朝の空気は、紙の端のように冷たかった。
 会場の広場には、色の違うアップシャツがいくつもの島を作り、島と島のあいだを、呼吸と足音が薄い川みたいに流れていく。芝の露はもうすぐ消える時刻で、踏めばわずかに光り、砂利道の粒は昨夜の湿気を残して鈍い色をしていた。
 大学駅伝の予選会――砂と芝の混じる20km。ここで、十人の合計が線を越えれば、箱根の正月が近づく。越えなければ、冬はただの冬に戻る。

 テントの下。
 監督は紙のボードにピンを打ち、今日の並びを短く示した。
 A集団(キロ3’08〜3’10):沖田先頭。B集団(3’12〜3’15):上級生を軸。C集団(3’18〜3’20):及川中心。
 最後に赤いペンで一本、太い線が引かれた。
 「15kmまで“集団走”。崩れるな。崩れたら“粘走”。」
 横には、遥の代わりに大学のマネージャーが書いた「風 南西1m/湿度 高/気温 17℃」。数字は正確で、情緒はない。その無表情が、今日の不確かさを少しだけ落ち着かせた。

「及川」
 監督が顔だけで呼ぶ。
「耳の奥の百八十、お前の柱だ。砂に入ったら一拍だけ前に置け。芝は焦るな。……15までは“集団”で息を浮かせろ。そこから先、**“粘り続ける走り”**を選べ」
 うなずくと、喉の奥に小さな砂が一粒だけ転がった。
 茜がそっと近づいて、胸元のレコーダーのスイッチを確認し、つぶやく。
「今日の音、録る。終わったら、数字と一緒に並べたい」
「数字、怖い」
「怖いなら、刻め」
 彼女は相変わらず短く、坂上に似ているが、違う温度で言った。首のストラップには、薄い青の布――颯真の襷の一部。結び目が朝の光を吸って、濃く見える。

 号砲が、広場の鳥を一瞬黙らせた。
 集団が動き、砂がわずかに舞う。靴底のゴムは砂の粒を拾い、芝へ移ると一瞬だけ静かになり、また砂に戻る。砂—芝—砂。リズムの交差点がいくつも設けられたコースは、拍を試す。

 C集団の先頭に立った悠真は、肩と腕の余白を確かめる。“ゆるい前傾”を作り、脚は前へ放つ。蹴るのではない。置く。置けば、地面のほうが半歩だけ寄ってくる錯覚。
 最初の一キロ、3’19。二キロ、3’18。芝の弾みで体が勝手に前へ行こうとするのを腹圧で受け、砂に入れば一拍を前へ置く。
 背後で、靴音が揃う。集団走の音は、低い合唱だ。誰かの呼吸が乱れれば、すぐに分かる。呼吸が乱れていないかを確かめるために、各々が自分の呼吸を薄く整える――その静かな相互調整が、集団の利点だ。

 A集団の先頭、沖田は淡々と3’08を刻む。顔は変わらず、肩は揺れず、腕は細く、足は線の上を行き来するだけ。**「何も」と彼が言ったときの空白は、今日も空白ではない。空白の密度が、世界を先に整える。
 B集団は上級生が軸となり、風の背を拾い続ける。芝で欲張らず、砂で沈まない。
 広場の角で茜の手拍子が二度、薄く響いた。パン、パン。拍と拍の間に空気がある音。そこに呼吸を置く。10km通過。
 C集団の数字は、3’18〜3’20で静かに並び、心拍は上がりすぎず、上がらなさすぎず。“余白”**は薄いが消えてはいない。

 12kmの芝に入ったところで、遠くに一瞬だけざわめきが起こる。
 A集団の先頭――沖田が、ふっと抜けた。
 抜ける、という動詞の角は鋭いが、彼の動きは角を見せない。ほんの少しだけ拍が前へ滑っただけ。滑った拍に、世界のほうがついていく。
 B集団が反応し、前がわずかに速くなる。コースの空気が一段だけ硬くなる。連鎖で、C集団の中でも肩の高さが半テンポ上がった。
 ――行くか、守るか。
 選択は、筋肉より先に文字になって胸に現れる。
 監督の指示は、テントの白い天井にいまも浮かぶ。「15までは集団。崩れたら“粘走”。」
 **“行く”ための筋肉は、まだ育ち切っていない。“守る”**の角度なら、ここ一年で体に入れてきた。
 悠真は、迷わず“粘り続ける走り”を選んだ。

 15km。
 コース脇の電光掲示が、通過タイムを淡々と刻む。数字は、味方でも敵でもない。翻訳に使えるだけだ。
 ここから先、余白はますます薄くなる。砂の粒は足裏に重く、芝の弾みは脚に負担を残す。
 ラスト5km――腕を強く振る。
 強く、といっても大きくではない。長さではなく、速さ。肩甲骨を二センチ後ろ。肘を細く畳む。呼吸は細く、長く。
 視線を五メートル先に置く。そこに、見えない線を引くように。線はまっすぐではない。芝で弧を描き、砂でほんの少し沈む。その沈みを、百八十の拍で均す。

 16km、3’18。
 17km、砂に入るたびに喉の奥の白い砂が増える。3’19。
 18km、ふくらはぎの奥が鳴き、太腿裏が短く軋む。3’20。
 19km、腕が太くなる。肩が上がりかける。二センチ落とす。腹圧。前傾。前へ放る。3’21。
 20km、フィニッシュのアーチが視界に入る。沿道の声はもう言葉ではなく、層だ。旗の擦れる音、靴の擦過、茜のレコーダーが空気を飲む小さな気配――全部、縦に重なる。
 線を踏む。秒の端が、足の甲をかすめて過ぎる。
 止まった体に、遅れて世界が追いつく。砂が足首にかすかに戻ってきて、膝が地面に触れた。砂の上に、膝。

 視界の上のほうで、電光掲示が回る。
 チームの合計が、数字を増やし、止まり、また増やし、線の手前で一度少し揺れて――越えた。
 越えた瞬間、空の色が半段だけ明るくなる。
 直後、個人の一覧で、名前が最後の枠のところに滑り込む。及川悠真。
 10人目――「最後の枠」。
 息が荒く、笑いが喉の奥で砂に引っかかる。笑えないのに、笑っているのと同じ温度が胸に広がる。
 まだ、ここに立っている。
 空を見上げる。秋の薄い青。そこへ、遅れて飛行機雲が一本、線を引く。線は消えるために出てくるのに、消える前に目を支える。
 この線と、さっき足元で跨いだ白い線は、どこかでつながっている――そう思わせるだけの、細い確かさ。

 砂に手をついたまま、耳の奥の百八十が少し遅れて整う。
 横で、上級生が砂を払いながら笑った。
「境界線、太くしたな」
 悠真は頷き、息の合間に言う。
「“粘走”で、なんとか」
「それが、お前の今日の正解だ」

 茜が駆け寄り、レコーダーを止め、カメラを胸に抱えたまま小さく笑った。目は赤い。
「録れた。砂の音、靴の音、息の音、数字の間……全部」
「数字の間?」
「並びきらない秒。それが“生き延びた時間”だと思う」
 彼女の言葉は、走る者の胸に静かに沈む。

 集合のホイッスル。監督がホワイトボードの簡易版を持ち、ペン先で「通過」を二重線で囲む。
「通過だ。だが、余白は薄い。今日の“最後の枠”に居るやつは、明日から一歩先を“楽”にする。“楽”は速さじゃない。余白だ。……沖田」
 監督が視線を前に送った先で、人の輪が割れる。
 沖田が、倒れていた。
 片膝を立て、ふくらはぎを押さえている。顔色は変わらないが、指の白さが強い。
 医療スタッフが駆け寄り、氷袋が渡される。沖田は「大丈夫」と口で言うが、足は言っていない。
 エース離脱――その四字が、誰も声に出さないまま、空気だけが先に言った。

 監督は近づき、見ないで聞くという顔で短く問う。
「違和感か、痛みか」
「……痛みです」
 沖田の声は平らだった。平らな声ほど、真実に近い。
「今は歩け」
 監督は即答し、続ける。「今日の数字は残る。お前の脚も残す。予選は通した。……本番に出るために、今は引け」
 引けという命令は、走る者にとっていちばん難しい。沖田はうなずいた。うなずくという“最短の従う”が、このチームの救いだった。

 再集合。
 監督は全員の顔を一度だけ見渡し、言った。
「今日の通過は“線”じゃない、“幅”だ。お前たちが今日つくったのは、越えたかどうかだけの線じゃなく、“持続させるための帯”だ。帯を太くするのは、明日の朝と、昼の余白と、夜の長さだ。歩くな。食え。寝ろ。諦めるな。……及川」
「はい」
「“最後の枠”の顔を覚えとけ。二度と同じ位置に戻るな。戻るなら、自分で太くしてから戻れ」
 叱責ではない。褒め言葉でもない。方向だ。方向だけが、人を立たせる。

 テントに戻る道すがら、茜が横で歩き、カメラの背面を一度だけこちらに向けた。画面には、砂の上に膝をついた青いユニフォームの背中と、その上の空に引かれた一本の飛行機雲。
「載せたい」
「載せて」
「ただし、“勝った顔”としては載せない。“立ち続けた顔”として載せる」
 言葉は、今日の走りの質に似ていた。派手さではなく、残り方の話。

 夕方、大学に戻るバス。窓は薄く曇り、指で開けた円から、秋の光が斜めに滑っていく。
 座席の背に頭を預け、悠真はノートを膝に置く。
 『予選会 C集団3’18-20均 15まで集団→以後“粘走” 16-20=腕速く/肩二センチ落/前傾守/前へ放る 通過(チーム=ボーダーぎり/個人=最後の枠)』
 欄外に、細く付け足す。
 『まだ、ここに立っている』
 さらに小さく、
 『幅=朝×昼×夜/“楽”=余白』
 そして、一番下にもう一行。
 『沖田=痛み “引く”の勇気=走る準備』
 文字の線は細いが、迷っていない。

 バスの天井で、空調の音が静かに回り、前方で監督がスタッフと低く話す。「医務室」「MRI」「二週間」「判断」。数字で話し、最後に言葉で結ぶ。「本番のために、今日を引く」。
 窓の外、空は薄く、飛行機雲はもう形を失いかけていた。
 消える前に、目は支えた。
 支えた目の奥では、百八十の拍がまた静かに鳴りはじめる。
 線は越えた。
 次は――帯を太くする番だ。

 砂の上で回った数字は、冷たく、正確で、残酷で、救いだった。
 救いを明日につなげる方法は、もう知っている。
 歩かない。食べる。寝る。諦めない。拍で運ぶ。
 その繰り返しが、線を幅に変える。
 青いユニフォームは、今日すこしだけ皮膚に近づいた。
 そして、まだ――ここに立っている。