合宿所の玄関を出た瞬間、空気がひとつ薄くなった気がした。標高のせいだ。肺の内側にもう一枚、透明な膜が張られて、呼吸の奥にかすかな抵抗が生まれる。林道は合宿所の裏からすぐ始まって、朝の光にぬれている。針葉樹の匂いは甘く、土は夜露を残して柔らかい。遠くで沢の水音が続いて、風の向きによっては鳥の声が二重に聞こえた。

 坂上は、キャップの庇をまっすぐに、ホワイトボードの代わりに手のひらに書いた今日のメニューを短く読み上げた。
「クロカン二十。補給は四、八、十二、十六。塩は三。心拍は上がる。上がるからといって焦るな。焦れば、歩く。歩くな。歩いた癖は冬に出る」

 数字が、朝の空気に小さく刺さっていく。二十。四の倍数で区切られる距離は、楽ではないが、見通しは利く。見通しが利く分だけ、怖さに名前が付く。

 主将の宮内が、腰に手を当てて短く伸びをする。彼の動きには無駄がない。上半身の重みを骨盤で受ける、という言葉の意味は難しいのに、宮内を見ていると「こういうことだ」と体が先に理解する。
 エースの高岡は、右足首を一度ぐるりと回して、テーピングの端を指で押さえた。白が朝の光で少し眩しい。彼は笑わないでも明るい。明るさは、削られた無駄の光沢だ。

 遥はザックのポケットから小袋を取り出して、全員に配る。塩とブドウ糖のタブレット。包み紙のカサリという音が、山に吸い込まれて静かになる。
「四キロごと、忘れないでね。合図するから」
 彼女の声はいつも一定で、焦りを削ぐ。

 茜は、クリップボードを胸に抱え、林道の入口の白い杭の外に立った。杭は境界線だ。茜は内側へ入らない。だけど、内側を見る目はまっすぐだ。首からかけたカメラのストラップに、薄い青い布切れ――颯真の襷の一部――が結ばれている。布は風でふわりと揺れ、陽を吸って色をやわらげた。

「行くぞ。最初の上りで脚を使い切るな。呼吸を小さく速く。腹圧を先に作れ」
 坂上が短く言って、腕時計のボタンを押す。その動作が号砲の代わりになる。

 走り出すと、最初の百メートルで肺が声を上げた。空気は冷たいのに、喉の奥が火照る。林道はすぐに傾斜を増し、土の表面に浮いた小石が靴底に当たってカツ、カツと乾いた音を立てる。朝の影は長く、木々の間にひとつおきの黒い帯を作っていた。

 悠真は、上りで遅れた。ピッチは拾えても、歩幅が詰まる。腹圧は意識しているのに、上体が前に倒れようとすると腰が鳴く。背中の奥に小さな錘。呼吸は吸って、吐いて、吐く――の三拍では足りない。吸う前に、肺がもう吸いたいと泣き言を言う。

 四キロの給水ポイント。林道脇の木杭に赤いテープが巻かれ、遥が紙コップを並べて待っていた。汗が塩に変わりはじめて、口の中は金属の味だ。
「一口でいいよ、喉だけ濡らして」
 遥の言葉はいつも正確だ。悠真は頷いて、口の中を一度だけ流す。塩のタブレットを舌に載せると、唾液が戻ってきて、体の地図が一枚更新される。

 そこからの上りがきつかった。道はヘアピンで折れて、折れるたびに勾配が少し増す。コーナーの外側の土は柔らかく、内側は硬い。硬いほうを選ぶと足裏が痛み、柔らかいほうを選ぶと踏み返しで力が逃げる。どっちでも痛い。痛みは選べるが、どれも友好的ではない。

 八キロの手前で、悠真の肩が上がった。視線が近くなる。木の根の間に目を置いて足を置く。置く場所が半歩ずれると、膝が悲鳴を上げる。
 ふいに、肩に衝撃が来た。横から押される。宮内だ。
「歩くな」

 押し戻された勢いで、足が二歩、勝手に出た。
「歩いた癖は冬に出る」
 言葉は短い。短い言葉は、逃げ道をくれない。
 宮内は前に戻り、一定のピッチで道の蛇腹をほどいていく。その背中に合わせる。合わせる、と決める。合わせられるかどうかは、そのあとに来る。

 九キロで、茜の細い手拍子が林の奥から聞こえた。トラックじゃないのに、音はちゃんと届く。木々の間で跳ね返って、拍は二重になって胸に落ちた。
 悠真は、腹圧をもう一段強くし、骨盤の前を意識して踵を捨てる。ミッドで拾う。拾うたび、腿の裏の筋肉が短く悲鳴を上げる。悲鳴は生きている証拠だ。沈黙より、ましだ。

 八から十二の区間は、起伏が細かく続いた。ピークで脚が止まりかけ、下りで無理に回復させると、次の上りが倍で返ってくる。返ってくる、と分かっても、体は目先の楽を取る。楽は罠だと知りながら、罠に足を掛けない技術はまだない。
 脚の前に、見えない手すりが一本あればいいのに、と思う。手すりの代わりに、茜の拍と、宮内の短い背中の傾きがある。遥の「はい、塩!」という声が、折り返しの鈴のように鳴る。坂上の「呼吸を先に整えろ。足はあと!」という低い指示が、道の下から響く。

 十二キロの補給で、遥が紙コップの底を指でつまんで渡してくる。落とすと拾えない傾斜だ。
「危ない」
 遥の指と悠真の指が二秒だけ触れて、すぐ離れる。紙コップの水はぬるい。ぬるいほうが内臓にやさしい。わかっていても冷たいほうが恋しい。恋しい方角に目を向けないのは、今日の約束だ。

 ここから先が、山の本体だった。勾配はゆるく見えるのに、脚は鉛になる。空気は濃く見えるのに、肺は薄い。目は木の灯りを拾い、耳は沢の音を拾う。拾うものが多いのに、体が拾いきれない。
 十五キロの手前で、高岡が足首を一度、強く回した。顔は変わらない。だが、そこにほんのわずかな影が走る。影は、本人より先にチームが拾う。拾った影は、胸の奥のどこかで沈殿する。沈殿物は重い。重いものは、冬まで持っていくしかない。

 十六キロの補給。タブレットを噛む。舌にしょっぱさが広がる。茜の拍が、少し近い。杭の外の白い杭のきわで、彼女は手を叩いていた。叩くたび、ストラップの布切れが小さく揺れる。
 遥が声を張る。
「あと四!」

 あと、という言葉は、優しい。言いかえれば、まだ、でもある。まだ四。正確な残酷は、救いに近い。

 上りで、悠真はまた遅れた。腰の奥で火が上がる。肺の内側の透明な膜が、さらに厚くなった気がした。
 歩きたい。
 歩けば、脚は喜ぶ。呼吸も喜ぶ。頭も、少しだけ楽になる。
 歩くな。
 坂上の声、宮内の肩、茜の拍、遥の「あと四」の数字。そこに、颯真の笑い声の残像が混じる。
 歩くな。歩いた癖は冬に出る。
 冬は遠いのに、今日の一歩が冬に届く。遠い場所に届く一歩なんて、生き物じみていて気味が悪い。だが、生きて届くものを、いま殺すわけにはいかない。

 十九キロ。林道は一度だけ開けて、空が近くなった。視界の端で、山の稜線が薄い青で重なる。遠くの青は、どんな季節も少し冷たい。
 最後の上りが、林の影の中に口を開けている。口は黒くて深い。そこへ、ピッチを押し込む。百八十。百八十。耳の奥のメトロノームは、山では頼りない楽器なのに、それでも拍を刻む。
 足が前へ出るというより、地面のほうがわずかに自分の下へ滑ってくる。滑る方向と、押す方向が一致した瞬間だけ、進む。進む、といえるほどの速度ではない。だが、止まっていない。

 ゴールの白線は、グラウンドのものより薄かった。林道の砂で曖昧になっていて、誰かが上から石灰をひと掴み、指で延ばして描き直した跡がある。
 最後尾で、悠真は白線をまたいだ。脳が遅れて「着いた」と言った。足は、先に理解している。
 坂上が、親指を立てた。派手じゃない、小さな角度。けれど、その角度は、「見ていた」を含んでいる。見られていた走りは、嘘の割合が少ない。

 息が荒くて、言葉が出ない。喉の奥は乾いているのに、どこか湿っている。汗と沢の風の水分が、皮膚の上で混ざり合って塩の結晶を作る。首筋に指を当てると、粒が二つ三つ、触れた。
 茜が紙コップを差し出した。目は少し赤い。彼女も走ってはいないのに、呼吸が速い。
「歩かなかった」
 悠真がやっとのことで言うと、茜はうなずいた。
「うん。見てた」
 見ていた、という言葉は、救いだ。褒められるより、ずっと救う。

 遥がタオルを配りながら、宮内の肩を軽く叩いた。
「おつかれ、主将。押しが上手い」
 宮内は少しだけ笑った。笑いの角度は浅い。浅い笑いは、長く残る。

 解散の前、坂上は全員を集めて短く言った。
「今日の『歩かない』は、冬の一秒になる。冬の一秒は、襷になる。襷は、最後に立っているやつに渡る。……風呂、十五分。飯、三十分。寝ろ」

 山の暮れ方は早い。合宿所の食堂に入ると、白い湯気が一斉に立って、味噌と焼き魚の匂いが体の奥に届いた。塩をかけたトマトが皿にのり、米は少し硬めだ。米を咀嚼するたび、脚の筋肉がわずかに緩む。食べることは、明日のための補強だと、やっと体が認めはじめた。

 風呂から上がると、日がすでに山の向こうへ落ちて、窓の外は薄い藍色になっていた。廊下の壁には、前年度の合宿写真が何枚か貼ってあり、笑っている顔の中に、同じ色の悔しさが層になって見えた。笑顔は表面だけれど、層は写真の裏にも続く。

 夜。虫の声が、合宿所の壁を薄い膜のように包んでいた。窓を少しだけ開けると、草の匂いもいっしょに入ってくる。部屋の照明は落とされ、ベッドの下から誰かのスパイク袋が覗く。
 ベランダに出ると、遥がベンチに座って空を見ていた。
「眠れない?」
 悠真が聞くと、遥は肩をすくめた。
「眠れるけど、しばらくは起きてたい気分」

「明日も二十だよ」
「知ってる。でも、今夜しか話せない話ってあるでしょ」

 彼女は言い、少し間を置いてから続けた。
「宮内、知ってる? 一年の冬、都大路、補欠で泣いたって」

 風がやわらかく動いた。虫の声の層が少しだけ厚くなる。
「主将が?」
「うん。最後の最後で落ちて、補欠。出発の日、バス停の影で、コートの襟に顔を押しつけてた。声は出してなくて、ただ、肩だけ少し揺れてたって。先輩が言ってた」
 遥は空を見上げた。星はまばらで、山の端のほうにだけ白い線が細く流れている。
「チームって、そういう層が重なってる。悔しさの層。勝った年も、負けた年も、層は残る。厚くなる。だから、いま歩かないのは、今年のためだけじゃないの。去年のためでも、来年のためでもある」

 言葉は静かで、夜に馴染んだ。
 悠真は、手すりに肘を置いた。木の感触が冷たい。
「……歩かない」
「歩かない」
 遥は繰り返した。「手が届くところに手すりがないときは、隣の人の背中が手すりになる。今日は、宮内の背中だった。明日は、たぶん、誰かの手拍子」

 廊下の向こうで、笑い声が一度だけ上がって、すぐ消えた。消えたあとの静けさは、厚みが増していた。
「寝なよ」
 遥が言って、ベンチから立ち上がる。「塩、枕元に置いときな。夜中、脚、攣るから」
「ありがとう」
「どういたしまして」

 部屋に戻ると、茜が布団の上でノートを開いていた。ページの上の欄に「距離/心拍/補給/気温」と書き、欄外に小さく「歩かなかった」と書き足す。
「今日、よかったよ」
 茜は顔を上げずに言う。「最後尾でもよかった。歩かないって、今日の正解だった」
「ありがとう」
 悠真は、ベッドに腰を下ろし、脚を伸ばす。ふくらはぎの裏に指を押し当てると、紙みたいにピンと張っている。紙は破れやすいが、折り目をつければ強くなる。折り目は今日ついた。

「明日、また叩くね」
「頼む」
 灯りを落とす前、茜はカメラのストラップの布切れを指先でなぞった。指が触れるたびに、布は小さく温度を変える。
 窓の外で、虫の声が続く。続く音は、眠りを手伝う。

 夜半、脚が攣りかけて目が覚めた。遥の言葉を思い出して、塩をひとかけ舌に載せ、水を少し飲む。痛みは石のように固く、少しずつ丸くなる。丸くなれば、転がせる。転がせば、朝へ向かう。

 夜明け。空は藍から灰色へ、灰色から薄金色へ、色を変える練習をしていた。
 外へ出ると、山は昨日と同じで、昨日とは少し違う顔をしている。違うのは、こちらの目だ。目は今日の走り方を知らない。知らないけれど、昨日の「歩かない」が、まだ体に残っている。

 朝食の前に、坂上が短くミーティングをした。
「今日は昨日と同じ二十。ただし、ラスト三で上げる。上げると言っても、上げようとするな。崩さないで、勝手に上がるのが理想だ。……忘れるな。歩くな」

 林道に入ると、空気がやはり薄い。だが、薄さの質が違う。体が、少しだけ慣れている。
 四キロ。八キロ。十二。十六。数字は昨日よりも、体の奥に小さく並ぶ。並ぶこと自体が救いだ。並べられるのは、呼吸が拾えている証拠だ。

 最後の三キロ。上げる区間。
 上げる、と決めると、体はすぐに拒否する。拒否に合わせて、呼吸の拍を一段速くする。速くしても雑にしない。細く、長く。腹圧を先に作り、骨盤を前に滑らせ、踵を捨てる。
 悠真は、前の背中をひとつ、またひとつ、視界の端から真ん中へ移した。抜く、という表現は派手だ。今はただ、並ぶ。並んで半歩前へ出る。半歩は数字にならない。だが、半歩は風の当たり方を変える。

 最後の直線手前で、足首の白いテーピングが一度、影になった。高岡の右足だ。彼は顔色ひとつ変えない。変えないのに、その無表情の奥に、薄い不安の輪郭が浮かぶ。
 悠真は、自分の視線を五メートル先に戻した。いま拾うべきものを拾う。拾いきれないものは、さわらない。さわれば、こぼす。

 ゴール。
 白い線は、昨日よりもはっきりしていた。誰かが夜の間に描き直したのかもしれない。線は、曖昧さを嫌う。嫌うからこそ、越える人間に曖昧さを許さない。
 悠真は、最後尾のひとつ手前で線を踏んだ。昨日より半歩、前にいた。半歩は数字にならない。それでも、胸の奥の火は昨日よりも静かに強かった。

 坂上がまた、親指を立てた。
「よし。……歩かなかったな」
「はい」
「それが、冬の一秒だ」

 うなずいたとき、山の風が少し強く吹いた。木々の葉がざわざわと鳴り、茜のストラップの布切れが大きく揺れる。その揺れの中で、高岡がふいに足首の上を押さえた。
 彼はすぐ手を離し、視線を上げる。笑いもしないし、しかめもしない。宮内が一瞬、横目でそれを見た。遥の指が、ポケットの中のテーピングに触れる。坂上は何も言わない。言わないことが、最初の診断になるときがある。

 山の影はまだ長い。長い影の中で、チームは呼吸を整える。
 歩かない、という小さな誓いは、昨日より厚みを持って、胸の奥に重なった。重なる層は、冬へ伸びる。伸びた先に、白い道と、いくつもの手が見える。
 その手に、自分の襷を渡す日まで――山は、歩かせない。