会議室の時計は、冬の夕方を正確に刻んでいた。
針は音を出さないのに、耳の奥で百八十に似た拍が薄く鳴る。長机の上に並んだ名簿は角が揃えられ、ペンは転がらないようにキャップが下に置かれている。壁のホワイトボードには、区間ごとの標高差と風の平均、過去三年の参考ラップ。大学の意地と現実が、黒い線で整然と並ぶ。
監督は立ったまま、窓ガラスに映る自分の姿を短く見た。背の高さは誤魔化せない。声の低さも、今さら変えられない。変えられるのは、決め方だけだ。
机の端には**「本戦エントリー(暫定)」の紙。十の名前が黒で並び、脇に鉛筆の補足。一区:風読み/二区:切る脚/三〜五区:粘り/六〜八区:運ぶ/九区:復路の要/十区:切り上げ。
その上に、赤の細い字がひとつ。「沖田:状態 五分五分」**。
数字の五は丸いのに、意味は尖っている。
椅子の軋みが一度。医務スタッフの紙が擦れる音が二度。上級生の喉が鳴るのが一度。沈黙の中で、空気が少しずつ乾いていく。
監督は言った。
「沖田は、“違和感”から“痛み”へ短い移行。MRIの所見は軽度、だが“軽度”は距離の前では軽くない。出せるが、持続が保証できない。……五分五分」
言葉は平らに聞こえるが、平らにするために角が削られている。
上級生が一人、息を吸ってから口を開く。「九、俺が行きます」
監督は首を横に振る。「九は帯を太くする区間だ。行きで削られ、復路で戻す。一本の線では足りない。幅がいる」
ホワイトボードの標高図の上、細いペン先が九区に円を描き、矢印を三本書き足す。「風」「疲労」「判断」。
「行ける者じゃ足りない。戻せる者が要る」
沈黙が、もう一段深まる。
悠真は、机の下で拳をほどいた。ほどいた指が冷え、掌に汗が戻らない。彼は立ち上がると、言葉を探した。
「……自分は、どの区間でも“粘れる”。崩れたら“粘走”に切り替えられる。チームの穴に、自分を入れてほしい」
短い言葉でも、胸の奥で何度も反芻した形が残る。高校の冬、缶ココアの湯気の向こうで言えなかった種類の言葉だ。
監督は一拍だけ目を閉じ、再び開けると、低く問う。
「粘るだけか」
「運べます。拍で。ゆるい前傾を守って、前へ放るで“戻す”をやります。楽=余白。十で作って、十五で守って、二十以降に使います」
数字が並ぶ前に、手順が並ぶ。
医務スタッフが短く頷き、上級生が椅子の端で指を二度叩いた。音は小さいけれど、肯定の拍だ。
監督は、紙の上の九区に黒丸を置き、書いた。
「九区:及川」。
ペン先が止まる音はしない。止まらないかわりに、空気の密度が一段重くなる。
「託す」
それは、宣言だった。約束ではない。方向だ。
会議が終わると、廊下の蛍光灯は少し黄ばんだ光で、床のワックスの匂いが冬の乾いた空気に混じった。ドアの前で上級生が肩を軽く叩く。
「九、お前に似合うよ。最後の枠の顔してない」
悠真は苦笑した。
「昨日まで、してました」
「じゃあ、今日からしない」
言葉は薄いのに、縄の端みたいに掴める。
外へ出ると、夕暮れの空気はさらに細く、星の出る前の色が川面に薄く乗っていた。河川敷へ向かう足取りは自然に小さく、歩かないでいられるぎりぎりの速度。ジョグを始める前の、呼吸の手前。
茜が待っていた。
青いダウンジャケットの襟元までファスナーを上げ、首からは小さなレコーダー。カメラのストラップにはいつもの薄い布――颯真の襷の一部――が結ばれている。結び目は使い込まれて柔らかくなり、冬の光の下で色が淡い。
「寒い」
「寒い」
それだけ言って、二人は並んで歩いた。足音は芝の上に沈み、川の音が遠くで細く鳴っている。冬の水は、音にも冷たさが移る。
茜は口を開いた。
「ねえ、颯真のこと、やっと怖くなくなった」
歩幅は変えず、声だけが少しあたたかい。
「あなたが、彼の背中を追いかけ続ける姿が、私の怖さをほどいてくれたから。置き去りにされた、と思っていたのは、たぶん私だよね。彼は“行った”だけで、“置いていった”わけじゃないのに」
風が頬を撫でる。川面のきらめきが、街灯の光を細くちぎって運ぶ。
「録ってる音を、最近やっとちゃんと聴けるようになった。泣き声も、悔しい息も、崩れかけて持ち直したときの“拍の間”も。怖くて、聴けなかったのは私のほう」
彼女はポケットから小さなメモを出し、端を指でなぞった。
「今日、会議で何があったか、全部は訊かない。訊かないときのほうが、伝わること、あるから」
「……九区、預かる」
それだけ言うと、茜は短く「うん」と頷いた。
「復路の要。帯を太くする区間。あなたの“粘走”は、帯の色を濃くする。私が勝手にそう思ってる」
沈黙が落ちる。沈黙は敵じゃない。沈黙のなかで、歩幅の音だけが一定に続く。
河川敷の端、鉄橋の影が長く伸びる場所で、悠真は立ち止まり、深く息を吸った。喉の奥が冷たく、肺の底で空気が角を残す。
「俺は颯真にはなれない」
言葉は、今年になって初めて、謝罪の形をしていなかった。
「でも、俺の一番長い距離で、君の隣に立ちたい。九区を運んで、ゴールで、ちゃんと立っていたい。“最後の枠”じゃない顔で」
風が一度だけ強くなり、コートの裾を引いた。茜はうつむいて笑い、顔を上げると、薄い光の中で目がはっきりしていた。
「明日、答えを持って行く」
短く言い、続けた。
「ゴールで待ってる」
冬の川は、言葉の温度を一度冷ますけれど、冷めたあとに残るものが本当だと教える。
それからの夜は、整える夜だった。
寮に戻って、ノートを開く。
『九区=復路の要/風=北西2→3m想定/起伏=細い上下/補給=12,18km/“楽”=余白/“粘走”=肩二センチ落・肘細く速く・腹圧・ゆるい前傾・前へ放る/幅=朝×昼×夜』
欄外に小さく、
『沖田=経過観察 “引く”=走る準備』
さらに一行。
『ゴールで立つ=答えを受け取る』
ペン先は乾いて、紙の上を滑り、細い線が迷わず並ぶ。
翌朝までの数時間、眠りは浅く、夢は短く、その合間に体は静かに復路の地図を反芻した。橋、角、街路樹の影、風の抜け道、沿道の音の層――すべてが薄いフィルムになって、耳の奥の拍に合わせてめくられる。
目を閉じたまま、ふと、颯真の笑いが遠くで小さく鳴った。似ているだけで、同じではない笑い。似ていると、違う。違うと、救いになる。
――歩かない。食べる。寝る。諦めない。拍で運ぶ。
四行詩の背骨は、大学に来ても変わらない。変わったのは、その上に積んだ**“余白の作り方”と“幅の太らせ方”**だ。
本戦を前にした最後の調整走。ジョグの途中、監督が川沿いのベンチに立ち、短く声を出した。
「九」
「はい」
「行くと決めたら、行かない判断を同じ速さででき。戻ると決めたら、戻り切る。半分を残すな。半分は、誰かの半分を欠かす」
「はい」
「拍で運べ。お前の百八十は、チームの拍に繋がる」
指示は細いが、杭のように胸に刺さる。杭は深く打たない。明日、一本ずつ深くする。
昼の補食は茜のメニューに沿って淡々と進む。黒パン+蜂蜜、オレンジ、プルーン。走り終わりには牛乳+きな粉、ゆで卵、小さなおにぎり。高校の頃から続く紙は、角が柔らかくなり、項目の横に小さなチェックが増えた。
茜は今日、カメラの代わりに、インタビューの紙を持ってきていた。
「“九区の顔”って、どんな顔だと思う?」
「……立ち続ける顔」
「“ゴールで待つ顔”は?」
「それは、明日、見せてもらう」
言いながら、彼女自身の唇の端が、少しだけ上がった。
夕方、チームはミーティングルームに再集合した。ホワイトボードの右上に、監督が新しい紙を貼る。「本戦エントリー(確定)」。
九区:及川の横に、細い字で**「風の背/余白/帯」と書き添えられている。
沖田の名前は補欠の欄に移った。反対に、彼は口を開いた。
「出なくても、走る。“引く”も、走るの一部**」
その言葉の背筋は伸びていて、誰も否定を探さなかった。
監督は最後に言う。
「本番で、今日の“幅”を使い切るな。明日へ残せ。襷は、過去の重さで肩に載り、未来の形で前へ進む。――解散」
夜の河川敷に戻ると、風は昼より弱く、星の輪郭が濃い。
茜はレコーダーのスイッチを入れ、マイクを風から庇うように手で覆った。
「明日、答えを持って行く」
さっきと同じ言葉を、もう一度。
「ゴールで待ってる」
言葉は、冬の川の上で薄く揺れ、やがて結び目に吸い込まれた。
悠真はうなずく。うなずきは、走り出す前の最初の一歩と同じ方向の動きだ。
「行く」
短い返事。短いのに、荷物は軽くならなかった。軽くならない重さは、明日の襷の形に似ていた。
寮に戻って、ベッドに横たわる。灯りを落とす直前、スマホに短い通知。
『風 北西1〜2mの予報。コースの角、B地点で録る。音、澄むはず』
茜から。
『了解。拍、運ぶ』
返信を送り、目を閉じる。
まぶたの裏で、九区の地図に薄い線が一本引かれる。線は遠くない。今日より、確かに近い。
まだ、ここに立っている。
立ったまま、明日の白線へ。
歩かない。食べる。寝る。諦めない。拍で運ぶ。
四行詩を、静かにもう一度唱える。
その声は、冬の夜に溶け、耳の奥の百八十と重なり、告白の前夜は、やっと眠りに落ちた。
針は音を出さないのに、耳の奥で百八十に似た拍が薄く鳴る。長机の上に並んだ名簿は角が揃えられ、ペンは転がらないようにキャップが下に置かれている。壁のホワイトボードには、区間ごとの標高差と風の平均、過去三年の参考ラップ。大学の意地と現実が、黒い線で整然と並ぶ。
監督は立ったまま、窓ガラスに映る自分の姿を短く見た。背の高さは誤魔化せない。声の低さも、今さら変えられない。変えられるのは、決め方だけだ。
机の端には**「本戦エントリー(暫定)」の紙。十の名前が黒で並び、脇に鉛筆の補足。一区:風読み/二区:切る脚/三〜五区:粘り/六〜八区:運ぶ/九区:復路の要/十区:切り上げ。
その上に、赤の細い字がひとつ。「沖田:状態 五分五分」**。
数字の五は丸いのに、意味は尖っている。
椅子の軋みが一度。医務スタッフの紙が擦れる音が二度。上級生の喉が鳴るのが一度。沈黙の中で、空気が少しずつ乾いていく。
監督は言った。
「沖田は、“違和感”から“痛み”へ短い移行。MRIの所見は軽度、だが“軽度”は距離の前では軽くない。出せるが、持続が保証できない。……五分五分」
言葉は平らに聞こえるが、平らにするために角が削られている。
上級生が一人、息を吸ってから口を開く。「九、俺が行きます」
監督は首を横に振る。「九は帯を太くする区間だ。行きで削られ、復路で戻す。一本の線では足りない。幅がいる」
ホワイトボードの標高図の上、細いペン先が九区に円を描き、矢印を三本書き足す。「風」「疲労」「判断」。
「行ける者じゃ足りない。戻せる者が要る」
沈黙が、もう一段深まる。
悠真は、机の下で拳をほどいた。ほどいた指が冷え、掌に汗が戻らない。彼は立ち上がると、言葉を探した。
「……自分は、どの区間でも“粘れる”。崩れたら“粘走”に切り替えられる。チームの穴に、自分を入れてほしい」
短い言葉でも、胸の奥で何度も反芻した形が残る。高校の冬、缶ココアの湯気の向こうで言えなかった種類の言葉だ。
監督は一拍だけ目を閉じ、再び開けると、低く問う。
「粘るだけか」
「運べます。拍で。ゆるい前傾を守って、前へ放るで“戻す”をやります。楽=余白。十で作って、十五で守って、二十以降に使います」
数字が並ぶ前に、手順が並ぶ。
医務スタッフが短く頷き、上級生が椅子の端で指を二度叩いた。音は小さいけれど、肯定の拍だ。
監督は、紙の上の九区に黒丸を置き、書いた。
「九区:及川」。
ペン先が止まる音はしない。止まらないかわりに、空気の密度が一段重くなる。
「託す」
それは、宣言だった。約束ではない。方向だ。
会議が終わると、廊下の蛍光灯は少し黄ばんだ光で、床のワックスの匂いが冬の乾いた空気に混じった。ドアの前で上級生が肩を軽く叩く。
「九、お前に似合うよ。最後の枠の顔してない」
悠真は苦笑した。
「昨日まで、してました」
「じゃあ、今日からしない」
言葉は薄いのに、縄の端みたいに掴める。
外へ出ると、夕暮れの空気はさらに細く、星の出る前の色が川面に薄く乗っていた。河川敷へ向かう足取りは自然に小さく、歩かないでいられるぎりぎりの速度。ジョグを始める前の、呼吸の手前。
茜が待っていた。
青いダウンジャケットの襟元までファスナーを上げ、首からは小さなレコーダー。カメラのストラップにはいつもの薄い布――颯真の襷の一部――が結ばれている。結び目は使い込まれて柔らかくなり、冬の光の下で色が淡い。
「寒い」
「寒い」
それだけ言って、二人は並んで歩いた。足音は芝の上に沈み、川の音が遠くで細く鳴っている。冬の水は、音にも冷たさが移る。
茜は口を開いた。
「ねえ、颯真のこと、やっと怖くなくなった」
歩幅は変えず、声だけが少しあたたかい。
「あなたが、彼の背中を追いかけ続ける姿が、私の怖さをほどいてくれたから。置き去りにされた、と思っていたのは、たぶん私だよね。彼は“行った”だけで、“置いていった”わけじゃないのに」
風が頬を撫でる。川面のきらめきが、街灯の光を細くちぎって運ぶ。
「録ってる音を、最近やっとちゃんと聴けるようになった。泣き声も、悔しい息も、崩れかけて持ち直したときの“拍の間”も。怖くて、聴けなかったのは私のほう」
彼女はポケットから小さなメモを出し、端を指でなぞった。
「今日、会議で何があったか、全部は訊かない。訊かないときのほうが、伝わること、あるから」
「……九区、預かる」
それだけ言うと、茜は短く「うん」と頷いた。
「復路の要。帯を太くする区間。あなたの“粘走”は、帯の色を濃くする。私が勝手にそう思ってる」
沈黙が落ちる。沈黙は敵じゃない。沈黙のなかで、歩幅の音だけが一定に続く。
河川敷の端、鉄橋の影が長く伸びる場所で、悠真は立ち止まり、深く息を吸った。喉の奥が冷たく、肺の底で空気が角を残す。
「俺は颯真にはなれない」
言葉は、今年になって初めて、謝罪の形をしていなかった。
「でも、俺の一番長い距離で、君の隣に立ちたい。九区を運んで、ゴールで、ちゃんと立っていたい。“最後の枠”じゃない顔で」
風が一度だけ強くなり、コートの裾を引いた。茜はうつむいて笑い、顔を上げると、薄い光の中で目がはっきりしていた。
「明日、答えを持って行く」
短く言い、続けた。
「ゴールで待ってる」
冬の川は、言葉の温度を一度冷ますけれど、冷めたあとに残るものが本当だと教える。
それからの夜は、整える夜だった。
寮に戻って、ノートを開く。
『九区=復路の要/風=北西2→3m想定/起伏=細い上下/補給=12,18km/“楽”=余白/“粘走”=肩二センチ落・肘細く速く・腹圧・ゆるい前傾・前へ放る/幅=朝×昼×夜』
欄外に小さく、
『沖田=経過観察 “引く”=走る準備』
さらに一行。
『ゴールで立つ=答えを受け取る』
ペン先は乾いて、紙の上を滑り、細い線が迷わず並ぶ。
翌朝までの数時間、眠りは浅く、夢は短く、その合間に体は静かに復路の地図を反芻した。橋、角、街路樹の影、風の抜け道、沿道の音の層――すべてが薄いフィルムになって、耳の奥の拍に合わせてめくられる。
目を閉じたまま、ふと、颯真の笑いが遠くで小さく鳴った。似ているだけで、同じではない笑い。似ていると、違う。違うと、救いになる。
――歩かない。食べる。寝る。諦めない。拍で運ぶ。
四行詩の背骨は、大学に来ても変わらない。変わったのは、その上に積んだ**“余白の作り方”と“幅の太らせ方”**だ。
本戦を前にした最後の調整走。ジョグの途中、監督が川沿いのベンチに立ち、短く声を出した。
「九」
「はい」
「行くと決めたら、行かない判断を同じ速さででき。戻ると決めたら、戻り切る。半分を残すな。半分は、誰かの半分を欠かす」
「はい」
「拍で運べ。お前の百八十は、チームの拍に繋がる」
指示は細いが、杭のように胸に刺さる。杭は深く打たない。明日、一本ずつ深くする。
昼の補食は茜のメニューに沿って淡々と進む。黒パン+蜂蜜、オレンジ、プルーン。走り終わりには牛乳+きな粉、ゆで卵、小さなおにぎり。高校の頃から続く紙は、角が柔らかくなり、項目の横に小さなチェックが増えた。
茜は今日、カメラの代わりに、インタビューの紙を持ってきていた。
「“九区の顔”って、どんな顔だと思う?」
「……立ち続ける顔」
「“ゴールで待つ顔”は?」
「それは、明日、見せてもらう」
言いながら、彼女自身の唇の端が、少しだけ上がった。
夕方、チームはミーティングルームに再集合した。ホワイトボードの右上に、監督が新しい紙を貼る。「本戦エントリー(確定)」。
九区:及川の横に、細い字で**「風の背/余白/帯」と書き添えられている。
沖田の名前は補欠の欄に移った。反対に、彼は口を開いた。
「出なくても、走る。“引く”も、走るの一部**」
その言葉の背筋は伸びていて、誰も否定を探さなかった。
監督は最後に言う。
「本番で、今日の“幅”を使い切るな。明日へ残せ。襷は、過去の重さで肩に載り、未来の形で前へ進む。――解散」
夜の河川敷に戻ると、風は昼より弱く、星の輪郭が濃い。
茜はレコーダーのスイッチを入れ、マイクを風から庇うように手で覆った。
「明日、答えを持って行く」
さっきと同じ言葉を、もう一度。
「ゴールで待ってる」
言葉は、冬の川の上で薄く揺れ、やがて結び目に吸い込まれた。
悠真はうなずく。うなずきは、走り出す前の最初の一歩と同じ方向の動きだ。
「行く」
短い返事。短いのに、荷物は軽くならなかった。軽くならない重さは、明日の襷の形に似ていた。
寮に戻って、ベッドに横たわる。灯りを落とす直前、スマホに短い通知。
『風 北西1〜2mの予報。コースの角、B地点で録る。音、澄むはず』
茜から。
『了解。拍、運ぶ』
返信を送り、目を閉じる。
まぶたの裏で、九区の地図に薄い線が一本引かれる。線は遠くない。今日より、確かに近い。
まだ、ここに立っている。
立ったまま、明日の白線へ。
歩かない。食べる。寝る。諦めない。拍で運ぶ。
四行詩を、静かにもう一度唱える。
その声は、冬の夜に溶け、耳の奥の百八十と重なり、告白の前夜は、やっと眠りに落ちた。



