春の朝は、期待のにおいがした。湿った芝と、ゴムのトラックと、まだ鳴らされていないスターターの火薬の匂い。空は薄く白く、太陽は雲の膜の向こうで機嫌をうかがっている。会場は、市の陸上競技場。背の低いフェンスがぐるりと周囲を囲み、外周のベンチには色とりどりのジャージが重なっていた。

 受付に向かう悠真の肩に、スポーツバッグの紐が食い込む。ゼッケンに印字された数字は、いつもより濃く見えた。遥が「ピン、四つ」と笑って渡す。ピンの銀色が、朝の光で小さく光った。
「心拍、今日はレースだけど、入れとくね。スタート前と、フィニッシュ直後」

 坂上は、いつもの曲がらないキャップをまっすぐ被り、ホワイトボードを脇に抱えていた。黒いマーカーの字で、5000mのラップ予定が刻まれている。
――一周 92~93 秒。三千まで刻む。以降は、呼吸で合わせる。
 呼吸で合わせる。文字は軽く見えるのに、意味は重い。肩甲骨の内側に、見えない重しが載せられた気がした。

 ストレートの端で、主将の宮内が静かに脚を回している。無駄のない円運動。重心の置きどころだけで、ここまで人の立ち姿は変わるのかと思う。エースの高岡は、軽口を叩くでもなく、黙ってスタートラインを眺めていた。足首のテープの白が目に残る。
 茜はフェンスの外側にいた。首から下げたカメラのストラップに、薄い青の布切れ――颯真の襷の一部――が結びつけてある。彼女はトラックの内側へは入らない。だが目は、誰よりも中を見ている目だった。

「及川」
 坂上に呼ばれ、悠真は近づく。
「怖いか?」
「……はい」
「怖いなら、刻め。刻めば、怖さは数になる。数は、呼吸で割れる」
 短い言葉ほど逃げ場がない。逃げ場がないとき、人は立つしかない。

 スタートコール。コースに整列した選手の背中が、同じ方向を向く。空気の粒が細かく震え、スタンドのざわめきが一度、低くなる。スターターが銃を掲げ、手首が小さく捻られる。
 パン、と音がなり、世界が細くなる。脚が勝手に前へ出る。足音が重なって、やがて分かれていく。最初の直線で、悠真は速すぎないことだけを考えていた。速すぎれば後で払うことになる。借金は、酸で来る。

 一周目、遅すぎず、速すぎず。腕を胴体の近くに置き、肘の角度は一定。腹圧、忘れるな。腰、落とすな。メトロノームは頭の奥。百八十。百八十。砂の貼りついたゴムが、靴底に小さな音を刻む。
 遥の声が、外レーンから。
「92!」
 よし、と坂上の低い声がかすかに響く。

 二周目。呼吸が少し浅くなる。肩の力が上がる前に、意識して首の後ろに余白を作る。視線は五メートル先。足もとを見ると、怖さが増す。五メートル先を見ると、怖さは減る。
「93!」
 合っている。合っていることが、こんなにも心を支えるとは知らなかった。

 三周目、四周目。集団は少しずつほどけて、同じ速さの列が斜めに伸びる。先頭のスパイクの刃が小さく光る。高岡は二つ前の列。肩のリズムが良い。宮内は一定の顔で、風を削っている。
 五周目。時計の数字はまだ味方だ。
「92、93、93、92、93」
 遥が並べる数字は、今日一日の温度のようだ。整っていることが、静かに熱を生む。

 六周目で、息の縁が少しざらついた。喉の奥が金属の味に変わる前兆。酸の使者が遠くから走ってくる気配。半周ごとに足裏の感触が変わる。コーナーの出口で一瞬、視界が狭くなる。
 茜の手が、フェンスの外で静かに鳴った。パン。パン。パン。昨日までの練習で刻んだテンポが、遠くから戻ってくる。拍に足を載せろ。拍に運ばれろ。自分で走るな。
「93!」
 数字はまだ、崩れていない。

 七周目、八周目。三千メートルのラインが近づく。ここまでが予定どおり、ここからが未知。体は知っている。ここから先を知らないということを。知らない場所に足を踏み入れるとき、目は前にあるのに、心は後ろを振り返りたがる。
 三千通過。
「11分33!」
 坂上の声が地面を這って届く。いい、刻め、と短く続く。
 胸の中の壁が、まだ小さい。小さいうちに割れば、破片は踏んでも走れる。大きくしてから割ると、貫かれる。

 九周目。直線で、風が少し顔に当たる。頬の皮膚が冷たくなる。肩の上下を抑え、腕振りを細くする。足の回転を拍に預ける。
 十周目。脚の付け根が重くなる。ふくらはぎが針で刺されたみたいにむず痒く、太腿の奥で火が上がる。
 ――ここからだ。
 自分の奥の声が、小さく言う。
 コーナーに入る前、茜の手拍子が一度だけ強く鳴った。パン。静かな会釈みたいな音。胸の中心に小さな穴が開く。恐れはそこから出ていく。代わりに何が入ってきたのかは、まだわからない。

 十周と半。鐘は鳴らない。5000mに鐘はない。けれど、体のどこかで見えない鐘が鳴る。――ラスト二周。
 足が、止まりかけた。
 止まる、までいかない。止まりかける、だ。だが、止まりかけるは、止まるの予告編だ。
 酸が、壁になって出てくる。喉の奥に鉄の味。肺の中に目に見えない霧。腕が、急に重くなる。肘が外へ逃げ、肩が持ち上がる。視界が近くなる。
 遥の声が遠い。
「94……95!」
 数字が一の位を変えるだけで、世界の色が変わる。薄い灰が一段、濃くなる。

 コーナーの途中で、足が一度、地面を踏み損ねた。踏み損ねたというほどでもない。接地の場所がほんの少し前になり、ほんの少しだけブレーキが強くなる。その少しが、全体を塗り替える。
 ――怖い。
 ようやく出てきた言葉は、幼い。けれど、幼い言葉ほど、正しい。
 前を行く二人の背中に、距離ができる。詰めようと腕を振る。振った腕が、空気に戻される。膝が上がらない。上げるのではなく、置く、と頭では言っているのに、体は置けない。置けなければ、前傾はただの前のめりで、進みにならない。

 十一周目。ラップは崩れ、音の中で自分だけが外れている感覚になる。音楽室で合唱が始まって、自分の声だけが違う音階で鳴っているみたいな、居心地の悪さ。
 茜の拍は続いている。それでも。続いている音が、今は痛い。うまく乗れない拍は、足もとを掬う。
「96!」
 遥の数字が、刃物の背のように、鈍く刺さる。

 ラスト一周。
 穴が開く。
 「穴」という言葉に、こんなに物理の質感があるとは思わなかった。目の前のトラックが、急に薄くなり、ゴムと砂の間に空隙が生まれる。そこに足が落ちる。落ちるたびに、力が抜ける。抜けた力は、戻ってこない。
 コーナーの入口で、高岡の声が飛ぶ。
「最後まで怖がるな!」
 声は届く。届くが、体が従わない。怖がるな、と言われると、怖がっていることが可視化される。可視化は大事だが、今は重い。

 直線。
 スタンドのざわめきが少し増す。誰かの名前が呼ばれる。自分ではない。
 腕を振れ。腹圧。呼吸。吸って、吐いて、吐く。
 吸えなくなる。吐くのに使う筋肉が、吸うのを邪魔する。
 最後の百で、白線が遠くなる。足の指先で地面を掴む、という言葉の意味がわからない。掴みたいのに、掴めない。
 フィニッシュ。
 体が止まらない。止め方がわからない。止めた瞬間、胃の奥が短く跳ねた。足がふらつき、コース外へ出る。手を膝につき、喉の奥をこすった。こすると、出る。
 酸っぱい、浅い、色のないもの。芝に落ちる音は小さいのに、世界は大きく揺れた。

 肩にタオルが掛けられる。茜だ。彼女の手はいつもより冷たい。汗で冷えたのか、心が震えたのか。たぶん両方だ。
「水、少しずつ」
 遥の声。紙コップが口元に来る。喉を通る水は、体の地図を描き直す。
 高岡がしゃがんで、視線を合わせる。息が上がっているのに、目は笑わない。
「最後まで怖がるな」
 さっきの言葉を繰り返す。けれど、声の温度はさっきよりも低く、落ち着いている。
 悠真は、首を横に振った。
「……怖いです」
 正直に言葉が出たことが、自分でも意外だった。カッコつける余裕が、どこにもなかった。
 高岡は短く息を吐き、「そうか」とだけ言う。責めない。責めない沈黙は、責められる沈黙より重いときがある。

 茜がタオルの端で、悠真の額の汗を拭く。
「颯真も、止まったよ」
 小さな声だった。
「一年の春、同じところ。ラスト、二周。怖くて、途中で視界が近くなって、肩が上がって、吐いて、泣いて、『やめたい』って言った。……でも、次に走ったとき、ちゃんと最後まで行った」
 言葉は、昨日の自分に向けて書いた手紙のように静かだった。
 ――自分だけじゃない。
 頭ではわかっていたつもりの事実が、ようやく体に届く。届くと、少し楽になる。
「大丈夫」
 茜の手が背に回る。大丈夫の手。手のひらの温度が、背骨に沿って降りる。降りた温度が、腹の奥に溜まる。そこに、さっき失った力の一部が戻ってくる。

 遠くで、坂上の笛が鳴った。レースの整列を促す合図。時間は、個人の痛みを待ってくれない。待たないことで、人を立たせるときがある。
 宮内が近づいてきて、短く言った。
「お疲れ」
 たった四文字。四文字に、意味がいくつも折り畳まれている。畳まれた意味は軽くないが、持てる。

 計測結果がホワイトボードに貼り出される。高岡は上位。宮内は安定したライン。悠真の名前の横には、目を背けたくなる数字が並んだ。三千までのラップと、その後の落ち。最後の一周の穴。穴は数字にも残る。
 坂上がやって来る。キャップの庇の影で、目の色は読み取りにくい。
「吐けたな」
 非難ではなく、確認だった。
「……はい」
「いい。吐くほど走った。吐かずに悔しがるより、よほどいい」
 短い沈黙のあと、坂上は視線を競技場の中央へやった。芝生の緑は、薄い。
「駅伝はな」
 言い淀みはなく、ただ事実を述べるテンポで。
「最後に立っているやつが強い」
 強い、という言葉が、声帯の奥で硬く響く。
「今日、倒れてもいい。吐いてもいい。怖がってもいい。だが、最後に立て。立っていれば、次の襷を受けられる」
 視線が、悠真の額に、喉に、胸に、順に落ちる。生きていることの確認のように。
「次の練習で、最後に立て」

 言葉は、胸の奥に杭のように打たれた。杭に、ロープが結ばれる。ロープは、今日の自分と、明日の自分を繋ぐ。

 競技場を出る頃には、空は朝より青かった。風は少し湿り気を帯び、Tシャツの背中に貼りつく。スタンドの影が長く伸び、フェンスの網目が地面に格子を描く。
 茜はフェンスの外側を歩く。悠真は内側のラインのぎりぎりを歩く。二人の歩幅は、言葉ほど正確ではないが、ずれてもまた戻る。
「悔しい?」
 茜が問う。
「……うん」
「よかった」
「よかった?」
「悔しさ、今日の分だけは、未来の支払いに回せるから」
 返ってきた言葉の形が、いつもより大人びていた。大人びた、という言葉は似合わないはずなのに、似合っていた。
「また、手、叩く」
「頼む」
 短い会話で、必要な橋は架かった。

 部室に戻ると、空気は少し涼しく、石鹸と汗の匂いが混ざっていた。遥がテーブルにスポーツドリンクを並べ、氷を落とす音が軽く響く。
「心拍、スタート前一一八、フィニッシュ直後一九四。……出し切った数字。はい、これ、ミネラル」
 差し出された小袋を受け取り、口に含む。しょっぱさが舌に広がり、頭の奥の霞が少しだけ晴れる。

 着替えを終えた高岡が、袋の口紐を引き締めながら近づいてくる。
「今日の最後の二周、怖かったの、おれも知ってる」
 不意に告げられて、悠真は顔を上げる。
「一年の春、俺も穴に落ちた。あれは、慣れるまでみんな落ちる。避けられない。避け方を覚えるんじゃなくて、落ちてからどう這い上がるかを覚える」
 高岡は、それきり何も言わず、ベンチに腰を下ろした。テーピングの端を指でつまみ、丁寧に剥がしていく。その手つきが、言葉以上だった。

 帰り道の風景は、行きと同じなのに、少し違う。看板の文字がいつもより鮮やかに見える。身体のどこかが削られて、視界の余計な曇りが取れたような感覚。削られた部分は痛い。だが、痛みだけが本物だという顔をしている。

 夜。机の上にノートを広げる。練習表の隣に、今日だけの欄を作る。ラップを書き写す手が、一度止まる。止まるのは、手ではなく、心だ。
 ペン先を、静かに紙に落とす。
『三千まで刻む。四周目まで、呼吸、拾えた。十周目、視界、近くなる。十周半、穴。十一周、酸。最後、吐く。悔しい。』
 そこまで書いて、また止まる。
 何を書けば、今日が今日のままで終わらずに、明日に繋がるだろう。
 遅い字で、続ける。
『怖いのは、止まることじゃなく、止まった自分を嫌いになること。』
 文字にした瞬間、胸の奥の空洞に、ひとつ小石が置かれる。小石は軽いが、転がらない。重さは、後から来る。

 ノートの端に、もう一行。
『明日、最後に立つ。』
 たったそれだけ。だが、杭に結んだロープが、たしかに張りを増す。

 ベッドに横になる前に、窓を少し開ける。夜の空気は昼より柔らかく、遠くの踏切の音が薄く届く。カン、カン、と淡い金属音。去年の夏、あの音の下で何度も立ち止まった気がした。立ち止まって、怖さに名前をつけられなかった。
 今は、少なくとも名前がある。穴、酸、怖さ。名前は、対処の最初の手すりだ。

 目を閉じる。
 耳の奥で、メトロノームが薄く鳴る。百八十。百八十。
 坂上の言葉が、遠くの拡声器みたいに静かに再生される。
 ――駅伝は最後に立っているやつが強い。
 胸の奥で、小さな火がつく。火は派手ではない。マッチの先にちろりと灯るくらい。だが、布に移れば、やがて燃える。

 茜の手拍子の音が、眠りの縁で鳴った。パン。パン。パン。
 拍に足を載せる夢を見ながら、悠真はゆっくりと眠りに落ちた。
 明日の白線は、今日より近い。近い、と信じる力だけは、穴に落ちない。