昼過ぎのグラウンドは、遠くの校舎の窓ガラスを小さくきらめかせていた。風は弱い。砂は乾いて、白線は朝よりも薄い。空の青さはまだ春の手前で、色数を抑えたパレットみたいに簡素だ。
部室の片隅、砂埃のついたモニタの前に、数人が半円をつくっていた。坂上がリモコンを押すと、ノイズとともに映像が動き始める。
画面の中で、悠真が走っていた。昨日の放課後に撮ったフォームチェックだ。
彼の身体は上へ下へ忙しく揺れ、接地のたびに膝が前へ伸びて、踵で地面を強く叩く。叩く音がそのままブレーキの音になって、画面越しにも聞こえてくる気がした。腕は外へ逃げ、肩は力んで、視線は足もとに落ちている。
「ほら、ここ」
坂上は画面に指を伸ばし、再生を一瞬止める。「接地が体の真下に来る前に踵が先に降りてる。これだと毎歩、減速する。上下動も大きい。腰が落ちてるぶん、脚だけで押してる」
言葉に怒気はない。けれど、小さな誤差を誤差のまま許さない硬さがある。
宮内は黙って頷き、高岡は腕を組んだまま映像と実物の悠真を見比べている。遥は手元のノートに「上下動・接地・視線」と書き込み、斜線で強調した。茜はフェンスの外から、その半円の背中だけを見ていた。ドア枠に寄りかかる姿勢は、内側に入ろうとすればいつでも入れる距離なのに、線をまたがないことを選んでいる。
「ピッチを上げる。振り出しじゃなくて、回転で出す」
坂上は机の引き出しから小さなメトロノームを取り出した。黒いプラスチックの身が、手の中でコトリと鳴る。「一分間に百八十。耳に刻め。耳で刻めば、足はついてくる」
メトロノームが鳴る。カチ、カチ、カチと乾いた拍。室内の湿度がその音だけで整列していくようだ。
「今日はピッチ走。百メートル×二十。レストは十分。上体は起こしすぎず、腹圧で支える。ハムと尻で押す。踵は捨てろ。ミッドで拾う。言葉は分からなくていい。体に覚えさせる」
言われた単語は、初めて触る工具の名前みたいにどれも手になじまなかった。腹圧、ハム、ミッド。触ったことのない筋肉や感覚は、最初、手触りがない。
それでも、やる。やれば触れる日が来る。触れれば、わずかずつだが、形になる。
外へ出ると、風の匂いが変わっていた。午前より少し甘い。遥が周回板をしまい、代わりにメモリのついた小さな計測器を首から下げる。「心拍、撮るから。通過したら左手で合図して」
彼女はいつもの笑顔だ。笑顔の角度は安定していて、走る者の緊張を少しだけ削る。
茜はクリップボードを抱えて、フェンスの外に立った。紙には「距離/ラップ/心拍」と欄が引いてあり、冒頭に日付、気温、風向きまで書かれている。几帳面な字だ。彼女は視線を落とし、ペン先を軽く噛んでから、顔を上げる。「準備、いい?」
問いはフェンスの隙間からまっすぐ来たが、その足はやはり白線の内側を踏まない。
坂上の笛が短く鳴った。
「百、二十本。止まらない。呼吸は短く、細く。腕は胴体の近く。肘の角度を変えない。肩甲骨は、いまより二センチだけ後ろ」
ピッチ走が始まった。メトロノームのカチ音と、靴底が砂を拾って返すサッという薄い音が重なる。百メートルが、いつもより速く、短く伸びたり縮んだりする。
一本目、二本目はまだ形を探る。三本目で少し合いはじめ、四本目で呼吸が乱れる。五本目で胸の前に小さな壁ができ、六本目で壁が低くなり、七本目で壁がまた高くなる。体の内側で道が作り直されるたびに、呼吸の通りが違って感じられる。
「肘、肘!」
遥が合図する。悠真は肘を戻す。腕が広がると、足は外へ逃げる。身体は誤魔化せない。
九本目でピッチが落ちかけ、耳の中でメトロノームの音が薄まる。息の音が大きすぎて、耳に入っていないのかもしれない。十本目に入る前、坂上が手のひらで空気をたたく。「耳で拍を拾え。拍に足を載せろ。お前が走るんじゃない、拍に運ばれる」
言葉は比喩だが、比喩だけではなかった。メトロノームの乾いた拍に、足の指が小さく反応する瞬間がある。指が拾えば、足が拾う。足が拾えば、膝が遅れず、膝が遅れなければ、腰が落ちない。
十一、十二――背中に汗がたまる。十三、十四――腰の奥で見知らぬ筋肉が火花を散らす。十五、十六――呼吸の「吐く」が二回になって、少しだけ楽になる。十七――砂が口に入った。十八――目頭が熱くなる。十九――耳の奥で拍が太る。二十――最後の十メートルで肩が少し上がりかけ、意識して押し戻す。
完了の笛が鳴ると、足が遅れて止まった。遅れて止まるのは、拍に体を預けていた証拠だ、と坂上が言った。
「はい、補強。腹圧を先に作る。呼吸は鼻から吸って、口で細く吐く。背中を丸めるな。みぞおちの下、指四本ぶんの奥に、固い壁を作れ」
体育館の片隅で、マットの上に仰向けになる。鼻の奥が汗の匂いでいっぱいだ。膝を立てて、踵で床を押し、骨盤を軽く前傾させる。ゆっくり吸って、細く吐く。
坂上は言葉を減らし、指で示す。腹筋の上に手を置いて圧をかけ、息の流れで圧が逃げないことを確かめる。腸腰筋を、という言葉が出るたびに、腰のもっと内側に一本の弦を張るような意識を持つ。弦がゆるむと、足は前に投げ出され、骨盤が後傾する。弦を張れば、足は下へ押せる。押せば、進む。
「ハム。尻。前じゃなく、後ろで運ぶ」
スライドボードでハムストリングを焼き、ブリッジで尻を起こす。二十回の十セット。回数の数字が意味を失い、最後は形だけが正義になる。遥がカウントしてくれる声が救いだ。一定のリズムは、痛みを時間に変換する。
補強が終わると、メトロノームがまた鳴った。
「流し六本。いま作った腹圧、いま起こした尻、忘れるな。腰を前に運ぶ。骨盤を前に滑らせる。上体は置いていく。足じゃない。足は吊られてついてくる」
砂の上に、同じ幅の影が並ぶ。影のスピードが少しだけそろっている。遥がストップウォッチを押し、茜がクリップボードに数字を写す。彼女のペン先は迷わない。だが、足はまだ線の内側を踏まなかった。
*
放課後。部室が静かになった隙間を狙うように、悠真は机に広げたノートを開いた。表紙は擦り切れ、角は丸い。颯真の字が並ぶ。小さく、勢いのある字。ところどころ、汗の跡で滲んでいる。
『呼吸が合うと、世界が少し遅く見える』
『遅く見えると、怖くない。怖くないと、腕が小さくなる』
『腕が小さくなると、足の仕事が見える』
『足の仕事が見えると、前に落ちれる』
句読点の少ない、切れ目だらけの文章。それでも、息の切れ目はここだと伝えてくる。
ページを繰ると、メニューが記録されていた。距離、ペース、主観的運動強度、補強の回数。端の余白に小さく「茜ラップ」と書かれた箇所がある。茜が周回を読み上げた日の印だろう。
欄外に「手拍子、助かる」とあった。走りながらの字だからか、震えている。だが、その震えは、走る震えであって、不安の震えではない。
静かな部室に、メトロノームの残響がまだ落ちていた。耳の奥に、カチ、カチという拍が薄く続いている。
悠真はノートを閉じ、扉の向こうを見た。窓の外で、トラックは夕方の色に沈んで、白線だけが残光を拾っている。フェンスの外に、影がひとつ。茜だ。クリップボードを抱えたまま、白線の向こうを見ている。
「茜」
呼ぶと、彼女は少し驚いた顔でこちらを見た。
「ん?」
「頼みたいことがある。周回ごとに、合図をもらえないかな」
「合図?」
「うん。手拍子でも、何でもいい。ラップを、音で、もらいたい」
言葉にしてみると、ずっと喉にあった小さな棘が外れる感じがした。
茜は視線を白線に落とし、それから悠真の顔を見て、白線を再び見た。線の内側と外側。彼女の靴は外側にあって、つま先が砂を軽く削っていた。
「……うん。やる」
答えは短かったが、短い答えの後ろにいくつもの逡巡が畳まれているのがわかった。畳まれたままの逡巡は、軽くはない。けれど、持ちやすい形にはなっている。
「でも、私は内側には入らないから」
「外でいい。外の音で、走りたい」
茜はうなずいた。うなずきは翻訳だ。翻訳の精度が高いとき、人は少しだけ解放される。
*
夕練。空気が昼よりも柔らかく、砂は少し湿り気を取り戻す。メニューは「一千×五(イーブン)」。ピッチは百八十。ターゲットのラップは坂上の口から「四分十五」と低く落ちた。
遥がストップウォッチを二つ持ち、宮内が前に立つ。高岡は最後尾で「初手は抑えろ、二周目で整えろ」と短く言う。言いながら、自分の靴紐を確かめる。彼の紐はいつ見ても適切な長さで、ほどけない。
スタートの合図は笛一つ。風は正面からではないが、コーナーで頬に当たる。呼吸はすぐに浅くなる。百メートルごとに砂の表情がわずかに変わるのが足裏でわかる。
一周目、茜の手拍子が遠くで一度鳴った。パン、という乾いた音。二周目、同じ音が少し近くなる。三周目、拍が二つに増え、四周目、拍が三つ、最後の直線、拍が四つ。
数ではない。テンポだ。テンポは呼吸の線に沿って並ぶ。吸って、吐いて、吐く。その三拍目のすぐあとに、茜の手が鳴る。手と手の間に薄い空気がつぶれて、音になる。その音は、こちらの肺の奥で別の音に変換される。拍に、足が載る。足に、体が載る。
一本目のラップは四分十三。坂上の目が細くなる。
「二は抑えろ。欲張るな。ラップは畑だ。荒らすな。均せ」
二本目。ピッチ感は一度崩れかけ、コーナー出口で視線が落ちる。落ちれば肩が上がる。上がれば腕が広がる。広がれば足が外へ逃げる。逃げた足を呼び戻すように、腹圧を少しだけ強くする。みぞおちの下に壁。壁に、呼吸を当てる。
茜の拍は一定だった。一定のものは、裏切らない。裏切らないものが一つでもあれば、他の不安定に耐えられる。ラップは四分十五。均せた。
三本目の二周目で、わずかに耳鳴りがする。世界が細くなり始める。細い世界は視界の端を削り、真ん中だけを残す。残った真ん中のさらに真ん中に、白い線が一本通る。そこに足を置く。置く、という言葉を選ぶと、走りの質が少しだけ変わる。運ぶ、ではなく、置く。
ラップ、四分十四。遥が親指を立てる。汗が光る。親指の爪に小さな欠けがあり、そこに砂が一粒くっついている。
四本目、腿の内側が悲鳴を上げる。坂上がコーナーで立ち、手の形だけで合図する。「上体、置け」。言葉にすると簡単だが、それは姿勢の詩のようなものだ。置く相手は空気だ。空気は目に見えないが、体には見える。
茜の拍が、ほんの少しだけ強くなる。強さを上げたというより、確信を足したような音だった。音の芯が太い。太い芯は、こちらの迷いに勝つ。ラップは四分十四。
最後の五本目。ふくらはぎが固まり、踵が地面を捕まえたがる。捕まえればブレーキだ、と頭でわかっていても、体は安全なほうを選ぼうとする。そこで拍。パン、パン、パン。
拍に背中を押される。押された、という表現は、便利すぎる。でも、便利な表現は、時に正しい。
最後の直線、腕を少しだけ速く振る。脚の回転が自然に追いかける。視界の端がまた少し広がる。世界が、遅くなった。遅くなった世界では、怖さが薄い。怖さが薄いと、勇気の形が見える。
フィニッシュ。四分十三。呼吸が喉の奥で跳ね、しばらく言葉にならない。
坂上は時計を見て、「よし」と一度だけ言った。
*
給水の紙コップは柔らかく、握ると小さくへこむ。水は温い。温い水は、今はありがたい。冷たすぎる水は体に嘘をつかせる。
茜がフェンス越しに近づき、クリップボードに視線を落とす。「一千、四・一三、四・一五、四・一四、四・一四、四・一三。心拍は……最後だけ一八七。うん、整ってる」
数字の列は、今日という一日の形だ。形は、置いておける。置いておける形は、明日に橋を架ける。
「手拍子、ありがと」
悠真が言うと、茜は首を横に振った。「こっちこそ。私も、少しだけ怖くなくなった」
「何が?」
「線が。内側に入る線が。……さっき、ほんのちょっとだけ、足が、ここに」
彼女はフェンスのポールのすぐ内側、白線の端に視線を落とした。つま先が、ぎりぎり触れたのだろう。触れたことは、触れた人しか知らない。知らないでいてもいいが、知っていると、次に触るのが少しだけ簡単になる。
遥がタオルと飴を配りながら笑う。「茜の拍、いいテンポ。録音しとこっか」
冗談めかした言葉に、茜は「やめて」と笑い返す。笑いは、走る前後で質が違う。走った後の笑いは、体温で少し湿っている。
坂上が近づいてきた。
「今日は、拍に乗れた。数字も嘘じゃない。だが、ここからは補強だ。腹圧が抜ければ、拍はすぐ流れる。支える筋肉は、祈りの基礎だ。祈りは、形がないようで、形を持っている。形を持っていない祈りは、風に飛ぶ」
祈り、という言葉を坂上が使うのは珍しかった。だが、その場にいた誰も、違和感を口にしなかった。
走る前に手を合わせることはない。ゴール後に空を仰ぐことはある。空は、祈りの受け皿みたいにそこにある。が、受け皿に載るものが空だと、何も残らない。筋肉に載せた祈りは、たぶん、残る。筋肉に残れば、拍に転写される。
「明日、ビデオ、また撮る」
坂上はリモコンを指で弾く。「上下動、二センチ、削れ。視線、五メートル先。接地、体の真下。腹圧、抜くな。ハム、忘れるな。尻で押せ。膝は勝手につく」
たくさんの命令が、やがて一つの指示になる瞬間がある。その瞬間までは、断片のまま覚えて、断片のまま繰り返すしかない。繰り返しは、愚かさに似ているが、愚かさはいつか形になる。
*
帰り道、風が柔らかかった。店先の旗がゆっくり揺れ、信号は慎重に色を変えた。
茜はカメラを首から提げ、悠真はスポーツバッグのベルトを肩に押し当てる。脚の内側が火照って痛む。心地よい、と言ってしまえるほどの余裕はないが、痛みが働いた印であることはわかる。
「颯真のノート、見た」
悠真が口を開く。「呼吸が合うと、世界が少し遅く見える、って」
「知ってる。私、書いた日に横にいたから」
茜は信号の赤の下で立ち止まり、遠くを見た。遠くは、ビルの輪郭で切り取られている。
「あの日、周回ごとに手を叩いてたの。私、リズムが下手だから、ずれてるかなって不安だったけど、颯真が『合わせるから、それでいい』って言って。……今日、少しだけ、あのときの音に似てた」
「似てた?」
「うん。遅くなる音。世界が遅くなる音」
遅くなる音。形のないものに形の名前を付けるとき、人は少しだけ勇敢だ。勇敢な命名は、体のどこかに保存される。
「明日も、お願いしていい?」
「もちろん」
返事は、今日いちばん軽かった。
*
夜、机にランプを点ける。光の輪が小さく、紙の上だけをあたためる。ノートを開く。今日のラップ、心拍、補強の回数、痛んだ部位、できたこと、できなかったこと。
『ピッチ、拾えた。二、三、四、五、均せた。腹圧、最後に抜けかけ。ハム、焼けた。尻、起きた。茜の拍、助かった。世界、少し遅い』
短い文は、嘘を持ちにくい。持ちにくい嘘は、未来の自分にとっての信用になる。
窓を少し開けると、夜の空気が入る。街路樹の葉がこすれる音が、遠くで小さく続いている。
机の端に置いたメトロノームを軽く叩く。カチ、カチ。リズムは変わらない。変わらないものを一つ持てることが、こんなにも安心するとは知らなかった。
ベッドに入る前に、軽く腹圧を作る。鼻から吸って、細く吐く。みぞおちの下に壁を意識する。壁の前に手を置き、手が前に動かないように力を配る。力は弱い。弱いが、昨日よりは強い。
目を閉じると、今日の白線がまぶたの裏に浮かぶ。白線は遠いが、昨日より近い。近い、という事実のほうを信じる。信じるほうが、眠れる。
眠りに落ちる直前、耳の奥で、誰かの笑い声がした。聞こえないはずの笑い声。振り向かない。前だけを見る。
音は前にある。前にある音だけが、明日の拍になる。
呼吸が合えば、世界は少し遅く見える。
遅く見える世界で、人は、歩かない。
部室の片隅、砂埃のついたモニタの前に、数人が半円をつくっていた。坂上がリモコンを押すと、ノイズとともに映像が動き始める。
画面の中で、悠真が走っていた。昨日の放課後に撮ったフォームチェックだ。
彼の身体は上へ下へ忙しく揺れ、接地のたびに膝が前へ伸びて、踵で地面を強く叩く。叩く音がそのままブレーキの音になって、画面越しにも聞こえてくる気がした。腕は外へ逃げ、肩は力んで、視線は足もとに落ちている。
「ほら、ここ」
坂上は画面に指を伸ばし、再生を一瞬止める。「接地が体の真下に来る前に踵が先に降りてる。これだと毎歩、減速する。上下動も大きい。腰が落ちてるぶん、脚だけで押してる」
言葉に怒気はない。けれど、小さな誤差を誤差のまま許さない硬さがある。
宮内は黙って頷き、高岡は腕を組んだまま映像と実物の悠真を見比べている。遥は手元のノートに「上下動・接地・視線」と書き込み、斜線で強調した。茜はフェンスの外から、その半円の背中だけを見ていた。ドア枠に寄りかかる姿勢は、内側に入ろうとすればいつでも入れる距離なのに、線をまたがないことを選んでいる。
「ピッチを上げる。振り出しじゃなくて、回転で出す」
坂上は机の引き出しから小さなメトロノームを取り出した。黒いプラスチックの身が、手の中でコトリと鳴る。「一分間に百八十。耳に刻め。耳で刻めば、足はついてくる」
メトロノームが鳴る。カチ、カチ、カチと乾いた拍。室内の湿度がその音だけで整列していくようだ。
「今日はピッチ走。百メートル×二十。レストは十分。上体は起こしすぎず、腹圧で支える。ハムと尻で押す。踵は捨てろ。ミッドで拾う。言葉は分からなくていい。体に覚えさせる」
言われた単語は、初めて触る工具の名前みたいにどれも手になじまなかった。腹圧、ハム、ミッド。触ったことのない筋肉や感覚は、最初、手触りがない。
それでも、やる。やれば触れる日が来る。触れれば、わずかずつだが、形になる。
外へ出ると、風の匂いが変わっていた。午前より少し甘い。遥が周回板をしまい、代わりにメモリのついた小さな計測器を首から下げる。「心拍、撮るから。通過したら左手で合図して」
彼女はいつもの笑顔だ。笑顔の角度は安定していて、走る者の緊張を少しだけ削る。
茜はクリップボードを抱えて、フェンスの外に立った。紙には「距離/ラップ/心拍」と欄が引いてあり、冒頭に日付、気温、風向きまで書かれている。几帳面な字だ。彼女は視線を落とし、ペン先を軽く噛んでから、顔を上げる。「準備、いい?」
問いはフェンスの隙間からまっすぐ来たが、その足はやはり白線の内側を踏まない。
坂上の笛が短く鳴った。
「百、二十本。止まらない。呼吸は短く、細く。腕は胴体の近く。肘の角度を変えない。肩甲骨は、いまより二センチだけ後ろ」
ピッチ走が始まった。メトロノームのカチ音と、靴底が砂を拾って返すサッという薄い音が重なる。百メートルが、いつもより速く、短く伸びたり縮んだりする。
一本目、二本目はまだ形を探る。三本目で少し合いはじめ、四本目で呼吸が乱れる。五本目で胸の前に小さな壁ができ、六本目で壁が低くなり、七本目で壁がまた高くなる。体の内側で道が作り直されるたびに、呼吸の通りが違って感じられる。
「肘、肘!」
遥が合図する。悠真は肘を戻す。腕が広がると、足は外へ逃げる。身体は誤魔化せない。
九本目でピッチが落ちかけ、耳の中でメトロノームの音が薄まる。息の音が大きすぎて、耳に入っていないのかもしれない。十本目に入る前、坂上が手のひらで空気をたたく。「耳で拍を拾え。拍に足を載せろ。お前が走るんじゃない、拍に運ばれる」
言葉は比喩だが、比喩だけではなかった。メトロノームの乾いた拍に、足の指が小さく反応する瞬間がある。指が拾えば、足が拾う。足が拾えば、膝が遅れず、膝が遅れなければ、腰が落ちない。
十一、十二――背中に汗がたまる。十三、十四――腰の奥で見知らぬ筋肉が火花を散らす。十五、十六――呼吸の「吐く」が二回になって、少しだけ楽になる。十七――砂が口に入った。十八――目頭が熱くなる。十九――耳の奥で拍が太る。二十――最後の十メートルで肩が少し上がりかけ、意識して押し戻す。
完了の笛が鳴ると、足が遅れて止まった。遅れて止まるのは、拍に体を預けていた証拠だ、と坂上が言った。
「はい、補強。腹圧を先に作る。呼吸は鼻から吸って、口で細く吐く。背中を丸めるな。みぞおちの下、指四本ぶんの奥に、固い壁を作れ」
体育館の片隅で、マットの上に仰向けになる。鼻の奥が汗の匂いでいっぱいだ。膝を立てて、踵で床を押し、骨盤を軽く前傾させる。ゆっくり吸って、細く吐く。
坂上は言葉を減らし、指で示す。腹筋の上に手を置いて圧をかけ、息の流れで圧が逃げないことを確かめる。腸腰筋を、という言葉が出るたびに、腰のもっと内側に一本の弦を張るような意識を持つ。弦がゆるむと、足は前に投げ出され、骨盤が後傾する。弦を張れば、足は下へ押せる。押せば、進む。
「ハム。尻。前じゃなく、後ろで運ぶ」
スライドボードでハムストリングを焼き、ブリッジで尻を起こす。二十回の十セット。回数の数字が意味を失い、最後は形だけが正義になる。遥がカウントしてくれる声が救いだ。一定のリズムは、痛みを時間に変換する。
補強が終わると、メトロノームがまた鳴った。
「流し六本。いま作った腹圧、いま起こした尻、忘れるな。腰を前に運ぶ。骨盤を前に滑らせる。上体は置いていく。足じゃない。足は吊られてついてくる」
砂の上に、同じ幅の影が並ぶ。影のスピードが少しだけそろっている。遥がストップウォッチを押し、茜がクリップボードに数字を写す。彼女のペン先は迷わない。だが、足はまだ線の内側を踏まなかった。
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放課後。部室が静かになった隙間を狙うように、悠真は机に広げたノートを開いた。表紙は擦り切れ、角は丸い。颯真の字が並ぶ。小さく、勢いのある字。ところどころ、汗の跡で滲んでいる。
『呼吸が合うと、世界が少し遅く見える』
『遅く見えると、怖くない。怖くないと、腕が小さくなる』
『腕が小さくなると、足の仕事が見える』
『足の仕事が見えると、前に落ちれる』
句読点の少ない、切れ目だらけの文章。それでも、息の切れ目はここだと伝えてくる。
ページを繰ると、メニューが記録されていた。距離、ペース、主観的運動強度、補強の回数。端の余白に小さく「茜ラップ」と書かれた箇所がある。茜が周回を読み上げた日の印だろう。
欄外に「手拍子、助かる」とあった。走りながらの字だからか、震えている。だが、その震えは、走る震えであって、不安の震えではない。
静かな部室に、メトロノームの残響がまだ落ちていた。耳の奥に、カチ、カチという拍が薄く続いている。
悠真はノートを閉じ、扉の向こうを見た。窓の外で、トラックは夕方の色に沈んで、白線だけが残光を拾っている。フェンスの外に、影がひとつ。茜だ。クリップボードを抱えたまま、白線の向こうを見ている。
「茜」
呼ぶと、彼女は少し驚いた顔でこちらを見た。
「ん?」
「頼みたいことがある。周回ごとに、合図をもらえないかな」
「合図?」
「うん。手拍子でも、何でもいい。ラップを、音で、もらいたい」
言葉にしてみると、ずっと喉にあった小さな棘が外れる感じがした。
茜は視線を白線に落とし、それから悠真の顔を見て、白線を再び見た。線の内側と外側。彼女の靴は外側にあって、つま先が砂を軽く削っていた。
「……うん。やる」
答えは短かったが、短い答えの後ろにいくつもの逡巡が畳まれているのがわかった。畳まれたままの逡巡は、軽くはない。けれど、持ちやすい形にはなっている。
「でも、私は内側には入らないから」
「外でいい。外の音で、走りたい」
茜はうなずいた。うなずきは翻訳だ。翻訳の精度が高いとき、人は少しだけ解放される。
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夕練。空気が昼よりも柔らかく、砂は少し湿り気を取り戻す。メニューは「一千×五(イーブン)」。ピッチは百八十。ターゲットのラップは坂上の口から「四分十五」と低く落ちた。
遥がストップウォッチを二つ持ち、宮内が前に立つ。高岡は最後尾で「初手は抑えろ、二周目で整えろ」と短く言う。言いながら、自分の靴紐を確かめる。彼の紐はいつ見ても適切な長さで、ほどけない。
スタートの合図は笛一つ。風は正面からではないが、コーナーで頬に当たる。呼吸はすぐに浅くなる。百メートルごとに砂の表情がわずかに変わるのが足裏でわかる。
一周目、茜の手拍子が遠くで一度鳴った。パン、という乾いた音。二周目、同じ音が少し近くなる。三周目、拍が二つに増え、四周目、拍が三つ、最後の直線、拍が四つ。
数ではない。テンポだ。テンポは呼吸の線に沿って並ぶ。吸って、吐いて、吐く。その三拍目のすぐあとに、茜の手が鳴る。手と手の間に薄い空気がつぶれて、音になる。その音は、こちらの肺の奥で別の音に変換される。拍に、足が載る。足に、体が載る。
一本目のラップは四分十三。坂上の目が細くなる。
「二は抑えろ。欲張るな。ラップは畑だ。荒らすな。均せ」
二本目。ピッチ感は一度崩れかけ、コーナー出口で視線が落ちる。落ちれば肩が上がる。上がれば腕が広がる。広がれば足が外へ逃げる。逃げた足を呼び戻すように、腹圧を少しだけ強くする。みぞおちの下に壁。壁に、呼吸を当てる。
茜の拍は一定だった。一定のものは、裏切らない。裏切らないものが一つでもあれば、他の不安定に耐えられる。ラップは四分十五。均せた。
三本目の二周目で、わずかに耳鳴りがする。世界が細くなり始める。細い世界は視界の端を削り、真ん中だけを残す。残った真ん中のさらに真ん中に、白い線が一本通る。そこに足を置く。置く、という言葉を選ぶと、走りの質が少しだけ変わる。運ぶ、ではなく、置く。
ラップ、四分十四。遥が親指を立てる。汗が光る。親指の爪に小さな欠けがあり、そこに砂が一粒くっついている。
四本目、腿の内側が悲鳴を上げる。坂上がコーナーで立ち、手の形だけで合図する。「上体、置け」。言葉にすると簡単だが、それは姿勢の詩のようなものだ。置く相手は空気だ。空気は目に見えないが、体には見える。
茜の拍が、ほんの少しだけ強くなる。強さを上げたというより、確信を足したような音だった。音の芯が太い。太い芯は、こちらの迷いに勝つ。ラップは四分十四。
最後の五本目。ふくらはぎが固まり、踵が地面を捕まえたがる。捕まえればブレーキだ、と頭でわかっていても、体は安全なほうを選ぼうとする。そこで拍。パン、パン、パン。
拍に背中を押される。押された、という表現は、便利すぎる。でも、便利な表現は、時に正しい。
最後の直線、腕を少しだけ速く振る。脚の回転が自然に追いかける。視界の端がまた少し広がる。世界が、遅くなった。遅くなった世界では、怖さが薄い。怖さが薄いと、勇気の形が見える。
フィニッシュ。四分十三。呼吸が喉の奥で跳ね、しばらく言葉にならない。
坂上は時計を見て、「よし」と一度だけ言った。
*
給水の紙コップは柔らかく、握ると小さくへこむ。水は温い。温い水は、今はありがたい。冷たすぎる水は体に嘘をつかせる。
茜がフェンス越しに近づき、クリップボードに視線を落とす。「一千、四・一三、四・一五、四・一四、四・一四、四・一三。心拍は……最後だけ一八七。うん、整ってる」
数字の列は、今日という一日の形だ。形は、置いておける。置いておける形は、明日に橋を架ける。
「手拍子、ありがと」
悠真が言うと、茜は首を横に振った。「こっちこそ。私も、少しだけ怖くなくなった」
「何が?」
「線が。内側に入る線が。……さっき、ほんのちょっとだけ、足が、ここに」
彼女はフェンスのポールのすぐ内側、白線の端に視線を落とした。つま先が、ぎりぎり触れたのだろう。触れたことは、触れた人しか知らない。知らないでいてもいいが、知っていると、次に触るのが少しだけ簡単になる。
遥がタオルと飴を配りながら笑う。「茜の拍、いいテンポ。録音しとこっか」
冗談めかした言葉に、茜は「やめて」と笑い返す。笑いは、走る前後で質が違う。走った後の笑いは、体温で少し湿っている。
坂上が近づいてきた。
「今日は、拍に乗れた。数字も嘘じゃない。だが、ここからは補強だ。腹圧が抜ければ、拍はすぐ流れる。支える筋肉は、祈りの基礎だ。祈りは、形がないようで、形を持っている。形を持っていない祈りは、風に飛ぶ」
祈り、という言葉を坂上が使うのは珍しかった。だが、その場にいた誰も、違和感を口にしなかった。
走る前に手を合わせることはない。ゴール後に空を仰ぐことはある。空は、祈りの受け皿みたいにそこにある。が、受け皿に載るものが空だと、何も残らない。筋肉に載せた祈りは、たぶん、残る。筋肉に残れば、拍に転写される。
「明日、ビデオ、また撮る」
坂上はリモコンを指で弾く。「上下動、二センチ、削れ。視線、五メートル先。接地、体の真下。腹圧、抜くな。ハム、忘れるな。尻で押せ。膝は勝手につく」
たくさんの命令が、やがて一つの指示になる瞬間がある。その瞬間までは、断片のまま覚えて、断片のまま繰り返すしかない。繰り返しは、愚かさに似ているが、愚かさはいつか形になる。
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帰り道、風が柔らかかった。店先の旗がゆっくり揺れ、信号は慎重に色を変えた。
茜はカメラを首から提げ、悠真はスポーツバッグのベルトを肩に押し当てる。脚の内側が火照って痛む。心地よい、と言ってしまえるほどの余裕はないが、痛みが働いた印であることはわかる。
「颯真のノート、見た」
悠真が口を開く。「呼吸が合うと、世界が少し遅く見える、って」
「知ってる。私、書いた日に横にいたから」
茜は信号の赤の下で立ち止まり、遠くを見た。遠くは、ビルの輪郭で切り取られている。
「あの日、周回ごとに手を叩いてたの。私、リズムが下手だから、ずれてるかなって不安だったけど、颯真が『合わせるから、それでいい』って言って。……今日、少しだけ、あのときの音に似てた」
「似てた?」
「うん。遅くなる音。世界が遅くなる音」
遅くなる音。形のないものに形の名前を付けるとき、人は少しだけ勇敢だ。勇敢な命名は、体のどこかに保存される。
「明日も、お願いしていい?」
「もちろん」
返事は、今日いちばん軽かった。
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夜、机にランプを点ける。光の輪が小さく、紙の上だけをあたためる。ノートを開く。今日のラップ、心拍、補強の回数、痛んだ部位、できたこと、できなかったこと。
『ピッチ、拾えた。二、三、四、五、均せた。腹圧、最後に抜けかけ。ハム、焼けた。尻、起きた。茜の拍、助かった。世界、少し遅い』
短い文は、嘘を持ちにくい。持ちにくい嘘は、未来の自分にとっての信用になる。
窓を少し開けると、夜の空気が入る。街路樹の葉がこすれる音が、遠くで小さく続いている。
机の端に置いたメトロノームを軽く叩く。カチ、カチ。リズムは変わらない。変わらないものを一つ持てることが、こんなにも安心するとは知らなかった。
ベッドに入る前に、軽く腹圧を作る。鼻から吸って、細く吐く。みぞおちの下に壁を意識する。壁の前に手を置き、手が前に動かないように力を配る。力は弱い。弱いが、昨日よりは強い。
目を閉じると、今日の白線がまぶたの裏に浮かぶ。白線は遠いが、昨日より近い。近い、という事実のほうを信じる。信じるほうが、眠れる。
眠りに落ちる直前、耳の奥で、誰かの笑い声がした。聞こえないはずの笑い声。振り向かない。前だけを見る。
音は前にある。前にある音だけが、明日の拍になる。
呼吸が合えば、世界は少し遅く見える。
遅く見える世界で、人は、歩かない。



