冬日は、影を細く長くする。
復路の朝、白い息がアスファルトの上で薄くほどけ、踏切の遠い音が乾いた空に二度だけ跳ねる。整列のテープが揺れ、旗の布が角を立てて鳴り、沿道の人の群れは厚いコートの重さでわずかに鈍くうごめいた。
九区の襷が、及川悠真の肩に落ちた。落ちたと書くしかない。受け取る、というより、肩の骨に正確な角度で置かれた感覚だった。薄い青の布の端――ずっと見慣れてきた色の気配が、胸骨の前をひとすじ撫でていく。
序盤、集団のリズムに合わせる。
合わせるという動詞は、他人に従う弱さに見えがちだが、冬のロードでは攻めの技術になる。肩を二センチ落とし、ゆるい前傾をつくる。上体を倒すのではない。重心の影が一歩先に落ちる角度。脚は前に放る。蹴らない。置く。置けば、地面のほうが半歩だけこちらへ寄ってくる――錯覚でいい。錯覚を安定して続けるのが、今日の「運ぶ」だ。
耳の奥で百八十の拍が鳴る。茜の手拍子がなくても、去年から増やしてきた朝の拍が勝手に立ち上がる。
沿道の声はすでに言葉になっている。「押せ」「いいよ」「九区」。そのどれもが正しいが、どれも遅い。遅さを責めない。体内の翻訳機のほうが半拍早い。
コースが大きく曲がり、風の向きが一度、変わった。
向かい風が強まる区間。
冬の風は数字で測れるが、体に入るときは角度で入ってくる。正面ではない。斜め。頬の右側を薄く削り、コーナーの手前で強くなる。
――歩幅を半歩だけ詰めろ。
監督の声が、会議室の蛍光灯の下から蘇る。詰める。腕を細く速く振る。肩甲骨を二センチ後ろ。腹圧。呼吸は細く、長く。
風に押し返される感覚を、体の前で受けず、横で受ける。風の背骨を探す。家並みの途切れる角、ビルの切れ目、樹木の間。そこに体を差し込み、拍で抜ける。
集団の足音は低く、合唱のように揃っている。声に出さないやり取りが、膝と膝の間を渡っていく。「行かない」「上げない」「ここは削らない」。判断の重さが、各自の脛の骨の長さと同じくらい具体的だ。
中盤で少しだけ脚を前へ送る。
少しだけ――この少しが難しい。少しだけが、冬にはちょうどいい。欲張らず、怠けず。百八十の拍に、一拍ぶんの薄い余白を残したまま、置く足の位置を指一本ぶんだけ前に。
沿道の旗の影がアスファルトの上へ落ちて、靴底のゴムがその影の輪郭を踏んでいく。影を踏むたび、体はわずかに軽くなる。軽さを信じすぎない。信じなさすぎない。
前方、同じユニフォームの背中が一枚、二枚。抜くときは抜いた感触を体に入れすぎない。入れすぎると、次で抜かれやすくなる。
――運べ。
声は自分の内側から出る。攻め、ではない。運ぶ。帯を細くしない。幅のまま、前へ。
ラスト5km。
呼吸の線が、少しだけ太くなる。太くなってから細く戻す練習を、夏から秋にかけて繰り返してきた。戻す。戻る。戻り切る。半分は残さない。半分は、誰かの半分を欠かす。
遥かに誰かの笑い声が重なる。
颯真の笑いに似ている。似ているだけで、同じではない。似ていて、違う。違いは救い。救いは、肩に乗る。
ラスト3km。
沿道の声が一つのうねりになり、言葉の輪郭が溶けて音の層だけが胸へ押してくる。旗の擦れる音、靴の擦過、遠い拡声器のハウリング、子どもの甲高い声、コートの袖が風を切る微かな音。茜のレコーダーが空気を飲む小さな気配。全部が縦に重なる。
背中の一枚が、近い。
狙わない。拍で寄る。
寄って、並ぶ。
並んで、ほどく。
抜きざま、胸の奥で、坂上の声が薄く落ちる。
「最後に立っているやつが強い」
宮内の掌が背を押したあの日の体温が、背中の皮膚に戻ってくる。
高岡のテープの白が、冬の光で跳ねた景色が、眼の奥でいったん明滅する。
沖田の「痛み=情報」という平らな声が、足の裏の粒に変換される。
茜のシャッター音が、風の中で最小の金属音になって胸骨を微かに叩く。
すべてを束ねるのは、拍。
束ねたまま、フィニッシュラインへ。
テープは遠くから薄い線で見え、近づくほど白の幅を増した。
最後の曲がり角で、向かい風がもう一段強くなる。歩幅を半歩詰める。肘を細く速く。肩を二センチ落とす。ゆるい前傾。前へ放る。
欲張らない。抜き直されない。帯を細くしない。
白い線が、足の甲をかすめる。
切った。
音が一瞬消え、次の瞬間、拍手と風と足音が一気に戻る。
数字は、大躍進と言い切れるほどではない。
それでも、胸を張ってゴールを迎えた。
彼らの順位は、去年より確かに上。幅の分だけ上。帯の分だけ上。
止まった体に、遅れて世界が追いつく。膝がわずかに震え、指先に血が戻り、襷の布の温度が肩の骨に馴染む。
茜が人混みをかき分けて飛び込んでくる。
カメラと襷と涙の匂いが、冬の空気に重なる。
彼女は笑いながら泣いて、息を整える間も惜しむように、「答え」を渡した。
「私も、あなたと同じ距離を生きたい」
短い文の間に、これまでの冬が全部畳み込まれていた。
悠真は頷く。頷きは、走り出す前の最初の一歩と同じ方向の動きだ。
胸の内で、そっと呟く。
「颯真、ありがとう。ここからは俺の足で、俺の愛で走る」
言葉は冬の光に乗って、薄い青の結び目に吸い込まれていく。
吸い込まれた光は、もう預かり物の影では揺れない。持っている側の色で揺れた。
監督が遅れて来て、キャップの庇を指で押し、淡々と言う。
「よく運んだ。線でなく、帯で」
宮内が肩を叩き、笑いを抑えた顔を作り、「最後の枠の顔、してねえな」と小さくからかう。
高岡は足首の上に手を置き、「切ったな」とだけ言う。
沖田は立ったまま、ふくらはぎを軽くさすり、「出なくても、走れる」と冗談めかして言い、次の瞬間真面目な顔で続ける。「次は出る」
それぞれの言葉が、拍の上に置かれる。置かれた言葉は、走りの幅をまた少し太らせる。
テントに戻るまでの短い道で、茜はレコーダーを止め、カメラの背面の画面をいちどだけこちらに向けた。
そこには、白い線を切った青いユニフォームの背と、その上でかすかに重なる笑いの形が写っていた。
「載せる?」
「載せて」
「“勝った写真”じゃなく、“立ち続けた写真”として」
彼女はそう言って、ストラップの結び目を指先で整えた。
夜。
大学の部室。ホワイトボードには、もうロードマップの余白が少なく、監督はその右端に、細い矢印を一本、静かに足した。
都大路 → 箱根 →( )
括弧の中は空。空であることが、次の冬の地図になる。
寮に戻り、悠真はノートを開く。
『九区 序盤=集団 中盤=少し前へ送る 向かい風=半歩詰め+肘速く+肩二センチ ラスト3=音の層 声=「最後に立っているやつが強い」 運ぶ=帯 順位=昨季+α(幅ぶん)』
欄外に、細い字で足す。
『答え=同じ距離を生きる』
ページの端に、さらに小さく。
『ゴール=通過点』
言葉は乾いた鉛筆で、迷わず並んだ。
灯りを落とす前、スマホが短く震えた。
『録れたよ。音、澄んでた』
茜から。
『了解。明日も拍、運ぶ』
返して、窓の外の冷たい星をひとつだけ確かめる。星は見ているだけで、こちらを見ない。見ないものに、こちらが合わせる。
合わせて、また運ぶ。歩かない。食べる。寝る。諦めない。拍で運ぶ。
その四行詩は、今日も背骨の位置で鳴っている。
――エピローグの余白。
数年後。
春に近い冬の午後、同じ色のユニフォームが、別の世代の肩の上でまだ新しい布の軋みを立てている。
トラックのコーナーで、一人の後輩が歩きかけた。肩が上がり、目が近い。
監督になった悠真は、その背中に並び、掌で空気を押すように声を出した。
「歩くな。歩いた癖は冬に出る」
声は低く、角は削られている。削られているから、届く。
後輩はうなずき、半歩だけ脚を前へ放った。拍が戻る。戻った拍は、チームの帯へ吸い込まれる。
スタンドには、カメラを構える茜がいる。
レンズの先で、彼女は笑うでも泣くでもない、待つ顔をしていた。首のストラップの結び目には、あの日と同じ薄い布が結ばれている。
その隣で、小さな子の笑い声が跳ねた。笑いは軽く、風より速い。
子どもの手が空へ向かって伸び、白い雲をなぞる。
白い線はいつだって消えるために現れる。
消える前に、次の拍が立ち上がる。
ゴールは、今日も通過点。
襷は、過去の重さで肩に載り、未来の形で前へ進み続ける。
そして、彼らは――まだ、ここに立っている。
復路の朝、白い息がアスファルトの上で薄くほどけ、踏切の遠い音が乾いた空に二度だけ跳ねる。整列のテープが揺れ、旗の布が角を立てて鳴り、沿道の人の群れは厚いコートの重さでわずかに鈍くうごめいた。
九区の襷が、及川悠真の肩に落ちた。落ちたと書くしかない。受け取る、というより、肩の骨に正確な角度で置かれた感覚だった。薄い青の布の端――ずっと見慣れてきた色の気配が、胸骨の前をひとすじ撫でていく。
序盤、集団のリズムに合わせる。
合わせるという動詞は、他人に従う弱さに見えがちだが、冬のロードでは攻めの技術になる。肩を二センチ落とし、ゆるい前傾をつくる。上体を倒すのではない。重心の影が一歩先に落ちる角度。脚は前に放る。蹴らない。置く。置けば、地面のほうが半歩だけこちらへ寄ってくる――錯覚でいい。錯覚を安定して続けるのが、今日の「運ぶ」だ。
耳の奥で百八十の拍が鳴る。茜の手拍子がなくても、去年から増やしてきた朝の拍が勝手に立ち上がる。
沿道の声はすでに言葉になっている。「押せ」「いいよ」「九区」。そのどれもが正しいが、どれも遅い。遅さを責めない。体内の翻訳機のほうが半拍早い。
コースが大きく曲がり、風の向きが一度、変わった。
向かい風が強まる区間。
冬の風は数字で測れるが、体に入るときは角度で入ってくる。正面ではない。斜め。頬の右側を薄く削り、コーナーの手前で強くなる。
――歩幅を半歩だけ詰めろ。
監督の声が、会議室の蛍光灯の下から蘇る。詰める。腕を細く速く振る。肩甲骨を二センチ後ろ。腹圧。呼吸は細く、長く。
風に押し返される感覚を、体の前で受けず、横で受ける。風の背骨を探す。家並みの途切れる角、ビルの切れ目、樹木の間。そこに体を差し込み、拍で抜ける。
集団の足音は低く、合唱のように揃っている。声に出さないやり取りが、膝と膝の間を渡っていく。「行かない」「上げない」「ここは削らない」。判断の重さが、各自の脛の骨の長さと同じくらい具体的だ。
中盤で少しだけ脚を前へ送る。
少しだけ――この少しが難しい。少しだけが、冬にはちょうどいい。欲張らず、怠けず。百八十の拍に、一拍ぶんの薄い余白を残したまま、置く足の位置を指一本ぶんだけ前に。
沿道の旗の影がアスファルトの上へ落ちて、靴底のゴムがその影の輪郭を踏んでいく。影を踏むたび、体はわずかに軽くなる。軽さを信じすぎない。信じなさすぎない。
前方、同じユニフォームの背中が一枚、二枚。抜くときは抜いた感触を体に入れすぎない。入れすぎると、次で抜かれやすくなる。
――運べ。
声は自分の内側から出る。攻め、ではない。運ぶ。帯を細くしない。幅のまま、前へ。
ラスト5km。
呼吸の線が、少しだけ太くなる。太くなってから細く戻す練習を、夏から秋にかけて繰り返してきた。戻す。戻る。戻り切る。半分は残さない。半分は、誰かの半分を欠かす。
遥かに誰かの笑い声が重なる。
颯真の笑いに似ている。似ているだけで、同じではない。似ていて、違う。違いは救い。救いは、肩に乗る。
ラスト3km。
沿道の声が一つのうねりになり、言葉の輪郭が溶けて音の層だけが胸へ押してくる。旗の擦れる音、靴の擦過、遠い拡声器のハウリング、子どもの甲高い声、コートの袖が風を切る微かな音。茜のレコーダーが空気を飲む小さな気配。全部が縦に重なる。
背中の一枚が、近い。
狙わない。拍で寄る。
寄って、並ぶ。
並んで、ほどく。
抜きざま、胸の奥で、坂上の声が薄く落ちる。
「最後に立っているやつが強い」
宮内の掌が背を押したあの日の体温が、背中の皮膚に戻ってくる。
高岡のテープの白が、冬の光で跳ねた景色が、眼の奥でいったん明滅する。
沖田の「痛み=情報」という平らな声が、足の裏の粒に変換される。
茜のシャッター音が、風の中で最小の金属音になって胸骨を微かに叩く。
すべてを束ねるのは、拍。
束ねたまま、フィニッシュラインへ。
テープは遠くから薄い線で見え、近づくほど白の幅を増した。
最後の曲がり角で、向かい風がもう一段強くなる。歩幅を半歩詰める。肘を細く速く。肩を二センチ落とす。ゆるい前傾。前へ放る。
欲張らない。抜き直されない。帯を細くしない。
白い線が、足の甲をかすめる。
切った。
音が一瞬消え、次の瞬間、拍手と風と足音が一気に戻る。
数字は、大躍進と言い切れるほどではない。
それでも、胸を張ってゴールを迎えた。
彼らの順位は、去年より確かに上。幅の分だけ上。帯の分だけ上。
止まった体に、遅れて世界が追いつく。膝がわずかに震え、指先に血が戻り、襷の布の温度が肩の骨に馴染む。
茜が人混みをかき分けて飛び込んでくる。
カメラと襷と涙の匂いが、冬の空気に重なる。
彼女は笑いながら泣いて、息を整える間も惜しむように、「答え」を渡した。
「私も、あなたと同じ距離を生きたい」
短い文の間に、これまでの冬が全部畳み込まれていた。
悠真は頷く。頷きは、走り出す前の最初の一歩と同じ方向の動きだ。
胸の内で、そっと呟く。
「颯真、ありがとう。ここからは俺の足で、俺の愛で走る」
言葉は冬の光に乗って、薄い青の結び目に吸い込まれていく。
吸い込まれた光は、もう預かり物の影では揺れない。持っている側の色で揺れた。
監督が遅れて来て、キャップの庇を指で押し、淡々と言う。
「よく運んだ。線でなく、帯で」
宮内が肩を叩き、笑いを抑えた顔を作り、「最後の枠の顔、してねえな」と小さくからかう。
高岡は足首の上に手を置き、「切ったな」とだけ言う。
沖田は立ったまま、ふくらはぎを軽くさすり、「出なくても、走れる」と冗談めかして言い、次の瞬間真面目な顔で続ける。「次は出る」
それぞれの言葉が、拍の上に置かれる。置かれた言葉は、走りの幅をまた少し太らせる。
テントに戻るまでの短い道で、茜はレコーダーを止め、カメラの背面の画面をいちどだけこちらに向けた。
そこには、白い線を切った青いユニフォームの背と、その上でかすかに重なる笑いの形が写っていた。
「載せる?」
「載せて」
「“勝った写真”じゃなく、“立ち続けた写真”として」
彼女はそう言って、ストラップの結び目を指先で整えた。
夜。
大学の部室。ホワイトボードには、もうロードマップの余白が少なく、監督はその右端に、細い矢印を一本、静かに足した。
都大路 → 箱根 →( )
括弧の中は空。空であることが、次の冬の地図になる。
寮に戻り、悠真はノートを開く。
『九区 序盤=集団 中盤=少し前へ送る 向かい風=半歩詰め+肘速く+肩二センチ ラスト3=音の層 声=「最後に立っているやつが強い」 運ぶ=帯 順位=昨季+α(幅ぶん)』
欄外に、細い字で足す。
『答え=同じ距離を生きる』
ページの端に、さらに小さく。
『ゴール=通過点』
言葉は乾いた鉛筆で、迷わず並んだ。
灯りを落とす前、スマホが短く震えた。
『録れたよ。音、澄んでた』
茜から。
『了解。明日も拍、運ぶ』
返して、窓の外の冷たい星をひとつだけ確かめる。星は見ているだけで、こちらを見ない。見ないものに、こちらが合わせる。
合わせて、また運ぶ。歩かない。食べる。寝る。諦めない。拍で運ぶ。
その四行詩は、今日も背骨の位置で鳴っている。
――エピローグの余白。
数年後。
春に近い冬の午後、同じ色のユニフォームが、別の世代の肩の上でまだ新しい布の軋みを立てている。
トラックのコーナーで、一人の後輩が歩きかけた。肩が上がり、目が近い。
監督になった悠真は、その背中に並び、掌で空気を押すように声を出した。
「歩くな。歩いた癖は冬に出る」
声は低く、角は削られている。削られているから、届く。
後輩はうなずき、半歩だけ脚を前へ放った。拍が戻る。戻った拍は、チームの帯へ吸い込まれる。
スタンドには、カメラを構える茜がいる。
レンズの先で、彼女は笑うでも泣くでもない、待つ顔をしていた。首のストラップの結び目には、あの日と同じ薄い布が結ばれている。
その隣で、小さな子の笑い声が跳ねた。笑いは軽く、風より速い。
子どもの手が空へ向かって伸び、白い雲をなぞる。
白い線はいつだって消えるために現れる。
消える前に、次の拍が立ち上がる。
ゴールは、今日も通過点。
襷は、過去の重さで肩に載り、未来の形で前へ進み続ける。
そして、彼らは――まだ、ここに立っている。



