に、母の頬がふたたび現れた。
私は唇を噛んだ。声を掛ければ、彼が誰か、思い出してしまう。けれど声は出ない。
扉が開き、蒼は向こうへ消えた。
残された空間は、さらに静かになった。
梓の指先が、パンプスの踵を掴む。廉の肩がわずかに上下する。
灰色の瞳の案内人は、天秤に視線を落としたまま言った。
「恐れることは、正常です。恐れを持たない選択は、上書きの重さを知らない選択になります」
その言葉が、私の背を押した。
私は、母の冷蔵庫に貼られた小さな紙切れを思い出す。『砂糖』『重曹』『生クリーム』。
あれは渋皮煮のメモ。
あの日、私はそれを見て笑った。こんな季節にまだ栗? と。
母は「秋はもう一度くるのよ」と答えた。私は返事をしなかった。
返さなかった言葉が、こんなにも胸を重くするなんて。
私は赤い扉の前に立ち、取っ手を握る。ひやりとした感触が、過去の雨水を思わせる。
「行ってきます」
小さく呟いてから、振り返った。
天秤の針は、まだ真っ直ぐだった。
けれど、私たちの心だけが、確かに、同じ方角へ寄り合っていた。
音が消えたのではない。どこか――厚手の布の向こう側へ、ひとつずつ運ばれていく。引き出しを閉めるみたいに、世界の物音が順に片づけられて、最後に残ったのが、私の呼吸だけだった。
私は目を開けた。白が、ある。
壁も天井も床も、白というより、こすった貝殻の粉末みたいな、細かな粒の集まり。そこに視線を置いていると、やがて灰色の輪郭がにじみ出る。
黒檀の台座。その中央に、古い形の天秤。
私は上体を起こした。制服のスカーフが首のくぼみに貼りつく。濡れていた気配はあるのに、水分はすでに気配だけになっている。指でつまむと、布は素直に形を変えた。
立ち上がると、白い空気が足首を撫でた。温度は、どこにも属していない。冷たくも、暖かくもない。未使用の器の底に張った水の、最初の一瞬だけの温度。
天秤に近づく。
左の皿に、小さな砂時計。乳白色の砂が、落ちていないのに落ちかけている。粒の周縁が微かに明滅して、砂というより、光の粉のように見える。縁には金の糸で**〈時〉と刻まれていた。
右の皿には、薄い金属片。羽根のかたちをしている。息のない部屋で、羽根だけが呼吸を知っているみたいに、わずかに震えた。こちらには〈詞〉**の文字。
声が降りた。
雨が窓ガラスに触れる直前に生まれる、ひやりとした予告の気配に似ている。
「お目覚めの順に、ご案内します」
振り向くと、灰色の瞳の人がいた。女とも男とも言えない、年齢も季節も持たない気配。衣の裾は床を滑るのに、擦れる音はしない。声だけがここに属し、身体はどこにも属していないようだった。
「ここは『天秤の間』と呼ばれています。あなたがたは、それぞれ一度だけ選べます」
あなたがた――という言葉に合わせるように、視界が開いていく。
私以外に三人。
ひとりは、肩に救急鞄をかけた青年。鞄の革に沁みた水の匂い、金属と消毒液が薄く混ざった匂いが、白の中でだけはっきりする。背筋はまっすぐなのに、右手の人差し指が小さく震えていた。無線の癖が、まだ身体のどこかに残っているのだろう。
ひとりは、黒いパンプスを両手で抱くように持った女性。素足の親指に、ストッキングの跡。爪の先には、壊れたファンデーションの粉が白くこびりついている。早足の朝に崩れた化粧を、どうにもできなかった時間の粉。
ひとりは、フードの影で目の色を隠した少年。手の甲には、黒い油と赤い擦り傷の乾いた境目。工具の匂いが、ここにも持ち込まれている。
自分の名が、口の中に戻ってくる。灯(あかり)。十八。
雨の、匂い。
ブレーキの悲鳴。
母の指先。
喉に引っかかった言葉の角が、まだそこにある。
灰色の瞳は、天秤の上に視線を落とした。
「説明いたします。左の皿――**〈時〉を選べば、あなた自身の過去へ、十二時間だけ戻れます。右の皿――〈詞〉**を選べば、この場から動かずに、誰か一人の心に“言葉”を刻み残すことができます」
救急鞄の青年が、息を呑む音を、私は聞いた気がした。実際に音がしたのか、私の想像が音のいる場所に当てはまっただけなのか、ここでは判別がつかない。
「ただし」灰色の瞳は、柔らかく硬く、両方の調子を同時に保った。「死の運命は変えられません。あなたはすでに、こちら側にいます。向こうへは戻らない。戻った先で自分が死んだことを明かすのも、禁じられています。また、あなたが過去に残す行為や言葉は、**“上書き”**として働きます。ある記憶を鮮やかにするとき、別の記憶が、うっすらと薄くなることがある」
上書き。
その言葉は、消しゴムの粉と、まだ乾かないインクの匂いを同時に連れてくる。
「どのくらい、薄くなるのですか」
パンプスの女性が訊ねた。声は細いのに、芯がある。繕いではない問いの角度。
「“消える”という表現は、ここでは正確ではありません」灰色の瞳が、首をわずかに傾ける。「重さの配分が変わる、と捉えてください。誰かの明日を軽くすれば、別の誰かの昨日が、いくらか重くなるかもしれない。その逆も起こりえます」
フードの少年が、短く笑った。音は乾いていて、けれど刺さらない。
「公平ってやつは、ここにもないんだな」
「公平は、あなたがたが分け合うものです」
その言い方は、なにかの定義を読み上げているのではなく、ここでだけ通用する優しさの重さを、正確に量って置く手つきだった。
「選択は一度だけ。順番はありません。ひとりずつ扉をくぐり、戻ってきたら、もう一度ここで会いましょう」
扉。
言われて初めて、部屋の四方に白い扉があることを知る。どれも同じ白。同じ取っ手。同じ蝶番。違うのは、取っ手の付け根に埋め込まれた、ごく小さな灯りの色だけ。赤、青、緑、橙。豆のような光が、呼吸するみたいに明滅する。
「扉の色に意味はありません。便宜上の目印です。意味は、あなたが決めてください」
灰色の瞳は、天秤の軸にそっと触れた。
「上書きの仕組みを、ひとつだけ可視化しておきます」
部屋の四隅には、1から4までの番号プレートが貼られていた。
案内人の指が、天秤の金属の芯に触れる。カチリという音はしない。けれど、四隅の数字がかすかに滲み、入れ替わるのが見えた。1が3に、2が4に、4が1に。
不気味というより、まばたきのタイミングを一つずらされた感じ。
目立たない。けれど、確実に、世界の向きが一度だけ息を変えた。
「この程度の変化で済むこともあれば、もっとはっきりとした置き換わりが起きることもあります。選ぶのは、あなた」
救急鞄の青年が、口を開いた。
「僕は――蒼(あおい)といいます。救急です。出場要請が三件同時に来た夜があって、僕はマニュアルどおりに優先順位を選びました。それが正しかったことは、わかっている。けれど、“もっと早く”という感覚が、身体から抜けていかない」
パンプスの女性は、靴底を見つめたまま言う。
「梓(あずさ)です。今日は、遅れたくなかった。だから、嘘をつきました。“向かってるよ”って。実際は、向かってなかった。わたしは、彼に合わせることに慣れていた。合わせてもらうことにも」
フードの少年が、言葉を選ぶ間の沈黙を、正確に置いた。
「廉(れん)。友達のバイク、ブレーキが鳴ってた。金の話を出して嫌われるのが怖くて、見ないふりをした。工具箱を閉めた音だけ、耳に残ってる。……逃げた」
私は、喉の奥で転がる小石みたいな言葉を、掌のうえで形にするみたいにして整える。
「灯です。交差点で、言えなかったことがある。ひとこと。たったひとこと。ありがとう」
四人は、互いの顔を、正面からは見ない。視線はうつむくのに、匂いだけが立ち上がる。
濡れたアスファルトの匂い。雨と金属と消毒液が混じる匂い。パンプスの踵に挟まった泥の粒の匂い。工具にしみ込んだ油の薄い膜の匂い。
私たちは同時に、同じ雨の湿度を思い出していた。
名指しはしない。けれど、確信は、もうほとんど確信だった。
――どこかで、同じ場所の温度を知っている。
天秤は、まだ真っ直ぐだ。
選ぶことは怖い。選ばないことは、もっと怖い。
私は、赤い灯りの扉の前に立つ。取っ手は、冷たい。
指が震えたのは、寒さのせいではない。過去の水に手を入れる直前に、皮膚が覚える温度の、あのわずかな後ずさり。
「順番はありません」灰色の瞳が微笑む。「あなたがたの後悔の入口は、それぞれに灯っています」
青い灯りの扉の前で、蒼が救急鞄のファスナーを引き上げた。鞄の金具が、小さく当たって、音を出しかけて、出さない。
彼は深く息を吸い、私たちを振り向く。
「すぐ戻ります」
その背中から、濡れた救急鞄の金属臭が立ちのぼる。鼻腔を通り抜けた匂いが、脳のどこかに触れる。母の頬の冷たさが、はっきりと戻る。
――あの夜、私の世界に駆けつけてくれた人だ。
蒼が扉に手をかける。青の豆灯がひときわ強く脈打つ。扉は、音を持たないまま開いた。
湿った風がひとすじ、白い部屋に忍び込む。蒼はその風の輪郭になって、向こう側へ溶ける。
誰も声をかけなかった。呼び止める言葉を、それぞれが選び損ねた。
天秤の皿は、まだまっすぐだ。
けれど、内側で、世界の針がひと目盛りだけ、同じ方向へ寄る。
私は、指を取っ手から離し、深呼吸をひとつ置く。吸った空気は、味を持たない。吐いた空気は、わずかに甘い。自分の体温が混ざるからだ。
視線の端で、梓がパンプスを片手に持ち替えた。つま先が床の白に触れ、ほんの少し、跡をつける。跡はすぐに消える。消えるのに、たしかに、そこを通った感じだけが残る。
廉は、フードのふちを指で挟んだまま、緑の灯りを見ている。視線は揺れない。揺れないのに、揺れている。
灰色の瞳は、天秤の中央に置かれた金属の芯を、そっと撫でる。
「恐れるのは、まともです。ここで恐れない人は、まだ選ぶ時ではない人です」
まとも、という言葉の置き方が、救いに似ていた。
私は、首を小さく縦に振る。喉の奥に差し込まれていた言葉の角が、わずかに形を変える。ありがとう。
あの言葉を、あの場所に置けなかった自分を憎む気持ちと、いま置こうとしている自分を信じたい気持ちが、同じ重さで、両の掌に載っている。
遠くで、扉が開く気配。青い光の脈が弱まって、代わりに橙がひときわ明るくなる。
梓が、パンプスを履かないまま、そっと前に出た。踵の骨が、床に音を立てない。
「行ってきます」
彼女は橙の扉に触れ、開き、吸い込まれていく。
残った空気に、朝のファンデーションの粉の匂いが、ほんの微量、漂った。
私は、その匂いを知っている。母のドレッサーの前で、休日に鏡の明るさを調節していた、あの手の匂い。
思い出すたび、過去は新しくなる。上書きは、痛む。痛みは、ここでは鈍くならない。
緑の灯りがつよくなる。廉が一歩、出る。
フードの影で、かすかに口元が動いた。「すぐ、戻る」
彼は自分に言ったのか、私たちに言ったのか、扉に言ったのか。言葉の相手は、重なった。
扉が彼を飲み込み、風がまた、ひとすじ。
白い部屋に、私と、灰色の瞳だけが残る。赤い灯りが、呼吸する。
取っ手に触れた指先に、過去がつくる温度が戻る。私は、母の手の温度を測るみたいに、もう一度、深呼吸を置いた。
「灯さん」
呼ばれて、顔を上げる。
灰色の瞳は、まっすぐにこちらを見る。
「ここは、あなたを量る場所ではありません」
「なら、何を」
「分け合う場所です。あなたがたの重さを」
私は目を閉じた。
母と台所。
水切りかごに並ぶ、銀色のボウル。
秋のはじめに、渋皮を残して煮た栗。
台所の換気扇が、ゆっくりと回る音。
『来年は、もっと上手にできるね』
母が笑って言った。私は適当に返事をした。ちゃんと笑って返したかどうか、覚えていない。覚えていないことが、ナイフみたいに鋭い。
冷蔵庫に貼ったメモの、角。『砂糖』『生クリーム』『重曹』。
メモは、たぶんあの日には、まだ書かれていなかった。
私は、赤い灯りの前で目を開け、取っ手に手をかける。
恐れは、まともだ。まともなものは、選べる。
「行ってきます」
扉が、静かに開いた。
白い部屋の空気がひと筋、私の背中を押す。
私は、赤の向こう側へ歩き出す。
その直前、振り返った。
天秤はまだ、どちらにも傾いていない。
けれど、私たちの心だけが、静かに、同じ方角へ寄り合っていた。
―――
母の声を、ふと探していた。
台所の奥から響く鍋の音。換気扇の回転。雨の日はいつも、匂いが台所に籠もる。その中で母が「そろそろ火を止めようか」と声を掛けてくれる。私は返事をし損ねることが多かった。スマホを見ていたから。あるいは、返事をしたつもりで口が動かず、胸の中で言葉を飲み込んだだけだったから。
返しそびれた「うん」が、何十個も胸の奥で干からびている。ここに来ても、その数は減らない。
スカーフの端を握りしめた。布越しに感じる体温だけが、私が「まだ自分」だと確かめる唯一の証拠だ。
――あの夜。交差点で、母が倒れたとき。私は肩を引くことができなかった。
視線を足元に落とす。白い床には影がない。私の身体がここにあるのに、影は残らない。
代わりに、他の三人の輪郭から“匂い”が浮かび上がる。
救急鞄の金属臭。
ファンデーションの粉の甘い匂い。
工具油の焦げた匂い。
どれも、どこかで嗅いだことがある匂いだった。
同じ雨の夜に。
交差点で。
けれど、まだ私は言葉にしない。確信だけが内側で膨らみ、喉の奥を塞いでいる。
案内人の灰色の瞳は、誰の視線も跳ね返さない。深い井戸に石を落とすように吸い込んでいく。
その瞳に映っているのは私たちか、それとも天秤の針か。
“裁かれる”感覚ではない。けれど“量られている”実感が、じわじわと背骨に沈む。
もし針が今すぐ傾いたら――何が削られ、何が残るのだろう。母の笑顔か、父の声か。あるいは、私自身が覚えている「灯」という名前の輪郭すら、ここでは薄くなり得るのではないか。
蒼がわずかに肩を動かした。救急鞄のファスナーの金具が、かすかに音を立てかけて、立てなかった。音は飲み込まれ、痕跡だけが残る。
梓はパンプスの底を撫でるように親指でなぞっている。爪の先に残る粉は、朝の慌ただしさそのものだろう。彼女の瞳は床を見つめているのに、思考は別の場所にいる。
廉はフードの中で小さく息を吐いた。少年らしい浅さではなく、誰かを遠ざける大人びた息。十七歳に似つかわしくない呼吸音が、白に混ざる。
そして私は、母の頬の温度を想起する。
――冷たい、でもまだ柔らかい。雨粒が皮膚に残っていただけなのか、命が抜けた温度なのか。判断ができなかった。あの曖昧さが、いちばん私を苦しめる。
だから私は、この天秤を選ぶべきだと、胸のどこかで理解していた。選んで、取り返せるのは時間ではなく、言えなかった言葉。
たったそれだけのために、私はここに来ている。
壁に埋め込まれた赤い灯りが、また脈打った。心臓がひとつ打つたび、呼応するみたいに。
蒼が立ち上がる。靴底は音を立てない。彼の呼吸だけが合図になる。
「すぐ戻ります」
その言葉の響きに、私は一瞬だけ目を閉じる。救急車のサイレンと重なった。
あの夜、私の交差点にもサイレンは来た。けれど、母には間に合わなかった。
――蒼の背中は、きっとあの夜のサイレンのひとつだ。
彼が青い扉に手をかけた瞬間、金属臭が鼻を突く。私の視界に、母の頬がふたたび現れた。
私は唇を噛んだ。声を掛ければ、彼が誰か、思い出してしまう。けれど声は出ない。
扉が開き、蒼は向こうへ消えた。
残された空間は、さらに静かになった。
梓の指先が、パンプスの踵を掴む。廉の肩がわずかに上下する。
灰色の瞳の案内人は、天秤に視線を落としたまま言った。
「恐れることは、正常です。恐れを持たない選択は、上書きの重さを知らない選択になります」
その言葉が、私の背を押した。
私は、母の冷蔵庫に貼られた小さな紙切れを思い出す。『砂糖』『重曹』『生クリーム』。
あれは渋皮煮のメモ。
あの日、私はそれを見て笑った。こんな季節にまだ栗? と。
母は「秋はもう一度くるのよ」と答えた。私は返事をしなかった。
返さなかった言葉が、こんなにも胸を重くするなんて。
私は赤い扉の前に立ち、取っ手を握る。ひやりとした感触が、過去の雨水を思わせる。
「行ってきます」
小さく呟いてから、振り返った。
天秤の針は、まだ真っ直ぐだった。
けれど、私たちの心だけが、確かに、同じ方角へ寄り合っていた。



