春の風は少しだけ暖かくなっていたが、グラウンドの土はまだ冬の記憶を抱いていた。踏めば白く乾いた粉が舞い、吸い込んだ鼻の奥がひりつく。新入生の列はまばらで、まだ互いの名前も、声の調子も、走り方の癖も知らない。並んだスパイクの色だけがやけに主張していて、鮮やかな靴が地面のくすんだ色を揺らしていた。

 持久走のテストは、黙って始まり、黙って終わる。号令の代わりに坂上が指先で合図し、ラップを刻む小さな電子音が周回ごとにひとつずつ落ちる。走るという行為に説明は不要だ、と言いたげな空気。そこに悠真は、まだ上手に立てていなかった。

 一周目の終わりで呼吸が乱れ、二周目で喉が焦げ、三周目で脚の付け根が重くなる。五千メートルは数字で聞けば一定だが、走れば不揃いな丘の連なりだ。丘を越えるたびに自分の弱さが新しい表情で現れ、越えられない丘は静かにこちらの心を削った。

 結果は、圧倒的な最下位だった。
 タイムを読み上げる遥の声が、申し訳なさそうに少しだけ低くなる。彼女はマネージャーの腕章を左腕につけ、笑顔で周回板を持って立っていたが、数字の最後が悠真のときは、自分の喉に砂が入ったみたいに言葉が重くなった。

「高岡、十五分台。宮内、十六前半。……えっと……及川(悠真)、二十四分三十六」

 笑い声は起きなかった。陸上部は笑わない。代わりに、短い沈黙がひとつ落ちて、風の音がそれを拾っていく。笑いのない静けさは、侮蔑とは別の種類の厳しさだ。そこにいる全員が、この数字を「いまの事実」として受け止める。それだけ。

「記録は記録だ」

 坂上が言った。ツバの曲がらないキャップをまっすぐかぶり、腕を組んでいる。目尻に小さな皺があり、日焼けの色はまだ冬を抜けきっていない。「大事なのは理由。どう走ったか。どうして走るのか。……及川」

 呼ばれて、悠真は前に出る。周囲の視線は刺さらない。ただ、そこに在る。刺さらない視線は逆に、逃げ場を与えない。

「走る理由は?」と坂上。
 短い問いだ。短い問いは迂回を許さない。

 喉に残った苦い息を一度飲み込み、悠真は言う。
「弟の……夢を、見たくて」

 言ってしまえば陳腐な理由だと思った。けれど陳腐な言葉ほど、今は嘘が少なかった。坂上は目を細め、ほんのわずか、顎を引いた。肯定でも否定でもないが、空気の温度が半度ほど上がる。

「そうか。なら、走れ。理由がある限り、人は走れる」

 その言葉は励ましじゃない。事実の確認だ。事実として告げられる励ましは、励まし以上の重さを持つことがある。

 列の端に、寡黙な主将・宮内が立っていた。背は高くない。だが、誰よりも地面への置きどころが静かだ。足音がしないのに存在感があるのは、無駄を削った所作のせいだろう。
 エースの高岡はテーピングをして、足首を一度、軽く回してからスパイクを脱いだ。明るく見える男だが、その明るさはよく磨かれた刃物のようで、冗談を言う前にまず走る。そういう人間は、信頼されやすいし、誤解もされやすい。

 休憩の時間、遥が差し入れの小さなゼリーを配って回る。彼女は誰にでも同じ笑顔で、手のひらの熱でゼリーの角を温めながら渡す。「糖分、大事」と言って。
 茜は、フェンスの外側にいた。マネージャーを続ける、と言った朝の宣言は本当だが、彼女は内側に入らない。ラインの内と外は、たった数十センチなのに、世界が違う。茜は外から、誰より真剣な目でトラックの円を見ていた。

「メニュー、貼るぞ」

 坂上がホワイトボードを立てる。黒い文字が乾いた音で並び、数字が音の重さを持つ。
 ――ジョグ十キロ/補強二十分/流し×六。
 その三行だけで、午後のグラウンドの匂いが濃くなる。砂と汗とスポーツドリンクの匂い。十キロという単語が、悠真の胃の辺りを冷たく叩いた。

「走りはじめはゆっくりでいい。ゆっくりでいいが、止まるな。止まらないなら、遅くても走っている。歩いたら歩いたぶん、冬に出る」

 坂上の言葉は、昨日の茜の記憶と重なって、悠真の胸で鳴った。歩いた癖は冬に出る。言葉と身体は、時々同じ筋に沿って響く。

 ジョグが始まる。スパイクの音が消え、ロードのアスファルトへ移ると、足音は乾いて硬くなる。肩の力を抜けと何度も聞いてきたが、抜く力の抜き方がわからない。ぎこちない手の振り、上下動の大きさ、視線のやり場。すべてが「遅い」の理由みたいに見える。

 一キロで肺が焼け、二キロでふくらはぎが針でつつかれる。三キロで喉の奥が金属の味になり、四キロで足の裏が自分のものじゃない感じがして、五キロで迷子の感覚が来る。ジョグは孤独にする。孤独は残酷だが、正直だ。正直な時間は、あとから効く。

「肩、上がってるぞ」

 いつの間にか横に宮内が来ていた。彼は淡々としている。淡々とした伝え方は、言い訳の場所を与えない。
 悠真は、肩を下ろそうとする。下ろすというより、首の後ろに余白を作る。胸郭の中で空気が水になって、出入りの速さだけが頼りになる。
 六キロで、遥がロードの端に立っていた。小さなコップを差し出し、「一口でいいから」と言う。鶏のスープみたいに見えたが、ただの水だ。体が何かを求めすぎて、味の幻覚を見た。

「あと四」

 宮内が短く言う。あと、という言葉は優しい。数は厳しい。優しさと厳しさが同居する四文字。
 八キロで膝が笑い出し、九キロで笑いは泣きに変わる。十キロの手前、グラウンドの手前の角で、茜が立っていた。フェンスの外側。こちらは内側。目が合う。彼女は小さくうなずいた。うなずきで、呼吸が一本繋がる瞬間がある。

 十キロを終えたとき、世界の音が少し遠くなった。脈の音だけが近い。遠くの遠くで、坂上の拍手が一回だけ鳴る。派手じゃない。けれど、バネの芯を確かめるみたいな音だった。

「補強、二十分。腹、背中、腸腰筋。……及川、フォーム、今日撮っとく」

 坂上は容赦しない。容赦のなさは、信頼の手前に置かれることが多い。悠真は頷く。頷いた瞬間、ふくらはぎが攣りそうになり、慌てて踵を落とした。
 補強の時間は、走るより自分と向き合う。回数を数える声が各所で交差し、床のマットの匂いが鼻を満たす。腹筋の途中で視界が星空みたいにちらつき、背筋の途中で胸がつって、腸腰筋ではうめき声が漏れた。漏れた声は、誰にも笑われない。ここでは、うめきは前進の音だ。

 流しを終える頃には、靴紐の結び目が汗で柔らかくなっていた。夕方の光は金属色を帯び、グラウンドの白線は溶けかけた氷のように鈍く光っている。
 遥がタオルを配り、「塩分、飴、持ってって」と言う。飴の包み紙のカサリという音が、やけにやさしく聞こえた。糖の甘さは直接的だ。やさしさも、ときどきそれくらい露骨でいい。

「ビデオ、見るぞ」

 坂上は部室の片隅に置いた古いモニタにケーブルを繋ぐ。砂埃で少し曇った画面に、さっきの自分が映る。
 悠真のフォームは、上下動が大きく、接地のたびにブレーキを踏んでいるみたいだった。腕が外へ逃げ、肩がすくみ、視線が近い。
「悪いところは、直せるところだ」
 坂上は淡々と言い、「まず、ピッチ。メトロノーム、一八〇。耳で覚えろ。腹圧。骨盤。踵は捨てろ。前に落ちる」

 指で画面を軽く叩き、いいときと悪いときを並べて見せる。いいときは一秒に満たないが、確かに存在した。存在するなら、伸びる。

 高岡がふいに口を開く。
「及川。お前、止まらないな」

 それだけ言って、スポドリを一口飲む。褒め言葉なのか、観察の報告なのか、判然としない。だが、言われて嫌ではなかった。胸の奥の空洞に、砂の代わりに水が少し入る。

 宮内はタオルで首筋を拭き、短く続けた。
「止まらないやつは、最後の直線に残る」

 その言葉は、未来形を装った現在形だ。今を認められたことの方が、未来への約束よりもずっと、足を動かす。



 部活を終え、夕暮れの坂道を降りる。制服の肩にスポーツバッグのベルトが食い込み、擦れた場所が汗でしみた。
 茜はやはりフェンスの外からしか見なかった。部室の前で待っている間も、ラインの内側には踏み込まない。けれど、帰り道は並んで歩く。歩幅を合わせるのに、言葉はいらない。

「颯真の背中、忘れたくないの」
 茜が小さく言った。信号待ちの赤の下で、彼女の表情は少しだけ影になった。「でもね、追いかけるのが怖い。追いかけた先に、いないって知ってるから」

 悠真は、信号の向こうに伸びる道を見つめた。道はまっすぐで、でも常に少し曲がっている。空の色は薄い水色で、角のパン屋から甘い匂いが流れてくる。日常は、いつだって人の足を引き留めるに足る匂いを持っている。

「忘れたくないなら、」悠真は言った。「一緒に、覚えていく」

 覚える、という言葉は、忘れない、より前向きだ。忘れないは守りで、覚えるは攻めだ。攻めというほど強くはないが、少なくとも歩幅を前に向ける動詞だった。

 茜はわずかに笑って、「覚えるって、なんかいいね」と返す。
「写真、撮る。今日から。走ってるときの音とか、匂いとか、うまく写るか分かんないけど」

「写らなくても、たぶん、残る」

「残る?」

「うん。写らなかったところが、残る」

 言ってから、自分でもよく分からないことを言ったと思った。けれど茜はうなずいた。意味を、彼女なりの場所に置いたのだろう。うなずきはときどき、ことばより正確な翻訳になる。

 駅までの道で、ふたりはパン屋に寄った。塩パンをひとつずつ買い、ビニール袋のカサカサという音を鳴らしながら歩く。塩とバターの匂いは、疲れた体に正直に効いた。
「ちゃんと食べてね」と茜。
「うん」と悠真。うなずきのたび、肩にかけたバッグのベルトが小さく鳴る。



 家に帰ると、机の上に小さな紙片が置かれていた。四つに折られ、角が少し黒ずんでいる。差出人の名はない。開くと、見覚えのある太いペン字が一行だけのこっていた。

 ――一年後、五千で県大会決勝へ。坂上。

 無茶だ、と思った。笑ってしまうほどに。いま二十四分台で、そこから一年で県の決勝、という現実離れ。
 笑うしかない、が、本当に笑っているのは口の端だけで、胸の奥は少しも笑っていなかった。そこには、薄く熱が差していた。無茶だということは、基準があるということだ。基準を示されることは、逃げ道を一つ減らされる代わりに、道を一本与えられることでもある。

 窓の外で、風がカーテンを持ち上げる。夕方の光が部屋の床に四角く落ち、砂の小さな粒が光った。
 悠真は紙片をノートに貼り、上から透明のテープを二本、斜めに渡した。テープの下で、ペンの黒が少しだけ艶を失う。艶を失っても、意味は失わない。むしろ、少し落ち着いてこちらを見てくる。

 シャワーを浴びると、ふくらはぎの筋肉がささやくように痛んだ。痛みは悲鳴ではなく、現場報告だ。現場は働いている、と体が知らせてくる。
 ベッドに横になり、天井を見て、目をつぶる。まぶたの裏に、フェンスの網目の影がもう出てこないことに気づく。代わりに、白線が見えた。白線は遠い。だが、遠いものは、近づく余地がある。

 携帯が小さく震えた。茜から短いメッセージ。
『明日、写真、撮るね』
 その一行が、今日のどの会話よりも、大切な発表のように思えた。短い言葉は、余白を信用している。余白を信用できる関係は、走り続けられる。

 じっと耳を澄ませる。外の音は、夜の音になっていく。遠くの車のタイヤがアスファルトを擦る音、隣の家の水道の音、カラスが寝床を探す羽音。
 そして、自分の胸の奥で、小さく続いている音――止まらない鼓動。坂上の紙片は机の上で静かだが、静かなものほど、よく響く。

 無茶だ。
 でも、行く。
 行けるかどうかは、たぶん、明日のジョグの一歩目で、少しだけ決まる。

 悠真は目を閉じたまま、息を整える。吸って、吐いて、吐く。
 部屋の中の空気は、ゆっくりと新しくなっていった。テープの下の黒い文字は、夜の薄い光で、なおくっきりとそこにあった。