第1話 断頭台の向こう側で、あなたに会う
 王城の大広間は、真冬の湖面みたいに冷たかった。
 白い石床に響くのは靴音と、飾り立てられた貴族たちのくぐもった息。私の名前が呼ばれるたび、誰かが扇をたたむ乾いた音が続いた。
「侯爵令嬢レイナ・リースフェルト。││お前はこの王国の秩序を乱し、王太子殿下のご信頼を悪用し、無辜の令嬢を陥れた罪によって断罪される」
 玉座に立つ王太子の声は、よく知っているはずの音だった。けれど今日のそれには、かつて私に向けられた優しさの残り香すらなかった。
 彼の隣には、蜂蜜色の髪をふわりと揺らす子爵令嬢││私の異母妹ミリエルが、綺麗に泣くための顔で俯いている。
「……弁明を」
 尋ねられる前に口を開いたのは、喉が自然にした選択だった。
 私はゆっくりと膝を折り、裾を整える。最後まで美しくありたいという見栄が、たぶん私の唯一の矜持だ。
「殿下。わたくしは、ミリエル様を害しておりません。筆跡も証言も捏造です。証の封蝋は、王城の印章庫から盗まれたもの。管理者の帳簿は書き換えられています」
「黙れ」
 短い言葉が、刃物みたいに床に刺さった。
「これ以上、恥の上塗りをするつもりか。ミリエルが受けた屈辱は、
ここにいる者すべてが見ている。お前は嫉妬に狂い、彼女の舞踏会の席札を入れ替え、毒を盛ろうとした」
 それは、用意された台本の台詞。
 毒の小瓶を運んだのは、わたくし付きの女中││幼い頃から身の回りを世話してくれたクララだ。彼女の震える手と、背後で「良い子ね」と囁いた影を私は知っている。だがその名をここで告げたところで、糸の先にいる者まで手が届くはずもない。
 私は視線を上げ、王太子の瞳を真正面から見た。
 そこにあるのは、王になる男の冷たい計算と、幼い正義感の壊れた残骸。
「││殿下、最後にひとつだけお願いを」
「……言ってみろ」
「処刑のとき、わたくしの顔を見ていてください。嘘をつく顔に見えるかどうか、殿下の目で確かめて」
 さざ波のようなざわめきが広間を走る。王太子はほんのわずかに目を細め、それでも頷いた。
 私の父││厳格で誇り高い侯爵は、目を閉じたまま何も言わなかった。父の沈黙は、私に残された最後の祝福みたいに思えた。
 こうして私は、民衆のための見せ物として、王都の処刑場へと連

れて行かれた。
     ◇
 空は泣き出しそうで、雨にはならなかった。
 石畳に組まれた足場の上、厚布にくるまれた断頭台は昼の光を鈍く弾く。粗末な木の香りと、鉄の冷気。私は膝をつき、係役に手首を台に添えられる。
「レイナ様……」
 囁いたのは、護衛の若い兵士。訓練場で何度も見かけた、真面目な目をした子。
 彼は本来こんな役を嫌うはずなのに、命令だからと唇を噛んでいる。
「あなたの心配は、あなたを良い兵士にするわ。ありがとう」
 私は笑ってみせる。唇が震えなかったことに、少し驚いた。
 群衆の向こう、仮面のように表情を消した王太子の顔が、約束通りにこちらを見ている。ミリエルは彼の腕にすがり、両手で口を押さえて泣くふりをしていた。
 鐘が一度、重く鳴った。
 怖くないはずがない。
 でも、恐怖だけの最期にするのは御免だ。
 私は誰にも届かない小さな声で、自分自身に誓う。
(絶対に、真実を取り戻す。私をここに連れてきた手を、見つけ出す)
 処刑人が、刃の角度を確かめるために少し持ち上げた。
 木肌に頬が触れ、冷たさが骨に染みる。目を閉じる直前││遠くで、白い鳥が空を横切った。
 鐘が二度鳴り、三度目で、世界が切れた。
     ◇
 落ちていく。
 けれど、痛みはなかった。
 暗闇は深海みたいに濃く、どこまでも沈んでいきながら、私は奇妙な安堵を覚えていた。音も匂いもない虚無で、ただ身体の輪郭だけが、かすかに光の塵をまとっている。
(これが、死……?)
 ふいに、足下に“地面”ができた。
 黒い波紋。踏みしめれば、水のように揺れ、けれど沈まない。周囲には柱のように立つ影が並び、天井は見えないのに、巨大な空間の気配だけがある。
「ようこそ、境(さかい)へ」
 声がした。
 低く、澄んでいて、何より“こちら側”の空気とはまるで違う密度を持つ声。
 私は顔を上げる。そこに││座しているのは、黒曜石のような玉座と、ひとりの男。 長い外套が床を引き、胸元には光を吸うような黒い飾り紐。肌は血の気を感じさせない白さなのに、生命の熱は烈しく見える。最初に目を奪ったのは、瞳の色だった。
 夜を溶かしたみたいな深い黒。その奥で、微かな銀の火が揺れている。
「ここは……?」
「冥界と人の世の“間”。境界の間(あわい)だ。死者はここを通り、人の記憶からほどけていく。だが、稀に││ほどけない縁(えにし)がある」
 男はゆっくりと立ち上がり、一段一段、私に近づいてくる。
 足音はしない。けれど、近づくたびに黒い床に白い花びらのような模様が広がった。現実ではありえない逆説。私は息を呑む。
「お前は、ほどけなかった。だから私が拾った」
「……あなたは、どなた」
 問うと、男の口元がわずかに笑った。
 人の笑みなのに、人ではない温度。
「名乗りが必要か。││冥王アルヴィン。人の世では“魔王”と呼ぶ者のほうが多い。好きに呼べ」
 冥王。魔王。
 子どもが怖がるための物語に出てくる言葉が、目の前で静かに呼吸をしている。私は反射的に身構えて、気づけば背筋を伸ばしていた。礼法は身体に染みついた鎧だ。「レイナ・リースフェルトと申します。……わたくしは、死んだはずでした」
「死んだ。首は落とされた。だが、お前は“落ちきらなかった”。」
 アルヴィンはその瞳で、私を射抜く。
 胸の奥の何かが、ざわりと揺れた。その感覚は恐ろしいのに、不思議と嫌ではない。彼の視線は、飾りも嘘も剥いで、骨の形まで見透かす。
「見えるのですか、わたくしの……」
「“真”。お前が最後まで嘘をついていなかったことも、刃の直前、たった一度だけ殿下を許そうとしたことも」
 言葉が、喉の中でほどけた。
 許そうとした。││そうだ。
 刃が降りる瞬間、私は王太子の幼い頃の笑顔を思い出していた。庭で迷子になった子猫を二人で探して、泥まみれになって笑った夏の日。あれは、確かに真実だった。
 けれど、それでも。
「許せません」
 私の声は、思ったよりまっすぐだった。
「わたくしを陥れた者たちを。妹と、その背後にいる誰かを。王太子の弱さを利用した誰かを。何もせず目を逸らした自分も。……許せません」
「それでいい」
 アルヴィンは頷いた。その仕草は、意外なくらい静かで優しい。 彼は手をひとつ打った。黒い空間に、微かな鈴の音が広がる。私の足もとに、花弁の模様が集まって短剣の形を作った。
「この短剣は、縁を切り、縫い直す。お前が選べ。冥界に下りてすべてを手放すか、境を遡って“戻る”か」
「戻れるのですか?」
「条件がある」
 アルヴィンは私の目の前で立ち止まり、ほんの少しだけ身を屈めた。
 黒と銀の火が、私の瞳に映り込む距離。
「私は冥界の王であり、人の世に干渉するには“鎖”がいる。お前はほどけなかった縁を持つ希少な器だ。││お前を、私の“婚約者
”として迎える。名と縁で結び、半ばは冥に、半ばは人に立つ“鍵
”として」
 鼓動が、ひとつ派手に跳ねた。
 婚約者。冥王の。私が。
 ひどく滑稽で、同時に、妙に自然にも感じた。私の世界は断罪の言葉で壊れた。ならば、別の言葉で作り直すのが筋だ。
「婚約とは││契約ですか。名ばかりの飾りではなく」「名ばかりなら要らない。お前の復讐の刃に私の名を貸す。お前は私の名で守られる。見返りに、お前は戻るたび、私の傍らに立つ。
人の世で見たもの、聞いたもの、感じたものを、私に教えろ」
 対等な条件。
 いや、対等以上だ。冥王の名は、王家の印章庫の封蝋よりも重い。
「……なぜ、わたくしなのです?」
「理由がいるか」
「ええ、とても」
 アルヴィンの目に、わずかな愉悦が閃いた。
 彼は右手を上げ、空をひと撫でした。虚空に浮かぶ糸のようなものがほどけ、光の粒になって私の周囲に降る。
 光の中に映り込んだのは、私自身の記憶だった。舞踏会の夜、父に褒められた初めての刺繍、クララの小さな掌、王太子が子猫を抱いた夏の庭。
 どれも、色褪せない本物。
「お前は“最後まで美しくあり続けようとした”。刃の前で姿勢を崩さず、兵に礼を言った。それは私の好きな形だ」
 頬が熱くなったのは、冥界にも羞恥の温度が存在するからだろうか。
 私は短剣に視線を落とした。刃は鏡のように黒く、映る私の顔は見慣れた顔なのに、瞳の奥だけが知らない灯りを宿している。「ひとつ、条件があります」
「言え」
「復讐のためだけに生きるのは厭です。殿下の弱さも、妹の愚かさも、誰かの計算も、全部きっちり裁く。そのうえで││わたくし自身の人生を生き直したい。たとえば、誰かを心から信じることを、もう一度学びたい」
 アルヴィンはわずかに目を瞠り、すぐ、口角を上げた。
「それは私にとっても都合がいい。復讐だけの器はもろい。お前は壊れにくい」
「では、交渉成立ですね」
「交渉││良い響きだ」
 彼は私に掌を差し出した。
 指先は白いのに、握れば火が宿るだろうと直感した。私は迷わず、その手を取る。
 触れた瞬間、黒い床に花びらの模様が奔り、天井のない空に銀の糸が張られた。私の胸に、熱と冷たさが同時に流れ込む。
「契約は簡素だ。名を呼び合い、誓いを結ぶ。それだけで十分に深い」
「レイナ・リースフェルトは、冥王アルヴィンの婚約者となり、冥と現世の境を渡る鍵となることを誓います」「アルヴィンは、レイナの復讐と生のために名を貸し、彼女の刃が正しく落ちるよう、手を添えることを誓う」
 言葉が終わると、指先から手首へ、肩へ、胸へと、薄い鎖のような光が巻きついた。痛みはない。ただ、約束の重みだけが心地よく沈む。
「……ひとつ、確認していいですか」
「何だ」
「婚約者、というのは││社交辞令ではないのですよね。殿下のそれみたいに」
「私が社交辞令を使う顔に見えるか?」
「いいえ」
 不覚にも笑いが零れた。冥界で笑うとは思わなかった。
 アルヴィンの目が少しだけ柔らかくなる。黒は冷たい色ではない。深く潜れば、温度は上がるのだ。
「戻り方を教える。││鏡を探せ。最初にお前が“嘘を剥がされた場所”にあるはずだ。その前に立ち、私の名をひと舐めするように呼べ」
「……ひと舐め?」
「言葉遊びだ。真面目な顔をするな」
 からかわれた。冥王に。
 頬の熱を隠す前に、足下の黒がすっと薄れていく。境が、また境でなくなる合図。
「レイナ」
 名を呼ばれて、私は顔を上げた。
 すぐ目の前に、彼の瞳。黒の奥の銀が、いまは少し明るく見える。
「お前はもう“ひとりで死ぬ”ことはない。私がいる。だから、行け」
「……はい」
 私は頷いた。
 最後に、短剣の柄を強く握る。冷たいはずの感触が、掌で確かな体温を持つ。
「では、行ってきます。││アルヴィン」
 呼び方は、舌の上で少し甘い音になった。
 冥王は目を細め、ほんの少しだけ顎を引く。別れの礼。
 世界がまた切れ、黒が透けて、色が戻る。
     ◇
 湿った石の匂い。遠くで鳩が羽ばたく音。
 目を開ければ、そこは城の回廊の影だった。壁に掛かった大きな鏡。鏡の縁には、王家の紋章。
 ここは││王太子の私室へ続く前庭の通路。私が最後に王太子と言葉を交わし、「お前がすべて悪い」と告げられた場所。
 鏡の表面が波のように揺らぎ、私の顔が二重になる。
 髪は乱れていない。首も、ついている。喉に指を当てると、ちゃんと脈が打っている。
 笑い出したい衝動を、私は深呼吸で押しとどめた。
(戻ってきた)
 私は鏡に向かって一歩踏み出す。
 短剣の黒が、光のない光を吸い込む。
 鏡の奥で、誰かの気配が動いた。きっと、ここは見張られている。
王太子の新しい婚約者││ミリエルのために、誰かが通るたびに整えられる飾りの鏡。
「お帰りなさいませ、レイナ様」
 背後から、聞き慣れた声。
 振り返らずとも、誰だか分かる。クララ。私の女中。私を陥れた手のひとつ。
 私は鏡に映る自分の目を見た。
 怯えてはいない。震えてもいない。
 冥王の名が、私の背骨のまっすぐさを支えている。
「ただいま。││少し、話をしましょうか。クララ」
 彼女は短く息を呑み、すぐいつもの調子に戻した。
「まあ、なんて冗談を。お亡くなりになったはずの方が“ただいま ”だなんて」
「冗談がうまくなったのね。教えてくれた人がいるのでしょう?」
 クララの手が、スカートの端をきゅっと握る。
 私は一歩、彼女に近づき、そして笑った。
「安心して。いまは刃を振るわない。最初にするのは、鏡拭きよ。
││王城の鏡は、嘘をよく映すから」
 鏡面に指を滑らせる。指先で、冥王の名を“ひと舐めするように
”なぞった。
 小さな銀の火が、ほんの一瞬だけ、鏡の奥で瞬いた。
 ││レイナは死んだ。けれど、私はここにいる。
 処刑台で終わったはずの物語は、冥界でプロローグに書き換えられた。
 次に鳴る鐘は、誰のためだろう。
 私は鏡越しにまっすぐ自分を見て、背を伸ばした。
 冥王の婚約者として、人の世へ戻る私の最初の仕事は、真実を磨き上げること。
 さあ、開幕だ。
 “悪役令嬢”の二幕目を始めよう。私は私の名で、そして││彼の名で。

第2話 鏡の向こうに咲く火
 クララの瞳は、昔と同じ灰色をしていた。けれどそこに宿る光は、私が知っていた忠義の色ではない。
 恐怖を隠すための強がりか、それとも背後に潜む者を信じ切った確信か││その境界を見極めるのは、難しい。
「……本当に、生きていらっしゃるのですね。処刑台で首を落とされたはずなのに」
「ええ。誰のおかげかしら」
 私の声は、鏡に吸い込まれるように低く落ちた。クララは小さく肩を震わせたが、すぐにいつもの微笑を取り繕う。
「それを知っているのは、レイナ様ご自身でしょう? 冥界から戻ったのか、幻のようなものか。わたくしには判断できません」
「冥界」
 その一言を口にした瞬間、私の背を走る冷たい感覚に、銀の火がふっと灯った。アルヴィンが、こちらを見ている。見張っている。
支えている。
「判断できないなら、従いなさい。昔のように」
 クララはわずかに口を開いたが、すぐに閉じ、頭を下げた。
 だがその掌は、スカートの端で小さく震えている。忠義からの震えではなく、裏切りが露見するかもしれない恐怖の震え。 ││やはり、彼女は知っている。私を断罪へと導いた“黒幕”を。
     ◇
 その夜、私は侯爵邸の自室に忍び戻った。
 誰もいないはずの部屋。けれど机の上には、まだ書きかけの手紙と、香を焚いた小瓶がそのまま置かれていた。父が片付けさせなかったのだろう。
 父の無言の愛情に胸がちくりと痛む。私は椅子に座り、机の鏡を覗いた。
「……アルヴィン」
 名を呼ぶと、鏡の奥に黒い波紋が広がり、彼の姿が浮かんだ。
 闇に溶けるような外套、銀の火を宿した瞳。距離は遠いのに、視線は真っ直ぐ心臓を掴んでくる。
『戻ったな』
「ええ。けれど、すぐに動くわけにはいきません。監視の目が多すぎる」
『構わん。獲物を狩るには、焦るな。││お前が気づいたものは?』
「クララ。彼女は命じられて動いただけ。裏にもっと大きな影がある」
『王太子か』
「……違う。殿下は利用された。弱さを突かれただけ。彼を操った誰かがいる」
 アルヴィンは少し目を細めた。黒曜石に裂け目が入ったような光。
『ならば、そいつを見つけろ。復讐は根を断たねば意味がない』
「はい」
 私は頷いた。
 すると、鏡の奥から熱が流れ込み、胸の奥に淡い炎が灯る。アルヴィンの“契約の証”だ。
 その温もりに、私は言葉を付け足した。
「……けれど、殿下も裁きます。私を断罪した責任は、誰に操られていようと彼自身の罪。そこは譲れません」
『それでいい。弱さを裁くのもまた正義だ』
 魔王の声は冷酷なのに、私の決意を受け止めてくれる温度を持っていた。
 初めてだ。誰かにこうして、私の「怒り」を肯定してもらえたのは。
     ◇
 翌朝。
 私は侍女の手を借りて髪を整え、あえて人目につく王城の回廊を歩いた。処刑されたはずの令嬢が生きている││その噂は、炎のように広がるだろう。
 驚愕、嘲笑、恐怖。どんな反応でも構わない。沈黙は、最も都合の悪い者たちの仮面を剥ぐ。
「……お姉様?」
 振り返った先にいたのは、ミリエルだった。
 蜂蜜色の髪が朝日にきらめき、隣には護衛に守られた王太子。
 二人の顔に走った動揺は、隠しようがない。
「ごきげんよう、殿下。ミリエル。わたくし、死んだはずですが│
│こうして戻ってまいりました」
 人々の視線が一斉に集まる。
 私は裾を優雅に広げ、舞踏会のように一礼した。
「次は、あなた方の番ですわね。真実に裁かれるのは」
 王太子の顔から血の気が引く。
 ミリエルの指先が、恐怖に耐えるように震えた。
 その様子を、私は冷ややかに見つめながら、胸の奥で黒い炎を燃やした。
││冥界から戻った令嬢の復讐劇は、今まさに幕を開けた。第3話 黒い鎖が囁くとき
 大広間を包むざわめきは、刃物のように鋭かった。
 「死んだはずの女が歩いている」という事実が、群衆の常識を切り裂く。侍女たちが口を押さえ、兵士たちが槍を構えかけては戸惑い、老貴族たちが交わす囁きが波のように重なる。
 その渦中で、王太子エドワードの顔からは血の色が失せていた。
 彼は震える唇で、ようやく言葉を吐く。
「……幻覚だ。処刑は確かに行われた。首は落ちたはず……!」
 その隣で、妹ミリエルが甲高い声を上げる。
「そ、そうですわ! 姉さまは悪霊に憑かれたに違いありません!
 どうか早く討ち取りを!」
 必死の言葉が、かえって恐怖を曝け出す。
 私は裾を翻し、ゆったりと二人へ歩み寄った。
「悪霊か人か││それを見極めるのは殿下ご自身ではなくて?」
 その一言に、王太子は息を呑んだ。
 彼の目が私の顔を直視し、瞬間、迷いの色が浮かんだ。きっと思い出したのだ。断頭台の上で私が言った「顔を見ていてください」と。
     ◇
 胸の奥で、黒い熱がざわめいた。
 ――呼べ、と囁く声。アルヴィンの声。
 私は周囲に悟られぬよう指先を握り、心の内で彼の名を呼んだ。
(アルヴィン)
 刹那、冷たい炎が背骨を駆け抜ける。
 視界の端に黒い鎖が現れ、空気を切り裂くように揺れた。誰もそれを見てはいない。けれど、その威圧は広間にいるすべての人の心臓を握り潰す。
「ひっ……!」
 ミリエルが尻餅をつく。王太子でさえ膝を折りかけた。
 私はゆっくりと彼らの目の前に立ち、囁く。
「これが“冥王の婚約者”に与えられた証。私を処刑しても、この鎖は決して断てなかった」
 鎖が王太子の足元に落ちると、石床にひびが走った。衝撃はないのに、彼の呼吸は荒く乱れ、冷や汗が頬を伝う。
「殿下……あなたの罪は、まだ始まったばかりです」
     ◇
 群衆の中から、ひときわ強い声が飛んだ。
「この女を捕らえよ! 魔に堕ちた存在を野放しにするな!」

 軍務卿リヒト――父の政敵であり、古くから王家に仕える男だ。 彼の号令とともに数人の兵が動きかけたが、鎖が床を叩くと、一斉に足を止めた。
 誰もが分かっていた。これはただの幻覚ではない。本物の“力” だと。
 私は振り返り、リヒトに目を据えた。
「……なるほど。糸を引いていたのは、あなたですか」
 一瞬、彼の眉がぴくりと動いた。
 そのわずかな反応を、私は見逃さなかった。
(やはり……クララを操ったのは彼。王太子を利用し、ミリエルを駒にしたのも)
 胸に熱い決意が走る。
 復讐の標は、いま確かに姿を現した。
     ◇
 そのとき、鏡のように揺らめく空気が背後に生まれ、アルヴィンの声が心臓を打った。
『いいぞ、レイナ。仮面を剥いだなら、次は“証”を突きつけろ。
鎖は刃に変わる』
 私は微笑み、リヒトをまっすぐに指さした。「覚悟なさい。真実は必ず、あなたを喰らう」
 黒い鎖が鋭い刃に変わり、床を走った。
 貴族たちの悲鳴が木霊し、王国の均衡が、静かに、けれど確実に崩れ始めた。 
第4話 魔王の影、王都に走る噂
 床を走った黒い鎖が、リヒトの足元に食い込んだ。
 音もなく、しかし石畳が裂け、亀裂から冷気が噴き上がる。
 彼の頬がわずかに引きつり、次の瞬間には取り繕った笑みを浮かべていた。
「……なるほど。冥界と通じたか。処刑されてなお蘇るとは、やはり魔に堕ちた証拠だ」
 周囲の貴族たちがざわめく。恐怖と興奮が入り混じった声。
 けれど私は、一歩も引かずにリヒトを見据えた。
「魔に堕ちたのは、あなたの方でしょう。弱き王太子を操り、妹を駒として使った。わたくしを陥れるために、どれだけの証を捏造したのか……!」
 その声に、ミリエルが震えた。
 だが彼女は必死に首を振り、王太子の腕にしがみつく。
「違うの! わたくしは何も……! 殿下、信じてください!」
 王太子エドワードは蒼白な顔のまま、唇を開いた。
 だが言葉は出なかった。私の瞳を見て、そして黒い鎖を見て―― すべてが嘘であることを悟りながら、それを認める勇気が出ない。
     ◇
 そのとき、私の背後で空気が震えた。
 黒い布を裂くような音とともに、虚空に裂け目が走る。
 そこから伸びたのは、長く鋭い指――。
『……レイナ』
 アルヴィンの声が、誰もが聞けるかのように低く響いた。
 影が膨らみ、私の背に重なるように“魔王の半身”が現れる。
 大広間の人々は一斉に息を呑んだ。
 背後から抱き寄せるように伸びた影の腕が、私の肩を覆う。
 その瞬間、冷たいはずの黒が熱を宿し、胸に灯がともった。
「これは……っ、魔王……!」
「本当に冥界と……!」
 誰かが叫び、貴族たちが後ずさる。
 恐怖が伝染するのを、私は冷ややかに眺めた。
『恐れるがいい。冥王の花嫁に刃を向ける者は、その名をも呪いに変える』
 アルヴィンの声は、雷鳴のように広間を揺らした。
 リヒトでさえ一歩退き、剣の柄に手をかけながら顔を引きつらせる。
     ◇
 私はそっと息を吸い込み、声を張った。

「聞きなさい! わたくしは処刑された侯爵令嬢、レイナ・リースフェルト。
 しかし冥界にて蘇り、魔王の婚約者として再びこの世に立つ!
 いずれ真実を暴き、この王国の偽りを裁く!」
 広間に響く宣告。
 その瞬間、王都にいた誰もが“冥界の花嫁”の噂を耳にする未来が、確かに決まった。
 ミリエルの顔は青ざめ、王太子の瞳は揺れ、リヒトの笑みは歪む。
 誰もが恐怖と困惑に支配される中で――私は一歩、堂々と前に出た。
 この復讐劇はもう隠しようがない。
 “処刑された悪役令嬢”の二幕目は、王都全体を舞台にして始まったのだから。
第5話 冥王の契約の印
 宣告を残して大広間を去ったその夜、私は侯爵邸の奥の間にひとり腰を下ろしていた。
 蝋燭の火は揺らぎ、窓の外では王都のざわめきが絶えない。処刑されたはずの令嬢が蘇り、魔王の花嫁となった――その噂は瞬く間に広がっていた。
 召使いが怯えた目で私を見る。彼らの視線に混じるのは恐怖と、わずかな畏敬。
 人は理解できぬものに怯えながら、同時に憧れる。
(……狙い通り。まずは噂が根を張ればいい)
 私は短剣を取り出し、机に置いた。冥界から授かった黒い刃。その映り込みに、アルヴィンの瞳が浮かぶ。
『よくやったな、レイナ』
「お褒めにあずかり光栄ですわ、アルヴィン」
 呼びかけると、部屋の鏡がふっと揺らぎ、彼の影が現れる。
 深い黒の外套、冷徹な微笑。けれど、その視線だけは優しさを帯びて私を射抜く。
『だが、リヒトはそう簡単に手を引かぬ。お前を魔に堕ちた存在として断罪し直そうと、王都の評議会に圧力をかけるだろう』「分かっています。けれど、その前に……あなたの力をもっと」
 私は自分の胸元に手を当てた。
 鼓動は確かに生者のそれなのに、その奥で鎖が静かに震えている。
『力を望むか』
「ええ。復讐のために。そして、生き直すために」
     ◇
 アルヴィンは片手を差し伸べた。
 その指先が空をなぞると、黒い紋が広がり、床に複雑な魔法陣が浮かぶ。燭台の火が消え、部屋は闇に閉ざされる。
『冥王の婚約者にふさわしい証を授けよう。これを受ければ、お前は冥と人を行き来し、真実を暴く“契約の印”を得る』
 私は膝を折り、その中央に立つ。
 影が背に触れた瞬間、焼けるような冷たさが胸を走り、肩から腕へ、脚へと巡った。
「……っ」
 痛みではない。魂そのものを塗り替えるような感覚。
 息が詰まりそうになったそのとき、アルヴィンの低い声が覆いかぶさった。
『耐えろ、レイナ。お前は強い。お前の矜持は誰にも折れない』 その言葉に支えられ、私は奥歯を噛みしめた。
 やがて光が弾け、胸元に黒い薔薇の紋が浮かぶ。血のように紅い雫が中央で煌めいた。
『契約は果たされた。これからお前が真実を暴くとき、この印が刃となり、鎖となり、お前を守るだろう』
 私は深く息を吸い、姿勢を正した。
 背筋に、これまで感じたことのない力が宿っている。
「ありがとう、アルヴィン。これで……私は誰にも負けない」
『いや――忘れるな。お前がひとりで戦う必要はない。私が傍らにいる』
 その声音は冷酷に聞こえるはずなのに、不思議と温かかった。
     ◇
 その夜遅く、王都の酒場では「処刑令嬢が魔王と契約を結んだ」という噂が人々の口に上り、広がっていった。
 恐怖はやがて畏敬に変わり、「もしかすると彼女こそ腐敗した王家を裁く存在なのでは」という囁きさえ生まれ始めていた。
 そして、リヒトは評議会に向けて密書を送り、王太子は寝台の上で震えるばかり。
 一方で、ミリエルは夢にうなされ、何度も「姉さまが来る」と叫んでいたという。
 ――嵐の前夜は、もう始まっている。 私は胸元の印を撫で、決意を固めた。
 復讐の序章は終わり、次は行動の番だ。 
第6話 初めての裁き、揺れる心
 王都の朝はざわめきに包まれていた。
 処刑されたはずの令嬢が冥界から蘇り、魔王の花嫁となった―― 噂は瞬く間に市井まで広がり、人々は恐れと興味をないまぜにしながら私の名を囁く。
「リースフェルトの娘が……本当に?」
「だが、あの評議会の断罪を受けたんだぞ」
「それでも蘇った。となれば、もはや神の意思か、魔王の加護か…
…」
 人々の視線は冷たさと憧れを交え、私を追う。
 それでも足は止まらなかった。噂だけでは足りない。行動で示すべきだと、私は知っていた。
     ◇
 昼下がり。王都広場で行われた公開の裁き。
 罪を犯した貴族を、評議会が民衆の前で裁く恒例の場だ。
 今日はある男が壇上に立たされていた――辺境の農民から重税を搾り取り、娘を奪ったと告発された男爵。
 彼は笑みを浮かべ、叫んだ。
「すべて根も葉もない虚言だ! 私は潔白だ!」
 群衆は罵声を浴びせながらも、真実を掴めぬ苛立ちにざわついていた。
 そこで私は一歩、壇上に進み出た。
「ならば、わたくしが確かめましょう」
 黒い短剣を抜くと、胸元の契約の印が淡く輝く。
 アルヴィンの声が心に響いた。
『呼べ。真実を鎖で縫いとめろ』
「……冥王の婚約者の名において命じる。虚偽を砕き、真実を示せ
!」
 黒い鎖が短剣から奔り、男爵の足に絡みついた。
 鎖が脈打つたび、彼の口から声が絞り出される。
「わ、私は……っ! 確かに税を奪った! 娘を売った! だが、評議会のリヒト卿の命令だったのだ!!」
 広場が凍りついた。
 民衆は一斉に息を呑み、次の瞬間、怒号が巻き起こる。
「やはり腐っていたのは上か!」
「リースフェルト嬢は真実を暴いた!」
 人々の視線が、恐れではなく希望に変わる。
 私は胸の奥で熱を感じた。
 これが、アルヴィンの言う「刃となる印」なのだ。
     ◇
 その夜。
 広間の鏡に映るアルヴィンは、わずかに口元を緩めていた。
『よくやったな、レイナ。お前はもはやただの亡霊ではない。人々の信を得た』
「ええ……けれど、この力は恐ろしい。人の心を無理に暴くのですもの」
『だからこそお前に渡した。お前は正義と矜持を持っている。弱ければ呑まれるが、お前なら使いこなせる』
 その言葉に、胸が温かくなる。
 私は鏡にそっと手を伸ばした。
 指先が虚空に触れた瞬間、彼の影の手が重なった。
 冷たいはずの闇が、頬を赤く染めるほどの熱を宿している。
 あと一歩で、唇が触れ合いそうになる。
「……アルヴィン」
『人の世での口づけは、まだ早い』
 彼はわずかに距離を取った。
 余韻だけが胸に残り、私は小さく息を吐いた。
「意地悪ですわね」
『焦らせるのも契約のうちだ』
 鏡の向こうで冥王が笑う。
 その笑みは、恐ろしくも甘い――私の新しい生の始まりを象徴するものだった。
     ◇
 翌朝。王都の壁に「冥王の花嫁は真実を暴いた」という落書きが広がっていた。
 人々の噂は恐怖から尊敬へと変わり、やがて「レイナ様」と呼ぶ声さえ混じり始めていた。
 だが同時に、リヒトは牙を研ぎ、次なる罠を仕掛けようとしている。
 復讐と恋の二つの鎖が、いよいよ重なり合おうとしていた。 
第7話 血塗られた刺客、降臨する影
 夜の王都は、昼間の喧騒が嘘のように沈んでいた。
 けれど侯爵邸の庭には、確かな殺気が潜んでいた。
 風の音に紛れて足音が近づく。影が塀を越え、音もなく庭石に降り立った。
 ――刺客。
 私は窓辺の椅子から立ち上がり、黒い短剣に手を伸ばした。
 アルヴィンの声が心に落ちる。
『来たか。リヒトの牙だ。試されるぞ、レイナ』
「望むところですわ」
 障子が破られ、黒装束の男たちが雪崩れ込む。
 彼らの刃はためらいなく私の喉を狙った。
     ◇
 短剣を振ると、契約の印が熱を帯びた。
 刹那、黒い鎖が奔り、床を這いながら刺客たちの足を絡め取る。
 ひとりが叫び、倒れ込む。だが他の者たちは怯まない。
 殺すために調教された瞳。リヒトが放ったのは、容赦なき殺意だった。
「ここで死んでいただく!」
 鋼の刃が振り下ろされる。
 私は鎖で受け止めたが、力は拮抗し、押し返すには足りない。
(……足りない!)
 そのとき、胸の印が燃え上がる。
 鏡もないのに、アルヴィンの声が直接響いた。
『呼べ。完全に』
 迷いはなかった。
 私は息を吸い込み、魂の奥からその名を呼ぶ。
「――アルヴィン!」
     ◇
 空気が裂けた。
 部屋を覆うように黒い裂け目が広がり、そこから現れたのは冥王の影ではなく、その“本体”だった。
 漆黒の外套が空間を支配し、銀の炎を宿した瞳が刺客たちを射抜く。
 ただその存在だけで、空気が凍りついた。
「……ま、魔王……!」
 刺客たちは膝を折り、震えた。
 アルヴィンは手を振り下ろす。

 鎖が雷のように奔り、刺客の刃をことごとく砕いた。
『この女に手を上げることは、冥界への挑戦と同義。――愚か者ども』
 その声だけで、刺客たちは血を吐き、次々に崩れ落ちる。
     ◇
 私は震える手で短剣を握り直した。
 力を借りるだけでは足りない。私自身が、刃を振るう必要がある。
「……逃がしません」
 残ったひとりが必死に後ずさる。
 私は一歩踏み込み、短剣を突きつけた。
 鎖が導くように動き、男の肩口を裂いた。
 鮮血が散り、彼は悲鳴を上げて倒れる。
 自らの手で、人を傷つけた――その事実が胸を震わせた。
 けれど、恐怖よりも先に湧き上がったのは確信だった。
(これが……私の戦い)
     ◇
 アルヴィンが振り返り、私を見つめた。
 冷酷な冥王の顔に、わずかな誇りの色が宿っていた。
『よくやった、レイナ。お前はもう“守られる花嫁”ではない。冥王と並ぶ刃だ』
「……ふふ。光栄ですわ」
 息を整えながら笑うと、アルヴィンは歩み寄り、私の額にそっと触れた。
 指先は冷たいのに、触れたところから甘い熱が広がる。
『次は、お前自身の望みを告げろ。復讐だけではないだろう』
 私は瞼を閉じ、彼の影に包まれる感覚を受け入れた。
 その問いに答えるのは、まだ先でいい。けれど、確かに芽生え始めている。
 復讐の炎の奥に、もうひとつの“想い”が。
     ◇
 夜が明けたとき、刺客の死体はひとりも残っていなかった。
 冥王が影へと呑み込み、痕跡を消したのだ。
 ただひとつ、壁に黒い薔薇の紋章が残されていた。
 ――「冥王の花嫁は裁きを下す」。
 その言葉が、翌日には王都の隅々まで広まることになる。第8話 評議会の檻、揺れる王太子
 王都の評議会――。
 荘厳な大理石の円卓が並び、王国を動かす重臣たちが一堂に会する場所。
 その場に、私は立っていた。
 処刑されたはずの令嬢、冥王の花嫁。
 その存在を評議会が無視できるはずもない。
 けれど今日、彼らは“再び断罪”するために私を呼び出したのだ。
     ◇
 玉座の脇に座る王太子エドワードの顔は青ざめていた。
 彼の隣でミリエルが不安げに手を握りしめ、そしてリヒト卿が堂々と立ち上がる。
「レイナ・リースフェルト。貴様は処刑された身でありながら、魔王と契約し蘇った。これは人の法を超えた冒涜。王国の秩序を乱す脅威である!」
 鋭い声が広間を震わせた。
 老貴族たちの間からは賛同のざわめき。
 私は裾を整え、落ち着いた声で返す。
「冥王との契約は、確かに人の法の外にあります。けれど、それは王国の腐敗を正すための力。あなた方が隠してきた罪を暴くための刃です」
 リヒトの眉がわずかに動く。
 彼は即座に嘲笑を浮かべた。
「腐敗だと? 証拠はあるのか!」
 その言葉を待っていた。
 私は短剣を掲げ、胸の印を解き放つ。
 黒い鎖が奔り、天井のステンドグラスに映像を刻む。
――村から奪われた税、泣き叫ぶ娘、そしてリヒトがそれを黙認する署名。
 偽りを縫いとめた真実が、光景となって全員の目に焼き付いた。
「っ……!」
「ば、馬鹿な……リヒト卿が……」
 広間は騒然となり、重臣たちの顔が青ざめていく。
 リヒトの顔が一瞬で憤怒に染まった。
「魔王の幻術だ! 信じるな!」
     ◇
 その時、王太子が立ち上がった。
 震える声で、けれど確かに言葉を紡ぐ。
「……違う。私は見てしまった。断頭台で、彼女の瞳が嘘を語っていないと……! 本当は、私は……」

 言葉は途中で途切れた。
 殿下の瞳には、迷いと後悔、そして微かな希望が浮かんでいた。
 彼の心が揺れている――私の正しさを認めかけている。
(殿下……)
 一瞬だけ、胸の奥に痛みが走った。
 かつて愛した人への想いか、それともただの未練か。
 その答えを探す前に、背後で囁く声が響いた。
『揺らぐ心に縛られるな、レイナ。お前は復讐の刃だ。それとも―
―人の世に戻ることを望むのか?』
 アルヴィンの声。
 冷酷に聞こえるのに、問いかけるような温度が宿っている。
(人の世に生きるか、冥の花嫁として歩むか……)
 評議会の視線、王太子の迷い、リヒトの憤怒。
 すべての視線が、私の答えを待っていた。
     ◇
 私は短剣を強く握り、深く息を吸った。
 今、この瞬間こそが――。
 冥王の婚約者として生きるのか、かつての王国の令嬢として戻るのか。
 私の選択が、王国の未来を左右する。
第9話 血塗られた選択
 円卓に沈黙が落ちていた。
 王太子は震える手で椅子を支え、ミリエルは顔を伏せ、リヒトは怒りを押し殺すように目を細める。
 誰もが待っていた。私が、どちらの道を選ぶのかを。
 冥王の花嫁として冥の力を振るうか。
 あるいは、かつての令嬢として人の世に立つか。
 胸元の印が熱を帯び、鎖が小さく震える。
 アルヴィンの声が、誰にも聞こえぬ囁きとして届いた。
『選べ、レイナ。人の目に生きるか、私の影に生きるか』
     ◇
 私は静かに目を閉じ、深呼吸をした。
 過去を思い出す。
 処刑台で冷たく見下ろした王太子。
 泣き顔で演じ続けた妹。
 そして、影から糸を引き続けたリヒト。
 すべてが私を殺した。
 けれど、冥王の手が私を救った。
 答えは、ひとつしかない。 私は円卓の中央に進み出て、声を張った。
「わたくしは――冥王の婚約者として、この世に立ち続けます!」
 鎖が奔り、広間に黒い火花が散る。
 恐怖に駆られた貴族たちの悲鳴。
 だがその奥で、民の代表として列席していた者たちの瞳が光った。
「冥王の花嫁は、我らの声を代弁するのか……?」
「腐敗を裁けるのは、もはや彼女だけだ」
 支持の声が、低く、それでいて確かに芽吹き始めていた。
     ◇
 リヒトが机を叩きつける。
「戯言を! 冥王と結託した亡霊に国を任せられるか!」
 その瞬間、床下で鈍い響きがした。
 次の刹那――広間の扉が吹き飛び、武装兵が雪崩れ込む。
「捕らえよ! 冥の花嫁も、証人も、皆殺しにせよ!」
 リヒトの叫び。
 血の臭いが立ち込め、評議会そのものが戦場に変わった。
     ◇
 私は短剣を抜き、印の力を解き放つ。

 黒い鎖が兵の刃を弾き、床を裂く。
 だが数は多い。このままでは押し潰される。
「アルヴィン!」
 叫ぶと同時に、鏡もない空間に影が裂け、彼の姿が現れる。
 半身ではなく、ほとんど完全な降臨。
 冥王の瞳が血塗られた広間を一瞥しただけで、兵士たちの心臓が凍りついた。
『……愚か者ども』
 低い声が落ちると、黒い鎖が一斉に奔り、兵を壁際に叩きつける。
 血の霧が舞い、広間は阿鼻叫喚に包まれた。
     ◇
 混乱の中で、私は王太子を見た。
 彼は恐怖に震えながらも、私を見ていた。
 そこにあったのは、憎しみではなく――哀願。
「レイナ……頼む、国を……救ってくれ……」
 その言葉に、胸の奥が強く鳴った。
 復讐だけではない。
 私の刃は、もう王国そのものを変えるために振るわれるのだと悟った。
     ◇
 私は血に濡れた短剣を掲げ、宣言する。
「聞け! わたくしは冥王の花嫁、レイナ・リースフェルト!
 この刃で、王国を腐らせた罪を裁き尽くす!」
 黒い炎が天井を照らし、薔薇の紋章が浮かび上がる。
 恐怖と熱狂が入り混じった声が広間を満たし、王国の歴史は確かに動き出した。 
第10話 黒薔薇の旗、揺れる王都
 血の匂いがまだ残る評議会の広間。
 リヒトは混乱の最中に姿を消し、残されたのは恐怖に怯える貴族たちと、震える王太子だけだった。
 私は剣を下ろし、広間に告げた。
「――ここに宣言します。わたくしは冥王の婚約者として、この国に巣食う腐敗を裁く。誰であろうと、罪を隠すことはできません」
 その言葉と同時に、胸元の印が光を放ち、黒い薔薇の紋が床に浮かび上がる。
 人々の視線がそれを見て、恐怖と憧れがないまぜになった声をあげる。
「冥王の花嫁が……裁きを下す……!」
「黒薔薇の印だ……」
「彼女こそ、新しい秩序の象徴……!」
 噂は翌日には王都全域に広がった。
 石壁や扉には、誰が描いたのか黒い薔薇の落書きが次々に現れた。
 民衆はそれを「裁きの証」と呼び、声を潜めながらも確かに支持し始めていた。
     ◇
 一方で、リヒトの姿は王都から消えていた。 残された密書から、彼が反乱軍を組織し始めたことが判明する。 辺境に不満を抱く領主たちを集め、「冥王の花嫁に支配される前に王国を守れ」と煽っているのだ。
『蛇が逃げただけだ。いずれ牙を剥いて戻ってくる』
 アルヴィンの声が、夜の鏡越しに届く。
 私はその瞳を見つめ、力強く頷いた。
「逃がしはしません。彼を討ち、腐敗の根を断ち切る」
『ならば次は、民の心を完全に掴め。力だけでなく、信を得てこそ王国を変えられる』
 彼の言葉に、私はふと息を呑んだ。
 民を導く――それは、私ひとりでは背負いきれない重さ。
「……あなたは、その隣にいてくれますか」
 問いかけると、アルヴィンはわずかに笑った。
 冷たいのに、どこか甘い微笑。
『忘れたか。お前は私の花嫁だ。隣以外の場所に立つ理由があるか
?』
 胸の奥が熱に満たされ、言葉が喉で震えた。
 復讐のための契約が、いつの間にか心を縛る絆に変わっている。
     ◇
 翌朝、王都の広場では黒薔薇の旗が翻った。
 誰が掲げたのかは分からない。けれどそれは民衆の合言葉となり、城門近くには群衆が集まり始めていた。
「レイナ様を! 冥王の花嫁を!」
「腐敗を裁け!」
 声は次第に大きくなり、王都を震わせるうねりへと変わっていった。
 その声を窓から見下ろしながら、私は短剣を握った。
 復讐の炎は、やがて革命の火となる。
 そしてその隣には、冥王――アルヴィンの影が確かにあった。

第11話 反乱の火種、囁かれる愛
 王都に黒薔薇の旗が翻った翌日、辺境から凶報が届いた。
 リヒト卿がついに旗を挙げ、数名の領主を従えて軍を編成したという。
 「冥王の花嫁を討ち、人の秩序を守る」と声高に叫びながら、兵を集めているのだ。
 伝令の言葉に、評議会に残った重臣たちは震えた。
 かつて断罪を下した彼らはもはや口を閉ざし、決断の責任を王太子に押しつけるしかなかった。
     ◇
 王太子エドワードは、蒼白な顔で私を見た。
 その瞳には恐怖と、弱いながらも決意が揺れていた。
「……レイナ。
 お前を処刑したのは、私だ。
 だが……今、国を守れるのはお前しかいない。どうか――どうか助けてくれ」
 その声は震えていたが、確かに真実だった。
 私は彼をまっすぐに見据え、冷ややかに答えた。
「殿下。わたくしを救いの手と呼ぶ前に、自らの罪を認めること。
 それが、この国に立つ最低限の条件です」 エドワードは唇を噛み、やがて深く頭を垂れた。 その姿を見て、ほんのわずかに胸の奥が疼いた。
 けれどもう、あの日に戻ることはない。
     ◇
 夜。侯爵邸の部屋で、私は鏡を覗いた。
 呼びかけるまでもなく、アルヴィンの姿が映っていた。
『王太子はようやく頭を下げたか。遅すぎる贖罪だ』
「ええ。でも、それでも……彼が変わろうとするなら、利用します」
 私の言葉に、アルヴィンは低く笑った。
 その笑みは冷酷でありながら、不思議と心を温める。
『お前は変わったな、レイナ。復讐の炎だけでなく、王国を変える意思を宿した。
 それができるのは――お前だけだ』
「……あなたが隣にいるから、です」
 思わず口にした言葉に、胸が熱くなる。
 アルヴィンの瞳が揺らぎ、影の手が鏡越しに私の頬をなぞった。
『ならば言おう。お前は私の刃であり、同時に――私の唯一だ』
 低い囁きは、愛の告白のように響いた。
 頬が熱を帯び、心臓が強く跳ねる。
 冥王の花嫁としての契約が、いつしか恋へと変わっていくのを、私は確かに感じていた。
     ◇
 その翌日。
 王都の街角で、子どもたちが黒い薔薇を模した布を振っていた。
 「冥王の花嫁が私たちを守ってくれる」と。
 だが同時に、辺境ではリヒトの反乱軍が集結しつつある。
 王国は二つに割れようとしていた。
 復讐の刃は、いまや革命の旗に変わりつつある――。 
第12話 黒薔薇の軍旗
 王都に鳴り響く鐘の音は、不吉な報せを告げていた。
 辺境に集結したリヒトの反乱軍が、ついに王都へ向け進軍を開始したのだ。
 兵の数は数千。旗には「人の秩序を守る」の文言。だがそれは民衆を欺く口実に過ぎない。真実はただひとつ――冥王の花嫁を討ち滅ぼすための戦。
     ◇
 王城の広間で、王太子エドワードは震える声で私に訴えた。
「……兵の士気は低い。貴族たちも動こうとしない。
 レイナ……いや、“冥王の花嫁”よ。どうか軍を率いてくれ」
 その目には怯えと同時に、確かな頼りの色があった。
 私は冷たく笑みを浮かべる。
「殿下。わたくしはもはや王家の令嬢ではありません。
 ですが――民のためなら刃を振るいましょう」
 広間にざわめきが走る。
 それは恐怖ではなく、待ち望んでいた声を聞いたときの熱。
     ◇
 その夜、侯爵邸の庭に民衆と志願兵が集まった。 彼らは手に手に黒い布を掲げていた。薔薇の紋を染め抜いた即席の旗。
 子どもが震える手でその旗を振り、大人がその背を守るように立っている。
「レイナ様! 我らを導いてください!」
「冥王の花嫁の刃で、腐敗を断ってください!」
 叫びは熱狂へと変わり、私は胸に灯る契約の印を押さえた。
 アルヴィンの声が、心に響く。
『見ろ、レイナ。お前のために集まった者たちだ。
 彼らは恐怖ではなく希望でお前を見ている』
「……これは、私ひとりの力ではありません。あなたが隣にいるから」
 鏡越しのアルヴィンが微笑んだ。
 その瞳は冷酷な冥王のものなのに、確かに優しさを宿している。『ならば、この軍を“黒薔薇の軍”と名付けよ。お前の紋が彼らを守り、導く』
 私は短剣を高く掲げた。
 契約の印が光り、夜空に黒い薔薇が咲く。
 民衆は歓声を上げ、その声は王都全域に広がった。
「――黒薔薇の軍を結成します!
 この刃は、腐敗を裁き、未来を切り拓くために!」

     ◇
 アルヴィンの影が背に寄り添い、低い囁きが耳を打った。
『お前は美しい。刃であり、花であり……そして、私の唯一』
 その言葉に、胸の奥が強く跳ねる。
 契約という鎖が、いつしか愛という絆へと変わり始めていた。
     ◇
 黒薔薇の旗が掲げられたその瞬間、王国は二つに割れた。
 リヒトの反乱軍と、冥王の花嫁の軍。
 復讐の刃はついに、王国の命運を賭けた戦いへと進化した。 
第13話 黒薔薇の初陣
 夜明けの光が、王都の城壁を赤く染めていた。
 黒薔薇の旗が並び、広場には集まった志願兵と市民たちのざわめきが満ちている。彼らの手には鍬や槍、古びた剣。整った軍勢とは言い難い。けれど、その瞳には恐怖よりも強い意志が宿っていた。
「レイナ様! どうかご指揮を!」
「冥王の花嫁の刃で、我らに勝利を!」
 声が重なり、胸の奥に熱を灯す。
 私は高台に立ち、短剣を掲げた。
「聞きなさい! 我らはただの反乱軍ではない! 腐敗を裁き、未来を掴む“黒薔薇の軍”です! 恐れることはありません!」
 印が光を放ち、夜明けの空に黒薔薇の幻影が咲いた。
 歓声が轟き、兵たちは旗を振り上げた。
     ◇
 やがて、リヒトの先遣部隊が姿を現した。
 槍と盾を揃えた整然たる兵列。訓練された兵の足音は大地を揺らし、私たちの未熟さをあざ笑うようだった。
「……数では劣るな」
 侯爵家の古参兵が苦い声を漏らす。
 けれど、私は笑った。
「数ではなく、心で勝ちます」
 短剣を振り下ろす。
 その瞬間、黒い鎖が奔り、地を這うように兵列へ伸びる。
 鎖は足を絡め取り、盾を引き裂き、混乱を生み出した。
「ひっ……魔の力だ!」
「退け、退けぇ!」
 先遣部隊はわずか数刻で潰走し、黒薔薇の軍は歓声を上げた。
     ◇
 だが戦は終わらない。
 次の瞬間、敵の後方から炎の矢が放たれ、城壁の外に火柱が上がった。
「ぐあっ!」
「民家に火が……!」
 焦げた匂いと悲鳴。リヒト軍は民を巻き込み、恐怖で我らを揺さぶろうとしていた。
 私は息を呑み、印に力を込める。
「……アルヴィン!」
 名を呼ぶと、影が裂け、彼が現れた。
 半身だけでも戦場を覆う存在感。冥王の瞳が燃え上がり、冷酷な声が大地を震わせる。
『火は恐怖の象徴だ。ならば恐怖ごと飲み込め』
 黒い炎が彼の掌から解き放たれ、迫る矢をすべて呑み込んだ。
 群衆が目を見開き、恐怖が歓声へと変わる。
「冥王が……守ってくださった!」
「花嫁様と共にある!」
     ◇
 戦いの最中、私は王太子の姿を見つけた。
 彼は震えながらも、剣を抜き、黒薔薇の旗の下に立っていた。
「……私はもう逃げぬ! この国を、レイナに託す!」
 その声が兵に届き、士気がさらに高まる。
 私は短剣を掲げ、叫んだ。
「進め! 黒薔薇の軍よ! これは復讐の戦ではない! 未来を切り拓くための戦です!」
 黒薔薇の旗が一斉に翻り、王都を震わせた。
 民衆の熱狂が波のように広がり、リヒトの軍勢に立ち向かっていく。
     ◇
 戦の余韻が残る広場で、私は息を整えていた。 アルヴィンが傍に立ち、低く囁く。
『見事だ、レイナ。刃であると同時に、旗でもある。お前は人々を導く象徴になった』
「……でも、まだこれは始まりにすぎません」
 私は短剣を握りしめた。
 リヒトとの決戦は、まだ先に待っている。 
第14話 血の契約、揺れる心
 初陣の勝利から数日。
 黒薔薇の軍は勢いを増し、王都の民の支持を確かなものにしていた。
 けれどその熱を断ち切るように、凶報が届いた。
「リヒト軍が――辺境の村を占拠し、人質を取ったとのことです!」
 伝令の声が震えていた。
 捕らえられたのは農民や子どもたち、数百人。盾にされれば、こちらは迂闊に攻め込めない。
     ◇
 私は戦議の席に座り、地図を睨んでいた。
 古参の兵が進言する。
「……敵の数は多くはありません。ですが人質がいる以上、強攻すれば犠牲は避けられません」
 民を救うか、それとも見捨てて進軍するか。
 復讐を急ぐ心が、「切り捨てろ」と囁いていた。
 そのとき、胸元の印が熱を帯びた。
 アルヴィンの声が落ちてくる。
『迷うな、レイナ。民はまた増える。だがリヒトを討つ機会は二度と来ない。――切り捨てろ』
 冷酷な声だった。
 だがその声が正しいと、心のどこかで理解していた。
(……本当に、それでいいの?)
 脳裏に浮かぶのは、村の子どもたちの泣き顔。
 処刑台で私を見送った人々の無力な視線。
 あのときの悔しさを、今度は私が繰り返すのか。
     ◇
 私は立ち上がった。
 短剣を握りしめ、黒薔薇の軍の兵に告げる。
「人質を救い出します。犠牲を許しては、この刃はただの復讐の道具になる。
 私は冥王の花嫁であると同時に――王国を導く旗です!」
 兵たちの瞳が光った。
 恐怖と誇りが入り混じった視線。
 その熱を感じ、私は覚悟を決めた。
     ◇
 夜。敵陣に忍び寄り、短剣に力を込める。
 鎖が地を這い、音もなく人質の鎖を切り裂く。
 混乱の中で、黒薔薇の兵が雪崩れ込み、子どもたちを抱えて駆け出した。
「姫様だ! 冥王の花嫁様が助けてくれた!」
 歓声が夜を裂き、敵の士気が崩れる。
 しかし――背後から鋭い刃が迫った。
 私は反射的に短剣を振るう。火花と共に、敵兵が倒れる。
 自らの手で血を浴びても、心は揺れなかった。
「……これが、私の選んだ道」
     ◇
 戦の後、夜風の中でひとり息を整えていると、アルヴィンが影から現れた。
 彼の瞳は冷酷さを失い、どこか柔らかい光を宿していた。
『愚かだと思った。だが――美しい。
 お前は復讐の女ではなく、生を選んだ。だからこそ私は……』
 低く、途切れるような声。
 私は彼を見つめ、待った。
『……私は冥王である前に、レイナを愛している』
 その囁きが胸を打ち抜いた。
 契約ではなく、愛。
 私は短剣を胸に抱き、震える唇で答える。
「……私も、あなたの隣に立ちたい。花嫁として。刃として。そして……ひとりの女として」 影の腕が私を包み、夜空に黒薔薇が咲いた。
     ◇
 しかしその花は、嵐の前触れだった。
 リヒトの本軍がついに王都に迫る。
 決戦の時が、間近に迫っていた。 
第15話 王都決戦
 黒薔薇の旗が王都の城壁に並んだ日の夜明け、遠雷のような地響きが響いた。
 リヒトの大軍が進軍してきたのだ。数千の兵と傭兵、そして奪われた領地の農民までを強制的に駆り出した巨大な軍勢。その旗には「秩序」の二文字が刻まれていた。
 王都の広場に集まった黒薔薇の軍は、未だ若く、訓練も不十分だった。けれど、人々の瞳は恐怖に揺らぎながらも、確かな決意に燃えていた。
「これが――王国の最期か、始まりか……」
 古参の兵が呟く。
 私は高台に立ち、短剣を掲げた。胸の印が熱を帯び、夜明けの光に黒い薔薇が咲き誇る。
「聞け、黒薔薇の軍よ! 今日、我らは腐敗を断つ! 王都を守り、未来を切り拓く! 恐れるな――冥王の花嫁が共にある!」
 歓声が轟き、兵たちは武器を掲げた。
     ◇
 やがて敵軍が城門に迫る。
 その先頭に、甲冑を纏ったリヒトの姿があった。「亡霊の花嫁に国を渡すわけにはいかぬ! 討て!」
 怒号と共に矢が放たれ、火矢が城壁を照らす。
 黒薔薇の軍が盾を構えるも、数で押し潰されそうになる。
 そのとき――王太子エドワードが馬を駆って前に出た。
 青ざめた顔、震える腕。けれどその瞳は、もはや逃げてはいなかった。
「私が先陣を切る! 贖罪のために、この命を賭す!」
 彼は兵の先頭に立ち、剣を振るって敵へ突撃した。
 その姿に、黒薔薇の兵が続く。
「殿下が……!」
「王子が戦っている!」
 士気が上がり、戦場が熱に包まれた。
     ◇
 私は短剣を振り、鎖を奔らせる。
 黒い刃が敵の陣を裂き、悲鳴が響く。
 けれど敵の数は止まらない。次々と押し寄せる兵に、味方の列が崩れていく。
 その瞬間、王太子の馬が倒れ、彼が地に叩きつけられた。
 敵兵の槍が突き立てられる。
「殿下!」
 私は叫んだ。
 だが彼は最後の力で立ち上がり、槍を胸に受けたまま剣を振り抜いた。
 敵兵が崩れ落ち、王太子は血に染まりながらも私を見た。
「……頼む、レイナ。国を……救ってくれ」
 その言葉を残し、彼は倒れた。
 その姿に、兵たちが涙を流しながら雄叫びを上げる。
     ◇
 怒号の中、リヒトが前に進み出た。
 鎧に血を浴びながら、なお冷酷な笑みを浮かべている。
「これで残るはお前だけだ、レイナ・リースフェルト!」
 彼の声に、兵も民も息を呑む。
 私は短剣を構え、まっすぐに歩み出た。
「いいえ、殿下の死は無駄にはしません。ここで――あなたを裁く
!」
 戦場が静まり返る。
 私とリヒトの一騎討ちが、王国の命運を決めると誰もが悟っていた。
     ◇
 背後でアルヴィンの声が低く囁く。
『行け、レイナ。復讐と未来、どちらを選ぶか――刃で答えを示せ』
 私は頷き、黒薔薇の短剣を強く握った。
 復讐の炎と、新しい愛と。すべてを胸に抱き、私はリヒトへと歩みを進めた。 
第16話 復讐と赦しの刃
 戦場の只中。
 血と煙が渦巻き、悲鳴と怒号が交錯する。
 けれど、私の耳にはただひとつの音しか届いていなかった――自分の鼓動。
 目の前に立つのはリヒト。
 鎧に血を浴び、剣を構え、その瞳には冷たい憎悪が宿っている。
「貴様さえいなければ……! 王国は私のものだった!」
 その叫びは、ただの怒りではなく、狂気と野望の残滓だった。
 私は短剣を握り、静かに応じる。
「あなたの“秩序”は腐敗の別名。今日ここで終わらせます」
     ◇
 剣と短剣がぶつかり、火花が散る。
 リヒトの力強い一撃に腕が痺れるが、鎖が私を支える。
 アルヴィンの声が胸奥から響いた。
『押し返せ、レイナ。お前は孤独ではない』
 その囁きに力を得て、私は一歩前に踏み込む。
 黒い鎖が奔り、リヒトの腕を絡め取った。
「なっ……!」
 動きを止めた隙に、私は短剣を喉元へ突きつけた。
 勝敗は決した。
 だが――ここで殺せば、復讐は果たされても未来は閉ざされる。
(私は……どうする?)
     ◇
 血に濡れたリヒトの瞳が、私を睨む。
 殺意が渦巻くが、その奥にあるのは恐怖だと気づいた。
 彼は己の罪を暴かれることを、死より恐れている。
「……リヒト。あなたをここで殺すのは簡単です。
 ですが、それでは王国は何も学ばない」
 私は短剣を下ろし、代わりに鎖を強く締め上げた。
 黒い鎖が光り、幻影が空に映し出される。
 ――リヒトが行った数々の悪行。
 搾取された農民、操られた王太子、泣き叫ぶ人々。
 そのすべてが戦場の空に浮かび上がり、兵も民も息を呑んだ。
「見なさい! これがリヒト卿の真実! 罪を隠して権力を握った男の末路です!」
 群衆がざわめき、やがて怒号が沸き起こる。

「リヒトを裁け!」
「腐敗を許すな!」
 人々の声が嵐となり、リヒトの顔は蒼白に染まった。
「や、やめろ……私は……!」
 もはや彼に逃げ道はなかった。
     ◇
 私は鎖を解き、短剣を掲げた。
「リヒト、あなたを人の法に引き渡します。
 処刑台で、わたくしが味わった屈辱と同じように、
 民の前で罪を裁かれるのです」
 その言葉に、兵と民が歓声を上げた。
 リヒトは引きずられ、地に叩きつけられる。
 彼の叫びは、もはや誰にも届かない。
     ◇
 戦が終わり、血に濡れた戦場に静寂が戻った。
 私は短剣を胸に抱き、深く息を吐く。
『……選んだな、レイナ』
 アルヴィンが影から現れる。
 冷酷な冥王の瞳が、今は誇りと温もりを宿していた。『お前は復讐に溺れず、未来を選んだ。だからこそ――私はお前を愛する』
 その言葉に、胸が熱くなる。
 私は彼を見上げ、微笑んだ。
「ありがとう、アルヴィン。わたくしも……あなたを愛しています」
 影の腕が私を包み、黒薔薇の花弁が夜空に散った。
     ◇
 こうしてリヒトは倒れ、腐敗の根は断たれた。
 だが王国に新しい秩序を築くためには、最後の一歩が残っている。
 ――冥王の花嫁としての誓いを、この国に示すこと。第17話(最終話) 冥王の花嫁
 王都の処刑台に、黒薔薇の旗が翻っていた。
 かつて私が無実のまま首を落とされたあの場所――今、そこに立たされているのはリヒトだった。
 群衆は息を呑み、兵士たちが彼を縛りつける。
 顔は蒼白、唇は震えている。それでもなお、彼は最後まで叫んだ。
「これは魔の陰謀だ! 冥王の花嫁に騙されるな!」
 だが、人々はもう動じなかった。
 幻影によって暴かれた数々の罪。
 搾取、裏切り、殺戮――その全てが晒された今、彼を庇う声は一つもなかった。
「冥王の花嫁が真実を示した!」
「罪を裁け!」
「黒薔薇の名の下に!」
 怒号と歓声が入り混じり、王都の広場を震わせる。
     ◇
 私は処刑台の上に立ち、短剣を掲げた。
 胸元の印が熱を帯び、黒い鎖が空を走る。
「リヒト卿。あなたの罪は、この国を蝕み、多くの命を奪った。 わたくしを断罪したときのように――今度はあなた自身が裁かれる番です」
 鎖が鳴り響き、断頭台の刃が落ちた。
 リヒトの叫びは一瞬にして途絶え、群衆の歓声が夜明けの空を突き抜けた。
     ◇
 戦は終わった。
 だが新しい秩序を築くためには、象徴が必要だった。
 民はすでに私を「冥王の花嫁」と呼び、黒薔薇の旗を掲げていた。
 ならば――私はその名を背負うと決めた。
 夜、静まり返った王城の広間。
 鏡に映るアルヴィンが、影をまとって現れる。
『復讐は果たされた。ならば次は……お前自身の生き直す道を選べ』
「ええ。私はもう“処刑された令嬢”ではありません。
 “冥王の花嫁”として、この国を導きたい。
 あなたと共に」
 私の言葉に、アルヴィンはゆっくりと歩み寄り、影の腕で私を抱き寄せた。
 その瞳は、冷酷な冥王ではなく、一人の男のものだった。
『……ならば誓おう。レイナ・リースフェルト。
 お前は私の花嫁であり、刃であり、唯一の光だ』「そして私は、あなたの隣に生きることを誓います。
 復讐ではなく、未来のために」
     ◇
 その瞬間、胸の印が輝き、黒薔薇の花が広間いっぱいに咲き誇った。
 薔薇の花弁が舞い散り、夜空を越えて王都全体を照らす。
 民は空を仰ぎ、その光に手を伸ばした。
 「冥王の花嫁こそ、新しい時代の象徴だ」と。
     ◇
 ――かつて処刑された悪役令嬢。
 無実の罪で断頭台に散った少女の物語は、冥界の王に拾われ、花嫁となり、復讐を越えて未来を掴んだ。
 黒薔薇の旗は揺れ続ける。
 その下で私は剣を取り、隣に冥王を抱きながら、新たな時代を歩んでいく。
「さあ、アルヴィン。これからが私たちの物語です」
『ああ――冥王の花嫁よ』
 ――そして、幕は閉じた。


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