春の匂いは、音を薄く洗う。
校門の鉄の匂い、土の湿り、朝一番のトラックに残った夜露――それらが混ざるところで、靴底のサッという音が、冬より一段澄んで聞こえた。白線は塗り直され、角が立っている。太陽は低く、風はまだ冷たいが、頬を刺すほどではない。三年目の朝。ジョグは、ようやくジョグになっていた。
悠真の足取りは、上体の上に静かに乗っている。骨盤の前を意識して、踵は捨て、ミッドで拾う。耳の奥のメトロノームは百八十で、拍はすでに「努力」ではなく「習慣」の領域へ移っている。呼吸は吸って、吐いて、吐く――の三拍に、無理な強調はない。腹圧の壁は、作るというより、初めからそこにあるものを確認するだけ。
景色の流れる速さが、去年とは違う。速い、ではない。均一だ。コーナーで加速し、ストレートで抜くのではなく、周回全体で同じガラスを曳いていくみたいに、視界の端が一定に滑っていく。ジョグの速度で、世界のほうが正しいペースに合わせに来る日がある。
アップを終えると、遥が周回板を片づけ、クーラーボックスの蓋を開けた。透明のタッパーに黒パン、オレンジ、プルーン。端に「茜メニュー・春」と書かれた紙。冬を越えて、チームの習慣に昇格した仕組みは、今朝も何の派手さもなくそこにある。
茜はフェンスの外――ではなく、ロードの角に立っていた。カメラだけではない。今日は小型のレコーダーを首から提げ、風切りのスポンジが光を鈍く弾いている。
「音、録る」
短い説明。詳しくは言わない。言わなくても、意味は分かる。彼女が耳を澄ませたいのは、今日のこの空気の密度で走る靴音の、いまの音だ。
主将の宮内は四月の風みたいに淡々と準備を整え、肩の高さを一度だけ確かめる。高岡は足首のテーピングを薄く巻き直し、下りのフォームを脚で思い出すように、芝の傾斜を使って短く流す。着地の切れは完璧ではないが、去年の冬より確かに明るい。
坂上はキャップの庇を正し、ホワイトボードに黒い字をのせた。
「閾値走 8km(イーブン)→1000×3(やや上げ)/R=200 jog」
右上に小さく「風 東 2m/気温 12℃」。遥の字は相変わらず整っている。
「三年。整ってきたやつは、崩さず押せ。崩れてるやつは、崩れたまま押すな。……及川」
名前を呼ばれて、悠真は一歩前に出る。
「ジョグがジョグになってる。焦るな。景色の速さを信じろ」
短い指示。短いから、逃げ場がない。逃げ場がないのに、窮屈ではないのは、三年目の信頼の分だけ余白が増えたからだろう。
スタート。
最初の千で、体が先にリズムを拾う。耳に入るのは、自分の靴音と、斜め後ろで刻む宮内の短い呼吸。坂上の笛は要らない。笛の代わりに、春の風が周回ごとに同じ角度で頬を撫でる。
3’48/3’48/3’49/3’49。
数字は小さく並び、並んだ数字は不安を削る。去年の秋、貧血の兆候で崩れたときは、この「並び」がどれほど遠かったか。喉の金属味ではなく、胸の砂のざらつきに足を取られていた日々――茜メニューで埋め直した層は、朝の光の中で静かに機能している。
五キロあたりで、景色の速さがまた変わった。変わるといっても、上がるのではない。音の解像度が上がる。白線を踏むサッという紙の音、芝を擦る低い摩擦、遠くの道路のトラックが置いていった重たい残響――それらが混ざらず、層のまま耳の中に重なる。
茜がロードの角でレコーダーを向け、風を読む。彼女の手首の角度が変わるたび、スポンジの先が微かにふくらみ、吸い込んだ空気をまた吐き出す。
3’49/3’50――最後の二キロは、呼吸を細く長くするだけで、ピッチは勝手に拾ってくれる。腕は細く、肩甲骨は二センチ後ろ。足はついてくる。
流しの一本目に入る前、茜がぽつりと言った。
「颯真の音とは違う。悠真の音だ」
答えは要らなかった。答えより先に、靴底がゴムの上に正しく置かれていく感触があった。違うのは当たり前だ。違いが、今日初めて、救いに聴こえた。
インターバルの「1000×3」は、呼吸の線を崩さずに、指で一段だけボリュームを上げるイメージで通す。3’42/3’41/3’40。押せば、押し返してくるはずの壁が、今日は薄く、音もなく後ろへ下がった。
フィニッシュ。遥の時計が二度小さく鳴り、坂上は頷くだけで何も言わない。言わないのは、言う必要がないからだ。
*
午後は、新入生の顔合わせだった。
並んだ一年生は緊張と眠気を同じ顔に載せていて、いまにも風で倒れそうな細い肩から、期待と不安が薄く湯気になって立っている。テントの下、坂上が短く話をしてから、「三年からひとこと。……及川」と指で示した。
悠真は前に出る。声を大きくしない。届く声で、落とす。
「凡人が積む手順、話します」
からかいと思って笑う顔はない。笑いを拒むほど、ここに来た人たちは、どこかで一度負けている。負けた人は、真面目だ。
「ひとつめ。歩かない。インターバルでも、ジョグでも。歩いた癖は、冬に出ます」
宮内が視線をわずかに落として、うなずいた。
「ふたつめ。食べる。食べるのは練習です。走る前に、走った後に、夜寝る前に。誰が何をどれだけ食べたか、茜さんが見ています。逃げられません」
テントの端で茜がひらりと手を振り、紙束を持ち上げる。「メニュー、配ります」
「みっつめ。寝る。八時間、できれば九。寝るのも練習です。課題は早くやってください。スマホは遠くへ置いてください」
遥が「はい」と笑い、ポケットからタイマーを取り出してパチンと鳴らして見せる。
「よっつめ。諦めない。でも、無茶はしない。崩れているときは歩かない代わりに、メニューを落とす。落とす勇気も、諦めないに入ります。……最後に、怖さは数になる。刻めば、怖さは小さくなる。小さくなった怖さは、持ち歩けます」
言葉は短いほど、余白を残す。余白は、聞く人の筋肉で補われる。
一年生の列の端で、ひとりが小さくメモを取っているのが見えた。細いペン先の動きがやけに真剣で、紙を何度も押し破りそうになる。破らないぎりぎりのところで、何かを掴む人は強い。
解散後、ロードの端で高岡が短く息を吐いた。
「お前、話すとき、肩、上がらなくなったな」
「フォームが口にも出ます」
「そうだな」
彼は芝の傾斜に立ち、下りで二十メートルだけ切った。接地が、ほんの少しだけ鋭く戻っている。戻りきってはいない。だが、「戻る途中」の音は明るい。
「無理はしない」
「してください」
「するな、だ」
二人で笑った。笑いは薄いのに、冬の缶ココアの温度に似ている。
*
放課後のミーティング。
部室のホワイトボードの上には、去年からの「都大路ロードマップ」が、そのまま残っている。
地区予選 → 県大会 → 北信越 → 都大路。
各段の横に、条件と配点、目標タイムレンジが小さく書かれている。冬の終わりに一度消えかけた鉛筆の字は、春になってもまだ薄く残っていた。
坂上がキャップを脱ぎ、黒いペンのキャップを外す。
「宣言する」
声はいつもより低く、ゆっくりだ。
「今年、都大路へ」
ボードの下段、去年の夏に鉛筆で書かれた「悠真:3年・当確」の上に、黒のインクがなぞる。鉛筆のぼやけた輪郭の上に、輪郭が生まれる。消せる仮置きから、消せない線へ。
息を飲む音はしない。しないかわりに、室内の空気が一度だけ密になる。密になった空気は、誰の鼓動にもゆっくり圧として触れる。
発表のあと、坂上は続けた。
「宣言は、約束じゃない。宣言は、方向だ。間違ったら、すぐ直す。だが、方向は変えない。……宮内、四区のプランを書け。高岡、下りの可動域、今週はここまで。遥、茜、補食の在庫、週替わりで。及川」
「はい」
「三年のジョグで、一年を連れて行け。拍で運べ。音を澄ませろ」
「音」という単語に、茜のレコーダーの赤いランプが小さく反応したみたいに見えた。
*
四月の終わり、ロードの角で茜は佇み、風のポケットを探していた。ビルと校舎の隙間を抜けてくる音は、時間帯で表情を変える。午前の乾いた風、昼の弾む風、放課後の少し湿った風。レコーダーのスポンジに乗るのは、靴底が空気に切り目を入れる微細な音。
彼女は録音しながら、時々、目を閉じた。
「どう?」
ジョグの合間に尋ねると、茜は再生ボタンを押して、耳当てを半分渡してくれた。
耳の中で、去年の夏なら混ざっていたはずの成分が、今は層のまま保たれている。呼吸、靴音、ほんのわずかな衣擦れ、遠くの車輪。
「違う」
茜が言う。「去年と」
「どこが」
「間が、ちゃんとある。拍と拍のあいだに、空気がある。……走れてる音」
彼女の言葉は、ときどき楽器のように正確だ。
その日の夕方、高岡は傾斜の下り区間を繰り返し、宮内は一年を連れてフォームの基礎を教え、遥はクーラーボックスの角を拭いた。坂上は何も言わず、立って見ていた。立って見ている時間が長い日は、たいていチームが「自分で動いている」日だ。
練習終わり、茜が襷の切れ端に触れ、笑った。
「この布、冬の間に少し柔らかくなった気がする」
「気のせい?」
「気のせいでも、いい」
気のせいでも、支えになる。春は、気のせいを味方にしてもいい季節だ。
*
夜。ノートのページに、今日の数字と短い言葉を並べる。
『閾値8km 3’48-49均/1000×3 3’42-40 景色=均一 音=層 拍=習慣』
ページの端に、細く付け加える。
『凡人の手順:歩かない・食べる・寝る・諦めない/落とす勇気=諦めないの一部』
その下に、さらに小さく。
『今年、都大路へ(宣言=方向)』
括弧付きの言葉は、胸のどこかで杭になる。杭は深く打たない。浅く打って、明日ごとに一段ずつ深くする。深くしすぎた杭は、抜けない。抜けない杭は、自由を奪う。自由は、走りの余白だ。
窓を少し開けると、春の匂いが入る。遠くの踏切の音は、冬より柔らかい。カン、カン。音の輪郭は変わらないのに、耳のほうが変わった。澄んだ音は、勇気の形をしている。
灯りを落とす直前、スマホが震えた。
『明日、風 北西。角、B地点に移動する。音、澄むはず』
茜から。
『了解。拍、運ぶ』
返して、目を閉じる。まぶたの裏に、白線が一本。線は遠くない。去年より、確かに近い。近さは、努力の褒美ではなく、手順の結果だ。手順は地味で、地味なものは、春に強い。
*
週末、ミニ駅伝形式の練習。
一本目、宮内が押し、二本目、高岡が下りで切り、三本目、悠真が均す。最後に一年のアンカーがゴールテープを切る。テープは練習用の細いビニールで、風で一度浮いてから、また落ちた。
「もう一回」
坂上が言い、今度は順を入れ替える。順が変わっても、音は崩れなかった。崩れない音は、チームの音だ。
片づけのあと、ホワイトボードの前で坂上がペンを持ち、下段の小さな文字をもう一度なぞった。
黒い線はすでに黒いのに、上から重ねると、さらに黒くなる。
当確の輪郭は、もう鉛筆では消えない。
だが、誰もそれを「約束」とは呼ばなかった。呼ばないかわりに、朝を増やすことを決めた。朝練のジョグを一周足し、補食のオレンジを一切れ増やし、寝る時間を十分前倒しにする。増やした十分の積み重ねが、冬のスタートラインに続く細い道のアスファルトを厚くする、と全員が知っていた。
春の終わり、風が少し強くなって、トラックの白線の粉が空に舞った。
茜のレコーダーが、最後の録音を終え、小さくピッと鳴る。
「取れた?」
「取れた」
彼女は短く答え、データに「三年春・澄む」と名をつけた。
澄む、という文字は薄い。薄いけれど、方向を持つ。
方向があるものは、迷いに強い。
音が澄んだ朝を、ひとつ、またひとつ。
そうして、今年、都大路へ――黒のインクが乾く前に、次の朝が始まる。
校門の鉄の匂い、土の湿り、朝一番のトラックに残った夜露――それらが混ざるところで、靴底のサッという音が、冬より一段澄んで聞こえた。白線は塗り直され、角が立っている。太陽は低く、風はまだ冷たいが、頬を刺すほどではない。三年目の朝。ジョグは、ようやくジョグになっていた。
悠真の足取りは、上体の上に静かに乗っている。骨盤の前を意識して、踵は捨て、ミッドで拾う。耳の奥のメトロノームは百八十で、拍はすでに「努力」ではなく「習慣」の領域へ移っている。呼吸は吸って、吐いて、吐く――の三拍に、無理な強調はない。腹圧の壁は、作るというより、初めからそこにあるものを確認するだけ。
景色の流れる速さが、去年とは違う。速い、ではない。均一だ。コーナーで加速し、ストレートで抜くのではなく、周回全体で同じガラスを曳いていくみたいに、視界の端が一定に滑っていく。ジョグの速度で、世界のほうが正しいペースに合わせに来る日がある。
アップを終えると、遥が周回板を片づけ、クーラーボックスの蓋を開けた。透明のタッパーに黒パン、オレンジ、プルーン。端に「茜メニュー・春」と書かれた紙。冬を越えて、チームの習慣に昇格した仕組みは、今朝も何の派手さもなくそこにある。
茜はフェンスの外――ではなく、ロードの角に立っていた。カメラだけではない。今日は小型のレコーダーを首から提げ、風切りのスポンジが光を鈍く弾いている。
「音、録る」
短い説明。詳しくは言わない。言わなくても、意味は分かる。彼女が耳を澄ませたいのは、今日のこの空気の密度で走る靴音の、いまの音だ。
主将の宮内は四月の風みたいに淡々と準備を整え、肩の高さを一度だけ確かめる。高岡は足首のテーピングを薄く巻き直し、下りのフォームを脚で思い出すように、芝の傾斜を使って短く流す。着地の切れは完璧ではないが、去年の冬より確かに明るい。
坂上はキャップの庇を正し、ホワイトボードに黒い字をのせた。
「閾値走 8km(イーブン)→1000×3(やや上げ)/R=200 jog」
右上に小さく「風 東 2m/気温 12℃」。遥の字は相変わらず整っている。
「三年。整ってきたやつは、崩さず押せ。崩れてるやつは、崩れたまま押すな。……及川」
名前を呼ばれて、悠真は一歩前に出る。
「ジョグがジョグになってる。焦るな。景色の速さを信じろ」
短い指示。短いから、逃げ場がない。逃げ場がないのに、窮屈ではないのは、三年目の信頼の分だけ余白が増えたからだろう。
スタート。
最初の千で、体が先にリズムを拾う。耳に入るのは、自分の靴音と、斜め後ろで刻む宮内の短い呼吸。坂上の笛は要らない。笛の代わりに、春の風が周回ごとに同じ角度で頬を撫でる。
3’48/3’48/3’49/3’49。
数字は小さく並び、並んだ数字は不安を削る。去年の秋、貧血の兆候で崩れたときは、この「並び」がどれほど遠かったか。喉の金属味ではなく、胸の砂のざらつきに足を取られていた日々――茜メニューで埋め直した層は、朝の光の中で静かに機能している。
五キロあたりで、景色の速さがまた変わった。変わるといっても、上がるのではない。音の解像度が上がる。白線を踏むサッという紙の音、芝を擦る低い摩擦、遠くの道路のトラックが置いていった重たい残響――それらが混ざらず、層のまま耳の中に重なる。
茜がロードの角でレコーダーを向け、風を読む。彼女の手首の角度が変わるたび、スポンジの先が微かにふくらみ、吸い込んだ空気をまた吐き出す。
3’49/3’50――最後の二キロは、呼吸を細く長くするだけで、ピッチは勝手に拾ってくれる。腕は細く、肩甲骨は二センチ後ろ。足はついてくる。
流しの一本目に入る前、茜がぽつりと言った。
「颯真の音とは違う。悠真の音だ」
答えは要らなかった。答えより先に、靴底がゴムの上に正しく置かれていく感触があった。違うのは当たり前だ。違いが、今日初めて、救いに聴こえた。
インターバルの「1000×3」は、呼吸の線を崩さずに、指で一段だけボリュームを上げるイメージで通す。3’42/3’41/3’40。押せば、押し返してくるはずの壁が、今日は薄く、音もなく後ろへ下がった。
フィニッシュ。遥の時計が二度小さく鳴り、坂上は頷くだけで何も言わない。言わないのは、言う必要がないからだ。
*
午後は、新入生の顔合わせだった。
並んだ一年生は緊張と眠気を同じ顔に載せていて、いまにも風で倒れそうな細い肩から、期待と不安が薄く湯気になって立っている。テントの下、坂上が短く話をしてから、「三年からひとこと。……及川」と指で示した。
悠真は前に出る。声を大きくしない。届く声で、落とす。
「凡人が積む手順、話します」
からかいと思って笑う顔はない。笑いを拒むほど、ここに来た人たちは、どこかで一度負けている。負けた人は、真面目だ。
「ひとつめ。歩かない。インターバルでも、ジョグでも。歩いた癖は、冬に出ます」
宮内が視線をわずかに落として、うなずいた。
「ふたつめ。食べる。食べるのは練習です。走る前に、走った後に、夜寝る前に。誰が何をどれだけ食べたか、茜さんが見ています。逃げられません」
テントの端で茜がひらりと手を振り、紙束を持ち上げる。「メニュー、配ります」
「みっつめ。寝る。八時間、できれば九。寝るのも練習です。課題は早くやってください。スマホは遠くへ置いてください」
遥が「はい」と笑い、ポケットからタイマーを取り出してパチンと鳴らして見せる。
「よっつめ。諦めない。でも、無茶はしない。崩れているときは歩かない代わりに、メニューを落とす。落とす勇気も、諦めないに入ります。……最後に、怖さは数になる。刻めば、怖さは小さくなる。小さくなった怖さは、持ち歩けます」
言葉は短いほど、余白を残す。余白は、聞く人の筋肉で補われる。
一年生の列の端で、ひとりが小さくメモを取っているのが見えた。細いペン先の動きがやけに真剣で、紙を何度も押し破りそうになる。破らないぎりぎりのところで、何かを掴む人は強い。
解散後、ロードの端で高岡が短く息を吐いた。
「お前、話すとき、肩、上がらなくなったな」
「フォームが口にも出ます」
「そうだな」
彼は芝の傾斜に立ち、下りで二十メートルだけ切った。接地が、ほんの少しだけ鋭く戻っている。戻りきってはいない。だが、「戻る途中」の音は明るい。
「無理はしない」
「してください」
「するな、だ」
二人で笑った。笑いは薄いのに、冬の缶ココアの温度に似ている。
*
放課後のミーティング。
部室のホワイトボードの上には、去年からの「都大路ロードマップ」が、そのまま残っている。
地区予選 → 県大会 → 北信越 → 都大路。
各段の横に、条件と配点、目標タイムレンジが小さく書かれている。冬の終わりに一度消えかけた鉛筆の字は、春になってもまだ薄く残っていた。
坂上がキャップを脱ぎ、黒いペンのキャップを外す。
「宣言する」
声はいつもより低く、ゆっくりだ。
「今年、都大路へ」
ボードの下段、去年の夏に鉛筆で書かれた「悠真:3年・当確」の上に、黒のインクがなぞる。鉛筆のぼやけた輪郭の上に、輪郭が生まれる。消せる仮置きから、消せない線へ。
息を飲む音はしない。しないかわりに、室内の空気が一度だけ密になる。密になった空気は、誰の鼓動にもゆっくり圧として触れる。
発表のあと、坂上は続けた。
「宣言は、約束じゃない。宣言は、方向だ。間違ったら、すぐ直す。だが、方向は変えない。……宮内、四区のプランを書け。高岡、下りの可動域、今週はここまで。遥、茜、補食の在庫、週替わりで。及川」
「はい」
「三年のジョグで、一年を連れて行け。拍で運べ。音を澄ませろ」
「音」という単語に、茜のレコーダーの赤いランプが小さく反応したみたいに見えた。
*
四月の終わり、ロードの角で茜は佇み、風のポケットを探していた。ビルと校舎の隙間を抜けてくる音は、時間帯で表情を変える。午前の乾いた風、昼の弾む風、放課後の少し湿った風。レコーダーのスポンジに乗るのは、靴底が空気に切り目を入れる微細な音。
彼女は録音しながら、時々、目を閉じた。
「どう?」
ジョグの合間に尋ねると、茜は再生ボタンを押して、耳当てを半分渡してくれた。
耳の中で、去年の夏なら混ざっていたはずの成分が、今は層のまま保たれている。呼吸、靴音、ほんのわずかな衣擦れ、遠くの車輪。
「違う」
茜が言う。「去年と」
「どこが」
「間が、ちゃんとある。拍と拍のあいだに、空気がある。……走れてる音」
彼女の言葉は、ときどき楽器のように正確だ。
その日の夕方、高岡は傾斜の下り区間を繰り返し、宮内は一年を連れてフォームの基礎を教え、遥はクーラーボックスの角を拭いた。坂上は何も言わず、立って見ていた。立って見ている時間が長い日は、たいていチームが「自分で動いている」日だ。
練習終わり、茜が襷の切れ端に触れ、笑った。
「この布、冬の間に少し柔らかくなった気がする」
「気のせい?」
「気のせいでも、いい」
気のせいでも、支えになる。春は、気のせいを味方にしてもいい季節だ。
*
夜。ノートのページに、今日の数字と短い言葉を並べる。
『閾値8km 3’48-49均/1000×3 3’42-40 景色=均一 音=層 拍=習慣』
ページの端に、細く付け加える。
『凡人の手順:歩かない・食べる・寝る・諦めない/落とす勇気=諦めないの一部』
その下に、さらに小さく。
『今年、都大路へ(宣言=方向)』
括弧付きの言葉は、胸のどこかで杭になる。杭は深く打たない。浅く打って、明日ごとに一段ずつ深くする。深くしすぎた杭は、抜けない。抜けない杭は、自由を奪う。自由は、走りの余白だ。
窓を少し開けると、春の匂いが入る。遠くの踏切の音は、冬より柔らかい。カン、カン。音の輪郭は変わらないのに、耳のほうが変わった。澄んだ音は、勇気の形をしている。
灯りを落とす直前、スマホが震えた。
『明日、風 北西。角、B地点に移動する。音、澄むはず』
茜から。
『了解。拍、運ぶ』
返して、目を閉じる。まぶたの裏に、白線が一本。線は遠くない。去年より、確かに近い。近さは、努力の褒美ではなく、手順の結果だ。手順は地味で、地味なものは、春に強い。
*
週末、ミニ駅伝形式の練習。
一本目、宮内が押し、二本目、高岡が下りで切り、三本目、悠真が均す。最後に一年のアンカーがゴールテープを切る。テープは練習用の細いビニールで、風で一度浮いてから、また落ちた。
「もう一回」
坂上が言い、今度は順を入れ替える。順が変わっても、音は崩れなかった。崩れない音は、チームの音だ。
片づけのあと、ホワイトボードの前で坂上がペンを持ち、下段の小さな文字をもう一度なぞった。
黒い線はすでに黒いのに、上から重ねると、さらに黒くなる。
当確の輪郭は、もう鉛筆では消えない。
だが、誰もそれを「約束」とは呼ばなかった。呼ばないかわりに、朝を増やすことを決めた。朝練のジョグを一周足し、補食のオレンジを一切れ増やし、寝る時間を十分前倒しにする。増やした十分の積み重ねが、冬のスタートラインに続く細い道のアスファルトを厚くする、と全員が知っていた。
春の終わり、風が少し強くなって、トラックの白線の粉が空に舞った。
茜のレコーダーが、最後の録音を終え、小さくピッと鳴る。
「取れた?」
「取れた」
彼女は短く答え、データに「三年春・澄む」と名をつけた。
澄む、という文字は薄い。薄いけれど、方向を持つ。
方向があるものは、迷いに強い。
音が澄んだ朝を、ひとつ、またひとつ。
そうして、今年、都大路へ――黒のインクが乾く前に、次の朝が始まる。



