冬は、音を凍らせる。
競技場に向かう朝の空気は薄く、肺の奥へ入っていくほど形を持ち、胸郭の内側を細く擦っていく。地面は硬い。靴底のゴムがアスファルトを咬む音は、秋までより乾いていて、ほどけない。吐く息は白く、白はすぐにほどけるのに、見た者の目の奥にだけ長く残った。
二年の冬。
駅伝メンバーの最終選考は、十キロのタイムトライアルだった。風は北から一メートル、空の雲は薄く引き伸ばされた墨のように流れる。坂上は例によって曲がらないキャップをまっすぐに、ホワイトボードの隅に短く書く。
――負荷:閾値+α。呼吸を乱すな。ピッチで運べ。
その下に、小さく**「補欠も戦力」**とあった。戦力、と読みながら、補欠の二文字だけが濃く見える。
主将の宮内は黙ってストレッチをし、肩の角度を二度だけ確かめる。エースの高岡は足首のテープを新しく巻き直し、テープの端を親指で押さえた。白い帯の上に、冬の光が冷たく乗る。
遥は周回板を置かず、今日はロードのラップ用にストップウォッチを二つ手首に巻いていた。茜はフェンスの外――ではなく、今日はロード脇の歩道の端に立つ。首のストラップには薄い青の布切れ――颯真の襷の一部。布は冬の光でさらに淡く見え、風に揺れるたび、結び目が小さく鳴った。
スタートラインの白は、夏より固い。白線の顔には微細な割れがあり、そこから冬が顔を覗かせている。
「及川」
坂上が呼び、少しだけ顎を上げた。「怖いか」
「……はい」
「怖いなら、刻め。刻めば、怖さは数になる。数は、冬も裏切らない」
銃声の代わりに、坂上の「行け」が短く落ちた。
動き出す。
最初の一キロは、肩の余白を確かめる作業だ。上体は置く。骨盤を前に滑らせ、踵を捨てる。百八十の拍は耳の奥で薄く鳴り、寒さでぎゅっと縮こまる筋膜にリズムを押し込む。
3’42。数字は静か。
二キロ、3’42。三キロ、3’43。刻めている。
呼吸は吸って、吐いて、吐く。吐くの二拍目が長くなるほど、冬の空気は喉の奥で繊維になってほつれる。ほつれても、呼吸は線で繋ぐ。
四キロ、3’43。五キロ、3’44。半分を過ぎた直後、脚の裏に薄い火。火は怖くない。怖いのは、火を嫌ってフォームが崩れることだ。
沿道の角で、茜の手拍子が二度鳴った。パン、パン。音は冬に吸われにくくて、芯を保ったまま胸に入る。拍に足が載る。載る、という言葉を選ぶと、寒さが少しだけ味方になる。
六キロ、3’44。七キロ、3’45。ここで落ちると、落ちた分だけ冬は厳しくなる。
宮内の背中が遠くに見え、彼は一定の線で地面を切り分けている。高岡はその前、白いテープの上に影を置いて、余分を削り続ける。チームはそれぞれのリズムで冬を運ぶ。
八キロ。視界が短くなりかけ、五メートル先へ視線を戻す。戻すたび、世界は一度だけ遅くなる。遅くなる世界では、勇気の輪郭が見える。
九キロ。唇の内側に塩の味。腕が太くなり、肩が上がりかける。肘を細く畳み、肩甲骨を二センチ後ろへ。腹圧。骨盤。
――ラスト。
冬は、最後の直線で音を変える。足音の重なりが薄く解け、自分の音だけが少し大きくなる。
前の背中が一枚、薄くなる。抜けるのではない。ただ、重なる厚みが変わる。
フィニッシュのラインが硬い白で迫る。
踏む。
時計を見る。
数字は、目の前で揺れずに、そこにあった。
基準から、――一秒。
しん、と世界が静かになり、次の瞬間、遠くの笛が戻ってきた。寒さが遅れて皮膚を刺す。膝に手をつき、もう一度、数字を確認してしまう自分がいる。確認しても、数字は増えない。増えないのが、数字のやさしさであり、冷たさだ。
「及川」
坂上が来て、短く頷き、短く首を振った。二つの動作は矛盾せずに同居した。「……補欠だ」
補欠、という言葉は冬の固体だ。噛もうとしても歯が立たず、舌の上で冷たさだけが残る。
ベンチに座ると、指先が一度に痛み出した。血が戻る方向を迷っている。遥がスポドリを差し出し、「手、温めて」と自分のポケットから使い捨てカイロを押し込んだ。
茜が近づく。顔はいつも通り。けれど、瞳の奥の温度だけが少し高い。
「おつかれ」
その二文字の中で、彼女は何度も言葉を飲み込んだのだと分かる。飲み込まれた言葉は、冬の体内でゆっくり熱になる。
チームの発表は日暮れ前に行われた。ホワイトボードに並ぶ名前。区間。サブ。補欠。名前は墨の黒で、補欠の欄の黒だけが少し濃く見えた。見えたのは、目のせいだ。目は、冬に厳しい。
宮内は三区。高岡は花の二区を降り、四区で堅実に行く。坂上の采配は、声に出さずとも全員が腑に落ちた。勝つため、ではなく、最後に立つための配置だ。
発表が終わると、バスが到着した。メンバー十名とスタッフ、そして補欠二名が乗り込む。悠真は後ろの席に座った。窓は薄く曇り、指で拭うとすぐにまた白くなる。
ポケットから、一枚の紙片を取り出す。角が丸くなり、テープの痕が斜めに残っている。
――「悠真:3年・当確」
夏、ボードの端に鉛筆で書かれた薄い文字を、彼は自分のノートに写し、切り取って透明テープで貼り、いつでも見える場所にしまっていた。
その紙を、小さく折りたたむ。折り目が増える。指先の温度で鉛筆の黒が少しだけ艶を失う。
折りたたんだ紙は、やがて握りこぶしの中で、音を立てずに砕けた。砕ける、という言葉は大げさに聞こえるが、冬の紙は、乾いた葉のように、静かに割れる。
窓の外、ロードが過ぎる。白線は一定の間隔で流れ、電柱の影は長く伸び、遠くの山の肩には薄く雪が乗る。
バスの座席の布地は、冬の匂いを吸っている。眠りは浅く、肩は固い。目を閉じると、白い息の群れの中で、薄い水色の布が揺れる映像だけが続く。襷の切れ端。結び目。風。
眠りと起きているあいだを、バスは等速で運んだ。
会場に着く頃、空はもう青を薄く削っていた。レース。歓声。冬の太陽は高くならず、影は長いまま動く。
宮内は淡々と、必要な位置で必要な仕事をし、高岡は足首に意識を置きすぎず、置かなさすぎず、絶妙な線で四区を運んだ。アンカーが白線を切った瞬間、スタンドの温度が一度だけ上がる。
補欠席の悠真は、立ち上がったり、座ったりした。立ち上がるたび、ベンチの木が小さく鳴く。鳴くたびに、胸の奥で何かが同じ音で応えた。
戻りのバスは、行きより少しだけ軽かった。結果は、来年につながる場所に収まった。勝ちでも負けでもない中間は、冬には適温だ。
出発の前、宮内が自販機の前に立ち、缶のココアを二つ買った。表面のラベルは冬向けの色で、手のひらにわずかな熱を移す。
ベンチでうなだれていた悠真の隣に座り、一つを差し出す。
「熱いから、すぐ飲むな」
しばらく沈黙。吹き口から立つ湯気は白く、冬の空気に細くほどける。
宮内は正面を見たまま、言った。
「補欠の悔しさを、来年まで温めろ」
熱は、捨てると寒さになる。持てば、火になる。
悠真は、缶の表面を両手で包み込んだ。指先がようやく、自分のものとして戻ってきた。
「……はい」
短い返事が、湯気に混ざって冬の空へ出ていく。
夜。学校へ戻る頃には、息はさらに白く、月は薄い。部室の灯りは弱く、ロッカーの金属は冷たい。
ベンチに横になると、体は勝手に眠りの手前へ落ちた。半分だけ眠る。半分だけ起きている。起きているほうの半分は、耳を外に向けている。
ふいに、肩に重み。
軽いのに、重い。
茜が、そっと襷を掛けていた。薄い青は冬の光に似て、静かに肩へ馴染む。
彼女は声を潜め、襷の端を指で整えながら囁いた。
「これは預かり物じゃない。あなたの色で、染めて」
預かる、という動詞は、戻す前提を含む。染める、という動詞は、手放さない前提を含む。
悠真は目を閉じたまま、うなずいた。うなずきは、小さな走りと同じ方向の動きだ。
襷は、過去の重さだけで肩に載るのではない。未来の色を待って、そこにある。待っているものは、焦らない。焦らないものは、冬に強い。
缶ココアの残りをひと口だけ飲む。甘さが、舌の上で遅れてくる。
ロッカーの上、ノートを開く。
『十キロ 3’42/42/43/43/44/44/45/… —当確メモ、破く。補欠。冷たい。』
そこまで書いて、ペン先が止まる。
冬は、言葉を固くする。固くなった言葉は、強くもなる。
ゆっくりと、続けた。
『悔しさ=熱。温める。来年まで。』
薄い線だが、迷っていない。
ページの端にもう一行。
『ここが、冬のスタートライン。』
灯りを落とす。部室の外で、風が小さく鳴り、遠くで踏切が二度鳴った。
カン、カン。
去年の夏、あの音の下で立ち尽くした自分が、いまは薄い笑いをしている気がした。笑いは大きくない。大きくない笑いほど、長く持つ。
襷の重みは眠りのふちで一定で、肩の骨の上で形を覚えようとしている。
悔しさは熱だ。熱は、冬を越すための最低限の火。
火を消さない。
消さない限り、来年の白線は、今日より一歩、近い。
そしてその白線の手前で、肩にのる色は、きっと――自分のものになる。
競技場に向かう朝の空気は薄く、肺の奥へ入っていくほど形を持ち、胸郭の内側を細く擦っていく。地面は硬い。靴底のゴムがアスファルトを咬む音は、秋までより乾いていて、ほどけない。吐く息は白く、白はすぐにほどけるのに、見た者の目の奥にだけ長く残った。
二年の冬。
駅伝メンバーの最終選考は、十キロのタイムトライアルだった。風は北から一メートル、空の雲は薄く引き伸ばされた墨のように流れる。坂上は例によって曲がらないキャップをまっすぐに、ホワイトボードの隅に短く書く。
――負荷:閾値+α。呼吸を乱すな。ピッチで運べ。
その下に、小さく**「補欠も戦力」**とあった。戦力、と読みながら、補欠の二文字だけが濃く見える。
主将の宮内は黙ってストレッチをし、肩の角度を二度だけ確かめる。エースの高岡は足首のテープを新しく巻き直し、テープの端を親指で押さえた。白い帯の上に、冬の光が冷たく乗る。
遥は周回板を置かず、今日はロードのラップ用にストップウォッチを二つ手首に巻いていた。茜はフェンスの外――ではなく、今日はロード脇の歩道の端に立つ。首のストラップには薄い青の布切れ――颯真の襷の一部。布は冬の光でさらに淡く見え、風に揺れるたび、結び目が小さく鳴った。
スタートラインの白は、夏より固い。白線の顔には微細な割れがあり、そこから冬が顔を覗かせている。
「及川」
坂上が呼び、少しだけ顎を上げた。「怖いか」
「……はい」
「怖いなら、刻め。刻めば、怖さは数になる。数は、冬も裏切らない」
銃声の代わりに、坂上の「行け」が短く落ちた。
動き出す。
最初の一キロは、肩の余白を確かめる作業だ。上体は置く。骨盤を前に滑らせ、踵を捨てる。百八十の拍は耳の奥で薄く鳴り、寒さでぎゅっと縮こまる筋膜にリズムを押し込む。
3’42。数字は静か。
二キロ、3’42。三キロ、3’43。刻めている。
呼吸は吸って、吐いて、吐く。吐くの二拍目が長くなるほど、冬の空気は喉の奥で繊維になってほつれる。ほつれても、呼吸は線で繋ぐ。
四キロ、3’43。五キロ、3’44。半分を過ぎた直後、脚の裏に薄い火。火は怖くない。怖いのは、火を嫌ってフォームが崩れることだ。
沿道の角で、茜の手拍子が二度鳴った。パン、パン。音は冬に吸われにくくて、芯を保ったまま胸に入る。拍に足が載る。載る、という言葉を選ぶと、寒さが少しだけ味方になる。
六キロ、3’44。七キロ、3’45。ここで落ちると、落ちた分だけ冬は厳しくなる。
宮内の背中が遠くに見え、彼は一定の線で地面を切り分けている。高岡はその前、白いテープの上に影を置いて、余分を削り続ける。チームはそれぞれのリズムで冬を運ぶ。
八キロ。視界が短くなりかけ、五メートル先へ視線を戻す。戻すたび、世界は一度だけ遅くなる。遅くなる世界では、勇気の輪郭が見える。
九キロ。唇の内側に塩の味。腕が太くなり、肩が上がりかける。肘を細く畳み、肩甲骨を二センチ後ろへ。腹圧。骨盤。
――ラスト。
冬は、最後の直線で音を変える。足音の重なりが薄く解け、自分の音だけが少し大きくなる。
前の背中が一枚、薄くなる。抜けるのではない。ただ、重なる厚みが変わる。
フィニッシュのラインが硬い白で迫る。
踏む。
時計を見る。
数字は、目の前で揺れずに、そこにあった。
基準から、――一秒。
しん、と世界が静かになり、次の瞬間、遠くの笛が戻ってきた。寒さが遅れて皮膚を刺す。膝に手をつき、もう一度、数字を確認してしまう自分がいる。確認しても、数字は増えない。増えないのが、数字のやさしさであり、冷たさだ。
「及川」
坂上が来て、短く頷き、短く首を振った。二つの動作は矛盾せずに同居した。「……補欠だ」
補欠、という言葉は冬の固体だ。噛もうとしても歯が立たず、舌の上で冷たさだけが残る。
ベンチに座ると、指先が一度に痛み出した。血が戻る方向を迷っている。遥がスポドリを差し出し、「手、温めて」と自分のポケットから使い捨てカイロを押し込んだ。
茜が近づく。顔はいつも通り。けれど、瞳の奥の温度だけが少し高い。
「おつかれ」
その二文字の中で、彼女は何度も言葉を飲み込んだのだと分かる。飲み込まれた言葉は、冬の体内でゆっくり熱になる。
チームの発表は日暮れ前に行われた。ホワイトボードに並ぶ名前。区間。サブ。補欠。名前は墨の黒で、補欠の欄の黒だけが少し濃く見えた。見えたのは、目のせいだ。目は、冬に厳しい。
宮内は三区。高岡は花の二区を降り、四区で堅実に行く。坂上の采配は、声に出さずとも全員が腑に落ちた。勝つため、ではなく、最後に立つための配置だ。
発表が終わると、バスが到着した。メンバー十名とスタッフ、そして補欠二名が乗り込む。悠真は後ろの席に座った。窓は薄く曇り、指で拭うとすぐにまた白くなる。
ポケットから、一枚の紙片を取り出す。角が丸くなり、テープの痕が斜めに残っている。
――「悠真:3年・当確」
夏、ボードの端に鉛筆で書かれた薄い文字を、彼は自分のノートに写し、切り取って透明テープで貼り、いつでも見える場所にしまっていた。
その紙を、小さく折りたたむ。折り目が増える。指先の温度で鉛筆の黒が少しだけ艶を失う。
折りたたんだ紙は、やがて握りこぶしの中で、音を立てずに砕けた。砕ける、という言葉は大げさに聞こえるが、冬の紙は、乾いた葉のように、静かに割れる。
窓の外、ロードが過ぎる。白線は一定の間隔で流れ、電柱の影は長く伸び、遠くの山の肩には薄く雪が乗る。
バスの座席の布地は、冬の匂いを吸っている。眠りは浅く、肩は固い。目を閉じると、白い息の群れの中で、薄い水色の布が揺れる映像だけが続く。襷の切れ端。結び目。風。
眠りと起きているあいだを、バスは等速で運んだ。
会場に着く頃、空はもう青を薄く削っていた。レース。歓声。冬の太陽は高くならず、影は長いまま動く。
宮内は淡々と、必要な位置で必要な仕事をし、高岡は足首に意識を置きすぎず、置かなさすぎず、絶妙な線で四区を運んだ。アンカーが白線を切った瞬間、スタンドの温度が一度だけ上がる。
補欠席の悠真は、立ち上がったり、座ったりした。立ち上がるたび、ベンチの木が小さく鳴く。鳴くたびに、胸の奥で何かが同じ音で応えた。
戻りのバスは、行きより少しだけ軽かった。結果は、来年につながる場所に収まった。勝ちでも負けでもない中間は、冬には適温だ。
出発の前、宮内が自販機の前に立ち、缶のココアを二つ買った。表面のラベルは冬向けの色で、手のひらにわずかな熱を移す。
ベンチでうなだれていた悠真の隣に座り、一つを差し出す。
「熱いから、すぐ飲むな」
しばらく沈黙。吹き口から立つ湯気は白く、冬の空気に細くほどける。
宮内は正面を見たまま、言った。
「補欠の悔しさを、来年まで温めろ」
熱は、捨てると寒さになる。持てば、火になる。
悠真は、缶の表面を両手で包み込んだ。指先がようやく、自分のものとして戻ってきた。
「……はい」
短い返事が、湯気に混ざって冬の空へ出ていく。
夜。学校へ戻る頃には、息はさらに白く、月は薄い。部室の灯りは弱く、ロッカーの金属は冷たい。
ベンチに横になると、体は勝手に眠りの手前へ落ちた。半分だけ眠る。半分だけ起きている。起きているほうの半分は、耳を外に向けている。
ふいに、肩に重み。
軽いのに、重い。
茜が、そっと襷を掛けていた。薄い青は冬の光に似て、静かに肩へ馴染む。
彼女は声を潜め、襷の端を指で整えながら囁いた。
「これは預かり物じゃない。あなたの色で、染めて」
預かる、という動詞は、戻す前提を含む。染める、という動詞は、手放さない前提を含む。
悠真は目を閉じたまま、うなずいた。うなずきは、小さな走りと同じ方向の動きだ。
襷は、過去の重さだけで肩に載るのではない。未来の色を待って、そこにある。待っているものは、焦らない。焦らないものは、冬に強い。
缶ココアの残りをひと口だけ飲む。甘さが、舌の上で遅れてくる。
ロッカーの上、ノートを開く。
『十キロ 3’42/42/43/43/44/44/45/… —当確メモ、破く。補欠。冷たい。』
そこまで書いて、ペン先が止まる。
冬は、言葉を固くする。固くなった言葉は、強くもなる。
ゆっくりと、続けた。
『悔しさ=熱。温める。来年まで。』
薄い線だが、迷っていない。
ページの端にもう一行。
『ここが、冬のスタートライン。』
灯りを落とす。部室の外で、風が小さく鳴り、遠くで踏切が二度鳴った。
カン、カン。
去年の夏、あの音の下で立ち尽くした自分が、いまは薄い笑いをしている気がした。笑いは大きくない。大きくない笑いほど、長く持つ。
襷の重みは眠りのふちで一定で、肩の骨の上で形を覚えようとしている。
悔しさは熱だ。熱は、冬を越すための最低限の火。
火を消さない。
消さない限り、来年の白線は、今日より一歩、近い。
そしてその白線の手前で、肩にのる色は、きっと――自分のものになる。



