第1話 毒の谷で目を開けて、自由を宣言する
 鐘が三度鳴った。処刑の合図だということを、私はよく知っていた。
 広場に集まった人々は、私を「悪役令嬢」と呼んで囁いた。白手袋の貴婦人も、粗布の男も、誰も彼も同じ顔で好奇心を湛えている。私の名はアイリス・グランドリア。侯爵家の長女であり――今日、王都で「嫉妬に狂って王太子妃を傷つけた罪」で処刑される女だ。
 もちろん冤罪だ。
 私は薬師で、傷を癒やし、毒を抜くことに人生を費やしてきた。嫉妬だの、陰謀だの、私には似合わない。けれど、王太子の言葉が法である王都では、真実はささやき声よりも弱い。
「アイリス・グランドリア。王国に仇なす者。その罪、奈落の毒谷への投擲をもって償わせる」
 青いマントの騎士が淡々と読み上げた。
 私は壇上から見下ろす。石畳の裂け目のように、処刑台の先に黒い穴が口を開けている。谷底は見えない。噂では「底には古の毒が満ちている」という。落ちたものは、骨さえ残らないのだと。
 私の両手は背で縛られている。紐の食い込みは痛いけれど、不思議なほど心は静かだった。
 視線を巡らせると、父の姿が見えた。痩せて、背が少し曲がっている。目が合ったとき、彼はわずかに首を振った。怒りでも哀れみでもない。――覚悟の合図に見えた。
「最後に弁明はあるか」
 騎士が問う。私は首を横に振った。ここで何を言ったところで、物語は変わらない。
 変えるとしたら、書き手を変えるしかないのだ。私が私の物語を取り返す――それだけ。
「では」
 足元の板が開いた。
 空気が抜ける。身体が落ちる。喉が震える。歓声と悲鳴が遠ざかって、風の唸りだけになる。私は目を閉じない。暗闇が迎えにくるなら、見開いた目で見据えてやる。
 その瞬間、頭の奥で何かがほどけた。
 白い部屋、透きとおる声、手渡された一片の光。――思い出した。私はここに生まれる前、神域で「ひとつだけ力を選べ」と言われた。私は迷わず選んだのだ。毒を薬に変える力を。
 神は微笑み、私の左手に紋を刻んだ。花弁のような六角の紋。名は**〈反転調合〉(リバース・アトライア)**。毒素を読み替え、逆さまの性質を編み直す、たった一度きりの祝福――そう、たとえ世界が敵になっても、生き延びるための祝福。
 落下の衝撃が、私を現実に引き戻す。
 ――ゴチンッ。
 痛み。けれど、骨は砕けなかった。柔らかな苔と粘度の高い液体が衝撃を吸い取ってくれたらしい。鼻をつく匂い。鉄と薬草の中間のような、甘く腐ったような香りが立ち上る。
「……生きてる」

 呟いて、私は左手を見た。手首に巻かれていた布が落ち、白い皮膚に淡い光が浮かぶ。花弁の紋――神の印。
 周囲は蒼黒い霧に満ちている。皮膚がぴりぴりする。噂どおり、谷は毒で満ちているようだ。目を凝らすと、岩肌の隙間に縮れた蔓が張り、滴る液が地面に穴をあけている。
 私は深く息を吐いた。
 怖くないと言えば嘘になる。でも、ここなら――誰にも邪魔されずに、生き方を選べる。
「……やろうか」
 私は膝をつき、周囲の毒霧に指先を浸した。
 ひやり、と冷たい。左手の紋が静かに熱を帯びる。毒素解析―― 匂い、色、反応。脳裏に化学図形のようなイメージが浮かぶ。腐敗を促す成分、麻痺を引き起こす成分、血に混じれば心臓を止める成分……それらの結び目を、逆に結び直していく。
「〈反転調合〉」
 言葉は鍵だ。
 薄い光が手のひらでほどけ、毒霧の一部が白い粉に変わる。指先で集め、掌で転がす。生温い粉は、やがて透明な滴に変性した。
 私は滴をひとしずく舌に乗せる。苦味――のあとに、静かな甘さ。
胸のさざめきが落ち着き、頭が澄む。成功だ。万能解毒滴。谷の毒に対する中和液。
 生きる準備ができた瞬間、足元の陰で何かが震えた。
「……?」
 藪がざわりと動く。私は身を低くして覗き込む。
 そこにいたのは、小さな白い塊だった。ふかふかの毛玉――いや、動いた。目が合った。
 薄青い瞳。鼻先が濡れている。耳がぴくりと動いて、鈴のような声が「きゅ」と鳴いた。
「あなた、どうしてこんなところに」
 毛玉は一歩、二歩と近づいてくる。足取りがふらついている。毒に当てられているのだろう。
 私は掌に残った解毒滴をもうひとしずく作り、指先でその鼻先に触れた。白い毛が濡れ、毛玉が驚いてくしゃみをする。
 数秒ののち――ふわ、と息が整い、小さな身体が軽く跳ねた。尻尾がふるふると震え、私の手首に頬を押しつける。
「……元気になった?」
「きゅ」
 答えるように鳴いて、毛玉は私の膝にのぼってきた。
 よく見るとそれは仔狼だった。けれど、普通の狼ではない。背に薄い紋様が走り、毛先が微かに光っている。魔獣の子――おそらく、**霜狼*(フロストウルフ)*の幼体。
「あなた、名前は?」
 仔狼は首をかしげる。
「……じゃあ、ルゥ。今日から、私の相棒ね」
「きゅ!」
 ルゥは嬉しそうに鳴いた。小さな舌で私の指を舐める。
 私は笑ってしまった。ここは処刑の谷。さっきまで私は死ぬはずだった。でも今、膝で眠るもふもふの温度が、こんなにも現実を明るくする。
 上空から、甲高い声が風に乗って落ちてくる。
『死骸は? 確認しろ!』
 騎士の怒鳴り声。私は見上げた。垂直に切り立つ壁の上、いくつもの影が行き来している。
 死んだことにならなければ、処刑は終わらない。彼らは私の身体を見つけるまで覗き込み、石でも投げるのだろう。
 私は素早く周囲を見回した。岩陰、蔓、ぬかるんだ地。逃げ道は
――谷の奥へ続く暗い裂け目。湿った洞(ほら)が口を開けている。
「行こう、ルゥ」
 私は仔狼を胸に抱き、裂け目に身を滑り込ませた。
 まぶたをなぞるような冷気。足元は不安定で、岩が濡れている。
手の甲に冷たい滴。けれど、あの毒霧よりはましだ。
 洞は思ったより深く、やがて開けた空間に出た。
 上から細い光が差し込み、中央の窪みに淡い水が溜まっている。右奥――古い木の枠。崩れた棚。誰かが昔、ここで暮らしたのだろうか。
 棚には黒ずんだ瓶がいくつか残っていた。触れると、指に甘い香りが移る。薬草の匂い。私は瓶をひとつ開け、鼻に寄せた。
「……白露の種」
 乾いた小さな種子。毒を引き寄せる性質がある。触媒として最適だ。
 私は左手の紋をじっと見つめた。これは一度きりの祝福――けれど、一度で何をどこまで反転できるかは、私次第だ。祝福の核は失われない。ただし、強い干渉ほど回復に時間がかかる。
 命を繋いだ今、次は生き方を作る番。
「拠点にしよう」
 私は口に出して言った。
「ここを、私たちのはじまりにする」
「きゅ」
 ルゥの返事は短く、力強かった。
 私は洞の周囲を歩き、乾いた枝と崩れた棚板を集める。岩壁に残っていた古い布を裂き、紐にする。
 天井の割れ目から差す光が、時間の流れを教える。王都の時計の音は届かない。たぶん、今は昼過ぎだ。騎士たちは夕暮れまでに諦めるだろう。
 火打ち石もないけれど、毒霧を微量に反転させた発火滴があれば火は起こせる。私は白露の種をひとつ指先で潰し、霧を絡めて小さな火を作った。炎は青く、岩肌を揺らして踊る。
 温かさが満ちる。ルゥは火のそばで丸くなり、私の足首に顎を乗せた。 私は鞄も装飾も、処刑のときにすべて取り上げられていた。残ったのは、ドレスの下に忍ばせていた針と糸、そして左手の紋だけ。
 それで足りる。薬師は、ないなら作るだけだ。
 洞から出て、私は谷底の植生を調べた。毒を帯びた苔、黒ずんだ蔓、透明な菌糸。地表に薄青い花が一輪、震えている。
 指で触れると、花はびくりと身をすくめ、花粉がふわりと舞った。
花粉は空気中の毒と結びつき、粒になって落ちる。面白い――これは毒凝集(コアグレア)花。精製すれば、霧払いに使える。
 私は即席の毒避け香を作った。
 白露の種を乳鉢代わりの石で潰し、コアグレアの花粉と混ぜ、発火滴で軽く炙る。立ち上る香煙は鼻にやさしく、周囲の毒が薄い薄膜に閉じ込められていく。
 これで、洞の周りは安全地帯になる。寝床を整え、入口に簡易の落し蔦を巡らせる。知らぬものが踏めば、蔦がからまる仕掛けだ。
 ひと息ついたとき、腹が鳴った。
 ルゥも恥ずかしそうに「きゅ」と鳴く。食べ物――この谷で? 私は周囲をもう一度見渡した。
 岩の隙間に、灰色のキノコが群れている。灰笠。本(アッシュキャップ)来は発熱毒を含むが、反転すれば滋養茸になる。
「……少しだけ、借りるね」
 私はキノコを数本摘み、洞に戻る。
 薄く切り、石板で焼く。匂いが優しく香る。反転調合をほんの少し。舌に乗せると、とろりと甘い。身体が温まる。ルゥにも小さく分ける。尻尾が嬉しそうに跳ねた。 火を見ながら、私は静かに呟いた。
「私は、戻らない」
 王都に。家に。あの世界に。
 私を殺したのは、彼らだ。彼らは私の言葉を笑い、手を縛り、谷に落とした。だから私は、私のために生きる。
 薬草を摘み、毒を薬に変え、困っている者がいたら助ける。けれどそれは王国のためじゃない。私の選んだ生活のためだ。
 火のはぜる音に紛れて、かすかな金属音がした。
 私は顔を上げる。洞穴の入口、落し蔦が微かに揺れている。誰かが来た――? 谷底に落ちてくる者など、普通はいない。
 私は素早く火を手で隠し、壁の影に身を寄せた。ルゥも音の気配を読み取り、低く唸り声を漏らす。
「……誰か、いるのか」
 掠れた男の声。
 次いで、がらりと石を引く音。落し蔦が引きちぎられ、影が中へ倒れ込んだ。
 見ると、若い男が膝をつき、胸を押さえている。肩から血が滴り、鎖骨のあたりに黒い斑点――毒だ。右腕には、冒険者ギルドの簡素な腕章が巻かれている。
「動かないで」
 私は影から出た。男が顔を上げる。驚愕。けれど、私のドレスの残骸を見ても、何も言わなかった。
 彼は唇をふるわせる。
「すまない……上から、滑り落ちた。仲間が、毒に……俺は、何とか、ここまで……」
 息が乱れている。視線が焦点を結んでいない。毒素が心臓へ回れば、あと数分だ。
 私は男の腕を取り、毒の走りを確かめた。皮膚の下で黒い線が網の目のように広がっている。蛇毒系だが、この谷の霧と混ざり、性質が変わっている。
「ルゥ、火を少し強く」
「きゅ!」
 ルゥが木片を押し、炎が明るくなる。
 私は白露の種とコアグレアの花粉、それに灰笠の微粉末を混ぜ、手のひらで丸める。左手の紋が光る。毒素の結び目を読み、逆さの形に編み直す。
「これを飲んで。苦いけど、すぐ楽になる」
 男は頷き、私の指から滑り落ちる滴を舌に受けた。
 数秒――彼は大きく息を吸い、肩から力が抜ける。黒い斑点が薄れ、皮膚の色が戻っていく。
 驚嘆の色。彼は私を見つめ、何か言おうとして、やめた。代わりに、ぽつりと呟く。
「……助かった。君は……」
「通りすがりの薬師よ」
 私は笑う。名前は、今はまだ名乗らない。王都に届く名前は、できるだけ減らしたい。
 男は額の汗を拭い、火のそばに座った。ルゥが鼻先を近づけると、かすかに笑う。
「俺は、バルド。辺境の街アーデの冒険者だ。最近、谷の上で毒霧が強くなって……仲間がやられた。上に戻って知らせないといけないが、今は足が……」
「なら、夜明けを待ちましょう」
「夜明け?」
「谷は冷える。夜の霧は濃い。今、出るのは自殺よ」
 私は立ち上がると、洞の入口に残っていた落し蔦を点検した。見上げれば、谷の口が薄青く暮れていく。
 ふと、上の方で金属が軋む音がした。私は耳を澄ます。鎖の擦れる音。滑車。――吊り籠? 王都の処刑台から、何かを降ろしている?
 不快な直感が背を走った。
 彼らは死骸を確認できないと、「確実に殺す」ために別の手を打つ。火のついた樽、爆ぜる油、あるいは――毒そのものを、谷へ。
「急ぐ?」
 バルドが私を見上げる。私は小さく頷いた。「最悪、ここも安全じゃなくなるかもしれない。だから、準備する」
 私は洞の中央に石を並べ、即席の蒸留器を組んだ。白露の種で毒を引き寄せ、コアグレアの花粉で凝集させ、灰笠の栄養を糸に変える。左手の紋を最小限に使い、滴を落とす。
 数分ののち、透き通った液が三瓶できた。
 一本は広域解毒滴。一本は耐毒霧膏。一本は――痕を消す雫。
「痕を消す?」
 バルドが眉を上げる。私は頷く。
「足跡、におい、体温。全部、数時間だけ薄くする。追跡を避けるための薬」
「そんな便利なものが……」
「ここには、材料が揃っているから」
 皮肉ね、と心の中で付け足す。処刑の谷は、王国が捨てた毒の底。けれど薬師にとっては、宝の温床だ。
 私は雫を小瓶に分け、バルドの腰袋に入れた。小さな羊皮紙に使い方を書き、渡す。
「朝一番、霧が薄い時間に出る。上まで道はないけれど、谷壁の裂け目が螺旋状につながっている場所がある。そこを登るの」
「知ってるのか」
「今、見つけたの」
 私は笑う。バルドも困ったように笑った。
 火は落ち着き、洞は温かい。ルゥが私の膝に頭を置き、眠りに落ちる。私は彼の柔らかい毛を指で梳いた。
 眠れない夜になると思っていたのに、瞼は自然と重くなった。
 眠る前に、私は小さく囁く。これは誓いであり、呪文でもある。「私は、ここで生きる。国には戻らない。薬師として、私の手で世界を反転させる。必要なら、誰でも助ける。でも、私を谷に落とした人々のためじゃない。私が選んだ日々のため」
 返事は炎のはぜる音と、ルゥの寝息。
 夜は静かに深まり、遠く、谷の口で何かが落ちる鈍い音がした。
私は目を開けず、火に小さな滴を落として炎を守った。
 ――そして、朝が来る。
 夜明けの色は、藍から薄い金へと溶けていく。
 私はバルドとルゥに痕消しの雫を塗り、耐毒霧膏を頬に伸ばした。
洞の入口に手をかける。冷たい空気。霧は夜よりも薄く、谷壁の裂け目が細い道のように浮かび上がっている。
「行こう」
 私が言うと、ルゥが先に立ち、軽やかに岩を跳ぶ。バルドはまだ少し足を引きずっているが、昨夜よりずっと顔色がよかった。
 三人で、谷壁を登り始める。指先に岩の感触。息は白く、心は静かだった。
 半ばまで来たとき、上から人の声がした。 私は手を止め、岩陰に身を寄せる。鉄靴の音。兵の短い会話。何かを探している――私を。
 その時、谷の反対側で小さな影が動いた。黒いローブ。こちらを見て、すぐに姿を消す。兵とは違う、軽い足取り。
 私は目を細めた。王都の兵ではない。誰かが、私の処刑を見て、谷へ降りる準備をしている。狙いは――私?
「急ごう」
 私は囁き、ふたたび上へ指をかける。
 その瞬間、岩壁の裂け目の向こうから、笛の音がかすかに流れた。柔らかく、呼ぶような旋律。
 ルゥの耳が反応し、私は息を呑む。笛の音は、私の左手の紋に触れるみたいに、皮膚の下をくすぐる。不思議な調べ。薬師の合図だ。
遠い昔、ギルドが使った――味方の印。
「バルド。アーデの街に、薬師ギルドは?」
「昔はあったが、今は……とうに解散した。十年前の、『灰雨(はいあめ)』のあとでな」
 灰雨。私は記憶を手繰る。毒性の雨が降り、辺境が荒れ果てた災厄。王都は辺境を切り捨て、援助を打ち切った――だから谷は毒に満ち、アーデは孤立した。
 笛の音がもう一度。今度は、上ではなく、横から聞こえた。裂け目の途中に、細い穴。そこから淡い風が吹き、音を運ぶ。
「行くべきだと思う?」
 自分に問い、私は頷いた。 私を狙う者がいる一方で、手を差し伸べる者もいる。薬師の合図を信じるのは、薬師としての私の矜持だ。
「ルゥ、先導お願い」
「きゅ!」
 仔狼はするりと穴に身を滑らせる。私とバルドも続いた。
 暗い通路は短く、すぐに開けた小部屋に出る。壁に刻まれた古い印。乾いた棚。中央に、小さな卓。そして――卓の上に置かれた、白い笛。
 誰もいない。けれど、笛はまだ温かい。
 卓には羊皮紙が一枚。粗末な字で、短く書かれている。
谷の薬師へ。
こちらへ。追手が近い。
アーデの古井戸で待つ。
 私は羊皮紙をたたみ、胸元にしまった。
 追手は近い。王都の兵か、あるいは別の手か。どちらにせよ、上に出られれば、谷とは違う空気を吸える。
 私は振り返り、ルゥの首を撫でる。彼は青い目で私を見た。大丈夫、という顔。
「決めた。上へ出て、アーデへ行く。そこで――店を開く」
 バルドが目を瞬いた。「店?」
「そう。薬草と薬と、温かいスープの店。冒険者が帰ってくる場所、旅人が息をつける場所。王都に背を向けた人たちが、また歩き出せる場所よ」
 それは、私の復讐ではない。私の幸福の形だ。
 王都がどう叫ぼうと、どう命じようと、私の生き方は私が決める。
助けを求める声があれば、手を伸ばす。でも、私の心は、私の側に置く。
「行こう」
 私は白い笛を腰に差し、再び裂け目へ向き直る。
 上では、朝の光が強くなってきた。霧は淡くちぎれ、空が近い。
 最後の一歩を踏み出す前に、私は小さく呟いた。
「待ってなさい。ざまぁは、急がないほどよく効くの」
 指先に岩の冷たさ。足裏に確かな感触。
 私とルゥとバルドは、毒の谷から顔を出す――新しい呼吸を吸い込むために。
 朝の空気は、驚くほど甘かった。
――――
つづく

第1話 毒の谷で目を開けて、自由を宣言する
 鐘が三度鳴った。処刑の合図だということを、私はよく知っていた。
 広場に集まった人々は、私を「悪役令嬢」と呼んで囁いた。白手袋の貴婦人も、粗布の男も、誰も彼も同じ顔で好奇心を湛えている。私の名はアイリス・グランドリア。侯爵家の長女であり――今日、王都で「嫉妬に狂って王太子妃を傷つけた罪」で処刑される女だ。
 もちろん冤罪だ。
 私は薬師で、傷を癒やし、毒を抜くことに人生を費やしてきた。嫉妬だの、陰謀だの、私には似合わない。けれど、王太子の言葉が法である王都では、真実はささやき声よりも弱い。
「アイリス・グランドリア。王国に仇なす者。その罪、奈落の毒谷への投擲をもって償わせる」
 青いマントの騎士が淡々と読み上げた。
 私は壇上から見下ろす。石畳の裂け目のように、処刑台の先に黒い穴が口を開けている。谷底は見えない。噂では「底には古の毒が満ちている」という。落ちたものは、骨さえ残らないのだと。
 私の両手は背で縛られている。紐の食い込みは痛いけれど、不思議なほど心は静かだった。
 視線を巡らせると、父の姿が見えた。痩せて、背が少し曲がっている。目が合ったとき、彼はわずかに首を振った。怒りでも哀れみでもない。――覚悟の合図に見えた。
「最後に弁明はあるか」
 騎士が問う。私は首を横に振った。ここで何を言ったところで、物語は変わらない。
 変えるとしたら、書き手を変えるしかないのだ。私が私の物語を取り返す――それだけ。
「では」
 足元の板が開いた。
 空気が抜ける。身体が落ちる。喉が震える。歓声と悲鳴が遠ざかって、風の唸りだけになる。私は目を閉じない。暗闇が迎えにくるなら、見開いた目で見据えてやる。
 その瞬間、頭の奥で何かがほどけた。
 白い部屋、透きとおる声、手渡された一片の光。――思い出した。私はここに生まれる前、神域で「ひとつだけ力を選べ」と言われた。私は迷わず選んだのだ。毒を薬に変える力を。
 神は微笑み、私の左手に紋を刻んだ。花弁のような六角の紋。名は**〈反転調合〉(リバース・アトライア)**。毒素を読み替え、逆さまの性質を編み直す、たった一度きりの祝福――そう、たとえ世界が敵になっても、生き延びるための祝福。
 落下の衝撃が、私を現実に引き戻す。
 ――ゴチンッ。
 痛み。けれど、骨は砕けなかった。柔らかな苔と粘度の高い液体が衝撃を吸い取ってくれたらしい。鼻をつく匂い。鉄と薬草の中間のような、甘く腐ったような香りが立ち上る。
「……生きてる」 呟いて、私は左手を見た。手首に巻かれていた布が落ち、白い皮膚に淡い光が浮かぶ。花弁の紋――神の印。
 周囲は蒼黒い霧に満ちている。皮膚がぴりぴりする。噂どおり、谷は毒で満ちているようだ。目を凝らすと、岩肌の隙間に縮れた蔓が張り、滴る液が地面に穴をあけている。
 私は深く息を吐いた。
 怖くないと言えば嘘になる。でも、ここなら――誰にも邪魔されずに、生き方を選べる。
「……やろうか」
 私は膝をつき、周囲の毒霧に指先を浸した。
 ひやり、と冷たい。左手の紋が静かに熱を帯びる。毒素解析―― 匂い、色、反応。脳裏に化学図形のようなイメージが浮かぶ。腐敗を促す成分、麻痺を引き起こす成分、血に混じれば心臓を止める成分……それらの結び目を、逆に結び直していく。
「〈反転調合〉」
 言葉は鍵だ。
 薄い光が手のひらでほどけ、毒霧の一部が白い粉に変わる。指先で集め、掌で転がす。生温い粉は、やがて透明な滴に変性した。
 私は滴をひとしずく舌に乗せる。苦味――のあとに、静かな甘さ。
胸のさざめきが落ち着き、頭が澄む。成功だ。万能解毒滴。谷の毒に対する中和液。
 生きる準備ができた瞬間、足元の陰で何かが震えた。
「……?」
 藪がざわりと動く。私は身を低くして覗き込む。
 そこにいたのは、小さな白い塊だった。ふかふかの毛玉――いや、動いた。目が合った。
 薄青い瞳。鼻先が濡れている。耳がぴくりと動いて、鈴のような声が「きゅ」と鳴いた。
「あなた、どうしてこんなところに」
 毛玉は一歩、二歩と近づいてくる。足取りがふらついている。毒に当てられているのだろう。
 私は掌に残った解毒滴をもうひとしずく作り、指先でその鼻先に触れた。白い毛が濡れ、毛玉が驚いてくしゃみをする。
 数秒ののち――ふわ、と息が整い、小さな身体が軽く跳ねた。尻尾がふるふると震え、私の手首に頬を押しつける。
「……元気になった?」
「きゅ」
 答えるように鳴いて、毛玉は私の膝にのぼってきた。
 よく見るとそれは仔狼だった。けれど、普通の狼ではない。背に薄い紋様が走り、毛先が微かに光っている。魔獣の子――おそらく、**霜狼*(フロストウルフ)*の幼体。
「あなた、名前は?」
 仔狼は首をかしげる。
「……じゃあ、ルゥ。今日から、私の相棒ね」
「きゅ!」
 ルゥは嬉しそうに鳴いた。小さな舌で私の指を舐める。
 私は笑ってしまった。ここは処刑の谷。さっきまで私は死ぬはずだった。でも今、膝で眠るもふもふの温度が、こんなにも現実を明るくする。
 上空から、甲高い声が風に乗って落ちてくる。
『死骸は? 確認しろ!』
 騎士の怒鳴り声。私は見上げた。垂直に切り立つ壁の上、いくつもの影が行き来している。
 死んだことにならなければ、処刑は終わらない。彼らは私の身体を見つけるまで覗き込み、石でも投げるのだろう。
 私は素早く周囲を見回した。岩陰、蔓、ぬかるんだ地。逃げ道は
――谷の奥へ続く暗い裂け目。湿った洞(ほら)が口を開けている。
「行こう、ルゥ」
 私は仔狼を胸に抱き、裂け目に身を滑り込ませた。
 まぶたをなぞるような冷気。足元は不安定で、岩が濡れている。
手の甲に冷たい滴。けれど、あの毒霧よりはましだ。
 洞は思ったより深く、やがて開けた空間に出た。
 上から細い光が差し込み、中央の窪みに淡い水が溜まっている。右奥――古い木の枠。崩れた棚。誰かが昔、ここで暮らしたのだろうか。
 棚には黒ずんだ瓶がいくつか残っていた。触れると、指に甘い香りが移る。薬草の匂い。私は瓶をひとつ開け、鼻に寄せた。
「……白露の種」
 乾いた小さな種子。毒を引き寄せる性質がある。触媒として最適だ。
 私は左手の紋をじっと見つめた。これは一度きりの祝福――けれど、一度で何をどこまで反転できるかは、私次第だ。祝福の核は失われない。ただし、強い干渉ほど回復に時間がかかる。
 命を繋いだ今、次は生き方を作る番。
「拠点にしよう」
 私は口に出して言った。
「ここを、私たちのはじまりにする」
「きゅ」
 ルゥの返事は短く、力強かった。
 私は洞の周囲を歩き、乾いた枝と崩れた棚板を集める。岩壁に残っていた古い布を裂き、紐にする。
 天井の割れ目から差す光が、時間の流れを教える。王都の時計の音は届かない。たぶん、今は昼過ぎだ。騎士たちは夕暮れまでに諦めるだろう。
 火打ち石もないけれど、毒霧を微量に反転させた発火滴があれば火は起こせる。私は白露の種をひとつ指先で潰し、霧を絡めて小さな火を作った。炎は青く、岩肌を揺らして踊る。
 温かさが満ちる。ルゥは火のそばで丸くなり、私の足首に顎を乗せた。 私は鞄も装飾も、処刑のときにすべて取り上げられていた。残ったのは、ドレスの下に忍ばせていた針と糸、そして左手の紋だけ。
 それで足りる。薬師は、ないなら作るだけだ。
 洞から出て、私は谷底の植生を調べた。毒を帯びた苔、黒ずんだ蔓、透明な菌糸。地表に薄青い花が一輪、震えている。
 指で触れると、花はびくりと身をすくめ、花粉がふわりと舞った。
花粉は空気中の毒と結びつき、粒になって落ちる。面白い――これは毒凝集(コアグレア)花。精製すれば、霧払いに使える。
 私は即席の毒避け香を作った。
 白露の種を乳鉢代わりの石で潰し、コアグレアの花粉と混ぜ、発火滴で軽く炙る。立ち上る香煙は鼻にやさしく、周囲の毒が薄い薄膜に閉じ込められていく。
 これで、洞の周りは安全地帯になる。寝床を整え、入口に簡易の落し蔦を巡らせる。知らぬものが踏めば、蔦がからまる仕掛けだ。
 ひと息ついたとき、腹が鳴った。
 ルゥも恥ずかしそうに「きゅ」と鳴く。食べ物――この谷で? 私は周囲をもう一度見渡した。
 岩の隙間に、灰色のキノコが群れている。灰笠。本(アッシュキャップ)来は発熱毒を含むが、反転すれば滋養茸になる。
「……少しだけ、借りるね」
 私はキノコを数本摘み、洞に戻る。
 薄く切り、石板で焼く。匂いが優しく香る。反転調合をほんの少し。舌に乗せると、とろりと甘い。身体が温まる。ルゥにも小さく分ける。尻尾が嬉しそうに跳ねた。 火を見ながら、私は静かに呟いた。
「私は、戻らない」
 王都に。家に。あの世界に。
 私を殺したのは、彼らだ。彼らは私の言葉を笑い、手を縛り、谷に落とした。だから私は、私のために生きる。
 薬草を摘み、毒を薬に変え、困っている者がいたら助ける。けれどそれは王国のためじゃない。私の選んだ生活のためだ。
 火のはぜる音に紛れて、かすかな金属音がした。
 私は顔を上げる。洞穴の入口、落し蔦が微かに揺れている。誰かが来た――? 谷底に落ちてくる者など、普通はいない。
 私は素早く火を手で隠し、壁の影に身を寄せた。ルゥも音の気配を読み取り、低く唸り声を漏らす。
「……誰か、いるのか」
 掠れた男の声。
 次いで、がらりと石を引く音。落し蔦が引きちぎられ、影が中へ倒れ込んだ。
 見ると、若い男が膝をつき、胸を押さえている。肩から血が滴り、鎖骨のあたりに黒い斑点――毒だ。右腕には、冒険者ギルドの簡素な腕章が巻かれている。
「動かないで」
 私は影から出た。男が顔を上げる。驚愕。けれど、私のドレスの残骸を見ても、何も言わなかった。
 彼は唇をふるわせる。
「すまない……上から、滑り落ちた。仲間が、毒に……俺は、何とか、ここまで……」
 息が乱れている。視線が焦点を結んでいない。毒素が心臓へ回れば、あと数分だ。
 私は男の腕を取り、毒の走りを確かめた。皮膚の下で黒い線が網の目のように広がっている。蛇毒系だが、この谷の霧と混ざり、性質が変わっている。
「ルゥ、火を少し強く」
「きゅ!」
 ルゥが木片を押し、炎が明るくなる。
 私は白露の種とコアグレアの花粉、それに灰笠の微粉末を混ぜ、手のひらで丸める。左手の紋が光る。毒素の結び目を読み、逆さの形に編み直す。
「これを飲んで。苦いけど、すぐ楽になる」
 男は頷き、私の指から滑り落ちる滴を舌に受けた。
 数秒――彼は大きく息を吸い、肩から力が抜ける。黒い斑点が薄れ、皮膚の色が戻っていく。
 驚嘆の色。彼は私を見つめ、何か言おうとして、やめた。代わりに、ぽつりと呟く。
「……助かった。君は……」
「通りすがりの薬師よ」
 私は笑う。名前は、今はまだ名乗らない。王都に届く名前は、できるだけ減らしたい。
 男は額の汗を拭い、火のそばに座った。ルゥが鼻先を近づけると、かすかに笑う。
「俺は、バルド。辺境の街アーデの冒険者だ。最近、谷の上で毒霧が強くなって……仲間がやられた。上に戻って知らせないといけないが、今は足が……」
「なら、夜明けを待ちましょう」
「夜明け?」
「谷は冷える。夜の霧は濃い。今、出るのは自殺よ」
 私は立ち上がると、洞の入口に残っていた落し蔦を点検した。見上げれば、谷の口が薄青く暮れていく。
 ふと、上の方で金属が軋む音がした。私は耳を澄ます。鎖の擦れる音。滑車。――吊り籠? 王都の処刑台から、何かを降ろしている?
 不快な直感が背を走った。
 彼らは死骸を確認できないと、「確実に殺す」ために別の手を打つ。火のついた樽、爆ぜる油、あるいは――毒そのものを、谷へ。
「急ぐ?」
 バルドが私を見上げる。私は小さく頷いた。「最悪、ここも安全じゃなくなるかもしれない。だから、準備する」
 私は洞の中央に石を並べ、即席の蒸留器を組んだ。白露の種で毒を引き寄せ、コアグレアの花粉で凝集させ、灰笠の栄養を糸に変える。左手の紋を最小限に使い、滴を落とす。
 数分ののち、透き通った液が三瓶できた。
 一本は広域解毒滴。一本は耐毒霧膏。一本は――痕を消す雫。
「痕を消す?」
 バルドが眉を上げる。私は頷く。
「足跡、におい、体温。全部、数時間だけ薄くする。追跡を避けるための薬」
「そんな便利なものが……」
「ここには、材料が揃っているから」
 皮肉ね、と心の中で付け足す。処刑の谷は、王国が捨てた毒の底。けれど薬師にとっては、宝の温床だ。
 私は雫を小瓶に分け、バルドの腰袋に入れた。小さな羊皮紙に使い方を書き、渡す。
「朝一番、霧が薄い時間に出る。上まで道はないけれど、谷壁の裂け目が螺旋状につながっている場所がある。そこを登るの」
「知ってるのか」
「今、見つけたの」
 私は笑う。バルドも困ったように笑った。
 火は落ち着き、洞は温かい。ルゥが私の膝に頭を置き、眠りに落ちる。私は彼の柔らかい毛を指で梳いた。
 眠れない夜になると思っていたのに、瞼は自然と重くなった。
 眠る前に、私は小さく囁く。これは誓いであり、呪文でもある。「私は、ここで生きる。国には戻らない。薬師として、私の手で世界を反転させる。必要なら、誰でも助ける。でも、私を谷に落とした人々のためじゃない。私が選んだ日々のため」
 返事は炎のはぜる音と、ルゥの寝息。
 夜は静かに深まり、遠く、谷の口で何かが落ちる鈍い音がした。
私は目を開けず、火に小さな滴を落として炎を守った。
 ――そして、朝が来る。
 夜明けの色は、藍から薄い金へと溶けていく。
 私はバルドとルゥに痕消しの雫を塗り、耐毒霧膏を頬に伸ばした。
洞の入口に手をかける。冷たい空気。霧は夜よりも薄く、谷壁の裂け目が細い道のように浮かび上がっている。
「行こう」
 私が言うと、ルゥが先に立ち、軽やかに岩を跳ぶ。バルドはまだ少し足を引きずっているが、昨夜よりずっと顔色がよかった。
 三人で、谷壁を登り始める。指先に岩の感触。息は白く、心は静かだった。
 半ばまで来たとき、上から人の声がした。 私は手を止め、岩陰に身を寄せる。鉄靴の音。兵の短い会話。何かを探している――私を。
 その時、谷の反対側で小さな影が動いた。黒いローブ。こちらを見て、すぐに姿を消す。兵とは違う、軽い足取り。
 私は目を細めた。王都の兵ではない。誰かが、私の処刑を見て、谷へ降りる準備をしている。狙いは――私?
「急ごう」
 私は囁き、ふたたび上へ指をかける。
 その瞬間、岩壁の裂け目の向こうから、笛の音がかすかに流れた。柔らかく、呼ぶような旋律。
 ルゥの耳が反応し、私は息を呑む。笛の音は、私の左手の紋に触れるみたいに、皮膚の下をくすぐる。不思議な調べ。薬師の合図だ。
遠い昔、ギルドが使った――味方の印。
「バルド。アーデの街に、薬師ギルドは?」
「昔はあったが、今は……とうに解散した。十年前の、『灰雨(はいあめ)』のあとでな」
 灰雨。私は記憶を手繰る。毒性の雨が降り、辺境が荒れ果てた災厄。王都は辺境を切り捨て、援助を打ち切った――だから谷は毒に満ち、アーデは孤立した。
 笛の音がもう一度。今度は、上ではなく、横から聞こえた。裂け目の途中に、細い穴。そこから淡い風が吹き、音を運ぶ。
「行くべきだと思う?」
 自分に問い、私は頷いた。 私を狙う者がいる一方で、手を差し伸べる者もいる。薬師の合図を信じるのは、薬師としての私の矜持だ。
「ルゥ、先導お願い」
「きゅ!」
 仔狼はするりと穴に身を滑らせる。私とバルドも続いた。
 暗い通路は短く、すぐに開けた小部屋に出る。壁に刻まれた古い印。乾いた棚。中央に、小さな卓。そして――卓の上に置かれた、白い笛。
 誰もいない。けれど、笛はまだ温かい。
 卓には羊皮紙が一枚。粗末な字で、短く書かれている。
谷の薬師へ。
こちらへ。追手が近い。
アーデの古井戸で待つ。
 私は羊皮紙をたたみ、胸元にしまった。
 追手は近い。王都の兵か、あるいは別の手か。どちらにせよ、上に出られれば、谷とは違う空気を吸える。
 私は振り返り、ルゥの首を撫でる。彼は青い目で私を見た。大丈夫、という顔。
「決めた。上へ出て、アーデへ行く。そこで――店を開く」
 バルドが目を瞬いた。「店?」
「そう。薬草と薬と、温かいスープの店。冒険者が帰ってくる場所、旅人が息をつける場所。王都に背を向けた人たちが、また歩き出せる場所よ」
 それは、私の復讐ではない。私の幸福の形だ。
 王都がどう叫ぼうと、どう命じようと、私の生き方は私が決める。
助けを求める声があれば、手を伸ばす。でも、私の心は、私の側に置く。
「行こう」
 私は白い笛を腰に差し、再び裂け目へ向き直る。
 上では、朝の光が強くなってきた。霧は淡くちぎれ、空が近い。
 最後の一歩を踏み出す前に、私は小さく呟いた。
「待ってなさい。ざまぁは、急がないほどよく効くの」
 指先に岩の冷たさ。足裏に確かな感触。
 私とルゥとバルドは、毒の谷から顔を出す――新しい呼吸を吸い込むために。
 朝の空気は、驚くほど甘かった。
――――
つづく

第2話 辺境の街アーデ、薬師の店を開く
 谷を抜けて朝の光を浴びた瞬間、胸の奥に冷たい風が流れ込んだ。
 生きている。死んだはずの私が、こうして歩いている――その実感が、かすかに頬を熱くする。
「大丈夫か?」
 隣のバルドが声をかけてきた。傷はまだ完全には癒えていないのに、無理に笑おうとする顔。
「ええ、問題ないわ。あなたこそ」
「おかげで、もうほとんど痛くない。……まさか、あんな薬を作れるなんてな」
 私は肩をすくめた。神の祝福と前世の知識があってこそだ。けれど、それを今ここで説明するつもりはない。
 霧の谷を後にして、私たちは辺境の街アーデを目指した。
 足元には荒れた街道が続く。石畳はところどころ崩れ、雑草が割れ目から顔を出している。王都の整備が途絶えて久しい証拠だ。
「アーデは……正直、荒れてる」
 バルドの声は沈んでいた。
「十年前の灰雨のせいで畑は枯れ、王都からの支援もなくなった。薬師ギルドも解散して、今は行商人と教会が細々と薬を売ってる程度だ」
 なるほど。ならば薬師がひとり現れるだけで、大きな価値になる。
 私は胸に抱くルゥを撫でた。仔狼はのんきに「きゅ」と鳴き、空気を和ませてくれる。
 正午過ぎ、私たちはアーデの門にたどり着いた。
 といっても石の門は半ば崩れ落ち、衛兵の詰所も屋根が抜けている。門番の青年は槍を握りながらも眠たそうに目をこすっていた。
「おや、バルドじゃないか! よく生きて戻ったな」
「なんとか、な」
 青年は私を見て目を丸くした。
「……誰だ、その人?」
「助けてもらった。薬師だ」
 青年の目が驚きに見開かれる。薬師という言葉が、ここでは特別な響きを持つのだろう。
 街に入ると、荒れた印象の中にも人の生活の匂いがした。
 露店には干し肉や薬草の束が並び、子どもたちが土埃をあげて走り回る。井戸端では女たちが桶を並べ、笑い声を交わしていた。
 ――思っていたよりも、生きる力がある街だ。
「ここだ」
 バルドが案内したのは、街の外れにある古びた石造りの小屋だった。窓は割れ、扉は外れかけている。
「昔、薬師ギルドの出張所だった場所だ。今は誰も使っていない。
……もしよければ、ここを拠点にするといい」
 私は扉を押し開けた。
 中は埃と蜘蛛の巣だらけ。でも、木の棚と作業台が残っている。
火を焚く炉もまだ使えそうだった。
 ここなら――薬を調合し、人を迎え入れることができる。「決めたわ。ここを店にする」
「店?」
「ええ。薬草を集め、毒を薬に変え、人々を癒やす場所。……王都は私を殺した。でも、ここなら誰かを生かすことができる」
 ルゥが棚の上に飛び乗り、尻尾をぶんぶんと振る。まるで賛成しているみたいだった。
 翌日。
 私は街の市場に立ち、試作品の薬を並べて声を上げた。
「万能解毒滴、一瓶五銅貨! 傷薬もあります!」
 最初は人々が警戒して近づかなかった。けれど、バルドが「この人に命を救われた」と声を張り上げると、ざわめきが広がった。
 やがて老婆が一歩近づき、瓶を受け取る。震える手で飲んでみた瞬間、顔色が変わった。
「……長年の痺れが、和らいだ……!」
 歓声が上がり、人々が次々と私の前に集まった。
 薬は瞬く間に売り切れ、銅貨と銀貨が袋いっぱいになった。
 夕暮れ、小屋に戻った私は机の上に収益を並べる。
 生活できる。ここで、やっていける。
 胸の奥から笑いが込み上げた。
「私の店、始まったわね」
 ルゥが膝に飛び乗り、バルドが照れくさそうに笑う。
 そのとき、扉が叩かれた。「――失礼。薬師殿とお見受けする」
 現れたのは、黒いローブをまとった人物だった。谷で笛を吹いた者かもしれない。
 フードの下からのぞく瞳が、私を射抜く。
「あなたに用がある。アーデの未来を救うために」 
第3話 灰雨の遺産と、白い笛
 扉の前に立つ黒衣の人物は、確かに谷で笛を吹いた誰かの匂いをまとっていた。湿った薬草、乾いた羊皮紙、古いインク。長い旅をして、風に磨かれた匂いだ。
「名乗るわ。セリス。旧薬師ギルド・アーデ支部の記録官だった者」 低い声。フードの陰から覗く瞳は、疲れているのに透明だった。私は椅子をすすめ、ルゥが警戒しないよう軽く合図する。バルドは壁にもたれ、いつでも動けるよう拳を握っている。
「谷で合図を出したのね」
「ええ。谷に薬師の気配が立った。十年ぶりに、ね」
 セリスは卓の上に小さな包みを置いた。開けば、白い笛が現れる。
私たちが裂け目の途中で見たものと同じ形、けれどこれは使いこまれて艶があった。
「薬師ギルドの呼子(よびこ)。薬と祈りを交換した昔の合図。もう使う人はいないと思っていた」
「祈り?」
「ええ。薬師の祈りはいつでも具体的よ。『この痛みが〇時間で引くように』『この毒が〇歩先で弱まるように』――祈りという名の手順」
 私は微笑む。気に入った言い回しだ。セリスは息を整え、顔を上げた。「助けてほしい。アーデを覆う“灰雨”の毒、十年放置されて、根が石まで回ってる。神官の聖水も、王都の回収隊も手を引いた。残っているのは、毒で咳き込みながら畑を耕す人たちだけ」
「王都は、見捨てたのよね」
「そう。理由は『採算が合わないから』。だから、ギルドの私たちが残り、最低限の手当てだけ続けてきた。けど、私たちももう限界
――素材も、手も、希望も」
 セリスの言葉には、乾いた割れ目みたいな諦めと、それでも捨てきれない火が同居していた。私は小屋の窓から外を見やる。夕暮れのアーデは薄金に染まって、井戸端で笑う声が途切れ途切れに届く。
灰雨にさらされ続けた街にしては、音がやわらかい。
「具体的に、何が必要?」
「灰雨の核を落とす。広い意味では、街を覆う“毒の循環”を断つ。灰雨はただの雨じゃない。空へ舞い上がる灰を種にして、雲の層で毒を育てて、雨で地に戻すの。循環を組まれている。十年前に止められなかった仕掛けは、今も静かに効き続けている」
「仕掛けたのは?」
「誰にもわからない。山脈の向こうの錬金都市だという噂もあるし、王都が辺境を削るために流したという陰口もある」
 私は左手に視線を落とす。花弁の紋が薄く光り、皮膚の下で脈をうっている気がした。**反転調合*(リバース・アトライア)*は万能だけれど、万能ではない。世界の枠組みそのものを裏返す力じゃない。けれど、循環に
“手順の割り込み”をかけるくらいなら――やれる。
「核の位置がわかれば、やれるかも」
「位置は掴んでる。古井戸よ。街の中心から少し外れにある、ギル

ドの旧設備に繋がる。雨雲を引きずる“鉛糸”が、そこに落ちている。十年前、封じて、鍵を三つに割って、市井に預けた」
「その鍵を集めれば、地下へ降りて、核に触れられる」
「そう」
 セリスは指を三本立て、一本ずつ折った。
「一つは、教会。一つは、鍛冶屋。一つは、孤児院。誰もが『預かり物なんて知らない』って言うはず。灰雨のあいだ、鍵だって“生き延び方”になったから。隠すことが安全だった」
「取り戻す代わりに、何を渡せばいい?」
「未来よ。……でも、それだけじゃ現実にならない。だから、具体的な手当てが要る」
 バルドが腕を組み、低く言った。「教会は素直じゃないぜ。最近は王都に寄ってる。鍛冶屋の親方は義理には厚いが、頑固。孤児院は……苦しい。何を差し出せる?」
 私は立ち上がり、棚に並べた小瓶を手に取る。ラベルに素早く印をつけ、三つに分ける。
「教会へは『灰雨用の聖別補助滴』。彼らの聖水に混ぜれば効力が二倍に伸びる。自分の仕事を否定しない提案は、聞いてもらえる」
「鍛冶屋には?」
「『鳴きやまない槌の油』。煙と粉塵でやられた肺を守る吸入膏。ついでに、鉱滓(スラグ)から微細毒を抜く粉末。親方が一番困っている現実を、先に片づける」
「孤児院は……」
「『夜泣きの露』と『ミルク花の糖衣』。子どもが眠れる滴と、栄養を落とさずに飲みやすくする飴。大人への薬も渡す。でも先に子どもを笑わせる」
 セリスとバルドが顔を見合わせた。セリスの口元に、ようやく薄い笑みが灯る。
「本当に、薬師の手順ね」
「それと」私は小袋を差し出した。「これを持って。痕を消す雫。鍵を持ち出す人の足取りを、誰にも追わせないために」
 セリスは笛と雫を懐にしまい、深く頷いた。彼女の背筋がわずかに伸びたのが見えた。
「……動きましょう。私が教会へ行く。アイリスは鍛冶屋へ。バルドは孤児院。日暮れ前に、古井戸の前で合流」
「了解」
 別れる前に私は、セリスの手を軽く掴んだ。骨ばって冷たい指に、小さく熱が戻る。
「これ、護手(アミュレ)。毒霧を五分、締め出す膜。必要なときだけ割って」
「五分?」
「時間が具体的ほど、祈りは届く」
 セリスは笑った。「了解」
 扉が閉じ、三人はそれぞれ街へ散っていく。私はルゥを肩に乗せ、鍛冶屋の煙突が並ぶ通りへ足を踏み入れた。
 街の心臓が、そこにあった。槌の音が途切れず、火花が飛び、赤い熱が人の顔を染める。粉塵が白い陽光の中を雪のように舞い、咳と笑いと罵声が交錯する。
「親方はいる?」
「いるともよ。あんたは誰だい、綺麗な顔して粉を吸いに来たのか」
 豪快に笑う女鍛冶が顎で示す。奥の炉の前に、山のような男が立っていた。胸板は厚く、腕は縄のような筋肉で、髭には灰が積もっている。親方は槌を振り下ろし、鉄の叫びを沈めてから、私を見た。
「何の用だ、薬師」
「用件は三つ。ひとつはお礼。街の刀と釘が、この街を支えてるから」
「礼は要らん。二つ目は?」
「仕事。肺を守る膏と、鉱滓を扱いやすくする粉。それから、錆び止めに少し改良の余地がある」
「三つ目は?」
「預け物を返してほしい」
 親方の目が細くなる。火の粉がその瞳に飛び、きらりと光った。
「知らねえな」
「預けは十年前。あなたの奥の棚、煙で黒くなった瓶の裏。三角の鉄片。穴が三つ」
 親方は言葉を失い、ゆっくりと私を見る。私は逃げず、視線を返した。
「それを持ち出す気はないわ。これはあなたの工房の空気をきれいにする膏。試して。もし効果があると思ったら、鍵を一晩貸して。明日の朝には戻す」
 親方の肩がわずかに動いた。咳を一つ押し殺し、彼は命じる。
「……吸ってみろ」
 私は吸入膏を取り出し、親方に鼻先で深く吸い込むよう示す。彼は渋面のまま従い、数呼吸後、胸を押さえた。
「楽だ。胸ん中の砂が、薄くなったみてえだ」
 周りの鍛冶たちがざわつく。私はそのまま、鉱滓へ粉末を振り、鉄鉢で試した。粘りが減り、作業台の男が目を丸くする。
「……親方」
「ああ、わかったよ」
 親方は棚の奥から黒い布に包まれた物を持ってきた。布をほどけば、三角形の鉄片。穴が三つ。私はそれを両手で受け取り、深く頭を下げる。
「必ず返す。ありがとう」
「返さなかったら、街ごと叩き直す」
「それも薬師の手順に入れておく」
 工房を出ると、夕陽が街を斜めに染めていた。ルゥが肩で小さく鳴く。私は撫で、歩を速める。
 古井戸は、街の広場から一本路地を外れたところにあった。石積みは古び、苔が縁を覆っている。人の気配は少ない。井戸の脇に、すでに二人の影。
「教会は?」
「半分貸してくれた。聖水に補助滴を混ぜ、今晩の祈りで民に配る代わりに、鍵は朝まで預かる、と」セリスは肩をすくめた。「でも、
合鍵を持ってる修道士が裏で握ってた。痕消しの雫で、目だけ借りた」
「孤児院は、鍵は無いって。けど、原型を粘土で写した型を子どもが持ってた。『大人が悪いときに隠すもの』だってさ」バルドが苦笑する。「鍵じゃないが、形の答えは手に入った」
 私は親方から借りた鉄片を取り出し、セリスの白い笛の横に置いた。セリスは教会から借りた半分の鍵を並べ、バルドの持つ粘土型を重ねる。三つが重なる線が見え、セリスが細い息を吐く。
「足りない部分、削って補える。古井戸の扉は“合致率七割”で開
く仕様。十年前、民が急いで逃げ込めるように、わざと甘く作った」
「じゃあ、今夜、行ける」
「――今夜?」
 私が井戸の縁に手を置いた時、広場の方から槍の音が近づいた。鎧がぶつかる濁った音。王都の衛兵が三人。灰色のマントの男がその後ろに付き従い、目だけが笑っていない。
「アーデに薬師が現れたと聞いた。王都の許可なく薬売りをしている者がいれば、連行する」
 セリスが微かに舌打ちする。「早い」
「見てたのよ、誰かが」 私は一歩、前に出た。井戸の縁から手を離し、笑う。
「ようこそ。薬が必要かしら? 咳止めと鼻炎と腹の虫下し。王都から来る道は埃っぽいもの」
 灰色のマントの男が口元だけ笑い、顎で合図をした。衛兵のひとりが突き出してきた槍の穂が、私の喉元で止まる。ルゥが低く唸り、毛を逆立てる。バルドの拳が音もなく固まる。
「君が薬師か。王都では、君に処刑判決が出ているが」
「死んだはずの女の話を、私に?」
「死は、見方次第だ」
 私はゆっくりと槍の穂先に指を伸ばし、薄く唇を歪めた。その刹那、セリスの笛が小さく鳴る。空気が揺れ、広場の端で子どもが笑い声を上げ、犬が走り去る。細工だ。視線を逸らすわずかな余白。「あなたたちも、よかったら吸っていく?」私は吸入膏の蓋を開ける。「ほら、胸が楽になる。兵の肺は宝だから」
 衛兵たちは互いに顔を見合わせ、戸惑う。灰マントの男は笑って首を振った。
「誘惑しても無駄だ。王の命令だ。連行――」
「連行する前に、交渉はしないの?」私は声を重ねる。穏やかな、
しかし相手の言葉を半歩だけ踏むテンポ。「王都はアーデを捨てた。
けれど、アーデが蘇れば、税が戻る。王都は喜ぶ。ね?」 男の笑みがわずかに薄れる。私は続けた。
「明日の朝まで。たった一晩でいい。私たちはこの井戸に降りて、灰雨の循環を切る。成功すれば、あなたの手柄になる。失敗したら
――そうね。私を捕まえなさい。ご希望どおり、鎖でも縄でも」
 広場の空気が張りつめる。衛兵たちの槍が揺れ、セリスの笛の穴が光を吸う。バルドが無言でうなずき、ルゥの尾が静かに左右へ揺れる。男の目が、私の目をまっすぐ射抜いた。
「一晩だ」
 男は言った。衛兵がざわめき、男が片手で制す。
「夜明けに戻る。逃げたら、街ごと捜す」
「逃げない」
 私は頷いた。男は踵を返し、衛兵を引き連れて立ち去る。夜の口が静かに開く。私は手のひらに汗がにじんでいるのを感じ、深く息を吐いた。
「……危なかったわよ、あれ」セリスが息を漏らす。
「交渉は具体が命。明日の朝、結果を見せればいい」
 私は三つの鍵を重ね、井戸の蓋に刻まれた鍵穴に合わせる。セリスが白い笛を短く鳴らす。バルドがロープを井戸の柱に回し、固定する。ルゥが井戸の縁を覗き込み、青い目を細めた。
「行くよ、ルゥ」
「きゅ」
 鍵が回る音は、思っていたより軽やかだった。古い石がため息をつくようにずれ、冷たい風が下から昇ってくる。湿った匂い。鉄と苔と古い油。私は腰の薬袋を確かめ、護手をセリスにもう一つ渡した。
「地下は、灰雨の根だ。循環のパターンを見つけて、逆回しにする」
「反転調合で?」
「祈りを、手順に変えて」
 ロープに体重を預け、暗闇へ降りる。足裏に石の突起、指先に冷たい水。すぐあとを、セリスとバルド。井戸の口が遠ざかり、上の世界の光が輪のように小さくなる。
 底に達すると、そこは単なる井戸ではなかった。石壁に沿って大きな空間が広がり、古い管が無数に走っている。足元には水路。水は静かに流れ、遠くで低い唸りが響いている。
「これが……鉛糸」セリスが指さした。天井から垂れる黒い線。まるで雲が流す涙の筋のように、ゆっくりと脈打っている。触れれば冷たく、肌の上でざらりと“重い”。
 私は息を整え、左手の紋に意識を集める。灰雨は、灰を種にして空で育ち、雨で落ち、地で腐り、また灰になる循環。ならば、どこかで結び目がある。結び目は、ほどける。
「セリス、音を。四拍ずつ、三の倍。バルド、水路の流速を見て。
渦があるところ、私に教えて」
「了解」「任せろ」 白い笛の四拍子が地下に満ち、一定のリズムで空気が揺れる。バルドが水路を走り、光の反射を読む。私は鉛糸の周囲にコアグレアの粉を散らし、白露の種を少量ずつ砕いて落とす。毒が粉に集まり、糸の太さが目に見える。
「――ここだ」
 渦の中心、糸が三本重なっている。三は循環の最小単位。私は指先に反転調合を乗せる。単純に逆さまにするのではない。進行方向だけを逆に。種を雲に戻さず、雲を地の器に落とす手順を編み込む。
 左手が熱い。視界が白む。セリスの四拍が遠くなり、バルドの足音が短くなる。私は呼吸を数え、言葉を数え、指の節を数える。祈りは、数でできている。具体が、世界に食い込む。
「――戻れ」
 最後の糸を指で弾いた瞬間、鉛糸が音もなくほどけた。黒い線は霧に変わり、霧は粉に、粉は水に。天井の暗い皺の向こうで、何かが「軽く」なる。地下の空気から、重しがひとつ外れた。
 セリスが笛を止め、静寂が落ちる。バルドの笑い声が先に零れた。
「やったのか?」
「循環のひとつを逆回しにした。これで、明日の朝の灰は“雨になれない”」
 私は膝に手をつき、熱の余韻をやり過ごす。反転の核はまだ潰れていない。けれど、循環に割り込むことはできる。これを三度繰り返せば、灰雨は自重で崩れる。
「上へ戻ろう。夜明けが来る前に、次の結び目の位置を計算する」
 私たちはロープを登り始めた。途中で、井戸の口の輪が淡く明るむ。東の空が白む気配。急がなければ。あと二度、手順を回す――。
 井戸の縁を越えたとき、冷たい朝の匂いが頬を叩いた。広場の端に、灰色のマントの男と、衛兵。約束どおり戻ってきていた。男の目が、空を一瞥する。
 灰が降っていない。
 夜明けの光の中で、街の屋根は濡れているのに白くない。昨日まで朝ごとに薄く積もっていた灰の膜が、今日はない。井戸端に集まっていた女たちが囁き、子どもが手を伸ばす。指先に、灰のざらりがないことを確かめて、目を丸くする。
 灰マントの男はゆっくりと私を見た。言葉はまだ出ない。その沈黙の間に、私は懐から三角の鍵を取り出し、バルドに渡す。
「親方に返して。約束どおり」
「ああ」
 セリスが教会の鍵を掲げ、静かに頷く。「夕刻までに、残りを取り戻して、もう二度やる」
 男の口元が、ようやくほどけた。笑ったのではない。感情を押し殺すのをやめた、という顔だ。「……一晩では終わらない、という顔ね」私は言う。
「灰雨は十年降った。なら、切るのに二晩かかっても、不思議はない」
 男の声は低い。彼は一歩、近づいた。
「私は、王都の役人だ。名はエドリン。命令は連行だったが、報告は『今は不可』とする。二晩の猶予を、私が取ろう」
「なぜ?」
「王都は、数字でしか判断しない。数字が好転すれば、命令は変わる」
 エドリンが視線だけで広場を示す。女たちの笑い、子どもの跳ねる靴、鍛冶屋から響く槌の音。灰のざらりがないだけで、音が軽くなっている。私は頷いた。
「数字を作るのは得意よ」
 エドリンはうなずき、衛兵に退がるよう目配せした。彼が背を向ける直前、ほんの少しだけ声が柔らかくなる。
「私は君の敵だ。だが同時に、君の証人でもある」
 去っていく灰色の背中を見送り、私は息を吐いた。膝が少し笑う。
ルゥが私の足元で丸くなり、青い目を細める。セリスが笛を指で弾き、バルドが拳を軽く私の肩に当てる。
「もう二度。行けるか」
「行く。店を開くって言ったの。灰に負ける店なんて、つまらない」 私は笑い、袖をたくし上げた。朝の光は冷たいのに、皮膚の下では熱が生きていた。祈りを手順に。毒を薬に。ざまぁを、急がずに。
 この街に、朝が来る手順を、もう二度、刻みに行く。

第4話 薬師の誓いと二度目の夜
 夜が深まる。灰雨の降らぬ朝を迎えたアーデは、静かにざわめいていた。
 昨日まで当たり前だった重苦しい灰が消えただけで、街の声は軽く、笑いの調子も明るい。女たちは桶を磨き、子どもは空を見上げ、鍛冶場の槌は少し力強く響いていた。
 だが私は知っていた。循環を一度崩しただけでは終わらない。あと二度、糸を逆に編み込まなければ、灰雨は必ず戻る。
「今夜は、どこへ?」
 バルドが鍛冶場の前で待っていた。傷はすっかり癒えている。あの膏は確かに効いたようだ。
「北の丘。水脈の下に二つ目の結び目がある。セリスが地図を調べてくれた」
「護衛は任せろ」
 ルゥが私の肩に飛び乗り、耳をぴんと立てる。もふもふの温もりが、胸の奥に勇気をくれる。
 夜半。丘の洞穴は冷たく、霧が薄くたまっていた。
 セリスが白い笛を吹き、リズムを刻む。私は粉と種を合わせ、霧を可視化する。浮かび上がったのは、昨日より太い鉛糸。地脈に深く食い込み、脈動している。
「ここは……強い」
 セリスが息を呑む。
「けど、やれる」
 私は指先を毒に浸し、祈りを具体に変えていく。
 毒は、薬になる。灰は、土になる。雨は、芽を育てる。
 紋が熱を帯び、視界が白む。体力が吸い取られ、胸が軋む。だが、ルゥが鳴いた。
「きゅ」
 励ますような声。私は最後の結び目を掴み、逆へと編み直す。
 ――糸がほどけた瞬間、丘の霧が晴れ、夜空に星が覗いた。
「……やった」
 膝をつく私を、バルドが支える。セリスの目が潤んでいた。
「星が……十年ぶりに、こんなに見えた」
 丘の上から見下ろす街の屋根にも、灰は降りていない。焚き火の煙がまっすぐに立ちのぼり、子どもたちが歓声をあげている。
 けれど――
 背後で鉄靴の音がした。
「やはり、君はここにいたか」
 灰色のマントを翻し、エドリンが現れた。背後には王都の衛兵が数名。
「二度目を終えたか。……認めざるを得ないな。君が街を救っている」
 その声は硬いが、昨日より揺れていた。「だったら邪魔しないで。あと一度。最後の結び目をほどけば、灰雨は終わる」
「……だが、王都はそう言わない。『処刑された令嬢が蘇った』と聞けば、恐怖に震え、討伐を命じるだろう」
 彼の目は真剣だった。敵でありながら、迷いがあった。
「私は王都のために生きない。けれど、救える人がいるなら救う。
それが薬師の手順よ」
「君は――」
「処刑された薬師令嬢。今さら王都に戻れと言われても、もう遅い」
 私の言葉に、エドリンの瞳が揺れる。
 衛兵たちが槍を構えたが、彼は片手で制した。
「……次の結び目を終えるまで、私は見逃そう」
 そう言い残し、灰色の影は闇に消えた。
 丘を下りながら、セリスがぽつりと呟いた。
「彼は、本当に敵かしら」
「少なくとも、今は証人よ」私は答える。
 ルゥが喉を鳴らし、星空を見上げる。
 残り一度。最後の循環を断ち切れば、灰雨の呪縛は終わる。
 私は唇をかみしめた。
「次で決める。――薬師として、この街に朝を取り戻す」
(つづく)

第5話 最後の結び目と黒幕の影
 夜明けの鐘が鳴る前に、私は再び薬袋を背にして立っていた。
 セリスの地図が示す最後の結び目は――街の地下神殿。かつて薬師ギルドが聖域と呼び、今は閉ざされた石の祠。その奥に灰雨の核が眠っている。
「ここをほどけば、灰雨は完全に止まる」
 セリスの声は張りつめていた。
「でも、同時に“何か”が待っているはず。十年前、私たちはそれに触れることさえできなかった」
 私たちは視線を交わす。バルドが頷き、ルゥが低く鳴いた。
 地下神殿の扉は苔に覆われていた。セリスが白い笛を吹き、鍵の鉄片をかざす。
 音に応じて石壁が震え、重い扉が音もなく開いた。中から吹き出した空気は冷たく、甘く、そしてどこか懐かしい。――毒の匂いだ。
「気を引き締めろ」
 バルドが剣を抜く。私は掌に反転の紋を意識する。
 奥へ進むと、祭壇の上に黒い結晶があった。煙を吐き出し、天井へと細い鉛糸を伸ばしている。まるで心臓が脈打つように、毒の循環を維持していた。
「これが……灰雨の核」 私が近づいた瞬間、結晶の周りの霧が渦を巻き、人の形を取った。
黒い影。声が響く。
『薬師よ……また来たのか』
 それは低い男の声だった。顔は闇に沈んでいるのに、目だけが赤く光っていた。
「誰?」
『十年前、ギルドを潰した者。お前たちが“黒幕”と呼んできた影だ。灰雨は我が望み。辺境を枯らし、王都に依存させる仕組みだ』
 セリスが息を呑む。「やはり……」
 影は笑った。
『愚かだな。お前の力が毒を薬に変えると? ならば、その力ごと循環に組み込んでやろう。薬が毒になり、希望が絶望になる』
 結晶が鳴動する。毒霧が押し寄せ、ルゥが吠えた。私は前へ出る。「私は薬師。毒は薬に変わる。絶望は希望に変わる。――その逆は、許さない!」
 影が腕を振ると、毒霧が蛇のように襲いかかる。
 私は白露の種を砕き、霧に散らす。反転調合――毒の結び目を逆へ。蛇の牙は花に変わり、花は光を放って散った。
『ほう……』
「バルド!」
「任せろ!」 バルドが剣で結晶を打つ。火花が散るが、結晶はびくともしない。
セリスが笛を強く吹き、結界の音を揺らす。
「アイリス! お前しか、ほどけない!」
「わかってる!」
 私は結晶に掌を当てる。熱い。皮膚が焼ける。だが紋が輝き、毒の構造が脳裏に広がった。灰雨の循環――空へ、地へ、人へ。
 それをすべて逆に、優しさに、癒しに書き換える。
「〈反転調合〉――!」
 光が爆ぜた。結晶がひび割れ、影が悲鳴を上げる。
『貴様ァァァ! その力……王都が……黙っては……!』
 最後の叫びと共に、影は霧散した。黒い結晶は粉となり、足元に崩れ落ちた。
 静寂。
 祭壇の上には、もう鉛糸はない。霧も晴れ、冷たい空気が澄み渡る。
 セリスが膝をつき、震える声で言った。
「……終わった。十年の灰雨が、本当に……終わった」
 バルドが剣を鞘に収め、笑った。
「やったな。お前がこの街を救ったんだ」 私は掌を見た。焼け跡のような痛みが残っていたが、紋は確かに輝きを失っていない。
 ルゥが飛びつき、頬を舐める。私は笑いながら彼を抱きしめた。
「これで……やっと、店を開ける」
 地上に戻ると、夜明けの空は透明だった。
 灰は降らない。代わりに、鳥の声が聞こえた。人々が空を見上げ、泣きながら抱き合っている。
 エドリンが待っていた。
 彼は灰色のマントを脱ぎ、静かに言った。
「確かに見た。灰雨は止んだ。君がやった」
「……なら?」
「報告は変わる。『辺境に神薬師あり』と」
 彼の瞳は、昨日までよりも柔らかかった。
「だが、王都はいずれ動く。君を求め、君を恐れる。覚悟しておけ」
「そのときは――また拒絶するだけよ」
 私の答えに、彼は小さく笑った。
 アーデの広場に戻ると、人々が歓声で迎えた。
 「薬師様!」「神薬師!」と声が飛び交う。
 私は首を振った。
「私は神じゃない。ただの薬師よ。薬が要る人は、いつでも店に来て」 笑顔が広がる。ルゥが尻尾を振り、セリスとバルドが肩を並べる。
 十年前に途絶えた朝が、ようやく街に戻った。
 ――ここからが、私の“スローライフ”の始まりだ。
(第1章 完)

第2章 第1話 辺境に店を構える
 灰雨が止んで三日。アーデの街は、信じられないほど明るさを取り戻していた。
 屋根を覆っていた灰は洗い流され、子どもたちは咳をせずに走り回る。井戸の水は澄み、鍛冶場の火は赤々と燃え続け、教会の鐘もよく響く。
 街の人々は「神薬師」「救世主」と私を呼んだ。けれど私は笑って首を振る。
「私は神様なんかじゃない。ただの薬師よ」
 そう言って、私は古い薬師ギルド跡を掃除していた。
 埃を払い、棚を磨き、作業台に布を敷く。窓際に乾かした薬草を吊るすと、甘い香りが風に乗る。
 ルゥが棚の上で丸まり、尻尾を振った。青い瞳はすっかり元気だ。
「看板はどうする?」
 バルドが木板を持ち上げて尋ねてくる。
「そうね……『アイリス薬房』でいいわ。堅苦しくなく、誰でも入れるように」
「神薬房じゃないのか?」
「それは呼びたい人が勝手に呼べばいい。私は薬師として名乗るだけ」
 木板に文字を刻むと、小屋は本当に“店”らしくなった。
 開店初日。 扉を開けると、すでに人が列を作っていた。老婆が杖をつき、鍛冶屋の親方が胸を押さえ、孤児院の子どもたちが目を輝かせて並んでいる。
「順番にどうぞ。無理に押さないでね」
 私は笑顔で迎え、薬棚から小瓶を取り出した。
 腰の痛みに効く膏。肺を守る吸入薬。夜泣きに効く糖衣。どれも辺境の人々にとって必要なものばかりだ。
 ルゥが人の足元を走り回り、子どもたちを和ませる。笑い声が絶えない。
 セリスは後ろで記録を取りながら、静かに言った。
「十年前、夢見た光景よ。薬師の店に人が集まり、笑顔で帰っていく……」
 私は少し照れながら、彼女に頷いた。
 昼過ぎ。
 行列がひと段落した頃、一人の旅人が店に入ってきた。灰色の外套をまとい、目だけが鋭く光っている。
 私はすぐに気づいた。――エドリンだ。
「視察かしら?」
「いや……薬を買いに来た」
 彼は低く答え、腰の袋から銀貨を出した。
「この街は、王都の報告とは別の道を歩み始めた。だが……君が“ 灰雨を止めた女”であることは、隠しようがない。いずれ王都は動く」「だからこそ、店を開いたのよ。逃げ隠れせず、誰でも迎える。薬師として」
 私が差し出した瓶を受け取ると、エドリンはほんのわずかに笑った。
「……強いな。君は」
 彼は背を向け、外套を翻して去っていった。
 夕暮れ。
 店先に腰を下ろし、私は息をつく。
 ルゥが膝に乗り、バルドが隣で欠伸をした。セリスは帳簿を閉じ、ほっとした表情を浮かべる。
「思っていたより忙しかったわね」
「でも……いい店だ」
 私は空を見上げた。
 灰雨はもうない。澄んだ空の下、辺境の街はゆっくりと息を吹き返している。
「ここからが、本当の始まりよ。薬師としての、私の生活が」
 ルゥが「きゅ」と鳴き、私の言葉に応えるように尻尾を振った。第2章 第2話 孤児院の夜泣きと薬師の灯
 辺境の空は、昼と夜でまるで顔が違う。
 昼は明るく澄み、復活した畑に希望を芽吹かせる。けれど夜になると、街は急に静かになる。
 人々はまだ十年の灰雨の記憶に縛られていて、闇が来ると「また降るのでは」と不安に震えるのだ。
 その夜、私は孤児院の前にいた。
 木造の古い建物。壁の板はところどころ割れているが、子どもたちの声と笑いが満ちていた。
 ただ――夜になると、その笑いは泣き声に変わる。
「……夜泣きがひどくて」
 院長のサラが、私に小声で言った。まだ三十代半ばのはずなのに、頬の皺は深い。
「灰雨の間、子どもたちはずっと咳き込み、眠れなかった。その記憶が消えず、今も真夜中に泣き出してしまうの」
「身体の症状だけじゃない、心の傷ね」
 私は頷く。
 ルゥが足元で耳をぴくりと立てた。子どもの泣き声に敏感に反応している。
 私は薬袋を開き、三つの材料を並べた。
 一つは「ミルク花」の乾いた花弁。甘い香りがする。
 二つ目は「白露の種」。毒を吸い、逆に安らぎを与える力がある。
 三つ目は「青月草」の粉末。淡い青光を放ち、夢見をやわらげる。「これらを合わせて――」
 私は乳鉢でゆっくりとすり潰した。香りがふわりと広がり、子どもたちが泣き声を止め、目をこちらに向けた。
 彼らの瞳は不安に揺れている。それでも好奇心も混じっていた。
「ほら、見ていてね」
 私は指先に少量の粉をとり、掌で温めるようにこすった。左手の紋が淡く光り、粉が丸い飴玉に変わっていく。
 光を帯びた飴は、まるで星のかけらのよう。
「これが《ミルク花の糖衣》。舐めれば、夜泣きがおさまる」
 子どもたちは目を丸くして、一斉に手を伸ばしてきた。
 私は数を数え、ひとつずつ手のひらに渡す。
「……甘い」
「きれい!」
「おなかの中が、あったかい」
 飴を舐めた子どもたちの顔に笑みが浮かんでいく。
 さっきまで泣いていた子も、ルゥの背中に頬を寄せて微笑んだ。「夜泣きは、一晩では消えない。でも、こうやって“眠れる記憶” を少しずつ重ねていけば、きっと治るわ」
 サラは目を潤ませて、私に深く頭を下げた。
「ありがとう……子どもたちの寝顔を、こんなに穏やかに見られる

なんて」
 夜更け。
 孤児院を出ると、空には満天の星が広がっていた。
 灰雨が去ってから初めての、静かな星空。 バルドが外で待っていて、肩をすくめた。
「子どもたち、すぐ寝ちまったな」
「薬だけじゃないわ。安心が必要なのよ」
「安心、ね」
 バルドは星空を見上げる。
「この街も、安心を取り戻せるのか?」
「取り戻すの。薬師の手順で、一歩ずつ」
 ルゥが「きゅ」と鳴き、私の足元を駆け回る。
 私は笑って空を見上げた。
「明日もまた、朝は来る。その積み重ねが、人の心を癒やすのよ」
 こうして「アイリス薬房」は、辺境の孤児たちの夜を照らす小さな灯になった。
 だがその頃、王都では――「処刑されたはずの令嬢が生きている」という噂が広まり始めていた。
第2章 第3話 鍛冶屋親方と煙の病
 昼下がりのアーデは、槌の音で賑やかだった。
 灰雨が止まったおかげで、鉄は赤々と燃え、火花が空気を割って飛ぶ。けれどその音に混じって、ひどい咳の音も響いていた。
「ごほっ、ごほっ……!」
 鍛冶屋の親方――大きな体と太い腕を誇る男が、作業の合間に咳き込んでいる。胸板は岩のように厚いのに、その咳だけが彼を小さく見せていた。
「親方、少し休んでください!」
「休んでたら、注文に追いつかん! 剣も釘も馬蹄も足りねぇんだ
!」
 弟子たちの必死の声を振り切り、親方はまた槌を振り下ろす。その度に火の粉が舞い、煤と粉塵が肺を蝕んでいく。
「……薬師。来てくれたのか」
 工房の隅で私を見つけた親方は、額の汗を拭いながら言った。
「約束したでしょう。街を救うだけじゃなく、人を救うって」
「だが、鍛冶屋の肺はしょうがねぇ。火と鉄を吸って生きてるんだ。
薬でどうにかなるもんじゃ――」
「それをどうにかするのが、薬師よ」
 私は薬袋を広げた。弟子たちが目を輝かせ、ルゥが工房の中をちょこちょこと歩き回る。
 私は三つの素材を取り出した。
 一つは「灰笠茸」。普通なら発熱毒を持つが、反転すれば呼吸を整える滋養となる。
 二つ目は「煤草の根」。黒く硬い根だが、砕けば痰を切り、肺を潤す作用を持つ。
 三つ目は「薄青石の粉」。粉塵を吸着し、体外へ流す特性がある。
「この三つを組み合わせれば――」
 私は乳鉢で混ぜ合わせ、指先に力を込めた。紋が淡く光り、毒が薬へと編み変わっていく。
 湯気を帯びた液体が生まれ、私はそれを小瓶に注いだ。
「《煙切りの滴》。一口で、胸の重さが軽くなるわ」
 親方は逡巡したが、弟子たちの「試してみてください!」の声に背を押され、小瓶を受け取った。
 一口。
 飲んだ瞬間、親方の肩が大きく上下し、喉からごろりと黒い痰が吐き出された。
「……っ、息が……軽い」
 目を見開いた親方が、深く息を吸い込む。肺が広がり、胸が軽くなる。弟子たちが歓声を上げ、工房に笑い声が広がった。
「薬師……お前はすげぇな」
 親方が大声で言う。その声は咳に邪魔されず、力強かった。「十年、この胸の重さは仕方ないと思ってた。けど違った。俺は、まだ槌を振れる」
「槌を振るのは大事。でも、薬も続けて。無理すればまた苦しむわ」
 私は追加の瓶を弟子に渡し、服薬の間隔を丁寧に説明する。
 夕暮れ。
 工房を出ると、親方が私を呼び止めた。
「これを」
 差し出されたのは、一振りの短剣。銀色に輝く刃に、花の模様が彫り込まれていた。
「俺の礼だ。護身にしろ。薬師だからといって、世の中の全部が優しいわけじゃねぇ」
 私は刃を見つめ、静かに受け取った。
「ありがとう。大切にするわ」
 ルゥが尻尾を振り、親方の足元に擦り寄った。親方の大きな手が、優しくその頭を撫でた。
 その夜。
 街の広場では、子どもたちが走り回り、鍛冶屋の弟子たちが笑って酒を飲んでいた。
 私の小さな薬房に、再び灯がともる。
「少しずつね」
 私は呟き、ルゥを抱き上げる。「毒を薬に、絶望を希望に。手順どおり、一歩ずつ」
 だがその時、窓の外に灰色の影がよぎった。
 王都からの伝令兵――。彼らはもう、アーデを放ってはおかないだろう。 
第2章 第4話 王都からの密使と新たな試練
 夜更け。
 薬房の灯を落とした直後、扉が小さく叩かれた。
「こんな時間に?」
 バルドが剣に手を伸ばす。ルゥが耳を立てて低く唸る。
 私は静かに扉を開いた。そこに立っていたのは、灰色の外套を纏った男――エドリンではなかった。もっと痩せて、狐のような目をした若い兵士だった。
「薬師アイリス殿。私は王都から派遣された“密使”です」
「……密使?」
 その響きに、バルドの表情が硬くなる。
「陛下より伝令を承っております」
 兵士は懐から巻紙を取り出した。封蝋には王都の紋章。
「――“辺境に蘇った令嬢、アイリス・グランドリアを王都へ召還せよ”」
 その場の空気が張りつめた。
 私は笑みを浮かべ、淡々と答える。
「お断りするわ」
 兵士の眉がぴくりと動く。
「返答は予想どおり。しかし陛下の命令は絶対です」「その陛下が、私を処刑したのよ。もう一度首を差し出せと言うの
?」
「処刑された令嬢が“神薬師”として蘇った。それを放置できるほど、王都は甘くない」
 セリスが一歩前に出て声を張る。
「アーデの灰雨は止んだ。人々は息を取り戻した。薬師を奪うことは、街を殺すことと同じ!」
 兵士は冷たい視線でセリスを見据え、肩をすくめた。
「街ごと切り捨てることは、王都にとって造作もないことです」
 その一言で、工房での笑い声や孤児院の子どもたちの寝顔が頭をよぎった。
 ――この街をまた灰に沈める?
 胸の奥に熱がこみ上げ、私は一歩前に出る。
「なら、私はこの街と共に立つ。薬師として、守る」
 兵士は薄い笑みを浮かべた。
「……なるほど。ならば“試練”を差し上げましょう」
 彼が指を鳴らすと、扉の外に運ばれてきた大きな箱が開けられた。
中からは、痩せ細った男が転がり出る。目は虚ろで、体は痙攣している。
「王都から辺境へ護送中、謎の病に侵された捕虜です。解けるものなら解いてみなさい」

「こんな夜に人を病で試すなんて……!」バルドが怒声を上げる。「命令です。――もし救えなければ、あなたは“神薬師”ではないと証明される」
 密使の声は淡々としていた。
 私は捕虜の体に触れた。
 熱い。汗が噴き出している。だがこれは単なる熱ではない。血流を逆に走る“異毒”だ。皮膚の下で黒い筋が踊り、心臓へ食い込もうとしている。
「これは……王都で仕組まれた毒」
 セリスが顔をしかめる。
「普通の薬では無理。――アイリス、やれるの?」
 私は静かに頷いた。
「やれるわ。毒は薬に変わる。これまで通りに」
 私は粉末を取り出し、ルゥの毛を少し撫でて電気の火花を得る。 白露の種と煤草の根、そして青月草を混ぜ、異毒の流れを逆にするよう祈りを編み込む。
「〈反転調合〉!」
 小瓶に滴が生まれ、私はそれを捕虜の唇に落とした。
 数秒後。黒い筋が少しずつ薄れ、呼吸が安定していく。男の目に光が戻り、弱々しく私の手を掴んだ。
「……生きて、いいのか」
「ええ。生きなさい」
 兵士の瞳がわずかに揺れた。
「……驚きました。王都の毒を解いた者は、あなたが初めてです」
 彼は巻紙をしまい、深く頭を下げる。
「報告はこう伝えます。――“神薬師は辺境で人を救った。連行は不可能”」
 その言葉に、胸の奥がざわついた。安堵と同時に、王都の執念を思い知らされる。
「また来るわね」
 セリスが低く呟く。
「ええ。けど、その度に救えばいい。それが薬師の手順よ」
 夜が明ける。
 孤児院の子どもたちが笑いながら走り、工房の槌がまた響き始める。
 私は短剣を腰に差し、薬房の前に立った。
「王都がどう動こうと、ここが私の場所。薬が必要な人のために、私は店を開ける」
 ルゥが「きゅ」と鳴き、尻尾を振る。
 その笑顔の裏で、王都の影が確実に近づいていることを、私は知っていた。
(第2章 第4話 完)
第2章 第5話 旅商人と薬師の評判
 朝の市場は、昨日より賑わっていた。
 露店には干し肉や果物が並び、子どもたちが小銭を握りしめて走り回る。
 人々の会話の端々に「神薬師」「アイリス薬房」という言葉が混じっていた。
「昨日、孤児院の夜泣きが止まったんだってさ」
「鍛冶屋の親方も、もう咳をしてないって話だ」
「薬房に行けば、何でも治るらしいぞ」
 私は買い物籠を提げながら、人々の囁きを耳にしていた。
 少し顔が熱くなる。けれど、胸の奥はくすぐったいほど嬉しかった。
 そのとき、市場の外から鈴の音が聞こえた。
 幌馬車に荷を積んだ旅商人の一団が、アーデに入ってきたのだ。 王都と辺境を結ぶ行商人――この街にとっては貴重な情報と物資の供給者である。
「おいおい、ここにこんな人だかりがあるなんて……」
 先頭の中年商人が驚いたように言い、私の看板に目をとめた。
「薬房? 辺境に薬師なんて残ってるはずが……」
 その声に市場の人々が一斉に答える。
「残ってるんじゃねぇ、“蘇った”んだ!」
「神薬師様だよ! 灰雨を止めた!」
 商人たちは目を丸くし、やがて好奇心に押されて私の薬房に足を向けてきた。
「噂は本当か?」
 中年商人は慎重に私を見据える。
「王都の商会では、辺境はもう死んだ土地だと言われていた。けど
……人々がこうして笑っている。これは、お前の薬のおかげだと?」
 私は微笑み、棚に並べた薬瓶を指差した。
「毒を薬に変える。それが私の役目よ。必要なら、あなたたちにも分けるわ」
 商人たちは互いに顔を見合わせ、やがて声をあげて笑った。
「こりゃ大変だ! 王都に戻れば、商会はざわつくぞ。辺境で薬が売れるなら、交易路を開かねばならん!」
 ルゥが机の上に飛び乗り、青い瞳で商人を見上げた。
 子どもたちが「かわいい!」と駆け寄り、場は一気に和やかになる。
「もふもふ相棒までいるのか。こりゃ噂以上だ」
 商人は感心して笑い、袋から布を取り出した。
「これは礼だ。王都の布織りの新品。街の人々に縫い物をしてやれ。評判が立てば、王都からの客も増えるぞ」
「ありがとう。けれど礼は要らないわ。薬を必要とする人が来てくれるなら、それで十分」

 夕暮れ。
 薬房の前で布を広げながら、セリスが小声で言った。
「王都に評判が届くのは時間の問題ね」
「それでいいわ」私は頷いた。
「逃げても追われるなら、堂々と立つ。薬師として」
 バルドは腕を組み、にやりと笑う。
「なら俺は、護衛として堂々と剣を振るうさ」
 ルゥが「きゅ」と鳴き、星空を見上げた。
 その夜。
 商人のひとりが宿で書いた手紙が、王都へ運ばれていった。
 ――「辺境に神薬師あり。灰雨を止め、人を癒し、街を蘇らせた」
 噂はもう止まらない。
 そしてそれは、やがて大きな渦となって王都を巻き込み、私たちの前に新たな試練を運んでくるのだ。
(第2章 第5話 完)
第2章 第6話 王都からの勅命
 朝。
 薬房の扉を開けると、広場にはすでに人だかりができていた。
 鍛冶屋の親方が大声で笑い、孤児院の子どもたちが薬草の束を抱えて駆け寄る。市場の女たちも「薬師様!」と声をかけてくる。
 アーデの街は、ようやく「生きている街」に戻りつつあった。
 けれど、その笑いの中に混じって――鉄靴の響きが近づいてきた。
「……来たな」
 バルドが低く呟いた。
 広場の入り口から、王都の紋章を刻んだ旗を掲げた騎馬隊が現れた。
 十名ほど。鎧の輝きは辺境の人々を押し黙らせるには十分だった。
 先頭に立つのは、白い羽飾りを付けた若い将校。冷たい眼差しが私を真っ直ぐ射抜く。
「辺境にて“神薬師”と呼ばれる者、アイリス・グランドリア」
 将校が高らかに声を上げる。
 兵士が巻紙を開き、響く声で読み上げた。
「――王命により、貴様を王都に召還する。王国のため、その力を捧げよ」
 広場にざわめきが走る。 人々の視線が私に集まり、不安と期待と恐怖が入り混じっていた。
 私は一歩、前に出る。
 風が頬を撫で、ルゥが肩に飛び乗った。
「王都に捧げるつもりはないわ。私は薬師。救いたい人を救う。それだけ」
 将校の目が細くなる。
「逆らうと?」
「逆らうんじゃない。――私はもう、あの国に属していない」
 言葉は鋭い刃のように広場を駆け抜けた。
「愚か者!」
 将校が叫ぶと同時に、騎馬兵が槍を構える。
 広場の人々が息を呑み、子どもたちが母親の背に隠れる。
 だが、そこで鍛冶屋の親方が前に出た。
「この街は、あんたらが見捨てたんだ! 今さら薬師を連れていくな!」
 孤児院の院長サラも声を張り上げる。
「夜泣きが治まったのは、この方のおかげ! 連れて行くなら、私たち全員を連れて行きなさい!」
 人々が一斉に叫び、広場は熱を帯びた。
 私は深く息を吸い込み、将校を見据えた。
「ここで力づくに私を連れていけば、王都は“再び辺境を殺した” と歴史に刻まれるわ」
 将校は顔をしかめ、手を止めた。
 そのとき、兵の後方から別の声が響いた。
「――待て」
 灰色のマントを纏った男。エドリンだった。
 彼は馬を進め、私と将校の間に割って入る。
「報告は私がする。今は連行すべきではない」
「しかし――!」
「灰雨を止めた薬師を捕縛するなど、王都の名誉を傷つけるだけだ」
 将校は歯噛みしたが、エドリンの威圧に押され、槍を下ろす。
 エドリンは私を振り返り、低い声で言った。
「猶予は短い。次は“勅命”ではなく、“討伐”になるかもしれない」
「……それでも、私はここを離れない」
 エドリンは短く笑い、マントを翻した。
「ならせめて、備えておけ。王都は必ず来る」
 兵たちが去ったあと、広場には再び人々の声が溢れた。
「薬師様を守るぞ!」
「アーデはもう見捨てられない!」
 私は胸の奥が熱くなるのを感じた。 ――この街は、私を必要としてくれている。
 王都が何を命じても、私はここを捨てない。
 ルゥが鳴き、尻尾を振った。
 星空の下で、薬師としての誓いがまた強く刻まれていく。
(第2章 第6話 完) 
第2章 第7話 旅商人の噂と刺客の影
 アーデに朝日が差し込むと、広場にまた行列ができていた。
 昨日の勅命騒ぎがあったにもかかわらず、人々は薬房の扉を叩く。
 夜泣きの子を抱いた母親。咳をする老人。怪我をした冒険者。
「どうぞ、順番に」
 私は笑顔で迎え、薬瓶を渡す。
 バルドが扉の前で護衛に立ち、セリスは帳簿を整える。ルゥは子どもたちにじゃれつき、笑いを誘った。
 ――王都が何を言おうと、この街は私を必要としている。
 その確信が胸を強くする。
 昼過ぎ、再び旅商人の一団が街へやって来た。
 幌馬車には王都の品が積まれ、商人たちはにこやかに人々と取引をしている。
 だが耳を澄ませば、彼らの口から出る噂はひとつ。
「辺境には神薬師がいる」
「灰雨を止め、死者を蘇らせる奇跡を起こした」
「王都が放っておくはずがない」
 噂は鳥よりも速く広がる。王都に届くのは時間の問題だ。
 その夜。
 薬房の灯を落としたあと、私は机に広げた薬草を仕分けていた。
 静かな時間。けれど、背筋に冷たいものを感じた。
 ――気配。
 ルゥが耳を立て、低く唸る。
 次の瞬間、窓の外から黒い影が飛び込んできた。
「っ!」
 バルドが剣を抜いて立ちはだかる。刃と刃が火花を散らし、暗がりに仮面の男が現れた。
「暗殺者……!」
 セリスが叫ぶ。
 男は無言のまま短剣を振るい、矢継ぎ早に襲いかかってくる。動きは鋭く、訓練された兵のそれだった。
「王都の差し金ね」
 私は薬袋から白露の種を掴み、床に撒いた。
 粉が光を放ち、霧のように広がる。
 暗殺者の体が一瞬よろめく。その隙をついてバルドが斬り込む。
 仮面が割れ、血が飛んだ。
 だが、男はなおも執念を見せる。
「……王の命だ。生かしてはおけぬ」
 彼は毒の刃を抜き、こちらに向ける。
 私は咄嗟に小瓶を投げつけた。
 瓶が割れ、霧が立ち込める。――解毒滴。 刃が私の頬をかすめた瞬間、毒が反転し、刃自体が黒く崩れ落ちた。
「なっ……!」
 暗殺者の目が驚きに見開かれる。
 そのままバルドが剣で彼を叩き伏せ、地面に沈めた。
「捕らえた……!」
 バルドが息を切らす。
 セリスが仮面を外すと、そこにはまだ若い兵士の顔があった。
 彼の唇は震え、掠れた声を漏らす。
「……命令だった……従わなければ、家族が……」
 私はその手を握り、小瓶を口に含ませた。
「大丈夫。毒は薬に変わる。絶望も、希望に」
 彼の呼吸が落ち着き、涙が頬を伝う。
「王都は……次は、もっと大きな力を……」
 兵士の言葉はそこまでだった。
 私は立ち上がり、唇をかみしめた。
 噂が広がれば広がるほど、王都は私を脅威とみなし、力を増してくる。
 けれど――
 ルゥが頬を舐め、バルドとセリスが隣に立つ。 守りたい人がここにいる。
「来るなら来ればいい。私は薬師。救う手順を止めたりはしない」
 夜空には星が瞬いていた。灰雨のない澄んだ光は、明日もまた朝が来ると約束してくれているようだった。
(第2章 第7話 完) 
第2章 第8話 王都の策謀と“薬師ギルド”の影
 翌朝、薬房の前に旅商人が駆け込んできた。
 顔は青ざめ、手紙を握りしめている。
「アイリス殿……王都で妙な布告が出た!」
 差し出された羊皮紙には、鮮やかな王都の印章。
 そこにはこう書かれていた。
『王都は新たに“中央薬師ギルド”を復活させる。
すべての薬師は登録を義務とし、登録せぬ者は“偽薬師”として処罰する』
 文字を追うごとに、胸の奥が冷たく締め付けられた。
「薬師ギルド……?」
 セリスが紙を睨みつける。
「十年前に潰されたはずの……!」
 私は深く息を吐いた。
 灰雨をめぐる争いで壊滅したはずのギルド。それを今になって復活させる意味はただ一つ――。
「……私を縛るためね」
 バルドが剣の柄を強く握る。
「王都は“偽薬師”の烙印を押して、お前を捕まえるつもりだ」 旅商人は震えながら言った。
「もう噂は都にも広まってます。『辺境に神薬師あり』って。王都は焦ってる……」
 その日の午後、街の広場に一人の女が現れた。
 艶やかな黒髪、青いローブ、そして腰には薬草袋。
 背筋の通った佇まいに、人々の視線が吸い寄せられる。
「……“中央薬師ギルド”の代理人を名乗る者よ」
 セリスが小さく呟いた。
 女は広場の壇上に立ち、澄んだ声で宣言する。
「辺境の人々よ。我らギルドは再び立ち上がった。
 だがここに、無資格の“偽薬師”が存在すると聞く。――アイリス・グランドリア!」
 広場の空気が凍りついた。
 私は前に出る。
 ルゥが肩で「きゅ」と鳴き、バルドとセリスが背後に立つ。
「偽薬師? 私が救ったのは、この街の子どもや老人、鍛冶屋や孤児たちよ。偽物にできることじゃない」
 女の瞳が細められる。
「あなたの力は異端。王都の枠に収まらぬからこそ危険なのです。
……我らは“正しい薬師”を証明する」

 そう言って彼女は瓶を取り出した。中で紫の液体が渦巻いている。
 栓を抜くと、毒の霧が広場を覆った。
「っ!」
 人々が悲鳴を上げ、子どもが泣き叫ぶ。
 私はすぐに薬袋を開いた。
 白露の種、青月草、そして薄青石。粉を合わせ、掌に紋を走らせる。
「〈反転調合〉!」
 光が広がり、紫の毒は一瞬で澄んだ風に変わった。
 泣いていた子どもが呼吸を取り戻し、人々の顔に安堵が広がる。
 女の眉がぴくりと動いた。
「なるほど……本物、か」
 次の瞬間、彼女は冷たい笑みを浮かべた。
「ならばなおさら。――王都はその力を恐れる」
 女は霧の中へと姿を消した。
 残された広場に、沈黙が落ちる。
「……これからは、街を救うたびに“偽薬師”と呼ばれるのね」
 私は小さく呟いた。
 だが、鍛冶屋の親方が声を張り上げた。
「偽物なもんか! この街を救ったのはお前だ!」 孤児院の子どもたちも叫ぶ。
「アイリス薬師はほんものだ!」
 人々の声が広場を満たした。
 私は胸に手を当て、静かに笑った。
「ありがとう。なら私は、辺境の“薬師”であり続ける」
 けれど、心の奥底では感じていた。
 ――王都は、ますます本気で私を追い詰めてくる。
 次は言葉ではなく、刃と軍勢をもって。
 ルゥが小さく鳴き、肩で寄り添ってくる。
 私はその毛並みに触れ、決意を固めた。
「いいわ。来るなら来なさい。毒は薬に、絶望は希望に変える。それが私の役目だから」
(第2章 第8話 完)
第2章 第9話 迫る軍靴、辺境の誓い
 灰雨が止んでから幾日。
 アーデの空は澄み渡り、畑には芽が出始めた。
 けれど、街の人々の笑顔の裏には新たな影が差していた。
 ――王都軍が動いている。
 旅商人の報せによれば、国境を越えて辺境へと部隊が進軍しているという。
 目的はひとつ。“神薬師”の捕縛。
 薬房の奥、私は机の上に広げた地図を見つめていた。
 セリスが険しい表情で指を差す。
「ここ、渓谷の手前に王都の駐屯地ができている。規模は小さいけど、補給路を抑えられれば街は孤立する」
 バルドは腕を組み、険しい声を出した。
「やる気だな。『偽薬師討伐』なんて名目を立てりゃ、民衆への示しもつくって腹か」
 ルゥが低く唸る。
 私の心も同じように波立っていた。
「……この街を捨てることはできない」
 私は静かに言った。
「王都に従えば、再び灰に沈む。けれど抗えば、軍の槍が迫る」 沈黙の中、扉が叩かれた。
 鍛冶屋の親方が立っていた。
 大きな体に煤をつけ、手には真新しい槌を握っている。
「薬師。俺たちは決めた。この街を守る」
「……親方?」
 後ろから孤児院の院長サラが現れ、子どもたちを連れていた。
「あなたに救われた命を、今度は私たちが守る番です」
 次々と街の人々が集まってきた。農夫、商人、行商の女、兵役を終えた老人――みな声を合わせる。
「アイリス様を渡すくらいなら、街ごと抗う!」
「アーデはもう捨てられない!」
 胸が熱くなる。
 この街は、生き返ったのだ。薬ではなく、人々の意志で。
「……ありがとう」
 私は深く頭を下げた。
「でも、戦うだけが答えじゃない。私は薬師。毒を薬に変えるように、絶望を希望に変える方法を探す」
 ルゥが肩で鳴き、尾を振った。
 その夜。
 私は薬房で調合を続けた。
 薬草を混ぜ、毒を薄め、霧を浄化する瓶を作る。

 バルドは剣を研ぎ、セリスは古い記録を調べている。
「王都が迫るなら、迎え撃つ準備も必要だ」
「でも、できるなら血は流さないで」
 私の言葉に二人は頷く。
 窓の外には、星が瞬いていた。
 その光は、遠くに迫る軍の松明のようにも見えた。
「必ず守る。この街も、人々も」
 私は瓶を握りしめ、誓った。
 ――薬師の手順は、まだ途切れない。
(第2章 第9話 完) 
第2章 第10話 王都軍との邂逅、毒と薬の境界
 夜明け前。
 アーデの街道に土煙が立った。
 それは朝靄を裂き、規律正しく進む王都軍の姿だった。
 甲冑の音、槍の列、旗に描かれた王家の紋章。
「……来たな」
 バルドが剣を握りしめる。
 セリスの指が白くなるほど帳簿を握りしめ、ルゥは低く唸った。 街の人々は不安げに家の戸を閉めながらも、薬房の前に集まっていた。
 鍛冶屋の親方が前に立ち、農夫たちが鍬を握る。孤児院の子どもたちまでもが、私を見つめていた。
 街道の先頭に立つ将校が馬を降り、鋭い声を響かせる。
「辺境の薬師、アイリス・グランドリア! 王都の名において命ずる。投降せよ!」
 広場に緊張が走る。
 人々の視線が私に注がれた。
 私は一歩前に出た。
「……私は投降しない。私は薬師。必要とする人のそばにいる」 将校の顔が険しくなる。「ならば“偽薬師”として処罰するのみ!」
 兵たちが槍を構えた瞬間――。
「やめろ!」
 灰色のマントを翻し、エドリンが前に出た。
「この女は確かに灰雨を止めた。人々を救った。それは俺も見た事実だ!」
「しかし、陛下の勅命は――」
「勅命に従うために街を滅ぼすのか? それが王国の誇りか!」
 将校は歯を食いしばり、手を止める。だが兵たちの緊張は解けない。
 そのとき、背後から咳き込む声が響いた。
 ――街の子どもが、毒に侵されて倒れていた。
 昨日の商人が持ち込んだ荷に、毒霧が仕込まれていたのだ。
「……また王都の仕業か」
 セリスが顔をしかめる。
 子どもの頬は青白く、呼吸は浅い。周囲の母親が泣き叫んだ。
 兵たちもざわめき、槍を下ろす者までいた。
 私は膝をつき、薬袋から瓶を取り出す。
 白露の種と薄青石を合わせ、掌で祈りを込める。
「〈反転調合〉……!」

 小瓶が光を帯び、滴が生まれる。
 それを子どもの唇に落とすと、数秒後に小さな胸が大きく上下した。
 青ざめた頬に血色が戻り、目がゆっくりと開く。
「……お母さん」
 子どもが囁く。母親が泣きながら抱きしめる。
 兵たちの間に、沈黙が落ちた。
 そして、誰かが呟いた。
「……本物だ」
 その言葉が波紋のように広がり、兵たちの槍が次々と下ろされていく。
 将校は顔を引きつらせた。
「だが……王都の命令が……!」
 エドリンが低く言い放つ。
「王都の命令がどれほどあろうと、ここに“救う薬師”がいる。俺はそれを報告する」
 私は立ち上がり、将校を真っ直ぐに見据えた。
「私を“偽薬師”と呼ぶなら好きに呼べばいい。
 けれど――人を救う手順を止めることはできない」
 風が吹き抜け、広場の人々が一斉に声を上げた。
「神薬師!」「アイリス様!」
 兵たちの目が揺れる。
 王都の威光よりも、目の前の事実が心を動かしていた。
 やがて将校は沈黙のまま背を向け、軍勢に退却の合図を送った。
 兵たちは戸惑いながらも、槍を収めて街道を去っていく。
 残されたのは、安堵の吐息と歓声だった。
 私は肩で息をし、ルゥを抱き上げる。
 もふもふの毛並みが震える手を包み、胸の奥の不安を和らげてくれた。
「これで終わりじゃない」
 セリスが呟く。
「王都は必ず、もっと大きな力で来る」
 私は頷いた。
「それでも、私はここにいる。毒を薬に、絶望を希望に変えるまで」
(第2章 第10話 完)
第2章 第11話 薬師の誓いと王都の策動
 王都軍が去ってから三日。
 アーデの街は平穏を取り戻したかに見えた。市場では再び笑い声が響き、孤児院の子どもたちは夜泣きせずに眠れるようになった。 鍛冶屋の槌は力強く鳴り響き、薬房の前にはいつも列ができていた。
 けれど、私は知っていた。――これは嵐の前の静けさだ。
 薬房の机に広げた羊皮紙の端に、エドリンの手紙が置かれている。
 その文字は重く、冷たい。
『軍は退いたが、王都は決して諦めない。
薬師ギルド復活の背後には、宰相派と教会派の思惑が絡んでいる。
次は“勅命”ではなく、“討伐”として兵を動かすだろう。』
 「討伐……」
 セリスが声を震わせる。
「王都にとって、あなたはもはや“異端”なのね」
 バルドは黙って剣を研いでいた。
 鉄の音が薬房の静寂を裂く。
「なら、迎え撃つしかない」
 私は小さく首を振った。
「戦うことは最後の手段よ。薬師の手順は救うこと。毒を薬に変えるように、敵意さえも解毒できる道を探したい」 その言葉に、ルゥが「きゅ」と鳴き、私の頬に顔を寄せた。
 その夜、王都の大広間では会議が開かれていた。
 金糸のカーテンに囲まれた玉座の前。
 宰相と教会司祭、復活した薬師ギルドの代理人――青いローブの女が並ぶ。
「辺境の薬師を放置すれば、王都の権威は失墜する」
 宰相の声は鋭く響いた。
「灰雨を止め、人々を癒す力……それを王家の管理下に置かなければならぬ」
 司祭が頷き、手を組む。
「あの力は神のもの。教会の祝福なく振るうなど、冒涜に等しい」
 青いローブの女――ギルド代理人は冷笑を浮かべる。
「ならば簡単です。彼女を“災厄”と認定すればよい。
 “神薬師”ではなく、“呪いを振りまく魔女”として」
 大広間に重苦しい沈黙が落ちた。
 一方、アーデの夜。
 私は薬房の灯を落とし、星空を見上げていた。
 遠くでルゥが走り回り、子どもたちの笑い声が夜風に混じる。
 この光景を、もう二度と灰に沈めさせない。
「……私は薬師。救う手順を止めたりはしない」 自分に言い聞かせるように呟いた。
 その誓いが、星空の下で強く刻まれていった。
(第2章 第11話 完)

第2章 第12話 魔女の烙印とアーデの決起
 翌日、アーデの市場に奇妙な布告が貼られた。
 羊皮紙に大きく刻まれた黒い文字。
『辺境に現れし“神薬師”は、実のところ神の敵である。
彼女の力は人を惑わせる呪いに過ぎず、放置すれば国に災厄を招く。
よって王都は彼女を“魔女”と断定し、討伐を命じる』
 人々のざわめきが広場を揺らした。
「魔女?」「嘘だ!」「アイリス様がそんなはずない!」
 けれど、恐怖の色も混じっていた。
 十年灰雨に怯えて生きてきた人々の心に、王都の言葉は棘のように突き刺さる。
 薬房に戻ると、セリスが憤りに震えていた。
「卑怯だわ! 救ってくれたあなたを、魔女呼ばわりするなんて!」
 バルドは拳を机に叩きつける。
「討伐令……今度こそ軍が本気で来る。王都は民衆の不安を利用してる」
 私はしばらく黙っていた。
 ルゥが膝の上に飛び乗り、頬を舐める。
 その温もりで、言葉がやっと形になる。
「……怖いのは当然よ。毒も薬も、見方ひとつで変わる。 でも、私が救ってきた命は“事実”としてここにある」
 夕暮れ、広場に人々が集まった。
 布告を見て怯える者もいれば、怒りを隠さない者もいる。
 鍛冶屋の親方が前に進み、声を張り上げた。
「魔女だと? だったら俺は、魔女に命を救われたって胸を張って言うぜ!」
 孤児院の院長サラも続く。
「夜泣きが止まった子どもたちを見ればわかる。あの方が魔女なもんですか!」
 人々の声が次々と広がる。
「薬師様は偽物じゃない!」「俺たちの薬師だ!」

 私は壇上に立ち、集まった人々を見渡した。
 広場は松明の光に照らされ、揺れる瞳が一斉にこちらを見ている。
「王都は私を“魔女”と呼ぶ。恐れるのはわかるわ。
 けれど――あなたたちの隣で薬を渡し、病を癒やし、灰雨を止めたのは、確かに私」
 沈黙の中、私は拳を握った。
「私は魔女じゃない。薬師よ。
 もしそれでも魔女だと呼ぶのなら――“命を救う魔女”として立ち続ける」
 人々が一斉に声を上げた。「アイリス!」「薬師様!」「俺たちと共に!」
 バルドが剣を掲げ、セリスが涙を浮かべながら頷く。
 ルゥが肩で「きゅ」と鳴いた。
 広場は決意に包まれた。
 王都がどれほどの軍を送ろうと、アーデはもうひとりぼっちではない。
 その夜、王都の大広間では宰相が冷ややかに言葉を吐いていた。
「辺境の街ごと潰せ。民ごと“魔女”に与したと記録すればよい」
 教会司祭が祈りの言葉を唱え、薬師ギルドの女が薄い笑みを浮かべる。
 ――軍靴の音は、確実にアーデへと近づいていた。
(第2章 第12話 完)
第2章 第14話 眠り霧の峠戦
 夜明け。
 アーデの街から見える峠は、まだ薄暗い影をまとっていた。
 だが、そこに続く街道の向こうには、王都軍の松明の列がはっきりと見える。
 百を超える兵。鎧が鈍く光り、槍の列が波のように揺れている。
「……本当に来るのね」
 セリスが地図を握りしめ、震える声で呟いた。
「来るさ」バルドが短く答え、剣の刃を確かめる。
「だが、数が多いだけだ。俺たちには薬がある」
 私は胸元の瓶を握りしめた。101
 淡い青光を放つ液体――《眠り霧》。
 これを使えば兵を殺さずに無力化できる。
 救うために立つのが薬師なら、戦う手段もまた薬でなくてはならない。
 峠の狭間。
 霧が溜まりやすい地形に、人々は薬瓶を仕掛けていた。
 鍛冶屋の親方が大声で指示を出し、農夫たちが縄を張り、商人たちが荷車で道を塞ぐ。
 孤児院の子どもたちまでが石を運び、声を掛け合っている。
「みんな……」
 その光景に胸が熱くなる。
 王都が“魔女”と呼んだ私を、彼らは迷わず支えてくれている。「アイリス様。ここはもう、あなた一人の戦いじゃない」
 サラ院長の声に、私は深く頷いた。
 やがて、地鳴りが迫ってきた。
 王都軍の先頭が峠に差しかかる。
「陣形を整えろ! 偽薬師を捕らえよ!」
 将校の声が響き、兵たちが進軍する。
 私は高台に立ち、息を吸い込んだ。
「――今よ!」
 バルドが火矢を放つ。
 仕掛けられた瓶が次々と砕け、淡い蒼霧が峠に広がった。
「な、なんだこれは……!」
 兵士たちが霧に包まれ、足元をよろめかせる。
 槍が地面に落ち、盾が転がる。
 ひとり、またひとりと崩れ落ち、やがて列そのものが乱れていった。
「……眠い……」
「立て……っ……」
 呻き声が重なり、兵たちは次々と倒れていく。
 私は霧の中に祈りを込める。
「毒は薬に変わる。恐怖は安らぎに変わる。……どうか眠り、戦わずに済むように」

 やがて、峠に静寂が戻った。
 百を超える兵の大半が地面に横たわり、穏やかな寝息を立てている。
 血は一滴も流れていなかった。
「……やった……!」
 セリスが震える声で叫び、広場に待機していた人々が歓声を上げた。
 親方が槌を振り上げ、子どもたちが泣き笑いで抱き合う。
 バルドが剣を収め、肩をすくめた。
「さすがだな。百の軍勢を、瓶ひとつで無力化とは」
「薬のおかげよ。でも……」
 私は峠の先を見つめる。
 霧の外、まだ整然と旗を掲げた一団が控えていた。
 その中に、見慣れた姿があった。
 灰色のマントを翻す男――エドリン。
 彼は馬上から私を見つめ、ゆっくりと片手を挙げた。
「……お見事だ。だが、これで終わりではない」
 背後に控えるのは、王都から派遣された“中央薬師ギルド”の旗。
 青いローブの女が静かに微笑んでいた。
「次は、薬師対薬師よ」
 その言葉が冷たく峠を満たし、胸の奥に緊張が走った。
(第2章 第14話 完) 
第3章 第15話 捕らわれた仲間と王都の罠
 眠り霧の峠戦から三日。
 アーデの街は勝利の余韻に包まれていた。
 血を流さずに王都軍を退けた事実は、人々に誇りと自信を与えていた。
 だが、その安堵は長くは続かなかった。
 夜明け前、薬房の扉が乱暴に叩かれた。
 駆け込んできた農夫が、顔を蒼白にして叫ぶ。
「バルドさんが……! 街道で襲われて……連れ去られた!」
 薬房の空気が一瞬にして凍る。
 セリスが椅子を倒すように立ち上がり、私の腕を掴んだ。
「そんな……! あの人が簡単にやられるはずないのに!」
 ルゥが低く唸り、尻尾の毛を逆立てる。
 急ぎ街道に向かうと、そこには戦闘の痕跡が残っていた。
 血の跡は少ない。だが、地面には複数の馬蹄の跡。
 薬瓶の破片が散らばり、見慣れぬ青い紋章が刻まれていた。
「……薬師ギルド」
 セリスの声が憎しみに震える。
「彼らが、バルドを……!」
 私は拳を握りしめた。
 峠に姿を見せたあの女――青いローブの代理人。
 彼女が仕掛けた罠に違いない。
 その夜、街に王都からの使者が現れた。
 堂々と広場に立ち、布告を読み上げる。
『辺境の民よ。お前たちの守護者を自称する薬師は、もはや魔女である。
彼女を討つため、我らは正しい薬師の力をもって裁きを下す。
捕らえた者の命が惜しければ、アイリス・グランドリアはただちに王都へ出頭せよ』
 広場がざわめきに包まれる。
 「人質に……!」
 「卑劣だ!」
 私は一歩前に出て、使者を睨んだ。
「王都は……どこまで腐っているの」
 夜更け。
 薬房で地図を広げる私の背に、セリスが声をかけた。
「……行くのね。王都へ」
「ええ。バルドを助ける。彼は私を守ってくれた。今度は私の番」
 セリスは唇を噛み、震える声を押し出した。
「私も行く。あなたをひとりで行かせない」
 ルゥが肩に飛び乗り、「きゅ」と鳴いた。 窓の外、遠い王都の空に光が瞬いていた。
 その光は冷たくも、道しるべのように私の心を導いていた。
「待ってて、バルド。必ず連れ戻す」
 王都潜入の決意が、静かに固められた夜だった。
(第3章 第15話 完)

第3章 第16話 王都潜入、仮面の街路
 王都への道は長く、険しかった。
 討伐軍が退いた後も街道は監視され、旅人や商人には検問が敷かれている。
 正面から向かえば、すぐに“魔女”として捕縛されるのは明らかだった。
 だから私は、商人の隊商に紛れた。
 薬草の束を荷車に積み、顔をフードで隠し、ルゥは荷袋に潜ませる。
 セリスは商人の娘を装い、明るい笑顔で検問を切り抜けていく。
「こんなに上手に演じられるなんて、セリス、あなた本当に記録係 108
?」
「記録も商売も笑顔が大事よ」
 小声で言い合いながら、何とか王都の門を通過した。
 王都は、辺境とはまるで別の世界だった。
 石畳は広く、街路には灯が絶えず、豪奢な屋台と劇場が軒を連ねている。
 だが、その華やかさの裏で、私の耳に飛び込んでくるのは暗い噂だった。
「魔女を討つために、薬師ギルドが動き出したらしい」
「見たこともない紫の霧を操る“正統の薬師”が来るんだと」
「辺境はもう終わりだ」
 街は浮き立つようにざわついていた。
 “神薬師”の名は既に“魔女”へと塗り替えられている。
 夜。
 私たちは宿屋の一室に身を潜め、窓の外に流れる夜景を眺めた。
「……こんなに人がいるのに、誰も真実を知らない」
 私の言葉に、セリスが唇を噛む。
「広めましょう。あなたが救った命の話を、この王都に。嘘はいつか暴かれる」
 ルゥが布団の上で丸まり、「きゅ」と鳴いた。
 その無垢な声に、少しだけ胸の張り詰めた糸が緩む。
 だが、安堵は長く続かなかった。109
 扉の下から、紙切れが滑り込んできたのだ。
 拾い上げると、そこには震える筆跡でこう記されていた。
『北の地下牢。バルドは生きている。
だが急げ。ギルドが“実験”に使うと噂されている』
 私の手が震えた。
 胸の奥に、冷たい怒りが広がっていく。
「……待ってて、バルド。必ず助ける」
 王都の夜空には、仮面舞踏会のように無数の灯が揺れていた。
 その下で、私たちは本当の敵――薬師ギルドの牙城に踏み込もうとしていた。
(第3章 第16話 完)

第3章 第17話 薬師ギルド総帥との邂逅 王都の北区。
 煌びやかな宮殿や劇場の裏側に、忘れ去られた石造りの塔があった。
 地下牢はその奥に隠されている――手紙の主はそう記していた。
 セリスと私は夜陰に紛れて塔へと向かう。
 月は雲に覆われ、ルゥの瞳だけが青白く光っていた。
「……この先にバルドが」
 私が囁くと、セリスは頷き、短剣を握る。
「急ぎましょう。彼が“実験”に使われる前に」

 塔の扉を抜けると、ひんやりとした地下道が続いていた。
 壁には鎖と鉄格子、湿った空気が肺を重くする。
 奥から、呻き声が聞こえた。
「……バルド!」
 鉄格子の中に、彼は鎖で縛られていた。
 傷は深くないが、薬による眠りで意識が朦朧としている。
「アイリス……か……?」
 掠れた声に胸が痛む。
 手を伸ばした瞬間――背後で冷たい声が響いた。
「来たのね、“魔女薬師”」 振り返ると、青いローブの女が立っていた。
 峠で姿を見せた、薬師ギルドの代理人。
 だがその隣には、さらに異様な存在がいた。
 黒衣に身を包み、仮面で顔を隠した長身の男。
 その佇まいから放たれる圧は、空気さえ淀ませる。
「彼が……」
 セリスが息を呑む。
「そう。“中央薬師ギルド総帥”にして、王都の新しい毒の支配者」
 女は誇らしげに告げた。
 男の声は低く、金属を擦るようだった。112
「お前の力……毒を薬に変える術。面白い。だが未熟だ。
 我らは毒を極め、薬にさえ従わせる。お前の存在は我らの証明を脅かす」
「証明……?」
「薬師は“治す”ためにあるのではない。支配のためにある。
 毒を与え、解毒を独占する。それが真の力だ」
 私の胸に怒りが燃えた。
「それは薬師じゃない。救いを独占するなんて、ただの暴君よ!」
 総帥は笑い、手にした瓶を砕いた。
 紫の霧が牢内に流れ込み、バルドの体が痙攣する。
「やめて!」

 鉄格子にしがみつく私に、総帥は冷たく告げる。
「救いたければ証明してみろ。お前の“偽の薬”で、この毒を打ち破れるか」
 背後でセリスが叫ぶ。
「罠よ、アイリス! 奴はあなたの力を試してる!」
 だが私は、震える手で薬袋を握りしめた。
 ルゥが肩で鳴き、私の決意を後押しする。
「いいわ。毒がどれほど深くても、私は薬師。必ず薬に変えてみせる」
 総帥の瞳がわずかに細まり、口元に歪んだ笑みが浮かぶ。
「……なら見せろ。お前の力を。そして証明せよ――救いが支配に勝つことを」
 牢の中、紫の霧が渦巻く。
 私は瓶を開き、反転調合の光を手に走らせた。
(第3章 第17話 完)
第3章 第18話 毒と薬の決戦
 牢を満たす紫の霧は、重く粘りつくように広がっていた。
 バルドの呼吸は浅く、苦しげに胸が上下している。
 総帥の声が闇に響いた。
「どうした、“魔女薬師”。お前の言う救いが真実なら、示してみろ」
 私は震える指を押さえつけ、薬袋を開いた。
 白露の種、青月草の粉、薄青石の欠片。
 これまで人を救うために用いてきた材料を、次々と掌に乗せていく。
 ルゥが肩で「きゅ」と鳴き、霧の中で小さな光を放った。
 その光に導かれるように、私は声を絞り出す。
「――〈反転調合〉」
 掌が淡い蒼光に包まれる。
 薬草が音を立てて混ざり、霧の粒子と絡み合っていく。
 紫の毒が光を浴びるごとに、透明へと変化していった。
「ば、馬鹿な……」
 青いローブの女が後ずさる。
 バルドの痙攣が収まり、閉じていた瞳がゆっくりと開いた。
「……アイリス……」 その声を聞いた瞬間、胸が熱くなり、涙が頬を伝った。
 だが、総帥は冷笑を崩さなかった。
「救ったか。だがそれは一人。群れを覆う毒には抗えまい」
 彼は再び瓶を砕いた。
 今度は牢の外、広間全体にどす黒い霧が噴き出す。
 床石が溶けるほどの猛毒。兵士であろうと、息を吸えば即死に至る。
 セリスが顔を覆い、咳き込む。
 ルゥが私の前に立ち、必死に霧を払った。
「……みんなを巻き込むつもりなの……?」
「当然だ。薬師とは選別の職。救う者を選び、救わぬ者を見捨てる。
それが真理だ」
 私は拳を握った。
 ――救う手順は止めない。
 どんなに深い毒でも、絶望でも。
「なら私は、その“真理”を覆す」
 薬袋の奥から取り出したのは、これまで調合し続けてきた薬瓶の数々。
 灰雨を鎮めた反転霧、夜泣きを和らげた眠り滴、心を癒やした光草の粉……。
「全部……人を救うために作った薬。今こそ重ねる時!」

 私は瓶を割り、霧の中で反応を走らせる。
 蒼、白、金――光の色が次々と重なり、紫の毒を呑み込んでいく。
「……っ、こんな反応は……!」
 総帥が初めて声を荒げる。
 広間の毒霧が晴れ、代わりに澄んだ風が流れ込む。
 兵士たちの咳が止まり、目に光が戻る。
 セリスが驚きと涙を同時に滲ませ、バルドがゆっくりと立ち上がった。
「俺たちは……救われたのか……?」
「そうよ」私は総帥を睨みつけた。
「毒は薬に変わる。支配の道具じゃない。生きるための力よ!」
 総帥の仮面がわずかにひび割れた。
 その奥から見えた瞳は、怒りとも恐怖ともつかぬ揺らぎを帯びていた。
「貴様……“薬師”の名を……侮辱するな!」
 叫びとともに、彼は最後の瓶を掲げる。
 闇よりも深い黒の液体。
 砕かれれば、この場すべてを呑み込む究極の毒だと直感した。
 私は一歩踏み出す。
「いいえ。あなたこそ侮辱してる。薬師は救う者――それだけは変えられない!」 光と闇、薬と毒が交わる決戦の幕が上がろうとしていた。
(第3章 第18話 完) 
第3章 第19話 裁きの広場
 黒い瓶が砕ける寸前、私は手を突き出した。
「〈反転調合〉――!」
 蒼光が奔り、黒い毒液と激突する。
 火花のような光と闇の衝突が広間を覆い、壁が震え、兵たちが倒れ込む。
 ルゥが叫ぶように鳴き、尾で霧をかき払った。
 そして――闇は蒼光に呑み込まれ、消え去った。
 残されたのは、粉々に砕けた瓶と、膝をつく総帥の姿だった。
 仮面は割れ、露わになった顔はやつれ、瞳には狂気と虚無が混じ 118
っていた。
「……なぜだ。なぜお前は毒を薬に変えられる……」
「簡単なことよ」私は静かに答えた。
「人を救いたいと思って調合するから。支配のためじゃなく、笑顔のために」
 総帥は嗤い、そしてうなだれた。
「そんなものが……王都で通じるはずが……」
 そのとき、広間の扉が開かれた。
 王都の民衆が雪崩れ込んでくる。噂を聞きつけ、集まった人々だ。
「魔女が牢を襲ったと聞いてきたが……」
「いや、見ろ! 毒を消してる……!」
 人々のざわめきが広がる。
 宰相と司祭が駆けつけた。
 彼らは総帥の敗北を目にし、憤然と叫ぶ。
「民よ、騙されるな! あれは魔女だ! 我らの力を奪い、王国を乱す者!」
 だが、声は届かなかった。
 倒れていた兵たちが次々と立ち上がり、口を開いたのだ。
「違う……救われた……」
「俺たちは、この人に……生かされた……」
 兵の証言が、人々の心を一気に揺さぶった。
 広場に連れ出された私は、群衆の前に立たされた。
 宰相が声を張る。
「問う! この女は“魔女”か、それとも――!」
 その瞬間、アーデの人々が駆け込んできた。
 鍛冶屋の親方、サラ院長、子どもたち。
 声を合わせて叫ぶ。
「魔女じゃない! 俺たちの薬師だ!」
「夜泣きを治してくれた! 灰雨を晴らしてくれた!」
「命を救った人を、魔女なんて呼ばせない!」 広場は大きなうねりとなり、王都の空を震わせた。
 私は胸に手を当て、声を張った。
「私は魔女でも神でもない。ただの薬師です。
 毒を薬に変えるように、絶望を希望に変える――それだけが、私の役目です」
 沈黙の後、民衆の喝采が爆発した。
 宰相の顔は青ざめ、司祭は声を失った。
 総帥はうなだれ、鎖に繋がれた。
 王都の広場は、“裁き”を越えて、“誓い”の場へと変わっていった。
 バルドが隣に立ち、セリスが涙を拭い、ルゥが肩で鳴く。120
 私は深く息を吸った。
「……次に来るのは、きっと新しい朝」
 その予感が胸を満たしていた。
(第3章 第19話 完)

最終章 第20話 辺境の空に朝が来る
 夜が明けた王都の空は、これまでにないほど澄み切っていた。
 紫の霧も、灰雨の気配も、どこにもない。
 広場に集まった民衆はざわめきながらも、誰もが同じ空を見上げていた。
「……終わったのか」
 誰かの小さな呟きが、やがて大きな波のように広がる。
「魔女じゃなかったんだ……救い手だったんだ!」
「俺たちは、この人に生かされた!」
 その声に押されるように、王都の兵たちも槍を下ろした。
 宰相は沈黙し、司祭は悔しげに祈りを繰り返す。121
 そして総帥は鎖に繋がれたまま、虚ろな瞳で俯いていた。
 私は一歩前に出て、広場を見渡した。
 アーデから駆けつけてきた人々の顔がある。
 鍛冶屋の親方が拳を掲げ、サラ院長が涙を浮かべて笑い、子どもたちが「薬師さまー!」と声を張り上げる。
 バルドが隣で静かに剣を収め、セリスが肩越しに頷く。
 ルゥは私の頭に飛び乗り、澄んだ鳴き声を響かせた。
「……私は神でも魔女でもない。ただの薬師です」
 私ははっきりと言葉にした。
「毒を薬に変えるように、絶望を希望に変える。それだけを、これからも続けていきます」 広場に大きな拍手が起こり、それは歓声に変わっていった。
 王都の空に響くその声は、辺境のアーデにまで届くような力を持っていた。
 そして私は心に決めた。
 ――王都に残るのではなく、アーデへ戻ろう、と。
 あの街には畑があり、人々がいて、薬を必要とする声がある。
 王都を変えるのは、そこから始まるはずだから。
 帰路につく馬車の上で、私は朝日を見上げた。
 光が街道を照らし、ルゥの毛並みを輝かせる。
 バルドが隣で静かに息を整え、セリスが新しい帳簿をめくっている。122
「新しい章の始まり、ね」
 私は笑った。
「また薬を調合して、街を歩いて、みんなと笑う……それが一番の幸せ」
 ルゥが「きゅ」と鳴き、肩にすり寄る。
 その温もりが、未来を確かなものに思わせた。
 辺境の空は、鮮やかな青。
 その下で、薬師としての新しい日々が始まる。
(最終話 完)