朝いちばんの競技場は、もう夏の匂いをまといはじめていた。白い雲は薄く伸び、陽はまだ斜めなのに、トラックのゴムは手のひらの体温を素早く奪い、代わりに微かな熱を返してくる。スタンドの色とりどりのジャージが、今日これから起きることの数だけ呼吸をしている。風は弱い。風の弱さは、タイムにはやさしいが、体感温度にはきびしい。

 テントの下で、坂上がホワイトボードに黒い字を走らせた。
「三千障害、五千、八百、千五、リレー。総合ポイントで県の切符。外さない。……水分、塩、補給、確認」
 短く、乾いて、逃げ場のない声。ボードの端には、種目ごとの配点が丸で囲まれていて、合計欄は空いている。空欄は希望にも見えるし、責任の形にも見えた。

 主将の宮内は膝を抱えて座り、靴紐を一本ずつ確かめている。紐の長さはいつも同じだ。余りすぎず、短すぎず。余白の計算は、彼の走りそのものと似ている。
 エースの高岡は、右足首のテープの上から軽く親指で押さえた。押す時間がいつもより一秒長い。表情は平らだが、押さえた親指の白さが、ほんのわずか強い。遥がその指の白さを横目で見て、ポケットの中のテーピングを一度、指で触れた。

 茜はフェンスの外に立っていた。首から下げたカメラのストラップに結んだ薄い青い布切れ――颯真の襷の一部――は、光を吸ってすこし色を柔らかくしている。クリップボードには「気温 27℃/微風 南東/湿度 高め」と几帳面な字で記されていた。
 彼女は内側へは入らない。入らないけれど、視線はいつも内側の一点に正確だ。

 プログラムは三千メートル障害から始まる。ハードルの影がトラックに四角を落とし、水濠の水面は朝から重く光っていた。水の匂いは、少しだけ泥の匂いを混ぜている。選手たちは試走で軽く跳び越し、踏み板の感触を確かめている。
 宮内が肩を回しながら言った。
「最初の一周、乱すな。ハードルに行く前に呼吸を整える。水濠は踏み切り板の上で浮かせる」
 助言は多くない。多くないけれど、要るところにだけ置く。

 スタートの銃声。トラックの上で、障害の影が順に踏まれ、跳ばれ、また伸びる。最初の水濠で一人が足を滑らせ、派手に水を上げる。スタンドから小さなざわめき。だが、すぐに戻った。戻すことができる人間だけが、ここに立っている。
 宮内はきっちりと予定どおりの位置でレースを進め、ラスト一周で前の集団をするりと抜いた。順位は大崩れせず、ポイントは積まれた。白い数字がボードの端に増え、合計欄に最初の数が入る。空欄でなくなることは、ほっとするというより、背に重さが載る感覚に近い。

 次は五千。悠真の番だ。ゼッケンのピンをつけ直す指先が少し汗ばむ。遥が塩タブレットを手のひらに一粒置いた。
「気温、上がるよ。上りきる前に飲んで」
 声は相変わらず一定で、余計な感情を含まない。その一定が、レース前の揺れを少しだけ中和した。

 「及川」
 坂上が呼ぶ。
「今日は刻め。三千まで 92~93。以後は呼吸で合わせる。終盤、足が止まりかけたら、腕は細く速く。視線、五メートル先。……怖いか」
 悠真はうなずいた。
「怖いです」
「怖いなら、刻め。刻めば、怖さは数になる」
 同じことを何度も言う人は、たいていそれを信じている。信じている人の言葉は、簡単には揺れない。

 スタートラインに立つと、世界は細くなる。パン、という音のあと、靴底の薄いゴムが無数のサッという音を一斉に立てる。最初の直線で、悠真は「行かない」を選んだ。「行かない」は、控えめな言葉だけれど、ときに攻めと同義だ。
 一周目、92。二周目、93。三周目、92。数字はしずかに並ぶ。茜の手拍子が遠くで薄く重なって、拍に足が乗る。
 四周、五周、刻む。汗が目に入る。目頭が少し痛い。スタンドから聞こえる声は意味にならず、粒の音のまま跳ねる。
 六周目、胸の奥に薄い酸の壁。七周目、その壁に小さな亀裂。八周目、呼吸の三拍目を少し長くして、亀裂に息を流し込む。九周目、視界がいっとき狭くなりかけ、五メートル先に視線を戻す。
 ――三千通過。
 遥の声:「11分31!」
 予定よりほんの少し速い。速さは甘い。甘さは罠だ。罠に指をかけない。指をかけないために、拍に体を預ける。

 十周目、周囲の足音が一つ減り、一つ増える。人は入れ替わる。足音は入れ替わる。自分の足音だけが、いまは味方だ。
 十一周目、ふくらはぎに薄い火。十二周目、火は太腿の裏に移り、腹圧で受ける。茜の手拍子が少し強くなって、耳の奥で拍が太る。
 ラスト二周。
 ――穴。
 先週落ちた場所。足が、また止まりかける。止まりかける、と認識できるだけ、先週よりは前だ。
 腕を細く速く。肩甲骨を二センチ後ろ。視線五メートル。吸って、吐いて、吐く。
 茜の拍が四拍で届く。パン、パン、パン、パン。
 最後の直線、足の指先が地面を掬う。掬う、という感覚は、前よりも確かだ。掬えない砂は、少しだけ少ない。
 フィニッシュ。
 胸の奥で鐘みたいな音が鳴る。耳で鳴っているのか、体で鳴っているのか、判然としない。遥の声が近づく。
「自己ベスト、更新。十八分台、カット。よくやった」
 数字は、感情の前に来る。前に来て、後ろにも残る。

 テントに戻ると、坂上は頷いただけだった。頷きの角度は小さい。小さいけれど、「見ていた」を含んでいる。
 水を飲み、塩を舌に溶かす。喉を通る水はぬるいが、内側の地図を確実に更新する。足の震えはすぐには止まらない。止まらない震えが、今日という日の輪郭みたいだった。

 三千障害の二本目、八百、千五――種目が進むあいだ、ボードの合計に数字が積まれていく。薄い汗の塩が肌の上で結晶になり、指で触るとざらりとした。
 午後の陽が真上に来る頃、高岡の出番が近づいた。五千の二本目。エースの走りで固める、のが当初の計画だった。
 坂上が高岡の足首を一度だけ見る。テープの白は朝より少し曇り、肌の色が少し強い。
「どうだ」
 高岡は短くうなずいた。「行けます」
 言葉は強い。だが、その強さの後ろに、薄い影が立つ。坂上は影の輪郭を目で撫でた。
「無理はさせない。途中で違和感強ければ、降りろ。ポイントは、宮内で拾う」

 言い終わらないうちに、宮内が立ち上がった。
「アンカー、行きます」
 声は静かだった。静かに言うことが、決意のかたちになる。
 高岡は反論しない。反論しないことが、チームのための最短距離のときもある。遥がすぐにエントリー表を持ち、係員に走った。快晴の空の下で、ペンのインクの線が素早く引かれ、名前が一つ移動する。その線の軽さと、決断の重さは反比例していた。

 アンカーの千五。
 スタンドの温度が少し上がる。千五は、我慢の距離だ。速すぎると終盤がもたない。遅すぎると届かない。
 宮内は、最初の四百を抑え、六百でじわりと前へ。八百で一度沈み、千で上体を置き直し、ラスト二百で外へ出た。脚は切れていない。切れていないのに、前へ出る。出る、というより、前にいる空気の空白を選んでいる。選び続ける走り。
 フィニッシュテープを切ったとき、スタンドの音が一段上がった。宮内は両手を軽く開き、息を二回だけ深く吸った。喜びを派手に見せない。見せないことが、いまは似合う。

 合計欄の数字が増え、ボードの下に「県大会」の文字がひとつ、太く書かれた。その下に、坂上が小さく丸を付ける。丸の中の余白は、まだたくさん残っている。

 競技場の隅、フェンスの外で、茜がゆっくりと襷を広げた。薄い青の布は、陽の色に溶けて少し白く見えた。彼女は布の端を二本の指でつまみ、風を読み、カメラのファインダを覗く。シャッターの音は小さかった。
「これは、過去のためじゃない」
 ファインダから目を外さずに、茜は言った。「未来のために、残す写真」
 その言葉が、悠真の胸のどこかの小部屋にそっと置かれた。今まで、襷は記憶の重さだと思っていた。持っているだけで肩が落ちる種類の重さ。
 でも、いま、襷は未来の形になった。形は、持てる。持てるものは、渡せる。

 「県の切符、取ったぞー!」
 遥がめずらしく声を張り、タオルを回した。タオルの水滴が夏の光で瞬く。宮内は笑わないが、目尻が一ミリだけ緩む。高岡は足首にそっと手をあて、頷いた。「次までに整える」
 次――県大会。都大路へつながる道の、まだ手前の分岐。分岐は希望でもあり、不合格の可能性でもある。どちらにも行き得る地点に立っていること自体が、今日のご褒美だった。

 夕方、学校に戻ると、部室の空気は昼より軽かった。汗と石鹸と紙の匂い。坂上がホワイトボードを持ち出し、太い字で大きく書いた。
 「都大路ロードマップ」
 その下に矢印が階段のように伸びる。
 地区予選 → 県大会 → 北信越 → 都大路。
 各段の横に、小さく条件と配点、目標のタイムレンジ。
 そして、一番下の余白に、坂上は鉛筆で小さく走り書きをした。
 「悠真:3年・当確」
 薄い文字。消しゴムで消せば、消える。
 消せる薄さで書かれたものは、脅しではない。約束でもない。けれど、いま、ここに仮置きされた未来の席。
 悠真はその薄さを、ありがたく思った。濃く書かれた約束は、裏切ると尖って刺さる。薄い仮置きは、いまの自分にちょうどよかった。濃さは、自分の明日で少しずつ足していけばいい。

 練習用トラックに戻ると、空はすでに朱を少し混ぜ始めていた。走り終えた仲間がゴムの上でストレッチをし、遥がクーラーボックスを拭いている。
 茜が、カメラの背面に映った写真を見せてくれた。襷は画面いっぱいに広がり、布目のささくれまで見える。風で布がわずかに丸まり、そこに光が溜まっている。
「きれい」
 悠真が言うと、茜は首を振った。
「きれいじゃなくて、続く、がいい。続く写真」
 「続く」という言葉が、布の上に柔らかく乗った。写真は一瞬を切り取るものだと思っていた。けれど、切り取られた一瞬が、他の一瞬へと橋になることもある。橋の形をしている写真。それを撮りたい、と茜の目は言っていた。

 夜。机にノートを開く。今日の欄に、ラップと気温と心拍と、書けることを書き込む。
『五千 92,93,92,93,93,94,94,94,94,95,95,94 18:5X PB 終盤穴浅く 拍拾えた 呼吸細い』
 数字の列は、今日の一日を静かに固定する。固定されたものは、明日に渡せる。
 ページの端に、小さく加える。
『襷=過去の重さ → 未来の形』
 矢印は細い。細いけれど、方向を持つ。方向があるものは、迷子になりにくい。

 窓を少し開ける。夜風が、昼間より優しく頬に触れる。遠くで、踏切の音が二度鳴った。カン、カン。去年の夏、あの音の下で立ち尽くしたことを思い出す。立ち尽くすしかなかった自分に、いまは少しだけ言いたいことがある。歩くな、とか、走れ、とか、そういう強い言葉ではなくて。
 ――続けよう。
 薄い声で、薄い文字で。
 薄くても、書き足し続ければ、濃くなる。

 目を閉じる直前、耳の奥で、坂上の声が再生される。
『刻め。怖さは数になる。駅伝は最後に立っているやつが強い』
 そして、茜の、写真をシャッターで留める小さな音。
 パン。
 布の手触り。
 明日、白線は今日より一歩、近い。
 襷は、過去ではなく、未来の重さで肩に載る。
 その重さを、持てるだけ持って、渡せるところまで運ぶ。
 それが、今日の予選で、悠真が受け取ったルールだった。