秋の気配は、朝の空気の密度を静かに変えるところから始まった。
校門を抜けると、風が少しだけ硬い。夏が置き忘れていった湿気は薄まり、肺の奥まで入った空気は軽いはずなのに、なぜか重たく感じられる。トラックのゴムは日差しに温められても、足裏の熱を貪欲には奪わない。白線はくっきり、影は長い。二年目の秋――インターバルが締まる季節。
坂上は、キャップの庇を正してホワイトボードに今日のメニューを書いた。
1000m×7(R=200m jog)
400m×5(R=200m jog)
流し×4
右の余白に、淡い字で「風 北北西 1m/気温 19℃」。遥が書き添えた数字だ。数字は、今日の空気の正確な顔つきだった。
「一千は、四分一五で均せ。四百は七十五。ラストだけ突っ込むな、均せ」
坂上は短く言い、視線で全員を周回路へ押し出した。押された空気が微かに震える。
スタート。
一本目、呼吸は合う。吸って、吐いて、吐く。腹圧は薄い壁になって、みぞおちの下で支える。耳の奥のメトロノームは百八十の拍を忘れていない。
4’14。可もなく不可もない数字。
二本目、4’15。
三本目、4’16。
許容範囲の誤差。許容の内側にいるうちは人は強気だ。強気は静かにすり減る。
四本目で、胸の内側に砂が入ったようなざらつきが出た。喉の奥に薄い鉄の味。幾度も味わってきた「酸」の前触れに似ているのに、違う。足の裏は軽いはずなのに、脛が鈍い。肩が自然に上がり、下げようとすると背中の奥で力が抜ける。
4’18。坂上の目が、短く細くなる。
五本目。二百を過ぎたあたりで視界の端が粉をかけられたように白む。耳鳴りの手前、遠くの声が粒になる。筋肉が悲鳴を上げる感じがない。悲鳴のない遅さ。遅さの質が、夏と違う。
4’21。
遥が横で口を引き結び、時計をもう一度見た。「心拍、上がってない」
上がっていないのに、苦しい。上体が沈む。沈む上体は、フォームの問題だけではないときがある。
六本目、4’24。七本目はスタートこそ切ったが、三百で足がほどけるように止まった。止まったというより、結び目が一つ解けた。解ければ、ほどける。ほどければ、戻らない。宮内が並び、淡々と告げる。
「ジョグに落とせ。やめるのも練習だ」
やめる、という言葉の形に棘はない。ないのに、刺さる。胸の奥でちいさく血が滲む。
四百のセットは、数字を追いかける前に終わった。坂上は何も言わなかった。何も言わないことが、ときに一番重い。
アップシューズに履き替え、外周へ出る。芝の上の空気はひんやりして、汗が引くと寒さが刺さる。茜がフェンスの外で待っていた。クリップボード。首のストラップには、薄い青の布切れ――颯真の襷の一部。
「今日、顔色、悪い」
彼女は言って、手の甲で悠真の頬に触れた。ひやりとした指先。
「寝不足なら寝る。食べてないなら食べる。……でも、違う感じ」
午後、坂上に連れられ、近くのクリニックに行った。採血。白い蛍光灯の下で、腕の内側の血管が細く浮いて、針が入る。
結果。数字。
茜は表示パネルを覗き込み、顔をしかめた。
「低い」
短いその一語に、怒りと心配と、やりきれなさが何層にも重なっていた。フェリチン、ヘモグロビン。専門用語は、紙の上では冷たいのに、彼女の表情の上では熱を持つ。
「無理を、やめて」
睫毛が震え、声が低くなる。「走るの、やめてほしいとは言わない。だけど、無理は、やめて」
悠真は、言葉を探した。喉の奥で、言い訳の形をしたものたちが順番待ちをしている。その列を横目に、やっと出てきたのは、短い本音だった。
「やめたら、何も残らない」
茜の眉がわずかに寄る。
「残るよ。あなたがいる」
「それじゃ、だめだ」
初めて、正面からぶつかった。
沈黙。廊下の消毒液の匂い。待合のテレビから流れる薄いバラエティの音。看護師がカルテをめくる紙の音だけが生々しい。
茜は最後に短く息を吐いた。
「……わかった。今日は、帰って寝て」
語尾に「お願い」が隠されていた。隠された「お願い」は、聞こえにくく、重い。
*
その夜、汗が冷えるのが早かった。布団の中でも足先が温まらない。窓の外の風は乾いていて、カーテンの裾を少しだけ持ち上げる。
ノートを開く。
『1000×7 4’14/15/16/18/21/24/— 400×— 上体沈む 心拍上がらず 手冷える 眠気強い』
事実だけ並べた。並べて、閉じた。
翌日、茜はグラウンドに来なかった。
翌々日も来なかった。
フェンスの外に立つ細い影がないだけで、トラックは広く見える。広く見えるのに、音は薄い。遥の周回板の数字は変わらず正確で、宮内のピッチも変わらず一定。高岡の足首のテープはわずかに黄ばんだ白。坂上の声はいつもより少し低い。
「及川、今日はジョグだけ。十二。補強、二十。以上」
「はい」
走る。ゆっくり。歩かない。歩かない、の質が変わる。今日は、進むためではなく、止まらないための歩かない。足音は自分の前だけに落ちて、返ってこない。返ってこない音は、孤独を作る。孤独は、ときどき救いでもある。救いの形は扱いにくい。
ジョグの途中で、ふと、耳の奥に笑い声が混ざった。
颯真の笑い声。
季節の匂いと同じで、唐突ではなく、ただそこにある。乾いた空の下で走った日の笑い。メトロノームの拍に乗せて、ふいに現れ、ふいに消える。
「兄ちゃん」
呼ばれた気がして、振り返らない。前を見る。白線の五メートル先。歩幅は小さく、拍はそのまま。壁に寄りかかった影のように、記憶は消えないが、押してはこない。
ジョグの最後、校舎の影に入ると、空気が一度冷たくなった。長袖を取りに部室へ戻ると、ドアの前で坂上が待っていた。
「採血、二週間刻みで行く。食事、遙と組め。……茜には、俺からも言っとく」
「はい」
短い会話で足りる夜がある。足りない夜もある。今日は、足りたふりをする夜。
*
三日目、四日目。
茜は来ない。
グラウンドの外周で小さな風が起き、秋の最初の落ち葉が二枚、白線を滑った。靴底が拾う感触は夏と違う。乾いた紙を踏んだような、薄い音。
インターバルは短くして続けた。一千を五本。四百を三本。数字を落とし、量を落とす。落としながら、落ちないところを探す。探して、見つからない日もある。見つからない日は、諦める筋肉を鍛える。諦めない筋肉とは別に、諦める筋肉が必要だと初めて知った。
夜、ノートの余白に短い行を足す。
『茜、来ない。』
それだけ。
書くと、少し楽だった。書かれたものは、読める。読めるものは、置ける。置けるものは、持ち運べる。
五日目の夜、スマホが小さく鳴った。
茜から。
『戻る。あなたが止まらないうちは』
短い一行。
短いのに、ページ一枚ぶんの重さがあった。
返信には時間を置いた。置いて、ただ一言だけ返した。
『止まらない』
言うのは簡単。続けるのは難しい。難しいと知っているからこそ、短く言った。
*
翌日、茜はフェンスの外に戻ってきた。瞼の下に少しだけ赤い跡。髪はひとつに結ばれ、首のストラップにはいつもの布切れ。戻った、という事実が、グラウンドの色を少し濃くする。
「おはよう」
「おはよう」
短い挨拶で、十分だった。
その日のメニューは「閾値走二十+流し」。坂上がボードを指で叩き、遥がクーラーボックスの蓋を開ける。中には水と、袋入りの補食。見慣れないラベル。
茜がクリップボードとは別に、紙の束を抱えていた。
「今日から、補食と鉄、私が管理します」
声は低いが、決意の形をしていた。
「走る前に、これ」
透明な袋。中身は、黒パンに蜂蜜、プルーン、オレンジ。
「走った直後に、これ」
牛乳+きな粉、ゆで卵、小さなおにぎり。
「夜は、赤身中心。ひじき、あさり、ほうれん草。ビタミンCいっしょに」
紙には摂るタイミングと量が、学校のプリントみたいにきれいな字で並んでいた。タイトルは、少し照れたように
『茜メニュー(暫定)』。
遥が横から覗いて、声をあげた。
「これ、すご。……ボードに貼っちゃおう」
「貼って」
茜は迷わず言い、坂上が小さく頷く。「お前が責任者だ。月曜朝に体重、脈、問診。貧血チェックシート、作れ」
「作ってきた」
茜はもう一束を取り出した。項目は、朝起きるのがつらい/階段で息切れ/爪の色/食欲/眠気/口内炎。丸をつけるだけ。
宮内が紙を受け取り、無言で丸をつけた。丸は少ない。高岡は一瞬だけ茜を見て、項目を追い、最後に「足首」の欄に自分で項目を足して丸をつけ、苦笑した。
「任す」
坂上のその一語で、茜メニューはチームのルールになった。
閾値走。
最初の一キロが、昨日より軽い。軽いのは気のせいか、パンの炭水化物か、紙に書かれた“仕組み”の効き目か。理由が複数あるとき、人は強気になる。強気は危険だが、走り出すには必要だ。
五キロを超えたところで、胸の砂はまだ出てこない。手の冷えはある。あるけれど、指先の色は昨日よりまだ明るい。茜がフェンスの外で拍を打つ。パン、パン。拍の裏側に、間がある。間に呼吸が入る。
坂上がストレートで短く指を立てる。「肩!」
肩を落とす。腹圧。視線五メートル。秋の空は近いのに、遠い。遠いものは、目を休ませる。
終わってすぐ、茜が紙コップを差し出す。
「はい、牛乳。きな粉入ってる。すぐ飲む」
命令の形をした優しさ。悠真は従い、喉を通るたんぱくの重さに少し驚く。すぐに、ゆで卵。塩は少なめ。塩は、あとで取る。
遥が計測の表に数字を記入しながら笑う。
「“茜メニュー”、語感がかわいいわりに、内容ガチだね」
「かわいくする気はない」
茜は言い、クリップボードに今日の摂取をチェックする。その横顔に、剣の鞘みたいな静けさがあった。
*
数日して、数字は少しずつ戻り始めた。月曜の朝、問診表の丸が減る。爪の色がほんの少しだけ血の色を取り戻す。インターバルのラップは、4’18から4’16へ、4’15へ。均す、という言葉が、単なる祈りではなく、現実の手触りを帯びる。
ある日、トラックのコーナーで、宮内が並走しながらぽつりと言った。
「歩かない、ってのは走ることだけじゃない」
「はい」
「食う、寝る、整える。歩かない」
彼はそれ以上言わない。言わずに前へ出る。その背中は、去年の冬の泣いた影を含んでいるのだと、悠真は知っている。知っているから、尊敬は静かだ。
高岡の足首は、まだ白い帯を巻いている。巻いていない足首よりも、ほんの少し太く見える。ジョグのとき、彼は無理をしない。無理をしない決断は、走るより難しい。練習後、茜が用意した氷水の中に足を入れ、顔をしかめずに五分間座る。
「痛み?」
茜が小さく聞く。
「違和感」
高岡は答え、唇の端で笑う。「違和感、って便利な言葉だな」
「便利だけど、放っておくには便利すぎる」
「はい」
敬語が自然だ。自然な敬語は、距離の確認ではなく、信頼の形だ。
*
秋は進む。風はさらに冷えて、夕方の影は長く濃くなる。グラウンドの角で白い息が一斉に立ち、遥の声は変わらず一定、坂上のホイッスルは短い音だけ残す。
茜は相変わらずフェンスの外だ。だが、外から内を「動かす」役目になった。補食の箱は練習前に並び、練習直後に軽く空になり、夜のメニューは各自のロッカーに貼られた。紙は薄いが、紙に書かれたルールは強い。
放課後、誰もいないときを見計らって、悠真はフェンスのそばに立った。
「この前は、ごめん」
言うと、茜は拍子抜けするほど普通の顔でうなずいた。
「ううん。私も、言い方、きつかった」
「……“戻る”ってさ、あのメッセージ、うれしかった」
「“止まらない”って返ってきて、安心した」
短い会話。短いのに、厚みがある。厚みは、ここ数日の沈黙が作った層だ。沈黙は敵ではなかった。沈黙の中で、各自の位置を少しずつ直した。
茜はストラップの布切れを指でなぞった。
「ねえ、颯真、冬が嫌いだった」
「知ってる」
「でも、冬を目指してた」
「知ってる」
「——だから、行こう。冬へ」
うなずく。うなずいた拍に、薄い火がつく。火は大きくない。大きくない火ほど、長く持つ。
*
その夜、ノートの端に書き足す。
『やめたら、何も残らない、と思った。やめなくても、残す方法はある。仕組みにする。食う、寝る、整える。茜メニュー。』
文字の線は細いが、迷っていない。
ページを閉じる前に、もう一行。
『止まらない。止まらない限り、戻ってくる人がいる。』
窓を少し開ける。秋の匂い。冷えた空気が部屋の中の紙の匂いと混ざる。遠くで踏切の音が二度。カン、カン。
去年の夏、あの音の下で立ち尽くしたとき、泣くこともできなかった。今は、泣かずに、走って、食べて、寝る。泣く夜もきっと来る。来たら、泣く。そのために、体を空にしておく。
灯りを消す直前、スマホがまた短く震えた。
『明日、閾値前、オレンジ忘れずに。C一緒に』
茜から。
『了解。止まらない』
返信を送ると、胸の奥の火がほんの少しだけ強くなった。火は、寒さの中でよく見える。
*
週明け、月曜の計測。体重、脈、問診。茜がチェックをし、遥が数字をまとめ、坂上が目を通す。
「戻ってる」
茜が小さく言う。頬の色がいつもより明るい。
「走れば、数字はついてくる」
坂上が短く付け加える。「走るだけじゃない。食う、寝る、整える。全部、走るのうち」
宮内がうなずき、高岡が肩を回す。
風はさらに冷たい。吐いた息は白く、白い息はすぐに薄くなる。薄くなるのに、残る。残らないようで残る。
秋風の壁は、越えるものではなく、並走するものかもしれない。並走しながら、寒さに慣れる。慣れながら、冬の温度を体にしみ込ませる。
その先に続く白い道の手前で、チームは歩かない。歩かないことは、走る前提であり、支える前提だ。
フェンスの外で、茜が手を叩く。パン、パン。
拍の間に、呼吸が入る。呼吸の間に、言葉が入る。言葉の間に、火が入る。
小さな火は、冬へ向かう。
止まらないかぎり。
校門を抜けると、風が少しだけ硬い。夏が置き忘れていった湿気は薄まり、肺の奥まで入った空気は軽いはずなのに、なぜか重たく感じられる。トラックのゴムは日差しに温められても、足裏の熱を貪欲には奪わない。白線はくっきり、影は長い。二年目の秋――インターバルが締まる季節。
坂上は、キャップの庇を正してホワイトボードに今日のメニューを書いた。
1000m×7(R=200m jog)
400m×5(R=200m jog)
流し×4
右の余白に、淡い字で「風 北北西 1m/気温 19℃」。遥が書き添えた数字だ。数字は、今日の空気の正確な顔つきだった。
「一千は、四分一五で均せ。四百は七十五。ラストだけ突っ込むな、均せ」
坂上は短く言い、視線で全員を周回路へ押し出した。押された空気が微かに震える。
スタート。
一本目、呼吸は合う。吸って、吐いて、吐く。腹圧は薄い壁になって、みぞおちの下で支える。耳の奥のメトロノームは百八十の拍を忘れていない。
4’14。可もなく不可もない数字。
二本目、4’15。
三本目、4’16。
許容範囲の誤差。許容の内側にいるうちは人は強気だ。強気は静かにすり減る。
四本目で、胸の内側に砂が入ったようなざらつきが出た。喉の奥に薄い鉄の味。幾度も味わってきた「酸」の前触れに似ているのに、違う。足の裏は軽いはずなのに、脛が鈍い。肩が自然に上がり、下げようとすると背中の奥で力が抜ける。
4’18。坂上の目が、短く細くなる。
五本目。二百を過ぎたあたりで視界の端が粉をかけられたように白む。耳鳴りの手前、遠くの声が粒になる。筋肉が悲鳴を上げる感じがない。悲鳴のない遅さ。遅さの質が、夏と違う。
4’21。
遥が横で口を引き結び、時計をもう一度見た。「心拍、上がってない」
上がっていないのに、苦しい。上体が沈む。沈む上体は、フォームの問題だけではないときがある。
六本目、4’24。七本目はスタートこそ切ったが、三百で足がほどけるように止まった。止まったというより、結び目が一つ解けた。解ければ、ほどける。ほどければ、戻らない。宮内が並び、淡々と告げる。
「ジョグに落とせ。やめるのも練習だ」
やめる、という言葉の形に棘はない。ないのに、刺さる。胸の奥でちいさく血が滲む。
四百のセットは、数字を追いかける前に終わった。坂上は何も言わなかった。何も言わないことが、ときに一番重い。
アップシューズに履き替え、外周へ出る。芝の上の空気はひんやりして、汗が引くと寒さが刺さる。茜がフェンスの外で待っていた。クリップボード。首のストラップには、薄い青の布切れ――颯真の襷の一部。
「今日、顔色、悪い」
彼女は言って、手の甲で悠真の頬に触れた。ひやりとした指先。
「寝不足なら寝る。食べてないなら食べる。……でも、違う感じ」
午後、坂上に連れられ、近くのクリニックに行った。採血。白い蛍光灯の下で、腕の内側の血管が細く浮いて、針が入る。
結果。数字。
茜は表示パネルを覗き込み、顔をしかめた。
「低い」
短いその一語に、怒りと心配と、やりきれなさが何層にも重なっていた。フェリチン、ヘモグロビン。専門用語は、紙の上では冷たいのに、彼女の表情の上では熱を持つ。
「無理を、やめて」
睫毛が震え、声が低くなる。「走るの、やめてほしいとは言わない。だけど、無理は、やめて」
悠真は、言葉を探した。喉の奥で、言い訳の形をしたものたちが順番待ちをしている。その列を横目に、やっと出てきたのは、短い本音だった。
「やめたら、何も残らない」
茜の眉がわずかに寄る。
「残るよ。あなたがいる」
「それじゃ、だめだ」
初めて、正面からぶつかった。
沈黙。廊下の消毒液の匂い。待合のテレビから流れる薄いバラエティの音。看護師がカルテをめくる紙の音だけが生々しい。
茜は最後に短く息を吐いた。
「……わかった。今日は、帰って寝て」
語尾に「お願い」が隠されていた。隠された「お願い」は、聞こえにくく、重い。
*
その夜、汗が冷えるのが早かった。布団の中でも足先が温まらない。窓の外の風は乾いていて、カーテンの裾を少しだけ持ち上げる。
ノートを開く。
『1000×7 4’14/15/16/18/21/24/— 400×— 上体沈む 心拍上がらず 手冷える 眠気強い』
事実だけ並べた。並べて、閉じた。
翌日、茜はグラウンドに来なかった。
翌々日も来なかった。
フェンスの外に立つ細い影がないだけで、トラックは広く見える。広く見えるのに、音は薄い。遥の周回板の数字は変わらず正確で、宮内のピッチも変わらず一定。高岡の足首のテープはわずかに黄ばんだ白。坂上の声はいつもより少し低い。
「及川、今日はジョグだけ。十二。補強、二十。以上」
「はい」
走る。ゆっくり。歩かない。歩かない、の質が変わる。今日は、進むためではなく、止まらないための歩かない。足音は自分の前だけに落ちて、返ってこない。返ってこない音は、孤独を作る。孤独は、ときどき救いでもある。救いの形は扱いにくい。
ジョグの途中で、ふと、耳の奥に笑い声が混ざった。
颯真の笑い声。
季節の匂いと同じで、唐突ではなく、ただそこにある。乾いた空の下で走った日の笑い。メトロノームの拍に乗せて、ふいに現れ、ふいに消える。
「兄ちゃん」
呼ばれた気がして、振り返らない。前を見る。白線の五メートル先。歩幅は小さく、拍はそのまま。壁に寄りかかった影のように、記憶は消えないが、押してはこない。
ジョグの最後、校舎の影に入ると、空気が一度冷たくなった。長袖を取りに部室へ戻ると、ドアの前で坂上が待っていた。
「採血、二週間刻みで行く。食事、遙と組め。……茜には、俺からも言っとく」
「はい」
短い会話で足りる夜がある。足りない夜もある。今日は、足りたふりをする夜。
*
三日目、四日目。
茜は来ない。
グラウンドの外周で小さな風が起き、秋の最初の落ち葉が二枚、白線を滑った。靴底が拾う感触は夏と違う。乾いた紙を踏んだような、薄い音。
インターバルは短くして続けた。一千を五本。四百を三本。数字を落とし、量を落とす。落としながら、落ちないところを探す。探して、見つからない日もある。見つからない日は、諦める筋肉を鍛える。諦めない筋肉とは別に、諦める筋肉が必要だと初めて知った。
夜、ノートの余白に短い行を足す。
『茜、来ない。』
それだけ。
書くと、少し楽だった。書かれたものは、読める。読めるものは、置ける。置けるものは、持ち運べる。
五日目の夜、スマホが小さく鳴った。
茜から。
『戻る。あなたが止まらないうちは』
短い一行。
短いのに、ページ一枚ぶんの重さがあった。
返信には時間を置いた。置いて、ただ一言だけ返した。
『止まらない』
言うのは簡単。続けるのは難しい。難しいと知っているからこそ、短く言った。
*
翌日、茜はフェンスの外に戻ってきた。瞼の下に少しだけ赤い跡。髪はひとつに結ばれ、首のストラップにはいつもの布切れ。戻った、という事実が、グラウンドの色を少し濃くする。
「おはよう」
「おはよう」
短い挨拶で、十分だった。
その日のメニューは「閾値走二十+流し」。坂上がボードを指で叩き、遥がクーラーボックスの蓋を開ける。中には水と、袋入りの補食。見慣れないラベル。
茜がクリップボードとは別に、紙の束を抱えていた。
「今日から、補食と鉄、私が管理します」
声は低いが、決意の形をしていた。
「走る前に、これ」
透明な袋。中身は、黒パンに蜂蜜、プルーン、オレンジ。
「走った直後に、これ」
牛乳+きな粉、ゆで卵、小さなおにぎり。
「夜は、赤身中心。ひじき、あさり、ほうれん草。ビタミンCいっしょに」
紙には摂るタイミングと量が、学校のプリントみたいにきれいな字で並んでいた。タイトルは、少し照れたように
『茜メニュー(暫定)』。
遥が横から覗いて、声をあげた。
「これ、すご。……ボードに貼っちゃおう」
「貼って」
茜は迷わず言い、坂上が小さく頷く。「お前が責任者だ。月曜朝に体重、脈、問診。貧血チェックシート、作れ」
「作ってきた」
茜はもう一束を取り出した。項目は、朝起きるのがつらい/階段で息切れ/爪の色/食欲/眠気/口内炎。丸をつけるだけ。
宮内が紙を受け取り、無言で丸をつけた。丸は少ない。高岡は一瞬だけ茜を見て、項目を追い、最後に「足首」の欄に自分で項目を足して丸をつけ、苦笑した。
「任す」
坂上のその一語で、茜メニューはチームのルールになった。
閾値走。
最初の一キロが、昨日より軽い。軽いのは気のせいか、パンの炭水化物か、紙に書かれた“仕組み”の効き目か。理由が複数あるとき、人は強気になる。強気は危険だが、走り出すには必要だ。
五キロを超えたところで、胸の砂はまだ出てこない。手の冷えはある。あるけれど、指先の色は昨日よりまだ明るい。茜がフェンスの外で拍を打つ。パン、パン。拍の裏側に、間がある。間に呼吸が入る。
坂上がストレートで短く指を立てる。「肩!」
肩を落とす。腹圧。視線五メートル。秋の空は近いのに、遠い。遠いものは、目を休ませる。
終わってすぐ、茜が紙コップを差し出す。
「はい、牛乳。きな粉入ってる。すぐ飲む」
命令の形をした優しさ。悠真は従い、喉を通るたんぱくの重さに少し驚く。すぐに、ゆで卵。塩は少なめ。塩は、あとで取る。
遥が計測の表に数字を記入しながら笑う。
「“茜メニュー”、語感がかわいいわりに、内容ガチだね」
「かわいくする気はない」
茜は言い、クリップボードに今日の摂取をチェックする。その横顔に、剣の鞘みたいな静けさがあった。
*
数日して、数字は少しずつ戻り始めた。月曜の朝、問診表の丸が減る。爪の色がほんの少しだけ血の色を取り戻す。インターバルのラップは、4’18から4’16へ、4’15へ。均す、という言葉が、単なる祈りではなく、現実の手触りを帯びる。
ある日、トラックのコーナーで、宮内が並走しながらぽつりと言った。
「歩かない、ってのは走ることだけじゃない」
「はい」
「食う、寝る、整える。歩かない」
彼はそれ以上言わない。言わずに前へ出る。その背中は、去年の冬の泣いた影を含んでいるのだと、悠真は知っている。知っているから、尊敬は静かだ。
高岡の足首は、まだ白い帯を巻いている。巻いていない足首よりも、ほんの少し太く見える。ジョグのとき、彼は無理をしない。無理をしない決断は、走るより難しい。練習後、茜が用意した氷水の中に足を入れ、顔をしかめずに五分間座る。
「痛み?」
茜が小さく聞く。
「違和感」
高岡は答え、唇の端で笑う。「違和感、って便利な言葉だな」
「便利だけど、放っておくには便利すぎる」
「はい」
敬語が自然だ。自然な敬語は、距離の確認ではなく、信頼の形だ。
*
秋は進む。風はさらに冷えて、夕方の影は長く濃くなる。グラウンドの角で白い息が一斉に立ち、遥の声は変わらず一定、坂上のホイッスルは短い音だけ残す。
茜は相変わらずフェンスの外だ。だが、外から内を「動かす」役目になった。補食の箱は練習前に並び、練習直後に軽く空になり、夜のメニューは各自のロッカーに貼られた。紙は薄いが、紙に書かれたルールは強い。
放課後、誰もいないときを見計らって、悠真はフェンスのそばに立った。
「この前は、ごめん」
言うと、茜は拍子抜けするほど普通の顔でうなずいた。
「ううん。私も、言い方、きつかった」
「……“戻る”ってさ、あのメッセージ、うれしかった」
「“止まらない”って返ってきて、安心した」
短い会話。短いのに、厚みがある。厚みは、ここ数日の沈黙が作った層だ。沈黙は敵ではなかった。沈黙の中で、各自の位置を少しずつ直した。
茜はストラップの布切れを指でなぞった。
「ねえ、颯真、冬が嫌いだった」
「知ってる」
「でも、冬を目指してた」
「知ってる」
「——だから、行こう。冬へ」
うなずく。うなずいた拍に、薄い火がつく。火は大きくない。大きくない火ほど、長く持つ。
*
その夜、ノートの端に書き足す。
『やめたら、何も残らない、と思った。やめなくても、残す方法はある。仕組みにする。食う、寝る、整える。茜メニュー。』
文字の線は細いが、迷っていない。
ページを閉じる前に、もう一行。
『止まらない。止まらない限り、戻ってくる人がいる。』
窓を少し開ける。秋の匂い。冷えた空気が部屋の中の紙の匂いと混ざる。遠くで踏切の音が二度。カン、カン。
去年の夏、あの音の下で立ち尽くしたとき、泣くこともできなかった。今は、泣かずに、走って、食べて、寝る。泣く夜もきっと来る。来たら、泣く。そのために、体を空にしておく。
灯りを消す直前、スマホがまた短く震えた。
『明日、閾値前、オレンジ忘れずに。C一緒に』
茜から。
『了解。止まらない』
返信を送ると、胸の奥の火がほんの少しだけ強くなった。火は、寒さの中でよく見える。
*
週明け、月曜の計測。体重、脈、問診。茜がチェックをし、遥が数字をまとめ、坂上が目を通す。
「戻ってる」
茜が小さく言う。頬の色がいつもより明るい。
「走れば、数字はついてくる」
坂上が短く付け加える。「走るだけじゃない。食う、寝る、整える。全部、走るのうち」
宮内がうなずき、高岡が肩を回す。
風はさらに冷たい。吐いた息は白く、白い息はすぐに薄くなる。薄くなるのに、残る。残らないようで残る。
秋風の壁は、越えるものではなく、並走するものかもしれない。並走しながら、寒さに慣れる。慣れながら、冬の温度を体にしみ込ませる。
その先に続く白い道の手前で、チームは歩かない。歩かないことは、走る前提であり、支える前提だ。
フェンスの外で、茜が手を叩く。パン、パン。
拍の間に、呼吸が入る。呼吸の間に、言葉が入る。言葉の間に、火が入る。
小さな火は、冬へ向かう。
止まらないかぎり。



