四月の風が、街の角を曲がるたびに色を変える。
 新しいキャンパスは丘の斜面に乗っていて、校門をくぐるとすぐに白い坂が立ち上がった。桜の花びらはもう半分以上散り、アスファルトの上で薄い紙のように踏まれている。制服はなく、代わりに部室のラックには青いユニフォームがかかっていた。胸に白で校名。高校の赤と違って、色は冷たく、触れると静電気のように指先を弾いた。

 この大学は名門ではない。だが、箱根を現実に狙える中堅校として知られている。掲示板には昨年の予選会の通過ラインが貼られ、横に監督の手書きで「今年は五分引き上げる」と赤いマーカーで書き足されていた。五分。数字はたったの三文字だが、練習で埋めるには、朝をひと月ぶん余計に増やす計算になる。

 初日のチームミーティング。
 監督は背が高く、細いフレームに余分がない。声は低く、言葉の角は研がれているが、刃の向きは外には向かない。
「うちは“走ったぶんだけ”強くなるチームだ。天才が一人で勝たせるやり方はできない。三十キロ走とロングインターバルで週を刻む。歩くな。食え。寝ろ。体重とフェリチンの推移は毎週出す。言い訳は、練習メニューの欄外に書け。読んでやる。だが、言い訳は体を運ばない」

 笑いは出なかった。笑いを待つ空気ではない。
 スケジュールは見たことのない密度だった。火曜は15kmビルドアップ、木曜は1000×15(R=60秒)、週末は30km走。その間を埋めるジョグが、ジョグにしては長い。高校のときの「頑張った」が、ここでは「最低限」に見える。

 新入生の顔ぶれは、地方の強豪からの推薦組と、一般入試で入りながらも走り続けてきた者と、さまざまだった。その列の中に、すぐ目を引く一人がいる。
 沖田。
 一年。細身。黒髪を短く刈り、表情の起伏が少ない。練習の最初のアップから、彼の靴底の音は周りと違った。音が薄い。薄いのに、力がある。
 火曜のビルドアップで、終盤に自然にキロ三を刻みはじめた。顔は変わらない。肩は上がらない。腕は細く、足は前に放られ、着地の間隔だけが淡々と整っている。時計を見ると3’00、2’59、3’01。笑うような速さではなく、削った鉛筆の心のように細い線を引き続ける速さだった。

 悠真は、その背中に一瞬、颯真の影を見た。
 似ているわけではない。似ているのは、「世界が追いかけてくる側の走り」という一点だけだ。彼らは前へ行くのではなく、世界に先に線を引いておき、世界をそこへ呼ぶ。呼ばれた世界は、拍で整列する。凡人は、その線に追いつこうとして、息を荒げる。
 呼吸が少し速くなった。メトロノームが耳の奥で慌てたように鳴る。――百八十、百八十。高校で身につけたリズムは、ここでは前提に過ぎない。前提は、実力とは呼ばれない。

 練習の最後、トラックの影で監督が短く言った。
「及川。高校の走りは良い。だが、ここは距離だ。二十を『楽』に、三十で『会話』だ。ジョグがジョグになるまで、練習は始まらない」
「はい」
「“はい”の次に何をするか、だけが、お前の言葉だ」

 頷いた喉の奥に、乾いた砂がひと粒、貼りつく。

 *

 引っ越してほどないある日、茜が合流した。
 彼女は大学で報道研究会に入り、いきなり企画書を三本通したという。「大学駅伝特集:競技者の食と睡眠」「予選会の走りを支える音」「箱根を目指す中堅校の一年」。どれも、彼女の目の高さそのままのタイトルだった。
「私の視点で、あなたたちの走りを残したい」
 クリップボードを抱え、カメラと小さなレコーダーを首に下げ、青いストラップの結び目には、薄い布切れ――颯真の襷の一部――が結ばれている。
 高校のときと違うのは、外から眺めるだけではなく、問いを持って近づくことだった。
「朝は何時に起きる? 夜は何時に寝る? 寝る前のスマホは? 鉄のサプリは? 走る前は? 走った後は?」
 答えるたびに、悠真は自分の生活が仕組みになっていくのを感じる。仕組みは、人を甘やかさないが、救う。救う仕組みは、いつも地味だ。

 沖田にも、茜は同じ距離で近づいた。
「沖田くん、“キロ三”のとき、何考えてる?」
「何も」
「何も」
 茜はメモに“何も”と書いて、点を二つ増やした。
「例えば?」
「前の足、次の足。呼吸は勝手にする」
「怖くない?」
「怖くない」
「じゃあ、痛い?」
「痛い。痛いは、情報」
 茜は唇の端で笑い、「ありがとう」とだけ言った。彼女は「天才」という言葉を使わない。使えば距離ができると知っている。距離は、記録者を甘やかす。

 *

 週末の三十キロ走。
 河川敷の往復コース。風は南から弱く、空はうす曇り。スタート前に監督が短く言う。
「前半、会話。中盤、沈黙。終盤、判断。補給は十と二十。必要なら三十手前でもう一度。足りないと思った一口前で飲め。……沖田、引きすぎるな。及川、十で脚を見ろ。十五で心を見ろ」
 始まる。
 最初の五キロは4’00近辺。呼吸は整い、足は拾える。会話の余白が生まれて、横の先輩が「このあとレポート地獄」と笑う。笑いは軽いが、足は地面に真面目だ。
 十キロで補給。紙コップの水はぬるい。ぬるい方が内臓にやさしい。知っていても冷たいものが恋しい。恋しさに目をやらない。茜のメニューで覚えたルールは、ここでも生きる。
 十五キロに入るころ、会話が途切れる。沈黙がチームを覆い、足音だけが合唱になる。沖田は前方で淡々と線を引き、二年の先輩が半歩下がって「抑えろ」の合図を肩で送る。
 十八でふくらはぎが鳴き、二十で股関節の奥が重くなる。
 ――ここから、心。
 監督の言葉が、腹の奥で鉛のように沈んだ。
 「歩かない。食べる。寝る。諦めない」――高校の四行詩を、今朝の自分にもう一度読み聞かせる。
 呼吸。ピッチ。腹圧。前傾はゆるく。足は前へ放る。
 二十五を過ぎ、地面の粒が足裏に刺さるようになった。風は変わらないのに、世界が重くなる。沖田の背中は相変わらず一定で、その一定が遠くなる。遠さが、心をほどく。
 ――置いていかれる。
 その言葉は毒だ。毒だと知っていても、口内炎の縁みたいに舌が触れてしまう。
 二十八で肩が上がり、足が前へ出なくなる。ジョグに落とす、という判断は、このチームでは敗北ではない。だが、今日は、落とさないと決めていた。決めたなら、支払う。
 三十。腕は太く、目は近い。フィニッシュの白線はない。代わりに、茜の手が上がって「終わり」を指で描く。指の爪に、薄く青いペンキがついていた。
 止まって、息が遅れて襲ってくる。膝に手をつき、背中に冷たい風。遥――ではなく、大学のマネージャーが紙コップを渡し、塩の小袋を開ける。

 監督が歩いてきて、淡々と言った。
「及川。二十五から、顔が“会話”に戻った。痛みを情報に置き換えた顔だ。いい。明日は三十分ジョグ。明後日、二部。木曜、千×十五で返せ」
 褒められたわけではない。だが、切り捨てられてもいない。切り捨てられないうちは、戻れる。

 *

 六月。初のハーフ。
 地方ロードの公認大会。朝から湿度が高く、空の色は重い。大学からは二十名ほどが出場し、監督は並べたペットボトルにそれぞれの名前と距離を書き込んだ。「5・10・15」。
「最初の十は3’45でイーブン。十五で上げる。上げられなかったら、落とさない。落ちたら、落ちきらない。落ちきらなければ、戻せる」
 出走。
 最初の五キロ、計画を少しだけ裏切った。空の重さに逆らうように、体は軽かった。3’41、3’42。呼吸は浅く、肩は下がる。行ける、と脳が囁く。行けるときほど、行かない手綱が要る。
 十キロ、36分台。補給の水が喉を滑っていく。
 十二で、頬を撫でる風が止んだ。湿度が体の隙間に入り込み、汗が皮膚で働かなくなる。腕が太くなる。肩が、ほんの少し上がる。
 十五。上げるつもりが、上げられない。
 足は前へ放せば放すほど、戻ってくる距離が短い。前傾の角度が揺れる。
 ――崩れる。
 脳内の小さな翻訳機が、遅れて赤信号を出す。
 十六。ペースの数字が3’50を越え、3’55を見た。
 落ちない、を選ぶけれど、落ちる。落ちきらない、を選ぶけれど、落ちかける。
 十八。ふくらはぎが攣り、歩きたくなる。歩けば、楽だ。歩けば、今日の全部を次に送れる。
 歩かない。
 肩甲骨を二センチ後ろ。腹圧。呼吸。拍。百八十。百八十。
 十九。沿道の声が言葉から音に戻る。茜のレコーダーのスポンジが、湿った風を飲み込んで、吐き返す。
 二十。視界の端に青いユニフォームが一人、同じ速度で並ぶ。彼は前を見たまま言った。「粘ろう」
 言葉は薄いが、縄の端みたいに掴める。掴んで、指に痕を残す。
 フィニッシュ。
 止まる。汗が、皮膚の上で冷えていく。時計の数字は、胸の中の期待を一枚で切った。
 目標に遠い。
 監督は細い眉を動かし、紙にペンを走らせる。
「及川。前半、“楽”の定義を間違えた。楽は速さじゃない。余白だ。十から十五での余白が薄い。二十での余白は、今はない。それが“距離耐性”。……ただし」
 監督はペンを止め、目を上げた。
「覚悟の話もある。十九で、目の奥が一度、引いた。引くな。引いたなら戻れ。戻り方は練習で覚える」

 茜が紙コップを持って来て、言葉を選びながら言う。
「撃沈、の写真、載せる。撃沈の顔って、何でできてるか、伝えたい」
「やめて」
 思わず出た。
 茜は首を振る。「やめない。美談にもしない。ただ、残す。……“足りないもの”は、何?」
 悠真は答えられない。
 距離耐性か、覚悟か。
 どちらが欠けていても、今日の結果は同じだ。どちらも欠けているのかもしれない。
「両方、増やす」
 やっと出た言葉は薄かったが、嘘ではなかった。

 夜、寮の部屋。ノート。
『ハーフ 3’45計画→前半早 十〜十五=余白薄 十八=攣り 十九=目引く 距離耐性/覚悟 不足』
 欄外に小さく、
『“楽”=速さ× 余白○』
 と書き足す。
 窓を少し開けると、街の音が薄く入る。踏切の音ではなく、交差点で赤に変わる前の車のアイドリング。世界は広く、各自の速度で動いている。

 *

 夏が来る。
 日陰の短いキャンパスでは、午前の補強が汗で滑り、午後のロングインターバルが空気の重さを試す。1000×15の日、最初の五本は3’08-3’10、中盤が3’06-3’08、終盤は3’05を切らないように並べるのが指示。沖田は最後まで顔を変えず、最後の一本だけ2’58で切った。怒られもしないし、褒められもしない。**「理解している」**の評価は、声にならない。

 及川は十本目で呼吸を荒らし、十二本目で目の焦点が手前に寄った。十三本目、茜の手拍子がコーナーの先で二度、短く鳴る。パン、パン。拍と拍の間に間があり、間に呼吸が入る。十四本目、腕を細くし、肩甲骨を二センチ後ろ。十五本目、地面は変わらないのに、足音の解像度が上がる。
 終わって、砂の上にしゃがみ込む。塩タブレットが舌にやっと溶ける。
 監督がメモに短く書いた。「戻った」。
 戻る、という動詞が、今日のご褒美だった。

 茜は取材を続け、原稿を重ねた。
『走りは音だ。勝敗の音は意外と小さい。小さいからこそ、録れる。沖田の“何も”は、空白ではない。及川の“撃沈”は、失敗ではない。余白と失敗の間に、走りの芯がある』
 彼女はそう書き、インタビューの最後にいつものように結ぶ。
「続く写真を撮りたい」

 *

 九月。予選会の要項が届いた。
 監督がホワイトボードに貼る。右上に、赤で二重線。
 「出場は10名のみ」
 ざわめきは起こらない。数字は、静かに人を振り分ける。

 その日の夜、部室のドアに、監督の手書きのリストが貼られた。
 黒マーカーで十の名前。
 一番上に、沖田。
 その下に、上級生たちの名前が続く。
 最下段、薄い線で囲まれて、「ボーダー:及川」。
 “ボーダー”という言葉は、冷たい。意味は単純だが、体温を奪う。
 同時に、正確だ。境界に立っている自分を、誰より自分が知っている。

 貼り紙の前で立ち止まった悠真の横に、宮内――ではないが、高校時代の主将の面影を宿す四年の先輩が並んだ。
「境界線は、太くできる」
 先輩は言い、紙コップの水を一口飲んでから続けた。「太くするのは、数字じゃない。朝の数と、夜の長さと、昼の余白だ。お前、昼の余白、持ってるか」
「……少し」
「増やせ」
 短い会話の角度は直線だった。

 茜は貼り紙を一度だけカメラに収め、すぐにレンズを下ろした。
「撮りたくない?」
 悠真が問うと、茜は首を振った。
「撮った。でも、載せない。これは、私にとっての“ボーダー”」
 彼女は言葉を選び、結び目に指先を触れ、もう一度言った。
「載せるのは、あなたが太くしたあと」

 その夜、ノート。
『予選会 10名のみ ボーダー:及川』
 欄外に、**“余白”**と書き、矢印を三本引いて、
『朝(起床+ジョグ10)/昼(補食+仮眠20)/夜(スマホ遠く+睡眠8h)』
 と書き足す。
 ページを閉じる前、もう一行。
『距離耐性=朝×昼×夜/覚悟=明日の拍』
 式は簡単だ。簡単すぎて、逃げに見える。だが、走る者の逃げは、たいてい翌朝の行動で露見する。露見しても、やめなければ、太くなる。

 *

 青いユニフォームは、まだ体の上で少し浮いている。高校の赤のように、皮膚に貼りついてはこない。色が自分に馴染むには、汗が必要だ。汗の層が薄い。
 沖田の背中は一定だ。一定の背に向かって線を引き続ける練習の中で、悠真の耳の奥には、春から変わらない拍が鳴る。百八十。百八十。
 走り終わったあと、茜は青いユニフォームの胸の刺繍にピントを合わせ、シャッターを一度だけ切った。
「似合ってきた」
「まだ浮いてる」
「浮いてる感じも、今のうち。浮いてるうちに、**“足りないもの”**をはっきりさせて」
「はっきりしたら、怖い」
「怖いなら、刻め」
 彼女の言葉は、いつだって坂上に似ている。似ていて、違う。違いが、支えになる。

 秋分の手前、夕焼けが早い。風は乾いて、虫の声が校舎の壁で薄く反響する。
 監督はホワイトボードの端に、また短く書いた。
 「予選会まで、あと28日」
 数字が一日減るたび、余白は薄くなる。薄くなる分だけ、芯が見える。

 ――足りないのは、距離耐性か、覚悟か。
 問いは、まだ胸の中で形を変えながら居座っている。
 答えは、朝にしか来ない。
 目覚ましの鳴る少し前、耳の奥のメトロノームが先に鳴る。百八十。百八十。
 拍が先に立ち上がる朝は、境界線を太くする朝だ。境界は、やがて帯になり、道になる。
 青いユニフォームは、いつか皮膚に貼りつく。貼りつくまで、汗を重ねる。
 そして、予選会のスタートラインへ。
 “ボーダー:及川”の四文字は、消さない。消すのは監督の黒ではなく、自分の足音だ。